都 長 安 楽 遊 原 詩 考
i l
嫌遊原の
のイメージ
i i
i ( 1 )
の蔀長安︒そこに住む百寓を超える人々の搭野の一行難
治
i
i
撒市議原は︑唐詩の世界にあっても︑李商憾の﹁祭遊票﹂持をはじめとする一連の作品が︑たちまち脳裡に患いうかぶ
ほど︑部長安をい
n
歌枕がであったと評してよ( 耳
日 呂
田 坊
の 東
長安域内で最も地勢が高く︑
半分﹀ハ通善坊﹀・芙蓉閑ハ患者の離宮南苑﹀などととも
に︑慶大な由江治ハ周七襲︑占地三十明﹀を中心とする景勝地
匿を形成していた︒このため︑捨選康を詠んだ詩のなかに
ハ
2
﹀は︑しばしば曲江池も歌われている︒長安域内東南部一の
地である︒張設の詩には︑
震蔀長安幾灘原詩考(植木﹀
植
久 木
行
繁選形勝地
融市
選法
形勝
の地
郊宮
を安
一一
む
と歌われている
q z
一見
二十
日
風学
ba
律一
一一
月三
百︺
援
母( 3
)
訟 村 昂 の 調 査 に よ れ ば
︑ の な か に は
︑
遊園・業遊離を詩題とした作品が︑すべて二十市
であるという︒しかし︑筆者の調査によれば︑一一十八家
四首を教え︑詩中に出現する場合を加えると︑さらに五家
念場ナことができる︒なかでも中晩寝期の白岩易と杜牧がそ
れぞれ二言︑李蒔騒が四首も作っていることは︑やはち注目ハ
S
﹀き現象である母事調躍は若いころ︑おぽ
春 夢 凱 れ て 記 え ず 登 る こ に 重 な る
撲選
原・
春原登己重
2
中蹴詩文論叢
第六集
箪玄門
と歌
うハ
﹁撲
選議
﹂)
︒ま
滋原
春望
﹂⁝
詩の
なか
で︑
繁遊原上壁一繁遊頭上より謹めば 霊 童 帝 城 春 墓 み 童 く す 帝 城 の 春 始 め 地 な る を 費 ゆ
の不遇な詩人︑誤得仁は︑
業選
震の
名は
︑
が一
蹄爵
二一
年ハ
前五
する
Q諜欝b
巻入
︑宣
帝紀
﹀︒
巻一むよれば︑艶麗な紅い花をつける野総樹ハパラ
科﹀が自生し︑汗車思の静物︑首稽におおわれた美
しい離宮であった︒首時の蔀長安の︑東中間郊外十数
キロの地で為る︒嘗時すでに︑議伐の曲江池の龍身
となる顎もあって︑いわば︑水と織にあふれた郊外の
であった9
柴遊苑の地は︑じつは秦代︑主審苑や{
ころである︒二註皇帝胡亥ハ前二一
OJ 前 一 か な ら ぬ こ の 離 宮 の な か
続長安按復原図 ( r 中器会代建費史』より〉
窟に酔はざる人無かるべし
雲 開 い て 嬰 関 麗 し く 椀 映 九 消 滅 拐 校
︑ じ て 九 衛 新 た な り 愛 詑 頻 来 往 此 を 愛 し て 頻 り
wh来往す
多 関 逐 此 身 多 関 批 の 身 を 一 巡 ふ と 歌 い
︑ に 罰 す る 深 い 愛 着 心 を 表 白 し た
︒
際無
一小
醇入
(2)
宣帝公約八七J前七百年在位﹀
た柴遊苑に出来
れたとは
︑ほ
埋葬された︒
けんしゅ
﹃史記﹄秦始皇本紀には︑﹁斡首ハ農民の椴﹀を以て二 世 を 杜 南 の 苑 中 に 葬 る
﹂ と あ る
︒
宜春宮と宣春苑拭︑漢怜そのまま議承された︒武帝会則一
四 一
J鶴
八七
年在
住﹀
は︑
一日
山対
安域
外の
長楊
官の
ほと
りで
狩瀕
し
た麗途︑円札中神宮にたちょった︒﹀このとき︑著名な賦家︑司罵招如は︑﹁秦の一一世を京しむ賦﹂を作り︑好臣を信じて関家
あ け が
安 滅 亡 さ せ た 皇 帝 の
︑
﹁ 蕪 れ 穣 れ た る い 境 情 嘆 い た と い う
︒ し か し
︑ こ の 竪 史 的 事 質 は
︑ 後 設 の ち の 意 識
に辻︑ほとんどのぼらなかった︒
可罵相如の賦のなかには︑嘗時の
ている
c
武 帝 の 一 行 た 長 い 援 を 脅 な り あ う 宮 設 の
︑ し て そ び ゆ る な か へ と 入 り ゆ く
︒
な が な か す し ん し
由江の陪き苅を前にして︑参議として高く抵くつらなる移南
山の山なみを眺めやる
i i
i c
句中の﹁昌江﹂には︑発来︑回
・普通名詞のニ読があるが︑いずにしろ︑その湖が
た昌江池
時(
札談
結之
長阪
令
臨詣江之限州特J 金入曾官之瑳蛾
3
震審
員安
搬用
潜原
詩考
ハ撞
木﹀
援子が戎のごと
り 身
で あ る こ と
繁 遊 苑 の 議 替 は
︑ の 宜 春 宮 と 立 春 苑 を 新 た
なおしたものであろうハ韓大畠﹃薙録﹄餐六︑宜春苑の
諜参照﹀︒のちには︑この慶大な繁議苑の一角に︑宜帝を記る
欝遊廟が作られた︒
掛川遊と誌︑どんな意味で︑あろうか︒﹃漢調口出品帝紀によれ
ば︑宜替は即位する読む若き日︑蔀の南郊外︑社懸ハ京兆府﹀
や事蘇ハ抗風府﹀の︑あたりを好み︑おおむね下社広神在してい
たという︒下社とは︑宜春苑のあった地名であるQ
難録
い巻
六﹀むつまり︑濃いのこ字は︑宣帝吉身が自由気ままに繁 弘
︑ 遊 ん 々 へ の な つ か し み を こ め た 表 現 の で あ ろ う
︒ こ 顔 部 吉 注 笠 寄 紀
﹀ に
︑ 繁
洛の反﹂とするの
ところで︑北宋
ハ謹
岳撰
)に
は︑
来
一に
引く
宣帝
・
0
菌葬
ハ地
﹀鶏
名︒
とおる︒これによれば︑の奨遊廟は︑その稜墓﹁社設﹂
(柴山浩閣の夏期﹀の所在地譲毘﹂にちなむ名稽とお問︒し
かしおそらく︑この柴遊里なる名桝白韓も︑宣帝の
い地名なので為ろう
c
い出をこめ 立爵於由江油北︑4
中関詩文論叢
第 六 集
( 3 )
業遊苑や柴遊廟のあった高京││'柴遊療は︑需産時代︑蔀
域の位置の嬰遷にともない︑そり主要な罷分は︑郊外から域
内へと入ることになった︒この結果︑業遊震は︑慈に住む人
々にとって︑遠出する必要のない格好の域内の行築地となっ
たわ
けで
ある
︒
ここで︑唐代の繋遊療の且︿盤的な位震を確認しておきた
い
︒ 披 九 齢 の
﹁ 柴 遊 療 に に は
︑ 城陽 場所をより'限定した文獄としては︑の沈既済撰
博﹂(七八一年昨﹀をあげることができる︒玄宗の天質九載
(七
五
O
﹀夏六月のこととして︑﹁鄭子︑に乗りて東し︑昇
一午
︿坊
﹀の
北門
を入
る:
::
まり︑葉遊園は︑昇平坊内
った︒この場合の柴遊閣とは︑
た地を指そう︒沈既慣は︑﹃叫
あり︑その記述は信愚性が高い︒
また唐の韓楊撰﹃天文要集
h
Q太
平御
覧﹄
巻一
九七
所主
﹀の
逸
文に
は︑
宜情
立廟
曲︑
江之
北︑
世 ︒
名目
柴遊
属︑
とある︒つ
ハ坊
内の
東半
合﹀
にあ
おそらく漢代の撲選廟のあっ
た史撃者でも
自今昇卒坊内基監︑是
とあり︑の柴遊廟の跡が昇平坊内に残存することを指携す る
︒ こ の 貼 は
︑ 宜 帝 紀 の 顔 諦 古 迂 も 同 じ で あ る
︒ 北 の 宋 敏 求 撰 巷 八
︑ 昇 一 千 坊 に は
︑
﹁ 東 北 鶴
︑ 謹 繁 と あ る
︒ 跡 は
︑ 岩 代 な お 窺
・ 存 し て い た わ り 為
︑ で あ っ た ら し
︿ 機
し
、 ず こ
O め
そ の
(4)
の︿吋五議い惑
の柴遊崩は︑亦た繁議苑と名づけ︑
くLとある
c
業遊
臨腕
・
かろ
うか
︒
長安域内には︑いわゆる龍首原の支服が東西方向にふハ繰の
高稜ハ護地﹀を作り出し︑東南部の地勢が最も高く︑西北にす
すむにつれて︑地勢は下降していた︒この六僚の整地は︑六
関・ムハ壊などと韓議され︑需の大興域ハ2唐の長安城﹀の設計
え零
宇文
慢は
︑こ
の地
勢を
易の
乾の
蜂ハ
一一
一一
一一
﹀に
て て 都 城 プ ラ ン し た と い う
の原
詑な
ど)
︒
代︑全く同意として漫罵されたらしい︒しかし︑
北隅の繁遊廟
H
繁遊間H
柴遊擦という比定は︑かなりおおまか な も の で あ っ た ら し い
︒ 常 識 的 に い っ て も
︑ 一 般 に
H鈷
u
よりもH酷Nを構
成す
る︒
故地を中較としつつ︑
の
5
出総務長安築港原詩考ハ様木)
ζ 罵 . i E 株 f 唐長安域総体布局的地理特設 j より〉
士 心
﹄ 巻
によれ
いわゆる上九の華強
ら域内へと入り︑ りの第六
盤の
ぺ啓
夏門
﹂ 浮 間
︿ 大 難 塔
﹀ 付 近 で 東 北 へ 漢 の 宣膏遊廓のある地ハ昇平坊東北際﹀を通って︑長
安域東壁のぺ延興門﹂外一へと神びていた︒上九の番
地は︑六関のなかで最も高く︑標高は昭一一一
OJ
四盟
O
メ!
ト立
川後
にお
よぶ
︒そ
して
繁選
一舗
の故
一地
は︑
のH
鰻頭
u
式の突出した形態をもち︑四五O
メてい
允︒
六間関
ートレ
PFこ の 上 九 に 辻
︑ ( 新 昌 坊 の 東
南隅 γ蓮華尼寺ハ昇掻坊西北鵠)などが建立され︑議
る
中題詩文議議
第六集
蓋地であったため︑避暑や説撃にすぐれていたcちなみに︑大経塔が怒かな能壌に富むのは︑もちろん︑その
高藤構造に基づくであろうが︑じつはその場所が上九の喜一地
であったことも決して忘れてはなるまい︒
北宋の張謹の﹁遊城南記﹂(一
O
八六
年作
﹀の
原注
には
︑
業遊之南︑由江之北︑新品坊有青龍寺︒北枕高探︑前封
南山︑震設挑之絶勝︒
とあるむこれによれば︑張麓は︑昇卒坊の東北隣の新昌坊の
東南部に泣置する名制青龍寺を︑明らかに繁遊原の南斜出に
位寵したと考えていたらしい︒要する位︑繁遊原とは︑犠府議
廟のあった昇卒坊の東北鵠を中⁝核としつつも︑その興識の山
︿ 新 ω
井道・昇平・宣卒﹀の一部を農く含めたらしい︒今日︑?
中閣の墜史地理研究家の武結論や曹醸琴なども︑
解で
ある
︒
(5)
こう し の 柴 選 原 の 解 樟 と 関 連 し て 興 味 潔 い の は
︑
吋一
長安
志﹄
者八
︑界
都
1場東北鵠の山細川遊顛﹂の原注である︒
高原上︑議社命有︒
後賜寧・申・蚊・
見
四警寛敵︒京城之内︑僻説指掌9
の一部は︑元十年︿七ニニ)の作とされる章逮撲
同の議文のなかにも見えるGおそらく︑その大争 記﹄の記述な畿承したものであろう
Q
則夫武后の 朝の長安年間(七O
一i
七O
四﹀︑娘の太平公主がに亭を築いて遊賞した︒開元元年ハ七二号︑謀反の
罪を悶われた太卒公主が玄宗によって露刑されると︑その亭
は玄宗の兄弟たち︑寧主憲・申王馬・絞王範・欝王業に興え
られたという︒公主の謀反事件のとき︑鼓王範や酔王業は︑
その平定に協力している︒公主の繁遊原上空苧(おそらく多く
の亭
喜一
や議
離を
もっ
康大
な間
林地
・別
迭さ
を兄
弟た
ちに
賜興
した
の辻︑論功行賞の意味あいがあってのことに違いない︒
大卒公主と柴遊東との関係は︑
主俸のなかにも︑
其地
︑
一ニ
︑諸
積公
蛤︑主(太平公主﹀作観浩柴遊京︑
寧・申・岐・欝四王︒都人裁被験其地︒
とある︒額や池をもっ繁遊原上の別業ハ宴選に供される傾向の
強い築関﹀の賜輿が恩賞や鱗柔︿玄宗は克の驚や換をさしおいて
即位した﹀の意味をもっとすれば︑武伯総の指摘するごとく︑
その悶林の範寵は︑コ定是線大的﹂で嘉ったと考えるのが
既致
︑ 賜
自然
で為
ろう
︒
公主の融市選東上のに比定しうるかも知れない作品群が
現存する︒﹃文苑英華﹄ヱ七六に牧める李幡・蘇嫡・沈恰
期・宋之関・十字父・意立・李霞・部昇らの﹁奉和︽‑初春事
太平公主捕荘︾雁制﹂詩が︑それである(このうちニ設は︑李
嬢龍撰とされる﹃唐詩選﹄所牧﹀むこの八詣り詩は︑太卒公主が
皇帝の鵠として樺勢をふるった中京ハ七
O
五J七O
九年
程位
﹀期
( お ﹀
の締結部詩で島ることは︑詩中の表現から見て疑いない︒
そしてこの公主の南薮を︑前引の﹁繁遊原の麗池﹂と見
なす設は︑すでに江戸時代の戸崎允関ハ一七二回J
一 八
O
大 ﹀ の足霊山砦詩選h巻五や久採天鑓吋躍詩選薪樺﹄(一九
O
入年
︑
博文館)などに見える︒今日通行する龍野直移吋唐詩選恥ハ岩
波文
惑
γ
目・諮問誠﹃憲詩選恥(明治謹院)・中島敏夫ほか句麗持選﹄下ハ署浦河枇﹀などは︑高木正一の﹁且思想宮廷詰と七一百鐸詩の務成﹂とともに︑戸崎免明らの設を議承し︑長
安潜郊の梁選原の別荘を指すと考えている
c
つまり︑わが盟の﹃庸詩選﹄の注樺書類は︑おおむね業遊原の基本義ハ長安
域内
の昇
平坊
の東
北隅
を中
心と
する
関連
地域
﹀に
言及
せず
︑
い 会
﹄
長安の商郊にあったと論じてお
り︑明らかに基本義への言及が依如している︒ な
号︑
という以
7
勝郵長安撒府議原詩考ハ楠木)
ここで︑﹁︽一初春︑太平公主の南廷に和し奉る︑臆
鋭い詩の内務を少し見てみよう︒蘇頚の詩の言句には︑﹁・ギ
第 の 山 内 覇 市 こ る
﹂ と あ る
︒ ま た 宋 之 問 の 言 聯 に い
︾ フ ︑
務 下
﹀
﹁青門いとは︑長安域の東門ハ清の
しろを廉く指す︒﹁素漣﹂とは︑本の色り素き濯水を指し長安
城の東郊約五キロの地を北流する︒宋之関詩の第六匂に︑
﹁酒は高山に近くして一一部杯を作す﹂とあるのによれば︑公主
の設けた南荘内の宴震は︑長安の南郊につらなる柊南山に近
くQ古唐詩合解﹄参照﹀︑それでいわゆる関山の書杯へと︑
想が自黙に展開するわけである︒
こ の よ う く る と
︑ 窪 集 の 舞 塞 の は
︑ 長 安 の 東南郊外に位置していたと考えられよう
c
長安の東郊外︑鑑水や撞水のほとりは農代︑皇族や貴族たちの遊賞・安集に供
される池林・園事が多く集中していたところであり︑この意
味でも南荘の比定場所にふさわしい(諮饗吋麿詩の風土返
公主の南廷を︑長安郊外の繁遊票上に比定する設が︑
付近の謹史地理に暗い詑揮者たちが陥った共通
8
中 園 詩 文 論 叢 第六集
あると︑一蹴することはできないようでるる︒公主の﹁観抱一
が死後︑玄宗の四人の兄弟に賜輿された事費を思いおこす
と︑衣の二つの記事が注自されてくる︒
侍臣日下︑諜子春明門外寧王憲之露連︒
ハ﹃
奮法
書﹄
巻入
︑玄
宗本
記︑
関一
克十
八年
の篠
)
林亭留選︑平於都邑︒
巷一
O
六︑
李林
帯惇
﹀
じつ
ものではなかろうか出
均 ︑ ︑
Q
守 中 ん
l LW
か く し て
︑ に 誌
︑ 寺 長 安 域 内 の 東 北 隅 周 議
の地を指す基本義のほかに︑参域外にひろが康識の用法と
が同時に怠ったことが考えられよう︒それは︑①と②が︑@
ともに漢代の祭遊苑の設地であること︑@いわゆる上九の喜一 地の延長続上にあること︑の一こ
の意
味で
は︑
一冗
の畝
仰天
際
巻四
に︑
とに
もよ
る︒
繁遊園︑在京城清龍坊︒有宜帝柴遊廟基社告
の奇矯な記述も︑@⑥のニつの捺件を満たしている9文中の
﹁清龍坊﹂が青龍坊の誤靴であるとすれば︑その地は慈恵寺
のある菅昌坊の東南にあたり︑慈患寺へと通じる曲江誌の支
流が
通っ
てい
たハ
曲池
坊の
北)
︒
(6 )
の名 に
﹁ 梁 遊 都
﹂ の
︑ 従 来 の え 定 場 所 に つ い
て鰯れておきたい︒郷とは︑懸以下の行政車生をいい︑五百
戸 な 一 郷
︑ 一 誌 も と づ く 名 稽 で あ る
︒ っ て い る ︒
と
の名
は︑
のな
かに
︑﹁
灘州
属 す る 郷 で あ る 以 上
︑ の 域 外 付 近 の 地 で あ る は ず で あ る
︒ 当 の 患 い
︿ 一 人
春二に牧める﹁唐趨域圏﹂で辻︑その買在地を︑
郊︑南壁の中央の明徳門の地から長安城東端に至る郊外に位 け︑﹁案ずるに︑郷は嘗に域南に附近すベL
︒繋選療を
りいとするむこの設はおそらく︑一疋の事好文
の 西 南
︑ 明 徳 門 よ り 聞 の 地
﹀ を つ つ︑高年鰐に所属する黙を加味して比定したらしい
s
その比定場所は︑武伯倫の﹁署長安郊区高年・長安懸懇皇位置一不意
闘いのそれとほぼ同じで島る︒
の
み仇
︑
外ハ
長安
城の
挺興
門か
ら鵠
江誌
の東
に護
る城
外の
地﹀
公主の繁遊原の観池が東海郊外にあったらしいことを考える
と︑愛宕設のほうがよりよく患われる︒しかし︑二設はいず
れもよ遠の@@の二諜件を満たしており︑現在のところ︑最
終的な決め手はなさそうである申
( 7 )
さてここで︑昇卒坊の東北隅周議の地を指す繁遊原の︑
代における賓態やイメiジを探ってみたい︒安史の箆がおこ る 以 前 の 唐 前 半 期
︑ 業 遊 壊 は の 上 巳 箆 や 九 月 九 日 の
タ
臨
m
都長安
繁譲
渡詩
考ハ
拙樹
木﹀
重 陽 節 に な る と
︑ 盛 大 な い ぶ ち を み せ た
︒ し か
は︑住民の少記い︑野草や樹木の生い茂る荒れ地であり︑と
くに基地の多い壌撞であった︒昇卒坊の東北隅には︑漢の突
ったハ前述﹀︒沈既演の﹁在氏博﹂によれば︑
いた器窓は︑この付近に易今︑
ハ荒
れた
畑﹀
のみ
ま ︑
︿野
草の
であったという︒このことを鄭子に告げた胡人の
﹁蹟嬉(くずれた土塀﹀・棄地ハあき地﹀にして第宅なし﹂とあ
る︒天費九載ハ七五
O
﹀の
話で
ある
︒
こうした撲選期付近の獣況は︑一良憲回の﹁繁遊原に設りて
討を欝ふい詩のなかにも歌われている︒宜帝の錐ついえ
去り︑その儀祉のみ残る︑と歌ったのも︑
昔 簿 業 遊 苑 昔 は 柴 遊 の 苑 震 る も 今 震 猿 兎 国 今 は 狐 兎 の 冨 震 り
ぼ く と 今 つ ど
朝には牧竪ハ牧童﹀の集ふを見
の
(虫
剤﹀
の少
予︑
天費
時に
詑え
い
すれば︑﹁笹氏博﹂の背景となった時期とほぼ重なりあうこ
とになり︑﹁今は狐や兎の罷免り﹂という措湾も︑﹁江弘氏惇﹂
10
中関詩文論叢
第六集
比訪
ハ界
選坊
﹀南
街︑
絶無
人住
︒
とあ
るむ
そして昇道場の北隣の新昌坊にあった名刺龍寺の 襲感寺﹂は︑惰の大輿域ハ
H
唐の長安城﹀諮りとき︑新都建設議定地内にあった古い墳墓一を揺り︑返して域外に移し︑そ
れを洪養するため認建立されたものである︒すでに述べたご
とく︑議感寺のある場所は柴濯原の南斜面にあたる高燥の蓋
地であり︑漠代以来︑都郊外の有名な埋葬地帯であった︒中
舗では︑墳墓は古来︑都邑の域外にいとなむのを原則とし
た9大興域趨替のさい︑できる摂り墳墓を掘り返して郊外へ
移したが︑この東寵部は高燥の諜一地で岩生に遁さなかったこ
ともあって︑墳慕がある程度残存してもかまわなかったので
あろう
a
ち な み に
︑ の 春 明 門 や 祇 興 門 の 外 に も
︑
境基が貼在してい
このようにみてくると︑撒ポ遊窮の遺跡が残存した昇平場東
北隅周溝の地は︑墳墓の多い荒原であったむ狐は吉来︑墳墓
の あ る 地 り と さ れ て お り
︑ こ の 意 味 で
︑
の地こそ狐の出授にふさわしい︒昇一や誌の四隣にあた
坊にも︑性悪な狐が住んでいた9
初・
震の
詩人
窓際
隣(
六一
ニ
0
9 ・
2
六八
O?
﹀の﹁七日登奨遊故慕いの存在も注意されてよ こうした柴遊京の寅態は︑の高い都のなかで︑貧苦に
あえぐ人々の庭生地となれソうる可能性を示している︒省
て 科 事 を め ざ し た
︑ も と 僧 侶 張 籍 の
詩の
なか
で︑
簸 落 荒 涼 儲 僕 観 鑑 落 荒 涼 と し て 童 僕 飢 え 業 選 原 上 住 多 時 撲 選 康 上 住 む こ と 多 時
と歌われるごとく︑ほかならぬ操選東のほとりに在んでい
た
c
買島託︑新品坊の青龍寺に神悲したこともあり︑この繁遊原付近とは深い縁があった︒買島の機遊吋
韓的な位謹については︑事嘉吉﹁貰島年議
ハ
M H
﹀年・長安蘇郷盟考﹂・曹爾琴﹁説庶民安的主同ずで広提出されている︒このうち︑李と樹岡山
門外の鵠首郊に比定したが︑現在のところ︑
坊﹂設が最もすぐれるG
武伯
論も
撤回
爾琴
も︑
いな
いら
しく
︑
の住まいの
・武伯論﹁唐寓
の が
︑
の﹁昇道
︿組問﹀のそれを
のそれとほぼ同じ
であるが︑坊名の比定にまでは及んでいないG
李嘉
一一
一口
の設
によ
れば
︑巽
島は
長藤
一一
一年
ハ八
一一
と き
︑ 界 選 坊 に 住 ん だ と い う
︒ ま た 在 賢 震 の 瓦 よ れ
ば︑李の設をさらに設展させて︑長捷年同ハ八二一︑
J e ‑
‑人
一一
四﹀
から
開成
元年
ハ八
一一
二ハ
)に
いた
る十
数年
間︑
み つ づ け た と す る
︒ は
︑
なる前の
に て
︑ 完 て 抗 合 に 寄 す い
くともある時期︑精舎に住んだらしい︒
界選坊主
門里﹀の生まいはまた︑賓自のなかなどに︑m n
﹁野是﹂﹁原騒い﹁原東岩﹂などと呼ばれるものである
Q
友人 わ 挑 合 は
︑
﹁ 買 島 浪 仙 に 響 す
﹂ 詩 の な か で
︑ 貧 窮 ぶ り
を︑衣のごとく散っている︒
次巾宇脅施
読菜常告拾
半ば信施し
読 菜
は
し 嘗て に
寝 自 席時ら翠
F
拾?
こι.b
し て
呈入度り頒簸呈人度
敗 壁 第 燈 入 殻 れ し 護
な ん み や こ
また問じ詩室中には︑﹁居る所は卒ね荒野︑寧ぞ京邑に在る
る
1 1
蹴絹都銭安柴準原詩考︿横木﹀
に保ん﹂とも詠ずる︒の中にあちながら︑世界的都城の繁
華な雰閤気とは全く無縁の定涼たる繁遊原の地氏︑ほそぼそ
寂 実 た り の 下
た
議 山 砥 関 譲 荷 山 は 抵 だ 離 を 矯 つ る の み と歌う9荒原とは︑業選原令指す︒柴遊原のほとりからは︑
南の終薦出の景色がまじかに見えたのである︒同じ詩のなか
い た ま す ま す
に は
︑
﹁ 輯 昏 鼓 到 ら ず
︑ 関 臥 議
= 相 宜 し
﹂ と も あ る
︒ 鼓
とは︑城門・坊門の開閉を知らせる携紋・暮鼓を指す︒
こうした紫遊原の賓態は︑そこが月を眺める名所と意識さ
れたことも関連しよう母中患の楊葱には︑﹁柴遊園にて月を
控一一む﹂詩がある︒また﹃績玄怪鋒h
程一
⁝一
︑張
庚の
楳に
は︑
元
和十一一年ハ八一七﹀一月八日︑張庚が昇選勝の講話で月を眺
め て い る と
︑ に 入 り
︑
のなかにも︑費島の
﹁ 歩 月 逐 襲
︑ 不 必 柴 滋 原 告 可 以 築 突 い
といい︑酒笹を開いた話をのせる︒月影をあびつつ探勝する
場合︑坊内であれば問題ないが︑也の坊にもわたるときに
は︑いわゆる夜行の禁に鰐れてしまう︒しかし︑ここは人の
1 2
中 穣 詩 文 論 叢 第 六 集
あ ま い い う こ と も あ っ て
︑ 京 兆 世 の 管 理 の ゆ るやかな外の地﹂であったふれい︒閣外の地と辻︑一較
に長安城南よりの四坊分を麗く指すが︑この昇選務付近もそ
れ て い た も の て よ い
︒ 挑 合 の
詩の
題外の坊に ︑
鐸時踏見開
月間を踏む
の匂が思いおこされる︒
住居
の搭
官仰
を見
てみ
よう
︒﹁
張籍
・ 主建に酬ゆ﹂詩には︑﹁読林荒宅金肢の前いとある︒古
教とは︑秦漢以来の歴史をもっ︑ものふりた基地
i
撚遊療のことであろう︒歌津の詩の﹁故丘﹂にあたる(﹁殺紫遊療
bo
また賀島の﹁銭鹿子に寄す﹂詩には︑
由 江 春 水 溝 曲 江 春 水 満 ち
おれ
神
北 岸 掩 索 開 北 岸 柴 関 掩 ふ 紙 有 曾 都 舎 抵 だ 僧 の 舎 を 隣 す る 有 り
おお
全 無 物 挟 山 全 く 物 の 山 を 映 ふ 無 し
とも歌われる︒費島の詩には︑時おり菌江地が歌われる︒こ
れは︑昇選坊の西北棋にある龍華尼寺の寓にまで︑曲江池の
一支流が流れてきていたことと関連しよう︒﹁隣人として磐 しかいないいという句も注目される︒
買島の詩は︑孟郊の詩とともに︑﹁
玉文﹂﹀と呼ばれる︑ある種の盟かさに設けた沈んだひびきを
もっ︒その詩試は︑買島の生来の筑紫︑脅話としての前半生
の経躍︑貧苦にあえぐ日常生活などとも礎接に関連するであ
ろうが︑柴選原のほとりに︑図︑五十代にわたる十年間以上
の問︑生んだこと︑および︑織対潜原吋近を一暗示する持が多く
現存するというニウの事費は︑葉遊原の存在が︑痩費詩人と
しての質島の詩践を形成する要国の一つとして指摘できるよ
うに思われる9
繁華なピの都のなかと誌思われない︑すさ ま じ き 熊 遊 療 の 環 境 が
︑ 詩 風 に 聾 し て
︑ 濃 密 な 陰 影 を ているようである
Q
(蘇
賦﹁
祭梯
子
もつよれ︑近くの春明門・延興門付近や曲江池周議には︑酒壌が多い合主憲物の詩(﹁酒嬢符﹂﹀にみえる高さ百尺の酒柚
だ ん ほ う け っ か い せ ん
は︑詩中の﹁丹鳳閥ハ大明宮の正門丹鳳門)を廻態し︑繁遊苑
を班援す﹂の句によれば︑﹁柴遊苑の北の斜面の笠苧坊謹ち
の訪に立地していた﹂(妹尾達彦﹁清代長安の盛
鋭 ﹂ i h
I﹀
で あ
ろう︒とすれば︑﹃類総長安志﹄餐七にみえる︑
娼脂襲︑新‑説日︑在出品平坊寵︒関一沌・天費問︑皆妓舘信
女所岩G商在山詩日︑少陵野若者聾突︑不到規脂甥翠設︒