貞 次
寺 田
自分が香川願lこ来て絹余ろ最初¢印象l‡、蚊の多いこミ、自縛寮の多いこミ、人口や溜他の多い ミ云ふこミ、亜に高僧が多′、出㍗ミ云ふこミでぁつた、何れも香川触り有する一時色で、其庭l=任 夫々理由めあ宣こミゝ、多大の興味を感じ㍗ので、探究の﹂歩草して、宛づ溜池の硯察を試みた此 鹿lこ述べろの托其の特異で、畢なろ報骨に過ぎないのである.甲、叉記載致して置けば何等かの参考 ドもなろうかミ思ふので古き手帳か畷り合すこミにし㍗のであろ。 ヤ 香川願の統計書を観ると、第愛編の最後に溜他の統計が出てゐる、他の数は絶牒で愛馬七千三百五十ニケ朗で 官有が四千二百九十八、民有愛馬三千五十四と云ふこと忙なつてゐる。之を他の府願に比べて見ると、滑他の多 いのは瀬戸内海沿岸の地方で、大阪府を始め段々之を観るが、香川願程多い磨はない、同じ四園内で鴻変域願は 既に少なく、徳島願高知願になると殆ど滑地はない程度である。 〓 溜池をどう云ふ魔に建設してゐるかと云ふと、三種に分つことが出来る、弟叫は山地を應用して三方山で固ま 菅川臨¢港漑他に就て香川願の準漑他に裁て
︵三山九︶・︼九弗五巻 欝四張
︵三二〇︶ こ○れてゐる坂朗、多くは河流の上流履堰きとめて迫ったもので、俗に山地又は河池と科する。此場合些二方が山で
あるから、築堤は唯︼方だけで済む利益があク、山地から流下する水を貯蔵するには最適切であるから、比較の
他には貯水登の豊富なのが少くない。耀内の故大池である満濃弛を始め、紳内地、其の他二重郡にある井関池な
どは是である。満濃池は仲多度那平野即ち語仮平野を酎北に貫流する金倉川の上流を堰きとめたものであり、軸
内池は木田郡を箕流する春日川上流を利用したもの、井幽池は枠由川上流を利用したものである。勿論此橿の池
は小さいのも非常に多い、丘陵の鹿に迫られてゐる多数の池は多くは是に麗してゐる、但し地形によつては堤防
は割合に長い婁含もある、近い慶で見ると高松市の南、紫雲山の南麓、土居官側にある他の如きは此桝であろう
第二樟は第∴秤と同甥で出来た池ではあるが、地形の棺贋潤な庭を利用したもので、大抵は願の南部に拭って
ゐる第二痘又は洪積紀の基地から、低平な沖積地に移る磨に蟄達した谷間を利用したもので、之れ.にも随分大き いのがある、俗に云ふ山地に屈するのもある。俳生山町の蔚に常る三谷他の如きは此の柾で、満濃池︵満濃太郎︶ 紳内地︵軸内二郎︶に次ぐ大池であり、俗に三郎池又は三谷三郎と柄せられてゐる、近時凝花を以て知られて釆た砲鶴公園の宮地や、川岡村にある奈良漬池、三豊郡本山村の衆、上高野村にある鴻池・中池、瀧宮の兎なる北條
池、俳生山の西南にある平地の如きも是に魔するも打である。
第三種は粂く平地正幾分の地物を利用して追った水溜で、俗に野馳と云ふ、中には全然人工的に堀り下げ、其
の土を以て聞置に堤防を築いたのもあり、叉漸次北方Ⅶ至るに従って低くなる地形を利潤し、其の階段をなして
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ゐる境界を利用し築堤溜池としたのもあるっ例へば高松市の前に常る太田村の太田紳整別に在る溜他の如き、叉
市の西南檀紙村附近に在る溜池の如き此類であり、仲多度郡の平野に散在する諸池、即ち垂水村の上池、郡家柑
の賛鎌寺池・宮地、木徳村の宮地、龍川村の前池、南村の田村池、丸亀苗の琴南新由の平地・子判池などの如き
も皆是である。此柾の溜池は平地に在るので、其の形埠普通方形又は長方形に迫られて居り、周婆山ハに築堤しな
ければならぬから、人工を聾す㌢しとは前二和正比し大であゎノ、水探も葎いのが多い。水は大抵高味にある水源
から仰ぐもので、天然水を貯赦する他、農耕の閑散な冬季を利用し上流地の水を引くのである。例へぼ三谷他の如
きは附近を耽る1香東川を利用し、新の十月から翌年の四月まで︵≡月末日︶の問に之を仰いで居り、奈良領地の如きも、同じく零東川の上流から冬挙に引くのである、叉池の附近にある自然涌出池から供給を受けるのもある
此池は小さいのが多いから、之を以て直に推漑塙水に充てることは出奔ない、大抵は補助水の役をつとめてゐる
のである。其の形が方形又は長方形に出来てゐるのは、田園の形から釆てゐるらしい、香川解史蹟名膠天然紀念
助詞査報真第叫、第叫抗琴八、琴ハ○條奥の遺跡︶や、曾川璽蕃三豊郡史に研究されてゐる如く、脊川解は早く債旦制度の蜜施された慶であるから、讃岐の田圃を見ると、畦は直線的に過て居り、従て平地に溜池を盛る場
合には自然方形をとるやうになるのは常然である。
此平坦地に造るのと重く反封に土地の高い鷹に迫る池がある、何れも親池の水耕に屈することの拇釆ない軸勢
の地に迫られてゐるもので、例へぼ屋島の山麓他の如き磨では、多数の小池が迫られて居り、其の下方灯あつて
香川廠の濯漑他に就て ︵三二こ 二︼︵三二二︶ 二二 笥五啓 ′第甲携 階段式に造られてゐる土地を確漑するので、天然水を貯絆す冴他、、斜面より流出する水を利用するものである。 屋島山上の血の他の如き、源平時代の由緒をもつてはゐるが、矢張り山上僅の水田を養ふ溜地に相笹ない。 デ■1ブ 此他溜絶とは云へない程の潅漑用水がある。自然涌出の水池で、俗に出水と稲してゐる、高橡市の南太田柑に は各駅出水があり、又市の西南香東川嗣岸の地忙も朗々出水がある、素より大きな池ではないが、水は極ぐ澄みぬ たって、如何にも冷めたそうな泉をなし、沓患誉田で自然流出、附近を薦漑してゐる、ニ壷郡本山村財田川沿岸 チノタ にある長淵出水の如きは長三百聞、幅約五問乃至八問、相常大きく、約百町歩の田地を蕃ふて居り、見附近の冷水 出水の如きは長lニ十間隔十問、大文淵は長六十間鴨五問あり、桑山村のこひ淵は艮六十間鴨八開を有しておる、 ショウノン 太田村の上面出水の如きも其の鹿北に位せる田地約凶十町歩を養ふてゐる、此の払水は補助水ではなく、小範 囲ながら何町歩かを濯概してゐるのである。 錦補助池として野井戸を用ふる虎がある、溌漑に不便な畑作地に多いが、叉水田地忙も利用されてゐる∴讃岐 では堀抜は少く、大抵は方形又は長方形に造られてゐる、大さは仙棟でないが、小さいのは方一観位のもあれぼ 個二間に長さ数問のもあり、大きいのは七問にこ問位のもある、単に堀すヰげた使のもあるが、多くは周鼠を已 然看で積み重ね、上下二段に築いてゐる、自然涌出の水を利用するのであるが、探さは僅に教尺に過ぎないから 素より豊富な水源と姓云へない、草魅の際利用するに過ぎないのである、此水を汲みあぐるに株絡々の方法如用 ゐ.られてゐる、鹿によつては風車を利用するのもあるが、讃岐では曇に水車を足躇であげ、又は支払及び跳木を凪
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ゐるのである斗後者は石田村退で多く見、た、 の頃とて非常わ労苦であるから1近時は訝力の騰貴に伴て電力の使用が行はれ、少くとも明治四十年囁から蜂石 油教動機を利用することが多ぺなり、虚によつて虹常設の磯動機小屋を設けて汲み揚げに従事しでぁる、高冷市 附近 屋を観察した。 此他、鹿漑用地として古墳基を利用してゐるのが参る、畿内方面では此例蜂多く見る虞で、大規模な陵墓の周 濠は確鞍渾漑用水を粂ねてゐるのセあるが、恕岐には此例は多くない・。然し全然ないことも革いので大川郡富田 村にほ立涯な前方廃薗の茶臼山苦境があり、其の周濠の叫部は既に埋没水田に化してゐるがヾ庸二部は礫存隊漑 用として蟹蓋て官︵訳諾牒調号泰村後方の基地に多数の小池が散在してゐる、孟寺池姦め稔池・岡 一 地・右舟池・女鹿池・大谷池・ぬか山地・砂入池などは其の十酪である、此の迫は叉一帯の古墳群池で、今は大敵分 閑静されてゐるから十分虹は知られないが、此の他の中には古墳附屠のものも少ぐないやうであり、殊払石舟池 の如きは厳酪たる苗壊の周濠で石舟古墳と稀し前方後園の古墳で塚上には俗に石舟と粥する石棺が啓乱してゐる
︵餌競川場幣滴朗順和郎詣㌶脚競叢駅新津鮎詑開㍍㍑るてて見ると、他の小池塞淀管墳と
関係のあるものであつたかも知れない、叉貴行天白雷玉子神栖王御基となつてゐる牟寝相の王塚畔の池、並に穐鶴 公園内官ノ池の響且用囲卯錮詣那舶州︶其の蒜と観る専が出爽やう。 香川願の港漑他に就て ︵三二三︶ 二三賢才 _ 三 讃岐に於ける滑池は大暑右の教齢で、山間と云ひ、山麓と云ひ、平地と云ひ、讃岐の灸土至る庭に散在し、其 の分布は全く不秩序であるにも拘はらす、初夏の頃費岐や野の︼斡に美田と化するのを観ると、其の意外なるに 驚かされるであろう、是は想像意外に腋確な配水法が走ってゐるがためで、各地には水耕と稲し、給水の霞城が 定ってゐるのである、例へば満濃他の水耕は四些二豊郡の分界をなせる大肺山に鷹する山脈の以東で、東は綾歌部 長炭山以北の山脈部に至る問に拭ってゐる所謂語岐大平野の全部で、現今の澹漑区域は仲多度那の一市二町十三 柑と至て骨︵謂軸馳琶蒜生山の南盗る茹の水籾区域は柳生山勘大字晶外五ケ大字、即ち大字出作 ■lレ⊥ソ 多肥村大字出作、上多肥、太田村大字太田、二百村大字≡名k及び、前他の水耕は併生山の∴部及多肥村の叫部 廿劇町八段二畝九歩、長尾の南なる官ノ池は水両横二十町足らず、水耕は廃村大字東・名相の大部分、大字長尾 の四年分で、北は造田の界蓮まで及び、其の面積三古間歩に達して居り、瀧官附近の北傭池竺皮加茂川北落し て配水するので二番蹄の加茂村を始め、林甲神谷・高谷・西庄・正夢金山・坂出の八ケ町村に亘り、水耕面積七百 町歩約叫筒石に及んでゐる、又三豊郡の叫ノ谷地は一ノ谷・常磐並に観音寺町の叫町ニケ村に及び、水耕五百町 歩であり、萩原村の大谷池は申礁並に萩原村三百町歩を潅漑し、替相池は常磐の大字流岡村琴豊甲辻村を港漑 し、水準二百町歩に及び、伏々木地︵一名逆潮地︶は粟井村附近を港漑し、水耕二百†町恋た及んでゐると云ふ有 第克令 弟四抗 ︵曇二四︶ 二四
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楼である。是は叫例に過ぎないが、斯くの如くして、願内の水田は何れも何磨かの他に屈し、趣く秩序的に涯漑 されることになつてゐるので、讃岐わ濯漑法は大部分が溜池濯漑で・側部が出水又は直接川水を利用するものと云 ふてよいっ 用水を使用する魔埜向松前の南太田村、菅栄川下流の弦打、多度津附近、並にご立見郡の本山村附近などで、河 水を利用するのは脊東川の上流で蔑野村、由佐相附近、下流では弦打村附近、ニ盛郡で枠由川、財粗川沿岸など で、大抵は河畔蛮小の蛾城か、或は河の上統地力至は下流地である。河の上流地は竜釆の習慣により河水利用の ヨpク 特措を有して居り、其の他の地方は飴り水、即ち飴力を頂戴するわけになる、例へぼ奈良絹地の如きも安原村と 由佐相との間に井埴を設け引水するので、水濾地の由佐相に充用紡があり、奈良須池は其の飴力を頂戴するので ・ある。此習慣は自然と水諭の原因となつたことが多く、奈良須池の如きも池畔に立ってゐる奈良須地神を観ると だいぶ苦しんだ形跡が親はれる。 奈良須地神 始終審裁判言渡書 香川願香川都岡本檀紙山崎飯田風座各村の耕地八百有飴町歩を湛漑専用=供ル奈艮絹地溜水ノ水泌.ハ、首都 幹統ノ香東川筋同郡岡村二於テ字剛ノ井墳ヲ設ケ該堰ヨリ乗水スル者ナヮ、共井手筋水路ハ岡甲由埠横井 池ノ内・川部・岡本ノ各村ヲ経由ス、仙ノ井嘔卜奈艮須池トノ距離ハ五千問、即チ資里以上ニシテ、其井手筋 地般皿ハ大子高ク、且屈曲シテ山脈ヲ続ルヲ以テ、水温多分ナラザレバ莱水二乏亡ヲ骨ク、而シテ明治試拾年 香川鹿の濯漑池lこ就て ︵三こ玉︶ 二五
買三ハ川嶋 三ハ
琴五億 解四購
訂り同武治豊年二跨ル冬季引水中、岡村−鵬在ル字分木股観音股栴柄股ノ参ケ股ヲ石鞠砂等ヲ臥テ堰ク慣行ヲ 岡村由佐相村民声り妨害ヲ馬シ、引水乏亡シタルチ以テ、不得止雷地樹∋り蕗山始審裁判所高松支應へ固有 水利樺確認資求ノ訴訟二及ヒクル朗、明治式拾費年拾就月四日教判官淡シ、宮地掛申立ノ如ク相成クサ然ル ニ岡村由佐相々鱒ハ之一一服セス、大阪接訴院へ始審裁判取消ノ控訴ヲ褒シターリ、同院二於テ明治式拾式年玲 月歩掛愛日経審裁堕一日渡シ、結果ハ始審裁判ノ正常ニシテ敬治スヘキ筋ノ無キヲ以テ之ヲ認可シ.、英理由ノ 東都ハ毎年陰暦拾月萱日ヨが翌年陰暦参月羞日ヲ以テ奈良須池冬季引水ノ期間ナル苛、及ヒ引水ノ方法ハ石 砂菰等ヲ以テ該井手筋三森ル字分木股観音及栴摺股ノニ元路ヲ常池掛二於テ堰止ム・ル硬利アリト宣告相成ク リ、該判決二乱シ岡村由佐相村民ハ上督ヲ馬サス速二終審判決確定セリ、該終審判決ヲ馬シタル撒員如左四
次に配水の方法を観るに、藤池よりは井手と稀しr、諸声に通する配水路が迫られ、巌貢なる監督のもと、佐水掛拉訴院評卑官
柊.訴院評.定官控訴院評定せ
裁 判 所 書 記大 阪 控 訴 院 民 事 第
乃 羽 辰 三
三 局 長 心 得 発 揮 晃 別 けハレ 良OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
フナギ 形に迫られてゐるので、撃木又はかぶら木と稲する、樋は之を斜に設置し、上部の哉水穴は最高部に位し、他は 漸次下部に放するやうに設置する、上部の水は上方の畿水穴を通過して洗出し、漸次探朗に至るに従て、下方の ヤグラ 畿水穴を経て流出するのである、筆木を支えるために枠を迫る之を櫓︵矢倉︶と云ひ、下方より傲へて〓軍帽・二 霞と科する、小池︵鮎謂讐にあつて遠竺個で雪が、大池になると数掴を備える、浦莞の如きは以前 篇の櫓晶えてゐ年即ち崇櫓まであら食ので掛る。︵蜘離醐舶摘醐錆㌶ド確認謂︶癖く簡雷警には 櫓の代打虹二本の柾を立て1筆木を支へる歩合もある、此場合は鳥居立と柄してゐる。此間には粒難があり小池 カメユル に備えてかるのはどみ蜂き開と云ふものもあれば、二他の水を融通する難問と云ふものもあり、枚材を彫扱て造 れる於彫関与式ふのもある。樋又は柏の大さは叫定Lてゐないやうで、満濃池の問に卵す 利驚臥警滅莞萎頁嘉土○に誓れてゐる、村役ゑ軌髭綱餌場校︶に保管れてゐろ茅永三歳正月あ 三木郡上高岡村池川記録、澄明拾十嬰二月の道路霊水歌詞帳︵撒謂踪︶によると、間の寸法が署如く記 して叡る、開の大サを不す叫例として、左に記して置く。 罷域内に給水されるので屠る、新組織の水利組合忙よ・つて行捻れるのもあるが、鏑奮慣によるものが少くない、先 ユル づ配水設阻む観るに、新築の池を除けぽ何れも習慣によゑ防備で、通常なる側に配水口紅設ける、∵此設備を間と 攣、木警麒譜鋸ほ媚帰一晶ぺ、様に簑賢二ツ乃至鍼ウの外寡ち、之より地蒼吸入流翌しめるの
である、庇穴及若鮎
香川麟¢潅漑他に就てハ亨′つ 畿水口又はすつ怯んと云ひ、此孔に適合する棒を以て之を閉鎖する、此の棒は下部を筆
︵三二七︶ 〓七 ぷさ1ら木四本長右同、末口右同、 寸本木長右同、米ロ七寸、大貫本堂本長右間
中矢倉 右 同
下央倉 鳥居正式組 連木武本長試問米ロ四寸 横木武本長囚尺末口右同 寸本木萱本長試問末日右同 五 他には公有とそうでないのとがある、満濃他の如きは公有地で、徳川時代の初めには代官が之を管理してゐた が、後背く高松港の管理に屈し、代官の厳格復元文頃には備中倉敷蓮の代官の朗轄となり、菟治元年には凝府は 五ケ年を限り、池及郵珂部の幕領二千飴石の池を蕗に委託し管理せしめ、明治維新後は郡内の幕領地は倉敷懸の 所管となり、同五年土工旗改正せられ村方自習諦と忽り、溜池ば組合戸長之を管理L、何十二年には叉改正、特 選による水胡紙代人の虚理となり、こ1に満濃池水利土工脅が出来、配水耕を置き管瑚せしめ、又便宜上十四年 よりは那珂多度部長之を管理統轄すること1なり、廿三年水利組合條例の牽布により、新に組合を設定し廿五年 一 弟五億 第四兢 竪 樋 長拾問内法厚サ匹寸、九寸﹂費尺両寸 上央倉 庄六本長髪丈萱尺、末口六寸 梁三寸長右同、末口五寸 桁武本長石同 末日四寸、貰本四本、長石同、末口有岡 ︵三二八︶ こ八OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
雷より蜜施し、浦波池普通水利組合塞じ、代議磯警欝、郡長之む管理統轄し今日に至った。︵銅発釈妥︶ 脛費は革初Ⅵ修築費はすべて図費であつたが、水利組合の成立後は懲慣を参酌し、経費の賦課法を定め、反別割 と柄七、従来の石高を療準として各市町村水耕り大字毎に負槍先顧蔚数を設け、之を基礎として、毎年度の経費 を風説するこ⊥﹂ゝした、市町村長忙て水耕土地所有者に分厳し徴収する・のである、而其の敏文は毎年度に預算を 議臆して之義行するので、昭和発年度の決警見ると︵摘発離摘粗銅覿︶歳入造常安富喜八拾六担1、歳出 は六千七百式拾登園、臨時参千草白鳳となつて居㊤、紳内地の如きも、上の池を始め附近の池を加へて瓦ケ池と 粥し、宗組Å翫離柚掴‰︶を組織し、経費笑正十毒皮蛋て、歳出経常費冨筆七宍拾晶飴、歳入 七千参官印拾五圃飴、歳出臨時費六千四宵飴園となつてゐる。 明治廿五年には本願訓令第六十二既を以て水利組合施行細則を公布し、其の設置を奨励したが、因襲の久しき 容易に琶慣を改むるに至らす今鏑従来の慣習を持輯してゐるものが多い、役員は紙代を始め池守、堰守、井手守、井 手水門香、池水門番などで、紙代の水配胡を砲甲掛と栴し、配水の請求ある毎に絶代に協議し、其の指揮を得て、開 披をなすのである。紙代の数などは池により異り、例へぼ平地にあつては絶代廿仙人で各大字に戯て其石高によつ て出す数を定めてゐる、平地水耕石高各村別調によると、平地水耕惣石高は嘲千三百六十四石で、内彿生山町大 字百相が八百十九石七斗二升八合で十二人、同町大字出作埜ハ十凶石山斗二升で二人、多肥柑大宰相作は百七十 三石一斗瓦升二合で二人、多肥村大字上多肥は百三十九石二斗≡升八合で二人、太田村大字太田は首十七石七斗 香川絞り源漑他に就て ︵三二九︶ 二九
六升二合で二人、鵬宮村大字三名峰五十石で二人となつて居り。山大寺地は絶代六名で上高岡柑三名、大字氷上
第茸魯︰簸⋮四鱗 、︵三lニ○︶ 三〇
ミヤウ ﹂名、下高岡二名の割にをつて居る。絶代は調査の上年々の濠穿を作成し、拙守其の他を指揮して池萬端の経常 をなす、経費は各村常割り常つるもので、配水量と同様其柑の石高により割苫てる、十石に封し∵ケ年何個と七 て計算するがやうである、例へぼ奈良須地元如きは曹高七千飴百石︵両地︶で維層費叫ケ年約参謀固であり、︵堀川 氏談︶三谷池畔あつて空ケ年経費式千四、吾園、嘉島管し乙石数に讐讐に割讐る︵詣新駅、谷 謂紺鵬謂駈踊謂納媚†︶北條他の如き竺ケ年経費他の下旦て七千輿顆蛸別報︶地諾段別にて別学る 井手の通れる箪は別に血ケ年武図許徐分に出資するを要する。山犬寺池にあつては刷ケ年経費経常費威百蘭臨時 費参百園位で、計週、五付回、段別にて地主に割常てる、庸三澄郡の長谷他︵新在池︶の如きも和田、和田濱並に邪法 に三分して耽課し、反別にて割りつける、更に此経費の内諾を調べて見ると、例へぼ平地にあつては、大韮六年 度に於て、歳入は繰越金、雑牧入︵附愚地賃貸料・水面使用料・雑木貸彿金︶並に分厳金︵各町村負婚約億︶で、 合計五百凶拾豊凶七拾五鏡、歳出は報酬︵管理者報酬、米凶石云†︶六拾四囲、給料、拙守給蓼拾八囲四拾銭 ︵加諾臥讐井手守給拾児㌫て等給拾畜ハ錮甑斗︶、井宗門革給正副閤拾囲鏡︵露鮒諸囲雫︶平地水 門票Å諸仏︶、雑費︵交際準集金琴諸税負槍→雇人即ち夏水取溜人夫参拾霞め者七漂、武芸鏡ゐ者、克 拾鏡の者同上、監摘発、大過り香水進入夫七十人叫人、式拾就餞で、合計正常週給登園七澱五鎖せなつて慮る。 池守其の他への支給は従軍の慣習では米であつたが、大正九年頃からは資愕を用ゐることになり、大正♯年度をOLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
観ると、報酬は管理者百六拾囲、拙守給八拾五固、堰守給式拾五園、井手守給拾五囲、井手水門布拾参囲六拾鏡
辛抱水門露五凰撃と至て居乞更に昭聖霊嘉首藤牒箪苗墓拾九図式拾七銀で、報酬審
貰給完拾園、池守給九拾五凰鰐蒜鋸那針舶五︶警給式拾五園∵井等給拾晶、廃車永門芸蓼圃六・拾 銀、布地水門雷囲︵配臥一と莞てゐる、以上は雷﹁例に過ぎ告げれども讃岐窟富樫の経霊蒜員の 報酬等の関係を基ふことが出来る。 予ルヌヰ 次に開放を観るに、・開披は田畑の運命に関係することであるから、農家にとつては最重大な 毎年最初の開披は之を初開披と稲し、村民拳て之を祝し盛況を呈するのを例としてゐる、殊に満濃池の開按ゐ如 チエウ やは有名なもので、舌釆夏壷︵月嘩の中︶≡臼以前、現今は陽春六月二十日に行ふことになつて居り、配水人より 関係町村長並に議員に案内し、填上に銭座の神野神政で奉告祭を奉行し、、配水め普及年穀の豊餞を所脇し、経て 配・水人政池守人等を指揮し、開披差すめで、来観者多く批警苦るのであえ︵摘発艶巽︶㌃定期の問誓 ある如、他は所謂臨時の開披で、用水所要地の請求により臨時に行ふもゐで、満濃池の如きは池水の盗用に防ぐ カギトり 、ため、開に鎖鎗を施し、其の鍵は池領三ケ村の庄屋申の一人が配水係となり、此鍵を預るのであつた、之を鍵執 と柄し、幕末時代には榎井村庄屋が之を勤め近時に及んだが、今は配水人︵後水配人︶に移管し、現今は池守人が 保管することになつてゐる、他の池でも大抵は池守が之に従事し、用水所要地から請求があると、紙代に討り、 古来の習慣なり記録なりに依り、叉事情を掛酌して、給水地と給水時日を定める、地守は命を受けて開披をなす 香川廠の濯漑他に試ぺ ︵三三〓 真二軟
第玉髄 弟四兢
︵蔓ユニ︶ 三こ のである、請求のある場合は大祇は其の田にとつては重大時剋であるから、此配水は却々に困難が多く、異議の ●コ︹ 起ることも決して少くないのである。他の水は其の分量をあらはすに合を用ゐてゐる、水が何合溜ったとか、何 合減じたとか、何食しか磯てゐないとか糾するのである、此分盈衷計るには地中に建設せる分量石を用ゐる、北 低地の分泉石は他の四北隅の配水口の附近に立てられてゐる、高九十糎、四千五糎角、花崗岩の長方形石で、表 面に分量石﹁水溜此次にかさ類﹂、婁に文化凶丁卯歳建之と刻してあり、叉三谷対の東南に潜る石舟池附近の地中 で見た分墓石も大さ並に形状は北傑他のものと暑類似で、矢張り表面に分量石と大きく刻し、姦面に明治二奉顔 中秋八月建之と建設年月を刻Lて居り、北條他の分量石と同様池中で配水口の傍に建てられてゐる。孝魅で貯水 が五合水にも下ると各村に通常に割り雷てることになつてゐる、之には各地により習慣があり、水槽区域が発っ てゐる針のである、例へぼ満濃池の如きは、‖二番櫓以下の水になると、苦茶那珂郡上の郷のみの専用と云ふこと に警てゐる、即ち公文村以北の田地は配蒼受ける権利濯いので雷︵諾鮒錮梱桐紬躇舶用謂準︶ 此二番櫓以下の配水には誓書を出して、配水に銅する規約を厳守することを約し東ものであつた。故に此櫓のこ とを琵文開と稲せられてゐるのである。愈水不足となれぽ時間を寧ふ様になり、甚しきに至っては此給水の他、 野井戸出水など必死の努力をなし、最後には火の命と粥して土瓶にて朽の株に水を注ぐことすらあるのである、 っウタキ 此歩合に於ける池水配水の困難なことは想像に飴りある慶で、所謂零焚と科し、線香をたきて時を計る習慣もあ った、現今葡之を用ゐる虚もあるが、漸次詔れ行く傾向である。OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
六
本願の水田は斯の如くして養はれるのであるが、既に激漑設備が出来上った今日にあつては、吾人は梢もする
と水田に到して何等の窒息をも執はない傾向を観るのである、然しょく観察して見ると讃岐をして此焚田園たら
しめたのは、確に営々組兜の産業開療上に浮いだ不断の努力の結果で、讃岐をして今日あらしめるまでには、吾
人の想像以上の難苫のあつたことを察しなけれぽならぬ、暫く督に立ちかへつて池沼の釆搭を親祭せんか、蕾尤
組先の努力は果して何時頃に賛してゐるかを見なければならぬ、是に就ては到底藤知することは出来ないのであ
るが、本願の地中で汲水歴のよく知れてゐる濁濃池を観ると其の塾造は文武天皇御事大蜜年間で、珂守遣守朝臣
の創築︵舶緒﹀弘笑師時代に修警加へたと云ふことに莞てゐる、然し讃岐の地が開警れ食のは早い藤代のことでもあり、港漑用池沼を築くことは狭山池などの例もあり、随分早くから行はれたに違いないのであるから
此池の軍迫の如きも庸以前に遡ぼることが出来やうと考へられてるのであり、其の他の池にあつても、大の古墳
の外濠の如きは既に古墳時代の建造に相違なく、叉=義郎本山村退の瀬丸池に就ては、地方人は之が築造を永山寺と相違せしめて、本山寺は大同二年の創建、瀬丸池は其の一年前にて、大同晃年の築造であると俸えてゐる、
其の番茸の如何は然らすとするも、其の他の池の中には相雷鳥い時代の軍造に係るものであるに相違ない。
然し遺憾ながら此等に付てほ傘然知ることが出来ない、粥岐の他の中で東條の知られてゐるのは罫に徳川時代
香川悔の港漑他に就て ︵三三三︶ 三三︵三三四︶ 三明
第安穏 第四兢
に入つてからのも1みである。例へば、三谷池は川島町松原太郎氏所蔵記録によると、 冤永二年生駒高俊城主ノ棒、寛永五年錐駒愛岐守高俊、山田郡三谷村郷三郎池御築立ノ箇、左記ノ出使役人卜 相談り、築立工事成就セラレクリ。 御閥奉行軍都週郎友衡門、jE田右近、璃柑左京、桧原萬助。図役御普請奉行、下津牛左衛、稲家七郎右街門? 仕慣人、田島八兵衛。 紳内地には他の北呼紳内地石肇禅と云ふのがある、明治二手由年七月の建設、柑尾景経の撰文別してゐる、之 によると、池作儲事老、磯城之端麗官廼御紀爾始成朗記而、依綱池刈坂池者共時所作也、嘗濃池大賀之晋作底此 圃過多有地力池之嘩⋮⋮︰次で大なるは此紳内地で、富永十二年生駒高俊靭臣酉島八兵衛に命じ築造せしむとあ り。三豊郡盟露町大字和田濱にある長谷池︵一名新左池︶は元錐十二年合田新左衛門ノ増築、面積四町八反、墳五 反囚畝、水爆田地二十±町五反六畝、和田濱云々︵帽開︶と雷っ票田梁紳に在る加慧︵朗讐㌍蛸針蒜虹 譜躇︶鱒承徳年代の築造と倦へて居り。大野原村の井関池は藤田徳太郎民望田郡大野原開葦田姓溜漕依 ると、軍氷二十年平田輿二些街門皮蛋井紺地築く、堤長二百十問、根茎三十問、高さ六間、閻魔三間とあり。叉生 駒詑には﹁冤永五年藤紫氏より其臣西島八兵衛之尤をして乗らしめ、高俊君の政を輔けしむ、之尤智略深き人に て最土功をよくせり、満準滞丸・山谷・山甲立痛・三谷・大寺岩瀬などの池、其の外大小凡九十飴地膚その築く虚 にと、叉福田木太巻日等の新愈も皆此人の開きしと云ふ、居ること十年許で去る﹂と記して居り。讃岐変質︵黒OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
木安雄著︶ には 富永十九年水戸藩組瀬額房の長子輯盈︵英公︶新に固守に任じ、高松港十二高石、敬呼崇革新舎を勧め、海描 を開き、水利少きを視て臣央野部壁ハをして、隈池凡凶官有六を築かしむ、︵固有の九望ハ十を合せ計叫千三塁ハ †六︶茄保二年。
ユキ†サ
と記し、叉同書に﹁西島之尤通稲細八兵衛、遠州濱松人、伊勢胎教家に仕え、元利中讃岐侯蕉駒高俊延きて願 間とす、藤堂は生駒の隆家にして、之尤は最も地押経済の革に通せしを以てなり、その讃に来り寛永五年滞濃池 崩警呑池︵獅田︶を、十享年には紳内地︵用︶姦し、十嬰警部田ハ用︶晶く、讃民永く共意に路を、瀬丸・ 二脊・小甲立満・大寺・岩瀬などの諸池大小凡九十飴池皆その築く廃、叉稲田木田の新田もその開きし慶なり、十 六年伊勢に慮る、勢人之を紳とし祭るといふ。﹂とあり。兎に角古くから港漑用溜他項迫は各時代を通じて漸次に 行はれ、殊に穂川一柳期に於ても盛に営まれたことが察せられる。 次に築造の歴史を見ると、技術の懇達してゐない時代のこと1て、築造は想像以外の困難であつたらしいので 其の例は諸方に見ることが出来る、例へぼ満濃他の如きも大賢年間に築造して以釆百十飴年を経て弘仁九年増防 破壊し︵柚娼一軍年に腋大草があり、莞疲弊し荒ら等滑笠野苦警朝廷に奏閲しー十毒に遠地使が 釆て修築にかゝつたが成功しなかつ身ので、遂に嘗地の出身で徳望の高かった弘法大師に願い漸︿完成した、大 師は故郷の事でもあ6特に京那か島って願民㌢懐励し、途に完成するこ主が出来庭あ右︵別冊駅鮎摘翫輔︶世 香川糎の港漑池1ミ韓て ︵三三五︶ 主義ヽ ︵三三六︶ 三六 第五巷 第画携 人は北ハの禎をた1へて後耽此他の建設者の如く考へるやうになつた、然し比後も屡々堤防破壊の厄に過ふたが長 岡矩間の堤防大破後は容易・に援興することが川氷ず、其問蜜に六百年の長年月と倦へてゐる、下つて銑駒侯領主 となるに及んで、奉行西島八兵衛の努力により、漸く筏興することが出水たが、以後も侮蔑慶かの修築を婁し、 修復には却々の努力を要した、寡永二年には榎非村の庄屋長谷川喜平次の努力丁本樋を石製に改造をしたが、尚 充分でないので、安政元年には叉堤防決済し、後十数年間戯池とかり、年々水車の被審患家り人民疲弊困窮に隋 った、金成守村の和泉虎太郎の如きは、屡京紋の問忙往来して築地の計誕む立て、禁裡に内朗する等熱心回復に 努力し、又樺井村の長谷川佐太郎も困難を犯して之が復興に努力し、結果明治二年常時の倉敷願にて修築に従番 すること1なり、高松港執政松崎離右衛門の賓査によ・り、岩壁を貫穿して樋管を造ること1なり、明治二重六Ⅵ 三臥を以て漸く完成、現今の大池を再現するに至ったのであり、創設以氷今日に至る問営々祖先の努力の如何に 大であつたかを想像せしめるのである。之は故大きな減浪池だけの例であるが、北ハの他の池に於ても之が維持に は多大の努力を資し、犠牲を沸って来たもので、例へば 彿生山の西南にある平地の如きも、簡堤が長いだけに墟造は却々の困難を極めたらしく∵迭忙は蓼元於ける女 手¥l− 帥の御甘げにより\頭に巌髭戴いて通った女性を人柱とト、漸く出来上ったと侍愛て居る、今池の中央に﹁基の 苗石塔が立ってゐるの唸、其の記念に建てたものだと云ひ、叉弼を趨てゝ之奉祀り膝紳祀と柄した、此赦は今Ⅶ 併生山法然寺の丘陵の上にあつたのを、枚平家で墓埜饉螢の際之を向ひ山に移された、今町の南端にある膝大明
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紳寧等あ逐稀して牒︵謂鯛脚︶叉警村附禁腎虚村︶の如き守碓高燥で水の便がないので、笛木畑 作鞄をなしてゐたのが、正徳の頃久保太郎右衛門が液漑設備の必婁を感じ、奔克の結果高暦藩大久保主計の厚意 を得て途に綾川上流上田村から疏水を法り村民の便利を輿へたが、大久保家⋮家は之がため家族を鋳げて悲境に 陥ったので村民揉其の徳を忍び、叉大久保氏の徳を讃して附近の鞍山〓頂上に記念のホを建て大久保大横現と刻し 叉大はも地中に弼を建て1大久保敢と稲した、此祀は約十こてPq年前北條池畔なる八坂紳耐境内に移され、村人 の崇窄を受けて居り、久保太郎右街門も、村の共同克地中に厚く葬られ、高批な碑石を建て碑の衣面に繹這玄秀 英両側に正徳東学西犬秋七月廿有二月卒、碑の先例に久保太郎右衛門、右側に 萱原0井手堀創之時庄屋助役而功誹因干柄然右牒掠畠中建之 と刻tて香華を絶たすI、叉明治l週年七月廿六日には更に村の有志相はかつて、墓前に石製花筒を献じ、伯近く大 正九年には形憐の地を選んで院大なる砕石を建て、左の如き碑文を刻し共功徳を後世に倖ふることに⊥てゐる。 久保君彰徳碑 欝姓久保稲太郎お衛〓、蕾州綾歌郡菅原人、以延窯凶年二月甘凶日生、正徳元年七月甘±日清 投、享年三十六、法器日玄秀、嚢致仁妙柴、子太郎兵衛教念、女山ハ桝妙秀、相尋而逝其森組英、欝篤遥咋専 心済民、両地乏潅漑二且漕早年欺不萱民禦磯餓君常襲催﹂冗線十年途総意綾川上流上田和正末菅原大口茂池聞 流水二番、其桂三選十八町也、上奮薄騰普請番目不許乃致之、藩主松平按盤公忽梶吏議紫獄、其重砲女拉子 不郎遠路日参金成羅掴、以橘繹共窺碩英誌、村民亦英訳狗父、諸藩老大久保尭計陳疏邸捕吏啓浜机下藩老諒 菅川臨の澱漑他に試て ︵三三七︶ 三七
ハ享l天︶ 亭八 備考撃∵:第四疲 乏乃連滞公魚罪允、諦嘗寧水四年餌月十﹁日也、砦感激撤詰絹家督固公益、其月由工群数月竣エ、閣郷欺苗 従時欧後経二百飴年村民恩君不諸、骨相君群馬水神、僻勤石彰徳、茶話飴乃件村人娼躇其輔堀切高馬山脈蓮 亘手数星間峰璃唖複綾川路之而流、新墜一支流日露木、是馬流水根源、水行数町展壁阻膵水匝而不通頭領水 尭サ懸岸数十尺之上孝二英長者廿三間短者八問大小渓谷十方、粥堀切者探空ハ十尺、抵鞍樹麓今琴議、共 ︼至菅原陶、二重瀧官、聾大小池況五十五、以便潅漑得良問二百五十飴町歩霊、背瀞択璃不毛今攣背紋、督 者民泣磯餞今骨髄腹家謄給、近日其耕地整理組合成案、村民有田者室川百廿九名之多乃詮軍事銀以日、相土 疏水、池漑有方、問郷抑菩、長浴飴慶、鞍山表徳、綾川流芳。 欠航九年庚申秋九月上浣 薬帥院住職小田新兵撰 建碑員長横山信盈、瀧官河田昔〓、陶柑細谷義卒、山下池、池田杉攻 叉三選部の方でも豊潰には合甲新発街門と云ふ人がゐた、大に水利をはかり、其の他或は陶瓜田をつくり、軍港 を築き、或は菅野川を連絡する運河を法るなどの計憲をたつる等村民開塗のため奔走した、築港の如き鳩海岸を 隔る約山男の虚に殆石をなし築堤を試みた、今其の退跡は俗に∵文字と稀して残って屠り、女帝友衛門の建造し た池は、長谷叉池ぬ新泰池と稲し今何役立ってゐる、かく郷村のため大に努力したのであつたが、漁民と相容れ す途に欠断となり、子孫伸預に移り、薪尤衛門の形見としては唯叫何の位牌が革掲町花柄村の合田和太郎家に侍 ってゐる︵硝欝︶のみと莞てしまつた。 ヽ
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以上は唯二三の例を奉げたるに過ぎないけれど牒か1る例は定めし諸方忙あつたことであらうから麒内の池溜
をこれだけに迫り上げるには、経済上の関係許でなく、英鹿には吾人の想像し及ぼざる努力と傾聴とが沸はれて
ゐることを察せねばならぬのである。
嚇内の滑池は先づか1る関係で出来たもので、現今此港漑によつて蕃はれてゐる田地を観ると︵香川願統計第 三編︵鞘闊ニ︶真の如くで、両横に勤し如何なる副食に常るかは、勿締其の地形の朋態によつて異るものであるから、単なる比較だけでは賓
隋を窺ふことは困難であるが、然し又大勢は之によつて熟することが出釆るもので第也十六回大日本帝園統計鑑
によると、香川願の田地は香川解紙面蕃に渕し二叫.由由%を示し、佐賀願の二仙〆と殆ど同様で、日本閣内では大 滑池絶間箱二千三首十三町歩で、 ヽ 大 木 菅 感 仲 多 三 菅川椒の擢漑他に筑て ノ 田 歌 豊 郡 郡 郡 郡 摩 郡 池両横 町歩 、七二、 m、八七 二、二一 二、〇七 て六五 二、三五 約三馬九千六首班十五町歩の田地を黍ふてゐることになり、此田地は願内の 田 南 澤 町歩 五一三七ゆ八. 六三三三・こ 五初○入●こ 八七一入〇四 五〇九n〇八 七八六囲●こ 田二封スヤ池ノ面積ノ比率 一●四% 六●○% 叩●0% 二〇三% 三〇U% 二〇九知 ︵三三九︶ 三九舞茸懲 格調兢 ︵三川○︶ 四〇 阪府の二〓Uヤて%、闊岡の二二互ハ%に次ぎ、佐賀と並んで第二山位を占めてゐる−百本国の評府賑串では田地とし ての利用の牽達してわることを察せしめる、而此別他に並んで畑地を加へて考へると、一般に香川解の耕地は将 来に於て梅どの頒に利用し得る見込があるであらうか、大正十五年版の耕地に閲す晶警党︵鰻翻約言讐と 各府願の耕地殊張見込耐積は大阪僚並に香川願が故少く、大阪府は曹九十五町歩、香川懸は行三十九町歩に過ぎ ないことになつてゐる、是によれば我閣中で開墾力の放少ないめは近畿地方で、之より遠かるに従ひ漸次多くな り、香川顆の如きは其の飴力が殆どないこと堅不してゐるのである、かく殆ど開墾〃飴鞄がないまでに開けたの は、重く吾々組先のよく土地を利川した結英で、殊に潜岐は其の地印的紺怯上乾性な土地であるから、飴程の努 力がなけれぼ是だけの利用は旧来ないのであるが、組先のたゆまぬ努力で溜池を建設L、出来るだけの土地を利 用した馬めで、此努力に封して望口人は大に感謝しなければならぬ慶である、従て努力の結英は貫に米の産額が 多いと云ふ詐でなく、之が叉住民に影頗豪由へて、本願として人口の多い土地たらしめ、人口の多い割合には豊 かで、二戸雷りにすると花段位にしか懲らん、朗謂五段だ姓でありながら、翻他に比Lて豊かなゆったりと暮し て行ける朋以である。 然れば港漑の方法は従来の考では、現在の設備で充分であると申さねぼならぬのであるが、技術の進歩せる蘭 今から鶴ると、此設備は決して進歩した設備と考へることは出来ない、云はゞ思ひ忙く各所に小溜水を迫って 溌漑してゐる趣く姑息なやり方としか考へられない。従つて偶其の問に土地の不経済が少なからす生じてゐるこ
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とを想像せしめる、若し不要の池を堅難した既に味、故殺の水田を得ることになるのではなからうか、小西刺氏 も其の著瀬戸内経論に於て早くから之を論じ、左の如く云ふてゐる。︵琴一掴∴︶ ﹁之を土地鷹番の上から親祭する仙例として、讃岐に於ける数千の溜他の面税を概算すれば、諾し二千町歩を下 らぬで掛らう、著し此等の溜池を撃じて、水甲とする時は、其償格が凶行萬園、米の年取が囲萬石、蓼が義石 匿達し、優に≡筒の農民を責ひ得る勘定、天然の風光に富める内海の沿岸には別段人エの溜池用って莫敵を添へ る隊の必要もない筈だから、′詰り用水を取る外、極めて鮮少の淡水魚顛を漁る焉め、濁用の土地を塞がせてある 澤、ゆゑに他わ方法に依って、造憾乳きまでに潅漑の用を斯じ得ることゝなれば、これ数段して桝宅地とするが よい、漆林を繁茂させて用水の澗繹を謀る外、堀貫井戸を穿ち、揚水機を備へるなどは、その土地の状態に應じ て取冷すペきもの、それから肥沃な平地に梯はれる溜池を、癖燐な山間に移すのも亦結構、些細なことの様だけ れど内海方面の如き個所に在っては央張り識者の軸考に伯すろ事柄であらうっ﹂ と申して、折角組免の多大の努力難苦の結果洪来上つた設備を、今更攣吏することば情の忍びざる鮎もあるが 時代の優麗は巳むを得ないことであるから、出氷るだけ改艮して現代化して行くことは、反て租先の努力に封し て酬ゆる所以ともなるものである。各地とも従来の池の改築に詮念なく、或ば嵩上げをなして貯水意思豊富なら しめ、叉鱒閻水装鹿新改良して、従来の開の代りに綾械を刷咽るものも多くなつてゐる、北條池.の如きは近時改 築新式の配水械を使用するやうになつて居り︵醐㈹脛針︶警慧裳畑地であつ宗、大正三年頃疲静薪以て排 香川醇の維聯池に就て ︵三四一︶ 四一
︵三四二︶ 四二