江戸市民と葛西金町村の半田稲荷
加藤
貴
はじめ に ❶ 半田稲荷社の沿革と信仰主体 ❷ 江戸から半田稲荷社への道 ❸ 半田稲荷社と願人坊主 ❹ 半田稲荷社の江戸出開帳 おわり に 江戸市民にとっての名所は、 自然との交流と神仏との交感によって、 「延気」を約束 し て く れ る 場 所 で あ っ た。 江 戸 市 民 は、 一 八 世 紀 以 降 に な る と、 名 所 を め ぐ る 広 範 な 行 楽 行 動 を 展 開 す る よ う に な っ て い き、 江 戸 の 近 郊 で は、 新 た に 多 彩 な 名 所 が 成 立 し て い っ た。 そ の 多 く は、 日 本 橋 か ら ほ ぼ 半 径 二 里 半( 約 一 〇 キ ロ メ ー ト ル ) の 範 囲 に お さ ま っ て い る。 と こ ろ が、 本 稿 で と り あ げ た 半 田 稲 荷 社 は、 江 戸 か ら 四 里 の 距 離 に あ る 葛 飾 郡 東 葛 西 領 金 町 村 に 所 在 し て お り、 日 帰 り が 不 可 能 で は な い が、 江 戸 市 民 に い わ ば 小 旅 行 を さ せ た の は、 そ れ だ け の 利 益 を 半 田 稲 荷 社 が 約 束 し て く れ た か ら で あ る。 当 時 の 医 学 で は 対 症 療 法 し か な く、 し か も 罹 患 す る と 死 亡 率 の 高 い 疱 瘡 除 の 利 益 である。 こ う し た 半 田 稲 荷 社 と 江 戸 市 民 と の 関 係 を、 信 仰 主 体 ・ 願 人 坊 主 ・ 江 戸 出 開 帳 な ど か ら み て い っ た。 半 田 稲 荷 社 の 疱 瘡 除 の 利 益 を 江 戸 で 宣 伝 し て 回 っ た の が 願 人 で あ り、 板 東 三 津 五 郎 が 歌 舞 伎 の 舞 台 で 踊 っ て み せ た こ と で、 さ ら に そ の 存 在 が 江 戸 市 民 に 周 知 さ れ て い っ た。 し か し、 江 戸 市 民 か ら の 信 仰 を 集 め、 多 く の 参 詣 者 が あ っ た も の の、 そ れ ほ ど の 潤 い を 半 田 稲 荷 社 や 金 町 村 に も た ら さ な か っ た よ う で あ る。 こ こ に 同じく江戸市民から信仰を集めた王子稲荷社や王子村との大きな違いがみられる。 江 戸 か ら の 距 離 が、 王 子 稲 荷 社 は 二 里 半、 半 田 稲 荷 社 は 四 里 と、 そ れ ほ ど の 違 い に はみえないが、 江戸市民にとってはこの一里半の違いが大きかったようである。 また、 王 子 が 四 季 を 通 じ た 行 楽 地 と し て、 多 く の 江 戸 市 民 を 集 め た の に 対 し て、 半 田 稲 荷 社 が 疱 瘡 除 の 強 力 な 利 益 を 与 え て も、 そ れ だ け で 江 戸 市 民 を 常 時 魅 き つ け る こ と は で き な か っ た よ う で あ る。 王 子 稲 荷 社 と 半 田 稲 荷 社 の 違 い は、 江 戸 市 民 の 名 所 を め ぐ る 日 帰 り 行 楽 行 動 の 範 囲 が、 日 本 橋 を 中 心 に 一 〇 キ ロ メ ー ト ル の 範 囲 に と ど ま っ た こ と を 再 確 認 さ せ て く れ る。 そ れ で も な お か つ 江 戸 市 民 が 半 田 稲 荷 社 に 参 詣 し た の は、 疱 瘡 除の強力な利益を約束してくれたからである。 【キーワード】江戸、日帰り行楽圏、疱瘡、願人、半田稲荷社 Edo Citizens and the Handa-Inari-Jinja Shrine in K
asai K anamac hi-Mur a KA TO T akashi
はじめ
に
江戸が巨大過密都市となり、身近な自然を喪失していくなかで、日常 的には自然との交流が困難となっていったため、江戸市民は近郊の景勝 地 を 訪 れ る こ と で、 そ の 代 償 と し て い っ た。 そ の 一 方 で、 江 戸 市 民 は、 生 活 の 順 調 な 展 開 を 阻 害 す る 病 気 ・ 火 災 ・ 盗 難 な ど の 厄 を 除 き、 商 売 繁 盛 ・ 立 身 出 世 を 祈 願 す る た め、 利 益 を 与 え て く れ る 寺 社 に 参 詣 し、 神 仏 と交感したのである。江戸市民にとっての名所は、自然との交流と神仏 との交感によって、 「延気」を約束してくれる場所であった。 「延気」と いうのは当時用いられた語で、さまざまな意味での「気晴らし」のこと をさしている (( ( 。 江戸市民は、すでに一七世紀中期には市中や近郊の名所を訪れていた が、 一八世紀以降になると、 広範な行楽行動を展開するようになっていっ た。江戸の近郊では、 新たに多彩な名所が成立していった。その多くは、 日本橋から ほ ぼ半径二里半(約一〇キロメートル)の範囲におさまって いる。つまり、これが日帰りでも充分に名所での行楽を満喫できる地理 的条件にある場所ということになる (( ( 。 ところが、本稿でとりあげる半田稲荷社は、江戸から四里の距離にあ る葛飾郡東葛西領金町村(東京都葛飾区金町)に所在していた (( ( 。宿泊を 必要とする ほ どではないが、日帰りをするには、江戸からでは、夜明け 前に出立しなければならず、帰宅も日没後ということになり、しかも半 田稲荷社ではそれ ほ ど多くの時間を過ごすことはできなかった。こうし た半田稲荷社へ参詣するために、 江戸市民が、 いわば小旅行をしたのは、 それだけの利益を半田稲荷社が約束してくれたからである。それは、当 時 の 医 学 で は 対 症 療 法 し か な く、 し か も 罹 患 す る と 特 に 乳 幼 児 ・ 小 児 は 五割近いとの報告もあるくらい死亡率の高かった疱瘡除に利益があった からである (( ( 。江戸で疱瘡が流行すると、疱瘡に罹った子供のいる親たち は、子供の快癒を願い、まだ罹っていない子供の親たちも、子供が疱瘡 に罹らないように祈願したのである。疱瘡は痘瘡ともいわれ、天然痘の こ と で あ る。 ま た、 疱 瘡 と 同 様 に 発 疹 ・ 膿 疱 ・ 結 痂 と い う 症 状 が あ ら わ れ る た め、 麻 疹 ・ 梅 毒 患 者 も、 疱 瘡 神 を 祀 る 神 社 に 参 詣 し た と い う (( ( 。 寛 延 三 年( 一 七 五 〇 ) 版 行 の 橋 本 静 話「 疱 瘡 厭 ま じ な い 勝 秘 伝 集 」 で は、 江 戸 の 疱瘡守護寺社として一五をあげており (( ( 、また、関根邦之助氏は、江戸お よびその周辺の疱瘡神として信仰された神社を二五あげている (( ( 。これら の中には、 半田稲荷社は含まれていない。つまり、 江戸とその周辺には、 右にあげられているよりもさらに多くの疱瘡神を祀る寺社が存在してい たことになる。 江戸で疱瘡神が信仰を集めるようになると、神仏が施してくれる利益 を、 疱 瘡 除 に 変 更 す る 寺 社 も あ ら れ て く る よ う に な る。 た と え ば、 妙 音 院 の 場 合 は、 寛 文 二 年( 一 六 六 二 ) に 版 行 の「 江 戸 名 所 記 」 に、 「 子 ともの嗽入てわづらふ時ハ、竹の筒に酒をいれて木のえだにかけ、うば が淵にいのれば、咳嗽の病たちまちにいゆると也」とあるが、延宝五年 (一六七七)に版行の「江戸雀」には、 「ゑきれいおこり、いもハしかの はやるときハ、あま酒を作りて竹の筒に入、木の枝にかけて是を祈れは たちまち平癒するとかや」とあり、貞享四年(一六八七)版行の「古郷 帰の江戸咄」も同様の記事を載せている。祈願行為は同じであるが、利 益を施す病気が「咳嗽の病」から「いもはしか」へと変化している。よ り多くの参詣者を集めるために、利益を施す病気を、より神仏に頼らざ るをえない病気に変化させていったものと考えられる (( ( 。それだけ、江戸 市民からは、強力な疱瘡除の利益を与えてくれる神仏が求められていた ということになる。 ところで、半田稲荷社と同様に、江戸から四里の距離に位置し、葛飾 郡東葛西領柴又村 (( ( に所在した題経寺(柴又帝釈天)の場合は、距離の遠さを次のような習俗を生み出すことで補っている。題経寺では、安永八 年(一七七九)の本堂改築に際して、梁の上から宗祖日蓮の自刻と伝え られる帝釈天像の板木(板本尊)が発見され本堂に安置した。発見の日 が 庚 申 で あ っ た の で 庚 申 の 日 を 縁 日 と し た。 板 本 尊 が 発 見 さ れ た 直 後、 天明年間(一七八一~八九)は浅間山の噴火や冷害などといった災害が 続き、飢饉と疫病が流行した。題経寺第九世日敬は、苦しむ人々を救う ため板本尊を背負って、江戸に出て人びとに拝ませて利益を授けたとい う。 こ う し た こ と に よ り 帝 釈 天 へ の 信 仰 は 江 戸 市 中 に 広 ま っ て い っ た。 そして、帝釈天の縁日が庚申の日であったため、庚申待の信仰と結びつ き宵庚申の参詣が盛んとなっていった。庚申の日には近郷や江戸市中か ら暗い田圃道を提灯を連ねて帝釈天へ参詣し、帝釈天の本堂で夜を明か し、一番開帳を受け、庭先にあふれ出る御神水をいただいて帰路につい たという ((1 ( 。 このように江戸からやや離れた地にある名所へ、江戸市民を魅きつけ るには、より強力な利益を与えるか、特別な習俗を生みだす必要があっ たのである。その一方では、江戸を訪れた地方人が、半田稲荷社を江戸 名所見物の対象に含めなかったのは当然であろう。 こうしたことを念頭におきながら、本稿では、これまで不明な点が多 かった江戸市民と半田稲荷社との関係を、可能な限り明らかにしていく ことにしたい。 なお、本稿は、二〇〇三年から二〇〇六年度にかけて葛飾区旧家所蔵 歴史民俗資料調査団(団長山本光正)の行った調査成果によるところが 大きく、また、その一部が『葛飾区文化財専門調査報告書 半田稲荷神 社 の 歴 史 と 文 化 財 』 〔 葛 飾 区 教 育 委 員 会 二 〇 〇 七 年 三 月 〕 と し て 刊 行 さ れている。
❶
半田稲荷社の沿革と信仰主体
半田稲荷社の草創時期や社号のいわれについては、諸説がある。安永 九年(一七八〇)以降に成稿した大橋方長「武蔵演路」には、 ○半田稲荷祠 別当三宝院、新宿より一りはかり、江戸より金町新 田村三り半、寺社ハ二合半領の内半田村ニあり、是より此地ニ遷 す処也、故ニ半田の号あり、本尊ハ元明和銅中出現、甲冑を帯す る像也と云 とあり ((( ( 、二郷半領半田村 (埼玉県三郷市) から金町新田村へ遷したので 「半 田」の号があり、本尊は元明天皇の和銅年間(七〇八~七一五)に出現 したとしている。 文政一一年(一八二八)に成稿した「新編武蔵国風土記稿」には、 半 田 稲 荷 社 本 社 ・ 拝 殿 ・ 幣 殿 等 頗 荘 厳 ヲ ナ セ リ、 縁 起 ノ 略 ニ、 和 銅四年此地ニ鎮座アリ、田畑ノ間ナルニヨリ、半田ノ号起レルヨ シヲ記セリ、又当社ハ、二郷半領半田村ニアリシヲ、享保年中持 来リテ祀リシヨリ、 此号アリト、 彼村及ヒ近村ノ伝ヘニノコレリ、 其頃ヨリ殊ニ繁栄シ、今モ信スル者多シ、神体図ノ如ク(図略) 、 又傍ニ本地仏十一面観音ヲ安セリ 神楽殿 末 社 稲 荷 十 五 神 合 社 祭 ル 所 ハ 池 端 ・ 国 分 ・ 山 城 ・ 富 士 ・ 七 福 ・ 満 足 ・ 源 九 郎 ・ 信 田 ・ 藤 九 郎 ・ 大 吉 ・ 万 寿 ・ 子 安 ・ 明 星 ・ 要 人 ・ 谷 古 田等ノ号アル稲荷ヲ祀リ、各白幣ヲ置キ、此余狐穴ノ上ニモ小社 ヲ建リ 別当三宝院 天台宗、隅田村木母寺末、日照山三光寺ト号ス、開 山金乗、元和元年ノ示寂ト云、本尊大日ヲ安セリ と あ り ((1 ( 、 ① 草 創 ・ 社 号 の い わ れ に つ い て 二 説 を あ げ、 一 説 は 和 銅 四 年( 七 一 一 ) に こ の 地 へ 鎮 座 し、 田 畑 の 間 で あ る の で「 半 田 」 と 号 し、 も う一説は葛飾郡二郷半領半田村に所在したものを、享保年間(一七一六 ~ 三 六 ) に 遷 し 祀 っ た の で、 「 半 田 」 の 号 が あ る と い う も の で あ る。 ② 享保年間以降、特に繁栄して、文政年間(一八一八~三〇)でも信仰す る者が多い。③別当寺は天台宗で隅田村木母寺末の日照山三光寺三宝院 である、といった点を留意しておきたい。 同じく 「新編武蔵国風土記稿」 の葛飾郡二郷半領半田村の記事の中に、 半田村ハ、正保ノ国図ニ半左衛門新田ト記シ、其頃ノ郷帳ニ半左衛 門新田ト見ユ、元禄ノ改ニ半田村ト載セ、古ハ半左衛門新田ト記セ リ、半左衛門ハ開発ノ人ナルベシ、サレド伝ヘハナシ (中略) 稲荷社 村ノ鎮守ナリ、万勝寺持 末社 弁天 天神 庵 不動ヲ安ス、社守ノ僧居レリ 稲荷社 村民持、下同シ とあり ((1 ( 、半田のいわれが説明されているが、金町村の半田稲荷社との関 係を示すような記事はみられない。 こうした「新編武蔵国風土記稿」の記事について、 『大日本名所図会』 第 八 一 編 東 京 近 郊 名 所 図 会 第 六 巻 〔 一 九 一 〇 年 一 〇 月 刊 〕 で は、 次 の よ うに指摘している。 按るに後説の享保とする伝説当れるに似たり。半田の称は、正保年 間に半左衛門新田と唱へしを元禄に至り、略して半田村と改めしも のにて、田畑の間の義にあらざるを知るべし。故に和銅の創立など いふは、 後に作り設けたるにて、 恐らくは元禄以後のものなるべし。 社 号 の「 半 田 」 は、 二 郷 半 領 で 半 左 衛 門 新 田 と 唱 え た の を 元 禄 年 間 ( 一 六 八 八 ~ 一 七 〇 四 ) に 略 し て 半 田 村 と し た こ と、 和 銅 年 間 の 鎮 座 説 を否定し、元禄年間以降の草創としている。 天保七年(一八三六)成立と考えられる「半田宮利生略記」には、 抑 そも〳〵 稲 荷 大 明 神 と □ 奉 る ハ、 人 王 四 十 三 代 元 けんめいてい 明 帝 乃 御 きよう 宇、 和 わどう 銅 四 辛 亥 年 始 て 日 本 に 現 げん じ 給 ふ 霊 れいしん 神 と か や、 爰 こゝ に 新 武 むさし 蔵 の 国 葛 かつしかかふり 飾 郡 東 葛 かさい 西領金町の庄に鎮 ちんざ 座まし〳〵給 とあり ((1 ( 、和銅四年に金町村へ鎮座したとしている。弘化二年(一八四五) の「半田稲荷本社拝殿再建志願記」には、 当 社 正 一 位 半 田 稲 荷 大 明 神 と 崇 あがめたてまつり 奉 し ハ、 人 にんわう 皇 四 十 三 代 元 げ ん ミ や う 明 帝 てい の 御 ぎよう 宇 和 わどう 銅 四 年 初 はじめ て 日 本 え 現 げん じ 給 ふ 霊 れいしん 神 に し て、 往 むかし 昔 よ り 此 このち 地 に 在 いまし て 数 すうど 度 乃 洪 こうずい 水 に、 諸 しよミみ 民 一 人 も 溺 おぼる る 事 こと な く、 又 飢 う ゑ 渇 に 及 およぶ 事 な し、 其 そ の ふ か し ぎ 不可思儀の威 ゐとく 徳に挙 こぞ り、当 とうゐん 院開 かいそ 礎の畔 くろ に在 あり しを以 もつ て、時 とき 乃国 こくし 司よ り半田乃号 がう を賜 たま ハる と あ り ((1 ( 、 同 じ く 和 銅 四 年 に 金 町 村 へ 草 創 さ れ、 「 当 院 開 礎 」 が 畔 に あ っ たので、時の国司が「半田」の号を賜ったとしている。 明治一五年(一八八二)の「社号改称願」には、 本 社 ハ 其 創 始 ヲ 相 尋 候 ニ、 半 田 氏 ナ ル モ ノ ヽ 一 家 之 守 護 社 ニ 有 之、 而シテ本社ノ半田ト称スル原由ハ、 当村内ニ□本社 々続ニ、 字五反田ト申ス耕地有之、五反トハ即チ壱町ノ五分ニシテ、一町ヲ 一個ト致候トキハ、即其半数ニ当レ バ 、五反 ヲ約メ、又之 ヲ半田トモ申候由、而シテ□社地ハ古来右五反田ニ属セシヲ以本社 ヲ称□、半田社ト申□、該家ハ以テ其姓ト仕リ、遠ク其祖先ヨリ尊 信致シ来リ候処、年月ノ久シキ、追々信徒モ増加シ、漸ヤク厳然タ ル神社ト相成候ニ付、啻ニ一家ノ守護社ト致置候ヨリハ 世 上ニ利益ヲ拡大メント欲シ、且ツ神社ヲ邸内ニ跼蹐シ、神威ヲ褻サ ン事ヲ恐レ、 従今二百五十有余年前、 当時該家之主人丹波ナルモノ、 遂ニ祭典一切之神 皆旧三宝院ニ托セシナリト、従是以来信 徒益多ク、弥盛昌ニ相成候ヨリ、半田家 之徳跡ヲ忘レザラ ンガ為、尚引続キ半田社ト称来候事ニ有之
とあり ((1 ( 、半田稲荷社は、半田氏一族の守護社で、半田の号は、社地が五 反田にあり、五反は一町の半分なので半田と称し、世上に利益を拡める ために、半田丹波の代、寛永年間(一六二四~四四)に祭典一切を三宝 院へ托したという。しかし、晩嶠陳人編「四神社閣記」には、 半田稲荷と称する事ハ、院主淳教代に半田丹阿弥か弟要人といへる か、病により淳教に祈祷を乞ひ、三宝院支配の有来のいなりの社破 壊に及ひたるを、新に出来合の社をとゝのへ、此上の祈祷のためと て寄付したるよりおこりたると也、半田氏の屋敷の鎮守にて有しと いふハあやまり也とそ とあり ((1 ( 、半田氏の守護社という説を否定し、三宝院淳教の代に、半田丹 阿弥の弟要人が開創したとしている。 このように、半田稲荷社は、和銅年間に金町村へ鎮座したのか、寛永 年間に半田氏の守護社として開創されたのか、享保年間に二郷半領半田 村から遷し祀られた稲荷社なのか、三宝院淳教の代に半田丹阿弥の弟要 人が開創したものなのか、諸説があり、これにともなって、半田の社号 に つ い て も 諸 説 が 存 在 し て い る。 い ず れ か に 特 定 で き る よ う な 史 料 は、 現在のところ確認はできていない。ただ、後述するように、江戸での信 仰が拡まるのは享保年間であるので、享保年間に二郷半領半田村から遷 し祀られたという説との、年代的符合が気になるところではある。 次に、 半田稲荷社の利益についてみておきたい。天保七年(一八三六) 成立と考えられる「半田宮利生略記」には、 半 田 稲 荷 大 明 神 乃 威 い と く 徳 を 尋 たつぬる に、 運 うんじゆ 授 の 利 りしやう 生 最 さいじやう 上 と し て 掌 殊 に 武 ふ う ん 運 の 守 し ゆ ご 護 余 神 に 勝 こへ 給 ふ、 故 かゝるゆへ に 其 御 ミ せ う た い 正 体 甲 かつちう 冑 を 帯 たい し、 軍 く ん じ ん よ ふ ご 陣 擁 護 乃 装 よそおひ を 変 へんげん 現 し 給 ふ 御 ミすかた 想 に し て、 厳 きひし く 怨 おん 心 を 退 たいじ 治、 強 つよ く 逆 きやく 心 を 罰 はつ し、 君 く ん し ん 臣 和 わかう 合 ・ 父 子 兄 弟 睦 むつまし く、 夫 ふさい 妻 契 けいあい 愛 乃 操 さうせい 誠 を 結 むす ひ、 妊 身 を 願 ふ 者 ハ 纈 けつ 帯 乃 利 り や く 益 を 授 さづ け 安 産 な ら し め、 幼 ようどう 童 乃 輩 ともから ハ 疱 ほうそう 瘡 の 除 ぢよさい 災 難 苦 を 救 すくひ 給 ふ、 加 しかのミならす 之 御 神 霊 御 告 つげ に、 若 薄 は く う ん 運 乃 者 我 を 信 す る 人 ハ、 命 めいうん 運 延 えんじゅ 寿 に し て、 高 こうくわん 官 昇 し や う い 位 職 し よ く ろ く □ 等 の 家 福 を ま し、 富 ふうき 貴 豊 饒 乃 幸 さいわひ を 普 あまねくほどこ 施 し、 立 身 を 願 ふ 者 ハ、 士 し の う か う せ う 農 工 商 の 撰 えらミ な く 運 授 御 守 常 に 不 はなれす 離 し て 六 月 を 信 す へ し、 至 ししやう 誠 信 す れ は 六 月 に 福 運 吉 事 乃 奇 き と く □ 身 に 至 いたり 、 宿 し く せ い ぐ ほ う 誓求望六月に必其験 しるし をあらハし と あ り ((1 ( 、 武 運 守 護、 君 臣 和 合 ・ 父 子 兄 弟 和 睦、 夫 婦 契 愛、 懐 妊 安 産、 疱 瘡除災、命運延寿、高官昇位職禄等の家福増進、富貴豊饒の幸の施与な どを運授するとしている。天保一五年(一八四四)の「勧募趣意書」に は 当山正一位半田稲荷大明神は、 自余之稲荷社とは容貌替らせ給ふて、 甲 冑 を 装 ひ、 天 下 泰 平 ・ 国 土 安 穏 ・ 五 穀 豊 熟 ・ 家 内 安 全 ・ 商 売 繁 盛 ・ 疱瘡麻疹病難災難を救ひ、富貴万福之運を授給ふ とあり ((1 ( 、弘化二年(一八四五)の「半田稲荷本社拝殿再建志願記」にも、 抑 そも〳〵 神 しんりよ 慮 に 天 て ん か た い へ い 下 泰 平 ・ 国 こ く ど あ ん お ん 土 安 穏 ・ 武 ぶうんちやうきう 運 長 久 ・ 開 かいうんしゆつせ 運 出 世 ・ 五 ごこくほふによう 穀 豊 饒 ・ 陰 い ん や う わ が ふ 陽 和 合 ・ 寿 じゆふくでんろく 福 田 禄 を 司 つかさど る 神 かミ な る が 故 ゆゑ に、 貧 まづし き 者 もの に は 福 ふくろく 禄 を 施 ほどこ し、 薄 ふしあハセ 命 の 者 もの に ハ 厚 う ん 運 を 授 さづけ 、 就 なかんつくわかじに 中 夭 を 寿 いのちなかく な ら し む る 事、 近 きんせいまのあたり 世 眼 前 詳 つまひらか な り、 殊 こと に 痘 はうそう 瘡 ・ 麻 はしか 疹 の 苦 く を 守 しゆご 護 し 給 ふ こ と、 世 人 普 あまね く 知 し る 所 ところ なり とあり (11 ( 、「半田社略縁起」には 当社において、昔 むかし より化 け や く 益せしむる運授御守之利生事、世上に広皆 信する人乃申伝に異 こと ならず、依て託 たくせん 宣し給ふ記則に曰く、上ハ一天 万 上 の 宝 ほ う そ 祚 ・ 皇 かふおふ 王 □ 太 子 ・ 大 だいしん 臣 ・ 宰 さいそう 相 三 公 百 官 くわん 、 下 万 はんミん 民 に い た る □ □ 貴 き せ ん 賤 男 女 の 隔 へたて な く 延 えんしやう 生 あ る 年 月 日 時 同 か ら □ □ る 所 の 星 せいしく 宿 ・ 吉 凶 等 ひとし か ら す、 人 じんせいちやうせい 性 長 生 の 諸 運 又 等 ひとし か ら す、 故 かゝるゆへ に 尊 神 擁 ようご 護 を 垂 たれ 給 ふ 神 授の秘 ひ ほ う 法を以て、男女を分、十 じつかん 干十二支の歳を着別し、布 ふれいせいしゆんかう 麗星準向 の 大 吉 晨 しん を 撰 えらミ 、 出 生 乃 年 月 日 時 剋 星 凶 宿 の 難 な ん く わ せ う り 禍 障 碑 を 辟 □ 強 け う う ん 運 穫 きやくふく 福 頓 こんしやう 成 速 そくしつ 疾 を 祈 いのり 、 深 しんひ 秘 妙 ミやう 術 乃 三 密 を 修 しゆ す、 此 利 益 を 以 て 二 六 時 中 を 司 つかさと る 将 神 有、 こ の 十 二 将 神 常 つね に 離 はな れ す し て、 供 に 昼 夜 を 護
持 し 給 ふ と の 御 ミ つ げ 告 成 り、 依 て 六 時 六 日 六 月 六 年 を 限 かき り 祈 誓 し て、 悉 し つ じ え ん ま ん 地 円 満 神 し ん じ ゆ 授 大 運 うんさい 祭 の 法 ほうく 供 を 加 持 せ し む る 故 に、 是 を 世 に 唱 へ て 六月成 じやうじゆ 就乃守とを申伝へり (中略) 別て乗 じやうせん 船の水難を救 く さ い 済し、渡 と か い あ ん お ん 海安隠にして、海 かいりやうふきやう 猟豊饒ならしめ、分 て利生あらた成事ハ、疫 えきれいやくしつ 癘厄疾の除 ちよびやう 病を祈 いのれ れは、立所に免 まぬか る事、諸 人 の 知 所 成 り、 況 いわん や 火 難 を 防 ふせき 、 謂 いわゆる 所 一 切 の 危 き お ふ ひ が ふ 殃 非 業 □ 災 さい 釼 け ん な ん 難 等 乃 障 しやうくわ 禍 を 摧 さいぢよ 除 し、 国 土 安 穏 ・ 五 こ く し や う し ゆ 穀 成 就 ・ 関 東 守 し ゆ ご 護 の た め、 千 有 余 歳 を 歴 へ て吾 あ づ ま 嬬の東、総 そうぶ 武□際 さかい 、薗 おんでん 田を隔 へたて て、其中 な か ば 半において、将 しやうぐん 軍神農 貌 かたち を 垂 たれ て、 盗 と う い せ ん て き 夷 戦 敵 を 亡 ほろぼ し、 諸 悪 を 遠 お ん り 離 し、 勝 利 円 満 の 威 い 力 傾 かたむか ず し て、 自 在 の 利 生 を 暉 かゝやか し 給 ふ、 こ の 故 ゆへ に 号 がう し て、 半 田 稲 荷 大 明 神 と唱 とな へ奉る、依て武道乃流 ながれ を汲 くミ 、武門の盛栄を祈、武功の誉 ほまれ を遂 とけ ん と 願 ふ 人 ハ、 慎 つゝしみ て 崇 敬 きやう 渇 かつがう 仰 あ る へ き 御 神 影 えい 、 然 る ゆ へ、 運 を 当 社 に 祈 いのり 、 他 事 な く 宝 前 へ 歩 あゆミ を 運 はこ ひ、 深 く 信 す る 人、 近 きんせい 世 冥 ミやうおう 応 の 神 助を得て、 面 まのあた り其恵 めぐミ を蒙 かうむ る人、算にいとまあらす とある (1( ( 。こうした半田稲荷社の縁起類、つまり、半田稲荷社の主張する と こ ろ は、 天 下 泰 平 ・ 国 土 安 穏 ・ 武 運 長 久 ・ 開 運 出 世 ・ 五 穀 豊 穣 ・ 陰 陽 和 合 ・ 寿 福 田 禄 ・ 家 内 安 全 ・ 商 売 繁 盛、 病 難 災 難 を 救 い、 富 貴 万 福 の 運 を 授与するというように、 人が望むあらゆる利益を約束しているのである。 こうした利益が、半田稲荷社が本来的に約束した利益であるのか、江戸 市 中 に 信 仰 が 拡 ま る に つ れ て、 約 束 さ れ る よ う に な っ た も の か は、 よ くわからない。ただ、その中でも、人情本作者の松亭金水編で弘化四年 (一八四七)に版行された「江都近郊名勝一覧」に、 「痘瘡を守り玉ふ神 也といひて小児ある家にハ別て信仰す」とあるように (11 ( 、特に小児の疱瘡 除の神として広く信仰されたことは確かである。なお、六月は諸願の成 就する重要な月とされているが、天保九年(一八三八)に版行された斎 藤月岑「東都歳事記」には、初午の項には半田稲荷社の名がみられるも 図 1 半田稲荷社 天保 ( 年((((()版・斎藤月岑「江戸名所図会」(0より
のの、六月の項には半田稲荷社に関する記事はなにもみられない (11 ( 。つま り、江戸市民にとって、六月の半田稲荷社に特別の認識はなかったとい うことになろう。 半 田 稲 荷 社 の 信 仰 主 体 に つ い て み て み る と、 現 在 の 半 田 稲 荷 神 社 は、 葛 飾 区 東 金 町 ・ 東 四 つ 木 ・ 四 つ 木 ・ 渋 江 を 氏 子 地 域 と し て い る。 し か し、 明治七年(一八七四)五月の祠掌森山隆政から東京府への書上には、 「氏 子 無 御 座 候 」 と あ り (11 ( 、 明 治 一 五 年 二 月 の 書 上 に は、 「 信 徒 村 中 并 他 方 ニ渉リ人員定メ難シ」とある (11 ( 。つまり、半田稲荷社は、近世には特定の 氏子、あるいは氏子地域があったわけでなく、信仰する不特定の個人や 講中によって支えられていたといえよう。それが明治七年四月二日に村 社と定められてから、所在する金町村を中心に氏子地域を設けていった ものと思われる。 そ れ で は、 江 戸 市 民 に よ る 半 田 稲 荷 社 へ の 信 仰 が、 い つ ご ろ か ら 始 ま っ た の で あ ろ う か。 江 戸 の 地 誌 ・ 名 所 案 内 書 の な か で、 最 初 に 半 田 稲 荷社をとりあげたのは、寛延四年(一七五一)に版行された「再板増補 江戸惣鹿子名所大全」で、巻一下に「近年参詣の人多し」とあり、同 書巻四下には「享保中ころより江戸の人信敬して詣てねき祈る事貴賎を わかたず、延享四年社頭回禄いまた造営なし」とある (11 ( 。前述した「新編 武蔵国風土記稿」にも「其頃(享保年間)ヨリ殊ニ繁栄シ」とあり、ま た、 「 新 編 武 蔵 国 風 土 記 稿 」 の 編 纂 に も あ た っ た 三 島 政 行 が 編 纂 し 文 政 四 年( 一 八 二 一 ) の 序 が あ る「 葛 西 志 」 巻 之 二 〇 に は、 「 い か な る ゆ へ にや、享保の頃よりはやり出して、近郷江戸の人まで、参詣群集し、講 中など多く出来て、社頭荘厳に造営成し、延享四年、回禄の災にかゝり て烏有となり、その後再建せしもの、今の社なりといへり」とある (11 ( 。ま た、嘉永三年(一八五〇)に版行された斎藤月岑「武江年表」正編の享 保年間記事には「葛西半田稲荷社、平井聖天宮参詣多し」とあり (11 ( 、嘉永 六年 (一八五三) の序がある喜多川守貞 「守貞謾稿」 第三三編追補にも、 「 享 保 中 葛 西 半 田 稲 荷 及 び 平 井 聖 天 の 祠 に 多 く 詣 人 有 」 と あ り (11 ( 、 松 平 冠 山「三 飡 一覧」には、 「半田稲荷社むかしは、 わづかなる小社にてありし、 江戸より参詣の人絶へず、今は大社となりぬ」とある (11 ( 。 このように、半田稲荷社は、享保年間(一七一六~三六)から江戸市 民 の 信 仰 を 集 め る よ う に な り、 講 中 も 結 成 さ れ て い っ た こ と が わ か る。 ただ、半田稲荷社が享保年間にどのような理由で、江戸市民の信仰を集 めるようになったのかは、 よくわからない。なお、 延享四年(一七四七) の火災で、社殿が焼失し、寛延四年(一七五一)にはまだ再建されてお らず、遅くとも文政四年(一八二一)までには再建されたことが留意さ れ、 江 戸 市 民 の 信 仰 を 集 め る に し た が っ て、 「 わ づ か な る 小 社 」 で あ っ たものが、 「大社」となっていったのである。 現在の半田稲荷神社には、数多くの奉納石造物が残されている。全体 的にみると、 奉納者は地元の金町の人びとが多いが、 金町の人びとのみ、 図 2 半田稲荷大明神社略図 『風俗画報』((号 (((( 年 ( 月
も し く は 金 町 と 周 辺 地 域 の み で 奉 納 し た と い う の で は な く、 金 町 ・ 周 辺 地域 ・ 江戸の三者で講中を結ぶなどして、 共同で奉納されたものが多い。 ま た、 享 保 末 年 ~ 寛 延 三 年 に か け て、 半 田 稲 荷 社 で 基 本 的 な 石 造 物 と 考 え ら れ る 手 水 鉢 ・ 社 号 石 兼 道 標 ・ 燈 籠 ・ 狐 石 像 な ど が 建 立 さ れ て お り、 この時期に境内の整備が進められたという (1( ( 。 表 (は、半田稲荷神社に所在する江戸および東京市民の奉納物を整理 し た も の で あ る。 こ れ を み る と、 最 も 古 い 奉 納 石 造 物 は、 享 保 一 九 年 ( 一 七 三 四 ) に 新 吉 原 江 戸 町 桜 屋 岡 田 氏 が 奉 納 し た 石 造 水 盤 で あ る。 こ の こ と か ら も、 江 戸 で の 半 田 稲 荷 信 仰 が 展 開 し て い く の は、 享 保 年 間 ( 一 七 一 六 ~ 三 六 ) か ら で あ る こ と が 再 確 認 で き る。 ま た、 半 田 稲 荷 信 仰の江戸での発震源が遊廓である新吉原にあったと考えられる。 これは、 前述したように、 疱瘡の痂と梅毒の瘡(かさ)が通じるものと理解され、 疱瘡神が梅毒神としても信仰されていたからであろうか。 ま た、 享 保 年 間 以 降、 現 在 に 至 る ま で、 半 田 稲 荷 社 が 江 戸 ・ 東 京 の 個 人 や 講 中 に よ り 信 仰 さ れ 続 け、 あ る い は、 遊 廓 ・ 芝 居 関 係 を は じ め と し て、 さ ま ざ ま な 身 分 ・ 階 層 の 人 々 か ら 信 仰 さ れ て い た こ と が 理 解 で き よ う。町人ばかりでなく、寛延三年(一七五〇)七月に燈籠を奉納した牧 野 成 賢 は、 二 二 〇 〇 石 の 旗 本 で、 勘 定 奉 行 ・ 町 奉 行 ・ 大 目 付 な ど を 歴 任 している。成賢が燈籠を奉納したのは、西の丸目付就任の半年後である ことから、目付就任を感謝して燈籠を奉納したものと考えられる (11 ( 。それ はともかくとして、このことから半田稲荷社が上級武士からも信仰され ていたことが確認できる。 次に、半田稲荷社の講中についてみていくことにしたい。半田稲荷社 の講中については、①文久二年(一八六一)頃の「諸講中連名」と明治 三 〇 ~ 四 〇 年 代( 一 八 九 七 ~ 一 九 一 二 ) 頃 の「 半 田 稲 荷 万 人 講 趣 意 書 」 の二つの講員名簿、②幕末から大正期に作製され境内もしくは近辺の茶 屋 な ど に 掛 け ら れ た 講 中 札 ( 表 (参 照 ) 、 ③ 右 に み た 境 内 に 所 在 す る 石 造奉納物から、確認することができる。これらの三つの史資料から、江 戸 ・ 東 京 の 講 中 に か ん す る 記 事 を 整 理 し た の が 表 (で あ る。 近 世 末 に 確 認 で き る の は、 御 高 盛 講・ ( 御 ) 神 酒 講 ・ 常 燈( 明 ) 講 ・ 開 運 講 ・ 牛 込 月 の出講 ・ 日の出講 ・ 日護尸 (摩) 講 ・ 疱瘡 (講) ・ 護摩講 ・ 栄続講の一〇講、 明治期には開運講 ・ 一心講 ・ 月参講 ・ 長栄講 ・ 万人講の五講、大正期は千 隆講の一講である。近世から明治期まで継続しているのは開運講のみで ある。つまり、 講の存続は流動的で、 継続性は弱かったといえる。また、 講員の地域的な広がりを、 文久二年頃の「諸講中連名」からみていくと、 九講七四四講員のうち、旧一五区とその隣接地域が四九七と過半数を占 め て お り、 ( 御 ) 神 酒 講 九 〇 の う ち 松 戸 が 六 〇、 常 燈( 明 ) 講 一 〇 三 の うち松戸が三九、葛飾区内が三二というように、旧一五区とその隣接地 域を除けば松戸が多かったことが確認できる。半田稲荷社が所在する金 町 は、 常 燈( 明 ) 講 で 一 〇 し か み ら れ な い。 地 域 的 に は、 葛 飾 区 ・ 足 立 区 ・ 千 葉 県 ・ 茨 城 県 ・ 埼 玉 県 ・ 栃 木 県 と 拡 が り を み せ る が、 数 の 上 で は、 右のように松戸以外では、注目しうるところはない。こうした講中の地 域性から考えると、半田稲荷社の所在する金町から信仰が拡がっていっ た と い う よ り も、 江 戸 ・ 東 京 で 集 中 的 に 信 仰 が 拡 ま っ た も の と 考 え る ほ う が 妥 当 な よ う に 思 わ れ る。 そ し て、 講 中 は 江 戸 ・ 東 京 と の か か わ り で 地域的拡がりをみせたということになろう。こうしたことは、明治三〇 ~四〇年代 (一八九七~一九一二) 頃の 「半田稲荷万人講趣意書」 では、 さ ら に 強 く み ら れ、 旧 一 五 区 と そ の 隣 接 地 域 で 八 割 を 占 め、 特 に 下 谷 ・ 浅 草、 そ し て 神 田 ・ 日 本 橋 ・ 京 橋 ・ 本 所 に 集 中 し て い る こ と が 確 認 で き る (11 ( 。なお、後述するように、天保七年(一八三六)に江戸深川八幡境内 で 出 開 帳 を 行 っ た 時 の 案 内 ビ ラ の 一 枚 に、 一 九 の 講 印 が み ら れ る ( 図 ( 参 照 ) 。 こ の こ と か ら、 天 保 七 年 に は 江 戸 に 一 九 の 講 中 が 存 在 し た こ と を確認できるが、この一九の講中が、右にみた講中とどのように対応す るのか、しないのかは現在のところ確認できていない。
№ 名 称 奉 納 年 次 数量 奉 納 者 製 作 者 ( 石造水盤 享保 (( 年((((()孟夏大吉祥日 ( 基 新吉原江戸町桜屋,岡田氏 ( 石造標柱(正一位半田稲荷大明神) 元文 ( 年((((0)( 月初午 ( 基 神田三河町 ( 丁目講中 石工喜八 ( 石造狐像 寛延元年((((()(( 月吉日 天明 ( 年((((()( 月吉日再興 ( 対 海野氏・坂本氏・筒井氏飯塚桃葉再興 ( 石造燈籠 寛延 ( 年((((0)( 月吉日 ( 対 牧野成賢 ( 石造鳥居藁座 宝暦 (( 年((((()( 月再建 文化 ( 年((((0)( 月吉祥日再建 文政 ( 年((((()( 月吉祥日再建 大正 ( 年((((0)( 月吉日再建 ( 対 神田講中 世話人内田平七他 ( 人,惣肝煎世 話人南茅場町 右馬氏・白銀丁材木河岸山下 氏他 ( 人,京橋講中願主清水卯之助他 ( 人 ( 高士の図(板絵着色絵額) 文化 ( 年(((0()( 月穀旦 ( 面 井上□□・□□神田上州屋栄蔵・神田金沢町野田 屋善吉,世話人神田旅籠町 ( 丁目上州屋栄蔵・同御 台所町小川屋佐蔵・同所野田屋善吉,願主井上氏 成瀬重長敬画 ( (鉄製銘板) 文政 ( 年((((0)( 月初午 ( 枚 南鍋町銅壷屋庄右衛門 石造角柱道標(半田稲荷道) 文政 ( 年((((()正月再建 ( 対 浅草講中,世話人隅屋勇八・巴屋山左衛門・同忠兵 衛・同弥七・同正助・千歳庄吉・大黒屋□□衛門・菊 □佐兵衛・八幡屋庄八・□□建具屋彦兵衛・新宿中 川屋正七・同所増田市助・□□長谷金左衛門 ( 石造狐像基壇 文政 ( 年((((()( 月吉日 ( 対 江戸中橋南鞘町願主堺屋久兵衛 江戸数寄屋川岸石工喜六 (0 拝殿擬宝珠 弘化 ( 年((((() 水野出羽守家来海野与左衛門外 ( 名奉納 (( 龍に牡丹図(板絵着色絵額) 安政 ( 年((((()( 月吉日 ( 面 牛込馬場下横町山田屋吉五郎 野口幽谷画 (( 子供連れ町人参詣の図(板絵着色絵 額) 文久 ( 年((((()(( 月吉日 ( 面 江戸岩付町桶屋治兵衛内金次郎・□□女・しめ女・平助・忠一郎・小僧□人・下女 ( 人 (( 石造白狐社鳥居奉献記念碑 慶応 ( 年((((()( 月吉日 ( 基 本所林町久保田豊作・深川東町中村屋藤兵衛・本 郷河内屋五兵衛・神田鍛冶町寺尾屋忠兵衛・亀有 世話人千馬田屋平助 (( 石造御神水井戸石柵 慶応 ( 年((((()( 月 ((日 魚かし中(世話人 ( 人),新富町 ( 丁目大新,しんば (( 人),銀座壱大 新,新富町 ( 丁目((( 人),小舟 町 ( 丁目((( 人),日本橋(( 人),築地((( 人),新 富(( 人),新富座((( 人、 世話人 ( 人),新富町水 茶屋中((( 人),新橋料理人(( 人),下谷原宿町(( 人),しんば中,猿若町((人),本所 町((人), 根津 垣町(( 人),木挽壱(( 人),室町 ( 丁目 万屋弥兵衛他 ( 人,馬喰町 ( 丁目に組鳶清五郎 (( 石造幟立石柱 年不詳(現住恵潤代) ( 対 永久講,講元江戸通油町河村治八,世話人浅草黒 船町橘屋勇次郎・ 同茅町大坂屋岩蔵 市川石工長兵衛 (( 石造鳥居藁座 年不詳 ( 対 四谷 世話人近江屋長三郎 他 (0 人 石工五兵衛 (( 石造燈籠 延享元年((((()( 月吉日 ( 対 金町上村惣若者中 神田三川町石工喜八 (( 石造狐像 明治 (( 年((((()( 月 ( 対 牛込水道町錺屋清五郎 (( 石造鳥居建立記念碑 明治 (( 年((((()( 月 ( 基 新富町大新,銀座一大新,大門通持田伝七外 ( 人, 四ッ谷伝馬町渋沢新三郎,瀬戸物町太田寅吉,聖天 下山本留松,神田市場上市,神田北乗物町高松晴 吉,神田多町根本平次郎,本所相生町大川藤太郎, 四ッ谷内藤町杉本亀吉他 (0 石造東京睦講中記念碑 明治 (( 年(((0()( 月 (日 ( 基 東京睦講,発起人魚かし柳兼・深川新大はし鮒権, 神田五軒町柏家,神田三河町横川,本所緑町富岡・ 石重,日本橋本小田原町□新・竹田・山清・鮒勇,魚 がし京富,日本橋小伝馬町近三,日本橋箔屋町和田 安,本所北二葉町木村小之吉,浅草馬道 ( 丁目石 引喜蔵,本所永倉町大兼,本所花町鳶利右衛門,浅 草田甫草津亭,京橋木挽町万安楼,京橋新富町大 新,京橋銀座一大新 (( 拝殿白狐敷石寄付記念碑 明治 (( 年((((0)( 月 ( 基 下谷竹町(( 人),神田旅籠町 ( 丁目(( 人),浜町 ( 丁目(( 人),浜町 ( 丁目(( 人),本郷花町(( 人), 小石川富坂町(( 人),神田三崎町 ( 丁目(( 人),神 田台所町(( 人),本郷湯島天神町(( 人),神田中 猿楽町(( 人),日本橋坂本町(( 人),瀬戸物町(( 人),鍛冶町(( 人),久松町(( 人),深川扇橋(( 人),市谷御徒町 ( 丁目(( 人),神田平川町(( 人), 東龍閑町(( 人),神田今川小路(( 人),本郷三組町 (( 人),同松富町(( 人),下谷坂本町(( 人) ,本 所緑町 ( 丁目(( 人),京橋長崎町(( 人),浅草柳町 (( 人),同下平右衛門町(( 人) 他 石工森田常介 (( 石造永代祈祷料奉納記念碑 大正 ( 年((((()( 月 (日 ( 基 日本橋魚がし中喜 石工宮口平兵衛 (( 石造狐像 昭和 (( 年((((()( 月吉日 ( 対 深川荒島 (( 石造玉垣 昭和 (( 年((((()( 月吉日 ( 式 魚がし((00 人 ),魚がし講,巣 鴨(( 人 ),本 郷(( 人),金町半田稲荷講,橘講,天神講,東京龍神講, 神戸龍神講他 (( 石造鳥居寄付記念碑 年不詳 ( 基 魚がし(( 人),四日市(( 人),日本橋小伝馬町(( 人),深川東町(( 人),小石川茗荷谷町(( 人)他 (( 石造燈籠基壇 年不詳 ( 対 四谷 (( 石造鳥居藁座 年不詳 ( 対 睦講 注)『葛飾区神社調査報告』(東京都葛飾区教育委員会社会教育課 (((( 年 ( 月),『葛飾区宝篋印塔・道標調査報告』(東京都葛飾区教育委員会社会教育課 (((( 年 ( 月),葛飾区道標調査団編『葛飾区文化財専門調査報告書 葛飾のみちしるべ』(葛飾区教育委員会 (((( 年 ( 月),森朋久「石造物銘文 一覧」(『葛飾区文化財専門調査報告書 半田稲荷神社の歴史と文化財』葛飾区教育委員会 (00( 年 ( 月)などによる。 表 1 半田稲荷神社所在の江戸・東京市民奉納物
表 2 半田稲荷神社所蔵の講中札 表 3 議員名簿・講中札・奉納石造物からみた半田稲荷諸講の変遷 № 講 名 年 次 法 量 講 員 ( 半田牛込 栄続講 慶応 ( 年((((()( 月吉祥日 (0.0 × (0.( × (.(cm 講元若狭屋治郎兵衛、世話人若狭屋権九郎・近江屋吉兵衛・尾州徳兵 衛・求友亭万吉・麩屋栄吉・亀屋富五郎・大工清次郎・三木屋鉄五郎・ 袋物屋吉兵衛・鳶伝治 ( 半田社 開運講 明治 ( 年((((()( 月 ((.0 × ((.0 × (.(cm 世話人国広政之進・相模屋勇次郎・小原清次郎・吉野屋三木蔵・岡本 喜兵衛・十一屋伊兵衛・山本吉兵衛・藤戸喜兵衛・浪花町西山武兵 衛・に組権次郎、講元猿屋久兵衛 ( 淺草運授 一心講 明治 ( 年((((()( 月吉日 ((.( × ((.( × (.(cm 世話人 ( 半田社赤城下 月参講 明治 ( 年((((()( 月吉日 ((.( × ((.0 × (.(cm 牛込赤城下 世話人中 ( 半田開運 長栄講 明治 ( 年((((()(( 月大安日 ((.0 × ((.( × (.(cm 講元大工伴次郎、世話人鳶仁右衛門・左官平吉・家根屋伊三郎・鶴屋 吉五郎・大工万吉・鍛冶屋惣吉・船橋屋徳兵衛・鳶長八・大工金八 ( 半田稲荷 千隆講 大正 ( 年((((()(0 月吉日 (0.( × ((.( × (.(cm 木村鉄次郎・高橋又四郎・小林鉄太郎・川辺卓三・豊島金太郎 講 員 名 簿 講 中 札 奉 納 石 造 物 神田三河町 ( 丁目講中 元文 ( 年((((0) 神田講中・京橋講中 宝暦 (( 年((((()~大正 ( 年((((0) 日の出講 文久元年((((()頃 神田・牛込・松戸他 護摩講 文久元年((((()頃 日本橋他 永久講 年不詳 通油町・浅草 疱瘡(講) 文久元年((((()頃 芝 牛込月の出講 文久元年((((()頃 牛込・市谷・大久保 半田牛込 栄続講 慶応 ( 年((((() 半田社赤城下 月参講 明治 ( 年((((() 御高盛講 文久元年((((()頃 下谷・上野・浅草・谷中・根岸・番町・麹 町・神田・日本橋他 開運講 文久元年((((()頃 本郷・駒込・下谷・上野・浅草・谷中・根岸他 半田社 開運講 明治 ( 年((((() (御)神酒講 文久元年((((()頃 本所・向島・松戸他 常燈(明)講 文久元年((((()頃 深川・金町・亀有・小岩他 日護尸(摩ヵ)講 文久元年((((()頃 番町・麹町・市川 浅草運授 一心講 明治 ( 年((((() 浅草講中 文政 ( 年((((() 半田開運 長栄講 明治 ( 年((((() 万人講 明治 (0 ~ (0 年代(((((-(((() 神田・京橋・浅草・本所他 東京睦講 明治 (( 年(((0() 神田・日本橋・京橋・深川・本所 半田稲荷 千隆講 大正 ( 年((((() 魚がし講・金町半田稲荷講・橘講・天神講・東京龍神講・神戸龍神講 昭和 (( 年((((() 注)『葛飾区文化財専門調査報告書 半田稲荷神社の歴史と文化財』(葛飾区教育委員会 (00( 年 ( 月)から作成した。 注)豊田和平「講員名簿・講中札」(『葛飾区文化財専門調査報告書 半田稲荷神社の歴史と文化財』葛飾区教育委員会 (00( 年 ( 月)による。
半 田 稲 荷 社 の 講 中 に つ い て は、 不 明 な 点 も 多 い が、 江 戸 ・ 東 京 を 中 心 に存在していたと理解してまちがいはなかろう。なお、小田原の旧青物 町の稲荷講では、現在でも金町の半田稲荷神社に毎年二回代参を送って いるという (11 ( 。半田稲荷社への信仰は、神奈川県まで拡がりをみせている ことが確認でき、前述の講員名簿よりもさらに地域的に拡がりをみせる 可能性を示唆している。
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江戸から半田稲荷社への道
江戸市民が、 半田稲荷社を参詣する場合、 あるいは、 目的地が別にあっ て立ち寄った場合、どのようなルートをとったのであろうか。公用で通 行 す る 場 合 は、 水 戸 ・ 佐 倉 道 を 利 用 し な け れ ば な ら な か っ た が、 行 楽 気 分で足の向くまま歩き回る時には、自由にルートを選んでいる。 まず一般的なルートについて、地理科参詣型に属する往来物からみて いくことにしよう。 「鹿島詣文章」は、江戸から松戸を経て鹿島に至り、 鹿 島 か ら 成 田 ・ 佐 倉 を 経 て 江 戸 に も ど る ま で の 沿 道 の 駅 名 ・ 名 所 旧 跡 や 寺社、鹿島神社の由緒などを記したもので、寛政一二年(一八〇〇)に 版行された。これには次のようにある (11 ( 。 首 し ゆ と 途 の 良 りやうしん 辰、 横 しのゝめ 雲 に 発 ほつそく 足、 路 みちすがら 道 は、 千 せ ん じ ゆ が は ら 住 河 原 ・ 掃 かもんじゆく 部 宿 ・ 本 ほんしゆく 宿 よ り、 右 へ 水 み と か い だ う 戸 街 道、 上 うへの 野 ・ 浅 あさくさ 草 の 鐘 かね の 響 ひゞき も 後 あと に な し、 誠 まこと に 旅 たび の こ ゝ ろ と て、 雲 くもかうかく 行 客 の 跡 あと を 埋 うづむ と 云 いひ け ん 古 ふること 言 も 思 は れ た り、 小 こ す げ ご て ん 菅 御 殿 の 地、 東 の 方 を 遠 ゑんばう 望 す れ ば、 た つ や 旭 あさひ に 八 や え か す み 重 霞、 碧 へきら 羅 の 天 の あ や な く も、 綾 あ や せ 瀬 の 橋 はし を 打 渡 わた り、 齢 よは ひ 久 ひさ し き 亀 かめあり 有 村、 是 よ り 南 みなみ 、 世 よ つ ぎ 継 と い へ る 所 ま で 廿 八 丁、 曵 ひ き ふ ね 船 に て 往 来 す、 名 に し 応 お ふ、 葛 か さ い 西 の 浮 う き す 洲 の 森 もり を 標 め あ て 的に、漕 こきゆく 行と云 いへ し鄙 ひなうた 唄も面 おもしろ 白く、凡 およそ 、葛 かさいりやう 西領 ほ ど打闢 ひら きたる曠 くはうち 地 は、 諸 しよこく 国になきよし 承 うかたまは る、 新 にゐじゆく 宿の渡 わた しを越 こへ て、 半 は ん だ い な り 田稲荷をふし拝 をがみ 、 金 かなまち 町 過て御関 せきしよ 所、乗 のりあひ 合の人を松 ま つ ど 戸の 舟 ふなよはひ 号 右の記事から、 鹿島社への参詣ルートとして水戸道が利用されており、 その途中で半田稲荷社に立ち寄ることになっている。 ま た、 江 戸 市 民 が 行 楽 で 葛 西 地 域 を 訪 れ る 時 に は、 後 述 す る よ う に、 水戸 ・ 佐倉道を利用せず、 浅草で隅田川を渡り、 小梅から四ツ木に出て、 四ツ木道を通って亀有に至る、というルートをとることが多かったよう である。 さ て、 半 田 稲 荷 社 を 訪 れ た、 あ る い は 金 町 村 を 通 過 し た 江 戸 市 民 が、 具体的にどのようなルートをとり、何を見聞したのであろうか。この点 を彼らが記した紀行文からみていくことにする。 本所相生町の住人が、寛政一〇年(一七九八)七月に成田山新勝寺や 布施の弁天社へ参詣した時の紀行文である「成田道の記」によると、次 のようなルートをとっている (11 ( 。 二六日 両国→行徳→船橋→大和田(泊) 二七日 大和田→臼井→佐倉→酒々井→成田→安食(泊) 二八日 安食→木下→布佐→我孫子→布施弁天社→小金(泊) 二九日 小金→馬橋→松戸→半田稲荷社→新宿→四ツ木→小梅→両 国 往路は船で行徳まで行ったが、復路は水戸道から四ツ木道を利用して おり、半田稲荷社にも立ち寄っている。 徳川御三卿の一つ清水家の御広敷用人村尾正靖は、公務の合間をぬっ て文化九年(一八一二)から天保五年(一八三四)までにわたって近郊 をめぐり歩いたが、この紀行文が「江戸近郊道しるべ」である。これに よると、 村尾正靖は文化一四年六月一五日に半田稲荷社へ参詣している。 この時のルートは次のとおりである (11 ( 。 浜町→小梅→四ツ木→(曵船)→新宿→夕顔観音→半田稲荷社→題 経寺→(曵船)→西光寺→客人大権現→浜町 往復路ともに四ツ木道(曳船)を利用している。また、同年九月七日には小金牧を訪れるため通過しているが、半田稲荷社までは前回と同様 のルートをとったとして記事を省略している 十方庵敬順は、文化八年(一八一一)に小石川本法寺の寺務を子の大 恵へ譲ってから文政一二年(一八二九)頃まで、江戸近郊などをめぐり 歩 い た 紀 行 文「 遊 歴 雑 記 」 を 残 し て い る。 こ れ に よ る と 十 方 庵 敬 順 は、 七回にわたって葛西地域を訪れ、あるいは通過している。半田稲荷社に 立ち寄ったのは、第二回目の文化一二年のことで、そのルートは次のと おりである (11 ( 。 一日目 西光寺→客人大権現→立石明神→題経寺→下矢切(泊) 二日目 下矢切→金町村香取大明神→同村光増寺→同村半田稲荷大 明神→(曵船)→ 〔二編巻の中第五二~第六〇〕 旗本小川新九郎の用人と考えられる友田次寛が、天保一二年(一八四 一 ) 五 月 二 四 日 未 明 に 出 立 し て、 下 総 駒 木 の 諏 訪 明 神 へ 参 詣 し て い る。 こ の 時 の 紀 行 文 が「 小 金 紀 行 」 で あ る。 そ の ル ー ト は 次 の と お り で あ る (11 ( 。 江戸小川町→浅草寺→吾妻橋→四ツ木→亀有→飯塚→猿又→茂田井 →小金野→諏訪明神→駒木→名都借→平賀の本土寺→小金→馬橋→ 松戸→金町→半田稲荷社→新宿の渡し→亀有→四ツ木→浅草→小川 町 友田次寛は帰路に半田稲荷社に立ち寄っている。このように、江戸か ら半田稲荷社へ参詣するルートとしては、水戸道と四つ木道(曳船)の 二つがあり、 いずれにしても、 半田稲荷社への参詣を目的としなくても、 金町村を通過する際には、半田稲荷社に参拝してはいるのである。一九 世紀には江戸市民にとって、半田稲荷社がそうした存在として認識され ていたと理解できる。 なお、前掲の村田直景「半田稲荷」にも、明治になってからのことで あるが、次のようなルートが紹介されている。 日 本 橋 よ り 筋 違( 今 の 万 世 橋 )、 御 成 道、 下 谷 坂 本 通 り、 千 住 五 丁 目より水戸街道、新宿舟渡し、松戸通半里行き、左りへ入り半田社 日本橋より淺草御蔵前通り、 吾妻橋を渡り小梅村、 引舟通り亀有村、 新宿舟渡し、夫より右同断 両国橋より竪川通り、亀戸天神社傍 わき 、梅屋敷前堺、木下川通り、亀 有村新宿渡し、夫より右同断 向島隅田堤通り、木母寺境内右へ入り、耕地通り、東の方直 まつすぐ 真に半 里程行き、四ツ木村、此所引舟通り、夫より同断 但し半田社より柴又村帝釈天へは、右利根川土手通り真 まつすぐ 直に十町 程あり、 帰路曲金村舟渡し、 立石村、 夫より四ツ木村へ出る、 こゝ へ廻りても格別の損なし 日本橋より大 おうよそ 凡三里程なり 右順路 ・ 里程に於ては、今猶異なる所なきなり 近世の二ルートと大きくズレるわけではないが、 四ルートが紹介され、 さらに、 柴又帝釈天などへの回り道も紹介されている。こうしたことは、 明治以降には、種痘の普及により、疱瘡の脅威から解放されると、半田 稲荷社へ疱瘡除の祈願はするものの、それだけを目的として往復するの ではなく、鉄道の開通により足の便が確保されるようになったので、周 辺 の 自 然 に 恵 ま れ た 田 園 地 帯 を 散 策 し、 名 所 旧 跡 を 訪 ね る よ う に な り、 半田稲荷社を中心とした、葛西地域をめぐる周遊コースのようなものも 形成されていったと考えられる。 また、 『大日本名所図会』第八一編東京近郊名所図会第六巻 〔一九一〇 年 一 〇 月 刊 〕 に も、 同 様 に 東 京 か ら 半 田 稲 荷 神 社 へ の「 道 し る べ 」 が 掲 載されている。それは次のとおりである。 半田稲荷神社へは、東京より参詣する者少からず、且つ名高き神社 なれば、先づ其の道しるべを記すべし。 歩行にて到らむには、北千住若くは中井堀より亀有に出て水戸街道
にかゝり、 新宿橋より大井堀橋を経て北行し、 庚申塚(享保七年云々 と刻す)より東行すれば、右に帝釈道としるせし石標あり。夫より 中 之 橋 ・ 越 渡 橋 ・ 境 橋 を 過 ぎ て、 鉄 道 線 路 を 超 れ ば、 左 に 八 十 八 箇 所大師の石標あり、是より北に折れ少しく東行し、更に北に進めば 稲荷神社の前に達す。 汽車なれば金町駅にて下車し、茶店の前を東行し、踏切を過ぎて北 に 行 き 田 圃 間 の 広 き 道 に 沿 ふ て 東 に 行 き、 寺 院 の 裏 手 を 北 に 進 み、 又東へと赴けば神社の横手に達すべし。 明 治 末 年 の こ と で あ る が、 徒 歩 の 場 合 は、 近 世 と 何 ら 変 わ り が な い。 鉄道を利用すれば金町駅から歩くことになり、現在と変わりがないこと になる。また、明治末年でも東京からの参詣者が多いとしている点が留 意される。 ところで蛇足ながら、半田稲荷社へ向かう道中での眺望についてみて おきたい。これは江戸名所を構成する重要な要素だからである。葛西地 域を訪れた人々の中でも、特に眺望に注目している十方庵敬順の「遊歴 雑記」からみていくことにしたい。 文化一二年(一八一五)に葛西地域を遊歴した時には、まず、下矢切 の渡し場付近で宿泊した百姓弥右衛門家からの眺めを次のように記して いる (11 ( 。 扨此家の座敷に匍匐して遥に川向ふを見れば、 東北の方は松戸の駅、 東南に出張たるは国府の台、総寧寺の山とかや、総て東より西の方 ま で 利 根 川 の 溶 り に 随 ひ て、 渺 茫 と 取 は な し た る 眺 望 は 言 語 に 絶 し、又群だつ森の間々遅桜の咲し様は、岩間を伝ふ瀧のごとく、又 は処々藁屋の見ゆるも優にやはらかにして、唐土の晴湖の風景もか くやと、右に左に目の休む隙なし、殊に前は名にあふ坂東太郎と名 付 し 大 河 の 漲 る 水 に、 帆 あ げ て は し る 大 小 と な き 舟 の 行 き ち が ふ、 その風景など唯記憶にのみ覚えて筆端には尽しがたく、武総の境川 といえるも理にして、 実に四季折々の眺望は足ぬべくと見ゆ(中略) かゝる詫しき農家に止宿し風景をなぐさむこそ、予が遊歴の骨髄に なん 〔二編巻之中第五六下矢切の渡し場川添の眺望〕 す ば ら し い 風 景 を 楽 し む こ と が で き る の が、 「 遊 歴 の 骨 髄 」 で あ る と している。また、四つ木道については次のように記している (1( ( 。 亀有村の土橋より東の方帚塚村まで十四町の間、人家なく四方只深 田のみにて眺望又一品ありて面白し(中略)その土地〳〵の風色一 転して路すがら鳥に愛花に浮れ、思ひよらぬ勝景に慰みては、寿命 も延ぬべくぞ覚ゆ 〔二編巻之中第六〇葛飾郡亀有村の引ふね〕 道 中 の 花 鳥 と 遊 び、 勝 景 に 慰 め ら れ れ ば、 「 寿 命 も 延 」 び る と 遊 歴 の 効用を説いている。文政三年(一八二〇)三月に布施弁財天などへ参詣 するため通過した時には、新宿の渡し場風景について、次のように記し ている (11 ( 。 此両岸の風色川筋の溶りて木立繁茂し、渚の天然なる綺麗にして眺 望いはん方なし 〔四編巻之上第一七本所亀有新宿の渡口風景〕 また、小合溜については、次のように記している (11 ( 。 此溜の風景天然にして面白く、芦葭等の中には行々子のくぜる、又 は空に舞雲雀の声迄優に珍らしく、或は遅桜の茂林の間より満花せ し風情はいかんともいひがたし 〔四編巻之上第一八葛飾郡小合の溜小合の渡口眺望〕 さらに、金町から新宿辺について次のように記している (11 ( 。 松戸のわたしの両岸の風色はいふも更に、既に渡しを越へ御関所を 過てより、金町村の此方まで堤の間数十町、又耕地の間弐拾余町を 過て、新宿の駅迄の間左右渺茫として取はなれし、深田の間弐拾余 町を過て新宿の駅迄の間、左右渺茫と取はなれし深田のけしきも一 品也けり 〔四編巻之上第四四松戸の駅の渡口亀有村引風の一風〕 文政一二年頃に金町の光増寺へ参詣した時には、まずその道中の景趣
について次のように記している (11 ( 。 その路すがら平原あり耕地あり引舟などありて、鄙びたるも一興に して面白く、花を弄し野雁になぐさみ、摘草に憂をはらし心身をた のしみ誘引つゝ行人多し(中略)半田稲荷より東南さして耕地をぶ ら め き ぬ、 新 宿 ま で 凡 壱 里 あ ら ん、 そ の 路 す が ら 茗 葱 ・ 蒲 英 公 ・ 餅 草 ・ 薺蔦 ・ 芹 ・ 蓮花草 ・ 茅菜のはなは足元の左右に有て、摘草に逍遥 しあそばゞ可ならんかし、頓て新宿の川除堤へ出けり、野外の遊歴 こゝろ穏にしておもしろさいはん方なく、天元の数も延べくぞ覚ゆ 〔五編巻之下第三一半田村光増寺御真向由来〕 ここでも道中で草花を楽しむなどの自然との交流は、気持ちを穏やか にし、寿命を延ばすと「野外の遊歴」の効用を説いている。 このように、 金町村周辺には中川 ・ 江戸川が流れ、 低地であったため、 見晴らしがよい場所が多く、豊かな自然に恵まれていたことも、半田稲 荷社に江戸市民を数多く魅きつけることの要因の一つではなかったろう か (11 ( 。
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半田稲荷社と願人坊主
半田稲荷社の疱瘡除の利益を江戸市中へ弘めたものとして、願人の存 在が注目される。願人とは、市中を連れだって踊り歩き、民家の門口に 立ち、 軽口 ・ 謎 ・ 阿呆陀羅経などを唱え、 唄 ・ 浄瑠璃を歌い施しをねだり、 謎解きの札を配ったり、勧進をして回ることで生活していた、その日稼 ぎの下級の宗教者で、乞食坊主ともいわれた。 願人の本寺は、 鞍馬寺の大蔵院と円光院の二院で、 一八世紀中期には、 江 戸 ・ 大 坂 ・ 駿 府 に 配 下 の 願 人 組 織 が 存 在 し た。 江 戸 の 願 人 は 慶 長 年 間 ( 一 五 九 六 ~ 一 六 一 五 ) 以 来 の こ と と い わ れ る。 万 治 元 年( 一 六 五 八 ) 八月の町触によると、願人など町方居住の宗教者に、本寺と請人の身元 保 証 を 求 め、 居 住 場 所 を 裏 店 に 制 限 し て い る。 願 人 と は、 本 寺 を も ち、 身元の保証をえて裏店に居住し、鞍馬寺組願人仲間の一員として三衣を 着し勧進にまわる存在であった。 願人仲間は、触頭を頂点として組織されており、一七世紀中期までに は形成されていたようである。そして、寺社奉行の支配下で江戸触頭の 地位が与えられていった。 願人仲間は、 触頭 ・ 代役 ・ 組頭 ・ 組頭格 ・ 見習 ・ 五 人 組 ・ 年 寄 役 の 七 つ の 階 梯 に 分 か れ る 役 人 に よ っ て 運 営 さ れ、 本 寺 と の関係を保った。弟子入りして平願人となると、 鑑札 ・ 袈裟が与えられ、 古参の弟子から願人の職分を訓練させられる。一人前となるまでは、生 活のめんどうは師匠がみることになる。願人の職分の中心は、修行勧進 にあった。しかし、これには、一般の僧侶と同様の修行勧進と、修行と は名ばかりで勧進に名をかりた芸能民のような行動の二面があった。こ の た め 願 人 は、 す た す た 坊 主 ・ チ ョ ボ ク レ 坊 主 ・ 誓 文 仏 ・ ま か し ょ な ど とも呼ばれたのである。 そして、 市中を勧進して歩いたのは平願人であっ たようである (11 ( 。 願人の宿所である願人木賃宿は、天保一四年(一八四三)に、下谷山 崎 町 二 丁 目 七、 橋 本 町 四 六、 四 谷 天 龍 寺 門 前 二、 元 鮫 河 橋 北 町 二、 芝 新 網町二五で、合計五カ所八三軒あった。橋本町が過半を占め、次いで芝 新網町が多かった。この木賃宿を経営する者は寮坊主と呼ばれ、願人宿 は「 ぐ れ 宿 」 と も い わ れ た。 寮 坊 主 は、 触 頭 ・ 組 頭 を 中 心 と す る 役 人 上 層であり、大蔵院の役人はこのころ九〇~一〇〇人とみられるので、役 人の約四割が願人木賃宿を経営していたことになる。 願人は修行勧進のみでは暮らせないので、木賃宿を経営したのだとい う。だが、 木賃宿の経営も、 願人の宿泊だけでは十分な収入がえられず、 六 十 六 部 ・ 千 カ 寺 順 礼 ・ 金 比 羅 参 り ・ 伊 勢 参 り な ど、 宿 泊 を 望 む 者 へ は、 男女とも一人一泊二四文で泊めた。 天保改革で願人も取締の対象となり、 願人木賃宿に俗人を宿泊させないこと、願人と相対で行われていた弟子入りを、寺社奉行の許可を必要とし、人別帳を名主に提出させるように なった (11 ( 。 こ う し た 願 人 が、 江 戸 市 中 に 半 田 稲 荷 社 の 疱 瘡 除 の 利 益 を 宣 伝 し て 回 る よ う に な っ た の は 一 八 世 紀 末 の こ と と 考 え ら れ る。 寛 政 一 〇 年 ( 一 七 九 八 ) 七 月 に 半 田 稲 荷 社 へ 参 詣 し た 本 所 相 生 町 の 人 が、 「 一 昨 年、 此の宮に疱瘡の祈りすとて、異形の行者江戸町々を歩きし」と記してお り (11 ( 、 寛 政 八 年 に 江 戸 市 中 を「 異 形 の 行 者( 願 人 )」 が、 半 田 稲 荷 の 疱 瘡 除の利益を宣伝して回っていたことがわかる。これが願人と半田稲荷社 月 芝 居 音 楽 所 作 評 判 絵 師 正 月 長唄「吉書始」 傾城 大出来大評判 ( 月 長唄「半田稲荷」 坊主 歌川豊国,五渡亭国貞 ( 月 長唄「雛人形」 業平 五渡亭国貞 ( 月 長唄「初かつほ」 いさみ商人 大出来大評判 五渡亭国貞 ( 月 竹本「飾かぶと」 清正虎狩 ( 月 常磐津「祭礼」 台所唐人 歌川豊国 ( 月 常磐津「踊り」 田舎ごぜ 歌川豊国 ( 月 富本「亀戸祭」 鹿島踊 大出来大評判 ( 月 富本「月」 木賊苅 大出来大評判 五渡亭国貞 10月 富本「炉開使」 雇奴引抜替り 11月 常磐津「雪」 鷺娘 大出来大評判 12月 長唄「豆蒔」 金太郎 歌川豊国,軽雲亭国丸 表 4 歌舞伎「四季詠高三ツ大」と浮世絵 注)伊原敏郎『歌舞伎年表』第五巻(岩波書店 (((0 年 ( 月 ((( ~ ((( 頁),『国立劇場所蔵芝 居版画等図録─八世板東三津五郎氏寄贈─』(国立劇場 (((( 年 ( 月)より作成した。 との関係を示す、最も 古い記事である。 その後、文化一〇年 ( 一 八 一 三 ) 三 月 五 日 から中村座で、第二番 目「 四 季 詠 高 よせて 三 ツ 大 」 と題して、板東三津五 郎が芝居音楽に合わせ て「十二ヶ月所作」を 踊 っ て 評 判 と な っ た (11 ( 。 この三津五郎の舞台姿 が、歌川豊国らの筆に よって描かれ、版行さ れてもいる。すべての 月について錦絵が描か れたかどうかは確認で きないが、これを月ご とに、 芝居音楽 ・ 所作 ・ 評 判 ・ 絵 師 を 整 理 し た ものが、表 (である。半田稲荷社は、初午から二月があてられ、芝居音 楽 は 長 唄「 半 田 稲 荷 」、 所 作 は「 坊 主 」 で、 評 判 は「 大 出 来 大 評 判 」 と はいかなかったが、舞台姿を描いた錦絵は、歌川豊国と五渡亭国貞が競 作しており、 この点からは評判をえていたものとも考えられる。長唄 「半 田稲荷」の歌詞は、次のとおりである (1( ( 。 ひよつくりひよ〳〵ひよつくり〳〵〳〵ひよ、ひよつと出でたる 修 行 者 の 合 た つ み あ が り の 一 調 子、 疱 瘡 も 軽 い、 麻 疹 も 軽 い、 祈 る は 葛 西 金 町 の、 半 田 稲 荷 の 幟 竿、 い き ぢ に 立 て る み め ぐ り や 合 そ の つ ま ご ひ に 王 子 さ へ、 つ い き ぬ ぎ ぬ の 烏 森、 別 れ に あ と の 一 杯 が、 杉 の 森 や ら 千鳥 足 、し ど ろ も ど ろ に 合 来 り け る エ ヽ 酔う た 〳〵〳〵 五 勺 の 酒 に、 一 合 飲 だ ら 出 来 心 合 つ い 袖 引 い て 転 寝 に、 こ ん な こ の 〳〵 い た い け ざ か り 合 ね ん ね こ せ い 〳〵、 ね ん ね か も り は、 ど こ へ 行 た 合 山 を 越 え て 里 へ 行 た、 抱 け ば 泣 き 出 す 下 せ ば ぢ れ る、 お さ るがもりとはこの事か、願ひかけたるいろ〳〵の、絵馬も拝殿午祭 姉も妹も仇もので、わしになびことじやらついて、実かと思へば つ ん 逃 げ た 合 お れ が 来 た と き や 来 も せ ず に、 や つ が 来 た と き や 酒 飲 ん で、 泣 い た り 笑 つ た り 嘘 吐 き め、 し め ろ や れ 〳〵 中 の 綱 合 ヤ ア わ つ さ り と な ぐ り か け、 何 で も こ つ ち の か た 〳〵 合 赤 い も の に と り て は、 南 蛮 辛 子 唐 辛 子、 取 上 婆 が 右 の 手 合 ま だ も 赤 い は 山 王 の、 桜 の 木 に、 お 猿 が 三 千、 三 千 三 百 三 十 三 匹 さ が つ た、 お 猿 の お 尻 は ま つ かいな、ヤアレしめろやれ、しめろとはるのさいさきも、よしや世 の中面白や この冒頭にある「疱瘡も軽い、麻疹も軽い、祈るは葛西金町の、半田 稲荷の幟竿」 という歌詞や、 赤一色の衣装と頭巾を身につけ、 首からは 「半 田稲荷大明神」と書かれた箱を下げ、右手で鈴を振り、左手に「奉納半 田 稲 荷 大 明 神 」 と 大 書 さ れ た 幟 を 担 ぐ と い う 板 東 三 津 五 郎 の 舞 台 姿 と、 後述する願人の装束と、 どちらが先行していたのかは、 よくわからない。