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大正末期から昭和戦前期における私立大学の中等教員養成に関する研究 : 東洋大学の事例から 利用統計を見る

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(1)

大正末期から昭和戦前期における私立大学の中等教

員養成に関する研究 : 東洋大学の事例から

著者名(日)

中野 実, 豊田 徳子

雑誌名

井上円了センター年報

5

ページ

31-51

発行年

1996-07-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002627/

(2)

大正末期から昭和戦前期における私立大学の

成に関する研究

東洋大学の事例から

中野実

§酔§ミ.§ミ

豊田徳子

喜ミ誉

一 はじめに  本稿は東洋大学における中等教員養成の制度と実態とを明らかにすることを目的としている。この課題設定に あたって左の三つの視点を考えた。第一が近年における大学史研究の進展と、第二が戦前期における中等教員養 成の実態、第三に﹃東洋大学百年史﹄の刊行である。  第一の歴史研究としての大学史研究は、歴史的事実の蓄積を図るとともに、日本の近代化に果たした役割の分 析という機能的側面も行われてきた。大学の社会的機能の一つとして卒業生の就職分析などがその主たる対象に なっている︵−︶。就職分析は、しかし社会変化との関連に関心が強く、資格制度と結び付いた教育職員への就職分 析は少ないのが現状である。特に私立大学︵専門学校︶にとって教員養成をはじめとした﹁特典﹂は、社会的な 存立に不可欠の用件であることは周知の事実であるが、研究的には進んでいない。  第二には大学における教員養成の実態である。昭和戦前期における日本の教員養成は、初等教員は師範学校を、 中等教員は高等師範学校、臨時教員養成所を中心にして行われた。新制大学となり、いわゆる開放性が敷かれ、 初等教員をはじめとしてすべての教員養成は大学において行うことが原則とされた。ただし旧制時代における私 31 大正末期から昭和戦前期における私立大学の中等教員養成に関する研究

(3)

立大学、専門学校は認可学校として中等教員養成の一翼を確実に担ってきていた。すなわち﹁そもそも中等教員 の需給構造それ自体が、全体として私学卒業生への依存を不可欠のものとしてしか成立しなかった、という事実 であろう。﹂︵邑との指摘もある。しかし、さきの大学卒業生の分析と同様に、果たして私学においていったいどの くらいの無試験検定合格者を出し、教職従事者はどれほどおり、いかなる教育機関に実際に就職していたのか、 といったことはほとんど言及されていない。制度史的よりも、個別のデータが求められているのが現状である。  第三に百年史の編集、刊行である。百年史は多くの資料の収集、分析によって完結されたが、そのなかであら ためて東洋大学における教員養成が重要な存立根拠であることも認識された。その意味において哲学館事件は、 まさに存亡の危機であった。百年史では制度的側面について、先行研究︵﹄を含めて一定程度あきらかにされてい       ママ  るが、紙数の関係もあり実態的側面は概略に止まった。今回は事務局からの移管文書﹃自大正八年三月自昭和八 年三月 検定二関スル文部省提出書類﹄と﹃自昭和六年度至昭和十六年度︵文部省提出︶大学部専門部教員無試 験検定免許状下附関係書類綴﹄の二つを中心にして、数量的側面にアプローチするものである。  東洋大学︵専門学校時代を含め︶における教員養成の制度と実態分析は、上記の三点にかかわる研究にすくな からぬ寄与ができるものである。さらに、付加すれば高等教育機関が集中していた︵る︶東京都︵府︶下におけ る私立大学︵専門学校を含む︶の実態分析を通して、東京という地域の特性と、さらにはその東京に籏生した私 立高等教育機関の類似性と独自性とをあきらかする手掛かりになるであろう。 ご 東洋大学における中等教員養成制度の概観  東洋大学の前身である哲学館が﹁哲学諸科ヲ教授シ専ラ速成ヲ旨トス﹂ る私立学校として開館したのは、明治

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二〇︵一九八七︶年九月である。哲学館は、この開館から二年半後の明治二一二年三月一〇日付で、中等教員無試 験検定特典授与の請願書を文部省宛に提出した。哲学館が明治二三年三月に無試験検定の特典の授与を請願した のは、明治一九年一二月二二日の﹁尋常師範学校尋常中学校及高等女学校教員免許規則﹂︵文部省令第二一号︶の 第六条但書にもとつくものであった。すなわち、第六条には文部省の実施する﹁学力﹂検定について、﹁学力ノ検 定ハ試験二依ル 但内外国高等学校卒業生等ハ検定委員二於テ教員タルニ適スヘキ学力アリト認ムルモノニ限リ 特二本文ノ例二依ラサルコトアルヘシ﹂とあり、哲学館は、同館の卒業生をこの但し書きに準ずるものとして認 定してくれるよう申請したのである。しかし、文部省ではこの請願を﹁目下諸学校規則改正中ニテ検定試験規則 モ不日改正セザルヲ得ザレバ、右願書ハ参考トシテ預リ置ク﹂︵4︶として取り上げなかった。二度めに哲学館が文 部省に対して、特典の授与を請願したのは四年後の明治二七年で、哲学館は同館の教育内容がいかに中等教員養 成にふさわしいものであるかを力説してその許可を求めたが、﹁検定規則中二私立学校特待ノ条目無之廉ヲ以テ﹂ ︵5︶、この時も請願は却下された。哲学館が無試験検定特典の授与を許可されたのは、三度めの明治三二年五月二 〇日付の申請によってであった。明治三二年にいたって哲学館が無試験検定を許可されたのは、それまで指定さ れていた無試験検定を受け得る学校の範囲が拡大したことによるものであった。文部省は、明治二七年三月五日 の﹁尋常師範学校尋常中学校高等女学校教員免許検定二関スル規則﹂︵文部省令第八号︶で﹁学力ノ試験ヲ須ヒス シテ検定ヲ行フ﹂対象︵学校︶を指定する制度を設けた。文部省は、中等教員はその養成学校、すなわち高等師 範学校で養成することを基本としたが、当初からこれによるものだけではその需要を賄いきれないという実状に あった。その後、日清戦争後から急増した中学校二局等女学校の教員需要に応じるため、文部省は高等師範学校 を新設したり臨時教員養成所を設置するなどして対処したが対応しきれず、以後、明治二九年︵6︶、三一年︵7︶と無 33 大正未期から昭和戦前期における私立大学の中等教員養成に関する研究

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試験検定の指定学校の範囲を拡大して行き、明治三二年四月五日の﹁公立私立学校外国大学校卒業生の教員免許 に関する規定﹂︵文部省令第二五号︶によって、その範囲がそれまで認められていた官立学校のみでなく公私立学 校にも及び﹁許可学校﹂として無試験検定を受けることができるようになったのである。こうして、哲学館は明 治三二年七月、右の規程にもとついて﹁私立哲学館卒業生教員免許下付二付御願﹂書を文部大臣宛に提出、許可 を得るにいたった︵なお、明治三二年には哲学館のほかに、東京専門学校と国学院も同様に許可を受けた︶。  この明治三二年以降、哲学館および東洋大学が文部省に対しておこなった無試験検定許可の申請とその許可年 月日は、表1に一覧するとおりである。  表1にみるように、明治三二年七月一〇日付で哲学館教育部倫理科に﹁修身科﹂の、同漢文科に﹁漢文科﹂の 免許状が許可されることになったが、申請書作成時の哲学館側の不手際により倫理科に当初から予定していた﹁教 育科﹂の免許状を得ることができなかったため、同年 ○月=二日再度申請書を提出、これが=月七日付で許 可された。さらに、明治三三年六月には、後述するような学科の改正をおこない、漢文科に﹁国語﹂の免許状が 追加された。しかし、この無試験検定の特典を最初に受けるべく実施した明治三五年一〇月二五日の卒業試験に 係わり、いわゆる﹁哲学館事件﹂が生じ、文部省から特典認可の取り消しを受け︵明治三五年一二月=二日︶、卒 業生はもちろん在校生もこれら免許状を得ることができなくなった︵B︶。  この特典取り消し後、哲学館から哲学館大学への改称と専門学校令による大学設置認可︵明治三六年一〇月︶、 初代哲学館大学学長となった井上円了に対する講師・出身者・卒業生等による無試験検定再出願運動︵三七年一 〇ー一二月︶︹9︶、井上円了の学長辞任︵三八年一二月︶、前田慧雲の第二代哲学館大学学長就任︵三九年 月︶、 さらに哲学館大学から東洋大学への改称︵三九年六月︶を経て、明治四〇年四月三〇日付で提出した無試験検定

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表1 文部省への無試験検定許可申請および許可年月日一覧 申請年月日 許可年月日 学  科  名 免許状科目 備   考 ① 明治32年5月20日 昭秘2年7月10日 教育部倫理科 修身科 〃漢文科 漢文科 ② 聯2年10月13日 明治32年11月7日 教育部倫理科 教育科 同邸月20日付の申請文書 が不備だったために追願 ③ 明治田年5月29日 明治33年6月29日 教育部漢文科 国語漢文科 「国語」が追加、「国語漢文 科」となる ※明治35年12月13日、文部省よ り無試験検定許可の特典を取り消される一「哲学館事件」一 ④ 鵬0年4月30日 明治40年5月13日 大学部第1科 修身科 無試験検定が再許可される 〃第2科 国語漢文科 専門部第1科 修身科・教育科 〃第2科 修躯・隔漢文科 ⑤ 昭和2年7月11日 昭和3年5月11日 専門学部倫理学東洋文学科第2部 漢文科 ⑥ 昭和5年5月27日 昭和5年9月17日 専門部大学部印度哲学倫理学科専修科 修身科 昭和5年4月設置の各学科 (通知日) ”  支那哲学東洋文学科専修科 国語科・漢文科 専修科にっいて無試験検 専門部倫理学教育学科専修科 修身科・教育科 定が許可される 〃 倫理学東洋文学科甲第】部専修科 鶴科・廟桟文科 ” 倫理学東洋文学科甲第2部専修科 漢文科 〃 倫理学東洋文学科乙第]部専修科 国語科・漢文科 〃 倫理学東洋文学科乙第2部専修科 漢文科 ⑦ 昭和18年9月8日 昭租9年4月8日 専門部経国科 修身科 (告示日) ⑧ 昭租9年7月14日 昭租9年10月19日 専門部国漢科 国民科国語 無試験検定規程改正(文 〃経国科 国民科修身 部省令第35号)に伴い昭 和22年度以降の無試験検 定取扱継続を申請、許可 される (『東洋大学百年史資料編1・下』94−99,103−104,118−122,143−166,504−505頁, (大学)自明治四十年四月至昭和五十年三月』により作成) 『認可書等綴 却下されたが、哲学館では当初から教 年に無試験検定の許可を願い出て なお、哲学館は先述したように明治 に一覧するとおりである。 組織の変遷とその免許状科目は、表2 試験検定の申請・許可に対応する学科 整備をおこなったのか。上の表1の無 のような学科および教育内容の編成・ の申請・許可に応じて、大学側ではど 請をおこなった。こうした無試験検定 八年、 九年に無試験検定許可の申 科目を継続し、さらに昭和二年、五年、 ておらず、 この明治四〇年時の免許状 うに約二〇年間新たな申請をおこなっ これ以降、東洋大学は表1に示すよ なった。 月一三日付で再び許可がおりることに 許可申請書に対し、文部省から同年五 35 大正末期から昭和戦前期における私立大学の中等教員養成に関する研究

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育の目的のひとつとして中等教員の養成を掲げており、哲学館生で中等教員を志望する者に対処すべく、翌年の 明治二四年五月には、中等教員検定試験受験者の準備のため、教育と倫理に関する特別講義を毎日曜日に開講す る旨の広告を﹃哲学館講義録﹄に掲載している︵−o︶。   ︵一︶哲学館時代  まず表2ωの哲学館時代からみていくと、明治三二年七月、三度めの申請で無試験検定の許可を得たのに対応 して、同年九月、本科である教育部・哲学部のうち教育部を高等師範学校規程に準拠した学科目に編成した。さ らに漢学の専門研究を目的として明治三〇年一月に開設した漢学専修科を教育部漢文科に吸収することによっ て、同科はこれまでの﹁漢文科﹂のほかに﹁国語科﹂についても免許状を許可されることになった︵許可日は明 治三三年六月二九日︶。明治三四年九月には、教育部倫理科を倫理・教育・英語を主とする教育部第一科に、教育 部漢文科を倫理・国語・漢文を主とする教育部第二科に組織編成し、これによって教育部第二科︵従来の漢文科︶ は﹁国語漢文科﹂のほかに﹁修身科﹂の免許状を許可されることになった。   ︵一一︶専門学校令による大学部・専門部  次に、表2②の専門学校令による東洋大学についてみると、東洋大学は明治三七年四月から専門学校令による 大学部と専門部を開設したが、翌三八年四月には開設時の学科組織・内容の改正をおこない、大学部︵修業年限 四か年︶に倫理・哲学・英語を主とする第一科と国語・漢文・哲学を主とする第二科を置いた。これに対して明 治四〇年五月、第一科に﹁修身科﹂、第二科に﹁国語漢文科﹂の免許状が許可された。大正一〇︵一九二一︶年四

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表2 学科(中等教員無試験検定を許可された学科に限る)組織の変更と     無試験検定許可科目 ※表は学科とその学科に許可された免許状科目を示したもので、学科組織の変更年 月日と免許状の許可年月日とは同一ではない(免許状の許可年月日は表1を参照)。 (1)哲学館 学科組織変更年 学 科 名 免許状科目 おもな変更内容など 明治32年9月∼ 教育部倫理科 修身科・教育科 無試験検定許可に伴い高等師範学校 〃 漢文科 国語漢文科 規程に沿って学科目を編成、漢文科 に従来の漢文専修科を吸収、これに より「国語」が許可される 明治34年9月∼ 教育部第1科 修身科・教育科 教育部倫理学科→同第1科、教育 〃 第2科 修身科・国語漢文科 部漢文科→同第2科と改称、漢文科 に「修身科」が許可される (「東洋大学百年史資料編1・下』)10−12頁,『東洋哲学』8−10により作成) ②専門学校令による東洋大学 (なお、明治37年4月から明治39年6月までの名称は私立哲学館大学) 大学部 学科組織変更年 学 科 名 免許状科目 おもな変更内容など 明治37年4月∼ セ治38年4月∼ 蜷ウ10年4月∼ コ和3年4月∼ 第1科 謔Q科 謔P科 謔Q科 度哲学輪理学科 ?K学東洋文学科 大学部に第1科・第2科を置く、修業 N限は5か年 C業年限を4か年に変更 謔P科・第2科の学科名を学科内容に ?チたものに改称、かっ教育内容を [実 齧蜉w校令による大学部の2学科が 齧蝠狽ノ組み入れられる(大学部は コ和6年3月限りで廃止) 専F 子る ?P部大都翅灘科 修身科 糟鼕ソ文科 C身科 糟鼕ソ文科 C身科 糟皷ネ・漢文科 (『東洋大学百年史資料編1・上』)192−205,264−273頁,『修身教会雑誌』第21号により作成) 37 大正末期から昭和戦前期における私立大学の中等教員養成に関する研究

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専門部 学科組織変更年 学 科 名 免許状科目 おもな変更内容など 明治37年4月∼ 教育第1科・第2科 専門部に教育第1科・同第2科、哲学第1科・ 哲学第1科・第2科 同第2科を置く、修業年限は3か年 明治38餌月∼ 第1科 修身科・教育科 教育第1科・同第2科、哲学第1科・同第2科 第2科 修身科・国語漢文科 を第1科・第2科に変更 大正10年4月∼ 倫理学教育学科 修身科・教育科 専門部の名称を専門学部に改称、学科名 倫理学東洋文学科 修身科・国語漢文科 称の変更・内容充実は大学部に同じ 大正14年4月∼ 倫理学教育学科 修身科・教育科 倫理学東洋文学科に夜間部を設ける 倫理学東洋文学科昼間部 修身科・国語漢文科 ”  夜間部 漢文科 昭和3年3月∼ 倫理学教育学科 修身科・教育科 倫理学東洋文学科の昼間部を第1部、夜 倫理学東洋文学科第1部 修身科・国語漢文科 間部を第2部とする ”  第2部(夜間) 漢文科 昭和3年4月∼ 倫理学教育学科 修身科・教育科 専門学部の名称を専門部に改称、倫理学 倫理学菊洋文学科甲第1部 修身科咽語科・漢文科 東洋文学科第1部・第2部を甲(第1部・第2 ”  甲第2部(夜間 漢文科 部)、乙(第1部・第2部)に変更 ”  乙第1部 国語科・漢文科 〃  乙第2部(夜間) 漢文科 昭和5年4月∼ 倫理学教育学科・同専修科 修身科・教育科 専門部大学部の2学科、専門部の5学科 倫睡学東洋文学科甲第1部・同専修科 修身科・国語科慎文科 にそれぞれ専修科(修業年限1か年)を設 〃 甲姫部・同専修科 漢文科 置 ” 乙第1部伺専修科 国語科・漢文科 〃 乙如部・同専修科 漢文科 聯螂石     ・・ 修身科 同専修科 薪螂㈱階学東洋文繋’・ 国語科・漢文科

昭和6年4月∼ 倫理辮桐専修科 修身科・教育科 倫理学東洋文学科甲第1部・甲第2部の甲 倫埋糠洋文学科第1部・同専修科 修身科・国語科・漢文科 の字を除き、倫理学東洋文学科第1部・第 〃 窺部(夜間)・嚇修科 漢文科 2部とし、倫理学東洋文学科乙第1部・乙 東洋文学科第1部・臓科 国語科・漢文科 第2部を東洋文学科第1部・第2部とする 〃 禦部(夜間)・同博修科 漢文科

聯脇一

修身科 専修科 軒螂幽麟東網科 国語科・漢文科 専謬斗 昭和12年4月∼ 倫醗酬同専修科 修身科・教育科 倫理学教育学科→倫理教育科、倫理学 倫唾働同専修科 修身科・匡匡酬・漢文科 東洋文学科→倫理国漢科、東洋文学科 匡膜枠同専修科 漢文科・国語科 →国漢科と改称、倫理学東洋文学科およ び東洋文学科の第2部を廃止する。 昭和16年4月∼ 経済教育枠同専修科 修身科・教育科 倫理教育科をの科名および学科課程を変 翻同専修科 修身科・国語科・漢文科 更し、経済教育科を新設する 酬同熊科 漢文科・国語科 昭和18年 艇酔同専修科 修身科 経済教育科を経国科に変更 倫理繊同専修科 修身科咽語科・漢文科 匡膜紳同専修科 漢文科・国語科 昭和19年4月∼ 艇酔同専修科 修身科 戦時非常措置方策により、従来の経国科・ 匡摸枠同専修科 漢文科・国語科 国漢科を残し、倫理国漢科を国漢科に統合 (『修身教会雑誌』第21号,「東洋大学百年史資料編1・上』192−205,235−237,264−273,521−523, 539−544,552−570,592−597,611−621,623,633−639頁により作成)

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(3)大学令による東洋大学 文学部 学科組織変更年 学 科 名 免許状科目 おもな変更内容など 昭和3年4月∼ コ和4年4月∼ 予科 装カ学科 英語科 糟皷ネ・漢文科 予科を開設 カ学部4学科を開設 哲学科 修身科 仏教学科 修身科 支那哲学支那文学科 漢文科・国語科 昭和13年4月∼ 国文学科 国語科・漢文科 史学科を新設 哲学科 修身科 仏教学科 修身科 支那哲学支那文学科 漢文科・国語科 昭和19年4月∼ 史学科 圏m哲学科 闢T学科 歴史科 戦時非常措置方策により、従来の5学科を Q学科に縮小 (r東洋大学百年史 資料編1・上』 326−331,400−423,521−523頁により作成) 月には、第一科を印度哲学倫理学科、第二科を支那哲学東洋文学科 へと科名を教育内容にそったわかりやすいものに改称した。また昭 和三︵一九二八︶年三月、東洋大学は大学令による文学部の設置を 認可されたが、これにともない専門学校令による大学部を専門部に 組み入れ、その名称をそれぞれ専門部大学部印度哲学倫理学科、専 門部大学部支那哲学東洋文学科とした︵以上、免許状科目に追加. 変更はない。なお専門学校令による大学部は昭和六年三月限りで廃 止された︶。  また専門部︵修業年限三か年︶についてみると、明治三八年四月 大学部と同様、明治三七年四月の開設時に教育第]科・第二科、哲 学第一科・第二科となっていたものを倫理・教育・哲学・英語を主 とする第一科と倫理・国語・漢文を主とする第二科に組織編成した。 そして明治四〇年五月、上記の第一科に﹁修身科﹂・﹁教育科﹂、第二 科に﹁修身科﹂・﹁国語漢文科﹂の免許状をそれぞれ許可された。こ れ以後、専門部では数度の学科名称・組織の変更をおこなうが、明 治三八年時の学科組織が基本となっている。大正一〇年四月、専門 部を専門学部と改称するとともに、第一科を倫理学教育学科、第二 科を倫理学東洋文学科へと科名を教育内容および免許状科目に合っ 3g 大止末期から昭和戦前期における私立大学の中等教員養成に関する研究

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たものに改称した。大正一四年四月には、倫理学東洋文学科に夜間部を設け、これに対して昭和三年五月に﹁漢 文科﹂の免許状を許可された。なお昭和三年三月、倫理学東洋文学科は昼間部の名称を第一部、夜間部の名称を 第二部とした。昭和三年四月、大正一〇年に改称した専門学部の名称を再び専門部とし、倫理学東洋文学科第一 部を甲と乙の二学科とし、第二部も甲と乙の二学科に組織編成した。甲・乙それぞれの第二部の免許状科目は﹁漢 文科﹂である。昭和五年四月、専門部に﹁同部各科卒業生ヲシテ既修学科ニツキ更二深ク研究セシムル﹂︵11︶こと を目的とする修業年限一か年の専修科が設置された。この専修科は﹁専門部卒業生の実力向上と更に文検試験の 準備に応する為めに﹂設置されたもので︹E1︶、同年九月、これら各学科専修科卒業生に対し無試験検定が許可され た︵免許状科目は専門部各学科に許可されたものと同じである︶。専修科への入学は、専門部卒業後三年以内とな っており、卒業年に無試験検定を申請して許可を得られなかったものが一年間専修科で学び、次年度再び無試験 検定の申請に臨むこともあったようである。なお、専修科への入学者および卒業者数は現在のところ不明である。 昭和六年四月、倫理学東洋文学科第一部・第二部の﹁甲﹂と﹁乙﹂の名称をやめるとともに、乙の二学科︵第一 部.第二部︶を東洋文学科第一部・第二部に改称した。なお、倫理学東洋文学科第二部と東洋文学科第二部につ いては、すでに許可されている﹁漢文科﹂のほかに﹁国語科﹂の免許状をも得るため、昭和三年=月と五年九 月および八年一月に申請書を提出したが、結局許可を得ることができなかった。昭和一二年四月、倫理学教育学 科を倫理教育科、倫理学東洋文学科を倫理国漢科、東洋文学科を国漢科とそれぞれ簡潔な名称に改め、倫理学東 洋文学科と東洋文学科のいずれも第二部を廃止︵専修科も同様︶した。この後の学科組織の変更および学科に許 可されている免許状科目は表にみるとおりであり、昭和一六年四月、倫理教育科の科名および学科課程を変更し て経済教育科とし、昭和一八年さらに、経済教育科を経国科へと改称、昭和一九年には戦時非常措置方策により

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専門部は経国科と国漢科の二学科に縮小された。   ︵三︶大学令による文学部  次に大学令による文学部についてみると、表2③のとおりである。大学令による私立大学の学部は、無試験検 定の﹁指定学校﹂となっていたが、さきに述べたように東洋大学は、昭和三年三月に大学令による文学部の設置 を認可され、予科は同年四月から、文学部は翌四年四月から国文学科・哲学科・仏教学科・支那哲学支那文学科 の四学科を開設した。予科および文学部各学科に許可された免許状科目は、表にみるとおりであり、予科には﹁英 語科﹂、国文学科には﹁国語科﹂・﹁漢文科﹂、哲学科と仏教学科には﹁修身科﹂、支那哲学支那文学科には﹁漢文 科﹂・﹁国語科﹂がそれぞれ許可され、昭和=二年四月に新設された史学科には﹁歴史科﹂の免許状が許可された。 三 中等教員養成の実態ーその数量的変遷を中心にしてー  東洋大学では、これまで検定による有資格の中等教員をどれだけ養成してきたのか。表3は明治二〇年から昭 和一五年までの教員検定︵試験および無試験︶の合格者数を一覧したものである。  まず、試験検定による合格者数をみると表3ωのとおりである。明治二一年から二一二年、および二五年の合格 者数は不明であるが、この間の合格者数の参考になるものとして、哲学館が明治二七年に無試験検定の特典授与 を請願した願書中に﹁弊館ハ諸学科中特二倫理教育歴史ノ三科二重ヲ置キテ之ヲ教授シ、已二一昨年来両度ノ検 定試験ノ募二応ジテ及第シタル者十四五名ノ多キニ及ベリ﹂︵13︶という記述がみえる。明治三一年以降になると、 合格者数がある程度一定して毎年平均、=名前後の合格者を出している。 41 大正末期から昭和戦前期における私立大学の中等教員養成に関する研究

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表3 教員検定(試験検定・無試験検定)合格者数     (明治20∼昭和15年) (1)試験検定によるもの (館外員・出身者を含む) 明治20年 明治21年 明治22年 明治23年 明治24年 明治25年 明治26年 明治27年 明治28年 明治29年 明治30年 明治31年 明治32年 明治33年 明治34年 明治35年 明治36年 明治37年 (注)一は不明。 (『天則』4−6,『東洋哲学』3−5, 7−3・4,8−2・3●12,9−1●3, 12−1◆3, 『哲学館講義録』6−15,『仏教普 通科講義録』6,『修身教会雑誌』 11より作成) (2)無試験検定によるもの (追加・再出願者をも含む) 年(度) 合格者数 年(度) 合格者数 大正5年 8 昭和4年度 428 大正6年 11 昭和5年度 387 大正7年 9 昭和6年度 474 大正8年 9 昭和7年度 373 大正9年 14 昭和8年度 390 大正10年 25 昭和9年度 278 大正11年 34 昭和10年度 174 大正12年度 33 昭和11年度   大正13年度 64 昭和12年度 一 大正14年度 129 昭和13年度 [14] 大正15年度 202 昭和14年度 92 昭和2年度 223 昭和15年度 79 昭和3年度 288 (注)1.明治38年から大正4年までは資料がなく不明。   2.昭和11年度および12年度は、基本となる薄冊資料の欠落により不明。   3.昭和13年度は、基本となる薄冊資料の一部欠落により数が不十分。 (『東洋哲学』23−7,24−8,25−8・10,26−9,27−10,28−8,29−6・7,『自大正八年三月 自(ママ)昭和八年三月検定二関スル文部省提出書類」,『自昭和六年度至昭 和十六年度(文部省提出)大学部専門部教員無試験検定免許状下附関係書類綴1 により作成)  次に、無試験検定による合格者数は表3②のとおりである︵明治三八年から大正四年までについては合格者数 を知り得る資料が現在のところなくその数はわからない︶。なお、この合格者数は追加および再出願者をも含んだ ものであり、申請月日にかかわりなく表に示した年、あるいは年度内に免許状を下付された者の数である。一回

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めの申請で不合格となったものが、卒業後に二度三度と再出願する場合も少なからずあった︹14︶。例えば、昭和五 年度内に免許状を下付された合格者数は三八七名であるがこのうち、昭和五年の卒業生は三七八名︵予科一名を 含む︶で、昭和四年三月の卒業生五名、昭和三年三月の卒業生二名、昭和二年と大正一五年三月の卒業生各一名 ずつ、昭和六年度内の合格者数四七四名のうち、昭和六年三月の卒業生四六二名︵予科四名を含む︶、昭和五年三 月の卒業生九名、昭和四年三月の卒業生三名という内訳になっている。表にみるとおり、大正一三年度から一五 年度にかけて合格者数の伸びが著しいことがわかる。その後も合格者は増えつづけ、昭和六年度は最高の四七四 名にのぼるが、特に昭和四年度から八年度までの五年間は、毎年平均四〇〇名以上の合格者を出している。       ママ   以下、多数の合格者数を出した大正末期から昭和戦前期について、﹃自大正八年三月自昭和八年三月 検定二関 スル文部省提出書類﹄と﹃自昭和六年度至昭和十六年度︵文部省提出︶大学部専門部教員無試験検定免許状下附 関係書類綴﹄と題する二冊の簿冊を中心に分析していくことにする︹15︶。  表4は、右の二冊の簿冊によって、大正一二年から昭和一五年までの無試験検定を許可された学科の各年の卒 業生総数に対する免許状下付者数と実際に﹁教育従事者﹂あるいは﹁学校職員﹂として就職した者の数を示した ものである。  まず、専門学校令による大学部・専門部について表4ωみると、卒業生数に比例して免許状下付者︵11合格者︶ も増加しており、昭和にはいると免許状下付者数は卒業生数の七割から八割という高い割合を示している。東洋 大学専門部が、中等教員養成学校としての評価を受け、中等教員の資格取得希望者が入学してきていたことを裏 付けるものといえる。  次に、大学令による文学部について表4②をみると、学部卒業者のほぼ六割以上が無試験検定による免許状を 431t・E,kenから昭和戦醐にSlける徽大学の中等教員賊に関一;’ 6研究

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表4 卒業生総数(無試験検定を許可された学科のみ)に対する免許状    下付者数および教育・学校職員従事者数 (1)専門学校令による大学部・専門部(大正12∼昭和15年) 大 大 大 大 昭 昭 昭 昭 昭 昭 昭 昭 昭 昭 昭 昭 昭 昭 卒業年 正 正 正 正 和 和 和 和 和 和 和 和 和 和 和 和 和 和 12 13 14 15 2 3  4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 ①卒業生数 62 121 212 307 300 401 539 535 596 459 319 232 175 U4 83 85 77 64 ②免許状下付者数 33 63 125 199 219 280 426 377 458 32 275 207 13 一 一 一 66 4 ②/①(%) 53.2 52.1 59.0 648 73.0 69.8 79.0 705 76,8 69.7 86.2 89.2 74.9 一 一 85.7 75. ③教育従事者数 35 67 104 122 109 85 113 99 110 110 63 69 4 51 34 一 一 一 ③/②(%) 106.1 106.3 83.2 61、3 49.8 304 26.5 263 24.0 34.4 22.9 33.3 313 一 一 一 一 (注)1.一は不明。   2.昭和6年3月で大学部は廃止、昭和7年以降は専門部のみとなる。   3.②欄の免許状下付者数のうち、昭和11年から13年までは基本となる薄冊資料が欠けてい     るため不明。ただし『東洋大学新聞』第155号(昭13.5.23)は、昭和13年の専門部卒業     生66名に免許状が下付されたと報じている。     (『創立100周年記念卒業生名簿』,『自大正八年三月自(ママ)昭和八年三月検定二関     スル文部省提出書類』,『自昭和六年度至昭和十六年度(文部省提出)大学専門部教員無     試験検定免許状下付関係書類綴』,各年度の『東京府統計書』により作成) (2)大学令による文学部(昭和7∼15年) 昭 昭 昭 昭 昭 昭 昭 昭 昭 卒業年 和 和 和 和 和 和 和 和 和 7 8 9 10 11 12 13 14 15 ①卒業生数 59 72  75 70 60 39 32 27 3 ②免許状下付者数 40 47  48 34 一 一 〔1〕 16 2 ②/①(%) 678 65.3 64.0 48.6 一 一 593 66.7

12 10  1D 8 13 16 18 13 ③/②(%) 30.0 21, 20.8 22.9 一 一 一 81.3 40. (注)1.一は不明。   2.②欄の免許状下付者数のうち、昭和11年・12年は基本となる薄冊資料が欠けているため     不明、昭和13年は一部の資料が残っているのみで数が不十分。   3.昭和i5年の③欄の項目は「学校及び図書館職員」従事者数。     (r創立100周年記念卒業生名簿』,『自昭和六年度至昭和十六年度(文部省提出)大学     部専門部教員無試験検定免許状下付関係書類綴』,各年度の『文部省年報」により作成)

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得ていることがわかる。なお、予科について述べると、昭和五年に一名︵卒業生数八五名︶、昭和六年に四名︵同 六二名︶、そして昭和一〇年に一名︵同 二四名︶がそれぞれ﹁英語科﹂の免許状を下付されている。  戦前期の中等教員養成は、教員養成学校︵高等師範学校・臨時教員養成所など︶と検定︵試験検定・無試験検 定︶によっておこなわれていたが、これまでみてきた表から東洋大学は、専門部を中心に無試験検定による中等 教員養成学校として、その需要を充足させる役割の一端を確実に担っていたということがいえよう。大学側も毎 年、多数の無試験検定申請者があったため、その事務処理に追われることになった。大学から文部省への申請書 類の提出が三月末の卒業式後になされるため、実際に免許状が下付されるのが七月から九月頃になってしまうと して、学生から迅速な事務処理を望む声が出され、一方、事務の方では学生に対し早く申請手続きをおこなうよ う促している︵16︶。  ところで、東洋大学が多数の無試験検定による合格者を出していた大正末から昭和五、六年までは特に厳しい 就職難の時代であり︵17︶、学校教員として就職することも難しかった。先述したように、表4ωと②の③の欄は、 免許状を下付された東洋大学大学部・専門部および文学部卒業生数に対して実際にどれくらいのものが教育.学 校関係に就職したのかを示したものである。表4ωの大学部・専門部についてみると、大正期から昭和にはいる と就職率が急激に低下し、その後昭和三年から一〇年まで平均二九パーセントという低率が続いている。また表 4②の文学部についても昭和七年から一〇年まで平均二四パーセントと同様に低率であり、免許状取得率と実際 の就職率との間には大きなギャップがあったことがわかる。  こうした状況にあって大学側は教育関係方面への就職難を打開するため対策を講じているが、そのいくつかを 取り上げてみると、以下のとおりである。 45 大正末期から昭和戦前期における私立大学の中等教員養成に関する研究

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 ひとつは、就職斡旋用パンフレットの作成とその全国中等学校への送付である。﹃東洋大学新聞﹄によると、こ れは大正一四年一〇月頃に作成されはじめたようであるが、現物︵A6版よりやや大きいサイズの冊子︶として 残っているのは昭和二年から一五年までのものである。これらパンフレットの題名・頁数・記載項目等は、表5 にみるとおりである。各学科ごと卒業生ひとりひとりについて、かなり詳細なデータを提示しているのが注目さ れる。昭和五年三月以降からは、卒業︵見込︶学生の名簿のほかに各学科の学科目および担当教授表も合わせて 掲載されるようになり、また昭和六年と七年、 五年と一六年のものには学長の挨拶文が付されている。昭和一 三年からは卒業生を紹介する記載項目が一段と増すとともに、﹁併習特別講座に就いて﹂と題して科外講座の紹介 を載せている︵18︶。このパンフレットは、昭和五年以降、中等学校のほかに東洋大学が就職斡旋の協力を仰ぐため ﹁方面委員﹂として指名した﹁地方の校友の有力者﹂にも送付された。  ふたつめは、すでに述べたように昭和五年四月に専門部各学科に専修科を開設したことである。  三つめは、卒業年度学生による実地授業の実施および見学である。このうち実地授業の要望は、昭和五年九月 に開催された大学当局と学生幹部との懇談会の席上出され、実現することになったもので、実施にあたっては﹁京 北側からはその学級の主任教諭、本学からは学長及び西山教授が主として監督の任にあたる事﹂︵19︶とした。第一 回めの授業︵国語・漢文・修身︶は同年一〇月二二日、同じ財団である京北実業学校において大学部学生により 実施された︵20︶。なお、=月二〇日、火災により京北実業学校の校舎が焼失したため、これ以後京北実業学校で の実地授業は続けられなかったようである。昭和六年には、教授西山哲治を会長に推す学生の教育研究会である 学而会が、西山が経営する帝国小学校での実地授業の便宜を与えられたとあり、また同会は﹁お茶ノ水附属小学 校府立第六高女三輪田高女淑徳高女﹂の見学をおこなうなどの活動をしている︹21︶。

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表5 就職斡旋用パンフレットの概要(昭和2∼15年) 題    名 作成年月 頁数 卒業見込者(学生)の紹介記載項目 ① 昭和二年三月東洋大学卒業生一覧 昭和元年12月 18 姓名、原籍、生年月日、出身学校、得意学科、無試験検定合格 学科以外担任し得る学科、兵役関係、特長 ② 昭和三年三月   〃 昭和2年9月 23 卜記に同じ ③ 昭和四年三月   ” 昭和3年9月 31 上記に同じ ④ 昭和五年三月   〃 昭和4年9月 33 姓名、原籍、生年月日、出身学校、兵役関係、特技と経験 ⑤ 昭和六年三月   〃 昭和5年9月 38 姓名、原籍、生年月日、出身学校、特技と経験 ⑥ 昭和七年三月   〃 昭和6年12月 39 上記に同じ ⑦昭和八年三月   〃 一 34 ト記に同じ ⑧昭和九年三月   ” 一 32 上記に同じ ⑨ 供高覧昭和十年三月 一 16 姓名、原籍、生年月日、出身学校(文学部の場合はヰ学校・高等 学部並専門部卒業就職希望者名簿 学校〉、資格科以外担任し得る学科、余技・経験・趣味其他 ⑩供高覧昭和十一年三月 昭和10年12月 13 上記に同じ 東洋大学卒業見込者名簿 ⑪供高覧昭和十二年三月 〃 昭和11年11月 12 上記に同じ ⑫ 昭和十三年三月 昭和12年10月 31 氏名、生年月日、原籍・戸上との続柄、現住所、出身学校、兵役 東洋大学卒業見込者名簿 関係、体格(身長・体重)、併習講座×運動競技、宗教関係、家 族関係、其他参考事項 ⑬ 昭和十四年三月   ” 昭和13年7月 49 氏名、生年月日、本籍・戸主との続柄、現住所、出身学校、兵役 関係、体格(身長・体重)、併習講座、運動競技、宗教関係、家 族関係、其他参考事項 ⑭昭和十五年三月   〃 昭和14年7月 41 ヒ記に同じ  また、文部省主催で夏期休暇中に全国中学校 教員講習会が開催されており、昭和四年と六年 にこれに出席するため地方から上京した東洋大 学出身の教員により東洋大学の教室を会場に懇 談会が開催されているが︵23︶、両年とも出席者は 四〇名以上あり、こうした大学と出身中等教員 劇 作

▽ ゆ 年 洛 翌昭和七年の実地授業の様子については、次 のように報じられている︹22︶。    専ニノ三の附中授業参観   専門部三年生では愈々卒業期も迫り卒業後   その大半は中等教員志望者なるがために実   地授業などを見学し将来の参考に資する必   要上去る十一月十四日︵月︶及廿一日︵月︶   の両日の二班に分かれ西山教授引率のもと   に東京高師附属中学校の国漢科の授業につ   き午前中見学した。なほ希望者は附属小学   校の授業をも参観し大に得るところがあつ   た 47 大正末期から昭和戦前期にtSける私立大学の中等教員養成に関する研究

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とのつながりが卒業生の地方の中等学校への就職に対し少なからぬ影響を与えたであろうことは想像に難くな い。 四 おわりに  以上、東洋大学における中等教員養成に関する制度と数量的変化をみてきた。ここであらためて三つの点を指 摘しておこう。  第一に東洋大学における無試験検定特典による中等教員養成は、明治四〇年からである。哲学館創設から二〇 年を経過していた。この間、度重なる無試験検定特典の申請にもかかわらず許可されないまま、ようやくはじめ ての卒業試験のおりに﹁哲学館事件﹂が生じてしまった。しかし、無試験ではなく試験検定による合格者は出て おり、明治三一年以降には一定数の合格者があったことが分った。  第二には、無試験検定の特典を得た許可学校としての東洋大学は、大学令による昇格は遅れたが、専門学校令 による専門部、大学令による文学部ともに制度的に安定して、無試験検定科目も着実に拡充させていった。この 制度的安定のもとに、多数の合格者を輩出した。専門部では卒業生数の七割から八割、文学部では六割以上が免 許状を得ていた数量的実態を提示した。  第三に、社会の変化、具体的には不況により免許取得率と就職率とにギャップが生じるが、ほかの大学と同様 に就職難打開のための方策、自助努力の諸相をあきらかにした。  この研究を基礎にして、東洋大学における教員養成の全体像を解明するには、いまだいくつかの研究が必要で あろう。一つには教員養成課程の分析である。担当教員、使用教科書の分析、あるいは教員心得の伝授など、教

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員としての専門力量と資質の形がどのように行われたか、といったことである。もう一つは教員養成のアウトプ ットの問題、具体的には就職の実態を明らかにすることが必要であろう。果たして東洋大学卒業生の教員はどこ の、どのような学校に就職し、教育実践を行っていたのか、という点である。次稿では、後者の課題に対して教 員養成を経営の柱とする私立の単科文科系大学における就職の実態という視点から取り組みたいと考えている。 戦前期に作成され、多くの教育機関︵中等学校のみならず、小学校、実業学校、青年学校さらには旧植民地学校 へも︶に多数の教員として就職していたことが知られる﹃出身者名簿﹄の分析を中心に行う予定である。 ︵本稿は一、四を中野が担当し、二、三は豊田が担当し、全体としての調整を図った︶ ︻注︼ ︵1︶ 最近の研究成果として以下のようなものがある。藤井信幸﹁両大戦間日本における高等教育卒業生の就職状況﹂﹁早   稲田大学史記要﹄第二三巻、一九九↓年。伊藤彰浩﹁高等教育機関拡充と新中間層形成﹂﹃日本近現代史﹄三、一九九   三年、岩波書店。 ︵2︶ 寺崎昌男﹁1 戦前日本における中等教員養成制度史﹂日本教育学会教師教育に関する研究委員会編﹃教師教育の課   題﹄一九八三年、明治図書。 ︵3︶ 西村誠﹁戦前中等教員養成と私立学校﹂﹃東洋大学学術研究会編﹃東洋大学紀要﹄文学部編、第二一集、一九六七年︶ ︵4︶ ﹃東洋大学百年史 資料編1・下﹄︵以下﹃資料編1・下﹄︶九四頁。 ︵5︶ 同右 九五頁。 ︵6︶ ﹁尋常師範学校尋常中学校高等女学校教員免許規則﹂︵文部省令第一二号︶。 ︵7︶ ﹁明治二九年文部省令第一二号師範学校尋常中学校高等女学校教員免許規則中改正﹂。 ︵8︶ ﹁哲学館事件﹂の具体的経緯については﹃東洋大学百年史 通史編1﹄︵以下﹃通史編1﹄︶四八八−五五九頁参照。 ︵9︶ この運動の詳細は﹃通史編1﹄五九一ー六〇二頁参照。なお、明治三七年一一月一五日付で哲学館大学長井上円了か 4g 大正*maから昭和戦前期における私立大学の中等教員養成に関する研究

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  ら文部大臣に対し、学則改正願とともに卒業生への教員免許下付の申請書が提出されている。 ︵10︶ ﹃資料編1・下﹄九三ー九四頁。 ︵11︶ ﹃資料編1・上﹄五五四頁。 ︵12︶ ﹃東洋大学新聞﹄第六二号 昭和五年四月一九日。 ︵13︶ ﹃資料編1・下﹄九四頁。 ︵14︶ 文部省による不合格の基準はわからない。倫理学東洋文学科︵専門部︶は、﹁修身科﹂﹁国語科﹂﹁漢文科﹂の三科目   について免許状が許可されているが、卒業時の申請で一科目あるいは二科目のみ合格した場合、残る科目について次年   度以降申請して許可を得ている者が少なからずみられる。なお、昭和五年五月三日付の﹃東洋大学新聞﹄第六三号に、   高嶋米峰︵校友、昭和一八年七月第一二代東洋大学長就任︶が﹁就職難漫談﹂と題し、この四五年来、教員資格を持ち   地方の学校に就職している東洋大学卒業生の評判が甚だ悪い、ただでさえ就職難の時代であるのだから、しっかり勉強   して実力を養うようにと学生に苦言を呈する一文を載せている。 ︵15︶ 東洋大学百年史編纂のため資料収集をおこなった際、大学事務局からも資料の提供を受けたが、この時期の東洋大学   の教員養成の実態を知りうるこれら簿冊もそのなかのひとつである。これによって免許状下付に関する大学の文部省   への手続き︵卒業者数・卒業試験学科日割表の開申とその後の免許状下付願書の提出︶や文部省からの問い合わせ・合   否通知などの様子を具体的に知ることができる。なお、上記の大学事務局移管資料は、井上円了記念学術センターが保   管しているが、現在、これらは整理段階中のため公開はしていない。 ︵16︶ ﹃東洋大学新聞﹄第一=二号 昭和九年六月一五日、第一二五号 昭和一〇年九月二七日。なお、こうした卒業後に   免許状が下附されるという事情から大学側の学生に対する﹁教員検定出願二関スル心得﹂の中にも﹁該当書類ノ進達方   ヲ本学二願出ツル場合ハ下附セラルヘキ免許状ノ受取先ヲ申出テ同時二其ノ郵送料金︵十六銭︶ヲ添フルコト﹂という   項目が記されている。 ︵17︶ 東洋大学では、経営上、就職先を唯一中等学校とする単科の文科系大学としての枠から脱して、社会のニーズに対応   したもっと多様な人材をより広く送り出したいという意図から、無試験検定の特典を持たない学科も設置している。例   えば、大正一〇年四月から専門学部に開設した文化学科や社会事業科、昭和一四年四月に専門部に開設した拓殖科など

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  であり、これら学科は設置時点でかなりの入学者を得、また卒業生の就職先も多方面にわたっている。 ︵18︶ この科外講座は﹁本学出身者ノ活動分野ヲ拡大センガ為メ、本来履修スベキ学科目ノ外二、夫々必要二応ジテ特殊ナ   ル知識ト技能トヲ習得セシメ、活社会ノ要求二応ズルトコロアラントシ﹂て開設したもので、仏教各宗講座︵真宗講座・   日蓮宗講座・禅宗講座・真言宗講座︶、神道講座、福利教養講座、満洲講座、武道体操講座、書道講座などがあった。 ︵19︶ ﹃東洋大学新聞﹄第六九号昭和五年一〇月=二日。 ︵20︶ 同右 第七〇号昭和五年一〇月二五日。 ︵21︶ 同右 第七九号昭和六年六月一〇日。 ︵22︶ 同右 第九七号昭和七年一一月二三日。なお、以上のいずれにも名前の出てくる西山哲治︵哲学館出身、卒業はし   ていないが、明治四三年大学から﹁得業﹂の称号を授与されている︶は、帝国小学校・同幼稚園を経営するかたわら教   授として専門部で教育学の﹁教授法﹂と﹁実地授業﹂を担当しており、東洋大学の教員養成教育に係わるその役割につ   いて今後さらに調査することが必要であろう。 ︵23︶ 同右 第五三号昭和四年八月二六日、第八一号昭和六年九月二五日。 51 大正未期から昭和戦前期における私立大学の中等教員養成に関する研究

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