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ビジネス・エシィックスについての講義(1): 沖縄地域学リポジトリ

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Title

ビジネス・エシィックスについての講義(1)

Author(s)

新城, 将孝

Citation

沖大法学 = Okidai Hōgaku(21): 77-100

Issue Date

1999-03-15

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/6619

(2)

ビジネス・エシィックスについての講義(1)

新城将孝

沖大法学第二十一号

1.はじめに

最近、企業不祥事ないしは会社不正という言葉をよく耳にする。企業不 祥事ないし会社不正という用語について、明確な定義付けがあるようには 思えない。漠然とではあるが、企業不祥事は企業に対して何らかのマイナ ス効果を与える事件等が起こったときに、例えば、一般的には、刑法に違 反したり、独占禁止法に違反したりして、刑事罰を含めた罰則の適用を受 けたりしているときに使用されたりしている。また、会社不正という用語 については、従来会社内部における不正、例えば、従業員による不正(主 に単独)というような場合に使用されてきている。しかし、時代の変遷に ともなって、今曰では、会社不正は従業員による不正から経営者による不 正へ、そして単独から組織ぐるみへとその変化をもみせてきている(1)。 勿論、そこには違法な行為が行われたとき、それが民事責任の対象となっ たり、罰則等の適用があるのはいうまでもない。そのような中で、企業不 祥事という言葉、会社不正という言葉、両方とも使用されたりしているが、 それがその規模を大きくし、社会的に大きな影響を与え、社会問題化して きていることは確かであろう。 最近の企業不祥事ないし会社不正の例をみると、イトマン、木津信金、 東海興業、阪和銀行、山一証券の破綻、三井鉱山、ハザマ、日本航空電子 工業、高島屋等の取締役の株主代表訴訟での敗訴、野村証券事件、第一勧 銀事件等々と、まさに立て板に水が如しである。 これらの例をみるに、共通するものとして、会社役員等のコンブライア ンスの欠如を指摘できる。また、一般的にも、企業活動における倫理ない ○○ -21-

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しは順法の精神の希薄化は指摘されているところであり、言をまたないと ころであろう。 確かに、このような指摘はその通りであるが、これが必ずしもことの本 質に迫るものではない。企業には、出資者(株主)、経営者(取締役、監 査役)、従業員、その他多くの利害関係人が存在する。その中で、出資者、 経営者、従業員は企業組織内の成員である。これら組織内において生きる 成員は、必ずしも法的な、集権的で、公式的、専門的な構造ないし規制に のみ従って生きているものではない。企業を取り巻く環境ないし構造は、 公式の構造のみならず、非公式の構造をも含むものである。上記企業不祥 事ないし会社不正は、そこでの成員の行動様式、価値や規範、そして組織 的協働を行う中において現象してきたものであろうと思われる。それ故、 確かに、公式的構造は行動の基準であり、最低限の行動準則でもあり(法 の支配ないしは実質的な法治主義にある中で、法は最低限の行動準則とな るであろう。)、また、そこでの行動水準としての倫理の重要性も指摘する までもない。換言すれば、倫理はその場面、場面(又はその社会、社会) での倫理があり、企業の不祥事ないし不正に関してそのことの本質をみつ めるに、まさにその場面(又は社会)ごとでの公式的ないしは非公式的ま たは因習的行為に着眼した分析の重大さも見逃すことができないものと思 われる(2)。 言うに及ばず、最近における企業不祥事ないし会社不正の多発の異常さ は、この公式的構造と非公式的構造のゆがみから噴出してきたものと理解 できるところもあろう。このような意味においては、最近におけるこれら 企業不祥事ないし会社不正は構造的なものとの指摘をすることでき、その 問題の解決を極めて複雑困難なものとしているともいえる。 本稿では、まず、上記企業不祥事ないし会社不正を考えるにおいて、今 曰の、戦後における企業経営'慣行ないしその因習的行為の確立過程を留意 しながら概観をし、そして、公式構造たる法的規制(具体的には、主とし ビジネス・エシィックスについての講義(1) 九九 -22-

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て商法での規制)との関わりを摘示し、その考察の展開を試みる。そのた めの素材として、曰本的経営'慣行の一つといわれる終身雇用制をまず念頭 におきつつ、ビジネス・エシィックスとの関わりでは、少々乱暴ではある が、法的評価が社会的倫理ないし道義なりに依拠していることは周知のと ころであるところ、倫理ないし道義もその限りにおいて法的意味をもつも のである、ということをその前提としつつ、論を進める。 沖大法学第二十一号

2.日本的経営慣行の確立と株主軽視の経営

(1)曰本的経営慣行の確立 曰本的経営慣行の特色は、①終身雇用、②年功制(序列、賃金)、③企 業内組合にあるとされる。これはわが国特有なものといわれ、いわば三種 の神器にもたとえた経営形態とも指摘されている(3)。そして、この制度 の下で、ないしはこの枠組みの中で戦後の経済復興が行われ、戦後の高度 成長が支えらえたといわれる。この制度の特徴及び仕組みといえば、次の 通りであろう。①終身雇用は高校や大学からの新規卒業者を採用し、定年 退職まで雇用し続けるものであり、一般に雇用年数と年齢とが一致すると いう形をもたらす。②年功制は年齢(年数)とともに賃金の上昇があり、 昇進昇格をする。そして、③企業内で結成される労働組合ということであ ろう。この終身雇用制、年功制、企業内組合制は相互に関連し、相互に依 存し合っていることには論をまたないであろうが、そこには若年層の安定 的長期雇用、労働力や、貢献と報酬間との長期的な需給バランスがあり、 内部昇進制、企業内福利厚生の充実等をみることができる。勿論、このよ うな若年層の安定雇用は企業内教育への投資を容易とし、労働者自身それ を通して幅広い知識や技能を身につけることができる。 これら経営'慣行はわが国の文化的価値観とおそらくは両立してきたもの であろうが、その指摘も当然にある。具体的に、江戸時代の商家の奉公人 について、長い雇用期間、内部昇進制度(丁稚一手代一番頭)があり、退 九八 -23-

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店時の一時金制度があったといわれ、その類似性が指摘される。また、明 治期においては、ホワイトカラー労働者、1920年代にはブルーカラー労働 者を対象とした終身雇用制が大企業において出現し始めたといわれる。そ して、終身雇用制をベースとした、これら上記経営慣行は戦後の高度成長 期に大企業に広く普及したといわれる(4)。そして、内部昇進制について みるに、特にその中での特色としては従業員の中から会社経営者の選任を 行うというシステムを指摘することができる。いわゆるサラリーマン重役 の誕生であり、サラリーマンの出世の行き着き先は会社重役というパター ンの現出である。これは戦後において財閥が解体され、戦時中の経営者の 多くが追放され、それに代わる若い世代が企業のトップ・マネジメントを 担うに至ったことがその一因ともされる。とはいうものの彼らは、当時 「三等重役」と椰楡されながらも、戦後の曰本経済を牽引し、ここまで支 えてきたものといわれる(5)。 確かに、戦後の物もない、金もない時代。わが国は、暮らしの建て直し、 経済活動の建て直しに法人を主体とした施策を講じてきた。これは法人 (会社や協同組合等)の活動を助長するムードを作り上げ、種種の波及効 果を生じさせてきた。戦時中、会社の資本金について、その制限があり、 その規制を免れるために、資本金20万円未満の株式会社の設立も行われた が(6)、少なくとも、株式会社は戦後の曰本経済の建て直し、ないし曰本 経済復興の原動力となり、そして、高度成長をもたらしめてきた。とりわ け、小規模株式会社は、その税制優遇等もあり、増加してきた。その中で、 -部大企業と多数の中小企業という構図もできあがってきたが、政府と企 業との密接な関係も存在し、企業による海外への展開を図ろ過程では、企 業において、政府の庇護や後見等を得、その競争力の確保をしていきたい という傾向もみられた。経済の再建と欧米へのキャッチアップ、そこでの 政府との協力、企業、産業間の協調、横並び意識、身内への求心力等々そ こでは種々の現象等がみられたものである。まさに、奇妙な風潮ともいえ ビジネス・エシィックスについて の講義(1) 九七 -24-

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るであろうが、そのようななか利益至上主義は経済界全般に染みわたり、 本来会社の土台にあるべき倫理問題でさえも軽視されてきたきらいがない

わけでもない(7)。おそらくは株主もその状況を甘受してきたところもあ

ろうが、これらは株主軽視という会社経営の姿勢を作り上げることともなっ たであろう。 沖大法学第二十一号 (2)株主軽視の経営

株主軽視の経営姿勢であるが、これは会社の効率的経営のためにという

ことをその名目としてきたと思われる。政府や金融機関等も、前述からも 推認できるが、この姿勢の助長に加担をしてきたきらいもないわけでもな い。また、サラリーマン重役である取締役としても、株主総会、取締役会

が実質的に形骸化し、かつ、株主の権利をあまり意識しない方が便利とい

える。意のままに会社を経営できる。戦後の会社経営は、まさにその方向

にあったといえるし、会社を株主のものというより、経営者と従業員のも のではという思想をも形成せしめてきたものといえるであろう。もっとも、 株主軽視の端緒となったものの主なものとして、法人株主化ないしは法人 による株式の相互待合、いわゆる会社による株式の相互保有があり、そし て、増資形態の変化(時価発行と資本準備金制度)等があるとされる(8)。 (A)株式の相互保有 株式の相互保有とは、株式会社間において相互に株式を持ち合うことを いうが、この株式の相互保有形態には二つの会社間において相互の株式の 持ち合いを行う形態、三つ以上の会社がスクラム的(環状的)に保有した り、さらにはマトリックス的に保有する等多様な形態がある。 この株式の相互保有は、会社間を資本の面で結合させるものであり、戦 後の曰本企業における特有な企業結合の形態といわれる。その歴史的背景 を見るに、まさに、戦後における財閥の解体、それに次ぐ、旧財閥の再編、 九 六 -25-

(7)

そして、資本自由化に伴う外国資本に対する曰本企業の防衛策にあり、そ れらのために利用され、促進されてきたといわれる。曰本企業が国際的に 競争力を発揮できたのは、この株式の相互保有の容認があったればこそと の指摘もある(9)。確かに、この株式の相互保有はグループ内企業間の結 合の強化、企業間の業務・技術の提携、取引関係の維持強化、株式の長期 保有による高株価経営、乗っ取り防止策としての安定株主工作、経営支配 権の安定化等、その長期的展望にたった経営戦略を展開できるという点に、 その長所をみることができる。このような意味においては、政府と企業の 協調体制の下で対外競争を意識した企業間、産業間の協調関係、企業への 求心力、他者への対抗に有効な手段として利用されてきたところもあろう。 ただ、この株式の相互保有が法律的には多くの弊害を持つことは言うに 及ばない。商法上の問題は勿論、独占禁止法上の問題、証券取引法上の問 題等々である。その中で、商法(会社法)上無視することのできない弊害 としては、①資本の空洞化であり、②会社支配(総会決議)の歪曲化であ るとされる。資本の空洞化は、株式の相互保有が双方の会社に資本の増加 をもたらすものの、双方とも資金の相互移動を行うものであり、実質的に みたとき相互において資本の払戻を行うもの、というところにあり、資本 の維持・充実の原則に違反する。また、会社支配(総会決議)の歪曲化で あるが、これは株主総会での議決権の行使と深く関わっている。すなわち、 株式の相互保有をしている会社間の取締役が、例えば、取締役の選任、総 会の運営等について相互に総会での協力関係を有し、議決権の行使を行う ことになれば、実際の株主による支配権の行使が絶たれることになる。歪 な経営者支配の構造が発生してくることになり、権限の分配から会社の秩 序維持(チェック。アンド・バランス)を図ろうとする会社法上の基本的 な建前を骨抜きとする。 しかし、現行商法は、株式の相互保有自体を禁止ないし制限を行うもの ではない。また、企業結合規制との重なりも、充分な検討が行われている ビジネス・エシィックスについての講義(1) 九五 -26-

(8)

ものとは思えないところがある。その中で、現行商法上、株式の相互保有 に関する規制規定として、商法241条3項をみることができる。同条同項 は昭和56年の改正商法において追加されたものであるが、これは株式の相 互保有から生じる資本の空洞化と会社支配(総会決議)の歪曲化の弊害を 考慮してのことであるといわれる。簡便な言い方をすれば、25パーセント の株式保有基準による総会議決権行使を禁止するという、すなわち、株式 相互保有に関する議決権制限型の規制を行う(10)。そして、この議決権の 行使を制限するところから、総会決議の歪曲化を防止し、さらには、株式 の相互保有に歯止めをかけ、資本の空洞化を阻止していこうとするもので ある。ただ、本条項での規制は直接の相互保有についての規制であり、ス クラム的にまたはマトリックス的に株式の相互保有をした場合を対象とす るものではない。また、水平関係で相互に株式を保有している場合互いに 株式の保有量を増加させることはできる(25パーセントの株式保有で議決 権の行使ができないというだけである)。 沖大法学第二十一号 (B)増資形態の変化(時価発行と資本準備金制度) 株式会社の株主は会社に対し有限責任を負い、出資額を限度として会社 債権者に対して責任を負う。しかし、株主は株主たる地位を取得する時点 において、その義務の履行をしており、会社の財産のみが会社債権者にとっ て唯一の担保となる。商法は株式会社に対し一定の金額を資本として定め、 登記及び貸借対照表によって公示するものとしている。資本は、原則とし て発行済み株式の発行価格の総額(商法284条の2第1項)であるが、そ の発行価格の2分の1を超えない額を資本に組み入れないことができる (同条2項)。ただ、額面株式については額面、会社の設立に際して発行す る無額面株式については5万円を資本に組み入れなければならない(商法 284条の2第2項但書)。資本に組み入れない額については、資本準備金に 組み入れられる(商法288条の2)。そして、増資形態としては、通常の新 九四 -27-

(9)

株発行による場合が一般的であるが、配当可能利益の資本組み入れ(商法 293条の2)、法定準備金の資本組み入れ(商法293条の3)による方法も ビジネス・エシィックスについて ある。 企業の資金調達には、このように株式や社債などの証券を発行して行う 方法(いわゆる直接金融)と金融機関等から借り入れをして行う方法(い わゆる、間接金融)とがある。ただ、株式や社債を実際に発行できるのは 株式会社だけであり、しかも、市場を通して広く多額の資金を調達できる

のは、実際上は上場会社又は店頭登録会社ということになってくる。多く

の企業は金融機関等からの借り入れで行われる。また、実際、わが国の企

業は資金の調達を金融機関等からの借り入れに依存してきた。それが、い わゆる、メーン・パンクとして現れてきた。そのような意味では、新株発 行による資金の調達はそれほど大きなものでなかったといわれる(11)。 いずれにせよ、新株発行の方法には、株主にその持分数に応じて新株引

受権を与えて行う株主割当、広く一般投資者から新株の引受人を募集する

公募、そして、株主以外の第三者に新株を割り当てるという第三者割当

(例えば、提携関係を強化するために相手企業に割当たりする。)とがある。

従来、わが国において、新株の発行はそのほとんどが株主割当にあったと

いわれる。具体的には、株主割当による額面発行が行われていた。準備金

の資本組入れ(抱合せ増資)の場合は、額面以下で行われていた。株主の

側からすれば、増資の前後においてその持株割合は変わることなく、かつ、

新株の引受によって旧株の目減り分の損失を受けることもない。むしろ、

株式を引き受けたことによるリターン(増資の割当)となり、経済の高度

成長期においては魅力ある利得となる。しかし、会社にとっては、特にそ

れが額面発行であった場合、手取金は少なく、しかも配当負担かi大きくなっ

て資本コストの増大が生じてくる。それは、わが国の会社が額面志向が強

く、額面の1割前後を配当金とする、額面基準が一般に行われているとこ

とに由来する。確かに、商法は、株主の平等の原則に従い、利益配当は株

の講義(1) 九 -28-

(10)

式の発行価格が相違していようが、また、額面株式と無額面株式とが併存

していようが、各株主の有する株式数に応じて行われることを求める(商 法293条)。額面基準の適用、いわゆるこの安定配当政策は、それが上場基

準ないし店頭基準とされているところ、形式的ではあるが一応便宜である

という理由によるところもあろう。 ただ、会社にとっては、その手取金の少なさ、資本コストの増大は如何 としがたいとこであろう。それが時価発行となれば、これらのマイナス面 が克服できることになる。とりわけ、抱合せ増資(商法280条の9の2) の利用は株主にとって額面額より少ない払込金とすることもでき利点とみ ていくこともできるが、会社にとっては一般投資家に対する公募も容易と なる。 そもそも、株式の時価発行は発行市場と流通市場とを緊密に結びつけ、 また、株式の価格メカニズムにあうものである。確かに、わが国でも経済 成長とともに株式の時価は額面額を大きく上回るようになってきた。企業 規模も徐々に大規模化し、経営の効率化も求められるようになってきた昭 和40年代に、時価発行増資の方法が取り入れられ、昭和50年代には額面 発行に代わって主流となってきたのである。しかし、個人投資家たる株主 にとっては、リターンが少なくなり、キャピタルゲインにしても、実際上 はその取得は非常に困難なものとなった。加えて、資本準備金の制度であ るが、その会計年度における利益の多寡にかかわりのない安定配当政策を 取るわが国において、これは配当しない資本を構成することとなった(12)。 会社にとって、まさに、時価発行と準備金制度は魅力あるものとなったの である。 沖大法学第二十一号 九

3.サラリーマン重役による会社経営とその問題点

(1)従業員の法的地位と使用人取締役 今曰、会社の経営は社長を中心に専務、常務、そして、取締役(多くは -29-

(11)

部長兼務または非常勤の社外者)等によって行われている。当然、そこに は指揮監督関係が存在し、その職務上の上下関係が存在する。社長を中心 とした専務、常務、そして、取締役(部長兼務)といったこの指揮監督関 係は、社長の権限を強大なものとし、かつ、経営の意思決定を-部の重役 (常務会)に委ね、経営意思決定の迅速性と機動的な業務執行を可能とさ せてきた。これらは、前述してきたように、戦後において、サラリーマン 重役の出現があり、サラリーマンの目標は取締役であり、すなわち会社の 重役であり、先々は社長ということになってきたことの具体化でもある。 出発は財閥解体、それが戦争責任の追及に端を発したものとはいえ、会社 従業員が戦後経済の建て直しに一役を買い、経済復興の成功をおさめさせ たことがその背景にあるといえる。使い古された言葉であるが、従業員は 会社人間となり、家庭返上までして夜遅くまで働き、高度成長を支えてき たものである。従業員が経営の最前線に、そして、経営者として加入して いくことも、これら状況整備が整ってきたことの結果ともいえる。 ただ、加えるに、戦後のわが国の労働組合は、そのイデオロギーとして 年功序列(賃金、昇任)を求めてきたものである。確かに、使用人兼務の 取締役(使用人取締役)の報酬は使用人兼務部分を除くとわずかな額の支 給しかないというものの、これらは、曰頃のその功労に報いるという、曰 本的な恩情ある措置、会社側にとっては会社への忠誠心を確保するための 措置の一つでもあろう。また、経営者市場がなく、ステイタス志向に傾斜 していった日本社会の特色の一つかもしれない。しかし、その結果は、従 業員の昇進先であるポストの準備が必要となり、おのずと取締役の数は多 めに設定され、法定の業務執行機関である取締役会の形骸化が進行させら れてきた。しかも、取締役の多くがこのことに疑問をもたないか、また、 もったとしても、猛烈なシェア競争等のためにやむ得ないこととして捉え てきたきらいも見受けられる。

商法の規定する株式会社であるにもかかわらず、そのことがあまり意識

ビジネス・エシィックスについての講義(1) 九 -30-

(12)

されず、というより、これまでも見てきたように、意識しないでもよい構 造が確立され、その中で、会社は経営者(取締役)と従業員のものではな いかとの思想にも陥ってしまってきたであろうと思われるようなところも ある(13)。 沖大法学第二十一号 (A)従業員の法的地位 民法上、会社とその従業員との法律関係は、雇用契約関係である(民法 623条)。民法において、終身雇用契約という概念をみることはできない。 民法上、雇用契約には、期間の定めある雇用契約と期間の定めのない雇用 契約とがあるのみである。そこで、終身雇用制ないし終身雇用契約とのか かわりでこれをみたとき、それは契約関係の継続性への要請が強い期間の 定めのない雇用契約ということになろう。現に、現実の終身雇用制ないし 終身雇用契約といわれるものを観察するに、それは常用従業員の雇用を行 うものであるが、それには定年制が設けられ、生涯雇用をその内容として いるものではない。換言すれば、いわゆる、この終身雇用契約は、その継 続的契約性から、解雇権濫用の法理により、使用者からの一方的な解約の 申し入れ(民法627条)を制限されたものであり、また、終身雇用の終期 (定年)は労務提供能力の有無という一般的慣例の実態に求められ、労務 提供能力のある限り(常用)雇用することをその契約の内容とするものと 理解していくことも可能であるからである(14)。 いずれにせよ、雇用関係が契約として構成されるところからは、使用者 と従業員間の合意の内容、特に、労働条件については契約時における就業

規則が重要となる。労働条件は就業規則の一括承認によって雇用(労働)

契約の内容となるからである。勿論、代理権の授与は、雇用契約とは別途

に行われるものと理解される。

商法上、雇用関係に基づき労務の提供を行い、かつ、代理権の付与が行

われている者として商業使用人をみることができる。商業使用人の種類と 九○ -31-

(13)

して、支配人、番頭・手代、店舗使用人がいるが、これらの者は営業主と

の間に雇用契約を締結し、かつ、営業主からその営業に関する代理権の授

与を受けている。

これに対して、会社役員は、会社との間に雇用関係があるわけではない。

その法律関係は、委任関係と理解される。

ともあれ、委任と雇用を区別すると以下のようになる。すなわち、雇用

と委任は、役務の給付自体が目的となり、その共通性をみることができる。

しかし、雇用では労務の提供が行われ、労務提供者は労務提供の法律上の

義務を負い、労務の提供に関する支配は使用者側にある。これに対して、

委任では法律行為をなすこと(委任事務の処理)の委託がなされ、委任事

務の処理に関する支配は受任者の手中にある。受任者は、自らの裁量によっ

て動くものである。換言すれば、雇用の場合、仕事をする時間、場所、方

法等が相手方のコントロールに服しており、その独立性が認められない。

これに対して、委任の場合、自己の裁量で委任事務を処理するという独立

性が認められろ。そして、少なくとも、委任事務の処理が契約上の義務と

なる。

勿論、委任契約が行われる目的の中心には、代理権の授与があるといわ

れる。むしろ、任意代理の内部関係が常に委任と考えられていた頃もあっ

た。しかしながら、他人に事務の委託を行う取次は委任事務の処理であり、

また、委任の典型といえる。それゆえ、委任が常に代理権を伴うものでは

ないことはいうに及ばない。

ここで、周知のように、委任と雇用とでは相互に相容れない性質を帯有

するところがある。しかし、わが国の場合、使用人取締役の存在が認めら

れている。 ビジネス・エシィックスについての講義(1) 八九 (B)使用人取締役

使用人取締役とは、取締役であると同時に支店長、部長、課長、その他

-32-

(14)

会社の使用人としての職制上の地位をもつ者のことをいう。このように、 使用人取締役は経営者であると同時に、使用人という矛盾した立場に置か れる。 日本的経営風土に基づくものともいえるが、その設置は幹部使用人の昇 進の開拓、専門的職務の担当を可能とならしめる、経営者(取締役)と使 用人の意志疎通を図り、業務運営の円滑化を図る等の経営政策上の理由が あげられている。確かに、使用人は、会社業務に精通しており、それを経 営者(取締役)のメンバーに入れることは実務をスムーズのものとし、有 能な使用人に昇進の途を与え、かつ、会社に対する功労者の処遇の方法と もなる。また、使用人の地位をかねることによって雇用的地位を確保し、 その地位の不安定性を排除することができ、外部者からは使用人を重要視 させることにも繋がる。そして、こと税法上の取扱いに便宜があるとすれ ば、会社経営上、労務政策上、好ましい制度ともいえるであろう。 そして、法的には、以下のような説明が一般に行われる。監査役につき、 使用人兼務禁止規定があるのに対して、取締役の場合にはそのような兼務 禁止規定を見いだすことができない。現行法上、取締役の地位は会社との 委任契約に基づくものであり、使用人の地位は雇用契約と委任契約に基づ くものであり、これらは併存することが可能である(15)。また、取締役は 取締役会に出席して業務執行の意思決定に参加するだけで、業務執行権限 を持たず、これに対して使用人としての資格を与え、業務執行行為を担当 させることは論理的に矛盾するものではない、と。 確かに、今曰、取締役会は業務執行に関する意思決定機関であり、取締 役はその構成員であり、業務執行権をもたないものと一般に説明される。 そして、業務の執行者としては、代表取締役が予定され、代表取締役以外 の取締役は代表取締役の業務執行を監督することが期待されている、とす る。 ただ、現行法上、代表取締役が対内的業務執行権をもつことは明らかで 沖大法学第二十一号 八 八 -33-

(15)

あるが、取締役が業務執行権を持つかについては、実務との整合性からみ たとき、それは不明と言っていいであろう。実務的には、定款又はそれに 基づく業務規程で、業務担当(ないし役付)取締役(代表権のない副社長、 専務、常務取締役等)の容認がみられる。これは法定資格に基づくもので はなく、換言すれば職制、すなわち、任意資格によるものといえる。代表 取締役が使用人を兼務できないことは言うに及ばないであろうが、かといっ て、この業務担当取締役と使用人取締役との間の区別も必ずしも明確なも のではない。仮に、業務担当取締役が使用人を兼ねることとに実益がない として、使用人を兼ねないとしても、その職制の下、代表取締役の業務執 行権の範囲内の業務執行にたずさわるであろうことは言うに及ばないであ ろう。 商法上、取締役は取締役会に出席し業務執行に関する意思決定に参加す るほか、代表取締役の業務執行を監督することがその職務とされている。 すなわち、代表取締役の業務執行を監督する立場にある。しかし、業務担 当取締役は代表取締役の業務執行権の範囲内で業務執行に携わり、使用人 取締役は、場合によっては業務担当的要素を含むときもあろうが、使用人 としての資格で業務執行に携わるものである。これは代表取締役以外の取 締役に業務の執行を認めることにもなるが、果たして、法が期待するよう に取締役会の監査機能は充分に働くのであろうか、との疑問を生じさせる。 そこには職務の混同が生じ、取締役会の業務監査機能を全く骨抜きとさせ る可能性が帯有されていることを意味する。 また、商法は取締役に経営の専門家を予定している。経営の実績をあげ た者は再任されるであろうが、実績をあげ得なかった取締役は再任されず、 またいつでも解任されるという憂き目にあう(民法651条)。しかし、使用 人取締役は取締役としての委任関係の終了(ないし解任)があったとして も、使用人としての地位が確保されている。そこでは、実質的に、その職 務遂行上の影響力を行使しつづけ、権限の実質変更が行われない可能性が ビジネス・エシィックスについての講義(1) 八七 -34-

(16)

残される。勿論、地位確保のためにこれが利用されたりするおそれもある が、法の予定する任意解任の原則の実効性が事実上奪われたり、ひいては これが原則の否定につながっていく可能性もある(16)。 まとめてみると、昭和25年改正法は企業の所有と経営の分離という社会 的・経済的現象を考慮し、会社経営機構の合理化を図ってきた。具体的に、 従来、会社の最高機関であり、万能の機関でもあった株主総会の権限は縮 小され、取締役会の権限は大いに拡大された。そして、会社経営を取締役 に任せ、その広範な権限の慎重な行使のため、業務の執行につき、取締役 会と代表取締役という機関を置いたものである。取締役会の構成員として の取締役は、当然、取締役会に出席し、業務執行に関する意思決定に参加 するものであるが、この他、株主総会への出席権(商法244条2項)、説明 義務があり、そして、取締役会の招集権(商法259条1項)、各種の訴権を 有し(商法247条、252条、280条の15,380条、415条、428条)、会社経営 につき軌道修正することができ、さらには整理の申し立てをすることもで きる(商法381条)。 とりわけ、使用人取締役については、その容認の説明に疑問と言わざる を得ないところがある。 沖大法学第二十一号 (2)機能しない取締役会 今曰、日本の組織は自由・平等の思想に基づいてつくられているといわ れる。商法もそのことを予定し、会社の経営機構の構築もそれを前提とす る。しかし、前述のように、使用人取締役制度等、わが国の経営制度は必 ずしも商法の趣旨を充分に取り込んだものといい難いところもある。経営 の効率化の結果といえばそれまでであるが、それにしても、その運用には 行きすぎたきらいがないわけではない。経営者(取締役)としては、何が 会社にとって最善の利益であるかをその経営判断において行わなければな らない。そして、その際には、将来の投資者を含む株主の利益に加えて、 八 六 -35-

(17)

従業員、納入業者、顧客、地域住民等への影響にもその配慮をしていかな ければならないであろう。そして、その配慮の程度であるが、それは株主 の(長期的)利益を著しく損なわない範囲での考慮が必要ということにな ろう。経営と所有の分離があり、所有者から経営者(取締役)に対する経 営の委任が行われ、所有による経営の監視が行われる、これが株式会社制 度の本来の姿といえるからである。しかし、前述もしたように、今曰にお いては、株主軽視の経営が行われている。そして、株主総会は形骸化され、 また、取締役会も形骸化し、商法を意識することがなくなってきたとき、 そこには会社を従業員とその従業員出身によって固められた経営者(取締 役)のものと捉えてしまう錯覚にさえ陥る可能性があり、また、陥ってき たともいえるところがある。 一般に、わが国の重役(取締役)は、従業員の身から、重役に昇任ない し昇進する。確かに、かつて、わが国の企業は従業員本位制にあり、企業 (会社)の主体は従業員にあるとさえもいわれてきた。わが国において、 多くはそれを信じ、自己の将来の目標を重役(取締役)に置き、企業戦士 ないしは会社人間化してきたところもあろう。しかし、企業内部に目を転

じたとき、企業自身が適正な行動をとっていないため、従業員の尊厳が侵

されているのではと疑いたくなるケース等もある。セクハラ問題、過労死

問題等はその典型としてみていくことができるであろうが、研修に名を借 りた人生観と生活態度に対する干渉等もある模様である。極の表現であろ うが、従業員には滅私奉公を第一とする組織盲従、体勢順応を求め、それ

を社風であるとか、伝統であるとか理解し、それに耐えられた者を歓迎す

る。そして、会社人間化は出世する(目標の取締役となる)、という構図

が描きあげられる。 また、要注意とすべきところは、役員選任の実態におけるそのシステム

であろう。前述のように、商法では所有と経営を分離し、会社役員は株主

総会で選任するものとしている(商法254条)。しかし、使用人取締役が認

ビジネス・エシィックスについての講義(1) 八五 -36-

(18)

められ、また、その職制のもと、代表取締役の業務執行権の範囲内の業務

執行に業務担当取締役がたずさわるという今曰において、代表取締役(社

長)の権限は極めて強大となっている。これは取締役会が代表取締役の業

務執行に関する監督を事実上果たし得ない状況を作り出しているとの指摘

もできるが、現実には法定の機関ではない常務会の設置が行われ、代表取

締役(社長)ないし常務会の構成員というごく少数の者によってその業務

執行に関する意思決定が行われている(17)。また、本来、取締役会とは別

に置かれいるはずの監査役についても、実際上その人事権は取締役会、と

いうより代表取締役(社長)ないし常務会がもつ。しかも、その監査役の

選任も内部、つまり従業員またはその出身者から行われる。法規定上は、

商法特例法が大会社について「監査役は、3人以上で、そのうち1人以上

は、その就任の前5年間会社又はその子会社の取締役又は支配人その他の

使用人でなかった者でなければならない」(商特法第18条)とするのみで

ある。

まさに、「親分がいて、子分を引き上げる。子分がまた次の子分を引き

上げる。」、これが役員選任のシステムをつくりだす(18)。周知のところだ が、今日の公式の組織においては、他の者に対する好き嫌いをあからさま にはできない。しかし、運用では必ずしもそうでないところの指摘である。

人は、困ったときに庇護してくれる他者に親しみをもつこともあろう。犯

した失敗、非難から身を守る必要性もある。そこに、インフォーマル・グ ループを作ったり、あるいはそれに加入したりする誘因もある。このイン フォーマル・グループは、団体構成員の中で自然に発生する友好団体がそ のベースとなったものといわれ、ある意味では私的な感情を基礎としたグ ループであるとされる。まさに、人間関係の好き嫌いを基にしていると言 い換えることもできようが、その団体組織内おける影響力が大きくなり、 利益集団へと変貌してきたものである(19)。株主総会にしろ、取締役会に しろ、その意思決定に多数決を原理とする。昇進は同一組織内の成員の多 沖大法学第二十一号 八四 -37-

(19)

数の同意を必要とする場合が多く、グループに属することによって昇進の 機会も確保しやすくなる。他方で、グループに属さない者は差別され、漏 れた者は出世もおぼつかなくなる。このような意味において、グループの ボスの指示は絶対的なものとなる。このような人脈ないしは傘の下で、本 来なら無理で、不合理と思われるような事柄でも、押し切られるというよ うなこともあろう。このようなとき、それが違法行為へとつながっている 危険性もある。ここに、本稿が最初に指摘した企業の不祥事ないし会社不 正を生じせしめた背景の一つをみつけだすこともできるように思われる。 また、これまでも指摘してきたように、わが国の重役(取締役)は、そ の多くが従業員の身から昇進(昇任)していく。これは、換言すれば、労 働法の世界から商法の世界へと飛び込むことになる。一般論としても、そ のトレーニングのほども問題となろうが、加えて、競争倫理に支配された 下での経済環境の偏重から、独立した人格として、個人の利益とその関係 を規定することなく、相互牽制の機能が働くこともなく、法律環境を軽視 し、遵法精神ないし倫理の希薄化を招来せしめているとすれば、また、そ のような文化形成の土壌があるとすれば、それは警戒すべきことであろう (20)。 ただ、株主軽視の経営があり、株主総会・取締役会の形骸化があるから 企業不祥事ないしは会社不正が発生するであろうか。また、インフォーマ ル・グループがあるから、そこから直ちに不祥事ないしは不正が発生する であろうか。問題とされているのは、おそらくそう単純なものではないで あろう。問題は、むしろ責任の所在又はその問い方にあるのかもしれない。 ここで、法人論に戻るとして、法人実在説の下では、会社は社会的実在体 ということになる。そこでは、会社は実質的な主体性を認められることに なる。しかし、会社は、その実態としては自然人である個人を離れて存在 することはあり得ない。具体的に、会社の意思決定は自然人又はその集ま り(機関)によって行われ、また、会社を代表するのは自然人である。会 ビジネス・エシィックスについての講義(1) 八 -38-

(20)

社については、この基本認識が必要となる。 企業不祥事ないしは会社不正、そしてその責任についての議論を行うと き、それは組織、すなわち会社自身の責任なのか、それとも、その職務行 為を行った個人の責任なのか、その考察を必要とする。現行法は、責任主 体を自然人である個人におく。また、これが近代自由主義の基本原理であ ろう。確かに、会社について、不法行為責任は認められるが、刑事罰は課 されない。現行法の下で、会社は罰金を課されるのみで、自由刑は課され ない。会社は、責任主体として取り扱われないのが前提にあるといえる (21)。そこで、例えば、法人への罰金刑でその不祥事ないしは不正を抑止 できるであろうか。おそらく、これは否と応えざるをえないと思われる。 それは利益至上主義あったとき、当然、経営者は会社のあげる利益と罰金 額との比較が行なうであろうからである。また、それではということで、 例えば、会社の意思決定を行うものでもなく、会社を代表するものでもな く、経営者の指示に従った者を責任追及の対象とすることができるかであ る。これも、個人的犯罪ないしは個人的責任となる場合を除けば、否とい うことになろう。それでは、会社の意思決定に参加したり、または会社を 代表する者の場合はどうであろうか。これも基本的には前者の場合と同じ であろうが、勿論、商法上の刑罰又は民事責任は加わってくる。一般論と していうのであれば、組織の責任については組織、すなわち会社自身がそ の責任をとるべきであるが、前述以外の道としては解散、合併等がでてく る。しかし実態的なところから見たとき、この解散、合併等はその責任の 所在を不透明なものとし、会社役員の責任追求も鈍らせがちとなるところ もあるように思われる。 結局、前述のように、会社は自然人である個人を離れては存在しえない という基本的認識の重要性が再度指摘できることになる。それがない限り においては、責任に対する意識を酒養することはできないであろうし、ま た倫理の確保を困難なものとするであろうと思われる。 沖大法学第二十一号 八 -39-

(21)

4.むすびにかえて

ビジネス・エシィックスについての講義(1) わが国の企業文化は、確かに、これまで営利万能の資本主義文化の影響 を強く受けてきたといえる。しかし、今曰、わが国においても、個々人が 人格的自立を強く求めるようになってきた。人権の保障も相当程度拡充さ れてきたところである。そのような中、周知のように、経済的自由権は人 の生命や生活の潜在的可能性を最大限に発展させる機能をもつ。換言すれ ば、経済的自由は人権の基礎を拡充する側面を有するものであるところ、 人は経済的自由を展開しながら、その人格的な自由を拡大してきたとの説 明をすることも可能であろう。このこと自体は否定できないであろうと思 われる。しかし他方で、経済的自由が富の蓄積のみを目的としたとき、そ こでは人権を否定しかねない危険をも内在する。モラルなきビジネスが自 然や人間の固有性の尊重を阻害し、また、経済の停滞を招来し、ひいては 国民経済の基礎そのものを破壊してしまうこともあろう。実際において、

今日、そのような現象とみうけられるものもあるが、情報技術が急速に進

歩する今曰の社会において、企業ないし企業の活動には人間相互や、自然

と人間との共存や共生のモラル、いわゆる企業ないし企業活動におけるそ の倫理性が強く求められているところである。 ただ、ここでの倫理とは何か、おそらくはこれが課題となるであろう。

また、これが本講義のテーマでもあろう。これについては、現に存在する

行為の準則や規範としての、現実的道徳の準則や規範となる人間行動の原

理として、今、ここでは捉えておくことにする(22)。そして、言えること

は、それは企業活動との関連においては、行為者の個人としての人間的側

面と組織人としての組織的側面とに分化し、得てして、これまでそれが利

潤追求に関する自己正当化を図ってきたきらいがあるであろう(23)。また、

私経済的利益をもって全体の経済的利益に置換してきたところもあろう。

いずれにせよ、コーポレート・ガバナンスが成り立つに、コンプライアン

八 -40-

(22)

スがあり、そしてその土台に倫理があることの指摘でみるように(24)、こ こにおいては、企業活動に携わる者に利潤追求の社会的意義に対する正確 な理解がもとめられているものといえるであろう。ただ、やみくもに極大 利潤追求を無批判的に正当化し、盲信する行為は、今日、反倫理的行為と して捉えていくことができるであろう。そして、これが法的評価の場面に おいて、法的意味を持ち、組み込まれていくことになるであろうと思われ る。 沖大法学第二十一号 なお、本稿は、1998年度の「ビジネス・エシィックス」の講義ノート (筆者担当箇所)に加筆・訂正を加えたものである。「ビジネス・エシィッ クス」は、1997年を初年度する改組転換後の新しい法経学科に設置された 科目である。開講初年度の今学年度、もともと商法を担当する筆者にとっ てはまさに手探りの状態でのスタートであった。本講義はオムニバス方式 をとり、他に小林甫教授(経済学)、外間礼子講師(簿記、会計学)の参 加を頂いた。初年度は各自の専門から、各自のスタンスで行うこととし、 そのスタートを切ることとした。筆者の場合、まず念頭においたのが、近 年の企業不祥事である。中でも、97年5月の野村証券事件は、いやがおう にも企業内部における非公式的ないしは因習的行為に目を向けさせること となった。そこで、門外漢の筆者が経済・経営学関係等の本を、そして論 文を読み始めることとなったが、門外漢の浅はかさは本文中にも見るとお りで特に言をまたないところである。ただ、法経学部の改組転換、すなわ ち従来の法学科、経済学科の統合は、法学・経済学・経営学分野を総合し た、現場重視の(総合)教育をその理念としたものであり、その一環とし て本講義「ビジネス・エシィックス」の設置があったことの指摘は不可欠 のものである。当然に、本講義「ビジネス・エシックス」はこのレールが あり、初年度の今学年度、準備不足のまま、いつまで続くかしれない「試 み」と称しつつスタートしたものである。今後、私たち担当者は共に教導 八○ -41-

(23)

しながら勉強会を積み重ね、その内容の充実に努めていきたいと考えてい る。 ご教示等が頂ければ幸いである。 ビジネス・エシィックスについての講義(1) 注 (1)字南山英夫「序論企業倫理と会社不正の意味」3頁-35頁、字 南山英夫・小倉一郎監修「企業倫理と会社不正」東京経済情報出版 (1996年)所収。重泉良徳「企業不祥事の防ぎ方」東洋経済社(1998 年)。 (2)水谷内徹也「企業文化創造の経営的意義」16頁-32頁、山田真茂留 「企業文化論における組織と個人」33頁-49頁、梅澤正・上野征洋 編「企業文化論を学ぶ人のために」世界思想社(1995年)所収。 (3)奥村宏「法人資本主義」朝曰文庫(1992年)44頁-52頁・奥村宏 「曰木型企業システム」47頁-68頁、チヤルマーズ・ジョンソン

(河合一央訳)「アメリカにおける曰本型経営」69頁-100頁、内橋

克人・奥村宏・佐高信編「日本会社原論②曰本型経営と国際社

会」岩波書店(1994年)所収。荒井一博「終身雇用制と曰本文化」 中公新書1997年)。田尾雅夫「会社人間はどこへいく」中公新書 (1998年)3頁-7頁。

(4)荒井前掲書62頁、奥村前掲論文50頁-52頁。とりわけ、戦後の

システムといわれる、年功制についてみるに、戦後、労働組合は年

功序列賃金を求めてきたものであり、労働者の貢献と報酬の「「帳

尻を合わせる清算点」としての定年制・退職金制度」も必要となっ

たとされる。大下慶郎「判例からみた終身雇用」日経連出版部 (1998年)22頁-23頁

(5)奥島孝康「会社法の基礎」曰本評論社(1994年)100頁。

(6)河村貢「取締役会の今曰的役割」別冊商事法務153号2頁-3頁

七九 -42-

(24)

(7)坂野常和「取締役会の今曰的役割」別冊商事法務153号2頁。奥村 前掲論文。奥村宏「法人資本主義の運命」東洋経済新報社(1995年)。 (8)坂野前掲書2頁。 (9)酒巻俊雄・志村治美・新山雄三編「重要論点会社法」酒井書店 (1996年)175頁-185頁。奥島前掲書89頁-99頁。周知のように、 第2次世界大戦後の、経済民主化政策により株式の分散が図られ、 一時期個人株主の持株比率も高かった。しかしその後においては、 個人株主の持株比率は低下し、その分だけ、金融機関や事業法人と いった法人所有の持株比率の増加に転じた。この法人所有の中には、 会社支配を意図しない機関投資家の所有、そして、会社支配を意図 した所有とがある。 (10)株式保有の基準を25パーセントにおくが、これは株式の分散化が進 行している今曰この程度をもって会社支配に近い状態となり、その 発言力等の考慮からである。 (11)ただ、バブル期においては、直接金融が活発であったことは言うに 及ばない。 (12)坂野前掲別冊商事法務2頁。 (13)坂野前掲別冊商事法務2頁。 (14)大下前掲書48頁-63頁。 (15)遠藤賢治「使用人兼務取締役の法的性質」商事法務918号4頁-5頁。 (16)奥島孝康「フランスにおける使用人兼務取締役の制限」商事法務917 号7頁。 (17)河村・坂野前掲別冊商事法務8頁-11頁。 (18)久保利英明「違法の経営遵法の経営」東洋経済(1998年)200頁。 河村・坂野前掲別冊商事法務8頁-11頁。奥村宏「無責任資本主 義」東洋経済(1999年)136頁-137頁。 (19)荒井前掲書116頁-135頁。 沖大法学第二十一号 七八 -43-

(25)

(20)荒井前掲書116頁-135頁。

(21)神山敏雄「日本の経済犯罪」曰本評論社(1996年)272頁-296頁。

奥村前掲「無責任資本主義」64頁-83頁。

(22)鈴木辰治「企業倫理・文化と経営政策」文真堂(1996年)4頁。

(23)鈴木前掲書1頁-36頁。 (24)久保利前掲書22頁。 ビジネス・エシィックスについての講義(1) **その他の参考文献** (1)管野和夫「雇用社会の法」有斐閣(1997年)

(2)道幸哲也・小宮文人・島田陽一「リストラ時代雇用をめぐる法律

問題」旬報社(1998年)。

(3)久米郁男「日本型労使関係の成功」有斐閣(1998年)

(4)西田典之編「金融業務と刑事法」有斐閣(1997年)

(5)寺本義也「曰本企業のコーポレート・ガパナンス」生産性出版

(1997年)

(6)奥島孝康編「コーポレート・ガバナンス」きんざい(1996年)

(7)奥島孝康編「会社はだれのものか」きんざい(1997年)

(8)奥島孝康編「遵法経営」きんざい(1998年)

(9)岩田龍子「曰本的経営の編成原理」文真堂(1989年)

(10)林正樹「日本的経営の進化」税務経理教会(1998年)

(11)西岡健夫「市場・組織と経営倫理」文真堂(1996年)

(12)環境経済・政策学会「環境倫理と市場経済」東洋経済新聞社(1997

年)

(13)池上惇「情報社会の文化経済学」丸善ライブラリー(1997年)

(14)ペーター・コスロフスキー(鬼塚・杉浦・松原・山脇・橋本訳)

「資本主義の倫理」新世社(1996年)

(15)本間重紀「暴走する資本主義」花伝社(1998年)。

(16)加藤尚武「現代を読み解く倫理学」丸善ライブラリー(1996年)。

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参照

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