鄭風・子衿篇の解釈史 ─ 漢代から清代を中心に
─
著者
?崎 駿士
雑誌名
集刊東洋学
巻
118
ページ
84-100
発行年
2018-01-24
URL
http://hdl.handle.net/10097/00129941
81 鄭風・子衿篇の解釈史(髙崎)
鄭風・子衿篇の解釈史
│
漢代から清代を中心に
│
髙
崎
駿
士
一、はじめに ﹃毛詩﹄ ︵以下、 ﹃詩﹄ と略称︶ 鄭風に収められる子衿篇は、 古来、詩人の嘆く意図や詩篇中の人物について、多様な解 釈が提示される詩篇である。張岩氏は、子衿篇の歴代解釈 を十項目︵刺学校廃説/学生之辞説/子産不毀郷校説/思 見故友説/淫奔之詩説/教者之辞説/朋友相責説/寄衣于 夫説/情詩恋歌説/奔学従商説︶に分類し、特に宋代の注 釈の派生関係について、次のように述べる。 这 里考察︽子衿︾ 10种 注 释结论 之 间 的派生 关 系。 ”刺 学校 废说 “ 是 两 汉 四家︽ 诗 ︾ 说 共有 结论 。此 说 居主 导 地位的 时间 跨度 约为 十三个半世 纪 ,其核心概念是 ”学 校 废 “ ,由 此 派 生 欧 阳 修 ”学生 之 辞 说 “ 和 程 颐 ︵ 戴 溪, 钱 澄 之, 姚 际 恒 ︶ ”教 者 之 辞 说 “ 。⋮⋮ 朱 熹 ”淫 奔 之 诗 说 “ 的 认 同者包括王柏、 辅 广、梁寅、李本等。朱熹此 说 居主 导 地位的 时间 跨度 约为 六个多世 纪 、其核心概念 是男女之情,由此派生民初以来影响最大的 ”情 诗 恋歌 说 “ 。此 说︵情 诗 恋歌︶ 居主 导 地位的 时间 跨度已近百年。 / 前面 还 提到,后人 另 立新 说 ,是因 为 他 们认为 旧 说 不 是 谜 底。 他 们 的主要依据是疑 难诗 篇的字面含 义︵ 谜 面︶ 。 从︽子衿︾字面含 义 看,其中包含 两 个基本意象一是 离 别 之情,二是期待相 见 。南宋王 质认为 ,离 别 和思念 发 生 于 朋 友 间 , 提 出 ”思 见 故 友 说 “ 。与 王 质 同 时 的 朱 熹 则认为 ,离 别 和思念 发 生于男女 间 ,提出 ”淫奔之 诗 说 “ 。︵ こ こ で 子 衿 篇 の 十 種 の 注 釈 の 結 論 間 の 派 生 関 係 を 考 察 す る。 ﹁ 刺 学 校 廃 説︵ 学 校 が 廃 れ る こ と を 刺 る の 説 ︶﹂ は 両 漢 の 四 家 の 詩 説 が 共 有 す る 結 論 で あ る。 この説が主導的な地位を占めた期間はおよそ十三世紀 半 に 及 び、 そ の 核 心 と な る 概 念 は﹁ 学 校 の 廃 る ﹂ で、 ここから歐陽脩の﹁学生之辞説︵学生のことばの説︶ ﹂ 集刊東洋学 第一一八号 平成三十年一月 八一 −一〇〇頁82 と程頤︵戴渓、銭澄之、姚際恒︶の﹁教者之辞説︵教 えるもののことばの説︶ ﹂ が派生する。⋮⋮朱熹の ﹁淫 奔 之 詩 説︵ 淫 奔 の 詩 の 説 ︶﹂ の 同 意 者 は 王 柏、 輔 広、 梁寅、李本等を含む。朱熹のこの説が主導的な地位を 占めた期間はおよそ六世紀あまりに及び、その核心と なる概念は男女の情で、ここから民国初め以降の影響 が 最 も 大 き い﹁ 情 詩 恋 歌 説︵ 恋 愛 詩・ 恋 歌 の 説 ︶﹂ が 派生する。この﹁情詩恋歌説﹂が主導的な地位を占め た期間はすでに百年近くに及ぶ。 / 前述のように、後 人が新説を別に立てたのは、彼らが旧説は謎々の答え ではないと考えたからである。彼らが主に依拠したの は 難 解 な 詩 篇 の 字 面 の 意 味︵ 謎 々 そ れ 自 体 ︶ で あ る。 子衿篇の字面の意味からみて、その中には二つの基本 的イメージが包含されている。 一つは離別の情であり、 もう一つは邂逅への期待である。南宋の王質は、離別 と 思 念 は 友 人 間 に 生 じ る と 考 え、 ﹁ 思 見 故 友 説︵ 旧 友 に 会 う こ と を 思 う の 説 ︶﹂ を 示 し た。 王 質 と 同 時 期 の 朱 熹 は、 離 別 と 思 念 は 男 女 間 に 生 じ る と 考 え、 ﹁ 淫 奔 之詩説︵淫奔の詩の説︶ ﹂を示し た ︶1 ︵ 。︶ 張 岩 氏 は、 ① 毛 序 の ﹁ 学 校 の 廃 る ﹂ か ら 、 欧 陽 脩 ︵ 一 〇〇七│一〇七二︶の﹁学生之辞説﹂と程頤︵一〇三三│ 一一〇七︶ らの ﹁教者之辞説﹂ が派生すること、 ② 朱 熹 ︵ 一 一三〇│一二〇〇︶の﹁淫奔之詩説﹂は、王柏︵一一九七 │一二七四︶ 、輔広︵生卒年不詳、十二世紀︶ 、梁寅︵一三 〇 三 │ 一 三 八 九 ︶、 李 本︵ 一 四 八 五 │ 一 五 六 三 ︶ ら に 支 持 され、近年の﹃詩﹄を恋愛詩として捉える流れに影響を与 え て い る こ と、 ③ 朱 熹 と 王 質︵ 一 一 二 七 │ 一 一 八 八 ︶ の 子衿篇解釈の違いは、子衿篇に内包される﹁离 别 之情﹂と ﹁ 期 待 相 见 ﹂ の 二 つ の 基 本 的 イ メ ー ジ に よ っ て 捉 え ら れ る こ と を 指 摘 す る。 た だ し、 張 岩 氏 の 指 摘 す る ① の 欧 陽 脩 と程頤の解釈が、同じ毛序から派生するにも関わらず、異 な る 解 釈 に 至 っ た 理 由 や、 ③ の 朱 熹 と 王 質 の 解 釈 を﹁ 离 别 之情﹂と﹁期待相 见 ﹂によって理解するとしても、他の 解釈との連関についての言及はない。 本稿は、先行研究の成果を踏まえつつ、漢代から清代へ の展開に関わる子衿篇の注釈に限定し、諸注釈の特徴と注 釈 間 の 影 響 関 係 を 時 代 ご と に 整 理 す る こ と を 目 的 と す る。 また、先行研究では、元明代の注釈について、あまり言及 さ れ て い な い。 よ っ て、 宋 代 か ら 清 代 へ の 変 遷 に お け る、 元明代の注釈の位置付けについても考察する。 二、漢・唐代の解釈 子 衿 篇 の 毛 序 は、 ﹁ 子 衿、 刺 學 校 廢 也。 亂 世 則 學 校 不 脩
83 鄭風・子衿篇の解釈史(髙崎) 焉︵子衿篇は、学校が廃れることを刺るものである。乱世 な の で 学 校 は 修 ま ら な い ︶2 ︵ ︶﹂ と、 乱 世 と﹁ 学 校 ﹂ が 修 ま ら ない状況とを関連付ける。毛序のいう﹁学校﹂とは、鄭箋 に﹁國謂學爲校、 言可以校正道藝︵鄭国は﹁学﹂を﹁校﹂ といい、学問や技芸を正すことができることを言う︶ ﹂と、 ﹁道芸﹂を﹁校正﹂する場所だと注され、 ﹃正義﹄には﹁言 學 校 廢 者 、 謂 國 之 人 廢 於 學 問 耳、 非 謂 廢 毁 學 宮 也︵ ﹁ 学 校の廃る﹂と言うのは、鄭国の人が学問を廃れさせたこと を言っているのであって、学宮を破壊したことを言うので はない︶ ﹂と、 ﹁学校の廃る﹂とは﹁学宮﹂ではなく﹁学問﹂ が 廃 れ た こ と だ と 解 釈 さ れ る。 鄭 箋、 ﹃ 正 義 ﹄ と も に、 毛 序の﹁学校の廃る﹂を﹁学問の廃る﹂意に解する。 続いて、子衿篇の本文と毛伝、鄭箋を確認する。後述す るように、毛伝と鄭箋の解釈に違いがあるため、本文は書 き下しのみ挙げる。また、論述の都合上、十三経注疏本に 拠って、毛伝鄭箋の附される位置を⑴から⑹に示す。 靑靑子衿、悠悠我心。⑴ 縱我不往、子寧不嗣音。⑵ 靑靑子佩、悠悠我思。⑶ 縱我不往、子寧不來。⑷ 挑兮達兮、在城闕兮。⑸ 一日不見、如三月兮。⑹ 青青たる子が衿、悠悠たる我が心。縦い我れ往かざる も、子寧ぞ音を嗣がざる。/青青たる子が佩、悠悠た る我が思い。縦い我れ往かざるも、 子寧ぞ来たらざる。 /挑たり達たり、城闕に在り。一日見ざれば、三月の 如し。 ⑴︻傳︼靑衿、靑領也、學子之服。 ︵青衿は、青い衿の衣 で、 学生が着るものである。 ︶︻箋︼學子而 俱 在學校之中、 己 留 彼 去。 故 隨 而 思 之 耳。 禮 父 母 在、 衣 純 以 靑。 ︵ 学 生 で共に学校におり、 自分は留まるが相手は去る。 故に追っ て︵相手を︶思うのである。礼では父母がいれば、衣の 襟には青色を用いる。 ︶ ⑵︻傳︼嗣、 也。古 者 敎以詩樂、 誦之歌之、 弦之舞之。 ︵嗣 は、習うである。古えは詩楽を用いて教え、これを諳ん じ歌い、 爪弾き舞う。 ︶︻箋︼嗣、 續也。女曾不傳聲問我、 以 恩 責 其 忘 己。 ︵ 嗣 は、 続 く で あ る。 君 は か つ て 音 信 を 私に伝えることがなく、恩情によって私を忘れたことを 責める。 ︶ ⑶︻傳︼佩、佩玉也。士佩 瓀珉 而靑組綬。 ︵佩は、佩玉であ る。士は 瓀瑉 を佩びて組紐を青にする。 ︶ ⑷︻傳︼不來 者 、言不一來也。 ︵来たらずとは、一度も来な いことを言うのである。 ︶ ⑸ 【 傳︼挑達、往來相見貌。乘城而見闕。 ︵挑達は、往来し て 相 手 を 見 る さ ま で あ る。 高 台 に 登 り 城 門 を 眺 め る。 ︶ ︻箋︼國亂人廢學業、 但好登高見於城闕、 以候爲樂。 ︵国 が乱れて人は学業を廃れさせ、ただ登高して城門から眺
84 めることを好み、観察することを楽しみとする。 ︶ ⑹︻傳︼言禮樂不可一日而廢。 ︵礼楽は一日も廃してはなら ないことを言う。 ︶︻箋︼君子之學、 以文會友、 以友輔仁、 獨學而無友、 則孤陋而寡聞。 故思之甚。 ︵君子の学は、 ︵﹃論 語﹄顔淵篇に︶ ﹁文を以て友を会し、友を以て仁を輔く﹂ と あ り、 ︵﹃ 禮 記 ﹄ 学 記 篇 に ︶﹁ 独 り 学 び て 友 無 け れ ば、 則ち孤陋にして寡聞なり﹂とある。故に︵友への︶思い が甚だしい。 ︶ 子衿篇に附された毛伝と鄭箋は、ともに毛序の﹁学校の 廃る﹂に関連する解釈を提示するが、人物想定や語句の解 釈に違いがある。詩篇中の人物については、⑴にて、毛伝 は ﹁子﹂ を学生とするが、 ﹁我﹂ について言及しない。一方、 鄭箋は﹁我﹂と﹁子﹂をともに学生とし、 ﹁我﹂は﹁学校﹂ に 留 ま り﹁ 子 ﹂ は 去 る も の と す る。 こ の 人 物 想 定 に 伴 い、 第一章四句目﹁子寧不嗣音﹂は、⑵にて、毛伝は﹁子﹂が ﹁詩楽﹂ を学びに来ないことを嘆く ﹁我﹂ のことばとするが、 鄭箋は﹁子﹂からの﹁音問﹂が無いことを嘆く﹁我﹂のこ とばと解釈し、 ﹁我﹂の嘆きの中身が異なる。 毛伝と鄭箋の違いは、 ﹃正義﹄ において ﹁唯下句爲異 ︵鄭 箋はただ下句のみ異なる︶ ﹂ と指摘されるが、 ﹃正義﹄ は ﹁經 三章、皆陳留 者 責去 者 之辭也︵経文の三章、すべて留まる 者 が 去 る 者 を 責 め る こ と を 述 べ た こ と ば で あ る ︶﹂ と、 鄭 箋に拠る。 以上、 毛序の﹁学校の廃るを刺る﹂が、 毛伝、 鄭箋、 ﹃正 義﹄で共通の主題として扱われつつ、 子衿篇本文の解釈は、 毛伝と鄭箋とで異なることを確認した。 次節では、毛伝と鄭箋の違いが続く宋代に与えた影響を 考えつつ、整理する。 三、宋代の解釈 三ー一、宋代の毛序に拠る解釈│毛伝からの派生 毛伝は、 ﹁子﹂を学生とし、 ﹁古は教うるに詩楽を以てす﹂ 、 ﹁ 言 う こ こ ろ は 礼 楽 一 日 と し て 廃 す べ か ら ず ﹂ と、 古 の 教 育 に﹁ 詩 楽 ﹂ が 用 い ら れ、 ﹁ 礼 楽 ﹂ を 廃 し て は な ら な い と 解釈する。この毛伝に拠る解釈は、北宋の王安石︵一〇二 一│一〇八六︶にみえる。 王 氏 曰、 世 之 亂、 生 於 上 之 人 不 學、 莫 知 反 本 以 救 之、 顧 顛 沛 於 末 流、 以 紓 目 前 之 患、 而 以 學 爲 不 切 於 世 務。 此 學 校 以 廢 也。 ⋮⋮ 嗣 音、 王 氏 亦 謂、 嗣 弦 歌 之 聲。 三年不爲樂、 樂必崩。 故嗣音不可忘也。 ︵王氏が言うに、 ﹁ 世 の 乱 れ は、 上 の 人 が 学 ば ず、 根 本 に 立 ち 返 っ て こ れを救う術を知らずに、ただ末の世につまずき、眼前 の憂いを取り除いて、学業が時代の情勢にそぐわない
85 鄭風・子衿篇の解釈史(髙崎) とすることより生じる。これが学校の廃れた理由であ る ﹂ と。 ⋮⋮﹁ 嗣 音 ﹂ は、 王 氏 も 亦 た、 ﹁ 弦 歌 の 声 を 嗣ぐ﹂ と言っている。三年の間 ﹁楽﹂ を行わなければ、 ﹁ 楽 ﹂ は 必 ず 崩 壊 す る。 故 に﹁ 音 ﹂ を﹁ 嗣 ﹂ い で 忘 れ るべきでないのである。 ︶︹ ﹃詩義鉤沈﹄巻第 四 ︶3 ︵ ︺ 王 安 石 は、 ﹁ 世 の 乱 れ ﹂ が 生 じ る 過 程 か ら、 毛 序 の﹁ 学 校の廃る﹂ の理由を説明する。特に、 ﹁上の人の学ばず﹂ 、﹁学 を以て世務に切せずと為す﹂ と、 統治する側の ﹁上の人﹂ が、 ﹁ 学 ﹂ が﹁ 世 務 ﹂ に そ ぐ わ な い と す る こ と を 指 摘 し、 王 安 石の批判は﹁学校﹂を﹁廃﹂れさせた﹁世の乱﹂に向けら れる。そして、 ﹁音を嗣ぎて忘るべからざるなり﹂と、 ﹁我﹂ が﹁楽﹂の継承を求めているとして、毛伝を襲う。 同時期の程頤︵一〇三三│一一〇七︶もまた、毛伝の指 摘する﹁学校﹂と﹁礼楽﹂の衰退に着目していう。 世亂學校不修、學 者 棄業、賢 者 念之而悲傷。⋮⋮子寧 不思其學而繼其音問。⋮⋮及夫亂世、 上不復主其敎、 則 無 以 率 之、 風 俗 雜 亂 浮 偸。 ⋮⋮ 故 人 莫 不 肆 情 廢 惰、 爲自棄之人。雖有賢 者 欲强之於學、亦豈能也。故悲傷 之 而 已。 ︵ 世 の 中 が 乱 れ て 学 校 が 修 ま ら ず、 学 ぶ 者 は 学業を捨て、 賢者はそのことを思い悲傷する。 ⋮⋮ ﹁子﹂ はどうして学んだことを思いそのことばを継がないの か。⋮⋮乱世になり、お上がもはやその教化を主導し なくなると、統率するすべが無くなり、世の気風が無 秩序で怠惰になる。⋮⋮故に人は感情の赴くまま怠惰 で、自暴自棄な人とならないものはいない。賢者が学 業を強いようとしても、どうしてできようか。故に悲 傷するのである。 ︶︹ ﹃二程全書﹄巻四十 八 ︶4 ︵ ︺ 程頤は、 世が乱れて ﹁学校﹂ が修まらず、 ﹁学ぶ者﹂ ︵﹁子﹂ ︶ が﹁業﹂を捨て、 ﹁賢者﹂ ︵﹁我﹂ ︶の﹁悲傷﹂することばが 詠 わ れ る と す る。 詠 い 手 で あ る﹁ 賢 者 ﹂ の 嘆 き は、 ﹁ 子 寧 ぞ 其 の 学 ぶ 所 を 思 い て 其 の 音 問 を 継 が ざ ら ん ﹂ と、 ﹁ 学 ﹂ の 継 承 を 求 め る こ と に あ る。 彼 の ま な ざ し は、 ﹁ 乱 世 ﹂ に おいて﹁上﹂が﹁教え﹂を主導しなくなり、 ﹁風俗﹂が﹁雑 乱し浮偸﹂したことに向けられる。程頤は、礼楽の衰退を 嘆 く﹁ 我 ﹂ を﹁ 賢 者 ﹂ と 想 定 す る 点 で、 ﹁ 我 ﹂ に つ い て 言 及しない毛伝や王安石より具体的であ る ︶5 ︵ 。﹁賢者﹂ の提示は、 南宋の厳粲︵生卒年不詳、十二世紀︶にもみえる。 學校興 者 、治之象也。學校廢 者 、亂之證也。⋮⋮以 國亂、學校不脩、生徒解散、賢 者 憂之。言汝學子服靑 靑之衿領、宜會聚於學校以講、今散而何之乎。使 我心悠悠然深長思之。縱我不往見汝、汝寧不繼聲以問 我乎。言此 者 、以學校廢而朋徒解散、不相聞知、見時 之亂也。 非要其來見而責之也。 ︵学校が興るのは、 ﹁治﹂ の現れである。学校が廃れるのは、 ﹁乱﹂ の証拠である。
86 ⋮⋮鄭箋はいう、国が乱れ、学校が修まらず、生徒が 離散して、賢者はそのことを憂えた、と。言っている の は、 ﹁ 汝 ら 学 生 は 青 い 衿 の 衣 を 着 て、 学 校 に 集 い 学 ぶべきなのに、今散り散りになりどこに行くのか。私 の心を悠悠と深く物思いにふけらせる。たとえ私が汝 らに会いに行かずとも、汝らはどうして﹃継声﹄して 私 を た ず ね な い の か ﹂。 こ う 言 う の は、 学 校 が 廃 れ 学 友が分散し、互いに聞き知らず、時世の乱を見るから である。彼︵学友︶が会いに来ることを求めて責め恨 むのではないのだ。 ︶︹ ﹃詩緝﹄巻 八 ︶6 ︵ ︺ 厳粲は、 ﹁学校﹂の衰退を﹁国﹂の﹁乱れ﹂の証拠とし、 子衿篇には﹁学校﹂の衰退と﹁朋徒﹂の離散に対する﹁賢 者﹂ の嘆きが詠われているとする。また、 ﹁賢者﹂ の嘆きは、 ﹁時の乱﹂ を ﹁見﹂ て詠われたとするために、 ﹁来見﹂ を ﹁要﹂ めて﹁責望﹂するのではないとして、鄭箋の﹁恩を以て其 の己を忘るるを責む﹂を暗に的外れとするようである。 次 に 挙 げ る 戴 溪︵ 生 卒 年 不 詳、 十 二 世 紀 ︶ は、 ﹁ 賢 者 ﹂ と類似する﹁教者﹂の視点を提示する。 子 衿、 敎 者 勤 而 學 者 怠、 敎 者 之 辭 也。 ﹁ 禮 聞 來 學、 不聞往敎﹂ 、故學 者 來而敎 者 不往。 靑衿之子不至于學校、 敎 者 懷思悠悠在心。縱敎 者 義不當往、學 者 不當來、且 不相聞乎。⋮⋮﹁一日不見、 如三月兮﹂ 、敎 者 思之至也。 ︵ 子 衿 篇 は、 教 え る 者 が 勤 勉 だ が 学 ぶ 者 が 怠 慢 で、 教 え る 者 の こ と ば を 述 べ る も の で あ る。 ﹁ 礼 は 来 学 を 聞 けども、 往教を聞かず﹂ ︵﹃禮記﹄曲礼篇︶であるから、 学 ぶ 者 が 来 て 教 え る 者 は 行 か な い。 ︵ と こ ろ が ︶ 青 衿 の子は学校にやって来ず、教える者は心中憂いにしず む。たとえ教える者は義として行くべきでなく、学ぶ 者は来るはずがなくとも、どうしてやり取りをしない のか。⋮⋮﹁一日見ざれば、三月の如し﹂とは、教え る者が思いきわまるのである。 ︶︹ ﹃續呂氏家塾讀詩記﹄ 巻 一 ︶7 ︵ ︺ 戴 溪 は、 ﹁ 教 う る 者 勤 め て 学 ぶ 者 怠 り、 教 う る 者 の 辞 を 述 ぶ る な り ﹂ と、 ﹁ 学 ぶ 者 ﹂ の 怠 慢 さ か ら﹁ 教 う る 者 ﹂ の こ と ば が 詠 わ れ る と す る。 ﹁ 縱 い 教 う る 者 義 と し て 当 に 往 く べ か ら ず、 学 ぶ 者 当 に 来 る べ か ら ざ る と も、 且 つ 相 い 聞こえざらんや﹂というように、 ﹁教うる者﹂と﹁学ぶ者﹂ が往来できなくとも、やり取りを望むことばである。戴溪 は﹃禮記﹄に拠って、子衿篇を﹁教うる者﹂の﹁辞﹂とす る。 ﹁ 教 う る 者 ﹂ が 学 校 の 衰 退 を 嘆 く こ と ば で あ る か ら、 程頤らの﹁賢者﹂の﹁念﹂とする解釈と類似する。 袁 燮︵ 一 一 四 四 │ 一 二 二 四 ︶ も ま た、 ﹁ 学 校 ﹂ が 人 々 の 感化に用いられてきたことを指摘して、教育の必要性を訴 える立場から、次のようにいう。
87 鄭風・子衿篇の解釈史(髙崎) 臣聞、 人生天地閒、 以異於群物 者 、 以知有義理而已。 ⋮⋮ 然無以講明之、則終日昏昏、淪於惡習、與蠢然無 識 者 殆無以異。謂﹁飽食暖衣、逸居而無敎、則近於 禽 獸 ﹂。 古 人 病 其 然、 ﹁ 設 爲 庠 序 學 校 ﹂、 漸 摩 陶 冶、 使 人心曉然、皆知義理之可貴。 ⋮⋮ 嗚呼、是豈可一日廢 乎。 ︵ 私 が 聞 く に、 人 は 天 地 の 間 に 生 ま れ る も、 群 物 と 異 な る の は、 ﹁ 義 理 ﹂ が 有 る こ と を 知 っ て い る た め で あ る。 ⋮⋮ だ が こ れ を 解 き 明 か す こ と が な け れ ば、 一日中昏昏として︵物事の理に暗く︶ 、悪習になずみ、 蠢 然 と し て︵ お ろ か で ︶﹁ 識 ﹂ の 無 い 者 と 殆 ど 異 な る ところが無い。 ︵﹃孟子﹄滕文公篇の︶所謂る﹁飽食暖 衣、 逸居して教え無ければ、 則ち禽獣に近し﹂である。 古人はそのようであることを憂え、 ﹁庠序 ・ 学校を造設﹂ し、 感 化 し 陶 冶 し て、 人 心 を 曉 然 と︵ 明 ら か に ︶ し、 すべて﹁義理﹂の貴ぶべきことを知らしめた。 ⋮⋮ あ あ、 ど う し て 一 日 で も 廃 す こ と が で き よ う か。 ︶︹ ﹃ 絜 齋毛詩經筵講義﹄巻 四 ︶8 ︵ ︺ 袁 燮 は、 ﹃ 孟 子 ﹄ を 引 用 し て﹁ 教 え ﹂ の 必 要 性 を 説 き、 古人が﹁学校﹂を建造し、人々を教化したと考える。最後 に は、 ﹁ 是 れ 豈 に 一 日 も 廃 す べ き か ﹂ と、 毛 伝 の﹁ 礼 楽 は 一日も廃すべからざる﹂に拠る。袁燮は、詩篇中の人物に つ い て、 ﹁ 我 ﹂ を﹁ 賢 者 ﹂ と す る 程 頤 や﹁ 教 え る 者 ﹂ と す る 戴 溪 と は 違 っ て、 具 体 的 な 人 物 を 明 示 し な い が、 ﹁ 学 校 が 廃 ﹂ れ、 ﹁ 教 え ﹂ が﹁ 人 ﹂ に 行 き 届 か な く な る こ と へ の 嘆きを詠うとする点で、毛伝に類似する。 以上、 王安石、 程頤、 厳粲、 戴溪、 袁燮は、 ﹁賢者﹂や﹁教 者﹂の立場から、子衿篇には﹁学問﹂の衰退を嘆くことば が詠われると解釈しており、毛伝の﹁古は教うるに詩楽を 以てす﹂からの派生として位置付けられる。 三ー二、宋代の毛序に拠る解釈│鄭箋からの派生 鄭 箋 は、 ﹁ 学 子 に し て 俱 に 学 校 の 中 に 在 り、 己 れ 留 ま り 彼れ去り、故に隨いて之を思う﹂ 、﹁女曾て声問を我に伝え ず、 恩を以て其の己を忘るるを責む﹂と、 ﹁子﹂からの﹁音 問 ﹂ が 無 い こ と を 嘆 く﹁ 学 子 ﹂ の 思 い が 詠 わ れ る と す る。 鄭箋に拠る解釈は、欧陽脩︵一〇〇七│一〇七二︶にみえ る。 論曰、子衿據序、但刺人學校不脩爾。以﹁學子在 學 中 ﹂、 有 留 者 有 去 者 。 毛 又 以 嗣 爲 、 謂 詩 樂、 又 以﹁一日不見、如三月﹂ 、謂﹁禮樂不可一日而廢﹂ 。苟 如其說、則學校脩而不廢。其有去 者 猶有居 者 、則勸其 來學。然則詩人復何刺哉。謂 ﹁子寧不嗣音﹂ 爲 ﹁責 其忘己﹂ 、則是矣。據詩三章、皆是學校廢而生徒分散、 朋 友 不 復 群 居、 不 相 見 而 思 之 辭 爾。 ︵ 論 じ て 言 う、 子
88 衿篇は毛序に拠れば、鄭人の学校が修まらないことを 刺 る だ け だ。 鄭 箋 は﹁ 学 子 学 中 に 在 り ﹂ と、 留 ま る 者 と 去 る 者 が い る と す る。 毛 伝 は ま た﹁ 嗣 ﹂ を﹁ 習 ﹂ とし、詩楽を習うと言い、さらに﹁一日見ざれば、三 月 の 如 し ﹂ を、 ﹁ 礼 楽 は 一 日 と し て 廃 す べ か ら ず ﹂ と 言う。もしこの説のようになれば、学校は修まり廃れ ていない。そこに去る者がいてもなお留まる者がいる のだから、その︵去る者の︶来学を勧める。そうであ るなら詩人はもはや何を刺るのか。鄭箋が﹁子寧ぞ音 を嗣がざる﹂を﹁其の己を忘るるを責む﹂と考えるの が、正しい。詩の三章によれば、すべてこれは学校が 廃れて生徒が分散し、学友たちはもはや同居せず、会 えずに懐かしがる言葉である。 ︶︹ ﹃詩本義﹄巻 四 ︶9 ︵ ︺ 欧 陽 脩 は、 鄭 箋 の﹁ 学 子 学 中 に 在 り ﹂ に 拠 っ て、 毛 伝 の﹁詩楽を習う﹂と﹁礼楽一日として廃すべからず﹂の二 点 を 批 判 し、 ﹁ 苟 し く も 其 の 説 の 如 く な れ ば、 則 ち 学 校 修 まりて廃れず。其の去る者有るも猶お居る者有れば、則ち 其の来学を勧む﹂と、 ﹁学校﹂が修まって廃れておらず、 ﹁学 校﹂にまだ留まる者がいるので、来学を勧めていると考え る。このような想定から、欧陽脩は、鄭箋の﹁其の己を忘 る る を 責 む ﹂ に 拠 っ て、 ﹁ 学 校 が 廃 れ て 生 徒 分 散 し、 朋 友 復た群居せず、相見えずして之を思う辞﹂と、再会できな い﹁朋友﹂を思うことばと解釈する。 蘇 轍︵ 一 〇 三 九 │ 一 一 一 二 ︶ の﹃ 詩 集 傳 ﹄ 巻 四 ︶10 ︵ も ま た、 鄭 箋 に 拠 る。 ﹁ 學 校 不 修、 則 有 去 者 有 留 者 、 而 莫 之 禁。 故 留 者 念 其 去 者 而 責 之 曰、 ﹁ 我 雖 不 往 見 子、 子 曷 爲 不 傳 聲 問 我乎﹂ ︵学校が修まらないので、 去る者と留まる者がいるが、 これを禁止するすべがない。故に留まる者はその去る者を 思って相手を責めて、 ﹁私があなたに会いに行かなくとも、 あ な た は ど う し て 音 信 を 私 に 伝 え て く れ な い の か ﹂ と 言 う︶ ﹂ と、 ﹁学校﹂ に ﹁留まる者﹂ ︵﹁我﹂ ︶ が、 ﹁去る者﹂ ︵﹁子﹂ ︶ に対して、音信を求めて責めることばと解釈する。 范 處 義︵ 生 卒 年 不 詳、 十 二 世 紀 ︶ は、 ﹁ 学 校 ﹂ に﹁ 留 ま る者﹂の視点に類似する﹁学ぶ者﹂の視点を提示する。 學校雖廢、而學 者 相與切磋之意、未嘗廢也。故此詩終 始皆學 者 思遊從之樂。世亂如此而道義不忘。誰謂人之 性惡哉。⋮⋮詩人思其人而不得見、至思其衿佩、思之 至也。⋮⋮我思之至、以近爲遠、一日如三月也。學子 往來於城闕、思之 者 、不可得見。以明學校不修、學子 旣 無 歸 宿、 故 亦 無 相 見 之 、 此 之 謂 學 校 廢。 ︵ 学 校 が廃れても、学ぶ者が共に切磋琢磨する思いは、未だ かつて廃れていない。故にこの詩は終始すべて学ぶ者 が交友の楽しみを思うものである。世がかくも乱れて も道義は忘れない。誰が人の本性を悪だと言うだろう
89 鄭風・子衿篇の解釈史(髙崎) か。⋮⋮詩人はその人︵去る者︶を思うも会うことが できず、彼の衿佩を思うに至って、思いが極まるので あ る。 ⋮⋮ 私 の 思 い が 極 ま り、 近 い の も 遠 い と し て、 一日は三月のようである。学ぶ者は﹁城闕﹂を往来し ︵ 遊 び ほ う け ︶、 思 慕 す る 者 は、 会 う こ と が で き な い。 そうして学校が修まらず、学ぶ者は落ち着く場所が無 く な り、 故 に ま た 会 う 場 所 も 無 い こ と を 明 ら か に し、 これを﹁学校の廃る﹂と言う。 ︶︹ ﹃詩補傳﹄巻 七 ︶11 ︵ ︺ 范 處 義 は、 ﹁ 学 校 ﹂ が﹁ 廃 ﹂ れ て も﹁ 学 ぶ 者 ﹂ の﹁ 切 磋 の意﹂は﹁廃﹂れておらず、詩は﹁遊従の楽しみ﹂を思う も の だ と す る。 た だ し、 ﹁ 学 校 修 ま ら ず、 学 子 既 に 帰 宿 す る所無く、 故に亦た相見の所無きを明らかにす﹂と、 ﹁学校﹂ が廃れて会う場所が無くなったと想定するため、欧陽脩の ﹁学問﹂が廃れるとする解釈とは、毛序の捉え方が異なる。 范處義は、毛序を字面のまま﹁学校の廃る﹂と捉え、鄭箋 の﹁学ぶ者﹂のうたとする解釈に拠るのであ る ︶12 ︵ 。 以 上、 欧 陽 脩、 蘇 轍、 范 處 義 は、 ﹁ 学 ぶ 者 ﹂ が 学 友 を 思 ううたと解釈しており、鄭箋の﹁学子にして 俱 に学校の中 に在り、己れ留まり彼れ去り、故に隨いて之を思う﹂から の派生として位置付けられる。 宋代の王安石から范處義までは、前掲のように、毛序の ﹁ 学 校 の 廃 る を 刺 る ﹂ を 詩 の 主 題 と 捉 え る 点 で 共 通 す る。 しかしながら、必ずしも毛序に拠らない子衿篇解釈が、南 宋の王質と朱熹によって提示される。 三ー三、宋代の解釈│毛序を排除する場合 王質と朱熹が﹃詩﹄解釈において毛序から離れていると する指摘は、早くは南宋の黃震︵一二一三│一二八一︶の ﹃黃氏日抄﹄巻四﹁讀毛詩﹂にみえる。 ﹁雪山王公質、夾 漈 公樵始皆去序而言詩。與諸家之說不同。晦庵先生因公 之 說、 盡 去 美 刺、 探 求 古 始。 ︵ 雪 山︵ と 号 す る ︶ 王 質 殿、 夾 漈 ︵と号する︶鄭樵殿ははじめてどちらも毛序から離れ て詩について述べた。諸家の説とは同じでない。晦庵︵と 号する朱熹︶先生は鄭樵殿の説によって、尽く讃美と諷刺 から離れ、原初を探し求め た ︶13 ︵ 。︶ ﹂。 では、 子衿篇はいかに解釈されているのか。王質はいう。 此己在位而故人在野 者 也。靑衿、野服。當是相思而有 欲見之意、其來而不肯至 者 也。⋮⋮總聞曰、故人在 位而不往見、 蓋賢 者 也。故人在野而有慚、 亦賢 者 也。 曹 氏﹁ 靑 靑 子 衿、 悠 悠 我 心。 但 爲 君 故、 沈 吟 至 今 ﹂、 正 引 此 詩 無 爽。 ︵ こ れ は 自 分 が 官 位 に あ り 旧 友 が 民 間 にいる者である。青衿は、民間の服である。互いに思 いあって会いたいという気持ちはあるはずだが、やっ て 来 る こ と を 望 む け れ ど 来 よ う と し な い の で あ る。
90 ⋮⋮﹃詩總聞﹄に言う。旧友が官位にあるけれど会い に行かないのは、思うに賢者である。旧友が民間にい て恥じる所があるのも、また賢者である。曹操の﹁青 青たる子衿、悠悠たる我が心。但だ君が為の故に、沈 吟 し て 今 に 至 る ﹂︵ ﹁ 短 歌 行 ﹂︶ は、 正 に こ の 詩 を 引 用 して誤りが無い。 ︶︹ ﹃詩總聞﹄巻 四 ︶14 ︵ ︺ 王質は、子衿篇には﹁在位﹂の者︵ ﹁我﹂ ︶が﹁在野﹂の 旧友︵ ﹁子﹂ ︶に会いたいと思いつつも、会えずにいること が詠われているとする。この人物想定は、他の子衿篇解釈 にはみえず、王質のみが主張するものである。また、引用 の最後には、曹操︵一五五│二二〇︶の﹁短歌 行 ︶15 ︵ ﹂を﹁爽 無し﹂と評価する一文がみえる。王質の子衿篇解釈と曹操 の﹁短歌行﹂の引用には、 いかなる関係があるのだろうか。 曹 操 の﹁ 短 歌 行 ﹂ は、 子 衿 篇 第 一 章 の﹁ 青 青 た る 子 衿、 悠 悠 た る 我 が 心 ﹂ を 引 用 し、 続 い て﹁ 但 だ 君 が 為 の 故 に、 沈 吟 し て 今 に 至 る ﹂ と、 ﹁ 君︵ あ な た ︶﹂ を 思 っ て﹁ 沈 吟 ﹂ すると詠う。この﹁沈吟﹂は、 ﹁短歌行﹂の後半部に、 ﹁陌 を 越 え 阡 を 度 り、 枉 用 し て 相 存 す。 契 闊 談 讌 し て、 心 に 旧恩を戀う︵縦横に延びる畦道を越えて、わざわざ訪ねに 来てくれた。久しぶりに宴の語らいをして、心に昔日の恩 情 を 抱 く ︶﹂ と 明 か さ れ る よ う に、 旧 友 と の 再 会 を 願 っ て 物 思 い に 耽 る こ と で あ る。 語 り 手︵ ﹁ 我 ﹂︶ が 旧 友︵ ﹁ 子 ﹂︶ に 対 し て﹁ 沈 吟 ﹂ す る と 詠 う 際 に、 子 衿 篇 が 引 用 さ れ る。 これは王質が ﹁在位﹂ の者 ︵﹁我﹂ ︶ と ﹁在野﹂ の旧友 ︵﹁子﹂ ︶ を想定するのに似る。さらに、 ﹁短歌行﹂のこのくだりは、 毛序の﹁学校の廃るを刺る﹂との関わりもなく、毛序に拠 ら ず に 子 衿 篇 を 引 用 す る。 つ ま り、 王 質 の 子 衿 篇 解 釈 は、 曹操の﹁短歌行﹂に影響を受けたものと考えられる。 他方、同じく毛序を排除する朱熹は、王質とも異なる。 子、男子也。衿、領也。悠悠、思之長也。我、女子自 我 也。 嗣 音、 繼 續 其 聲 問 也。 此 亦 淫 奔 之 詩。 ︵ 子 は、 男子である。衿は、襟元である。悠悠は、思いの長さ である。我は、女子の自称である。嗣音は、その音信 を 続 け る こ と で あ る。 こ れ も 亦 た 淫 奔 の 詩 で あ る。 ︶ ︹﹃詩集傳﹄巻四︵以下﹃朱傳﹄と略 称 ︶16 ︵ ︶︺ 朱 熹 は、 ﹁ 子 ﹂ を﹁ 男 子 ﹂、 ﹁ 我 ﹂ を﹁ 女 子 ﹂ と し て、 子 衿篇を﹁淫奔の詩﹂と解釈する。また、 ﹃詩序辨 說 ︶17 ︵ ﹄では、 子衿篇を﹁蓋其辭意 儇 薄、施之學校、尤不相似也︵思うに その意味はずる賢く浮ついており、これを学校にあてはめ る こ と は、 と り わ け 相 応 し く な い ︶﹂ と、 詩 篇 の こ と ば が ずる賢く浮ついていることを理由に、 毛序が﹁学校の廃る﹂ という﹁学校﹂には相応しくないとす る ︶18 ︵ 。 ﹃朱傳﹄の序には、 ﹁凡詩之謂風 者 、多出於里巷歌謠之 作、 謂男女相與詠歌、 各言其 者 也︵凡そ詩の所謂﹁風﹂
91 鄭風・子衿篇の解釈史(髙崎) とは、 多くが巷の歌謡より出た作で、 所謂男女が共に詠い、 各々その情を言うのである︶ ﹂と、国風諸篇を﹁里巷歌謡﹂ の 作 と 捉 え、 ま た、 鄭 風 諸 篇 を 挙 げ た 後 に は﹁ 衞 之 樂、 皆爲淫聲。⋮⋮衞猶爲男悅女之詞、 而皆爲女惑男之語 ︵鄭 衛の楽は、すべて淫声である。⋮⋮衛は依然として男が女 を 悦 ぶ う た を 作 る が、 鄭 は す べ て 女 が 男 を 惑 わ す 語 を 作 る︶ ﹂︵巻四︶と、鄭風諸篇を﹁女が男を惑わすの語﹂とい う。さらに、 ﹃朱子語類﹄巻八十 一 ︶19 ︵ には、 ﹁聖人言聲淫 者 、 蓋 人 之 詩、 多 是 言 當 時 風 俗 男 女 淫 奔︵ 聖 人 が﹁ 鄭 声 淫 ﹂ と言うのは、思うに鄭人の詩が、多く当時の風俗で男女が 淫奔なことを言うのである︶ ﹂と、 ﹁聖人﹂が﹁鄭声淫﹂と 言 う の は、 当 時 の 男 女 が﹁ 淫 奔 ﹂ で あ っ た か ら だ と す る。 こ の﹁ 鄭 声 淫 ﹂ と は、 ﹃ 論 語 ﹄ 衛 霊 公 篇 の﹁ 聲 淫、 佞 人 殆 ︵鄭声淫にして、 佞人殆う し ︶20 ︵ ︶﹂ を指しており、 朱熹は ﹁聖 人﹂である孔子のことばに拠って、鄭風の﹁淫奔﹂詩とし ての性格を指摘するのである。 では、朱熹は、子衿篇に﹁女子﹂のいかなる思いを読み 取るのか。子衿篇の第一章三、四句目の﹁縦い我れ往かざ るも、 子寧ぞ音を嗣がざる﹂は、 朱熹の人物想定によれば、 ﹁たとえ私 ︵女子︶ があなた ︵男子︶ のもとに行かなくとも、 あなた︵男子︶はどうして音信を続けてくれないのか﹂と なる。これは、欧陽脩の﹁相見えずして之を思う辞﹂に近 いが、鄭風諸篇を﹁女が男を惑わすの語﹂とする朱熹の立 場を踏まえれば、 ﹁女子﹂が﹁男子﹂を﹁惑﹂わせて、 ﹁音﹂ を﹁嗣﹂ぐことを求める思いが詠われていることになる。 以上、王質と朱熹の解釈は、ともに毛序を排除する立場 だが、王質は曹操の﹁短歌行﹂によって毛序に拠らずに子 衿篇を解釈し、一方、朱熹は﹁鄭声淫﹂という﹃論語﹄の 評 価 を 子 衿 篇 に 適 用 す る。 ﹁ 一、 は じ め に ﹂ で 確 認 し た よ うに、張氏は、王質の解釈について﹁離別﹂と﹁思念﹂は ﹁朋友間﹂に生じると考えるが、 その背景には、 曹操の﹁短 歌行﹂があり、その点に張氏は触れていない。また、朱熹 の 解 釈 に つ い て は、 ﹁ 離 別 ﹂ と﹁ 思 念 ﹂ は﹁ 男 女 間 ﹂ に 生 じると考えるが、 朱熹の説を読む限り、 その根拠は﹃論語﹄ のことばである。つまり、王質は﹁子衿﹂を織り込んだ漢 末楽府に拠るが、朱熹は依然として﹃論語﹄という経書に 拠るのである。 では、続く元代では、宋代の解釈がどのように受容され ていったのであろうか。 四、元代の解釈 元 代 の 子 衿 篇 解 釈 は、 ﹃ 朱 傳 ﹄ に 拠 る も の が 目 立 つ。 例 えば、許謙︵一二七〇│一三三七︶の﹃詩集傳名物鈔﹄巻
92 三 ︶21 ︵ は、 ﹁ 淫 奔 之 詩、 ⋮⋮ 子 衿、 ⋮⋮ 十 四 篇。 自 將 仲 子 至 子衿九篇、 皆女惑男之語︵鄭風の淫奔の詩は、 ⋮⋮﹁子衿﹂ 、 ⋮⋮十四篇である。 ﹁将仲子﹂から﹁子衿﹂までの九篇は、 すべて女が男を誘惑することばである︶ ﹂と、 子衿篇を﹁淫 奔 の 詩 ﹂、 且 つ﹁ 女 の 男 を 惑 わ す の 語 ﹂ と す る。 ま た、 梁 寅︵一三〇三│一三八九︶の﹃詩演義﹄巻 四 ︶22 ︵ は﹁子衿、亦 淫 奔 之 詩 也︵ 子 衿 篇 も ま た、 淫 奔 の 詩 で あ る ︶﹂ と、 朱 熹 の 説 を 踏 襲 す る。 さ ら に、 劉 瑾︵ 一 三 二 四 │ 一 三 七 〇 頃 ︶ の﹃詩傳通釋﹄巻 四 ︶23 ︵ 、朱公遷︵生卒年不詳、十四世紀︶の ﹃詩經疏義會通﹄巻 四 ︶24 ︵ は、 ﹃朱傳﹄の全文を引用する。ただ し、 劉瑾は﹁愚按、 朱子﹃白鹿洞賦﹄有曰﹃廣靑衿之疑問﹄ 、 又曰、 ﹃樂菁莪之長育﹄ 、用此二事、又皆從序說、與集傳不 同 者 、 彼蓋斷章取義耳︵私が考えるに、 朱子は﹁白鹿洞賦﹂ で﹁ 青 衿 の 疑 問 を 広 む ﹂、 ﹁ 菁 莪 の 長 育 を 楽 し む ﹂ と い い、 この二つを用いるのも、 すべて毛序の説に従っている。 ﹃朱 傳﹄と異なるのは、思うに彼が断章取義をしたのだ︶ ﹂と、 朱熹の﹁白鹿洞賦﹂は、毛序に拠る子衿篇の解釈を用いた ﹁断章取義﹂だと批判しており、 ﹃朱傳﹄を是認する姿勢で あることが窺える。 一方、元代には毛伝派の解釈もみえる。胡一桂︵生卒年 不詳、十四世紀︶はいう。 愚 按、 諸 家 皆 本 序 說 。 劉 氏 君 舉 曰、 ﹁ ⋮⋮ 寧 不 嗣 音、 謂春誦夏弦。子寧不來、謂禮聞來學。⋮⋮學校禮 義之自出、雖衰世、而禮義之出於人心 者 猶在。不 然、 何以思之深、 之切、 而一日不見、 如三月兮﹂ 。︵私 が考えるに、諸家はみな序の説に基づいている。劉君 舉がいう、 ﹁⋮⋮﹃寧ぞ音を嗣がざる﹄とは、 ︵﹃禮記﹄ 文王世子篇の︶ 所謂る ﹃春に誦し夏に弦す﹄ である。 ﹃子 寧ぞ来たらざる﹄ とは、 ︵﹃禮記﹄ 曲礼篇の︶ 所謂る ﹃礼 は来学を聞く﹄である。⋮⋮学校は礼法や道義が自ず から生まれる所で、鄭国が衰世であっても、礼法や道 義が人心から生じることは依然としてあった。そうで なければ、 どうして思いの深く、 眺めることの切実で、 ﹃一日見ざれば、三月の如し﹄ということがあろうか﹂ と。 ︶︹ ﹃詩集傳附録纂疏﹄巻 四 ︶25 ︵ ︺ 胡 一 桂 は、 ﹁ 諸 家 は 皆 な 序 説 に 本 づ く ﹂ と、 子 衿 篇 の 解 釈は、 古来毛序に拠るとする。 引用される劉君舉の説は、 ﹃禮 記 ﹄ に よ っ て 語 句 を 説 明 し た も の で あ る。 ま た、 ﹁ 学 校 は 礼義のよりて出づる所にして、鄭は衰世と雖も、礼義の人 心より出づる者猶お在り﹂は、毛伝派の袁燮の﹁古人其の 然るを病み、 ﹃設けて庠序学校と為し﹄ 、漸摩陶冶し、人心 をして曉然とし、皆な義理の貴ぶべきを知らしむ﹂と類似 す る。 胡 一 桂 以 前 で は、 李 公 凱︵ 生 卒 年 不 詳、 十 四 世 紀 ︶ の﹃直音傍訓毛詩句解﹄巻 四 ︶26 ︵ が、毛伝派の程頤の解釈を断
93 鄭風・子衿篇の解釈史(髙崎) 片的に引用する。 こ の よ う に、 元 代 に は、 ﹃ 朱 傳 ﹄ の 急 速 な 普 及 の 状 況 が 窺える一方で、毛序や毛伝派に拠る宋代の解釈が引用され ている。続く明代には元代との連関性が注目される。 五、明代の解釈 五ー一、元代の継続 明代の子衿篇解釈は、元代と同様に﹃朱傳﹄に拠る解釈 が散見される。例えば、胡廣︵一三六九│一四一八︶等奉 勅 撰 の﹃ 詩 傳 大 全 ﹄ 巻 四 ︶27 ︵ 、 顧 夢 麟︵ 一 五 八 五 │ 一 六 五 三 ︶ の﹃ 詩 經 說 約 ﹄ 巻 六 ︶28 ︵ は、 ﹃ 朱 傳 ﹄ を 引 用 す る。 中 で も 胡 廣 の﹃ 詩 傳 大 全 ﹄ は、 明 の 永 楽 年 間 に 作 ら れ た﹁ 五 経 大 全 ﹂ の一つであり、経学を学ぶものにとって﹃朱傳﹄の影響は 大きかっ た ︶29 ︵ 。 一方、 ﹃朱傳﹄以外の解釈もみえる。例えば、 姚舜牧︵一 五 四 三 │ 一 六 二 八 ︶ の﹃ 重 訂 詩 經 疑 問 ﹄ 巻 二 ︶30 ︵ は、 ﹁ 此 特 據 註 爲 解 耳︵ こ れ は た だ 注 に 拠 っ て 解 釈 す る だ け で あ る ︶﹂ と述べた後、毛序を引用する。また、張次仲︵一五八九│ 一六七六︶の﹃待軒詩記﹄巻 二 ︶31 ︵ には、 ﹁學校不修、 朋徒離散、 故賢 者 傷之而作︵学校が修まらず、学友は離散し、そのた め 賢 者 が そ の こ と を 傷 ん で 作 っ た ︶﹂ と、 毛 伝 派 の 程 頤 と 類似する解釈がみえ、李先芳︵生卒年不詳、十六世紀︶の ﹃ 讀 詩 私 記 ﹄ 巻 三 ︶32 ︵ は、 毛 序 と﹃ 呂 氏 家 塾 讀 詩 記 ﹄ に み え る 程頤の説を引用する。この頃までは元代とさほど変わらな い。だが、明末にかけて、毛序や﹃朱傳﹄に対する批判や 検討が出てくる。 五ー二、明末の状況│先行する注釈の検討 毛序に対する批判は、 季本 ︵一四八五│一五六三︶ の ﹃詩 說 解 頤 ﹄ 正 釈 巻 七 ︶33 ︵ に み え る。 ﹁ 經 旨 曰、 此 女 子 淫 奔 而 思 男 子之詩也。舊說以爲刺學校之廢、則末章不能不强解矣︵経 の趣旨は、子衿篇は女子が淫奔で男子を思う詩であるとい うことである。旧説では﹁学校の廃るを刺る﹂と考えてい る の で、 末 章 は 無 理 に 解 釈 せ ざ る を 得 な い ︶﹂ と、 ﹃ 朱 傳 ﹄ を襲い、古注を批判する。 同様に、 朱謀 㙔 ︵生卒年不詳、 十六世紀︶は、 毛序を﹁非﹂ として、次のようにいう。 ﹁子衿、刺學校廢也﹂ 、非刺學校廢也。朋友失好 者 之相 責讓也。⋮⋮以細故而斷平生之歡、遂不相見。 ︵﹁子衿 は、学校の廃るを刺るなり﹂とあるが、学校の廃れた ことを刺るのではない。友人で仲が悪くなった者がお 互いに責め咎めるのである。⋮⋮些細なことでこれま での交友を絶ち、 そうして会うことがなくなる。 ︶︹ ﹃詩
94 故﹄巻 三 ︶34 ︵ ︺ 朱 謀 㙔 は、 ﹁ 朋 友 の 好 を 失 う 者 ﹂ が 互 い に 相 手 を﹁ 責 め 讓 め ﹂ る う た と す る。 ﹁ 好 を 失 う 者 ﹂ を 想 定 す る 点 は、 鄭 箋 派 の 蘇 轍 の﹁ 留 ま る 者 の 其 の 去 る 者 を 念 い て 之 を 責 む ﹂ に近いが、毛序を﹁非﹂とする点は、蘇轍と異なる。 他 方、 毛 序 に 拠 り つ つ、 ﹃ 朱 傳 ﹄ を 批 判 す る 解 釈 が、 徐 光啓︵一五六二│一六三三︶にみえる。 此詩朱子謂﹁其詞 儇 薄、 不可施之學校﹂ 、而﹁白鹿洞賦﹂ ﹁ 廣 靑 衿 之 疑 問 ﹂、 則 仍 用 序 說 。 黃 葵 峰 曰、 ﹁ 世 亂 學 校 不 修、 學 徒 離 散。 賢 者 昔 司 學 校 之 敎、 隠 身 無 與 共 修。 故賦此詩、重致意焉﹂ 。︵この詩は朱子が﹁其の詞 儇 薄 にして、 之を学校に施すべからず﹂というが、 ︵朱子の︶ ﹁ 白 鹿 洞 賦 ﹂ で は﹁ 青 衿 の 疑 問 を 広 め ﹂ と、 毛 序 の 説 を踏襲して用いている。黃葵峰 ︵一五〇六│一五八六︶ が い う に は、 ﹁ 世 の 中 が 乱 れ て 学 校 が 修 ま ら ず、 学 生 は離散する。賢者は昔学校の教育を司っていたが、隠 居してともに︵学問を︶修めることは無くなった。そ のためこの詩を賦して、 重ねて思いを伝えるのである﹂ と。 ︶︹ ﹃毛詩六帖講意﹄巻 一 ︶35 ︵ ︺ 徐光啓は、元代の劉瑾と同様に、朱熹が﹃詩序辨說﹄で 毛 序 を 批 判 す る も、 ﹁ 白 鹿 洞 賦 ﹂ で は 毛 序 の 解 釈 を 用 い る という矛盾を指摘する。だが、 劉瑾が毛序に拠る解釈を ﹁断 章取義﹂ と批判するのとは異なり、 所引の黃葵峰の説は、 ﹁賢 者﹂の嘆きと解釈するもので、毛伝派の程頤に近い。つま り、徐光啓は﹃朱傳﹄を批判的に捉えるのである。 また、明末の郝敬︵一五五八│一六三九︶にも、 ﹃朱傳﹄ への批判がみえる。 朱 子 謂﹁ 辭 意 儇 薄、 施 之 學 校、 不 似 ﹂、 改 爲﹁ 淫 奔 ﹂ 非也。若使辭不 儇 薄、何以爲聲。⋮⋮同學少年、往 來 嗣 音、 正 朋 徒 久。 要 之 言、 如 謂 語 儇 薄、 詩 皆 然。 若 皆 斥 爲 淫、 則 舉 國 君 臣・ 師 弟・ 朋 友、 莫 匪 淫 人、 行莫匪淫事。何以爲國。自男女外、豈遂無詩。而夫 子何獨盡取淫人 ・ 淫事、以實其謂﹁聲淫﹂之一語、 隘且刻矣。淫詩不刪、所刪又何等詩乎。 ︵朱子が︵ ﹃詩 序 辨 說 ﹄ で ︶﹁ 辞 意 儇 薄 に し て、 之 を 学 校 に 施 す は、 似ず﹂といって、 ﹁淫奔﹂と改めたのは間違っている。 もしことばがずる賢く浮ついていなければ、どうして ﹁鄭声﹂ になろうか。⋮⋮同学の若者は、 往来して ﹁音﹂ を 嗣 ぎ、 学 生 た ち を 正 す こ と 久 し か っ た。 要 す る に、 も し﹁ こ と ば が ず る 賢 く 浮 つ い て い る ﹂ と い う な ら、 鄭風の詩篇はみなそうである。もしすべて斥けて ﹁淫﹂ とすれば、鄭國の君臣・師弟・朋友に﹁淫人﹂でない ものはなく、行動に﹁淫事﹂でないものはなくなって し ま う。 ︵ そ の よ う に﹁ 淫 ﹂ で 溢 れ て し ま っ た ら ︶ ど
95 鄭風・子衿篇の解釈史(髙崎) うやって国を治めようか。男女のこと以外に、どうし て詩篇が無いだろうか。 それなのに孔子はどうして ﹁淫 人﹂ ﹁淫事﹂ だけを尽く取り上げて、 所謂 ﹁鄭聲淫なり﹂ の一語を実たすほど、度量が狭く厳格なことがあろう か。淫詩は削らずに、削ったものはまたどのような詩 であろうか。 ︶︹ ﹃毛詩原解﹄巻 八 ︶36 ︵ ︺ 郝敬は、朱熹が﹃詩序辨說﹄で﹁辭意 儇 薄にして、之を 学 校 に 施 せ ば、 似 ず ﹂ と し、 ﹃ 朱 傳 ﹄ で﹁ 淫 奔 ﹂ の 詩 と 改 め た こ と を 批 判 す る。 郝 敬 は、 ﹁ 若 し 辞 を し て 儇 薄 せ し め ざ れ ば、 何 を 以 て 鄭 声 と 為 さ ん ﹂ と 考 え る た め、 ﹁ 之 れ を 要して言えば、如し語は 儇 薄なりと謂はば、鄭詩は皆な然 り﹂と、朱熹の﹁辞意 儇 薄﹂という指摘を受け入れる。だ が、 朱 熹 の よ う に、 す べ て を﹁ 淫 ﹂ と し て、 ﹁ 鄭 國 君 臣・ 師弟 ・ 朋友﹂ や ﹁所行﹂ にまで当てはめれば、 ﹁淫人﹂ や ﹁淫 事 ﹂ で 溢 れ か え り、 国 が 治 ま ら な い と 批 判 す る。 さ ら に、 孔 子 の 刪 詩 が あ っ た に も 関 わ ら ず、 ﹁ 淫 詩 ﹂ ば か り が 残 さ れているはずはないとして、 朱熹が﹁淫人﹂ ﹁淫事﹂によっ て子衿篇を解釈することを﹁非﹂とするのである。 以上、明初では、元代の状況と同じく﹃朱傳﹄に拠る解 釈と古注から派生する宋代の解釈を引用するが、明末にか けてでは、 ﹃朱傳﹄に対する批判が示されていた。この﹃朱 傳﹄への批判は、続く清代にも継続してみえる。 六、清代の解釈 ま ず、 ﹃ 朱 傳 ﹄ の 批 判 か ら 確 認 す る。 朱 鶴 齢︵ 一 六 〇 六 │一六八三︶の﹃詩經通義﹄巻 三 ︶37 ︵ では、毛伝派の程頤らの 説 を 引 用 し て、 ﹁ 此 詩 之 義、 最 爲 明 白︵ こ の 詩 の 意 味 は、 は な は だ 明 白 で あ る ︶﹂ と 記 し た 後、 ﹁ 朱 子 例 作﹁ 淫 奔 ﹂、 殆不可解︵朱子は説明するに﹁淫奔﹂とするが、殆ど理解 で き な い ︶﹂ と、 朱 熹 の﹁ 淫 奔 ﹂ 説 を 批 判 す る。 ま た、 銭 澄之︵一六一二│一六九四︶の﹃田間詩學﹄巻 三 ︶38 ︵ では、 ﹁愚 按、詩辭是師傷其弟子之廢學而作也︵私が考えるに、詩篇 のことばは師が弟子の学業を廃したことを傷んで作ったの である︶ ﹂と、毛伝派の程頤と類似する解釈を襲い、 ﹁朱子 ﹃白鹿洞賦﹄有云﹃廣靑衿之疑問﹄ 、則仍以此詩爲學校而作 矣︵朱子の﹁白鹿洞賦﹂に﹁青衿の疑問を広む﹂と言うか ら、 依然としてこの詩を学校と結び付けて作っている︶ ﹂と、 明末の徐光啓と同様に朱熹の矛盾を指摘する。 ま た、 李 光 地︵ 一 六 四 二 │ 一 七 一 八 ︶ は、 ﹃ 朱 傳 ﹄ の み ならず、毛序も批判の対象として、次のようにいう。 序謂刺學校、 ﹃朱傳﹄謂﹁淫奔﹂ 者 、詳詩意 俱 無顯證。 或亦朋友相思念之辭爾。 ︵毛序は ﹁学校を刺る﹂ と言い、 ﹃ 朱 傳 ﹄ が﹁ 淫 奔 ﹂ と い う の は、 詩 意 を 詳 し く 考 え る とどちらも明らかな証拠が無い。或いは亦た朋友が互
96 いに思いあうことばである。 ︶︹ ﹃詩所﹄巻 二 ︶39 ︵ ︺ 李光地は、毛序と﹃朱傳﹄を﹁ 俱 に顕証無し﹂と、どち ら も 明 確 な 根 拠 が な い と 斥 け、 ﹁ 朋 友 相 思 念 の 辞 ﹂ と 解 釈 する。これは、明の朱謀 㙔 が毛序と﹃朱傳﹄に拠らずに解 釈 し た 場 合 と 類 似 す る。 毛 序 に 根 拠 が 無 い と す る 立 場 は、 姚際恒︵一六四七│一七一五︶にもみえる。 小 序 謂﹁ 刺 學 校 廢 ﹂、 無 據。 此 疑 亦 思 友 之 詩。 玩﹁ 縱 我 不 往 ﹂ 之 言、 當 是 師 之 于 弟 子 也。 禮 云﹁ 禮 聞 來 學、 不聞往敎﹂ 、是也。 ︵毛序が﹁学校の廃るを刺る﹂とい うのは、根拠がない。これはおそらく友を思う詩であ る。 ﹁縦い我れ往かざるも﹂ ということばを玩味すれば、 当然師が弟子に対するもののはずである。 ﹃禮記﹄ に﹁礼 は来学を聞くも、往教を聞かず﹂というのが、それで ある。 ︶︹ ﹃詩經通論﹄巻 五 ︶40 ︵ ︺ 姚 際 恒 は、 毛 序 を﹁ 據 る こ と 無 し ﹂ と 排 除 し、 ﹁ 縦 い 我 れ往かざるも﹂の句は、 ﹃禮記﹄曲礼篇を根拠に、 ﹁師﹂の ﹁ 弟 子 ﹂ に 対 す る こ と ば と す る。 こ れ は 毛 伝 派 の 載 溪 と 類 似する。この姚際恒の説は、清末の方玉潤︵一八一一│一 八八三︶に受け継がれる。 子 衿、 傷 學 校 廃 也。 ⋮⋮ 序 謂﹁ 刺 學 校 廢 也 ﹂。 唐 宋 元 明諸儒、皆主其 說 。而﹃集傳﹄獨以爲淫詩。 迨 至﹁白 鹿洞賦﹂ 、又云﹁廣靑衿之疑問﹂ 、仍用序 說 、是是非之 心終難昧矣。姚氏際恒以爲﹁刺學校無據。疑亦思友之 詩。玩﹁縱我不往﹂之言、當是師之于弟子也﹂ 。愚謂、 序言原未嘗錯、特謂﹁刺學校﹂則失詩人語氣。此蓋學 校久廢不脩、學 者 散處四方、或去或留、不能復聚如平 日 之 盛。 故 其 師 傷 之 而 作 是 詩。 ︵ 子 衿 篇 は、 学 校 が 廃 れたことを傷むものである。⋮⋮毛序は﹁学校の廃る を刺るなり﹂ という。唐宋元明の諸儒は、 皆なその ︵毛 序の︶説を主とする。だが﹃朱傳﹄だけが﹁淫詩﹂と す る。 ﹁ 白 鹿 洞 賦 ﹂ に 至 っ て は、 ﹁ 青 衿 の 疑 問 を 広 む ﹂ といい、依然として毛序の説を用いており、これは是 非の心が結局は昧くなり難いのである。 姚際恒氏は ﹁学 校 を 刺 る は 據 る こ と 無 し。 疑 う ら く は 亦 た 思 友 の 詩。 ﹃ 縦 い 我 れ 往 か ず ﹄ の 言 を 玩 え ば、 当 に 是 れ 師 の 弟 子 におけるなるべきなり﹂と考える。私が思うに、毛序 のことばはもともと間違っていないが、 ﹁学校を刺る﹂ とだけいうのは、詩人の語気を失する。これは思うに 学校が長い間廃れて修まらず、学ぶ者が四方に散り散 りになり、あるものは去りあるものは留まったが、再 び か つ て 盛 ん だ っ た こ ろ の よ う に 集 う こ と は で き な い。故に師は悲傷してこの詩を作ったのである。 ︶︹﹃詩 經原始﹄巻 五 ︶41 ︵ ︺ 方玉潤は、歴代の注釈が毛序に拠って解釈するにも関わ
97 鄭風・子衿篇の解釈史(髙崎) らず、 ﹃朱傳﹄のみが﹁淫詩﹂と捉え、 また、 ﹃朱傳﹄と﹁白 鹿洞賦﹂の間に矛盾があることを指摘する。その上で、先 行の姚際恒の解釈を受けて、毛序の﹁刺﹂字を﹁傷﹂字に 改め、 ﹁学校の廃るを傷むなり﹂と、 ﹁師﹂の﹁弟子﹂に対 する悲傷の思いが詠われていると解釈する。 他方、清代には朱子出現以前と同様に、毛伝と鄭箋の違 いを指摘する議論も多い。毛伝に拠る解釈は、陳啓源︵生 年不詳、卒年は一六八九︶にみえる。 ﹁嗣音﹂ 、 當以毛義爲正。云﹁嗣、 習也。古 者 敎以詩樂、 誦 之 歌 之、 弦 之 舞 之 ﹂、 孔 疏 引 王 制﹁ 四 ﹂﹁ 四 敎 ﹂、 文王世子﹁春誦夏弦﹂證之當矣。此詩本﹁刺學校廢﹂ 、 當責其學業之不習。若徒以音問爲言、則朋友相思之常 語耳、非序意也。 ︵﹁嗣音﹂は、毛傳の解釈を正しいと すべきだ。 ︵毛傳が︶ ﹁嗣は、習なり。古者教うるに詩 楽 を 以 て し、 之 を 誦 し 之 を 歌 い、 之 を 弦 し 之 を 舞 う ﹂ と言うのは、 孔穎達の疏が ﹃禮記﹄ 王制篇の ﹁四術﹂ ﹁四 教 ﹂ と、 ﹃ 禮 記 ﹄ 文 王 世 子 篇 の﹁ 春 は 誦 し 夏 は 弦 す ﹂ を引いて証明することに符合する。この詩は本来﹁学 校の廃るを刺る﹂のだから、当然学業が習われていな いことを責めているはずだ。もし単に﹁音問﹂をこと ば と 解 釈 す れ ば、 友 人 が 互 い に 思 い 合 う 常 語 と な り、 毛序の意図ではないのである。 ︶︹ ﹃毛詩稽古編﹄巻 五 ︶42 ︵ ︺ 陳啓源は、毛序の﹁学校の廃るを刺る﹂に拠る限り、学 業が習われていないことを責める詩だが、鄭箋では﹁朋友 相思の常語﹂となり、 毛序と符合しないと指摘する。また、 馬瑞辰︵一七八一│一八五三︶の﹃毛詩傳箋通釋﹄巻 八 ︶43 ︵ で は、 ﹁傳箋說各有本。據序言﹁刺學校廢﹂ 、當以傳義爲允︵毛 伝と鄭箋の説はそれぞれ基づくものがある。毛序が﹁学校 の廃るを刺る﹂というのに拠れば、当然毛伝を信じるべき だ︶ ﹂と、毛序に拠るならば毛伝で解釈すべきだという。 一方、 鄭箋に拠る解釈は、 胡承珙︵一七七六│一八三二︶ にみえる。 承珙案、首章箋云、 ﹁學子而 俱 在學校之中、己留彼去、 故隨而思之耳﹂ 、蓋三章皆有此意。魏武﹁短歌行﹂ ﹁靑 靑 子 衿、 悠 悠 我 心。 但 爲 君 故、 沈 吟 至 今 ﹂、 亦 與 詩 旨 有合也。 ︵承珙が考えるに、首章に鄭箋が、 ﹁学子にし て 俱 に学校の中に在り、己れ留まり彼れ去り、故に隨 いて之を思うのみ﹂と言うが、思うに三章すべてにこ の意味がある。魏の武帝・曹操の﹁短歌行﹂に﹁青青 たる子が衿、悠悠たる我が心。但だ君が為の故に、沈 吟して今に至る﹂とあり、亦た詩篇の趣意と合うとこ ろがある。 ︶︹ ﹃毛詩後箋﹄巻 七 ︶44 ︵ ︺ 胡承珙は、鄭箋に拠りつつ、曹操の﹁短歌行﹂を﹁詩旨 と合する有るなり﹂と、南宋の王質に近づく。その他、厳
98 虞惇︵一六五〇│一七一三︶の﹃讀詩質疑﹄巻 七 ︶45 ︵ は、鄭箋 派 の 欧 陽 脩 と 蘇 轍 の 説 を 引 用 し て、 ﹁ 毛 傳 以 嗣 音 爲 嗣 習 誦 歌絃舞、亦不若氏說爲長︵毛伝は﹁嗣音﹂を﹁誦歌絃舞 を嗣ぎ習う﹂とするが、亦た鄭氏の説が優れていることに 及ばない︶ ﹂と、毛伝よりも鄭箋が優れているとする。 以上、清代には、明末より指摘される﹃朱傳﹄や毛序に 対 す る 議 論 が 継 続 す る と と も に、 ﹃ 朱 傳 ﹄ 以 前 の 議 論 が む しかえされ、追究されている。 七、おわりに 以上、漢代から清代にかけての子衿篇解釈の展開を整理 し、元明代の資料を補足した。 元・明・清の注釈について再度まとめれば、元代では梁 寅や劉瑾らのように﹃朱傳﹄をそのまま引用するか、また は胡一桂や李公凱らのように﹃朱傳﹄には触れずに宋代の 解釈を襲うかに止まり、解釈の展開は見られない。明代で は、 胡 廣 等 奉 勅 撰 の﹃ 詩 傳 大 全 ﹄ が 編 纂 さ れ、 ﹃ 詩 ﹄ 解 釈 に﹃朱傳﹄が重要視される一方、張次仲や李先芳が宋代の 程頤の解釈に拠る説を採用した。 さらには明末の郝敬が ﹁朱 子は﹃辞意 儇 薄にして、 之を学校に施せば、 似ず﹄と謂い、 改めて﹃淫奔﹄と為すは非なり﹂と、朱熹への批判を展開 する。清初の李光地に至ると、毛序と﹃朱傳﹄の両者を批 判 し て、 ﹁ 序 に﹃ 学 校 を 刺 る ﹄ と 謂 い、 ﹃ 朱 傳 ﹄ に﹃ 淫 奔 ﹄ と謂う者は、 詩意を詳にするも 俱 に顕証無し﹂ と断じた。 ﹃朱 傳﹄も含めた先行する注釈への批判的検討が、明末清初の 時期に積極的に行われていたことが確認できる。 本稿で得た子衿篇解釈の展開が他の詩篇においても同様 の変遷を経るのか、また、宋代の多様な展開と明末以降の 批 判 が、 ﹃ 詩 ﹄ 解 釈 史 の 中 で ど の よ う に 位 置 付 け ら れ る の かは、他の詩篇解釈の展開と合わせてより詳細に検討する 必要があり、今後の課題とする。 注 ︵ 1︶ 張 岩﹃ 詩 経 国 風 祭 詞 研 究 ﹄︵ 人 民 出 版 社 二 〇 一 四 ︶ 一 八六 -一九四頁。その他、劉二輝氏 ・ 高洪韜﹁ ︽鄭風 ・ 子衿︾ 主 旨 研 究 述 評 ﹂︵ ﹃ 詩 経 研 究 叢 刊 ﹄ 第 二 十 輯 所 収 学 苑 出 版 社 二〇一一 四四七 -四五二頁︶は、 刺学校廃説 ・ 淫奔説 ・ 愛情恋歌説の三項目に分類し、 魯洪生﹃詩経集校集注集評﹄ ︵ 現 代 出 版 社 二 〇 一 五 二 一 〇 三 頁 ︶ は、 刺 学 校 廃 説・ 思 友 説・ 淫 奔 之 詩 説・ 述 教 者 之 辞 説・ 朋 友 失 好 者 之 相 責 譲 説・ 君 子 傷 学 校 廃 説・ 鄭 子 産 不 毀 郷 校 説・ 師 責 弟 子 説・ 師 儒 憂 士 子 舍 業 嬉 遊 説・ 刺 学 校 失 教 説・ 妻 子 寄 衣 於 夫 説・ 規 諷 朋 友 荒 於 嬉 遊 説・ 淫 女 思 士 説・ 情 詩 恋 歌 説・ 厳 師 益 友 相 責相勉説の十五項目に分類する。
99 鄭風・子衿篇の解釈史(髙崎) ︵ 2︶ ﹃ 詩 ﹄ の テ キ ス ト は、 十 三 経 注 疏 本﹃ 重 栞 宋 本 毛 詩 注 疏 附校勘記﹄ ︵藝文印書館 一九五五︶に拠る。 ︵ 3︶ 王安石﹃詩義鉤沈﹄ ︵中華書局 一九八二︶ 。 ︵ 4︶ 程 顥・ 程 頤 撰・ 徐 必 達 編﹃ 二 程 全 書 ﹄︵ 中 文 出 版 社 一 九七二︶ 。 ︵ 5︶ 種 村 和 史 氏 は、 ﹁ 漸 層 法 を 多 用 し た 解 釈 は 程 頤 の 詩 経 解 釋 の 方 法 が 王 安 石 の そ れ と 共 通 性 を 持 っ て い る こ と を 示 す も の で あ る ﹂ と、 王 安 石 と 程 頤 の 共 通 点 を 指 摘 す る。 ︵﹁ 深 讀 み の 手 法 │ 程 頤 の 詩 經 解 釋 の 志 向 性 と そ の 宋 代 詩 經 學 史 に お け る 位 置 │ ﹂﹃ 慶 應 義 塾 大 学 日 吉 紀 要 中 国 研 究 ﹄ 四 二〇一一 三四頁︶ 。また、 王安石と程頤の説は、 呂祖謙 ︵一 一 三 七 │ 一 一 八 一 ︶﹃ 呂 氏 家 塾 讀 詩 記 ﹄ 巻 八 や 段 昌 武︵ 生 卒年不詳 十三世紀︶ ﹃毛詩集解﹄巻七に引用され、 ﹁賢者﹂ の視点による解釈が襲われている。 ︵ 6︶ 厳 粲﹃ 詩 緝 ﹄︵ ﹃ 北 京 図 書 館 古 籍 珍 本 叢 刊 ﹄ 所 収 味 経 堂 刻本 書目文獻出版社 一九八七︶ 。 ︵ 7︶ 戴 溪﹃ 續 呂 氏 家 塾 讀 詩 記 ﹄︵ ﹃ 叢 書 集 成 新 編 ﹄ 所 収 聚 珍 版叢書本 新文豐出版 一九八五︶ 。 ︵ 8︶ 袁 燮﹃ 絜 齋 毛 詩 經 筵 講 義 ﹄︵ 張 寿 鏞 編 纂﹃ 四 明 叢 書 ﹄ 所 収 新文豐出版 一九八八︶ 。 ︵ 9︶ 欧 陽 脩﹃ 詩 本 義 ﹄︵ 四 部 叢 刊 續 編 本 臺 灣 商 務 印 書 館 一九七六︶ 。 ︵ 10︶ 蘇 轍﹃ 詩 集 傳 ﹄︵ 宋 淳 煕 七 年 蘇 詡 筠 州 公 使 庫 刻 本 影 印 本 書目文獻出版社 一九九〇︶ 。 ︵ 11︶ 范 處 義﹃ 詩 補 傳 ﹄︵ 徐 乾 學 等 輯・ 納 蘭 成 徳 校 刊﹃ 通 志 堂 經 解 ﹄ 所 収 康 煕 一 九 年 刻 本 景 印 本 大 通 書 局 一 九 七 八︶ 。 ︵ 12︶ そ の 他、 楊 簡︵ 一 一 四 一 │ 一 二 二 六 ︶﹃ 慈 湖 詩 傳 ﹄ 巻 一 や 林 岊 ︵ 生 卒 年 不 詳、 十 二 世 紀 ︶﹃ 毛 詩 講 義 ﹄ 巻 三 も ま た、 ﹁学ぶ者﹂の思いが詠われると解釈する。 ︵ 13︶ 黃 震﹃ 黃 氏 日 抄 ﹄︵ 中 文 出 版 社 一 九 七 九 ︶。 黃 震 が 指 摘 す る 鄭 樵 に は、 子 衿 篇 に 関 す る 言 及 が 管 見 の 限 り 見 当 た ら ないため、本稿では取り上げない。 ︵ 14︶ 王 質﹃ 詩 總 聞 ﹄︵ 王 雲 五 主 編﹃ 叢 書 集 成 初 編 ﹄ 所 収 経 苑本排印本 商務印書館 一九三九︶ 。 ︵ 15︶ ﹃ 日 本 足 利 學 校 藏 宋 刊 明 州 本 六 臣 注 文 選 ﹄ 巻 二 七︵ 足 利 学 校 蔵 明 州 刊 本 人 民 文 學 出 版 社 二 〇 〇 八 ︶ に 収 め ら れ る﹁ 短 歌 行 ﹂ の 全 文 は 次 の 通 り で あ る。 ﹁ 對 酒 當 歌、 人 生 幾 何。 譬 如 朝 露、 去 日 苦 多。 當 以 慷、 憂 思 難 忘。 何 以 解 憂、 唯有杜康。靑靑子衿、 悠悠我心。但爲君故、 沈吟至今。 呦 呦 鹿 鳴、 食 野 之 苹。 我 有 嘉 賓、 鼓 瑟 吹 笙。 明 明 如 月、 何 時 可 掇。 憂 從 中 來、 不 可 斷 絕 。 越 陌 度 阡、 枉 用 相 存。 契 闊 談 讌、 心 念 舊 恩。 月 明 星 希、 烏 鵲 南 飛。 繞 樹 三 帀、 何 枝 可 依。山不厭髙、海不厭深。周公吐哺、天下歸心。 ﹂ ︵ 16︶ 朱熹﹃詩集傳﹄ ︵中華書局 一九六一︶ 。 ︵ 17︶ 朱 熹﹃ 詩 序 辨 說 ﹄︵ 早 稲 田 大 学 図 書 館 所 蔵 汲 古 閣 刻 毛 詩津逮本︶ 。 ︵ 18︶ 輔廣︵生卒年不詳、 十二世紀︶もまた朱熹の解釈を襲う。 ﹃ 詩 童 子 問 ﹄ 巻 二︵ 宮 内 廳 書 陵 部 藏 元 至 正 四 年 刻 本 影 印 本 綫装書局 二〇〇一︶に﹁此淫女其與私 者 、 旣無音問、
100 又不見其來。而極其怨思之辭也﹂とある。 ︵ 19︶ 黎靖徳編 ・ 王星賢點校 ﹃朱子語類﹄ ︵中華書局 一九八六︶ 。 ︵ 20︶ ﹃ 論 語 ﹄ の テ キ ス ト は、 十 三 経 注 疏 本﹃ 重 栞 宋 本 論 語 注 疏 附校勘記﹄ ︵藝文印書館 一九九六︶に拠る。 ︵ 21︶ 許 謙﹃ 詩 集 傳 名 物 鈔 ﹄︵ 李 山 主 編﹃ 元 代 古 籍 集 成 ﹄ 所 収 北京師範大学出版社 二〇一三︶ 。 ︵ 22︶ 梁寅﹃詩演義﹄ ︵四庫全書本 商務印書館︶ 。 ︵ 23︶ 劉 瑾﹃ 詩 傳 通 釋 ﹄︵ 李 山 主 編﹃ 元 代 古 籍 集 成 ﹄ 所 収 北 京師範大学出版社 二〇一三︶ 。 ︵ 24︶ 朱公遷﹃詩經疏義會通﹄ ︵四庫全書本 商務印書館︶ 。 ︵ 25︶ 胡 一 桂﹃ 詩 集 傳 附 録 纂 疏 ﹄︵ 李 山 主 編﹃ 元 代 古 籍 集 成 ﹄ 所収 北京師範大学出版社 二〇一三︶ 。 ︵ 26︶ 李 公 凱﹃ 直 音 傍 訓 毛 詩 句 解 ﹄︵ 李 山 主 編﹃ 元 代 古 籍 集 成 ﹄ 所収 北京師範大学出版社 二〇一二︶ 。 ︵ 27︶ 胡 廣 等 奉 勅 撰﹃ 詩 傳 大 全 ﹄︵ 東 北 大 学 附 属 図 書 館 所 蔵 狩野文庫本︶ 。 ︵ 28︶ 顧 夢 麟﹃ 詩 經 說 約 ﹄︵ ﹃ 中 央 研 究 院 中 國 文 哲 研 究 所 珍 本 古 籍叢刊﹄日本寛文九年刊本影印本 一九九六︶ 。 ︵ 29︶ 明代の ﹃詩﹄ 学については、 洪湛侯 ﹃詩経学史﹄ 上册 ︵中 華 書 局 二 〇 〇 二 ︶ 四 二 二 頁、 劉 立 志﹃ 詩 経 研 究 ﹄︵ 中 華 書局 二〇一一︶一三九頁に詳しい。 ︵ 30︶ 姚舜牧﹃重訂詩經疑問﹄ ︵四庫全書本 商務印書館︶ 。 ︵ 31︶ 張次仲﹃待軒詩記﹄ ︵四庫全書本 商務印書館︶ 。 ︵ 32︶ 李先芳﹃読詩私記﹄ ︵四庫全書本 商務印書館︶ 。 ︵ 33︶ 季本﹃詩說解頤﹄ ︵四庫全書本 商務印書館︶ 。 ︵ 34︶ 朱 謀 㙔 ﹃ 詩 故 ﹄︵ ﹃ 豫 章 叢 書 ﹄ 所 収 江 西 教 育 出 版 社 二 〇〇〇︶ 。 ︵ 35︶ 徐 光 啓 撰・ 鄧 志 峰 點 校﹃ 毛 詩 六 帖 講 意 ﹄︵ 上 海 古 籍 出 版 社 二〇一〇︶ 。 ︵ 36︶ 郝 敬﹃ 毛 詩 原 解 ﹄︵ ﹃ 叢 書 集 成 新 編 ﹄ 所 収 湖 北 叢 書 本 新文豐出版 一九八五︶ 。 ︵ 37︶ 朱 鶴 齢﹃ 詩 經 通 義 ﹄︵ 劉 暁 東・ 杜 澤 遜 編﹃ 清 經 解 三 編 ﹄ 所収 碧琳琅館叢書本 斉魯書社 二〇一一︶ 。 ︵ 38︶ 銭澄之撰 ・ 朱一清校點 ﹃田間詩學﹄ ︵黃山書社 二〇〇五︶ 。 ︵ 39︶ 李 光 地﹃ 詩 所 ﹄︵ ﹃ 榕 村 全 書 ﹄ 所 収 東 北 大 学 附 属 図 書 館 所蔵 道光九年刊本︶ 。 ︵ 40︶ 姚 際 恒 撰・ 顧 頡 剛 標 點﹃ 詩 經 通 論 ﹄︵ 中 央 研 究 院 中 國 文 哲研究所 一九九四︶ 。 ︵ 41︶ 方玉潤撰 ・ 李先耕點校 ﹃詩經原始﹄ ︵中華書局 一九八六︶ 。 ︵ 42︶ 陳啓源﹃毛詩稽古編﹄ ︵四庫全書本 商務印書館︶ 。 ︵ 43︶ 馬 瑞 辰 撰・ 陳 金 生 點 校﹃ 毛 詩 傳 箋 通 釋 ﹄︵ 中 華 書 局 一 九八九︶ 。 ︵ 44︶ 胡 承 珙 撰・ 郭 全 芝 校 點・ 賀 友 齡 審 訂﹃ 毛 詩 後 箋 ﹄︵ 黃 山 書社 一九九九︶ 。 ︵ 45︶ 厳虞惇﹃讀詩質疑﹄ ︵四庫全書本 商務印書館︶ 。