一 隠居大名の幕末・維新 ― 延岡藩内藤政義の『日記』から ―
― The last days of the Tokugawa Shogunate and the Restoration of retired daimyo ―
幕 末 期 の 一 連 の 政 治 史 に お い て、 薩 摩・ 長 州・ 土 佐・ 越
前 各 藩 な ど 雄 藩 が、 重 要 な 役 割 を 果 た し た こ と は 言 う ま で
も な い が、 藩 全 体 の 八 割 を 占 め た 九 万 石 以 下 の 小 藩 は い か
に し て 幕 末 期 を 乗 り 切 り、 維 新 を 迎 え た の だ ろ う か。 本 稿
で は、 日 向 延 岡 藩 七 代 藩 主 で あ っ た 内 藤 政 義 が 記 し た 自 筆
『 日 記 』 か ら、 元 治 ~ 慶 応 期 に 譜 代 小 藩 で あ る 延 岡 藩 の 動 向
を考察した。
政 義 の 交 際 は、 実 家 の 井 伊 家、 養 子 政 挙 の 実 家 太 田 家、
そ れ に 趣 味 を 通 じ て 交 流 の あ っ た 水 戸 徳 川 家 な ど 広 範 囲 に
わ た る。 元 治 元 年 七 月 の 禁 門 の 変 以 降、 二 度 に 及 ぶ 長 州 征
討 に 政 挙 が 出 陣 し て い る が、 江 戸 に い る 隠 居 政 義 は 高 島 流
炮 術 や 銃 槍 調 練 に 励 む 一 方、 政 局 と は か け 離 れ た 世 界 に 居
た。 政 義 は 梅・ 菖 蒲・ 桜 草・ 菊 観 賞 に 頻 繁 に 遠 出 し、 ま た
水 戸 慶 篤 と 品 種 交 換 や 屋 敷 の 造 園 に 勤 し ん だ。 在 所 か ら の
為 替 銀 が 届 か ず 藩 財 政 は 破 綻 に 瀕 し て お り、 慶 応 三 年 末、 薩 摩 藩 邸 の 焼 き 討 ち を 契 機 に 政 義 は 在 所 延 岡 へ の 移 住 を 決
断 す る。 六 本 木 屋 敷 に 養 母 充 真 院 を 残 し た ま ま、 翌 慶 応 四
年 四 月、 政 義 は 奥 女 中 や 主 な 家 臣 家 族 と も ど も 品 川 を 出 船
し 延 岡 へ 向 か っ た。 幕 末 期 の 譜 代 小 藩 の 動 向 を 窺 う こ と が
できる。 大 賀 郁 夫
キーワード
隠居大名 養子 禁門の変 長州征討 大政奉還 目 次
はじめに
一 内藤政義と『日記』
(一) 『日記』の登場人物 (二) 『日記』の特徴 二 『日記』にみる幕末・維新 元治元年 慶応元年 慶応二年 慶応三年 慶応四年
おわりに
二
はじめに
嘉永六(一八五三)年六月三日のペリー来航以降、日本の緊急
の課題は全国にわたる政治統合の強化、 すなわち権力基盤の拡大 ・
集中の複合であった。幕府は親藩・外様の雄藩諸侯を政策決定の
構成員に加えるなど、その政策決定機構は大きく変化す る
)(
(
。幕府
専裁の決定方式から、 それまで国政から排除されていた徳川一門 ・
外様の有力大名たち(雄藩)に国政参画への道を開いたのである。
特に桜田門外の変以降、国政運営は雄藩や朝廷の意見を取り入れ
つつ行われるようになる。
幕末期の一連の政治史において、薩摩藩や長州藩、福井藩、土
佐藩などの外様・家門大藩(雄藩)の役割が大きいことは言うま
でもない。しかし、九万石以下の小藩は大名全体の八割以上を占
める。これらの小藩はいかにして幕末期を乗り切り、維新を迎え
た の で あ ろ う か。 か つ て 遠 山 茂 樹 氏 は、 「 明 治 維 新 に お け る 藩 の
役割」と題して、幕末政局で小藩の役割を論じ、小藩の特徴とし
て 次 の 点 を 指 摘 し て い る。 ま ず 第 一 に 小 藩 に は 譜 代 大 名 が 多 く、
このなかから幕府要職に就くものが出たが、藩財政には重い負担
となったこと。第二に譜代大名領は頻繁に変更し、転封費用も膨
大であり財政難に拍車をかけたこと。第三に要職在任中は任地に
詰め切るため、藩政は家老任せで藩政の不安も増大したこと。第
四に領地は幕領・旗本領・藩領・寺社領が錯綜して飛地も多かっ
た こ と。 第 五 に 百 姓 一 揆 の 鎮 圧 が 困 難 で あ っ た こ と な ど で あ る。 このため小藩が対内外的にいかにして戦争回避に腐心するという 消極姑息の態度を取らざるをえず、そのことが攘夷運動・討幕運 動の指導者を制約することになったとしてい る
( (
(
。小藩は地域的な
動向の流れのなかでしか動きえなかったのであ る
( (
(
。
こうした小藩の幕末期の動向を明らかにすることは、幕末政治
史の全体像を描く上で重要であり、より多くの事例研究が求めら
れている。そこで本稿では、日向延岡藩七代藩主内藤政義の自筆
日 記( 以 下、 『 日 記 』 と 記 す ) に 記 さ れ た、 文 久 四 年 か ら 慶 応 四
年の記事をもとに、幕末期の隠居大名の行動や交際などを通して、
小藩の動向を明らかにしていきたい。なお( )内は記された月
日を示す。
一 内藤政義と『日記』
(一)『日記』の登場人物
日 向 延 岡 藩 七 代 藩 主 内 藤 政 義 は、 文 政 三( 一 八 二 〇 ) 年 三 月、
近江彦根藩主井伊直中の十五男として彦根で誕生した。異母兄に
幕末の大老井伊直弼がいる。幼名は銓之介、のち直恭と名乗った。
異母姉充姫が延岡藩六代藩主内藤政順に嫁していた関係から、天
保五年八月、直恭は兄直弼とともに他の大名家への養子候補とし
て江戸へ呼ばれた。政順の養子に決まったのは聡明な二十歳の直
弼ではなく、十五歳の弟直恭であっ た
( (
(
。名を政義と改めた直恭は、
八月二十一日に政順が死去したため正式に養子となり、十月十三
日に延岡藩七万石七代藩主の座につい た
)((
。直弼・直恭二人の養子
三 候 補 の う ち の う ち 直 恭 が 選 ば
れ た 理 由 に つ い て、 神 崎 直 美
氏 は「 文 政 三 年( 一 八 二 〇 )
三 月 三 日 生 ま れ で 十 五 歳 と い
う 年 齢 が、 政 順 と 充 姫 の 間 に
生 ま れ な が ら も わ ず か 三 日 で
早 世 し た 子 供 と ほ ぼ 同 年( 直
恭 が 七 ケ 月 後 の 生 ま れ ) で あ
り、 充 姫 に と っ て 亡 き 子 供 が
生 き て い た な ら ば と 思 わ れ る
年 齢 で あ っ た こ と に よ る の で
は な か ろ う か
)(
(
。 」 と 推 測 し て
い る。 こ の と き 直 弼 が 政 順 の
養 子 に な っ て い れ ば 大 老 井 伊
直 弼 は 誕 生 せ ず、 違 勅 問 題 や
安 政 大 獄、 桜 田 門 外 の 変 な ど
も な か っ た の で あ り、 幕 末 史
は き わ め て 大 き く 変 わ っ て い
たであろう。
政 義 に は 六 男・ 一 一 女 が
あ っ た が 大 部 分 が 早 世 し た た
め
)((
、 万 延 元( 一 八 六 〇 ) 年 に
遠 江 掛 川 藩 主 太 田 資 始 の 六 男
寛 次 郎( の ち 政 挙 ) を 養 子 と した。文久二(一八六二)年十月二十四日、政義は隠居して政挙 が延岡藩八代藩主となった。 政義四十二歳、 政挙はまだ十歳であっ
た。政挙の実父太田資始は、天保五(一八三四)年四月~同十二
年六月、 安政五 (一八五八) 年六月~翌七年七月、 文久三 (一八六三)
年 四 月 ~ 同 年 五 月 と、 三 度 も 老 中 を 務 め た 人 物 で
)((
、 『 日 記 』 に は
隠居した政義の相談役として『日記』に頻繁に登場する。
ここで『日記』に登場する政義の家族と親族をみておこう。ま
ず家族は、太田家からの養継嗣の政挙、異母姉で先代政順の正室、
系 図 上 は 養 母 に あ た る 充 真 院、 政 義 の 五 女 義 姫( の ち 光 と 改 名 ) 、
純 三 郎、 鶴 姫。 な お 純 三 郎 は 元 治 元 年 五 月 八 日( 年 齢 不 詳 ) 、 光
姫は慶応三年七月二十八日に十八歳、鶴姫は同年八月二十五日に
わずか八カ月でいずれも死去している。
親族は大きく三グループに分けられる。一つは政義の実家井伊
家 で、 当 主 の 直 憲 を は じ め 故 人 で あ る 実 父 の 直 中( 観 徳 院 ) ・ 異
母 兄 直 弼( 宗 観 院 ) 、 直 弼 の 正 妻 貞 鏡 院、 直 中 の 次 女 で 越 後 高 田
藩主榊原政養未亡人の貞智(知)院たちである。二つは内藤一族
である。大名としての内藤一族は、本家筋の延岡藩をはじめ別家
として越後村上藩と、分家の信濃高遠・同岩村田・三河挙母・陸
奥 湯 長 谷 各 藩 の 六 家 が あ っ た。 当 該 期 の 藩 主 は、 越 後 村 上 藩 が
内 藤 信 思、 信 濃 高 遠 藩 が 同 頼 直、 三 河 挙 母 藩 が 同 金 一 郎( 文 成 ) 、
陸奥湯長谷藩が同政養、信濃岩田村藩が同正誠である。また延岡
藩三代政韶の女で伊勢久居藩主藤堂高 柹 未亡人の倍寿院などの名
が見える。三つめは藩主の姻族である。養嗣子政挙の実家である
太田家や、実父資始の実家である近江宮川藩堀田家がある。この
四
ほか園芸愛好家として趣味を共有する水戸藩徳川慶篤も、蘭や万
年青などの珍種交換などで数多くの場面でその名を見る。
と こ ろ で、 延 岡 藩 の 江 戸 屋 敷 は、 虎 ノ 門 に 上 屋 敷 一 万 五 一 五
坪 余、 六 本 木 に 下( 中 ) 屋 敷 九 三 六 一 坪 余、 中 渋 谷 村 の 抱 屋 敷
一万四〇〇五坪余であっ た
)(
(
。上屋敷は通常藩主やその家族が住み、
藩の江戸役所としての機能を持ち、下屋敷には隠居や嗣子が住ん
だ。しかしこの時期延岡藩では、政義が文久二(一八六二)年に
隠居したのちもそのまま上屋敷の「隠殿」に住んで政挙の後見を
しており、政挙は上屋敷の表、六本木屋敷には政義の養母である
充真院が住んでいた。充真院は江戸生まれ・育ちであったが、文
久三年以降に数度江戸~延岡間を往復している。すなわち文久三
年四月六日に江戸を発ち六月二日延岡着、元治二年三月十五日に
延岡を発ち五月二十七日江戸着、慶応四年閏四月二十日に江戸を
発ち六月一日延岡着、明治五年一月十四日延岡を発ち二月十五日
東京着であ る
)(1(
。万延元年末に延岡で暮らしていた孫娘義姫(江戸
到着後「光」と改名)が江戸へ転居して、充真院とともに六本木
屋敷に同居することになったのは、充真院にとって何よりの慰め
になったと思われ る
)(((
。ただし、於光は慶応三年七月二十八日に病
没 し て し ま う。 『 日 記 』 か ら は、 上 屋 敷 と 六 本 木 屋 敷 と の 盛 ん な
往来や贈答などが詳細に記されている。 (二)『日記』の特徴 現在、 政義の 『日記』 は文久四年正月 (二月二十日に元治と改元)
~明治二十一年十二月まで計二一冊が残されてい る
)(((
。形態は小橫
帳、一年一冊で頁数も三〇~一三二枚、平均約六七頁ほどである。
『 日 記 』 は、 政 義 の 私 的 な 行 動 を 記 し た 部 分 と、 幕 政・ 藩 政 に
関わる公的な部分から成っている。前者は自分が行動し指示した
ものであるが、後者はどのようなルートで情報を入手したのであ
ろうか。政義宛に来た書付はもちろん『日記』に記すが、内容に
よっては元治元年二月八日条「右御書付用部屋江為見候」や同月
九日条「備後守江七郎左衛門を以為見候」とあるように、表の御
用 部 屋 詰 衆 や 政 挙 に 書 付 を「 為 見 」 て い る。 ま た 元 治 元 年 三 月
二十一日条「神奈川固場所替之御沙汰ニ成り、昨夕くらやみ坂江
引移候由、平兵衛今夕退番致申聞候」など、重要事項は御用部屋
や関係役人から政義へ「申聞」すなわち報告されていたことがわ
か る。 慶 応 三 年 の 記 事 を 見 る と、 「 右 之 面 々 今 日 着 府、 月 番 申 聞
(
-(
(
) 」と月番から、また「使者ヲ以忌中見舞ニ到来、側役取
次(
-(
((
) 」 の よ う に 側 役 の 取 次 ぎ で 報 告 さ れ て い る。 「 京 都
小 太 郎 用 状 達、 内 蔵 進 為 見 候(
-(
(
) 」 や「 京 都 表 八 月
十五日之便達、 新左衛門 出方江左之通申参候由 (
-(
((
) 」 といっ
た表現も多く散見され、京都からの用状や御用部屋へ届いた便情
報も政義のもとに報告されていたことがわかる。
こうした情報を政義がすべて書き取ったわけではない。同三年
の 大 政 奉 還 に 関 す る 情 報 に つ い て は、 「 但、 内 二 通 ハ 先 日 公 儀
被仰出候御書付同様ニ付不認、 御用召之書付計認置(
(1- ((
) 」と、
五 必要なものだけを認めたと断っている。
政義への情報提供は制度化されていたと考えられ、慶応元年六 月二日条には、 一 留守居書役 高橋伊三郎
右之者江側役 兼而沙汰為致置候所、 近頃御用廻状隠殿江
差出不申候ニ付沙汰致候ニ付、高橋伊三郎義支配頭新右衛
門 差控伺出候ニ付、其義不及旨申談(
-(
(
)
とあり、留守居書役の高橋伊三郎が近頃隠殿(政義の居所)に御
用廻状を出さないことに対して、差控にすべきか伺書を出したと
ころ、それには及ばないとしている。また翌年七月二日条には、
一 大中寺役失之義ニ付閉門ニ成り候内、為知去月廿七日コロ
申参候よし
一 右 之 義 月 番 ヨ リ 側 役 江 申 達 有 候 処、 自 分 江 申 聞 之 義 英 馬
失 念 ニ 付、 差 控 伺 七 郎 左 衛 門 申 聞 候、 其 義 不 及 旨 申 付 候
(
-(
(
)
す な わ ち、 大 中 寺 が 役 を 失 し た こ と で 閉 門 に な っ た こ と が 去 月
二十七日に月番から側役へ伝えられていたが、側役の重富英馬が
失念して自分(政義)に伝えなかったことに対して、政義附の側
役赤星七郎左衛門が英馬の差控伺いをしたというものである。こ
のようにほとんどの情報が政義に集まる仕組みになっており、政
義はそのうち必要だと判断した情報を『日記』に写し取っていた
のである。
『 日 記 』 の も う 一 つ の 特 徴 は、 花 や 交 肴・ 魚、 ま た は 風 景 が 彩 色豊かに描かれた挿絵がいくつか見られる点である。絵師のよう な緻密さはないが、単純ではあるが微笑ましい図柄である。 政 義 の『 日 記 』 か ら、 江 戸 上 屋 敷 の 暮 ら し と 隠 居 大 名 の 交 際、
趣味の世界がはっきりと浮かび上がってくる。以下、元治元年か
ら慶応四年までの『日記』をもとに、年ごとに政義の生きた世界
を覗いてみることにする。
二 『日記』にみる幕末・維新
元治元年
文久四年元日、藩主政挙は年頭祝儀に登城し、政義は上屋敷表
居間に出て家臣の年頭礼を請けた。政挙・政義それぞれ使者を遣
わして祝儀の干鯛を取り交わし、城より帰宅した政挙が表より出
向 い て 表 居 間 で 酒 宴 と な っ た。 翌 日 は 六 本 木 屋 敷 の 御 宮( 稲 荷
社)から大中寺御霊屋へ参詣している。四日には政挙の実父太田
道醇へ年頭祝儀の使者を遣わし、七日には政挙とは別に将軍へ太
刀一腰・馬代銀一枚を献上している。二十七日には政挙が実家太
田家上屋敷のある駒込へ出向いたので本人も同道し、道醇たちと
語らっている。
二月七日、老中井上河内守(正直)から留守居が呼ばれ、年頭
祝儀の献上に対する御内書が渡された。
水戸慶篤との交流も盛んで、六日には鯉二本・鮒三枚が、十四
日には屋敷の庭で捕れた鴨一羽が贈られ、政義から礼の使者が遣
六
わされた。十九日の水戸藩中屋敷の火事に際しては、機嫌伺いと
して練り羊羹・薄皮団子・玉鮓各一重を贈っている。
政 義 と 慶 篤 の 交 流 が い つ の 頃 か ら 始 ま っ た か は 定 か で な い が、
贈 答 以 外 に も 藩 政 の か な り 細 部 に ま で「 心 付 」 が な さ れ て い る。
二月八日、水戸家用人から政義附用人の呼び出しがあり、赤星七
郎左衛門が出頭したところ、慶篤から次のような「厚御懇志之訳
ヲ以御心付」を記した書付が渡された。
覚 此節御家来共不残御在所江被差遣候由被致承知候、此御時勢
一通り者御尤ニ被存候得共、当節公辺之御模様柄一図ニ左様
之御場合ニ茂不被存候間、御家来共之儀者先々其侭被差置候
方可然、就而者御隠居右近殿事ハ御勝手次第之儀ニ者候得共、
態々御在所江御越ニ茂及申間敷被存候事(
-(
(
)
どの程度数の家臣を国元へ帰すのか、また政義自身も延岡へ移る
意 向 が 現 実 的 に あ っ た か は 不 明 で あ る が、 慶 篤 が 個 人 的 に 政 義
に「心付」を出していることは重要である。延岡藩政にかなり立
ち 入 っ た「 心 付 」 で あ る た め、 政 義 は 御 用 部 屋 へ も「 為 見 」 、 翌
日に政挙へも「為見」た。御用部屋で内談を重ね、また太田道醇
に も 相 談 し て、 「 江 戸 家 中 在 所 江 遣 候 事 ハ 当 家 ニ 而 儀 定 致 候 事 故、
今更法替ニも成兼」 (
-(
((
) と慶篤の 「心付」 には従えないこと、
政義自身も「備後守後見も致居、且者御当地ニ而武備之世話も致、
世勢之程も見度今暫御当地ニ住居致度」と、江戸に留まる決意を
示した。
政義や家臣たちの在所移住計画の背景には、江戸での生活費高 騰に加えて在所からの為替廻金の省略があったのであり、政義は 江戸住居中の隠居料一割贈引を提案せざるを得なかった。さらに 在所へ移住の家臣達には一五両を上限に身分に応じた手当を支給 す る と し て い る が、 政 義 か ら も 銀 五 〇 ~ 一 〇 〇 目 を 下 賜 す る と
し て い る(
-(
((
) 。 そ の ほ か 在 所 で の 親 類 縁 者 達 に よ る 世 話 や、
住居のための長屋の手配などを指示し、三月四日には実際に金沢
此面以下二八人に在所移住を命じている。
藩 財 政 窮 乏 は 極 致 に 達 し て お り、 四 月 六 日 に は 家 老 の 穂 鷹 内
蔵 進・ 中 老 大 嶋 味 膳 ら 七 人 が、 勝 手 難 渋 を 理 由 に 知 行 の 返 上 と
有 扶 持 相 当 の 手 当 を 申 し 出 た。 政 義 も 隠 居 料 の さ ら な る 一 割 増
引と、息子純三郎の生活費も隠居料で賄う旨を穂鷹たちに示した
(
-(
((
) 。 政 義 の 隠 居 料 は 毎 年 五 〇 〇 〇 石 で あ っ た が、 従 来 の
三 割 引 贈 に 加 え さ ら に 計 五 割 引 の 二 五 〇 〇 石 と な っ た(
-(
((
) 。
な お 純 三 郎 は 五 月 二 日 頃 か ら 煩 い、 八 日 に 死 去 し た(
-(
(
) 。
在所から五月十一日出の便が六月十日に着き、在所でも家老内藤
治部左衛門や中老同姓四郎兵衛ら八人が同様に知行返上と有扶持
を願出ている(
-(
(1
) 。 延岡藩江戸藩邸の藩士たちは江川太郎左衛門(英武)に西洋砲
術の調練稽古に通っており、同年の調練稽古始めには正月二十三
日に政義と藩士四九人が参加し、江川から赤飯・煮染めが振る舞
われている。三月九日には江川へ正式に入門を依頼しており、師
範代両人を屋敷に招き表居間で面会した。その際政義は、高嶋流
大 炮・ 銃 陣 の 秘 事 を 他 言 し な い こ と な ど を 認 め た 起 請 文 に 実 名・
据判に血判して渡しており、なみなみならない意気込みが感じら
七 れる。実際に政義は大炮術や銃陣稽古には大いに興味を示してお り、五月十九日には越中島で大炮打方があり、屋敷にある「仏蘭 西ホイスル筒」の試し打ちの見物に駆けつけている(
-(
((
) 。 七 月 二 十 三 日 に 次 の よ う な 記 事 が あ る。 「 去 十 九 日 京 都 表 ニ 而
松 平 大 膳 大 夫 家 来、 御 所 江 乱 入 致 炮 発 致 候 趣 」 、 長 州 勢 が 御 所 に
達して会津・桑名・薩摩藩兵と激戦になり、長州勢が敗北した所
謂 禁 門 の 変 で あ る。 政 義 は 飛 脚 屋 か ら の 情 報 と し て 書 き 留 め て
い る が、 「 諸 家 人 数 出 張 及 戦 争 候 旨、 火 事 も 有 り 大 騒 之 よ し 」 と、
京都がかなり緊迫した状況であったことがわかる。二十六日の記
事には長州藩中屋敷は出羽鶴岡藩兵が取り囲んでおり、六本木屋
敷のすぐ近いということもあり緊張がうかがえる。
天皇・将軍は朝敵長州藩を征伐するために西日本の二一藩に出
兵命じた。八月二十一日、御用により政挙が西丸に登城したとこ
ろ、長州征討の進発後備を命じられた。同時に、旗本先供に井伊
掃部頭・榊原式部大輔・境左衛門尉の三人、同左右備に松平伊賀
守・稲垣摂津守・内藤若狭守・牧野河内守の四人、同後備に政挙
とともに松平丹後守、跡に紀伊中納言・本多美濃守の計一一人が
命じられた。政挙が進発後備を拝命した旨を伝える便がただちに
在所へ遣わされた。
政 挙 の 進 発 に 触 発 さ れ た か 、 政 義 は 「 自 分 ニ も 兼 々 武 術 心 掛 、
且 西 洋 銃 練 ニ も 心 掛 致 候 」(
-(
(
) と の 自 負 を 持 っ て 、 政 挙 と
と も に 進 発 し た い 旨 を 御 用 部 屋 へ 伝 え た 。 驚 い た 家 老 穂 鷹 たち は
「 隠 居 之 事 ニ 付 見 合 候 様 」 と 諫 める が 政 義 の 決 心 は 変 わ ら ず 、 と
り あ え ず 駒 込 の 道 醇 に 相 談 し た 上 で 老 中 に 内 伺 い する こ と に し た (
-(
(
)。
道 醇 か ら ぜ ひ 老 中 ま で 内 伺 い す べ き だ と た き つ け ら れ た 政 義
は、側役を老中諏訪因幡守屋敷に派遣し、公用人へ「兼而武芸も
心掛居候ニ付、 右近将監ニも一同御供致度旨」を伝えた(
-(
(
) 。
九月十日、老中諏訪から留守居が呼ばれ出頭したところ、公用人
から次のような返答があった(
-(
(1
) 。 此程内伺之処因幡守様御忠節之段御感被成、何分御一己丈之
御挨拶難被成、御同列様江も御内談被成候処、是又御同様御
忠節之御志ハ如何ニも御感心被成候へ共、御役勤之隠居とも
違、一ト通之御隠居之儀ニ候ヘハ、外々差障之義も候間、表
向願書ニ而も差出候思召候ハヽ、差出無之方与御咄合被成候
旨被仰出候
政義が真剣に進発を望んでいたことが窺えるが、政義の武術や西
洋銃練がどれほどのものであったかは覚束ない。江川方で武術稽
古に励んでいるとはいえ政義に実戦経験はもちろん無く、戦に憧
れを抱いただけのようにも思われる。そこがまさに大名育ちとい
う所以であろう。
九 月 七 日 に 政 挙 進 発 の 供 を す る 家 臣 た ち が 命 じ ら れ、 同 月
二十四日には「京都不穏旨在所ニ而承知致」として、加藤助之丞
ら一一人と足軽一五人が出府してきた。政挙進発の供をする家臣
は政挙附だけで、政義附は不参加であるため手当金は下されない
が、政義は「気合ニも掛り候」として用人三松幾右衛門以下二三
人に金四三両三分を下賜している(
(1-
(
) 。
今回の進発には多分の出費が必要になるとして、政義は家老穂
八
鷹 か ら 鹿 島 清 左 衛 門 の 融 通 を 頼 ま れ た(
(1-
((
) 。 鹿 島 屋 手 代 の
豊太郎との商談がまとまり、政義名で鹿島屋から一〇〇〇両を借
り入れることになった(
(1- (1
) 。 政挙が進発後備を命じられて三月余り、在所からどれほどの藩
兵数が上坂したかは『日記』からは判然としないが、政挙が江戸
を出立した形跡はない。十二月十三日には用人渡辺平兵衛から幕
府に次のような伺書が提出された。
此度備後守儀、御進発之節御旗本御後備被仰付候ニ付、兼而
伺済之通追々大坂表江家来之者呼寄置候処、永々多人数逗留
為致候而者兼々不如意之勝手向御坐候処、無益之雑費而巳相
嵩、弥勝手向差支難渋仕候間、滞坂為致置候家来一ト先在所
表江差戻申度、尤御進発被仰出候得者、猶早々為呼登候様仕
度、此段厚御汲取御賢察之上、何卒御差図被成下候様各様迄
御内慮奉伺候様被申付候、以上 内藤備後守家来 十二月十三日
渡辺平兵衛(
((- ((
)
実 際 に は 十 一 月 十 四 日 に は 従 軍 諸 藩 に 討 ち 入 り 猶 予 が 達 せ ら れ、
十二月二十七日には解兵を令し た
)(((
。こうして第一次長州征討は戦
争にまでには至らなかったのである。
十 二 月 十 九 日、 江 戸 で は 禁 門 の 変 鎮 圧 の 功 と し て 幕 府 よ り 刀・
代金五〇枚を拝領する井伊掃部頭の名代として、政挙が西丸に登
城している。同月二十九日、政挙は何事もなかったかのように歳
暮祝儀に表御殿から政義を訪ね慰労している。
同 日 晩、 老 中 水 野 和 泉 守 よ り 留 守 居 が 呼 ば れ 出 頭 し た と こ ろ、
在所臼杵郡北方村慈眼寺看守胤庚を、早々に京都町奉行所へ送還 す る よ う 命 じ る 書 付 が 渡 さ れ た。 「 手 延 ニ 致 し 置 候 段 不 都 合 」 で
あると叱責する内容であり、留守居は「当家ニ而ハ胤庚一条手ぬ
け無之」と弁明している。明日は元日の祝儀があるため今夜にで
も 政 義・ 政 挙 の 差 控 伺 を 問 合 わ せ た と こ ろ、 「 不 及 差 控 」 と の 指
示があった。胤庚問題は次年に持ち越され、大坂からの便によれ
ば胤庚は二月一日に延岡から乗船し、三月二日に着坂したという
(
-(
((
) 。京都からの三月十九日出の便では、胤庚は同月十六日
に 京 都 町 奉 行 へ 引 渡 さ れ た こ と が 報 じ ら れ た(
-(
((
) 。 こ れ を
受けて四月二日、政挙は胤庚の件を老中水野和泉守へ届け出、胤
庚問題はようやく解決する。
慶応元年
前年に長州征討の進発旗本後備を命じられながらも本人は出陣
しなかった政挙は、例年通り元日には年頭祝儀に表御殿から中奥
へ出座し政義と盃を交わしている。午後には供揃いにて六本木御
宮・御供所へ、そのまま大中寺御霊屋へ参詣した。三日には道醇
へ年頭祝儀の使者を遣わし、翌四日には政義・政挙ともに駒込の
道醇邸を訪れている。七日には例年通り将軍へ太刀一腰・馬代銀
一枚を献上した。
同 月 二 十 九 日、 「 尚 徳 院 様 御 遣 金 」 と し て 二 年 分 五 〇 両 を 請 け
取 っ た(
-(
((
) 。 こ れ は 二 代 政 陽 の 婿 養 子 と な っ た 尾 張 徳 川 宗
勝の一一男政脩が、御手元金として毎年尾張藩から一〇〇両宛支
給 さ れ て い た も の で あ る
)(((
。 内 藤 家 は 尾 張 家 の「 御 縁 家 」 と し て、
二五両に減額されながらも御手元金が依然として支給されていた
九 ことがわかる。 二月になると政義の外出が多くなる。四日の初午には稲荷へ参 詣し鈴尾紅白を奉納し、十四日は政挙と八人の従者を伴って馬で 向島を訪れている。一行は木母寺で昼休み、梅屋敷へ立ち寄って 梅を愛で、浅草観音へ参詣し、同所の植木屋を廻っている。それ より上野本堂を訪ね筋違門より日本橋を通り帰途についた。 この年は在所から充真院と愛娘の於光が延岡から江戸へ上るこ とになっており、二人は三月十五日に延岡を出立した。気の早い 政義は三月二日に二人宛に直書と菓子二箱を町便で大坂へ送って いる。五月二十七日、充真院と於光が着府するので、政義は政挙 とともに落ち着き先の六本木屋敷で待受けた。二人は七ツ時に無 事六本木屋敷に着き、政義・政挙から交肴一折が進上され、女中 たちへも鮓や口取物・煮染などが振る舞われた。 二 人 が 着 府 す る 以 前 は、 政 義 が 六 本 木 屋 敷 に 行 き 来 す る の は、
同 屋 敷 内 に 鎮 座 す る 御 宮( 稲 荷 社 ) ・ 御 供 所 へ の 参 詣 か、 角 場 で
の鉄砲稽古などであったが、二人が暮らせすようになった五月末
以降、月に五回程宛の交流がなされている。両屋敷間では節句や
節季、歴代藩主の命日、暑中・寒中見舞いなどで頻繁に贈答のや
りとりがなされた。閏五月二十六日、政義は充真院より「姫路華
桃模様文庫」一・帯地一・ 「箱根草箒」二本・ 「三州椙原紙」一〇
状・ 半 切 紙 五 〇 〇 枚、 於 光 か ら は 肴 料 五 〇 〇 疋・ 「 桑 内 朱 塗 五 寸
五ツ組重」一箱を贈られた。政義はその返礼として、六月朔日に
充真院へ「キヤマン菓子入・紅白大平糖入」一箱・ 「かすていら」
一重、於光へは錦絵を贈っている。十二月朔日の六本木への寒中 見 舞 い で は、 充 真 院 へ「 ビ イ ド ロ 柱 掛 」 二・ 錦 絵 二 〇 枚・ 「 振 出
シ 菓 子・ 焼 物 ゆ ず の 形 チ 」 、 於 光 へ は 錦 絵 一 五 枚・ 「 振 出 シ 菓 子・
ヤキ物柿ノ形チ」 、 加えて土産に「大福菓子」一重を持参している。
歳暮として、政義から充真院へ紬縞一反・梅鉢一鉢と土産の鮓一
重、於光へ緋縮緬五尺五寸を、また奥女中長尾ら三人に金一〇〇
疋宛と、附家来たちに蕎麦代三〇〇疋を贈っている。その返礼に、
充真院からは八丈縞一反・紺鯛塩一尾、於光から砂糖一折が下さ
れ た(
((- ((
) 。 贈 答 品 と し て は 菓 子 や 鮓 な ど の 食 物 や、 紙 類・
錦絵、紬縞などの反物が一般的なようである。
充真院・於光との交流が政義の楽しみのひとつになっていたよ
う で あ る が、 『 日 記 』 に は も う 一 人 倍 寿 院 の 記 事 が 散 見 す る よ う
になる。彼女は四代政韶の三女で、伊勢久居藩主藤堂高 柹の 寡婦
であり、政義には系図上叔母に当たる。二月十六日、倍寿院が在
所 の 伊 勢 久 居 か ら 着 府 し た(
-(
((
) 。 充 真 院 た ち ほ ど 頻 繁 で は
な い が、 内 藤 家 の 一 族 と し て、 九 月 二 十 三 日 に は 厳 正 院( 政 樹 )
の百回忌法事には菓子を贈っており、十月二十三日には六本木屋
敷を来訪している。この時は政義も来訪する予定であったが、疝
痛のため着座が出来ないため断っている。代わりに倍寿院には時
候伺と菓子一折を、また充真院には用意していた交肴一籠を進上
した。倍寿院からは茶壺一箱と茶碗を下された。十一月二十四日
には寒中見舞いとして蜜柑一籠が、また翌月十九日には直書と羊
羹一折が届けられている。以後、慶応四年二月に倍寿院が久居へ
出立するまで交流が続く。
年が明けて正月十五日、御用番老中水野和泉守より留守居が呼
一〇
ばれ、正式に進発の中止と後備御免が言い渡された。十九日には
その旨が在所へ伝えられた。
二月十五日、長州征討では進発はなかったものの「別而辛労大
儀」として、穂鷹内蔵進に樽肴、長坂平左衛門に紋付小袖一・銀
子三枚、曽根富弥へ紋付肩衣一・銀子三枚、原小太郎へ銀子三枚
などが下賜されている。
第一次長州征討は長州藩三家老の切腹という形でひとまず決着
し、進発は中止され解兵された。しかし軍事行動としての征長は
終了しても、毛利家が何らかの処分がなされない限り、禁門の変
の罪科を償ったことにはならない。幕府にとって将軍の京坂地域
への進出はすでに必須の情勢であっ た
)(((
。四月十三日夕刻、老中松
平伯耆守より留守居が呼ばれ、次のような書付を渡された。
内藤備後守 方 今 長 防 之 形 勢 全 鎮 静 与 も 不 相 聞 候 ニ 付、 御 神 忌 御 法 会 済、
御進発も可被遊旨被仰出候、依之御旗本御後備被仰付候、紀
伊殿・松平丹後守儀も同様被仰付候間、可被得其意候
政 挙 は 再 度 旗 本 後 備 を 命 じ ら れ、 翌 日 藩 邸 で は「 祝 義 外 三 菜 吸
物 二 種 」 と 酒 が 振 る 舞 わ れ た(
-(
((
) 。 長 州 再 征 討 の 政 挙 の 供
と し て 家 老 内 藤 内 蔵 進 以 下 原 小 太 郎・ 曽 根 留 弥・ 池 内 膳 蔵・ 成
瀬 老 之 進・ 山 本 半 蔵・ 四 谷 行 蔵 ら が 任 命 さ れ(
-(
(1
) 、 四 月
二十七日長谷川許之進が大坂へ先登した。鹿島屋からは昨年同様
一 〇 〇 〇 両 が 調 達 さ れ た(
-(
((
) 。 五 月 四 日、 政 挙 は 御 用 召 の
ため登城し、進発の軍令を拝聴した。五月十六日、将軍家茂は江
戸を出発し、閏五月二十二日に入京参内した。 政 挙 は 閏 五 月 六 日 四 ツ 時 に 江 戸 を 発 っ た。 川 止 め に よ り 品 川・
川崎に長逗留を余儀なくされながら、政挙一行は将軍に遅れるこ
とほぼひと月後の六月二十八日に無事着坂し、次のような指示が
あった。
内藤備後守 御旗本御後備被仰付候而者御在坂中人数差出、昼夜厳重巡邏
致し、若怪敷者有之候ハヽ見掛次第無用捨召捕可申旨被仰出
候、尤場所之義ハ大目付御目付被談候、徳川玄周殿・松平丹
波守儀茂同様被仰付候間可被申合候(
-(
(
)
政挙たちが実際にどこを警衛したかは明らかではないが、将軍が
出陣していることもあり軍事行動が現実味を増した。
十月九日、九月二十八日付の大坂からの知らせがあった。九月
二十五日に政挙が大坂城に登城すると、老中松平伯耆守より次の
ような勅答の写を渡された(
(1-
(
) 。 防長処置之儀ニ付テ、兼而奏聞仕置候通条理順序ヲ遂、不審
之件々篤与糺問之上、夫々取置可仕奉存、毛利淡路守・吉川
監物大坂表江早々罷登候様申達候処、登坂延引仕候ニ付、自
然両人差支候者外末家並大膳家老共之内申合、当月廿七日迄
ニ 無 相 違 出 坂 候 様 重 而 申 達 候 得 共、 今 以 登 坂 之 模 様 モ 無 之、
此上弥違背ニ及候者最早寛宥之取計モ難仕候ニ付、無余儀旆
旗ヲ進、罪状相糺可申奉存候、尤兵機緩急其外篤ト熟考之上、
遺算無之様取置可仕奉存候、此段奏聞仕候
九月 御諱
幕 府 側 は 長 州 処 分 決 定 の た め、 交 渉 窓 口 と な っ て い た 毛 利 淡 路
一一 守(徳山領主)と吉川監物(岩国領主)を大坂に呼び出そうとし たが拒否され た
)(((
。九月二十一日、将軍家茂は長州再征の勅許を得、
老中阿部・松前の主唱で兵庫の先期開港を独断で承諾した。朝廷
が認めないことは想定内であり、その場合は家茂が将軍職を辞し
て江戸に帰ることが予定され た
)(((
。十月十日には同月五日付の大坂
からの便が江戸に届くが、この時の老中演達の書付内容―将軍辞
職など―は詳細に政義に知らされた。さらに幕府からは 「御譲職」
を 伝 え る 直 廻 状 が 到 来 し て い る(
(1-
(1
) 。 同 月 十 五 日 に は 条 約
勅 許 の 勅 諚 写 が 幕 府 よ り 直 廻 状 で 順 達 さ れ た(
(1-
((
) 。 こ の よ
うに大坂表での情報は逐一江戸の政義のもとに届けられていたが、
政義は直廻状の内容を含めて家中へ 「為見」 るよう指示し、 二十日 ・
二十一日に取次宅で 「為見」 ている (
(1-
((
) 。このあと同年の 『日
記』には大坂の記事は出てこない。
水戸慶篤との交流を示す記事は、元治元年の『日記』では火事
見舞いや暑中伺い・寒中見舞いなど贈答関係が主であるが、慶応
元年になると鉢物の贈答が増加する。閏五月十日、政義は慶篤よ
り「新渡実生」と「千本草露会」各一鉢が、また十九日には向暑
伺いとして「フテンス」三鉢・ 「麻葉サボテン」一鉢・ 「アワヲル
メルキ」 一包が贈られた。政義はその返礼として 「椰」 「鷺草」 「正
宗石菖」各一鉢を進上した。また同月二十三日にも慶篤から、 「舶
来丸大葉枝折」として「ソフケ朝顔」 「カシヤ」各一鉢、 「トイブ
ル メ ル ギ 」 「 ヲ フ ベ ル メ ル ギ 」 「 テ レ フ レ ー 子 」 各 一 包 を 贈 ら れ、
六月十日には政義から慶篤へ「松葉人参」と「花桐草」各一鉢が
贈られている。 九 月 十 八 日 に は 相 田 盛 阿 弥 が 慶 篤 の 使 者 と し て 参 上 し、 「 朝 鮮
槙 ノ 実 者 珍 敷 由 ニ 而 外 々 被 為 進 候 ニ 付、 御 慰 ニ も と 」 と の 書 付
とともに「朝鮮槙ノ実」二つを贈られ、盛阿弥には自慢の庭の菊
をみせて吸物肴三種・菓子飯ほか三種でもてなし、政義も酒を相
伴している。政義は庭の菊花壇作りに心血を注いでいるが、十一
月十日には菊苗二九品種を贈り、種名を詳細に記すとともにその
植付の絵図を色彩豊かに『日記』に描いている。
両家の贈答関係は鉢物に限らず、慶篤からは後楽園製茶碗(閏
-(
((
) や 青 目 籠( 大 鯛・ 鮃 ) (
-(
(
) 、 庭 の 池 で 捕 れ た 鴨
(
((- (
) 、 寒中見舞いの鯉(
((-
((
)などが、 政義からは杉折(紅
白 大 平 糖 ) (
-(
(
) や 鴨(
(1-
((
) が そ れ ぞ れ 進 上 さ れ て い る。
こうした贈答は件数から見れば六本木屋敷とのやり取りに次ぐも
のであり、政義と慶篤との親密な関係がうかがわれる。
慶応二年
元日の年頭祝儀は藩主政挙が出陣中で不在であった。政義は午
後から六本木御宮・御供所へ参詣し、屋敷で充真院・於光と祝儀
を交わした。充真院へは千代紙五〇枚・盃猪口一箱・干菓子一折、
於光へは錦絵七組・双六絵一枚などを贈っている。三日には太田
道醇へ年頭の使者を送り、四日には倍寿院へ千代紙五〇枚・盃直
三組一箱を直書とともに贈った。十日、松平安芸守屋敷から火が
出た。上屋敷の近くであったため、太田総次郎や内藤金一郎らか
ら近火見舞いとして香物・煮染・握飯などが届けられた。また同
様に大工留吉や炭屋萬次郎、それに屋敷に出入りしている講釈師
一二
の放牛舎桃林らも駆け付けている。桃林は祝いの席や於光のため
に呼ばれて講釈したようで、 『日記』に再三登場する。
この年は世相に背を向けるかのように、政義は花見・仮名作り
に精を出した。正月十三日、政義は染井あたりへ梅見物に出かけ
て、植木屋金蔵方で弁当を食べ梅見鉢を購入した。近辺の梅を愛
でながら巣鴨の植木屋巡りを楽しみ、小石川六角屋敷の梅を見物
して帰途についた。二月四日には寒気が緩んだので室より植木鉢
を出し、十二日には六本木屋敷に庭掛四人を引き連れて庭に草花
を植え付けている。十四日には六本木屋敷庭の花見に、重詰 ・ 酒 ・
弁当持参で上屋敷中奥女中たちと訪れ、十八日には六本木屋敷か
ら充真院と於光を招き、庭で花見を催した。昼膳のあと庭の築山
に敷物を敷いて座席を設け、 赤星七郎左衛門ら側役をはじ納戸役 ・
土蔵役・用達まで集めて酒を下した。充真院からは加賀薄絹羽織
地一反・盃洗焼物二、於光より菓子一折、また二人から交肴一折
が土産としてもたらされた。政義からは充真院へ八丈縞一反ほか、
於光へは茶碗五組一箱などが贈られたほか、長尾や幾多たち六本
木奥女中まで白羽二重半襟や鼻紙などが遣わされている。
二月二十二日、この日は向島へ花見に出かけ、浅草門から観音
へ参詣して植木屋にて小休し、昼休のあと舟にて花見をしながら
木 母 寺 へ 参 詣 し た。 当 日 は 曇 り の ち 晴 れ だ っ た よ う で、 「 右 ゆ へ
か花見の人すくなし」と感想を述べている。三月十七日に植木屋
金蔵が来て菊苗の植え付けをし、四月二日には菊花花壇の屋根作
りを庭掛四人で行っている。五月に入ると菊・梅の枝廻込を行い
(
-(
(
) 、七日には堀切へ柳橋から舟で行き、木母寺で昼食を取 木 屋 廻 り を 行 い、 気 に 入 っ た 鉢 物 を 購 入 し て い る( り、堀切の花菖蒲を観賞している。政義は小姓らを供に頻繁に植
-(
((
) 。 八
月十三日、政義は金蔵を供に団子坂植木屋六三郎方を訪れ、サボ
テン会を見物し 、十九日には向島花屋敷を訪ねた。
九月に入ると苗から精力を傾け世話をしてきた菊が盛りを迎え
る。十三日には上屋敷中奥と表内庭の菊花壇の屋根を取立て、金
蔵が出鉢の菊を作った。六本木屋敷へも菊・小菊各一鉢宛と菊枝
二 九 本 を、 ま た 水 戸 殿 へ も 中 菊 三 七 本 を 差 上 げ て い る。 庭 掛 四
人 へ 菊 の 手 入 れ で 骨 折 っ た 褒 美 と し て 金 二 朱 宛 を 与 え て 労 っ た
(
-(
((
) 。 こ の ほ か 巣 鴨 の 植 木 屋 へ 菊 見 物(
(1-
(
) 、 海 安 寺 へ
紅葉狩り(
(1-
((
)に出かけ、十二月十五日、金蔵ら三人に来年
のために菊苗の植え付けさせている。
延岡藩の財政は、延享四年の延岡入封以降も漸次悪化の途をた どり、幕末期には藩債が八〇万両に達し た
)(((
。元治元年には「勝手
向弥増難渋、在所表為替取組追々不都合ニ成、必至与難渋ニ成候
ニ 付、 御 当 地 廻 金 省 候 仕 法 ニ 成 候 ニ 付 」 、 す な わ ち 在 所 か ら の 廻
金 削 減 仕 法 に よ る 緊 縮 財 政 策 の た め、 政 義 の 隠 居 料 五 割 削 減 が
延 長 さ れ た(
-(
((
) 。 同 年 四 月、 勝 手 向 難 渋 を 理 由 に 家 老 穂 鷹
内蔵進ら七人が知行を返上して有扶持となっていた(
-(
(
)が、
難渋甚大のため慶応二年二月二十六日、知行にもどす方向で話が
進められる。政義は政挙にその旨を打診するとともに、自分の隠
居料を見込み相場から積り相場改めにするよう家老穂鷹へ直書を
送った。四月十四日、諸向へ次のような沙汰書が出された。
大殿様御隠居料御知行是迄五千石四成玄米弐千石、五割引ニ
一三 〆二千五百俵年々平均直段ヲ以代金ニ而月々被進候処、大殿 様思召も被為在候ニ付、 当年 是迄差上来候年繰之相場被差
止、積相場を以月々割合差上置、当年大坂平均相場相極候上、
来三月ニ至り相場違差上可申候、姿書左之通
但、来三月ニ至り相場違無之、返納出来候節者正・二月差
上候分差引、残十ケ月ニ割合可申事、尤去丑年之相場違大
殿様相場違い御廻金着金次第相納可申事
一高五千石 此米五千俵 内 弐千五百俵 五割御引方 弐拾四俵 召上御膳米御差引 但、閏月有之年ハ弐拾六俵 残弐千四百七拾六俵 此石九百九拾石四斗 代弐千四百七拾六両 積相場譬ヘハ 石弐壱百五拾目 内 銀両ニ百目 弐百六両壱分ツヽ 寅正月より 同十一月迄月々 弐百七両壱分
同十二月 但、閏月有之年者十三割之事
〆 右之通当年 御改被成候、 尤其年々積相場状ニ至り高下有之
節者、右相場伺之上相直可申候、右之外者都而去ル戌年被仰
出候通相心得可被申候、以上
政義の隠居料五〇〇〇石=五〇〇〇俵として、元治元年から五割
引 の 二 五 〇 〇 俵、 さ ら に 食 用 米 と し て 二 四 俵( 一 月 二 俵 宛 一 年
分 ) を 差 し 引 い た 二 四 七 六 俵 と な る。 こ の 積 相 場 は 一 俵( 〇 ・ 四
石 ) = 一 両 と し て 一 石 = 二 ・ 五 両 = 銀 二 五 〇 目 と 設 定 さ れ、 一 年
分の代金は二四七六両となり、正月~十一月は月二〇六両一分宛、
十二月は二〇七両一分(閏年は一三割)となり、米相場が高騰し
ても年繰りしない。勝手向難渋に苦しむ家臣たちを忖度した方法
となっている。なお慶応三年五月には、隠居料を三年間一割引増
計五割引とした年期が切れるが、引き続き三年間の引増としてい
る(
-(
(
) 。 八月七日、家中が困窮するなかで、さらなる知行削減が強行さ
れる。知行の五歩引増である。
一家中江五歩引増之沙汰ニ成、左之通 御勝手向御窮迫之中、御進発長々之御滞陣ニ而莫大之御入
費実ニ御危急差臨、御心外ニ思召候得共不被得止事、江戸
四割五歩、延岡六割五歩、当寅八月ヨリ来ル巳七月迄御引
増被仰出候、何れも武備専一之時ニ候得者、御手当等も可
被成下処、却而前段之次第可為難渋候得共、御時勢厚恐察
仕如何様ニも取続御奉公相励候様被思召候
一四 右之趣被仰出候間被得其意、御家中之面々江被申通、支配有
之面々者其支配方江も申渡候様可被達候
寅八月
長 引 く 滞 陣 に よ る 莫 大 な 費 用 を 賄 う た め に、 「 不 被 得 と 事 」 と し
て一律に五歩引増の江戸四割五歩、延岡六割五歩を、当年から巳
年まで四年間実施する旨を通達した。
さらに八月十二日には家中に対して次のような沙汰がなされた。
一家中江左之通沙汰ニ成ル 近来米穀其外諸色共格外高直ニ付、壱ケ月之御入用定例御下
金而巳ニ而者多分之御不足ニ候得者、増御下金無之候而者御
取続難出来、御在所表も兼々御窮迫之中、此度長防討手之方
江御繰替被蒙仰候処、長々御滞坂之末金穀御備御手薄之折柄、
被成方無之無拠大坂定役飯料米之内迄も御取欠、其外無理成
御配を以御乗船ハ相済候得共、御着芸後之御備も乏敷、延坂
之心痛他事無之、譬者此表江之御廻金当分月割、御常用之外
難出来候旨申越、左候而者御家中御扶持米御買上代計ニも足
り合兼、是迄ハ無理成暫借等を以御取続被成候得共、右暫借
近頃聊之御返済も無之、此節ニ至り候而者御融通差塞、必至
与御切迫ニ押至候、依之此後増御下金等有之御繰合相付候迄
ハ、御家中諸渡方一圓御延被成、焚出御賄ニも可被成処、左
候 而 者 面 々 難 渋 ニ も 可 及 候 間、 別 紙 之 通 当 分 御 渡 可 被 成 候、
諸色高直之処可為難渋候得共、深奉恐察如何様ニも取続、御
奉公大坂ニ相勤可申候、右之趣被相心得、御家中一統可申通
候 寅八月
諸色高騰のなかで藩からの下金も不足し、大坂定役飯料米まで
欠く有様であった。さらに芸州口へ着陣したものの備品も乏しく、
江戸への廻金は当分月割りで常用以外は用意できない。そうなれ
ば家中の扶持米買上だけでは足りず、従来は寸借りで凌いできた
が少しも返済しないため融通は難しい。増下金があるまで家中へ
の扶持渡方を延期し、有扶持制を導入するというものである。そ
の仕法を示そう。
覚 家内人数丈一日壱人江玄米四合ツヽ被下之定 但、当歳 人数江御加被成候事 一 御扶持方其月渡方後増減共日割ニ〆、増之分渡継、減候分
返納之事
一 御扶持切米取合三拾俵ニ不満面々、并三拾俵以上ニ而も家
内人数多ニ而正米相増、差引相成兼候者、其外金切米取之
面々渡方者、是迄之通被御据置候事
但、嫡子二三男弟被召出之者同居候ハヽ、三拾俵以下ニ
而も当主之人別江御加被成候、尤三拾俵ニ不満者ハ御切
米被下金之分是迄之通御渡被成候、其外御雇勤之者も同
断之事
( 中 略 ) 一江戸詰之面々上下正人数丈御渡被成候事 一 知 行 高 扶 持 代 銀 御 切 米 之 内 為 取 続、 百 五 拾 石 以 上 三 ケ 一、
百四拾石以下都而半渡位、御金配次第御取替御渡可被成事
一五 一 御扶持方御預之分ハ、両ニ一斗五升之定相場ニ〆、代銀御 取替御渡被成、追而渡方相付候節兼而御定之上、扶持相場 を以御渡被成候事 但、四合扶持之内残米有之上、扶持ニ致し候ハヽ、月々
御買上相場ニ而代銀御渡被成候事
右之通当八月渡 当分御取替被成下、 追而面々渡方相付候節、 御取替高不足之分差引御渡被成候事
家内人数だけ一日一人へ玄米四合宛配給するというもので、 扶持 ・
切米取三〇俵以下か、以上でも家内人数が多い場合はこれまでの
通 り と す る。 但 し、 嫡 子 や 二 三 男・ 弟 で 出 仕 し 同 居 し て い れ ば、
三〇俵以下でも当主人の人別に加える。江戸詰は正人数だけ渡す。
取 続 の た め 一 五 〇 石 以 上 は 三 分 一、 一 四 〇 石 以 下 は す べ て 半 渡 と
し、金配次第取替え渡しとする。扶持方預けの場合は金一両に米
一斗五升の定相場として代銀を渡す。追って渡方が行届くように
なれば定めた扶持相場で渡す。但し四合扶持のうち残り米があり、
扶持にした場合は月々の買上げ相場で代銀を渡す、というもので
ある。大坂滞陣や芸州口出陣による莫大な出費(人足三〇五人の
給銀一五二両二歩、漁船五三艘・水主二九七人分一五七両、ほか
計 六 〇 〇 両 三 歩 三 朱
)(((
) 、 特 に 家 中 へ の 知 行・ 扶 持 停 止 と 有 扶 持 制
の導入など、長州征討が延岡藩に与えた影響は藩の存立にかかわ
る甚大なものであった。
昨 年 閏 五 月 六 日 に 江 戸 を 発 ち、 六 月 二 十 八 日 に 着 坂 し て 以 来、
藩主政挙は大坂に滞陣していた。九月二十一日、将軍家茂は長州
再征の勅許を受け、翌慶応二年二月、幕府は毛利家に処分を伝達 するが受諾を拒否され、開戦が決定する。しかし従軍を命じられ た三二藩は徳川家と関係の深い大名家を除き、一様に消極的な態 度を取り、薩摩藩は出兵を拒否した。諸藩側は幕府が強引にみず からの構想を具体化しようとする態度に反発したのであ る
)(1(
。六月
七 日 に 幕 府 軍 艦 に よ る 周 防 大 島 へ の 砲 撃 で 始 ま っ た 戦 闘 は、 大
島 口・ 芸 州 口・ 石 州 口・ 小 倉 口 の 藩 境 四 方 面 で 行 わ れ た
)(((
。 六 月
二十八日、老中板倉伊賀守より延岡藩留守居が呼ばれ次のような
書付を渡された(
-(
(
) 。 内藤備後守 芸州口討手被仰付候間、応援之心得を以急速出張致し、松平
三河守・井伊掃部頭附属井伊兵部少輔・松平兵部大輔・松平
備前守・榊原式部大輔・脇坂淡路守可被申合候、尤為軍目付
井上猪三郎被差遣候、且又松平丹波守・牧野豊前守も今度同
様被仰付候間、得其意可被申合候
政 挙 は 幕 府 軍 と し て 芸 州 口 討 手 応 援 を 命 じ ら れ、 翌 二 十 九 日 に
登 城 し た 政 挙 は 金 三 五 〇 〇 両 を 拝 領 し た。 七 月 二 十 七 日 に は 陣
羽 織 を 拝 領 し(
-(
(
) 、 政 挙 は 翌 二 十 八 日 に 芸 州 口 へ 出 陣 し た
(
-(
(
) 。 七 月 二 十 日、 将 軍 家 茂 が 大 坂 城 中 に 病 死 し た(
-(
((
) 。 八
月 一 日 に 幕 府 軍 の 拠 点 で あ る 小 倉 城 が 落 城 し、 十 四 日、 慶 喜 は
朝 廷 に 休 戦 と 解 兵 の 許 可 を 願 い 出、 朝 廷 は 十 八 日 に 休 戦 を 命 じ
た。九月二日、幕府と長州藩のあいだで休戦協定が成立し た
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。九
月 二 十 六 日、 芸 州 表 よ り 来 便 が あ っ た。 同 所 で 老 中 水 野 出 羽 守
よ り 政 挙 に 対 し て、 「 御 人 数 当 所 江 御 残 置、 一 旦 御 上 坂 被 成、 其
一六
方 ニ 者 召 連 候 人 数 引 纏、 滞 芸 可 罷 在 候 」 と 一 部 の 解 兵 を 命 じ た
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) 。これに対して政挙は、在所が手薄なため家臣を帰国さ
せ た い 旨 願 出 た と こ ろ、 「 当 所 之 討 手 応 援 相 勤 候 兵 備 差 置 候 ハ ヽ、
其 餘 之 人 数 等 ハ 領 地 為 守 衛 差 戻 不 苦 候 」 と 許 可 さ れ た。 十 月
二十二日に芸州御手洗より同月一日出の便が届き、政挙が御手洗
で在所への暇を賜い、すぐに在所へ出船した旨の知らせが届いた。
政挙が陣払して在所へ帰ったことから、滞陣中は政義が代行して
い た 政 事 向 を 従 来 通 り 政 挙 が 行 う こ と に な っ た(
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) 。 十 一
月一日には芸州より成瀬老之進ら一六人が江戸へ戻った。なお政
挙が無事延岡へ着城した知らせが届き、政義は祝儀として家中一
統へ酒を遣わしたのは十二月八日のことである(
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) 。
慶応三年
同年の正月祝儀も昨年同様に政挙不在で執り行われた。六本木
屋 敷 へ の 訪 問 や 水 戸 慶 篤・ 太 田 道 醇 へ の 使 者、 倍 寿 院 へ の 直 書・
年 玉 の 遣 り 取 り な ど、 恒 例 の 行 事 が つ つ が な く 行 わ れ た。 但 し、
年末十二月二十五日に孝明天皇が崩御していたため普請・鳴物停
止が発せられ、年始御礼はなかった(
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) 。 こうした状況のなかでも、政義は正月早々に金蔵たちと桜草の
根 分 け を し た り(
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