タブレットの普及は学校体育に何をもたらすのか:
「情報様式」と身体の政治性の観点から
松田 恵示
Keiji Matsuda: What will the spread of tablet PCs bring to physical education?: From the perspective of “mode of information” and “politics of the body”. Annu. Rev. Sociol. Phys. Educ. Sport.
Abstract: From the concept of “mode of information”, It was Mark Poster, an American historian and media
researcher, who considered communication in the electronic media environment. Through the concept of “mode of information”, when considering the changes in physical education brought about by “Covid-19”, it is necessary to consider it not only as an object requiring solutions to clinically unprecedented social issues, but also from the perspective of historical and social transformation as a change in the media environment. In this paper, I considered the process by which the learner himself or herself informatizes the performance re-corded on a tablet PC using keywords such as self-instruction, “body as an image”, database, and subjectivity. As a result, I explain how Covid-19 pandemic brought about a transformation in the learning space and the way physical education is taught as it helped disseminate and normalize the use of tablet PCs in schools. Specifically, I conclude how this radically transformed the politics of the boby that was previously hidden from view.
Key words: Mode of information, Tablet PCs, Physical Education, Self-Directiveness
キーワード:情報様式,タブレット,学校体育,自己指示性
Ⅰ.はじめに
「情報様式」という概念から,電子メディア 環境におけるコミュニケーションについて考察 したのは,アメリカの歴史学者でもありメディ ア研究者でもあるM・ポスター(Mark Poster) であった.1990年に「情報様式論」(1990= [1991]2001)を著したポスターは,とりわけ パーソナル・コンピューター(以降「PC」と 表記)以降の電子メディアの発展を,言語環境 の変化としてより根本的な社会の変容と捉える 必要があると考えていた.「歴史がシンボル交 換の構造における諸変異体によって区分でき る」(ポスター,1990=[1991]2001,p.12)と 述べるポスターの考えは,自身でも語るように マルクスの言う「生産様式」に関する議論に基 づいて着想されたものである.マルクスがそこ で構想したのと同様の視角から,言語環境の問 題は,表面的なツールの問題ではなく「言語と 社会,理念と行動,自己と他者の関係」(ポ スター,1990=[1991]2001,p.13)をそれぞ れの特徴によって形づくり,人間の思考や価値 観,人間関係や組織,集団のあり方など社会を 成り立たせている土台それ自体の変化となると ポスターはおそらく考えている.その上でポス ターは,次のように述べている.「情報様式の 諸段階は次のような形でとりあえず示されるだ ろう.すなわち,対面し,声に媒介された交換, 次に印刷物によって媒介される書き言葉による 東京学芸大学 〒 184-8501 東京都小金井市貫井北町 4-1-1 連絡先 松田恵示Tokyo Gakugei University
4-1-1, Nukuikitamachi, Koganei City, Tokyo 184-8501 Corresponding author [email protected]
交換,そして電子メディアによる交換である.」 (ポスター,1990=[1991]2001,p.12). 今,コロナ禍にある学校では,その対応に追 われるとともに,一方では「教育のニューノー マル」「GIGAスクール構想」「Society5.0」など の言葉が飛び交う一種の喧騒状態にあるように 見える.コロナ禍という出来事が,学校教育や 学校体育の日常を簡単に塗り替えてしまったと ともに,コロナ禍以前から変革が求められてい た教育政策や各種の教育ムーブメントを,格段 にスピードを速めて促進させている.つまり, コロナ禍で進む学校の変化の問題は,これまで に経験のない臨床的な社会課題の解決を探るこ とであるとともに,歴史的な社会変容の観点か らも合わせて捉えてみる必要がある.このとき に,コロナ禍で進む電子メディア環境に焦点づ けて,ほぼ30年前に示されたポスターの観点 は,今,どのような意味を持っているのであろ うか. ここで,改めて学校現場における電子メディ ア環境の変化について確かめておきたい.今般 のコロナ禍のなかで,大きくクローズアップさ れたのが,学校におけるICTの普及と活用の 様子であった.大学でもほとんどの講義がオン ライン化し,幼,小,中,高,特別支援などの 学校においても,一気にその活用が課題となっ た.そして同時にそれは,通信環境,ネットイ ンフラなどの整備状況への関心を飛躍的に高め ることとなった.ところで次の図1は,文部 科学省が学校における情報化の実態を把握する ために行った調査結果の一部である(文部科学 省,2020a). この報告によれば,令和元年度の教育用コン ピューターの普及台数は,2,361,187台であり, 児童生徒数が11,587,653人であるため,1台 当たりの児童生徒数が図1の通り4.9人となっ ている.つまり,ここ10年間では約2倍の増 加となっていることがわかる.この中で可動式 のPCは,1,168,744台を占めており,約5割 となっている.さらにこのうち,物理的なキー ボードを有する台数が829,804台であり,こ のことから,学校内で実施される教育活動にお いては中心的端末となることが多いタブレット 型PCの台数は,約34万台であるということ になる(文部科学省,2020b).児童生徒数か らすると,1台当たり約34.1名となり,35人 学級を前提とすると,1教室に平均してまだ1 台程度しかない.もちろん,平成24年度には, タブレット型のPC普及台数の実数は,26,653 台であることからすると(文部科学省,2015), 急激な増加率ではあるが,この実態から見ても, 学校におけるICT環境はまだまだ不十分であ るというのが日本の実情であろう. また次の図2,図3は,OECDが報告して いる「パンデミック中にオンラインで学ぶ子ど もたちと学校の準備状況」の一部である(フェ ルナンド・レイマーズ,アンドレアス・シュラ イヒャー(OECD),2020).図2は「PISA2018 における,学校のデジタル機器がコンピュータ の動作環境と容量の観点から十分に高いことに 校長が同意または強く同意している学校に通う 子どもたちの割合」のグラフであるが,特に, 日本の状況がOECD加盟諸国の平均値を大き く下回っていることがわかる. さ ら に 次 の 図3は,「PISA2018に お け る, 教師たちが授業にデジタル機器を組み込むのに 必要なテクノロジーのスキルと教育方法のスキ ルを有すると校長が同意または強く同意してい る学校に通う子どもたちの割合」のグラフであ るが,日本はOECD加盟諸国中,最下位に位 図1 コンピューター1台当たりの児童生徒数 (文部科学省,2020a)
置していることが示されている. これらのことから言えるのは,そもそもコロ ナ禍前において,日本の学校空間は先のポス ターが論じたような,電子メディアによるコ ミュニケーションが中心となるような状況には 未だなかったということである.黒板と,教科 書と鉛筆・ノートが中心の,先述した「印刷物 によって媒介される書き言葉による交換」の世 界なのである.学校空間の「情報様式」は, フェイズが前段階のままなのである.もちろん, ポスターはこのように部分的な社会空間にこの 用語を当てる意図はなかったように思われるが, 社会全体の「情報様式」が変化する中で,いわ ば「桃源郷」のように学校空間が残されている 現状には,改めて注意を促しておきたい. 日本の学校体育は,このような学校の全体的 状況の中にある社会事象であった.つまり,ポ スターが主に問題にしようとした電子メディア に特徴付けられる「情報様式」の前段階にあり, 学校外社会や他の国々と同様の環境整備と利活 用が強く促されつつあった.学習指導における ICT活用の促進,「eスポーツ」への対応の問題, デジタル教科書をめぐる問題なども,すでに電 子メディア環境下の新しい課題として散見され ていた.だからこそ,コロナ禍の体育に関する 問題は,即座の臨床的な課題であるとともに, 「情報様式」の観点からは社会変容の中での体 育のあり方が初めて本格的・根本的に揺さぶら れる問題となったと言える面がある.このとき に,一体何が具体的には揺さぶられるのか,ま 図2 学校のデジタル機器が十分に強力 : コンピュータの動作環境と容量の観点から(F. レイマーズ,A. シュライヒャー(OECD),2020)
たそのときに学校体育の社会学的研究はどのよ うな課題を持ちうるのかについて,特にポス ターが着想した「言語」に焦点づけて明らかに してみたいというのが本稿の目的である注1). このために本稿では,改めてコロナ禍の学校 の現状と近年の教育政策動向を整理した上で, 特にタブレットによる「運動の動画収録とアプ リ等の補助教材の使用」という体育での学習行 為/教授行為を取り上げ,理論的観点を整理, 援用しながら,解釈的に検討することにしてみ たい.学校体育を対象とした電子メディアに関 する研究においては,学習指導論における教具, 教材や指導方法の問題としてはこれまでにも多 く取り上げられてきているが,そもそも,日本 においては学校空間の「情報様式」が未だ社会 とは隔離されて前段階にあることから,具体的 な事象が少なく,さらに「学校空間としての体 育」といった社会学的なパースペクティブから の研究もあまり見られない.この意味では,今 後継続的に取り組みが広がる研究対象領域でも あるのではないかと思われる.
Ⅱ.コロナ禍の教育課題と
「GIGA スクール構想」
2020年の5月19日,20日に,コロナ禍に おいて,国際的に教育現場がどのような課題を 抱えており,それをどう解決していくのかを テ ー マ と し て, 約300名 の 参 加 者 を 得 て OECDがオンラインでのグローバル・フォー ラムを開催した(Global Forum of Education図3 授業にデジタル機器を組み込むのに必要なテクノロジーのスキルと教育方法のスキルを有する教師 たち(F. レイマーズ,A. シュライヒャー(OECD),2020)
and Skills 2030 First Meeting (Virtual Workshop : Overcoming challenges in curriculum delivery during school closures and transition back to school)).表1は,そのと
きに事前に集められたアンケートに基づき示さ れた資料である注2). ここで,課題が「学習へのアクセス」「学習の クオリティー」「ウェル・ビーイング」の大きく 表1 課題の内容 テーマ 課題 調査結果にもとづく文脈 学習へのアクセス 学習に必要なツール やコンテンツ,及び インターネットへの アクセス状況 コロナウィルス感染対策を実施するにあたり,政府代表の半数以上(56%)が学習ツー ルにアクセスできるような環境を整備する難しさを問題視している.また教師も同じ問 題意識を抱えている(56%).教師はまた,学校の閉鎖中に安定したインターネット接 続環境を持たない生徒がいることも懸念している.40%の生徒もまた,「学習しようと すると,インターネットの速度が不安定だったり遅くなったりする」と訴えている. 学校閉鎖時と再開し た時の学習する機会 へ の ア ク セ ス 状 況 (学習の構造や学習 する時間配分) 生徒たちは学校の閉鎖中に学習の時間を適切に割り当てることが難しいと答えており, アンケート調査の中でも2番目に多かった答えである.学校の閉鎖時と開校時の学習時 間の配分は政策立案者や教師が懸念する問題でもある.政府代表者の3割と教師の半数 以上が「学校へ段階的あるいは完全に戻った時に生徒が学級や地域によって異なる時間 割の変更にうまく適応できるか」について心配している.学校へ戻っても授業は午前と 午後の部に分かれるだろう.生徒の半数(51%)が「自分で学習のゴールや時間割を設 定することが難しい」と答えている. 学習のクオリティー 生徒のモチベーショ ンを維持しながら学 習を継続することの 難しさ 学校が閉鎖されて一番の課題だと生徒が感じているのはモチベーションの欠如である. コロナウィルス感染対策が原因となっている自分の学習における一番の課題はと聞かれ た時,多くの生徒(70%)が「勉強するモチベーションを保つことが難しい」と答えた. モチベーションの欠如は教育に関連する要因やそうでない要因など複数である.多くの 生徒が学校が閉鎖している間「先生から継続的にフィードバックをもらって学習を継続 するモチベーションを維持すること」が自分の幸せ(ハピネス)につながる大事な要因 であると言っている. 試験や進学に対する 心配 卒業に近い高校生たちの半数が自分の国・地域の試験がキャンセルされたことにより, 卒業や大学入試が成績だけで決まることになった報告している.また,3割の生徒が試 験の日程が延期されたと述べている.生徒たちはこのような対策に関して多様な意見を 持っている.生徒によっては学校が閉鎖されて準備がままならないために試験がキャン セルされて胸を撫で下ろしており,その他の生徒は学校が閉鎖されているにもかかわら ずクラスの成績に対する比重が重くなることを懸念している.多くの教師(64%)も学 校閉鎖が試験に影響を与えることを懸念している. カリキュラムの学習 範囲が縮小されたこ とによる影響 多くの国や自治区では学校閉鎖や段階的な移行によって授業の時間が削減されている. コロナ危機の前と比べ,生徒たちは指導計画に設けられたほどの学習ができていない. また,生徒の学習はリテラシー(読み書き能力)やヌーメラシー(数学活用能力・数学 的リテラシー)などの中核的なコンピテンシーに重点がおかれ,その他の内容はカバー しきれていないのが現状だ.そのため,生徒は「友人とアートプロジェクトに励んだり, 音楽の練習をしたり,舞台稽古ができない」ことや,「友人とスポーツができない」こ とを寂しく思っていたりする.また同様に,政府代表の半数以上,教師の3割以上も学 校閉鎖によって授業が「指導計画目標に届かない」ことを気にしている. ウェル・ビーイング 生活と学習する場所 の安全性確保 学校の閉鎖中,生徒たちは「安全に生活する場所」があることが安全と安心に関わる一 番の課題としてあげている.安全な環境で生活できることは生徒のウェル・ビーイング や学習の度合いに重要な影響を及ぼす.生徒の45%が「居心地の良い生活や学習する空 間がある」ことが人生の幸福度に重要であると答えている.また教師の3割が生徒の身 体的な安全性確保やウィルス感染を防ぐことが,生徒を学校に迎えるにあたって重要で あると答えている. 学校の社会的な機能 学校は生徒の社交性を育むのに重要な役割を持つ.学校の閉鎖中,また制限付きで学校 へ戻る間,学校はその社会的な役割のいくつか重要な側面を失う.生徒の約7割が「友 人を持つこと」が人生の満足度に大きく寄与すると答えている.また,生徒は芸術やス ポーツなど生徒同士で行っていた活動ができなくなったことを残念に思っているとも報 告している. (日本語訳は,長谷川友香氏によるもの)
3つに分けられており,コロナ禍というものが, 教育現場にどのように影響を与えているのかが, 国際的な状況として浮かび上がってくる.また それとともに,いわゆる通信環境やネットイン フラの課題として触れられている例示に,「政 府代表の半数以上(56%)が学習ツールにア クセスできるような環境を整備する難しさを問 題視している」などとまとめられている点は大 変興味深い.逆に言えば,約半数の国では,こ うした課題がすでにクリアーされていると考え られることから,先にも述べたような,国際的 に比較したときのこの面での日本の「周回遅 れ」的状況が確認できるからである.この面で の課題は,さらに個人(家庭)差や地域差の存 在が予想され,それが教育機会や教育環境に関 する格差へと簡単に結びついてしまうこともま た予想されるところである.あるいは,すでに ヘゲモニーの劣位の中に,日本が位置づきつつ あると言えるのかもしれない.この意味では, OECD加盟諸国の中では先進国のグループに 入ると考えられる日本が,30年前から世界的 に進む「情報様式」の変化の中にあって,いわ ば現実的な学校生活レベルでは「鎖国」状態に なっているということであり,このようなコロ ナ禍以前から進んでいた日本の学校空間の電子 メディア的状況が,今般のコロナ禍において明 確に浮き上がった,ということである. このような事態に対して,日本で今,進んで いるのが「GIGAスクール構想」(文部科学省, 2018a)という政策である.これは,令和元年 に成立,公布された「学校教育の情報化の推進 に関する法律」(文部科学省,2018a)に基づい て起こされたものである.「学校教育の情報化 の推進に関し,基本理念,国等の責務,推進計 画等を定めることにより,施策を総合的かつ計 画的に推進し,もって次代の社会を担う人材の 育成に貢献」することを目的として「子供たち 1人1人に個別最適化され,創造性を育む教育 ICT環境を」をテーマに掲げ,具体的には「校 内通信ネットワークを全ての小・中・特支・高 等学校等」で整備することと,「国公私立の小・ 中・特支等の児童生徒が使用するPC端末」を 1人1台用意できるように整備すること,並び にデジタル教科書,デジタル学習コンテンツ, 指導者の養成や外部の支援人材の配置など,ソ フトとハードの両面からパッケージ化したもの であり,令和5年(2023年)度を目処にその 実現が総合的に目指されている. ここで「GIGAスクール構想」に関わって, 文部科学大臣から以下のようなメッセージが発 信されている.「Society5.0時代に生きる子供 たちにとって,PC端末は鉛筆やノートと並ぶ マストアイテムです.今や,仕事でも家庭でも, 社会のあらゆる場所でICTの活用が日常のも のとなっています. 社会を生き抜く力を育み, 子供たちの可能性を広げる場所である学校が, 時代に取り残され,世界からも遅れたままでは いられません.」(文部科学省,2018b).ここに ある「Society5.0」という用語は,日本政府が 様々な施策の要をなすものとして現在重視して いる,今後の社会像を示す言葉である.内閣府 によれば,「Society5.0」は次のように定義さ れている.「サイバー空間(仮想空間)とフィ ジカル空間(現実空間)を高度に融合させたシ ステムにより,経済発展と社会的課題の解決を 両立する,人間中心の社会(Society)」(内閣府, 2020).またこれは,平成28年に閣議決定さ れた「第5期科学技術基本計画」によって提 唱された概念であり,特にAI(人工知能)や IoT(モノのインターネット)などの先端技術 に先導される社会への変化がイメージされ,も ちろんその基盤にはICTの普及と利活用は欠 かせないところとなっている. 他方で,令和3年1月に中央教育審議会答 申としてまとめられた「「令和の日本型学校教 育」の構築を目指して ∼全ての子供たちの可 能性を引き出す,個別最適な学びと,協働的な 学びの実現∼」では,現行の学習指導要領で強 調されている「主体的・対話的で深い学び」を さらによりよく実現するために,「個別最適な 学び」と「協働的な学び」の2つを柱とした 学校教育改革の姿が提言されている.この2 つの柱に深く関わるものとして「GIGAスクー ル構想」並びに,ICT環境の活用などがうた われており,情報通信ネットワークやPCなど の整備の必要性が改めて強調されている.この
ような日本の教育政策の動向を見てみると, 「GIGAスクール構想」は,大きく「情報様式」 の変化への対応という側面と,「新しい価値が 求められる学校教育の改革」という2つの面 を背景として持つものであるとみることができ る.このような動向の最中に生じたのが今般の コロナ禍であり,オンライン等,学校では「遠 隔授業」の実施の必要性に迫られたことから, 電子メディア環境の不整備状況が喫緊の課題と して大きく浮かび上がることになった.そこで さらに進められたのが,「GIGAスクール構想」 の前倒しである.当初,令和5年度までの予 定で進めていたものを,令和2年(2020年) 度の補正予算において整備するという決定がな された.つまり,その実施は順調に進んでいる とは言い難いものの注3),令和元年度に可動式 PCに関して1台当たり約10名であった現状は, まさに理論値としては1台当たり1名へと劇 的に変化することになることが予想されるので ある. こうしたコロナ禍の学校をめぐる現状と近年 の教育政策動向の整理から指摘できることは, 2020年度を契機として日本の学校空間をめぐ る「情報様式」は,ようやくポスターが30年 前に論じた電子メディアの区分を,それも急激 な変化として迎えることになるというほぼ確定 的な事実である.この意味では,日本の学校, あるいは学校体育は,まさに今,電子メディア 環境におけるコミュニケーションが中心となる 事象となるのであり,ここに生じる社会現象は, 学校において約1,100万人の子どもたちの「情 報様式」を変容させる巨大な出来事であり,日 本の国民が過去の共通経験を塗り替えることが まさに今,始まっているという状況を,ここで は改めて明確に捉えておきたいと思う.
Ⅲ.体育における
「映像としての身体」の出現
そこでコロナ禍を契機として,1人1台のタ ブレットと,「個別最適な学び」と「協働的な 学び」が学校現場で進み始めたときに,体育で 根本的に揺さぶられるものとは,一体何なので あろうか.ここで取り上げたいのは,様々な学 習場面やその指導場面における,学習者自身の 「映像としての身体」の出現である.もちろん, これまでにもICTを利活用する中で,学習者 の映像を記録して学習することは,一部の現場 や教員によっては行われてきた.しかし,1人 1台が進むとともに,「主体的・対話的で深い 学び」を基本として「個別最適な学び」が進む となると,自身の運動を「映像としての身体」 として記録し,そのデータを評価や学習の具体 的な資料として活用するということは,全ての 子どもたちの共通経験として,普遍的に広がっ ていくということになる. 例えば,文部科学省は令和2年に「体育・ 保健体育科の指導におけるICTの活用につい て」という資料を公開している(文部科学省, 2020c).図4は,「跳び箱」における技のポイ ントを,知識として個に応じて学習する際の利 用例として示しているものである.このことを 前提に図5では,「柔道」における技の学習を 利用例として,自身の運動を記録しデータとし て利用することも示されている. また図6では,学習の記録という形で,時 間の経緯のなかでの自身の「動き」の変化を, データとして活用することが示されている. これらの資料によって促されているものは, 自身の「動き」を撮影し記録された映像に基づ いて,自身が主体的に学習を進めるということ であり,自身の「映像としての身体」がデータ 化され,学習ないしは学習指導行為におけるコ ミュニケーションを媒介する内容として利活用 されることが広がるということである.また, こうした学習とその指導におけるコミュニケー ションを支えるアプリが,様々に利活用される ことになるとも思われる. 次に先の図4から図6までの事例に基づいて, それがアプリとし提供されている具体的な授業 の様子を少し考えてみたい.まず学習者は, 「技のポイント」を示す「テロップ」が組み合 わされた模範としての動画を,学習者の必要性 や教師の指導に応じて視聴する.そして,学習 者自身の行為(運動)を撮影し,この模範動画 と平行して画像再生することも行うことになる. とりわけスポーツや運動という技能や感覚を対象とした学びが展開される体育・保健体育科の 学習においては,運動の自己観察や運動表象の 獲得という面からも,メディアの技術革新に応 じ た 教 材・ 教 具 の 新 し い 可 能 性 と し て, おそらく現場においてもタブレットが広く使われ, また一定の効果も期待されるところであろう. ところで,こうした「映像としての身体」を めぐる学習体験には,どのような社会的行為と しての特徴が見られるのであろうか.ここでま ずは,こうしたアプリや動画資料に使われる 「テロップ(television opaque projectorの省略
形)」という技術について取り上げてみたい. ここでの「言語」のあり方が,これまでの学習 ノートや印刷物としての資料に見られた「言 語」と違うのかどうかということについて,ポ スターの観点からしても検討してみたいからで ある. 例えば,バラエティ番組などのテレビ番組で は,出演者の発言や,擬音などが,映像の下部 に表示される.これらが「テロップ」と呼ばれ るものである.PCやタブレット上においても, 例えばプレゼンテーション時のアニメーション として,もちろん動画教材にもポイントを説明 するためや学習のモチベーションを上げるため にテロップは多用される. テレビにおける表記実態と機能の分化を考察 する設樂馨は,こうしたテロップのテレビ技術 上の変遷を探るために,アーカイブを利用して NHKにおけるバラエティ番組内のテロップの 機能について分析している.この中で,テロッ プが1960年代に報道番組において現れ,また, 1980年代に増加し,2000年代に激増している ことを指摘している.それとともに,1960年 代から1980年代までのそれは,「テーマ」や 歌詞などの提示に見られるように,視聴者のた めに情報を追加することがねらわれていたもの であったことを述べている.それに対して, 1990年代以降は,メディア技術の進展も背景 となり,画像をデコレーションするものとして テロップが活用され,要約といった補助的な情 報提示を超え,「「今,この場」という臨場感を 表現するもの」(設樂,2011,p.6)として利用 されていると分析する.番組の構成明示の機能 だけでなくなり,演出効果を担う機能が強く なってくるのであるとも設樂は述べる.「表記 者が「何を書きたいか」は,「何が書けるか」 によって取捨選択され,表記を決定するのであ 図4 活用例1 (文部科学省,2020c) 図5 活用例2 (文部科学省,2020c) 図6 活用例3(文部科学省,2020c)
る」(設樂,2011,p.8)と結論づけるここでの 検討は,メディア研究におけるM.マクルーハ ンの言葉を使えば,テレビ,ないし映像メディ アが「クールメディア」(マクルーハン,1964 =1987)であるがゆえに,送り手側の意図を 技術革新に合わせて表現する自由度が高まり, クールである画像に意味を与える不可避のプロ セスであった,ということを示すものなのであ ろう. 一方で,こうしたテロップという技術が,若 者の聴く力を奪っているのではないかと黒田麻 衣子は指摘している(黒田,2014).特にバラ エティ番組に見られるテロップについて,黒田 は次のように述べる.「バラエティ番組におけ るテロップは,何のために存在するのか.なぜ, バラエティにこれほどテロップが増えてしまっ たのか?果たして,報道やドラマと同じように 「視聴者のため」だろうか?筆者は,違う気が する.バラエティのテロップは「ここで笑っ て!」と視聴者に訴えているようにさえ感じ る.」(黒田,第7段落,2014).つまりテロッ プが,映像に意味を与えるコンテクストを定義 しているのであり,いわばその場での振る舞い 方について,暗黙に参加すべき規範として「状 況」を指し示す機能を持ち,もちろん受け手の 側はそうした物理的な情報が優先する中で,テ ロップが持つ自己指示的な電子空間の状況定義 に自らをも従わしていく,という変化を指摘す るのである. こうしたテロップの持つ「自己指示性」は, ポスターが電子メディアのコミュニケーション の特徴として特に強調した点でもあった.ポス ターは,「電子的媒介は構造,すなわちシンボ ル交換の根底条件を変化させてしまう」(ポス ター,1990=[1991]2001,p.103)と述べる. そして電子メディアのコミュニケーションの特 徴として,相互に関連する「脱文脈」「モノロー グ」,そしてその帰結としての「自己指示」の 3つの性質を挙げている.確かに,黒田が論じ たようなバラエティ番組では,笑いを誘うため という出演者の意図はあるかもしれないが,視 聴者にはなんの対話も事前の相談もない一方向 のメッセージにおいて,特に「何をやっている のかわからない」映像がそのまま眼前に否応な くさらされる状況でもありうる.このように, 「脱文脈」的で「モノローグ」的な情報であれ ばあるほど,その情報=映像には「自己指示」 的な表現が求められざるをえない.テロップは, このような電子メディアのコミュニケーション の特徴に基づいて生み出された一つの技術なの である. だとすれば,タブレット型のPCが1人1台 となり,教育政策でも強調される「個別最適な 学び」が広がるであろうこれからの体育におい ては,どのような事象が生じる,あるいはすで に生じているのであろうか.まず指摘できるこ とは,自身の「映像としての身体」に対して自 己指示的言語としてのテロップを与えられると いう出来事が共通経験として広がるということ である.体育という空間での「身体」が,言語 という情報によって,自身のリアルな状況に優 先して文字言語によって状況定義されるという 経験が広がるということであろう.つまり, 「動き」を知識として得るために「模範の映像 身体」を視聴するときも,自身の身体を録画し て「模範の映像身体」と照らし合わせるとき, アプリ等に埋め込まれたテロップという自己指 示的言語によって,自身の「身体」が常に「動 き」を習得することが暗黙に求められるものと して状況定義を与えられるということである. 「あるべき身体」との距離からしか構築されな い「身体」,あるいは個に応じて,自己の身体 が常に「足りないもの」「恥ずかしいもの」とし て刻印される,といった事態かもしれない.そ れは同時に,自身の「生きられた身体」が持つ, 例えばスポーツの実践ならば先行しているはず であった「遊び」としての対面的なコンテクス トなどが捨てられてしまい,自己指示的言語に よって発せられるコンテクストが潜在化しつつ, そこで指示される情報として整理,理解され, 自己指示的に状況定義される意味が優先して個 人の中に広がるということである.ここには, 運動の楽しさや喜びを味わうとも示される「顕 在的カリキュラム」と,「動き」を習得するこ とを通して身体を自己管理せよという「潜在的 カリキュラム」のコンフリクトの増大といった
問題が,新たに生じてくるのかもしれない. このタブレットに映し出される「映像として の身体」自体は,その場には実在しない,ある いは「生きられた身体」の「幻」のような,学 習者にとってはまさに「イメージとしての身 体」である.ここで,テロップに見られる部分 的な身体技法に関する「ことば=諸注意」は, 自己指示的なことばとして,例えば「できる/ できない」といった自己判断を通じ学習者が自 らその身体像を形成することにつながる管理技 術である.また学習のプロセスの中で仔細に記 録されていく自身の「映像としての身体」を通 しても,タブレットに広がる電子空間上の身体 と現実の身体がさらにイメージを通し重なり合 い,自己の身体像が強化されていく.そうなる と,そこで形成されるものは,言語によるシン ボル交換の内容となる内部としての身体ではな く,潜在化したコンテクストの中で情報によっ て構築される外在化した身体である.つまり 「主体」のあり方に関わる,身体をめぐる社会 的作用に変化が生まれている,ということでは なかろうか. ところで,次の図7は,先の文部科学省が公 開している資料のなかにある,活用例2におけ るタブレットを使った学習の様子が写真として 示されたものである(文部科学省,2020c). ここでは,児童が4人に1台のタブレットで, これまでの体育でよく知られた整列・集合的な 動きというのではなく,タブレットを囲んで視 聴したり,それぞれが個別に学習を進めたりし ているイメージが示されている.1人1台にな れば,さらにこのような個別的な学習活動も広 がるものと思われる.このとき,M.フーコー が述べたような,「従順な身体」を形成する整 列や集合によって匿名化を進める可視的な規律 訓練型の教育装置を,体育授業という空間に私 たちが見てとることは難しい(フーコー,1975 =1977).体育という学習空間は,「見られて いないのに見られている気がする」,つまり不 在の他者の視線が埋め込まれる「学校」を代表 する「規律訓練型」の授業空間であった(松田, 2001).しかし,「個別最適な学び」と「協働 的な学び」をうたいタブレット使用が進むこれ からの授業では,集団行動も少なく,学習者の 主体的な振る舞いが中心に進むのみである.そ こには,これまでのような「視線の作用」は現 れない.しかし,記録された身体像は,ときに 教師や仲間などから閲覧可能なのであり,「意 識できない」けれども,「見られている」とい う管理の技術はむしろ完全化する.学習者の身 体状況は,すべてデーターベース化されるわけ である.このような身体情報のアーカイブ化の 進展は,「忘れられる権利」を求めざるを得な い,情報のアーカイブ化に伴う「過去」の管理, つまり一生涯の自己統制を通した,管理の普遍 化・現実化が具体的なものになることを示すも のであろう. ポスターも,次のように言う.「現在の「コ ミュニケーションの回路」やそれが作り出す データベースは,一種の《超パノプティコン》 を構築している.それは壁や窓や塔や看守のい ない監視のシステムである.」(ポスター,1990 =[1991]2001,p.205).学習者が「失敗」を 極力嫌い,新しい出来事にチャレンジしたくな いという態度や価値観を醸成する根拠でもあろ う.ただ通常は,そのこと自体を認識すること はなく,経験的には模範映像との比較画面に現 れる自己の「映像としての身体」の変化に学習 の喜びを感じたりする学習者も多い.つまり, 学習者は「アプリ」を通して映し出される,映 像情報から浮かび上がった自己の「イメージと しての身体」によって,身体の自己像を自発的 に情報化し管理させられているということである. 図7 活用例2における学習の様子(文部科学 省,2020c)
しかしポスターは,いわば「見えないもの」 =「内部」として構築されてきた近代的な意味 での「主体」は,先に述べたように「書き言葉 と印刷物」によるシンボル交換という「情報様 式」により生み出された社会的構築物だと考え ており,電子メディアによる「情報様式」にお いては,シュミラークルの乱反射の中で近代的 「主体」の自律性や中心性が揺らぐと述べてい る.ポスターはこの状況を次のようにいう. 「メディアの言語は話者の共同体にとって代わ り,理性的なエゴにとって必要な言説の指示性 を掘り崩してしまう.脱文脈的で,モノローグ 的で,自己指示的なメディアの言語によって, 受け手は自己構成のプロセスと戯れ,言説の多 様な様式と「会話」することによって絶えず自 己を作り直すように促されるのである.」(ポス ター,1990=[1991]2001,p.103).他方でポ ス タ ー は, こ こ ま で に も 見 て き た よ う に, 「データーベース」を通して《超パノプティコ ン》と言う言葉から,フーコーのいう管理の現 代的な普遍化・現実化について強調していると 言う論点の揺れがある.確かにタブレットが1 人1台化することによって体育の学習空間が 「情報様式」を変容させることが,「主体」のあ り方に関わっての身体をめぐる社会的作用の変 化であるとみた場合に,従来のフーコーが指摘 するような管理技術がさらに徹底化されている のか,あるいは別な状況を生み出しているのか はっきりしない面がある. この「主体」と身体の政治的管理をめぐる問 題に関しては,次の東浩紀の述べる「モル的主 体からの解放」という論点は示唆的である.東 は次のように言う.「単純に言うと,動物化さ れたサブカルチャーにおいては,虚構=物語で はなくて,身体的快楽が優位なんですね.より 正確に言えば,記号化された身体的快楽.意味 や感情が,自分の中ではなく,外から与えられ るものに変わってきている.…(中略)… た とえば携帯メール.短文登録して,ジョグダイ ヤルを回して適切なメッセージを選択してメー ルを打つ.この登録された単文こそが『外在化 した感情』とぼくが呼びたいものです.自分が 外側に対して表現する感情が,あらかじめ選択 肢 に な っ て 携 帯 電 話 の な か に 入 っ て い る. RPGみたいなものですね.そしてそこからい くつかを組み合わせて,現在の感情を相手に伝 える.そうすると,相手からもなんらかの組み 合わせが返ってくる」(東,2002,p.p.53-54). またこのようにも述べる.「必要なのは,身体 レベルで組織される視覚の訓練であり,オタク たちのいう『脊髄反射』的な感覚です.つまり, 身体をモル的な主体(ドゥルーズ/ガタリ…筆 者注)から解放し,ただ単純に記号のセリーに 委ねることが必要とされる」(東,2002,p.55). 東は結局のところ,さらに電子メディアの特 性に「双方向性」という要素を含めた上で, 「データーベース」という,そこに何かがある のだけれども決してその全貌には到達できない という性質を持つ巨大なシステムが,監視の完 全化という以上に,自分で言葉を選択しコミュ ニケーションしているように見せて,実はデー ターベースから提供された言葉を使って「主 体」というものを作らせ管理していることを指 摘している.言い換えれば,鏡像を介した他者 のない再帰性の中に「主体」が生み出されてい るという議論を,いわばポスターに対置させる 観点としてひらいている.もちろん先の「携帯 メール」の例は,それが書かれた2002年とい う時代性を反映させた表現であるが,「スタン プ」を中心としたLINE等のSNSの現状を見 れば,こうした指摘は近年さらに進んでいると 言ってもよい.テロップという言語も,東の観 点からは,従来とは異なった再帰性の中に特有 の「主体」を構築させる一つのツールであると いう見方も導かれよう. 東は次のようにも述べている.「チャットで は長い議論は無理.たいていは『ふむふむ』と か『だよね』とか,おたがいの自己像を確認す る作業.自分が発した言葉がスクリーンでぶつ かり合って,そのまま跳ね返ってきているよう な状態です.…(中略)…チャットのコミュニ ケーションというのは,犬とのコミュニケー ションとあまり変わらない,というがぼくが言 いたかったことです.そしてネットの場合,そ の鏡像関係の背後にはデーターベースしかない. だからその鏡像関係を乗り越えようとしても,
大文字の他者は立ち現れてこない.さきほどの 言葉で言えば,象徴的媒介に到達しない.犬と の鏡像関係を乗り越えようとしても,犬が話し 出さないのと同じように.ネットを検索すると いろんな情報が手に入りますが,実は検索語は こっちが入れているわけですよね.だから出て く る の は す べ て 鏡 像 な ん で す 」(東,2002, p.p.68-69). ここには,個と社会といった象徴的な再帰性 のうちに回収されない,閉じたループの中での 工学的ないしデーターベースを前提とした再帰 性が再び語られている.ところで先に触れた 「GIGAスクール構想」では,1人1台のタブ レットの整備とともに,情報通信ネットワーク の整備,つまり「クラウドサービスの利活用」 に力点が置かれている.言い換えれば,デー ターベースの利用のことである. こうして東が強調するのは,「データーベー ス型権力」という概念である.東はこれを次の ように説明している.「人間は『見られている こと』,つまりサルトル的な視線の弁証法には 生理的に敏感な生物なのではないか.だからそ れをもとに近代の規律訓練型主体ができあがっ た.でもいま現れているデーターベース型権力 は視線の権力とはまったく異なる.近代の権力 が大文字の他者の視線を内側に織り込むことに よって成立するものだとしたら,ポストモダン の権力は,ぼくの言葉で言えば『過視的』で視 線がない.あるいは無数の視線がある.つまり, 視覚的メタファーでは捉えられない.自分が誰 かに見られているのではなく,自分の姿がバラ バラに分解されて,無数の人々にバラバラに分 析されているような感じ.そういう管理システ ムはどうも市民の想像力を越えてしまうので, いくら言葉で言われても生理的な嫌悪感がわき 起こらない」(東,2002,p.70). フーコーがかつて述べた「従順な身体」に見 られる権力に対して,このような「データー ベース型権力」が作動する身体は,不在の他者 の視線を内面化し規律訓練することから,むし ろ逆に身体が「内部」としての働きを持たない ものとして「表面化」すること,つまりイメー ジとして,あるいは「あるけれどもない」とい う非所在化した情報身体として,脱主体化する ことに特徴がある.しかし,「主体」はその中 で,逆説的ではあるが構築されている.「映像 としての身体」がもたらすものは,このような 身体に対する学校での新しい「主体」をめぐる 政治性であり,今後,学校に広がるであろう 「情報様式」とは,このような「鏡像的な身体」 が織りなす,物理的に情報(記号/数字)や言 葉が優位性を持って現れる形で工学的に向き合 う,「データーベース型権力」の発動という事 態ではないか.タブレットというメディア学習 体験の中身は,30年前から語られてきたこの ようなポストモダン的な社会的経験の構成を促 すものであるのではないかということである. こうなると,もはや学校空間という物理的な 「場」は,身体の管理には必要がなくなる.こ の意味では,タブレットの普及は,学校の物理 的な「場」の解体であり,身体の学校的管理の 社会空間への全面化,あるいは全体化を意味す ることにもなろう.「視線」ではなく,そこに ある,電子メディアという環境そのものが,も はや主役になっているのである. 「記録されている」ことが「自己観察」する ための意図しない結果的な随伴作用であるため に,「眼差し」という意味での「記録している =評価している」人間が不在化し状況の全体を 学習者自身は意識できない.東が,「絶対的に 見えないもの」あるいは「スクリーン」と呼ぶ 仕組みである.例えば体育で実技のテストを行 うとき,評価者=管理者である「教師」の「眼 差し」を学習者は意識する.この意味で,「教 師」は象徴的媒介者として,学校における権力 作用の欠かせない要素となってきた.例えばこ れまで,潜在的カリキュラムとして分析されて きたことは,このような教室内の「かくある事 実」を対象としたシンボル交換のシステムであ る.しかし,タブレットの使用によるアプリで の学習行為には,非人称的な作用が随伴してい るだけであり,象徴的な媒介がなされずダイレ クトに,あるいは工学的にそれが「記録」とし て作動しているだけである.この意味で,むし ろ「教師」はここでは「透明化」してしまう. 例えば,一方で,タブレットは,同じく広がる
電子黒板等とネットワークを組んで使用される ことも多いが,このときの,クラス全員での確 認という作業は,むしろ「透明化」した自身の 存在を,象徴的媒介者として取り戻す瞬間では ないかとも思われる.あるいは,タブレット学 習時に「まとめ」の時間を持つことによって言 語のシンボル交換性を求めてしまう,ある種の 抵抗する教師感性の存在である.このような新 しい「主体」を構築する子どもや社会を育くむ ことはどのような「未来」を予想することにな るのか.新しい課題とパースペクティヴが浮き 上がってくるのが,現在の学校体育空間なので あろう.
Ⅳ.おわりに
コロナ禍という出来事は,学校体育にタブ レットの普及と体育のあり方を揺らがすものと して学習空間の変容をもたらすとともに,具体 的には,そこに潜んでいた身体の政治性を抜本 的に変化させるのではないか,ということを, ポスターの「情報様式」の議論とその焦点と なっている「言語」によせて,特にテロップに 着目して考えてきた. 「パノプティコン」に代表される初期のフー コー的権力から,東のいう「データーベース型 権力」への移行という事態は,ある時期に劇的 に切り替わるわけではなく,おそらくグラデー ションを描きながら,振り返ってみると変わっ ていたといったプロセスをとるように思われる. 体育という事象を対象に,ポスターのいう電子 メディアのコミュニケーションに特徴付けられ る「情報様式」が学校空間を変容させるプロセ スを研究することは,ポスターが提起した30 年前の議論を丁寧に検証する具体的な場になる とともに,その後の「情報様式」に関する議論 とそこから分析しうる,例えば身体の政治性や 後述する「主体」の現代的転回などの研究の端 緒をひらくことにもなろう.周回遅れの「脱近 代」のショールームとして,体育の学習空間は 研究対象としてのポジティヴな機能を逆に果た すのではないかという見立てである.この意味 では,体育社会学は「体育」という現場を対象 として,実践と理論の往還の中,学習指導等へ の臨床的な研究ベースとして意義を持つととも に,こうした社会やその中にある教育全体に関 する課題に対しても,大きな成果を上げること のできる可能性を持っているのではないかとも 思われる. ところで,ポスターが著した「情報様式論」 の日本語訳版には,大澤真幸が解説として「現 代的転回を検出する橋頭堡」と題した論考が載 せられている.ここで大澤は,ポスターがメ ディア環境の問題を,ボードリヤール,フー コー,デリダ,リオタールといった現代思想と 「理 論 と 律 儀 に 対 応 さ せ た 」(大 澤,[1991] 2001,p.377)意義を強調するとともに,「デー ターベース」をめぐるポスターの《超パノプ ティコン》と言う言葉から捉えるフーコー論に 対して,ある海外のテレビ番組を例に挙げ分析 し「現実的に確保されてしまっている永続的な 監視によっても,「主体」と言う同一性は結晶 しないのだ.我々がここに見ているのは,ある 機制が,あまりにもスムーズに作動する場合に は,かえって逆効果であって,いくぶんぎこち なく作動している間だけ所期の結果をもたらし うる,と言う逆説である.」(大澤,[1991]2001, p.376)と述べ批判を加えている.大澤が具体 的にフーコーを例にして述べる内容とともに, ポスターが「現代的転回を検出する橋頭堡」と しての意味を持つと言う観点も興味深いもので ある. 電子メディアに特徴付けられたコミュニケー ションの「情報様式」は,先にも触れたように 「双方向性」と言う技術を獲得したことによっ てその姿をさらに変容させている.特に近年は 「Society5.0」という言葉によって最初に触れ たように,AIやIoT,あるいはブロックチェー ンといった,革命的なメディア技術の進化が進 んでおり,この視点からの体育に対する社会学 的な研究視角も今後大きな位置を占めてくるこ とになると思われる.このときに,より見通し にくい事象や現象を捉える際の理論的フレーム として,やはりポスターのそれは,まさに大澤 の言うとおり「橋頭堡」として再読される必要 のあるものではないかと思われる.本稿では,行為論の次元に理論的アプローチ をよせて焦点を絞った課題について検討してき たが,コロナ禍の体育に見られる問題や,体育 社会学におけるインプリケーションが様々にあ る中で,本稿の扱った問題やそのアプローチの 仕方はまさに限定的なものでしかない.実技が 中心の学習であるからこそ,そもそも「オンラ インでの授業」ということへの対応をどう考え るのかといったことに始まり,「ソーシャル ディスタンス」や「身体接触の回避」といった 課題の中でどのような学習が可能となるかなど の問題が,今般のコロナ禍では生まれた.さら には,多くの学校で,2020年度は実技として の「水泳」が教育課程として履修されていない といったカリキュラムの課題も起こった.学校 休業中には,そもそも運動やスポーツができな い状況が広がったときに,のびのびと運動やス ポーツを子どもたちにさせてあげなければ,と いう社会的な声はよく聞かれたものの,例えば 「これでは逆上がりができなくなる」とか「体 育に関する知識が学ばれなくなる」といった危 機感が社会的に表明されることはそれほどな かった.もちろん,事案ごとに行政や学校現場 では対応がとられているが,だとすればそもそ も「体育」という教育活動や内容,方法を制度 的に定めているということは,いったい,本質 的にどのような意味を持つものであったのか. 思いつくままに挙げても,研究が必要だと思わ れる事象が本当に多い.引き続き,対象やアプ ローチの仕方を広げていく努力を積み重ねてい きたい. 注 注1)本稿(特にⅢ)は,日本教育社会学会第68 回大会(2016)にて「課題研究Ⅱ,現代社会 におけるメディアと教育:メディア環境の変 容は教育をどのように変えようとしているの か」の中で「触れる映像環境(image)は教 育に何をもたらすのか―再帰的/視覚的経験 構成の微視的政治学―」として報告した内 容,並びに日本スポーツ社会学会第28回大会 (2018)にて「「視ることば」と身体の「自己 指示化」―高度情報化社会における再帰性に 焦点づけて―」として報告した内容に基づい たものである. 注2)本資料の収集ならびに日本語訳は,本ヴァー チャルワークショップに参加された東京学芸 大学次世代教育研究推進機構専任講師の長 谷川友香氏が行ったものである.長谷川氏 にはご協力とご承諾を得て引用させていた だいた.OECDによる原文の掲載は以下の webサ イ ト を 参 照(2021年1月31日 取 得, http://www.oecd.org/education/2030-project/ global-forum/previous-events/Agenda%20 OECD%20Education%202030%20May%20 Workshop.pdf) 注3)以下の毎日新聞記事を参照,(2020年11月20 日取 得,https://mainichi.jp/articles/20200911/ k00/00m/040/183000c) 文 献 東浩紀(2000)不過視なものの世界.朝日新聞出版社. 東浩紀(2001)動物化するポストモダン:オタクか ら見た日本社会.講談社現代新書. 東浩紀(斉藤環×東浩紀)(2002)工学化する社会/ 動物化する人間.大航海,42:51-89. 東浩紀(2016)弱いつながり:検索ワードを探す旅. 幻冬舎. F. レイマーズ・A. シュライヒャー(Reimers, F. ・ Schleicher, A.): 木 村 優 ほ か(仮)訳(2020) OECD 2020年新型コロナウイルス感染症パンデ ミックへの教育における対策をガイドするフレー ム ワ ー ク.https://www.fu-edu.net/sites/default/ files/archives/2020/archive-20200423-13256.pdf, (参照日2021年1月31日). フーコー,M:田村俶訳(1977)監獄の誕生:監 視 と 処 罰. 新 潮 社. <Foucault, M.(1975)
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