シベリア鉄道日記
著者
山田 仁史
雑誌名
東北宗教学
巻
15
ページ
285-305
発行年
2019-12-31
URL
http://hdl.handle.net/10097/00127445
シベリア鉄道日記
山田 仁史
はじめに ドイツに留学した5年弱は、夢のようにすぎ去った。無事に学位論文を提出、 受理され、口頭試験(Rigorosen)がすめば最終帰国という段になり、私はシ ベリア鉄道ルートという案を練りはじめた。 これでいったん、ヨーロッパを離れるのだ。今までの一時帰国とは違い、最 後ぐらいは空路ではなく鉄路で、ユーラシア大陸をゆっくり横断し、見聞を広 めるのもいいではないか。そんな想いもあった。また、そもそもミュンヘン大 学での指導教授パプロート先生(Hans-Joachim Paproth)はシベリアの熊祭に かんする著作のある民族学者で、そのゼミではシベリア諸民族について、くり 返し聞かされてもいた。間接的になじみのできたこの土地を、我と我が目でた しかめてみたい。そういう渇望も生じていた。 2003年3月、計画は実現した。1日(土)にミュンヘンを発って19日(水) に仙台到着。19日間にわたる旅の大部分、私は日記をつけていた。とともに、 写真は意図的に一枚も撮らなかった。当時まだデジタルカメラはさほど普及し ていなかったし──ついでに言えば携帯電話や、ましてや Wi-Fi もそうだっ た──、カメラのファインダーをのぞくのではなく自分の五感を総動員して周 囲と接し、文字で記述するよう、試みたいと企てたのだ。 ドイツで勉強していた間、私は民族誌(Ethnographie)をたくさん読んでいた。 民族誌とは言うまでもなく、民族(ἔθνος)を記述(γράφω)したものだ。読 書をしながら、この記述するということ──ドイツ語で言えば“beschreiben”, 英語なら“describe”──の難しさと魅力とを、私はひしひしと感じていた。 この旅では自分の観察したことを文字化する作業にまずは注力しようと、私は 想い出の場所心に決めた。以下は、そうして書きとめた日記である。臨場感が残るよう、今 回あまり大きな書き換えはほどこしていない。稚拙な部分も目につくが、当時 の私が見たこと、聞いたり感じたりしたことが、多少なりと伝わればうれしい。 出発の場面について少しだけ補足を。ミュンヘン生活の終わりごろは、中国 や韓国そして日本から来た留学生仲間たちと週末にサッカーをしたり、焼肉を つつきながらビールを飲み、語りあったりしていた。その友人たちが歓送会を し、ミュンヘン中央駅まで見送ってくれたのである。 3月2日(日) ブダペスト。昨夜、李さんの所で餃子で送り出してもらった(中国では別れ には餃子、迎える時には麺なのだとか)。他の友人たちとも別れの盃をくみ交 わし、その後サムがミュンヘン中央駅まで車で送ってくれた。マホさんも一緒 に。マホさんはプラットフォームで泣き出してしまった。美男美女カップルの サムとマホさん、前途に幸あれ。私は23時44分発の夜行に乗り、しばらく寝た。 9時09分、ブダペストに着いた。車内で朝食も出たのはうれしかった。オー ストリアとハンガリーの国境では両国によるパスポート検査(Passkontrolle) があったがすぐに終了。ハンガリーは平原が多いという印象を受ける。シシィ (Sissi)の愛称で知られた王妃エリーザベトはやんちゃで、ハンガリーと乗馬 を好んだという。彼女もここを駆けめぐったのだろうか……。 駅で、ネメト・バリ(Nemeth Vali)というおばさんがゲストハウスをやっ ていると聞く。行ってみると日本人・韓国人を専門に泊めている宿で、いろい ろ親切にしてくれたので助かった。バックパッカーには有名らしい。 午前中、民族学博物館へ。ハンガリーの民俗についてのまとまった、いい展 示がある。その後、国立博物館へ。こちらではハンガリー史を20に区分して、 展示していた。 いったん戻り、夕食に出て、宿のそばの小さいハンガリー料理屋兼居酒屋へ。 そこで飲んでいたスコットランド人のじいさんデイヴィッド・ブレイス(David Brace)と知り合い、いろいろ話した。なんでも戦後の1952年ころ、軍の関係
で日本にいたそうだ。爆弾から信管をとりのぞく(defuse)作業をしていたら しい。シベリア鉄道に乗る予定を話すと、「ロシアは危ない、みんなマフィア か“gangster”だ、気をつけろ」と眉をしかめる。それから「蛍の光」で知ら れる詩人ロバート・バーンズ(彼は親しみをこめ“Robbie”と呼ぶ)にも話が およんだ。 3月3日(月) 今日、日本はひな祭。仙台の我が家では人形をかざっているのだろうか。ブ ダペストで気づいたこといくつか。物価は安い。今日の昼のメニューは550 Forintだった。1ユーロが250 Forint くらいだから、2ユーロちょっと。経済 的には決して豊かではないようだ。市内を歩いていると、19・20世紀の転換期 (Jahrhundertwende)ころのものと思われる建物がたくさんある。戦災にあわ なかったのだろう。けれど汚れと傷みがひどく、崩れてきても歩行者に危害が 及ばないよう、木材を組んで工事現場のように建物の下側に屋根を設けている 所もあった。 ドイツ資本もだいぶ入っている様子。スーパーマーケットの Penny, Spar, Plusとか日曜大工用品の OBI や Praktiker の看板も見かけた。しかしドイツ語 はあまり通じない。主な名所の標識には英語と並んでドイツ語も併記されてい ることが多いとはいえ、人と話すのは英語の方がいいようだ。 古本屋が何軒か、国立博物館の向いにあるので入ってみたが、ドイツ語の本 は数も少なく、継子扱いされているような印象だ。 今、夕方の5時。これから今日の夕食と飲み物・食料・アメを少し買い込ん で、19時25分の列車に乗る。2泊3日かけ、スロヴァキア、ポーランド、ベラ ルーシを経てサンクト・ペテルブルクへ。本物の“Abenteuer”(冒険)がこれ から始まろうとしている。治安がどうかわからないのだから、用心しなくては。 3月5日(水) さっそくアクシデント──3日の晩、列車に乗り遅れてしまった!仕方なく
バリさんの所にもう一泊し、昨晩の列車でブダペストを発つ。車内で寝て、今 朝4時すぎにポーランドのカトヴィツェ(Katowice)到着。途中、スロヴァキ アの南と北の国境でパスポート検査があった。 吹きさらしの、寒いプラットフォームで列車を待つ。ポーランド語でプラッ トフォームを“peron”という。時刻表には、5時13分発モスクワ行きの列車 は“peron 4”から出るとあったので、待っていた。ところが5時を過ぎても 来ない。とそこへ、“peron 3”に停車した列車がある。青と赤の車体がどうも ロシアの国旗を連想させるので、もしやプラットフォームの変更かと行ってみ ると、果たしてそのとおりだった。 しかし我がチケットは昨日の乗り逃しのためすでに無効。二、三人の車掌に 当たったがなかなか乗せてもらえない。いよいよ発車直前というところで一人 の車掌に頼みこみ、何とか乗車許可が下り、車内で支払いをした。幸い寝台車 のキャビンが一つ空いていたので、個室として使えることになった。 ポーランドとベラルーシの国境で再びパスポート検査。そしてベラルーシ側 の町ブレスト(Brest)では、ロシア連邦入国のための税関申告書を提出させ られる。その上、すでに取っていたベラルーシのビザだけでなく、ロシアのビ ザにもハンコを押された。ここからロシアなのだという思いが深まる。窓の外 は雪景色。しかし車内は暖房が効いており、半袖で十分だ。 ブレスト駅では、プラットフォームで待ちかまえていたおばさんたちがどっ と車内に入ってきた。中には母娘連れのような姿もある。手に手に買物袋のよ うなのを提げ、一人がキャビンに入ってきた。そして袋の中からリンゴや酢漬 けのキュウリ、焼きたての鶏肉、ゆでたジャガイモや、マッシュポテトのフラ イ、パン、ウォトカ、ミネラルウォーターなどを出して勧めてくる。少しドイ ツ語もできる。結局これらを少し買いこみ、10ユーロをわたした。 その後、旧ソ連とポーランドの線路の幅がちがうというので、車輪のつけか えが行われる。車両の整備場のような屋根のついた吹き抜けの構内に入り、乗 客を乗せたままで今、その作業がされているところだ。
3月6日(木) 昨夜はベラルーシの首都ミンスクを通り、オルシャ(Orša)まで行って乗り 換えた。切符を買いたかったが英語もドイツ語も通じないので困っていると、 ちょうどサンクト・ペテルブルクまで行くという青年が助けてくれた。ここで 切符代に足りるだけのお金を両替し、列車に乗り込む。夜中の零時に出る列車。 入ってみて驚いた──まるでユダヤ人がかつて運ばれたのもかくやと思える ような代物だ。コンパートメントの仕切りはあるものの、ドアなどは一切なし。 進行方向にむかった右側の窓に沿って、進行方向と平行にベッドが2段置かれ、 その上は荷物台。その横に通路があり、反対側の窓の方には、進行方向と垂直 に2段ベッドが2つ、向かい合って置かれている。その上にはやはり荷物台。 こうして、6つのベッドと3つの荷物台が1つのユニットを構成し、1車両に は6、7ほどもユニットがあったろうか。 私が車内に入って行った時には、ほとんどのベッドはふさがっており、かろ うじて私は空いたベッドにもぐり込んだのだった。 今日の昼12時30分、サンクト・ペテルブルク着。すでにドイツやハンガリー とは2時間の時差がある。日本とは6時間の時差だ。 駅からタクシーで、ネヴァ川の河畔にあるオフチンスカヤ(Okhtinskaya) ホテルへ。30分くらいかかる。ネヴァ川は凍っていて、氷の上に雪が積もって いる。ホテルで、モスクワの旅行代理店と電話連絡。そして両替。1ユーロが 34ルーブルくらい。ベラルーシのお札が少し残っていたが、もう使えなくなっ てしまった。 荷 物 を ホ テ ル に 置 き、 バ ス( 6 ル ー ブ ル ) で 民 族 誌 博 物 館(Музей Этнографический = Ethnographisches Museum)へ。ロシアの諸民族についての、 とてもまとまった展示がある。アムール地域と極東の諸民族、ブリヤート、ヤ クート、エヴェンキ、ロシア人など、いくつかのセクションごとに、さらに細 かいテーマ(住居、シャマニズム、狩猟、トナカイ飼養などなど)に分けて展 示している。残念ながらカタログ売店が閉まっていて何も購入できなかった。 よいカタログが外から見えたのに……。明日、もう一つの博物館で見つかると
よいが……。博物館から出て、腹がへっていたので、ネフスキー大通りで路上 に売店を出しているおばさんからピロシキ(揚げパン)を買って食べる。熱々 で、中にマッシュポテトの入ったのと肉の入ったのと、二個。うまい。 3月7日(金) 今、夜の10時半。サンクト・ペテルブルクのモスクワ駅(モスクワ行きの列 車が出る駅)にいる。この後23時55分発の「赤い矢」号でモスクワへ向かう。 この町の印象を少し。壮麗な町だ。建物も、それに聞いてはいたが地下鉄 (метро)の駅も。博物館や郵便局も、ロマノフ朝の栄華を今によく残している。 そしてまた建物も、ブダペストで見たのに比べてよく持っている。汚れをとっ ても傷みをとっても、ここの方がよく保存・手入れされている印象を受ける。 ただ道路はデコボコで、そこを古い型の路面電車がガタゴトときしむ音をたて ながら走っている。バスはドイツのお下がりをもらった物いくつかに乗った。 “Wagen hält”(停車します)のような表示でそれと推定できるのだ。ただ、 今日の夕方に乗ったバスの運転手は青年だったが、クラシック音楽のメドレー を車内に流していたのは、この町の持つ気品と何となく調和しているようで気 持ちがよかった(台湾の運ちゃんなら演歌を流すところだ)。 ソ連崩壊から10年少しとはいえ、街には物がよく行きわたっているように見 える──店員のサービスの悪さは相変わらずのようだけれども。面白いのは、 女性のスカート着用率がドイツより格段に高いこと。ミニスカートも多い(ド イツなら売春婦と見なされるだろう)。この辺の感覚は東アジアと近いのかも しれない。もっとも、この寒さで身体をすっぽり厚いコートに包み、帽子まで かぶったら、その辺しか女性らしさをアピールできる余地はないのかもしれぬ。 今日はまず、ネフスキー大通りの突き当たりからネヴァ川を渡った所にある 人類学・民族学博物館に行った。もとはピョートル大帝のコレクションなどを 蔵するクンストカメラ。大帝の趣味をうかがわせる奇形児のホルマリン漬けや 大男の人骨など、グロテスクなものもあった。しかしともかく、大帝が学術・ 芸術にも広い興味をもつ開明君主だったことはよくわかる。彼自身、17世紀末
のアムステルダムに留学するなどして見聞を広げたのだという。展示としては、 北米のものが充実していた。ことにエスキモー、アレウト、アタパスカン、北 西海岸、プレーンズ、カリフォルニアなど、文化領域ごとの、まとまった展示 だった。展示の仕方は「旧態依然」と批判する向きもいるかもしれないが、私 はなかなかいいと思う。このほか、日本の展示も充実していた(大黒屋光太夫 がエカテリーナに拝謁したことも関連しているらしい)。他には、中国、中央 アジア、インド、インドネシアの物もあったが充実度は劣っていた。ロシア領 内の民族については昨日見た方の民族誌博物館にあったので、「棲み分け」し ていることがわかる。 その、昨日見た方の博物館にもう一度行ってみた。カタログが今日の博物館 には置かれていなかったからだ。やはり昨日と同じく、担当者がいないので売 れないとの返事。しかしここで引き下がりたくないと思い、ドイツ語でもって、 どうしても欲しいと強調した。「自分は民族学を研究していて、しかもこの町 には今日しかいないのだ」と。幸い入口のおばさんはドイツ語を少しだけ解し たので、もっとドイツ語ができる係員をしぶしぶ呼んでくれて、ようやく欲し かった二冊が手に入った。一冊は薄いガイドブック、もう一冊は去年この博物 館の百周年を記念して作られた大冊だった。隣で、やはり薄い方の冊子を買っ た中年男性は販売員の女性とロシア語でやりとりしている。もとはフランス生 まれだが今はイタリアのローマで歴史の教師をしている、と流暢な英語で話し てくれた。こういう人がヨーロッパにはしばしばいる。ユダヤ系だろうか。 この後、エルミタージュに入った。中央アジア考古学についての(クルガン や文身されたミイラなども含む)よい展示があったが、それについてのカタロ グはない。エカテリーナがたくさん集めたとみえて、18世紀までのヨーロッパ 各国の絵画コレクションは充実している。新しいもの(たとえばカスパー・ダー ヴィド・フリードリヒとかピカソとか)も少なくなかった。 エルミタージュを出たら、博物館の横でヒゲ面の男が、子熊に口枷をし、鎖 でつないだのを見せ物にしてカネを取っている。この後ネフスキー大通りでも、 10歳くらいの少年が同じ見せ物をしていた。少年と相撲を取ったとしても、ま
だかなわないくらいの小さな子熊だ。 夕食は中華料理屋に入った。江蘇から単独で来たという25歳のボーイと中国 語で雑談。なんでもこのレストランのオーナーは彼の父の友人だそうだ。来て からまだ3か月だという。ロシア語はほとんどできない。明日8日は国際的に 「婦女節」(Women s Day)だ、と。それで町ゆく人々が手に手に花束を持っ ていたのか……? この料理店には大勢のロシア人少女たちが従業員として働 いている。その一人は中央アジア系のようだった。一見中国人のようだが、い くらか面だちがくっきりしているのだ。 帰りにホテルから駅まで乗ったタクシーの運転手によれば、今年はサンク ト・ペテルブルクの300年記念の年なのだという。1703年といえばピョートル 大帝の時代。それからエカテリーナ女帝の時代、何度かの革命と、歴史を見つ めてきた街。1825年のデカブリストの乱で、青年貴族たちが集まった広場も見 た。エルミタージュの中には、1917年10月の革命の際、市民や農民たちがなだ れこんで駆け上がったという「十月階段」もあった。 不思議な魅力をもつ町だなと思う。運河や水路が多いので「北のベニス」と の愛称もあるそうだが、ヴェネチアのように水路が重要な交通手段として日常 的に使われていたようには見えない。家々と水路との間には少し距離があるし、 何より冬には水路も凍結してしまうのだから。 今回の滞在中、気温は零下1∼6度くらい。道路には10センチから、場所に よっては20センチもの厚さに踏み固められた氷の層ができていて、歩くのは 少々危険だった。 3月8日(土) ミュンヘンを発ってから一週間。密度の濃い一週間だった。すっかり旅の人 になっている。昨日書き忘れたが、人類学者の坪井正五郎はサンクト・ペテル ブルクで客死したのだった。それにまた、街行く人々やレストランで食事をす る人たちを見るにつけ、ラッツェルがその著 Völkerkunde(『民族学』)に、「ロ シア人はピョートル大帝の時代まで“Naturvolk”(自然民族)だった」と書い
ていたことも、ふと思い出す。たしかにドイツより、素朴な印象を与える 人々……。 さて昨夜はサンクト・ペテルブルクからモスクワまでの車内で、思わぬ幸運 に出会った。同じコンパートメントに、ブリヤート人のスラヴァ(Slava)と いう名の警察官と、その娘で今度高校3年生になるサヤナ(Sayana)が乗って いたのだ。スラヴァ氏は力士によくいそうな堂々たる体軀の持ち主。サヤナは あのサヤン山脈にちなんだ名なのだろう。現代っ子という感じで、ジーンズを 履きこなした、長身の女の子だ。彼らはウラン・ウデに住んでおり、今回は旅 行に来たのだという。さっそくウォトカでスラヴァ氏と酒盛りになった。面白 いことに、彼は飲みはじめる前に一、二滴を窓枠とかテーブルの上に垂らして いた。ああ、ウノ・ハルヴァも『シャマニズム』に書いていたあの慣習だ。ま ず祖先や神霊に酒食を捧げてから、自分が口にするのだ。 スラヴァ氏はブリヤート語はもちろん、モンゴル語も少しできる。娘との会 話はロシア語。サヤナはロシア語のみ。とはいえ学校で習った英語を使い、私 とスラヴァ氏の間の通訳をしてくれた。今ではユルタ(天幕)など使われてい ないとか、日本にもブリヤート出身の力士が来ているとか、いろんな話に花が 咲いた。サヤナは、日本ってきれいな国なんでしょう、と聞いてきた。そう思 うよ、と私は答えた。 サヤナはモスクワ大学で勉強したいのだと言う。ウラン・ウデにもいくつか 大学があるそうだが。何というか、ロシアと中央アジア諸民族との政治経済的 な結びつきの深さを思わされる。 とてもいい人たちで、プレゼントとしてユルタの刺繡入りの壁掛けとブリ ヤート出身の歌手のカセットテープをくれたり、一緒にパンなどを食べたりし て、ついついウォトカを飲み過ぎてしまった。 その後、横になったが、胃が引っくり返りそうだ。トイレに何度も行っては、 胃の中の物をみな吐いてしまった。 今日になっても胃の調子はなおらず、体もだるい。幸い、彼らの友だちでモ スクワに住んでいるブリヤート人のバイル氏が車で駅まで来てくれていたので、
それに便乗してホテル・ロシヤ(Hotel Rossija)まで送ってもらった。何枚か 記念写真も撮った。とてもいい人たちだった。 ホテル・ロシヤは巨大なホテルで、モスクワの中心にあたるクレムリンに向 かい合うように建っている。運よく西側の部屋を割りあてられたので、窓から クレムリンも、聖ワシリー聖堂もよく見える。 部屋に入り、まだ体がだるいので夕方までベッドで休み、夕方になって仙台 の実家に国際電話をする。 それからようやく外出。もう暗くなっていて、クレムリンはライトアップさ れている。ロシアの国旗がはためいている。派手なワシリー大聖堂の前では何 やらお祭をしている。「婦女節」のか、カーニバルか……? しばらく散歩。 赤の広場、レーニン廟、無名戦士の墓。第二次大戦の英霊の墓を前に、複雑な 思いがこみあげる。日露戦争といい、第一次大戦とそれに続くシベリア出兵と いい、第二次大戦といい、常に日本と戦ってきたロシア。その兵士たちがここ に眠るのだ。かつての敵ながら、愛する祖国と家族のために死んでいった彼ら に哀悼の意を表する。 手ごろなレストランでもないかと、トヴェルスカヤ(Тверская)通りを歩く。 モスクワの街はクレムリンを中心に、放射状に大通りが何本か伸び、ダーツの 的のように環状道路が2本ぐるっと囲む形になっている。トヴェルスカヤ通り はそのうちの一本だ。メトロの駅に入ると、土曜の夜だからか、人でごった返 し て い る。 汚 い。 割 れ た ビ ー ル 瓶 な ど が 散 ら か っ て い る。 男 た ち の “Alkoholismus”(アル中ぶり)も相当ひどい。ただ、エネルギーが満ちてい るようにも感じる。熱気。 街は、それを除けばおおむねきれいに整っている。モノも充実しているよう だ。社会主義時代もモスクワにだけはモノがあった、というのは本当かもしれ ぬと思う。この街は裕福そうに見える。ただ、地方都市とのギャップは大きい のかもしれない。サンクト・ペテルブルクと比べても、モスクワの方が金持ち に見える。そしてこの街では、見るもの見るものが壮大で、劇場的だ。国家の 威信を演出する劇場都市、か……。さすがは演劇の国と言うべきだろうか。建
物に彫りこまれた人物像、プーシキンやマヤコフスキーの像……。 本屋があり、まだ開いていたので入ってみた。古書もある。美麗な本の数々。 人類学者の鳥居龍蔵が例のシベリア出兵(1919年)に乗じて東シベリアを探検 しつつ集めたのは、こういうような本だったか、などと想像する。 ところでロシア料理には、中央アジアからの影響も強いようだ。ケバブがレ ストランのメニューにあった。結局ホテルのレストランで食べたのだが、男女 の歌手の生演奏つきだった。しかも大音量! ロシアにはこういうのが多いら しい。雇用対策、というわけでもあるまいが……。 中央アジア出身の兵士らしき少年も見かけたし、街を歩いていても時折それ らしき人を目にする。 そうそう、中国のことはロシア語でキタイ(Китай)というのだ。キャセイ 航空のキャセイ。「契丹」に由来して、トルコ語とも一緒だ。 3月9日(日) 今日は体調が戻ったので、朝から歩き回ることにした。 その前にホテルのテレビで、プーチンの諷刺を歌う3人組の少女グループの ビデオ・クリップを見た。こういうのも出てきているのだ。ドイツでも首相の シュレーダー批判を歌う青年が人気だったが、日本ではこういう政治批判を歌 にするのは少ないような……。 街には至るところに、“ТЕАТР”の表示がある。これは演劇の切符を売るス タンド。今月の各劇場のスケジュールがびっしりと出ている。さすが演劇の街。 今日のところを見るとトルストイの『アンナ・カレーニナ』もあるが、12時か らというので、やめた。イルクーツクかハバロフスクで何か観られたらいいな と思う。 ここでは日曜でも店が開いている。ドーム・クニーギ(Дом Книги 本の家) という書店に入り、こちらの中学生用のロシア地図帳を購入。民族分布図など も出ている、面白いものだ。しかしこのドーム・クニーギ、欧州最大の書店と いう宣伝のわりには、そんなに大きくはない。ミュンヘンのフーゲンドゥーベ
ル(Hugendubel)とかフランスのフナック(Fnac)の方が大きいように思うが。 それと、今回泊まったホテル・ロシヤもヨーロッパ最大のホテルという。確か に規模から言えばそうなのかもしれぬが、あの接客態度はいただけない。 散歩は旧KGB本部から出発。ボリショイ劇場、旧ゴスプラン(国家計画委 員会)を通りすぎる。そこからモホヴァヤ(Моховая)通りに入り、右手にモ スクワ大学旧館、さらにロシア国立図書館を見る。これまた巨大な建築で、外 壁のレリーフにはトルストイやマヤコフスキーといった文人の顔の浮彫がある。 次に新アルバート通りで本の家に入ったことはもう書いた。ずっとモスクワ 川のほとりまで歩くと、旧コメコン本部の、ちょっと変わった形のビルが見え てくる。今はさびれた雰囲気のビルだ。それに接するように、ロシア連邦内閣 ビル、つまり東のホワイト・ハウス。川の向うにスターリン様式のウクライナ・ ホテルが見える。 さらに歩いてメトロのスモーレンスカヤ駅へ。道路の向うには外務省の、こ れまた威圧的なビル。駅近くのスタンドで“донер”(ドーネル・ケバブ)を 食べる。中央アジア的な顔だちのおばさんがやっている。ドイツのケバブのよ うなパンではなく、クレープの皮のようなのに包んであって、とても口に合う。 聞きしにまさるメトロの駅。たしかに豪華だ。シャンデリアといい、天井の 高さといい、ちょっとした劇場だ。ただ、今日行ってみたもう一つの駅に防火 扉があるのを見て、もしかして地下鉄の駅は、非常時には防空壕・シェルター として使えるよう設計されているのではないか、という思いつきがよぎった。 恐らくその程度のことは想定されていても、不思議ではあるまい。 スモーレンスカヤからメトロでモスクワ大学へ。これもスターリン様式。 1953年に完成し、旧館からここに移ったわけだ。モスクワ市街を見おろすヴァ ラビョーヴィ丘(Воробъёы Горы)にあるこの大学は、ちょうど片平の旧キャ ンパスから青葉山に移った東北大と似ている──ただし東北大には、こういう シンボル的存在の建物が存在しないが。キャンパスを歩いていると、白樺の並 木が北国を感じさせる。 再び市の中心に戻り、文化人の集まるという大ニキーツカヤ通りを歩く。
チャイコフスキー記念モスクワ音楽院で何かコンサートが終わったところらし く、人々が出てくる。ラフマニノフやスクリャービン、プロコフィエフらが育っ た音楽の殿堂。ここで学ぶ日本人もいまだに後を絶たないという。 さらに進むと右手に旧タス通信社。その向いのカフェで今これを書いている。 3月11日(火) シベリア鉄道で二晩をすごした。モスクワで乗車する前、食料を十分に買い こめなかったのがやや不安だったが、それは無用の心配だった。車内には少し 高めの食堂車のほか、車内販売も時々回ってくるし、駅に停車すると近所のお ばさんたちや子供たちがプラットフォームで食料品などを持って待ちかまえて いる。干し魚とか自家製ソーセージ、リンゴ、パン、ピロシキといった自然な ものが多い。 同じコンパートメントに乗り合わせたのは、イギリス人で歴史学を勉強して いる21歳の学生ジェイミー(Jamie)だった。英語の話せる人と同室でよかった。 何せ四泊の旅。言葉の通じないロシア人と一緒だったらくたびれそうだ。 ジェイミーの父は香港の大学で講師をしており、自分もそこで生まれたと言 う。そして13歳まで住んでいたが、白人というので目立ち、子供たちの間でい じめに遭ったりもしたようだ。彼が欧州人には珍しいほど愛想笑いが多いよう に見えるのは、そのためだろうか? そして彼の父は香港でガールフレンドを 持ち、4歳になる異母弟もいるのだという。複雑な──とは言ってもヨーロッ パではさほど稀ではないが──家庭の事情があるのだなと思う。 隣のコンパートメントに、もう一人のジェイミー(James)が乗っている。 ロンドンでダイヤモンド関係の会社に勤めているという彼は、アントワープ、 テルアビブなど、世界各地を転々としているらしい。“Nüchtern”な(醒めた) 印象を与える男だ。昨日は三人で一緒に、このコンパートメントで食べ物を分 けあって昼食をとり、いろいろ話をした。 二人のジェイミーは、イルクーツクで下車した後、ウランバートルを経て北 京へ行くところ。若いジェイミーの方はその後、父のいる香港へ。なんでも、
修士課程で中国現代史をあつかう予定で、そのために中国語が必要なので香港 で半年、北京で半年の語学研修を受けるのだという。 車内はなかなか快適だ。女性車掌はよく働き、頻繁に掃除をしている。窓の 外は雪と、白樺・松・杉の林(部分的には人工的な防風林か)。車内は半袖の Tシャツで十分なくらい、暖房が効いている。各車両にはサモワール(給湯器) が備わっており、自由に使える。この次に旅行する人がいたら、マグカップと 粉末スープ、カップヌードル、箸の持参をすすめたい。 昨夜、というより今朝早く、列車はウラル山脈を越え(と言っても標高500 メートルくらいの地点を)、いよいよアジアに入った。寝ていたため、ヨーロッ パとアジアの境界に立つオベリスクは見ることができなかった。が、少しずつ ふるさとに近づいていることを実感する。こういう旅もよいものだ。 今、モスクワとの時差は2時間。次の停車駅は、アレクサンダー・フォン・ フンボルトも訪れたイシム(Ишим)。モスクワから2428キロメートル。ハバ ロフスクまでは8453キロメートルだから、もう四分の一以上は旅したことにな る。 午後、しばらく通路に出て窓の外を眺めていた。一面の雪原と白樺林。複線 の線路に近づいたり離れたりしながら、除雪された道路が走っている。それと ても、車一台分が通れるくらいの幅しかなく、所々に幅を広げた場所があり、 対向車がよけられるようになっている。が車も人も、ほとんど見えない。30分 くらいの間に、小型トラックを一台見ただけだ。人もいない。処女雪。誰の足 跡もない雪原だ。時々、集落がある。木造の小屋を付属した家々、白い煙をあ げる木材工場、電線、道路、ときどき車。 もうすぐオムスクに着く。モスクワから2716キロメートル。現地時間16時半 すぎに着き(モスクワの13時半すぎ)、20分くらい停車。ドストエフスキーが 1849年に政治犯として流刑に遭い、四年間の重労働に服した町。ここから南へ ちょっと行けばカザフスタンだ。
3月12日(水) 同じ車両に、イルクーツクから来たという9歳の少年ペーチャが乗っている。 通路でよく会うので話したかったが、ロシア語がわからない。会話集を頼りに、 ちょっとだけ喋ることができた。折り鶴を作ってやると、喜んでいた。 昨夜の夜中、ジェイミーとウォトカをちびちび飲みつついろいろ話した。真 夜中すぎに窓の外を見ていたら、急に霧が深くなった。おかしいな、と二人で いぶかっていると、長い鉄橋にさしかかった。それがオビ川だった。鉄橋を越 えた列車はノヴォシビルスクのホームに入り、私は眠りについた。 今日、ペーチャは退屈なようで、ずっと私たちのコンパートメントに来てい る。しかし彼の言葉がわからない我々としては、なかなか対応に苦労する。ペー チャのお母さんはちょっと顔を出して、どうもすみませんねえ、というような ことを言った後、また自分のコンパートメントに戻ってしまった。 クラスノヤルスクを越え、1キロほども幅のあるエニセイ川を越えた所で、 急に山がちな風景になってきた。ここから列車は東サヤン山脈の北側にそって 走ってゆく。 3月13日(木) 今朝イルクーツクに着いた。「シベリアのパリ」とも言われるそうだが、木 造の家々なども残っていて、田舎の都市という感じは否めない。1919年に鳥居 龍蔵がここを訪れた時は、どんなだったのだろう。 バイカル湖から流れ出てこの市を通り抜ける大河、アンガラ川──冬でも凍 らないこの川は、水蒸気をあげ、滔々と豊かな水をたたえつつ流れてゆく。釣 り人が数人、河岸に立っているのが見える。 ここはすぐ隣にウラン・ウデもあり、南はトゥバ、そしてウラン・ウデから はモンゴル、北京へ抜けることができるわけで、モンゴル系の人々を多く見た。 百貨店に隣接する大きい市場にも入ってみたら、ここは物資の集散地だという ことがよくわかる。漢字の簡体字が書かれた段ボール箱もたくさんある。魚や 肉のほか、燻製の魚、ソーセージやハムといった加工品、酸乳、チーズなど遊
牧民の特産品もあれば、漬物や惣菜を売る、どうやら朝鮮系の人々もいる。彼 らから私はキムチを買いこんだ。果物としてはリンゴ、オレンジ、ザクロなど など。いろいろなナッツや、スイカの種などもある。 鳥居もかつて訪れた民族誌博物館は、こぢんまりとしていた。ブリヤートや ヤクート、エヴェンキについての展示のほか、マリタ遺跡をはじめとする中央 アジア考古学にかんする展示もあった。 今日はこの後、ゆっくり眠る間もなく早朝発の列車でハバロフスクへ向かう。 日曜の午後に到着予定。もはや日本との時差は1時間、台湾との時差はない。 急に東アジアがぐんと身近になった。夕食をとったホテルのレストランには、 韓国人、日本人、そして(おそらく)モンゴル人が見られた。 3月14日(金) 再び車内にて。昨夜はほとんど眠れなかった。未明3時36分発、ウラジオス トク行きの列車に乗らねばならなかったためだ。その前の晩もあまり寝ていな かった。ジェイミーといろいろ話したし、朝9時すぎにはイルクーツクに着い てしまったからだ。 だから乗車後、ほんとうはすぐに眠りたいほど疲れていた。しかしバイカル 湖をどうしても見たくて、しばらくの間、窓にもたれて目を凝らしていた。氷 点下13度のイルクーツクを発車した後、窓の外の夜闇には森林が見えているだ けだった。満天の星空の下、私は疲れた頭と体をかろうじて支えながら、ぼん やりとその景色を眺めていた。通路に出ているのは私だけで、他の乗客はみな 眠っている。それはそうだ、未明の4時すぎなのだから。 やがて森林がとぎれ、山並みの向こうに真白な、広大な平面が見えてきた。 バイカル湖だ! 凍結し、雪をかぶった湖面は半月の光に照らされて、なにか 神秘的に見える。ブリヤートの人たちはこの湖をどんな思いで見つめてきたの だろう……。そんなことを考えつつ、私は深い眠りについた。 8時頃に目覚め、はっとした。もう湖が見えなくなっているかも、とあわて て、すぐ通路に出てみた。すると何と、目の前には雪に覆われた湖面がまだ、
広々と見えていた。そして湖畔は線路のすぐ間近まで迫ってきている。巨大だ な、と思う。水平線が彼方に見えていた。 コンパートメントでは、ナーデャおばあさんと同室になった。退屈しのぎに、 ずっとクロスワードパズルをやっている。ドイツでも、暇つぶしにクロスワー ドをしている年配の人を時々見かけることがあった。 ウラジオストクまで行くという。ナホトカに住んでいる、とも。会話集を見 ながらの私のロシア語では、これだけ聞きとるのでさえやっとだ。ナホトカに は日本人が多かったためだろう、日本語の単語を少し知っていると言い、「魚」 「砂糖」「箸」「一、二、三、四、五」という言葉をそらんじてみせた。寡黙だ が、やさしそうなおばあさんでよかった。 列車は現地時間の午後11時すぎ、ウラン・ウデに着いた。ブリヤート自治共 和国の首都だが、ここの人口のうちブリヤート人は四分の一にすぎないという。 その後、モスクワとの時差は6時間になった。列車は、シベリア鉄道全線の 中で最も高度のある地点へ向かって走る。天気は快晴。板を組んで造られた家々 が時々見える。柵をめぐらしたこれらの家では、牛や羊を飼っている。小規模 な牧畜だ。田舎道のへりに腰をおろし、おしゃべりしている人たちがいる。手 をつないで歩いてゆく子供の姿も見える。私にとっては一生に一度あるかない かという体験であるこの旅。その車窓から見かけたこれらの人々はしかし、日 常を淡々と過ごしているにすぎないのだ。旅の本質はこの辺りにも存する。非 日常の自分と、日常を生きる現地の人々との境界を絶えず意識させられ、己の あり方を相対化するきっかけを持てること。それが旅の醍醐味のひとつだ。 現地時間で午後の5時すぎ。あと1時間ばかりで次の停車駅、モグゾン (Могзон)に着く。この辺りは盆地のような地形で、山に囲まれて草原が広 がり、ときどき灌木の茂みや針葉樹林に出くわす。牛の群が時おり見える。雪 は薄く積もっている程度。山並みにも薄化粧ほどの雪しかない。 頻繁に貨物列車とすれ違う。車中はと言えば、通路で窓から外を見る人、コ ンパートメントの中で昼寝する人、ラジオの物憂げな音楽を聞く人、などさま ざまだ。車内販売が一度回ってくる。私は例の韓国製カップ麺(「辛」ブラン
ドの)を一つ買う。27ルーブル。同室のナーデャおばあさんは持参してきたク ロスワードを全て解ききってしまい、しばらく退屈そうにしていたが、どこか らかまた新しいのを手に入れて来て、精力的にそれに取り組んでいる。 今回のこの列車はノヴォシビルスク発、ウラジオストク行きという中途半端 な区間を走るので、乗客の大半はロシア人のようだ。 3月15日(土) 現地時間で午後2時前。列車はアマザル駅を出て、シルカ川の北を東へ向け て走っている。また少し積雪が多くなってきた。景色は森林。アマザル駅で、 日本の千歳飴のようなのを売っていたので買ってみると、ガムだった。少しず つポキンと折って嚙むのだ。味は無味に近い。ナーデャおばあさんにあげると、 喜んで嚙んでいる──相変わらずクロスワードを解きながら。 昨日の午後から、同室にやさしそうなおじさんが入っている。にこやかな人 だ。アマザル駅で私が買ったケフィール(醱酵乳飲料)はパックが少し膨張し ていたので、もう悪くなっているかもと思いつつ開けてみると、案の定、変な 味がした。「“Плохой”(悪くなっている)」と言うと、ナーデャさんとおじさ んは賞味期限を確認し、「もう切れるぎりぎりだから」と同情してくれる。お じさんはビールを飲みつつ「ビールはいつでも“хорошо”(大丈夫)だ」と笑っ た。ナーデャおばあさんも、私も笑った。トイレに行ってケフィールの中身を 捨てると、黒い異物が入っている。これが原因だったらしい。 昨日の夕方は、ナーデャさんに少しヒマワリの種子を分けてもらった。日本 のヒマワリの種より小さく、色は黒い。中身は白く、かじると香ばしい。 昨夜はなかなか寝つけなかった。今回のクライマックスだったイルクーツク、 バイカル湖、ウラン・ウデを過ぎ、あとはいよいよ帰国間近だと思うと、いろ いろな考えが脳裡に去来する。ミュンヘンでの日々、今回の旅行でのさまざま な出会いと見聞、そして日本でのこれからの生活、などなど……。 フロベニウスの名著 Geographische Kulturkunde(『地理学的文化学』)を読ん でいる。昨日は寝る前、チンギス・ハンに関する部分を読んだ。いま列車が走っ
ている辺りはチンギス・ハンが生まれ育った所の北にあたる。そして鳥居龍蔵 もこの辺を列車で通過したのだ……などと思いつつ、私は眠りに落ちた。 3月16日(日) とうとうハバロフスクに着いた。列車が2.6キロというロシア最長の橋をわ たってアムール川を越えると、向う岸にハバロフスクの市街があった。ウス リーとアムールの合流点に建設された、ロシア極東支配の拠点。市はアムール 川に垂直にのびる三つの細長い丘陵から成っている。その間の二つの小さい谷 は、河筋だったものだろう。 ナーデャおばあさんとおじさんに別れを告げて駅に下り立ち、そのまま博物 館へ直行。閉館時刻まであまり間がなかったからだ。小さい博物館だが、よく 整っている。一階は博物誌(主に動物相 Fauna)、二階は民族誌にあてられ、 アムール流域と極東の諸民族にかんする物質文化の展示がとても充実していた。 おそらく鳥居がここを訪れた時とあまり変化していないのでは、という雰囲気 だ。三階には、臨時企画かと思うが、日本人が満洲で何をしたかという、きわ めて反日的な内容の展示がされていた。中国黒竜江省博物館の主催である。毒 ガスの使用など、いかに残虐なことをしたかが強調されている。 一方においては、こうした展示には中国側の強硬な意志が見える。日本とロ シアの政治経済的協力関係が進展しつつあるところへ、クサビを打ち込もうと いう狙いもあろうか。だが他方においては、日本でもこうした過去についての 学問的研究と公開が、もっと進むべきだとも思う。ドイツのダッハウで見た強 制収容所などを思い出すにつけても、だ。 ハバロフスクは、ホテルも市街も整っている。市のメイン・ストリートに出 てみたが、映画館が何軒もある。夕方の8時というのに若者たちがたくさん出 歩いており、ミュンヘンで言えばさしずめミュンヒナー・フライハイト (Münchner Freiheit)界隈といったところ。イルクーツクとの差は歴然として いる。ホテルを取ってみてもそうだし、イルクーツクではこの時間帯、すでに 街はひっそりとしていた。
地の利を活かしての、日本や韓国、中国との経済協力も進んでいるのだろう。 映画館の一軒では、日本映画特集を一週間にわたってやっている。ホテルには 日本語のパンフレットも置かれているし、テレビではNHKも入る。日本人を 何人も見かけた。つい最近、小泉首相がこの町でロシア外相と会談したことも 思い出される。だが、日本人に対する一般市民の感情はどうなのだろう。とい うのも、街を歩いていたら若者一人に足を蹴られたからだ。ただの酔っぱらい と言えばそれまでだが、このホテルに泊まっているドイツ人観光客たちは、こ ういう目には遭わないのではと思わされる。何よりドイツ人なら、ここでは目 立たないだろうから。 とは言うものの、少数民族出身者もこの町には多いはずなので、私を日本人 と見て蹴ってきた、とは確言できない。路上で、モンゴロイド系の兵士を見か けもした。少数民族出身の若者たちにも、ロシア国民である以上は兵役の義務 があるということだ。彼はナナイか、それともニヴヒ……? インツーリスト・ホテル9階の部屋からは、アムール川がよく見える。すっ かり凍結した水面には雪が積もり、そこを散歩する人たちがいる。遠く彼方に 沈む夕陽、そしてほとんど満月と言っていい、円い月。我がシベリア旅行はこ うして終わろうとしている。 思えば今回、私はユーラシア大陸を西から東へ、ドイツから日本へ帰るため に、列車で横断した。今は亡き大林太良先生の船旅と対照的だ。半世紀前、日 本からドイツへ、留学生活を前にした先生はどんな気持ちでマラッカ海峡を、 そしてスエズ運河を越えたのだろうか。 夕食に牛タンの煮たの(ロシア料理のひとつ)を食べた。ドイツの牛タンは、 薄い衣をつけたフライだったのを思い出す。 明日の朝、私もアムール川の上を歩いてみよう。そしていよいよ日本へ。 あとがき 日記は上の部分で終わっている。当時は書きとめなかったが、ハバロフスク のホテルではこの後、夜中にドアをノックする音で起こされた。「女ノ子イリ
マセンカ」と片言の日本語で聞いてきたのは、年増というか、くたびれた感じ のロシア女性だった。「いりません」と断ったが、仲介人とはいえこれが妙齢 の美女だったら、ふらふらっとなってしまったかもしれない……。 ともあれ3月17日(月)の朝、凍結したアムール川の上を望みどおり歩き、 小さなハバロフスク空港から新潟へ飛んだ私は、あの頃かの地で助教授をして いた城戸淳君の所に一晩泊めてもらった。学部で同級生だった彼と、翌日は県 立歴史博物館を訪れ、ずらりと並んだ火焔土器を、二人で興奮しながら見た。 その城戸君も今や同僚となっているのは、奇しき縁というべきか。 19日(水)に仙台の実家へ到着し、長旅は終わった。ずっと秘かに保管して きた日記だが、「アジアの神話・宗教・文化」という授業などではときどき部 分的に朗読し、受講生からはなかなか好評でもあった。想い出の場所、という よりはむしろ、私にとって過去最高の、想い出の旅の記録である。