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第二次大戦期中立国スペイン・ポルトガルでのの情報活動と外交・軍事への影響

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〈論文〉

第二次大戦期中立国スペイン・ポルトガルでの

日本の情報活動と外交・軍事への影響

 

 

 

はじめに 近年、情報活動やインテリジェンスについて関心が集まってきている。現在の国際政治・安全保障の分野だけでな く、歴史的分野でも注目が集まっている。インテリジェンスの歴史的分野の研究では第二次世界大戦は中心的テーマ の一つであり続けている。そこで、本稿では第二次大戦期の中立国での日本の情報活動を検討の対象とする。周知の 通り、中立国は大戦中、連合国側と枢軸側が入り乱れた情報戦が展開されており、その中で日本がどのような活動を 行なったかを考察するのは意味があると考えるからである。太平洋戦争開戦に伴い、当然のことながら米英の日本の 在外公館、武官室等の拠点は閉鎖され、日本の主要な交戦相手国である米英に関する情報は、同盟国であるドイツや イタリア、そして中立諸国から入手する必要が生じ、中立国の重要性は飛躍的に増大した。 主要 な 中立国 に は 外務省 が 公使館 を 置 き ( ト ル コ の み 大使館 )、 陸軍 と 海軍 が 武官室 を 置 き 、 三者各 々 が 情報活動 を

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― 2 ― 行っていた。本国への報告も三者別々に行っていた。したがって、本国へ送る通信に用いられる暗号も三者とも異な る も の で あ っ た。 三 者 の 協 力 関 係 は、 駐 在 地 や 各 々 の 公 使 や 武 官 の 人 間 関 係 や 個 性 に も 影 響 さ れ ま ち ま ち で あ っ た。 細部は後述するが、外務省が使っていたエージェントについて参謀本部が現地の陸軍武官に照会した例もあれば、外 務省の在外公館が現地の陸海軍武官に秘匿した情報が、東京の中央で陸軍、海軍、外務省で共有され、情報の信憑性 が疑われた事例もあった。 当時の主な中立国は、スイス、スウェーデン、スペイン、ポルトガル、アイルランド、バチカン、トルコ、アルゼ ンチンなどであった。無論、第二次大戦中の日本の中立国での情報活動については一定の研究の蓄積があ る (1 ( 。本稿で は、中立国全てを対象とするのは困難なので、イベリア半島のスペインとポルトガルの二国に絞りつつ、適宜バチカ ンについても言及する。対象とする時期は日米開戦以降である。そして、情報活動それ自体だけでなく、情報活動が 対 外 政 策 や 軍 事 に 与 え た イ ン パ ク ト に 重 点 を 置 く。 な お、 引 用 史 料 中 の 旧 字 体 は 新 字 体 に 直 し、 強 調 点、 改 行 の /、 補 足 の 〔   〕 は、 特 に 断 り の な い 限 り 引 用 者 が 付 し た も の で あ る。 ま た、 外 務 省 外 交 史 料 館 は 外 史、 防 衛 省 防 衛 研 究 所戦史研究センターは防研と略した。 一、 「一覧表」にみるイベリア半島での情報収集 一九四四年一一月下旬、大本営陸軍部では 「在外武官(大公使) 電情報網一覧表」 (以下、 「一覧表」 と略す) という 文 書 を 作 成 し た。 こ れ は、 ド イ ツ、 ス ウ ェ ー デ ン、 ポ ル ト ガ ル、 ス ペ イ ン、 ス イ ス、 ト ル コ、 ハ ン ガ リ ー、 中 国 で、 軍や外務省が収集した情報をまとめたものであ る (2 ( 。この表の中で、ポルトガル、スペインを抜き出したものが左記の

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表である。 【資料 1】「在外武官(大公使)電情報網一覧表」のスペイン・ポルトガルの箇所 在外武官(大公使)電情報網一覧表    昭一九、一一、二七    大本営陸軍部 国別 情報名 発信者 出所 種類 備考 中   略 葡 M 陸   武 従 来 在 西 武 官 ノ 指 導 下 ニ「ジ ブ ラ ル タ ル 」 情 報 ニ 任 シ ア リ シ 諜者「マルコ」ニシテ左ノ如キ情報網ヲ有ス 主トシテ英米 確 度 丙、 航 空 情 報 ニ 関シテハ確度稍大 〃 M ( タ ン ジ エ ル ) 〃 「タンジエル」ニ於ケル北阿諜者報及海空路ノ監視報 〃 M ( ジ ブ ラ ル タ ル ) 〃 「 ジ ブ ラ ル タ ル 」 諜者報及同地 ノ 英空軍将校 ト ノ 接触 ニ ヨ リ 得 〃 M ( カ サ ブ ラ ン カ ) 〃 葡国航空会社乗務員ノ手ヲ経ル在「カサブランカ」諜者報 〃 M (リスボン) 〃 在 「 リ ス ボ ン 」 pan-American 及 british overseas 両航空会社 〃 P 〃 英国船員 「 パ ル フ ェ 」( 上海生 レ 特務機関 ニ 勤務 セ シ コ ト ア リ ) 情報少シ 〃 タマシ 〃 諜者「タマシ」 情報少シ 〃 N 〃 在葡 「 ム ッ ソ リ ― ニ 」 政権代表元伊陸軍武官 「 テ ラ ― ニ 」 少将 各種 〃 S 〃 在倫敦洪牙利諜者報 各種 西 フ 陸   武 従 来 在 葡 武 官 ノ 使 用 シ ア リ シ 洪 国 人 諜 者「フ イ リ ツ プ 」 其 ノ 報 告 中 ニ ハ 資 料 ヲ 敵 側 文 書 ニ 取 リ テ 之 ニ 対 ス ル 観 察 ヲ 述 ベ タ ルモノアリ 英米 確 度 乙 程 度 ナ ル モ 英 米 情 報 ト シ テ 価 値 大 ナリ 〃 タンジエル 〃 諜者報( 「タンジエル」機関当時ノモノヲ復活) 英米(地中海) 〃 ジブラルタル 〃 諜者報(新設) 英米 ( 艦船航空 ) 〃 北   阿 〃 諜者報(新設) 英米(地中海)

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― 4 ― 〃 サン(参) 〃 西国参謀本部情報 主トシテ英米 参考程度 〃 ケイ(警) 〃 西国秘密警察情報 〃 東( E ) 海   武 「ア ル カ サ ― ル・ ベ ラ ス コ 」(「ス ニ エ ― ル 」 ノ 乾 分 ニ シ テ 駐 英 西大使館新聞班長)ヲ長トスル特務機関 〃 北 〃 西国外務省電信課員 〃 A 〃 在「ジブラルタル」諜者(元新聞記者タル西国人) 艦船(地中海) 海軍知識不十分 後   略 「 一覧表 」 を 概観 し て ス ペ イ ン ・ ポ ル ト ガ ル で の 情報活動 で ま す 気 づ く の は 、 両者 と も 、 タ ン ジ ー ル ( タ ン ジ エ ル )、 ジ ブ ラ ル タ ル 、 カ サ ブ ラ ン カ と い っ た 地名 が 複数回登場 す る こ と で あ る 。 ジ ブ ラ ル タ ル は 英国領 で 要塞化 さ れ て お り 、 地中海 で の 英軍 の 戦略的拠点 で あ っ た 。 ジ ブ ラ ル タ ル を 押 さ え る こ と に よ り 、 英国 は ジ ブ ラ ル タ ル 海峡 を 統制下 に 置 い た。ジブラルタル海峡は欧州大陸とアフリカ大陸を分ける地中海と大西洋を結ぶ極めて重要な戦略的位置を占めてい た。ジブラルタル自体は英国領で、日本人は接近できないので、エージェントを通じて情報を入手しなければならな かった。カサブランカも大西洋に面し、連合国の北アフリカ作戦時の上陸地点になったことが示しているように軍事 上も重要な地位にあった。そして、ジブラルタル海峡に面した港湾都市で当時スペインが占領していたのがタンジー ルである。 情報活動 に お け る タ ン ジ ー ル の 重要性 は 、 須磨弥吉郎 ス ペ イ ン 公使 の 言葉 を 借 り れ ば 、「 タ ン ジ エ ル は ジ ブ ラ ル タ ル と指呼の間にあり、軍港に出入する艦船が手にとるように望まれる。だから自然、ここに各方面からの諜報の網が張 ら れ る こ と は 必然 で あ る (3 ( 」。 ま た 、 須磨自身 も 一九四二年八月下旬 か ら タ ン ジ ー ル か ら カ サ ブ ラ ン カ ま で の モ ロ ッ コ 方

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面への視察旅行に出掛け、その時の様子を「ジブラルターに出入する大小艦船の行動は手にとるやうに覗かれる仕組 が、海岸の民家のそこ此所に出来てるといふことであつた。われくしも戦艦を筆頭に多くの艦船が堂々と出港して行 くのを目撃した」 、「タンヂェルでは、枢軸、連合の双方が鎬を削り合つて情報を漁り合つてるのをわがまのあたりに 見せられた」と回顧してい る (4 ( 。 タンジールの重要性については、当然、軍も認識しており、スペイン駐在陸軍武官・桜井敬三 は (5 ( 、一九四二年三月 中旬、タンジールに総領事館を設置するように提案し、その理由を「英米ハ固ヨリ独伊共ニ総領事館ヲ置キ之ニ公使 級ノ腕利キヲ配置シ其ノ下ニ陸海軍武官ヲ置キアリ従ツテ武官ノミヲ常駐セバ併セテ外交代表機関トシテノ活動ヲ要 スルコトトナリ本念ノ軍事諜報勤務ニ専念シ得ザルノ不利ヲ生ズ」と指摘してい る (( ( 。結局、タンジールでの正式な領 事館設置はスペインの反対で実現しなかったが、この桜井の提案がなされた時点で陸軍は既に長谷部清をタンジール に常駐させ情報活動にあたらせ、一九四四年五月まで長谷部はタンジールに駐在し た (7 ( 。長谷部がタンジールから送っ た 情報 は 、 具体的 に は 「 30/ 11タ ン ジ ー ル 武官報   ○伊国作戦 ニ 参加 ノ 英艦隊主力 / B 〔 戦艦 〕× 4   A 〔 空母 〕× 3 其他ハジブラルター通過、英本国 ヘ (( ( 」、 「タンジール武官、一二、二五報告、地中海に於ける英国艦隊、戦艦五、巡洋 艦一五、駆五五、潜五〇、イタリヤ海軍より鹵獲せるもの、戦五、巡六、駆三〇、潜二 五 (9 ( 」といった(以上の引用史 料二 つ は い ず れ も 一九四三年 )、 地中海 で の 連合国 の 艦船 の 動静 で あ る 。 ジ ブ ラ ル タ ル 海峡 を 経 て 地中海 か ら イ ン ド 洋 を通過し、対日戦に使用される可能性がある艦船を把握することは重要なことであっ た ((1 ( 。 須磨は戦後連合国側の尋問に対し、タンジール来訪の際にイタリアの外交官から、艦船動向を把握する目的は、連 合国は自らの艦艇の動きを暗号で絶えず報告しているので、それらの暗号を解読するための手掛りとしている、と告 げられたと答えてい る ((( ( 。艦艇の動きを把握し、艦種や隻数が判明すれば、それらの情報を暗号解読の突破口として利

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― ( ― 用することは十分考えられることである。ただ、ドイツ、イタリアはともかく、日本は地中海での艦隊、輸送船団の 情報を暗号解読のために援用する余力はなかったと思われる。 桜井敬三は戦後連合国側の尋問に対し、リスボン駐在の陸軍武官との連絡は円滑で、互いの活動について承知して おり、リスボンの武官が得た情報をよく見たし、その逆もまた同様であり、ジブラルタルを通過する艦船などに関し て有益な点検の機会になったと述べてい る ((1 ( 。つまり、スペインとポルトガルの武官は互いの情報を相互に交換し、情 報の確度を判定していたことになる。無論、スペインからの情報とポルトガルからの情報の比較は参謀本部でも行っ て い た で あ ろ う し 、 そ の よ う な 作業 の 結果 や 参謀本部 で 持 っ て い る 他 の 情報 を 加味 し 、「 一覧表 」 に あ る よ う に 、 ポ ル ト ガ ル 武 官 の M と い う 情 報 の 確 度 は 丙、 ス ペ イ ン 武 官 の フ と い う 情 報 の 確 度 は 乙 と 判 定 し て い た と 思 わ れ る。 ま た、 ポ ル ト ガ ル と ス ペ イ ン の 陸軍武官間 で は 単 な る 情報交換 だ け で な く 、 エ ー ジ ェ ン ト の 乗 り 入 れ が あ り 、「 一覧表 」 の 出 所 の 欄 に も あ る 通 り 、 ポ ル ト ガ ル の M 情報 は 従来 、 ス ペ イ ン 武官 が ジ ブ ラ ル タ ル 情報 の た め に 使用 し て い た マ ル コ で あり、スペインのフ情報は従来、ポルトガル武官が使用していたハンガリー人フイリツプであった。 二、東情報への軍部への反応 第二次大戦中の中立国での日本の情報活動で最も有名なのが、須磨弥吉郎公使がスペイン人のエージェントである アンヘル・アルカサール・デ・ベラスコ ( Ángel Alcázar de Velasco ) を使い米英に諜報員を潜入させたことであろ う 。 ベ ラ ス コ か ら の 情報 は 、 東情報 と も 言 わ れ た 。「 一覧表 」 で は 、 海軍武官 の 箇所 に ベ ラ ス コ の 名前 が 登場 す る が こ れは何らかの間違いと思われる。先行研究も多く、ベラスコと日本の関係は不透明な部分も依然あるとはいえ、相当

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程度明らかにされてき た ((1 ( 。事実関係を簡単に要約すると、中立国とはいえ枢軸寄りだったスペインの外務大臣でフラ ン コ ( Francisco Franco ) の 義弟 で あ る セ ラ ー ノ ・ ス ニ エ ー ル (

Ramón Serrano Suñer

) の 協力 を 得 て 、 米国 に 複数 の エージェントを送り込み、その諜報網のトップがベラスコであり、東情報を出し、高度に政治的な情報から各軍港で の輸送船団の動き、個々の兵器の情報などを日本に伝えた。ここからは、東情報と日本の関係を示す新たな史料を提 示し、軍部と東情報の関係を考察する。 その史料は、一九四二年七月三〇日にスペイン駐在の陸軍武官である桜井敬三が、参謀次長宛てに送った電文四七 四号を米国が解読したものであ る ((1 ( 。管見の限り、この桜井の四七四号電に触れた研究はないと思われる。冒頭で桜井 は 、「 照会 さ れ た 貴電六七三号 と 須磨公使電 に つ い て (

Reference your wire

(73 and Minister Suma’s wire

)」 と 告 げ 、 参謀本部からの六七三号電による問い合わせと須磨からの電報に対して自らの見解を披瀝する形をとっている。六七 三号電 は 米国 も 傍受 し て お ら ず 、 日本側 に も 現存 し て い な い 。 続 け て 桜井 は 、「 こ の 情報 の 責任 を 担 っ て い る 男 は ス ペ イン人で、この種の工作に非常に熟練している。しかし、彼は軍人ではないし、したがって、彼の報告の信頼性を保 証 す る こ と は で き な い (

The man responsible for this intelligence is a Spaniard and ver

y skilled in this sort of work.

However he is not a military man and consequently we can’t guar

antee the reliability of his reports

)」 と 述 べ て い る 。 桜井が触れている情報工作に熟練している男とは誰であろうか。桜井電は、冒頭でも述べられているように須磨電 に対する返答にもなっているが、須磨は七月二二日の第七八一号電のなかで、即ち桜井電の約一週間前に東情報につ いてスペイン国内での伝達経路やドイツとの関係、情報の主目標などを外務本省に報告してい る ((1 ( 。その中で、東情報 の 責 任 者 で あ る ベ ラ ス コ の 経 歴、 人 柄、 ス ニ エ ル 外 相 と の 関 係 に も 言 及 し、 「機 関 長「ア ル カ ツ サ ー、 ベ ラ ス コ 」 ハ 前述ノ如ク独逸特務機関ト約二ヶ年間連絡アリ西班牙内乱時代ヨリ「スニエル」ト特殊関係成立シ当時ノ殊勲ニ依リ

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― ( ― 「 フ ア ラ ン ヘ 」 党内訌 ニ 連座 シ 死刑 ヲ 宣 セ ラ レ タ ル モ 「 ス 」 ニ 救 ハ レ 無罪 ト ナ リ 諜報機関設立 ヲ 兼 ネ 在英大使館付新聞 班長ニ転出帰朝後ハ「ス」ノ陰ノ人トシテ活躍ヲ続ケ居レリ性格ハ侠客肌、信念及友人ノ為ニハ水火モ辞セサル底ノ 強キ性格ヲ有スルモ猪突的ナル嫌ナシトセス」などと指摘している。 ①七月二二日の須磨電と三〇日の桜井電の時間的な近さ、内容的な繋がり、②桜井電で言及されている情報工作を 担 っ て い る 人物 は 、 桜井 の エ ー ジ ェ ン ト で は な い し 、 後述 す る よ う に 桜井 は こ の 人物 か ら の 情報 と 海軍側 の 偵察 と を 比 較せよと述べていることからスペイン公使館付海軍武官のエージェントとも考えにくい。なぜなら、海軍のエージェ ントならば、当然、海軍側が入手している情報と比較するのは自明であるからである。つまり、須磨のエージェント である、③一九四二年七月時点において須磨の情報活動を担ったスペイン人でその種の工作に熟練した人物、以上の 点から考えて、桜井電で言及されている情報工作に従事するスペイン人とは、実名こそ登場しないが、ベラスコであ る と 断定 し て 差 し 支 え な い 。 そ し て 、 桜井電 の 冒頭 で 言及 さ れ て い る 須磨電 ( Suma’s wire ) は

米側 の 解読 で は 単 数 に な っ て い る が 、 特定 の 単一 の 電報 を 指 す か 否 か は わ か ら な い が

、 少 な く と も そ の 一部分 が 七月二二日 に 須磨 か ら 発信 さ れ た 第七八一号 で あ る こ と は 間違 い な い 。 し た が っ て 、 桜井電 の 「 こ の 情報 ( this intelligence )」 は 、 東情 報を指している。 続けて、桜井は、現時点で東情報の正確さを保証することができるかも知れない他のソースからの情報を持ってい る と 述 べ た 上 で、 最 終 的 に、 「こ の 情 報 に 対 処 す る 上 で、 日 本 海 軍 の 偵 察 の 結 果 と 情 報 を 比 較 す る こ と に よ り、 情 報 の 確度 を 調査 す る こ と が 良 い 考 え で あ ろ う (

In dealing with this intelligence, it would be a good idea to

check up on

its accuracy by comparing it with the results of Japanese Navy

reconnaissance )」 と 進言 し て い る 。 つ ま り 、 桜井 の 報告は、ベラスコに依拠した須磨の東情報に関する参謀本部からの照会に回答したものであり、桜井は東情報の信憑

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性を調査するために海軍側の情報と比較するように提案していたのである。東京の参謀本部は、外務省経由で須磨か らの情報が届いたものの、その情報をどう扱ってよいか逡巡があり、桜井の意見を求めたのだろう。従来、須磨情報 と軍の関わりは、専ら中央の参謀本部や軍令部で須磨情報がどう処理されたのかの縦の関係に関心が集まり、現地ス ペイン駐在の陸海軍武官室と須磨情報との横の関係は等閑視されてきた。須磨が自らの情報活動に関して、どの時点 でスペイン駐在の陸海軍武官に告げたのかは不明だが、遅くとも参謀本部から桜井に照会がされた後に、桜井と須磨 の間で東情報について協議が行われたことは確実であ る ((1 ( 。 須磨が送った概ね正確な東情報が軍部から軽視又は無視されたケースとして、ガダルカナル戦初期の軍中央の米軍 の動向に対する判断の誤りを指摘するのが通例だ が ((1 ( 、そのガダルカナルに米軍が上陸した一九四二年八月七日の約一 週間前の七月三〇日に東情報の確度を巡り参謀本部と現地スペイン陸軍武官でやり取りが交わされていたことを桜井 電は示している。この点はこれまで全く知られて来なかった事実である。一九四二年七月三〇日の時点で東情報の確 度に確信が持てなかった以上、八月七日以降の米軍への動静判断に東情報を直ちに活かすことは難しかったと思われ る。 ガダルカナル戦の初動には東情報を的確に利用できなかったのは確かだが、一九四二年八月二三日にニューヨーク から報告された東情報が九月上旬には軍令部第三部長名で海軍の現場部隊に通達されてい る ((1 ( 。したがって、桜井の進 言にもあるように、陸軍または海軍は自らの手持ちの情報と東情報を比較し、東情報の確度の判定を行い、ある程度 正確性があると判断したので現場の部隊にも知らせたのだろう。須磨からの報告は、その後も作戦指導に影響を与え 得る人物の関心を惹いていた。例えば、陸軍省軍務局軍務課長から参謀本部作戦課長に転任した前後に、真田穣一郎 は 、「 3/ 11馬徳里   ス マ 公使電   フ ィ ラ デ ル フ ィ ヤ ヨ リ パ ナ マ 経由六隻 ノ 工作船太平洋 ニ 向 フ 船尾 ニ 起重機 ア リ 沈船

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― 10 ― 引揚用ニシテ修理用器材ヲ搭載ス」という報告を摘記してい る ((1 ( 。真田の記録でとりわけ注目すべきは、一九四三年一 月下旬から二月頃の次の記載であ る (11 ( 。 谷外相ヘ   館長符号 101 マドリード須    マ公使電(在米諜報網ノ件) 金子電送申度旨   感謝、送レ □ (〔一字不明〕 (      方針ノ書キ振リハ良イ 従来 の 研究 で は 米国 に よ る 解読記録 を 用 い て 、 一九四三年一月 に 外務本省 は 、 須磨 の 要求 に 基 づ き 米国 で の 情報活動 のために五〇万円送金したが、それだけでは須磨の要請額の百万円を満たせず、残りを陸海軍に負担を求めたが、海 軍は同意したものの、陸軍は難色を示したことが指摘されてい た (1( ( 。引用した真田の記述は、やや意味が把握しにくい が、その間の経緯を記したものであることは明らかで、須磨のエージェントの米国での情報活動について、軍の情報 関係者だけでなく作戦部門の責任者である作戦課長にも報告されていたことを明確に示している。須磨の情報活動に 対する陸軍からの資金分与が最後まで拒否されたか否かは判然としない。海軍が資金提供に同意し、陸軍が保留した ことからみて、海軍は須磨情報を評価し、陸軍は評価しなかったという解釈が導き出されるかも知れないが、それは 必ずしも正しくない。なぜなら、須磨への資金提供が問題となっていた一九四三年一月に参謀本部は、アリューシャ ンへ輸送船団が向かったというサンフランシスコからの東情報を「信スヘキ諜報」としてアリューシャン方面を担任 する北海守備隊に通知していたからであ る (11 ( 。 一九四三年一月は、外務省が軍へ須磨の情報活動に対して資金供与を求めた以上、当然外務省内部でも須磨情報に 関心が高まったと思われる。同年一月九日、日本は汪兆銘政権との間に租界還付、治外法権撤廃を定めた協定を締結

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し、汪政権は米英に対して宣戦布告した。この件についても、東情報は次のような情報をもたらしてい る (11 ( 。   ・ 「東情報    (十一日華府発)   一 、 国民政府 ノ 宣戦布告 ハ 当地 ニ 激動 ヲ 与 ヘ 新聞評論 ニ モ 右気持反映 セ ラ レ 居 リ 白亜館 〔 ホ ワ イ ト ハ ウ ス 〕 ニ ハ 全 クノ「サプライズ」ニシテ最近何事カアルヘシトハ期待シ居リタル如キモ斯ル重大決意ハ思ヒモ寄ラサリシ所 ナリ/軍部某高官ノ内話ニ依レハ之カ為太平洋作戦計画ヲ改ムル要起ルニ至ルヘク近ク決行ノ筈ナリシ攻勢モ 或ハ延期ノコトトナルヤモ知レス〔以下省略〕 」 他 方、 外 務 省 政 務 局 で 定 期 的 に 作 成 し て い る 国 際 情 勢 報 告 の 調 書 の 中 で、 汪 政 権 参 戦 に 対 す る 米 英 の 反 応 に 触 れ、 一般的に黙殺的態度で見るべき反応は無いとしつつも、次のように述べてい る (11 ( 。 「 一方情報 ニ 依 レ ハ 国府参戦 ハ 白亜館 ニ ト リ 全 ク ノ 「 サ プ ラ イ ズ 」 ニ シ テ 最近何事 カ ア ル ヘ シ ト 期 シ 居 レ ル モ 斯 ル 重 大決定ハ予想外ナリトノ感強キ趣ナリ」 。両者を比較すれば一見して分かるように、政務局調書中の「情報ニ依レハ」 とは、東情報を指している。 しかし、問題はこの情報の信憑性である。汪政権が参戦を日本側に提案していたことは、一九四二年夏の段階で米 国側は日本の外交暗号の解読により察知してい た (11 ( 。更に、汪政権参戦の一週間前の一月二日付けの米国の暗号解読情 報の要約文書でも、東條が南京政府に一九四三年初頭のある時期に宣戦布告させることを決断し、その旨を汪の訪日 時に伝えたと指摘してい る (11 ( 。したがって、東情報が伝えるほどの驚きがなかったことは確実である。また、後段の汪 政権参戦により作戦計画が変更されるかも知れないという米軍部高官の話は全く誇張されたものでそのような事実は ない。

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― 12 ― このように東情報を含めた須磨情報は誤った情報も見受けられるが、次にそのような須磨情報が戦時下の外交にも たらした波紋をみていきたい。 三、須磨情報と欧州和平 (一)米大統領特使テイラーのスペイン訪問 ここからは、須磨がスペインから送った欧州和平に関する情報を巡る二つの事例を取り上げ、須磨情報が日本政府 部内にどのような影響を与えたかを検討する。まず、米大統領特使テイラーに関する須磨情報である。 海軍次官 の 澤本頼雄 は 一九四二年一〇月六日 の 日記 に 、 三日付 の 須磨 か ら の 「 △和平 ノ 噂 / 在西米国大使 ノ Tailor 午餐会 ノ 際 Tailor ハ Spain ハ 平和斡旋者 ト シ テ 恰好 ノ 地位 ニ ア リ ト 漏 ラ シ タ ル 趣 ナ リ 〔 後略 〕」 と い う 情報 を 記 し た 。 続 く 八日 に は 、 五日付 の 須磨 の 情報 と し て 、「 △ Tailor 和平 / Tailor 法王庁訪問   ホ ル ダ ナ 外相 ト ノ 会談内容   Tailor ハ 今 カ 平和 ニ 尤 モ ヨ シ 〔 中略 〕 Spain カ Hitler ニ   仲介申出   米英独伊 ノ 単独講和 ヲ ス   日本 ニ 対 シ テ ハ 別個 ニ 考 フ ルヲ要シ苛酷ナル条件ヲ強フル気持ナキモ〔中略〕独トノ平和出来レハ日本ノ野心ハ充分制肘シ得ル見込アリト述」 べたと記している。このテイラーの提案に対して、ホルダナ ( Count Francisco Gómez-Jordana )・スペイン外相はド イ ツ が 同 意 し な い だ ろ う と 返 答 し た と い う。 以 上 が、 澤 本 日 記 に 記 載 さ れ て い る 須 磨 か ら の 情 報 で あ る (11 ( 。 要 す る に、 米大統領 の 特使 と し て バ チ カ ン と 米政府 と の 連絡役 を 担 っ て い る マ イ ロ ン ・ テ イ ラ ー ( Myron C. Taylor ) が バ チ カ ン 訪問の帰途、スペインに寄り、スペイン政府を仲介として独伊との講和を申し込んだというのである。

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米国が和平へ意欲を見せたという須磨からの一連の報告は、海軍だけでなく当然陸軍でも反響を呼んだ。一〇月九 日参謀本部 で 、「 午前中昨今 ニ 於 ケ ル 情勢判断 ニ 関 シ 第一部第二部合同研究 ヲ 行 フ 両部長出席 」 し た (11 ( 。 九日 の 合同研究 について、戦争指導を担当する第一部第一五課長の甲谷悦雄は次のように記してい る (11 ( 。 二、第二部トノ情勢判断懇談会   イ、第二部ヘノ注文   1、須磨公使電ニ依ル米側和平提唱問題ノ観察   2~ 4〔省略〕 つ ま り 、 第一部 と 第二部 と の 間 で 、 米国 が 和平 を 申 し 入 れ た と い う 須磨 か ら の 情報 が 俎上 に の ぼ っ て い る の で あ る 。 一九四二年八月から一一月にかけては、太平洋戦争開戦後の日本の対外情勢認識の基礎となる「世界情勢判断」の審 議が陸軍、海軍、外務省で断続的に行われていた時期であ り (11 ( 、第一部と第二部の合同研究はその一環である。合同研 究自体は、須磨からの報告とは関係なく予定されていたものだが、たまたま須磨からの情報と時期が重なったと思わ れる。翌一〇日、田中新一作戦部長は、欧州和平について次の三点を指摘しており、須磨からの情報の影響が見受け られ る (1( ( 。 10

10欧州和平ニ伴フ措置   1、欧州和平ニ関スル一般的判断   2、欧州和平ニ併セテ起ルヘキ事象ニ関スル判断      日支戦争

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― 14 ―      日独伊関係      日「ソ」関係   3、欧州和平対策 このように、須磨の情報は陸海軍の中枢にも一定のインパクトを与えたが、その余波は現役、現職ではない指導層 にも広がっていった。外務省情報部長や外務次官、イタリア大使等を歴任した天羽英二は一〇月二一日、外務次官時 代 の 大臣 で 帝大病院 に 入院中 だ っ た 豊田貞次郎海軍大将 ( 予備役 ) を 訪問 し 、「 豊田貞次郎 、 至急面会 シ タ シ ト テ 自動 車ヲ寄越ス、病院ニ行ク。須磨来電「アイロンテーラー」西班牙外相ニ平和提議風説ニ付意見ヲ聞ク   近衛公ヨリノ 話シラシ   信ジ得ズト答フ   其他雑談   辞去」といった応答を交わしてい る (11 ( 。近衛文麿と豊田は二人とも帝大病院に 入院しており、近衛から須磨情報を聞いた豊田が天羽に「至急面会」を求めたのは、彼の驚きを表している。天羽が 豊 田 と 面 会 し た 前 日 の 二 〇 日、 陸 相、 朝 鮮 総 督、 外 相 等 を 歴 任 し た 宇 垣 一 成 は、 「過 般 テ ー ラ ー が 羅 馬 法 王 を 訪 問 し 帰途西班牙を訪ひ英米対独の講和を提議したりとの噂あり。而かも夫れは東洋の問題は後廻しとするとのことなりと 伝ふ。若し夫れが信なりとすれば吾人に至大の波動を与ヘ来るべく、大に警戒し対策を考ヘ置かねばならぬ問題であ る!」と和平から日本だけ取り残されることを懸念してい る (11 ( 。宇垣の記述が須磨情報を指していることは明らかだろ う。このように、米側が和平の申入れをしたという須磨の報告は、近衛、豊田、天羽、宇垣に伝播していった。後述 す る よ う に 、 須磨 の 情報 は 外務省 の O B 会 で も 取 り 上 げ ら れ て お り 、 テ ー ラ ー を 巡 る 須磨情報 を 耳 に し た 関係者 は 少 なくないものと思われる。 一〇月二一日に豊田から須磨の和平情報を告げられて以降、天羽は外務省関係者と会談し、豊田と近衛に報告をし

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た。天羽は一〇月二三日、松本俊一外務省条約局長と「 「テーラー」平和提議其他雑談」をし、同日、 「豊田貞次郎ニ 「テ ー ラ ー」 使 命 ニ 就 キ 長 文 ノ 手 紙 ヲ 送 ル   近 衛 公 ニ モ 見 ル ニ 便 ナ ル 為 手 紙 ト 」 し た (11 ( 。 更 に、 二 八 日 に は 外 務 省 O B の 集 ま り で あ る 十人会 の 場 で 、 有田八郎元外相 が 天羽 に 「「 テ ィ ラ ー 」 ノ 欧州平和運動 ノ 意見 ヲ 問 」 い (11 ( 、 テ ー ラ ー の 動 向 が 話題 に な っ た 。 天羽 は 三〇日 、 谷正之外相 と 面会 し 、「 和平運動情報 ニ 就 キ 話 」 し た 後 、 帝大病院 に 入院中 の 豊田 と 近衛 を 訪 ね 、「 西班牙 ニ 於 ケ ル 和平運動 ニ 就 キ 谷其他外務省幹部 ト ノ 会談模様 ヲ 話 」 し た (11 ( 。 そ の 後 、 ス ペ イ ン に お け る和平運動に関して天羽の日記には記述が見られなくなり、須磨がもたらした情報による衝撃は沈静化したようであ る。 し か し、 年 末 の 一 二 月 二 四 日、 天 羽 は 病 院 に 近 衛 を 訪 ね、 「近 衛 ト 時 局 談   東 条 首 相 ヲ 批 評   近 衛 入 院 ノ 際 4 4 4 4 4 4   陸 4 軍 参 謀 本 部 ハ 須 磨 情 報 ノ 米 ノ 欧 州 妥 協 説 ヲ 信 ジ 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 (「テ ー ラ ー」 「フ ラ ン コ 」 談 話 ) 近 衛 ヲ 欧 州 ニ 派 遣 セ ン 為 入 院 中 止 方 申出デシ由」と告げられてい る (11 ( 。須磨情報に基づいて参謀本部が近衛の欧州への派遣を計画し、近衛に入院を中止す るように要請したという近衛の述懐であるが、そもそも近衛が帝大病院に入院したのは一九四二年一〇月一二日であ る 。 こ の 点 は 、 同日 、 天羽 が 豊田貞次郎 を 見舞 い に 病院 を 訪問 し た 際 の 日記 に 「〔 豊田 の 〕 隣室 に 近衛文麿公 、 本日入 院   帰次見舞ヒ、暫時会談   時局憂慮」と記していることから確認でき る (11 ( 。 先に述べたように一〇月九日の参謀本部第一部と第二部の合同研究で須磨からの和平情報が話題になり、一〇日は 田中第一部長が欧州和平について検討している。近衛入院は一二日なので、近衛が天羽に語った参謀本部が欧州に近 衛を派遣するために入院を止めるように求めたという話は、時系列からみて事実だろう。参謀本部から近衛への要請 は、時間の幅をやや広く取ると、一〇月九日から一二日の間に行われたものと思われる。 欧州で和平が成立するか否かの参謀本部を含めた日本政府の見解は、須磨からの和平情報が到着してから約一月後 の一九四二年一一月七日に大本営政府連絡会議で決定された「世界情勢判断」にみることができる。 「世界情勢判断」

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― 1( ― は各地域、国別に記載されており、 「米英ノ動向」では、 「米英ハ今後情勢ノ推移如何ニ依リテハ独伊トノ間ニ和平ヲ 策スルコトナシトセサルヘシ」と述べられ、他方「独伊ノ動向」では「独ハ今後ノ情勢如何ニ依リテハ「ソ」英ニ対 シ 和平工作 ヲ ナ ス コ ト ナ シ ト セ サ ル ヘ シ 」 と ほ ぼ 同趣旨 の 記述 に な っ て い る (11 ( 。 こ の 表現 だ け で は や や 分 か り に く い が 、 「世界情勢判断」には「 「世界情勢判断」決定ノ連絡会議席上陸(海)軍軍務局長ノ所要事項説明要旨」が付加されて お り 、 そ の 中 で は 、「 現下米英 ノ 独伊 ニ 対 ス ル 戦意 ハ 愈 々 強固 ナ ル モ ノ ア リ ト 雖 モ 欧州方面戦局 ノ 推移如何 ニ 依 リ テ ハ 独伊ト和平シ太平洋方面ニ其ノ戦力ヲ集中指向センコトヲ策スルコトナシトセザルベク万一斯カル事態発生セバ帝国 トシテハ極メテ重大ナル困難ニ逢着スルコトトナルベシ」とあ り (11 ( 、欧州和平の可能性をそれ程高く見積もっていたわ けではない。日本側には須磨の情報とは別に、テイラーのバチカン訪問は和平ではないとする報告も届いていた。バ チカン駐在の原田健公使は、訪問は和平が目的ではなく、戦争を徹底的に戦うという米国の決意をバチカンにわから せ、ローマ法王の和平仲介を止めさせることだったと報告してい た (1( ( 。後述する実際のテイラーの言動と照らすと、原 田のこの報告は概ね正確なものである。 したがって、参謀本部は天羽の日記の文言から窺えるほど須磨の欧州和平情報を信じたとも思えず、近衛への入院 中止要請は欧州が和平へ急転した場合に備えた万が一の措置だったのだろう。とはいえ、須磨からの情報が参謀本部 で注目を集め、近衛への入院中止要請にまで至ったことは、一九四二年八月下旬以降、東情報を含めた須磨情報が軍 部で認知され始めてきたことを示す好例である。 ここで、実際のテイラーの言動を確認しておこ う (11 ( 。テイラーはバチカン訪問後、マドリードに寄り、一九四二年九 月二九日 、 ヘ イ ズ ( Carlton J.H.Hayes ) 駐 ス ペ イ ン 米国大使 と と も に ホ ル ダ ナ 外相 を 訪問 し 、 同日米国大使館 で 行 わ れ たヘイズ大使主催のテイラー歓迎のディナーにはホルダナ外相を含めたスペイン政府要人も参加した。翌三〇日、ス

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ペ イ ン 側 の 申 し 出 で フ ラ ン コ と テ イ ラ ー が 会談 し ホ ル ダ ナ と ヘ イ ズ も 同席 し た 。 席上 、 フ ラ ン コ は 次 の よ う に 述 べ た 。 日米戦争と欧州での戦争は異なり、両者は区別しなければならず、後者は共産主義に対する闘争であり、両者を混同 し て は な ら な い 、 ヒ ト ラ ー ( Adolf Hitler ) は 高潔 な 紳士 で あ り 、 英国 に 対 す る 不満 や 各国 の 独立 を 阻害 す る よ う な 考 えを持っていない、ドイツ、イタリア、全てのキリスト教世界だけでなく米英の敵は野蛮で東洋的な共産ロシアであ る。このような主張に対しテイラーは反駁し、米国は日本だけでなく全ての枢軸国との戦争を戦っていることや、ヒ トラーは各国の独立や英帝国の一体性を尊重していないこと、共産ロシアではなくナチスドイツが好戦的であること を主張し、フランコもこれらの点を認めた。また、フランコは、ロシアに対する弁護や戦争を勝ち抜く米国の力と決 意を強調したテイラーの発言に敬意を払った。 以上のテイラーとフランコとの会談からも分かるように、須磨が報告したような米国側からのスペインへの和平提 案などは全く有り得ない。そもそも、テイラーが一九四二年九月にバチカンに派遣された理由の一つは、枢軸国がバ チ カ ン を 連 合 国 の 利 益 に 反 す る 妥 協 的 和 平 実 現 の た め の 媒 介 と し て 利 用 す る こ と に 米 国 が 懸 念 を 抱 い た か ら で あ る。 事実、テイラーはローマ法王を含めたバチカン側との会談で、枢軸国の完全な敗北を主張し、妥協的和平を支持する ことにより枢軸国の思うつぼにはまらないように警告した。これに対しローマ法王ピウス一二世は、妥協による和平 は考えていないし、キリスト教の基盤を毀損し宗教や教会を迫害する人物たちにさせたいようにさせるいかなる和平 も 拒 否 す る こ と を 約 束 し、 米 国 を 満 足 さ せ た (11 ( 。 要 す る に テ イ ラ ー の 発 言 は バ チ カ ン で も ス ペ イ ン で も 一 貫 し て お り、 テイラー及米国政府が何らかの和平の試みをしたことはなかったのである。 し か し 、 米国 の 外交官 で バ チ カ ン に 駐在 し て い た テ ィ ッ ト マ ン ジ ュ ニ ア ( Harold Tittmann, Jr. ) が 回想 す る よ う に 、 バチカンでのテイラーの存在は枢軸国の外交官の注目を集め、彼らはテイラーのバチカン訪問の本当の目的は和平の 可能性を探ることであると推測していたのであ る (11 ( 。また、ヘイズ大使によると、テイラー訪問はスペインでも大きく

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― 1( ― 報道 さ れ 、 ド イ ツ 資本 や フ ァ ラ ン ヘ 党 の 新聞 は 彼 の 訪問 を 連合国 の 和平 の 申 し 入 れ と 解釈 し 、 他方 よ り 穏健 な 新聞 は 、 訪 問 は イ タ リ ア を 枢 軸 か ら 切 り 離 し 単 独 講 和 を 締 結 し よ う と す る 米 国 の 試 み と 理 解 し て い た (11 ( 。 須 磨 の 誤 っ た 報 告 は、 テイラーの訪問を和平と結びつける観測が広くなされていたことも念頭に置く必要がある。 (二)米独伊和平極秘交渉 一 九 四 三 年 三 月、 須 磨 は ベ ラ ス コ か ら の 情 報 と ス ニ エ ル 元 外 相 か ら の 聞 き 取 り の 結 果 と し て、 ス ニ エ ル、 そ し て、 イタリア外相からバチカン大使に就任したチアノ ( Galeazzo Ciano )、ドイツ外相のリッベントロップ ( Joachim von Ribbentrop )、 ロ ー マ 訪問中 の 米国 の カ ト リ ッ ク 教会 の 有力者 で あ る ス ペ ル マ ン ( Francis Spellman ) の 四者 が 極秘裏 に和平交渉を行なったと報告した。この件は先行研究でも米国の解読記録を用いて事実関係は言及されている が (11 ( 、こ こでは、須磨の情報の

勿論、四者会談自体は虚報であったが

、与えた影響を考察する。 この四者会談を報告した須磨から外務省に宛てた電報は現存していない。しかし、須磨がスペイン在任中に記した 「 塞翁 ヶ 馬 」 と い う 表題 の 手記 の 中 に 四者会談 に 言及 し て い る 箇所 が あ る (11 ( 。 以下 、 こ の 手記 に 拠 り な が ら 行 わ れ た と い う会談の内容を確認していきたい。 「その二月二十五日スニエルはチアノ □ 二字不明 □ さし廻した特別飛行機でローマに直行、 チアノ宅に陣取つて三月一日同じ飛行機で帰路につき同日バルセローナ一泊、二日に馬徳里に帰つた。その間二日間 パラシオ・ヴエネチアで歴史的大会談が行はれた。チアノ、リツベントロツプそれに米国の代表者、名前は言はない が 、 宛 も 当時 ヴ ァ チ カ ン に あ つ た ス ペ ル マ ン で あ つ た と み ら れ る 。〔 中略 〕 要 す る に そ の 会談 は 二日 に わ た つ た が 、 チ アノが司会し、米国大使館を通して米国政府の意向が明らかになつたからと前提して、次のやうな欧州の休戦に関す る提議をなし、結局白人種が東洋への戦争を新たに起す準備とみらるべき趣旨を述べたものであつた」とし、米国政

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府からの提議の内容を次のように述べている。 「(一)欧州と太平洋とを切り離し欧州のみの休戦を速やかに実行すること (二)仏領アフリカは大体米国に於て占領し、シレナイカ、リビア、スエズ地方は英国に於て占領すること (三)米国はソヴイエツトとの関係を場合に依つては清算し、反共の宣伝をなすの用意あること」 この米国側の提案に対してリッベントロップは、 「(一) 全 世 界 の 休 戦 な ら ば 兎 も 角 、 日 本 と 手 を 切 る 訳 に は ゆ か な い 。 の み な ら ず 太 平 洋 は 日 本 に 任 す べ き も の で あ ると確信する (二) 北 阿 に 対 す る 米 英 の 支 配 を 認 め る 訳 に は ゆ か な い 。 ま た ス エ ズ 地 方 は ド イ ツ に 於 て あ く 迄 支 配 し た い 。 爾 余 の諸地方イタリア及スペインに於て処理させたい」 と述べ提案を断ったという。須磨は、 「結局   東洋と西洋との切離しが不調になつたため会談の根本的趣旨が通じず、 物別れになるのであつたが、会談中和気藹々として、また何時でも話合をする空気が読まれてゐた。最も相異した点 は日本切離しに関する一点にとどまつてゐた」と指摘し、最終的に「この話が実を結ぶかどうかは一向に見当がつき え な い の だ が 、 ス ニ エ ル 帰馬 〔 馬徳里 〕 の 翌日即 ち 三日筆者 に 語 つ た 処 に よ る と 『 イ タ リ ア は も う 戦争 に 飽 き て ゐ る 。 その脱落だけは既に確定的な事実とみる方が宜しい』と言つてゐた」 。以上が、須磨自身が記したリッベントロップ、 チアノ、スペルマン、スニエルの欧州和平を巡る四者会談の概要である。 ドイツ、イタリアが日本と相談なく米国と和平交渉を行っているという日本にとって不利な情報は、早速、日本政

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― 20 ― 府 上 層 部 の 関 心 を 惹 き、 海 軍 次 官 の 澤 本 も 一 九 四 三 年 三 月 一 〇 日 の 日 記 に「和 平   1(─ 3─ 5   須 磨 発 」 と 題 し て 四 者会談の内容を一三行に亘り詳細に書きとめてい る (11 ( 。 須磨電が与えた影響を考察するために、まず当該時期に日本政府が欧州での和平の実現可能性についてどのような 判断をしていたのかを押さえておく。一九四二年一〇月「遣独伊連絡使派遣ニ関スル件」が採択され、ドイツとイタ リアに駐在する大使や陸海軍武官との連絡のための人員の派遣を決定し、翌一九四三年一月陸軍、海軍、外務省から 連絡使が任命され、連絡使の団長には陸軍から岡本清福が就いた。二月二〇日の連絡会議で、連絡使が携行するため に「世界情勢判断」の作成が行うことが決定し、二月二七日には、前年一一月以来の「世界情勢判断」が連絡会議で 決定された。一九四三年二月は、日本のガダルカナルからの撤退やドイツのスターリングラード戦での敗北など、戦 局が枢軸側に非常に不利な状況に陥っていた時期である。一九四二年一一月と一九四三年二月の「世界情勢判断」を 比較すると、欧州和平に関し、一一月は「米英ノ動向」 、「独伊ノ動向」という項目の中で欧州和平の可能性に言及す る だ け だ っ た が 、 二月 の も の は 、 新 た に 「 欧州和平 」 と い う 独立 し た 項目 が 追加 さ れ 、 そ こ で は 、「 現下 ノ 情勢 ニ 於 テ ハ 独「ソ 」、 独 英 間 ニ 何 レ ノ 側 ヨ リ モ 和 平 ヲ 提 議 ス ル ノ 公 算 少 キ モ 戦 局 ノ 推 移 ニ 伴 フ 今 後 ノ 動 向 ニ 関 シ テ ハ 注 視 ヲ 要 ス 」 と 述 べ ら れ て い る (11 ( 。「 欧州和平 」 と い う 項目 を 独立 さ せ て 記述 し た こ と か ら も 看守 で き る よ う に 、 欧州和平 の 可能 性は少ないとはいえ、一九四二年一一月時点より一九四三年二月は、その可能性が増大していると日本は判断してい た こ と に な る 。 こ の 点 は 、「 世界情勢判断 」 が 決定 さ れ た 同日 、 大本営陸海軍部 で 了解 し た 「 世界情勢 ノ 推移 ニ 対 ス ル 更ニ将来ニ渉ル突込ミタル質疑ニ対スル応酬要領」の中で、 「戦争ノ持久化ニ伴ヒ政謀略ハ漸次活発化シ独米英「ソ」 間ニ和平妥協ノ策謀ヲ見ルコトナシトセサルヘシ」と触れていることからも理解でき る (11 ( 。 また、一九四二年一一月の「世界情勢判断」では中立諸国について、スペイン、ラテンアメリカ諸国は同年三月の

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「世界情勢判断」と変化なしとされたが、翌年二月のそれは、スペインについて「西ハ極力中立維持ニ努ムルナラン」 と改変され、新たに「羅馬法王庁ノ動静ハ注視ヲ要ス」という文言が追加され、バチカンへの関心が増大したことを 示 し て い る 。 ス ペ イ ン や バ チ カ ン に つ い て は 東条英機首相 も 関心 を 持 ち 、「 世界情勢判断 」 決定時 の 二月二七日 の 連絡 会議での席上、東条はスペインの中立維持は日本に好意的なものか、それともやむを得ないものか、日本に対して好 意的な態度が希薄となりつつあると観察しているがと発言し、議場一般は、好意的態度は逐次稀薄となりつつあると 返答した。更に、東条は「羅馬法皇ノ動向ハ単ナル和平運動ナリヤ、或ハ余程大ナル力ヲ背景トシテノ動キナリヤ」 と 述 べ 、 陸軍省軍務局長佐藤賢了 は 「 単 ナ ル 和平運動 ナ ル ヘ ク 大 ナ ル 指導力 ハ 無 キ モ ノ ト 観察 シ ア リ 」 と 応 じ て お り 、 さほど重視はしていないが、一応バチカンの和平運動を気にかけている様子が窺え る (1( ( 。 昭和天皇 が 日米開戦前 に 、 戦争終結 を 見据 え て バ チ カ ン と の 関係 に 留意 し て い た こ と は 比較的良 く 知 ら れ て い る が (11 ( 、 日本 は 一九四二年三月 、 バ チ カ ン に 公使 と し て 原田健 を 任命 し 派遣 し た 。「 世界情勢判断 」 が 決定 さ れ た 一九四三年二 月二七日の前後にはバチカンが和平工作に何らかの形で関与するのではないかという憶測を生む二つの出来事が発生 した。それらは、須磨の四者会談に登場するチアノとスペルマンの動きである。 ま ず 、 イ タ リ ア の 外相 で ム ッ ソ リ ー ニ ( Benito Mussolini ) の 娘婿 で も あ る チ ア ノ が 、 外相 を 辞任 し 、 バ チ カ ン 駐在 大使に就任したことである。二月七日にチアノの大使就任が公式に発表された後、イタリアがバチカンを通じて連合 国側と交渉を開始するのではないかと噂され た (11 ( 。他方、チアノの外相辞任については、ドイツの要請によるものであ るというリスボンの森島守人公使からの報告 や (11 ( 、駐イタリア大使館からは、チアノを含めた二流の人物で構成されて いるという理由で内閣は批判され、内閣の人員の入れ替えは噂されては立ち消えになってきたが、状況が切迫し国民 を宥めなければばらなかった、という観測もなされ た (11 ( 。また、バチカンの原田健公使は二月八日イタリアの外交官か

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― 22 ― らの極秘情報として、チアノのバチカン大使任命をバチカンを和平に関与させるというイタリアの政治的企みと見な すべきでない、と説明されたことを本省に報告してい る (11 ( 。総じて欧州に駐在する日本の外交官からの報告は、チアノ のバチカン大使転出とイタリアの和平問題を必ずしも結び付けてはいなかった。 こ こ で 、 チ ア ノ の 外相更迭 と バ チ カ ン 大使就任 の 経緯 を 確認 し て お き た い 。 戦況 の 悪化 も あ り 、 チ ア ノ は 連合国側 と の和平に積極的なグループの一員であり、外相在任時からバチカンを和平に利用することも考えていた。外相更迭時 にいくつかのポストを提示され、バチカン大使就任を選んだ。大使就任後も連合国との和平を試みたが成功しなかっ た (11 ( 。チアノ個人が和平を希求していたことは確かだが、外相辞任自体はあくまで更迭であったことは留意する必要が ある。 次にバチカンと和平との関連を想起させた出来事として、米国カトリック教会の有力者でニューヨーク大司教かつ 枢機卿でもあるスペルマンのバチカンを含めた各国歴訪である。とりわけバチカン訪問は連合国とイタリアとの和平 の兆しではないかという憶測を生み、スペルマンの動向はメディアでも大きく取り上げられた。スペルマンは一九四 三年二月九日ニューヨークを発ちリスボンを経由し一二日マドリードに着き、一六日フランコと会談、二〇日にロー マに到着し、三月三日迄滞在し、その後、英国、北アフリカ、中東を歴訪し、八月一日、米国に帰国し た (11 ( 。 日本の外務省は二月一八日、欧州駐在の在外公館に宛ててスペルマンの動向を探るように訓令を出し た (11 ( 。二月二五 日スペインのホルダナ外相は須磨公使に対して、スペルマンのマドリード滞在中に会談したが、マイロン・テイラー とは異なりスペルマンは和平に関心はないが、米国の対ソ連援助が継続すれば、今年中にドイツは講和を申し込むか も 知 れ な い と 発言 し て い た 、 と 説明 し て い る (11 ( 。 二月二六日 に バ チ カ ン の マ リ ヨ ー ネ ( Luigi Maglione ) 国務長官 は 原田 公使へ、スペルマンの目的は宗教関連で、いかなる政治的ミッションも帯びていないが、スペルマンはローズヴェル

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ト ( Franklin D. Roosevelt ) 大統領 と 親 し い 関係 な の で 、 結果的 に ス ペ ル マ ン が 法王 の 口頭 の 伝言 を 大統領 に 伝 え る こ とは不可能ではないと述べた。原田は、このマリヨーネの発言や、イタリアの外交官、フィンランド公使等の見解を 加え、迷いながら、あえて自らの所見として、スペルマンはテイラーと同様にローマ法王の意向を探り、米国の立場 を説明する任務を有していると報告してい る (1( ( 。 ところが、三月に入り、スペルマンがローマを発った後、原田の情勢判断は変化する。三月九日付けで、バチカン 駐 在 の ド イ ツ 外 交 官 と の 会 談 内 容 を 伝 え、 そ の 中 で、 ド イ ツ 外 交 官 の ス ペ ル マ ン の バ チ カ ン 訪 問 は 宗 教 的 な も の で、 全 般 の 状 況 に 余 り 影 響 せ ず、 さ ほ ど 注 意 を 払 う 必 要 は な く、 そ の 旨 ド イ ツ 本 国 に 伝 え た と い う 発 言 を 紹 介 し て い る (11 ( 。 ドイツ側のこのような発言に影響を受けたのかも知れないが、原田は三月一一日最終的に、テイラーのバチカン訪問 とは異なり、スペルマンは具体的な提案を持ってきておらず、観察者として行動した、具体的な成果を生み出すこと を意図した政治的討議は行われなかったことが一般的に認められている、と本省に報告し た (11 ( 。要するに、原田はスペ ルマンのバチカン訪問について二月下旬では一定の政治性を帯びたものと見なしていたが、三月に入り政治性の薄い ものである、と考えを変えたのである。 スペルマンがまだローマに滞在している時の二月二七日に決定された「世界情勢判断」に「羅馬法王庁ノ動静ハ注 視ヲ要ス」と新たに追加された背景には、これまで述べたようなチアノやスペルマンの動きがあったことは十分に考 え ら れ る し 、 後述 す る よ う に 陸軍 の 一部 で は チ ア ノ や ス ペ ル マ ン の 動向 に 多大 の 関心 を 払 っ て い た 。 い ず れ に し て も 、 バチカンの動向が一定程度注目され、チアノやスペルマンの動きに注意が払われている時の三月初旬、まさに渦中の 人物であるチアノとスペルマン、そして、リッベントロップ、スニエルの四者が極秘裏に会談し和平協議を行ったと いう須磨からの情報が飛び込んで来たのである。前述したようにスペルマンは二月二〇日から三月三日迄ローマに滞

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― 24 ― 在し、同時期にドイツの外相であるリッベントロップも二月二四日から二八日迄ローマを訪問し、ムッソリーニと会 談 し 、 チ ア ノ と も 会談 し た (11 ( 。 つ ま り 、 ス ペ ル マ ン と リ ッ ベ ン ト ロ ッ プ は 同時期 に 共 に ロ ー マ に 滞在 し て い た の で あ る 。 そ れ 故 、 リ ッ ベ ン ト ロ ッ プ と ス ペ ル マ ン が 会談 し た と い う 須磨情報 は 、 一見尤 も ら し く 見 え た の で あ る 。 ま た 、 三月八 日、原田健がバチカン大使就任後のチアノと初めて会見した。その際、チアノは、バチカン大使就任は自らが希望し たものであり、バチカンはイタリアにとりかつてなく重要で、比類ない役割を果たすことになるだろうと述べ、リッ ベントロップのローマ来訪時に会談したことなども話し た (11 ( 。バチカンの役割を強調したチアノの発言は、バチカンが 欧州での和平工作に関与するのではないかという日本側の懸念を増幅させた可能性もある。先に引用した澤本海軍次 官の日記によれば、須磨の四者会談の報告は三月五日に発信され一〇日には澤本に到達しているが、チアノの発言を 報告した原田電も同時期に東京に達していたことになる。 須磨 の 報告 を 受 け て 外務省 で は ベ ル リ ン 、 バ チ カ ン 、 ロ ー マ の 在外公館 に 、 須磨 か ら の 情報 を チ ェ ッ ク す る よ う に 訓 令し、駐独大島浩大使はリッベントロップと会見した。その内容は、三月一五日付けの澤本次官の日記によれば「独 外 相 和 平 会 談 否 定   3 ‒ 13th ─ 大 島 報   「リ 」 外 相 ハ 四 人 会 談 ノ 話 頭 カ ラ 一 笑 ニ 附 シ 米 人 ト 会 談 セ ル 事 実 ナ キ コ ト ヲ 確 言シ又「ム」首相モ伊政府ノモノカ会談セルコトナシト確信セリ」というもの で (11 ( 、独伊が米国側と和平協議を行った ことを完全に否定した。ドイツが日本に相談なく米国と和平交渉していたという須磨の情報は、枢軸派の中心人物で ある大島大使を狼狽させ、大島は須磨の情報に対し激しく憤った。大島は須磨の四者会談の情報は、スペインでの情 報収集において日本が果たしている役割を認識している米英のエージェントが巧みに仕掛けたものであり、スニエル が親枢軸の立場から米英寄りに転向したのではないかと疑い、スニエルの政治的立場とイデオロギーを徹底的に再調 査するように求め た (11 ( 。更に、もし須磨の情報が正しければ、日本は対独関係の再考を迫られる、だからこそ、この須

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磨からの情報を外交上の諜報網を犠牲にしてでも調査し、本当の事実を得るように尽力し、将来の情報収集のためと いって、曖昧なまま放置するのは本末転倒だと訴え た (11 ( 。須磨の四者会談に対する大島の主張は、それ自体だけをみれ ば正当なものであるが、元来ドイツ寄りの大島の発言は割引いて受け止められた側面もある。外務省戦時調査室委員 長の石射猪太郎は大島の反応について、 「「スニエル」情報で大島八ツ当りをする。鳥の雌雄は一概に断ずべからず」 と日記に記している が (11 ( 、大島に対して冷ややかであり、須磨の情報を完全に信じたわけではないだろうが、ドイツと 連合国側との和平協議の可能性を捨て切れていない様子が看守される。 一九四三年三月初旬に欧州の在外公館から齎された欧州和平の動きは、須磨だけではなく、ブルガリアの山路章公 使からも来ていた。昭和天皇は三月三日、木戸内大臣と「ソフィア山路公使電、英独和平云ゝにつき御話あり。バル カンが宣伝戦の中心地となれる現状、其他につき御話申上ぐ」というやり取りを し (11 ( 、同日、蓮沼蕃侍従武官長に対し ても「本日ソフィア山路公使電ニ英独和平説出デアルガ、参謀本部ハ之ニ対シ如何ニ考ヘアルヤ」と述 べ (1( ( 、木戸と蓮 沼の側近二名に山路電への関心を語っている。 一九四三年二月末の「世界情勢判断」では欧州和平の可能性が増大したと考え、三月に入ると山路や須磨からの情 報 が 寄 せ ら れ 、 欧州和平 が 万 が 一実現 し た 場合 に つ い て 日本政府 は 検討 せ ざ る を 得 な く な っ た 。 例 え ば 、 三月二二日 、 企画院 で は 「 欧州和平問題 ノ 動 キ ト 帝国 ノ 対策 」 を 起案 し た (11 ( 。 結論 は 、 枢軸国 の 建直 し が 主眼 で 、「 独伊 ト ノ 交誼 ヲ 一 段ト緊密ニシ枢軸三国ノ結束ヲ鞏固ト為スヲ要ス」 、「独伊ヲ我カ薬籠中ノモノトスルヲ心掛クヘシ」と指摘し、独伊 と米英間で欧州のみの和平が成立しそうなら、 「「ソ」連ニ対抗スル全面和平ヘト形勢ヲ馴致スルニ努ムルヲ要ス」と 述 べ つ つ 、 ソ 連 と の 対抗 と は 正反対 の 「「 ソ 」 連 ト 結 ン デ 白人国家 ノ 圧迫 ニ 対抗 ス ル ノ 途 ヲ 撰 ブ 」 と い う 選択肢 も 提示 している。この時期既に企画院の一部で、状況によってはソ連との提携が考えられていたことは興味深い。

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― 2( ― そ し て 、 三月二五日 、 大本営陸軍部戦争指導課 で は 、「 独伊対米英間 ノ 和平工作 ニ 対 シ 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 帝国今後 ノ 戦争終末指導方策 ト シ テ ノ 施策 ヲ 課 ト シ テ 研究 ス ル コ ト ヲ 発意 シ 其 ノ 内容 ヲ 概 ネ 左 ノ 如 ク ス ル 様課長 〔 松谷誠 〕、 種村 〔 佐孝 〕 中佐間 ニ 決定」し た (11 ( 。ここで重要な点は、独伊と米英間の和平工作への対抗策として日本側の戦争終了計画が立案されたとい うことであり、日本側の自主的な動きではないということである。独伊と米英間で和平工作が行われているという認 識が陸軍にはあったのである。こうして作成されたのが、先行研究でもしばしば言及されてきた、種村起案の「帝国 ヲ中心トスル世界戦争終末方策(案) 」であ る (11 ( 。ここでは、この史料の中の「和平工作ニ対スル英米ヘノ路線ノ設置」 と 題 さ れ た 箇 所 を 検 討 し て み た い。 ま ず、 「和 平 工 作 ノ 準 備 ハ 政 略 的 ニ 謀 略 的 ニ 大 イ ニ 行 ヒ 其 ノ 気 運 ノ 醸 成 ニ 努 メ 機 微 ノ 間 ニ 処 シ テ 之 カ 工 作 実 施 ニ 着 手 セ サ ル ヘ カ ラ ス 」 と し て、 英 米 へ の 和 平 工 作 へ 吝 か で な い 姿 勢 を み せ、 「世 界 戦 争指導ノ主動権ヲ把握スル為之カ路線ノ速カナル設定ニ努力スルハ当然ナリ「スペルマン」ノ訪伊「チアノ」ノ「バ チカン」使節等々戦争指導上ノ奥義タルヘク」と指摘し、スペルマンとチアノの動きを和平工作の布石と看做してい る。続けて、スペルマンとチアノの動向を「一笑ニ付スルモノノ愚ヲ笑ハサルヘカラス事茲ニ至レハ帝国遣欧使臣ノ 低劣我外交使陣ノ貧弱ヲ嘆クノミ/茲ニ於テ独伊トノ連絡ヲ更ニ緊密ニスルノ他諜報網ノ拡充強化特ニ有力ナル政治 工作網ノ新展開ハ速カニ実行スヘキ緊急事項トス」と述べている。要するに、スペルマンやチアノの動きを「戦争指 導上ノ奥義」とさえ形容する種村が、彼らの動向を軽視している欧州駐在の外交官を批判しているのだが、ここで批 判の対象になっている外交官の中にはスペルマンのバチカン訪問は観察者で政治的任務は無いと報告した原田健も含 まれていると思われる。原田の報告とは対照的な須磨の情報は、全て信じられたとは考えにくいが、独伊と米英間で 何がしかの和平工作が行われているという認識を日本側の一部に植え付ける方向に作用したと言って差し支えない。 三月三〇日、戦争指導課の案を基礎として、陸軍省と参謀本部の幹部間で「速カニ世界戦争終末方策ニ関スル準備

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ヲ ナ ス 」 こ と が 決定 さ れ た (11 ( 。 そ の 日 の 大本営陸軍部戦争指導課 の 日誌 は 、「 「 ス ペ ル マ ン 」 ノ 訪伊 、「 チ ア ノ 」 ノ 「 バ チ カ ン 」 使節任命 、「 リ ツ ペ ン 」 ノ 訪伊等 「 バ チ カ ン 」 ヲ 中心 ト ス ル 欧州内幕 ノ 動 キ 機徴 〔 微 〕 ナ ル ア ル ト キ 帝国独 リ 拱 手傍観シアルノミニシテ為ストコロナカランカ   欧州局部和平カ大東亜戦争ト別個ニ成立シ帝国ノ運命絶望ノ深淵ニ 放チ込マルル危険ナシトセサルヘシ〔中略〕欧亜連絡飛行実現セハ戦争指導上益スルトコロ極メテ絶大ナルモノアラ ン」と述べてい る (11 ( 。この箇所も、終戦研究の開始のきっかけが欧州でのみの和平実現を恐れたからである、という文 脈 で よ く 引 用 さ れ る (11 ( 。 に も 関 わ ら ず、 先 行 研 究 は ス ペ ル マ ン や チ ア ノ の 動 向 に つ い て 論 じ る と こ ろ が ほ と ん ど な く、 とりわけ、彼らの動きに関して在外公館がどのような情報を送ってきたかについては等閑視されてきた。それ故、本 稿ではそれらの点についてやや詳細に説明してきたのである。 戦争指導課は、単にチアノがバチカン大使に就任した、スペルマンやリッベントロップがローマを訪問した、枢軸 国に戦況が不利になったという外形的な事実だけ判断していたのではなく、公式、非公式の種々の情報を基に判断し ていたことを念頭に置く必要があり、その中の一つに須磨情報があったのである。 須磨の情報が意味を持ったのは、内容が内容だけに大島大使がリッベントロップに対して照会を行いドイツ側の反 応を引き出したことである。戦争指導課では一九四三年四月一八日付けで「戦争指導ノ見地ヨリ独(伊)首脳者ノ言 ニ関スル再検討」を起案し た (11 ( 。この文書は、一九四一年一一月下旬から一九四三年三月までの間、ドイツ指導層(ヒ トラー、リッベントロップ、軍首脳等)が日本側との会見で何を語ったかを記し、かつドイツ側の発言とその後の行 動について詳細に分析したものである。その最後に、須磨情報を受けて行われた大島・リッベントロップ会談の要旨 が 記載 さ れ 、 澤本海軍次官 の 日記同様 、「 「 リ 」 ハ 「 ス ペ ル マ ン 」 其他如何 ナ ル 米人 ト モ 会談 セ ル コ ト ナ シ ( 伊訪問 )」 、 「 最後 ノ 勝利迄戦 ヒ 抜 カ ン ト ス ル 決意 ニ ハ 啻 ニ 独 ノ ミ ナ ラ ス 伊太利 ニ モ 疑 ヲ 挟 ム 余地 ナ シ 」 と い う ド イ ツ 外相 の 発言 が

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― 2( ― 記載 さ れ て い る 。 重要 な の は 、「 綜合判決 」 と い う 項 で 戦争指導課 の 所見 を 述 べ て い る が 、 そ こ で 「 対米妥協 ノ 色 ハ 当 初ヨリ濃厚ナリ」とドイツの態度を指摘していることである。ドイツの否定にも関わらず、独米和平の可能性を陸軍 の一部が払拭できていないことを示している。 ここまで論じてきてことを要約すると、一九四三年の二月のチアノのバチカン大使就任、スペルマンのバチカンを 含 め た 各 国 歴 訪 に よ り、 戦 況 の 悪 化 と も 重 な り、 日 本 側 は 欧 州 局 部 和 平 実 現 の 可 能 性 が 増 大 し た と 考 え た。 そ し て、 三月に入ると、須磨や山路からの欧州和平に関する情報が相次いで東京に達し、日本側でも米英と独伊間の和平が実 現した場合の対策をせざるを得ない状況に立ち至った。この過程で須磨の四者会談情報は全面的に信用されたわけで はないが、一定の影響を陸軍に与えたということが言える。 四、スペインを通ずる和平企図 第二次大戦中欧州の中立国は情報活動が活発だっただけでない。日本と欧州は距離があったとはいえ、中立国は連 合国と枢軸国双方の人物が往来できた関係上少なくない和平工作あるいは終戦工作がスイス、スウェーデン、バチカ ン等で行われたことは良く知られている。では、スペインはどうだったのだろうか。結論から言うと、東京の外務本 省では可能ならばスペインでの英国との接触を検討したが、須磨が本省の思惑通りに動かず失敗に終わり、スペイン では実のある和平への動きは見られなかった。以下、その経緯を述べる。 そもそも第二次大戦中の中立国スペインを外交上何らかの形で利用することは日本の指導層の一部では考えられて いた。例えば、吉田茂は一九四三年七月二七日東久邇宮稔彦王を訪ね、陸海軍の作戦が行き詰まり、外交により現状

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を 打 開 し な け れ ば な ら ず、 「我 国 は お そ ま き な が ら、 近 衛 公 爵 に 適 当 な る 随 員 を 付 け て 欧 州 に 派 遣 し、 ス ペ イ ン に 滞 在せしめて、将来の平和問題に対策せしめざる可らずこの度の世界戦争の平和交渉には、我国は指導的立場に立たざ る可らず」と近衛のスペイン行きを提案してい る (11 ( 。また、重臣の若槻礼次郎は一九四四年二月東條首相と面会した際 に 、「 ……平和 の 端緒 を 掴 む 必要 が あ る 。 英国 が ス ペ イ ン に ホ ー ア を 派 し て い る の は 、 大 い に 含 み が あ る 。 日本 も そ の 端緒を掴まねばならぬが、それにはヴァチカンなども大事だと述べ た (11 ( 」。 実は一九五二年四月に刊行された回想録の中で戦中期の外相だった重光葵は、日本が和平を申し入れるには仲介者 を 通 じ て 直 接 米 英 の 意 向 を 探 る の が 有 利 だ っ た と し た 上 で、 「記 者〔重 光 自 身 を 指 す 〕 は、 そ の 方 法 と し て、 英 国 の 有力なる閣員代表者の駐在してゐたマドリッドを選んだこともあるが、これも思ふようになら」なかったと述べてい た (1( ( 。重光は公刊した手記ではスペインを和平に利用しようとした点は、引用した箇所以上は述べておらず極めて短い ものとなっている。しかし、手記が刊行された一年前の一九五一年四月、外務省の若手事務官が満州事変から太平洋 戦争終結迄の日本外交について「日本外交の過誤」という調書を作成した際に所見を求められ重光は、スペインを通 じた和平について次のように回顧してい る (11 ( 。 そ こ で 、 次 は マ ド リ ッ ド で や ろ う と 思 っ た 。 当時 マ ド リ ッ ド に は 、 イ ギ リ ス の サ ー ・ サ ミ ュ エ ル ・ ホ ア ー〔 Samuel Hoare 〕 と い う 保守党 の 有力者 の が 大使 と し て 来 て お る 。 又 ロ イ タ ー の チ ャ ー ン ス ラ ー 〔 Christopher Chancellor 〕 が お り 、 こ の 人達 を 自分 は 少 し 知 っ て い た の で 、 話 の 相手 に す る こ と が 出来 る か も 知 れ な い と 考 え た 。 又自分 の 方 は須磨弥吉郎という有能な人が公使でいたので、これに電信をやった。ところが、まことに残念なことに、須磨 は全く意見を異にしており、 「少し我慢すれば欧州の方もドイツの大勝におわる」ということで強く断って来た。

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