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西学を研究する段階における王国維の伝統学術価値 観

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その他のタイトル Wang Guowei's Views on the Chinese Traditional Academic Values during the Study of Western Academic

著者 陳 琳琳

雑誌名 文化交渉 : 東アジア文化研究科院生論集 :

journal of the Graduate School of East Asian Cultures

巻 9

ページ 183‑202

発行年 2019‑11‑30

URL http://doi.org/10.32286/00023385

(2)

西学を研究する段階における王国維の伝統学術価値観

陳  琳  琳

Wang Guowei’s Views on the Chinese Traditional Academic Values during the Study of Western Academic

CHEN Linlin

Abstract

This paper focusses on revealing Wang Guowei’s attitude towards traditional Chinese scholarship in the past decade. It brings on a new viewpoint on the process and characteristics of Guowei’s research into Western philosophy and the reasons for abandoning it. It can inferred that Guowei introduced Western learning to the analogy of injecting ‘river water’ into the ‘ocean’ of traditional erudition in order to stimulate the ‘ocean waves’ to increase the capacity and the energy of the seawater. Even though Guowei is encouraging Western education at the level of academic independence, he believes that the purpose of Western scholarship is to stimulate and enrich Chinese traditional learning. Therefore this paper argues that even though Guowei studied Western philosophy, he promoted the integration of Chinese education with the Western one, he is actually based on the academic value of Chinese traditional culture.

Keywords:王国維;西洋哲学;中・西学術融合;伝統学術の価値に対する堅持

(3)

一 王国維の西洋学を推進する実践

 辛亥革命の前の1898年から1911年にかけて、若い王国維はずっと羅振玉・藤田豊八に従って 各地で新式学校と新聞、雑誌を創設し、その新学の雰囲気の中で西洋の学術と教育を系統的に 学んで研究していた。この時期彼の様々な公開発表した文章中の観点は全て西洋学術の導入を 提唱する態度を示した。

 王国維と同じ時代の多くの人の目の中で、王国維はずっと旧い清朝の遺老のイメージである。

1927年湖に身を投げて自殺するまで、彼はずっと長衫に馬褂、辮髪に瓜帽の清朝の人の格好で、

更に後期では伝統学術分野の研究を重んじたので、表面から見れば彼はまさに「旧式文人」の ようである。実際に、早期の王国維の学術思想と実践は、西学の思潮に対する呼応を体現した。

しかし多くの人の、西洋政治と技術を学ぶことによって国家の現状を急速に変えるという目的 とは違って、王国維の呼応は完全に学術と思想の面で民衆を感化する理想主義的な面に託して いた。その転々とした学習と仕事の過程と結合しながら、この時期王国維の西洋学術に対する 学習と研究の詳しい状況をまとめてみれば、王国維の初期の学術思想の歩みと、その時代の要 求に逆行するのではない理想的な反応をはっきり表現できるかもしれない。

1 .東文学社

 王国維は『人間詞話』で「境界」について以下のようにまとめた。

古今之成大事业、大学问者,必经过三种之境界。昨夜西风凋碧树,独上高楼,望尽天涯路,

此第一境也。衣带渐宽终不悔,为伊消得人憔悴,此第二境也。众里寻他千百度,蓦然回首,

那人正在灯火阑珊处,此第三境也。1)

 第一種の境界“昨夜西风凋碧树,独上高楼,望尽天涯路。”は宋の時代の詞人晏殊の『蝶恋 花』からのことばで、元々は女性が高い楼閣に登って遠望し、遠い旅に出た恋人を思う様子を 描き出したものである。王国維はそれにより抽象的な意味を与えた。独上高楼,望尽天涯路とは、学術研究の初級段階において、高いレベルに立ちながら、孤独を恐れず、独立した思想 を保持し、多分野の知識を蓄積するべきことを指す。学習の正しい道を示すだけでなく、マク ロな観点から着目する学術研究のやり方も示した。このようなマクロな視野は1898年王国維の

千秋壮观君知否,黑海西头望大秦(『詠史』)からも窺い知れる。この詩は、20歳であった王

 1) 王國維 :《人間詞話》二十六,《王國維全集》第一卷,廣東教育出版社 浙江教育出版社,2009年12月,第 468頁。

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国維が既に東西学術の融合に積極的な態度を持っていることを示している。

 1898年、王国維は汪康年の紹介を通して、羅振玉によって設立された新式学校上海東文 学社に入って、日本人教師藤田豊八・田岡嶺雲らに従って英語・日本語・数学などの新しい知 識を学び始めた。また、上海東文学社は日本語の書籍の翻訳に努め、既に日本語に翻訳された 西洋の読み物も導入する。王国維はこの時期多くの西洋哲学の書籍に接触し、深い興味を持つ ようになった。王国維『三十自序(一)』「是时社中教师为日本文学士藤田丰八、田冈佐代治二 君。二君故治哲学者,心甚喜之。顾文字睽隔,自以为终身无读二氏之书之日矣!2)からわかる ように、王国維が西洋哲学の研究に力を入れたのは、藤田豊八と田岡嶺雲の影響を受けた一方、

彼自身が早い時期から既に西洋哲学に憧れを抱いたからである。しかし彼には英語がわからな くて、西洋哲学の内容を読むことができなかったため、藤田豊八に従って英語を勉強しながら、

西洋哲学の勉強を始めた。

 東文学社の訳書には、農学に関する書籍が最も多いが、日本歴史学の著作もあり、例えば那 珂通世の『支那通史』、桑原隲蔵の『東洋史要』、箕作元八と峯岸米造の『ヨーロッパ通史』な どがある。この三冊の本は全て東文学社によって翻訳された。王国維は『支那通史』の序言で この本を「持之今世之识,以读古书者欤?以校诸吾土之作者,吾未见其比也3)と評価し、『東 洋史要』の序言には「吾师藤田学士乃论述此书之大恉,而命国维书其端曰,“自近世历史为一科 学,故事实之间,不可无系统。抑无论何学,苟无系统之知识者,不可谓之科学。”“余尤愿读是 书者,就历史上诸般之关系,以解释东方诸国现时之社会状态,使毋失为科学之研究,乃可贵耳。

桑原君之为此书,于中国及塞外之事,多据中国正史,其印度及中央亚细亚诸事,多采自西书,

虽间有一二歧误,然间而赅,博而要,以视集合无系统之事实者,其高下得失,识者自能辨之。4)

などの記述がある。1900年、王国維はまた『ヨーロッパ通史』に序言を書いた。

凡学问之事,其可称科学以上者,必不可无系统。

其中有盖模德人兰克(Ranke)氏之作,以供中学教科之用者。书不越二百页,而数千年来 西洋诸国之所以盛衰,文明之所以递嬗,若掌指而置,盖彼中最善之作也。5)

 上述の序言によると、王国維は西洋の哲学に関心を持つとともに、ヨーロッパの歴史を含む

「西学」も広く目にしていた。これらの日本の歴史に関する本は、藤田豊八の紹介で王国維に翻 訳されたもののはずである。また桑原隲蔵『東洋史要』の序言では、王国維が藤田豊八の口述 をもとに序言を書いたのだと名言している。『ヨーロッパ通史序』は、『東洋史要』の「科学に

 2) 王國維 :《自序一》《王國維全集》第十四卷,廣東教育出版社 浙江教育出版社,2009年12月,第119頁。

 3) 王國維全集

 4) 王國維 :《東洋史要序》,同上第2頁。

 5) 王國維 :《歐羅巴通史序》,同上,第4頁。

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は系統的な知識を備えなければならない」という観点に沿っている。『ヨーロッパ通史序』もま た、この本の一部の内容がランケの作品を模倣していることを明らかにした。王国維はその時、

ランケ史学に対しても一定の理解があることがわかる。先生としての藤田豊八は、いうまでも なく王国維に深い影響を与えた。藤田豊八を通じて、王国維は多くの西洋学術の著作を知るこ とができただけでなく、日本の学術界の動態を知ることができ、狩野直喜などの中国に来た日 本の学者とも知り合いになった。

 東文学社にいた期間、先生の藤田豊八も日本最先端の学術研究も、王国維の学術思想の形成 を最も明確な方向に導いた。哲学に興味を持った王国維には残念ながら西洋に留学する条件は なかったが、藤田豊八と羅振玉は彼を重んじて、自由と独立した発展空間を与え、最前線の豊 かな学術思想を提供した。王国維は日本の書物を通じて西洋学術を知ると同時に、日本明治維 新後の日本の知識人の思想・学術の動きに対しても深い認識を持つようになった。これにより、

王国維の学術視野と学術実践は早い時期に国の堺を越えた。東文学社の時期も王国維の学術思 想が形成された時期であり、学術と思想構造は国際的な視野を備えるようになった。この時期 彼は外国の学術書籍を大量に読み、翻訳の実践をして、自らの知識をまとめる科学的なパター ンを形成した。また、学術研究の面で、その考え方、学習法、また材料の利用方法は、現代の 学術方法に近づいていた。

 王国維のこの段階でのいわゆる中西・新旧学術に対する広い接触と研究、また故郷での知識 の蓄積は、まさに彼が打ち出した「独上高楼,望尽天涯路」と言う境地の実践であった。また、

多分野、多国の言語・学術に対する広い接触は、新しい学術方法の創出と学術思想の開拓に基 礎を築いた。

2 .西洋学研究の特徴

 「衣带渐宽终不悔,为伊消得人憔悴。」は宋の時代の詞人柳永の『蝶恋花』での名句である。

元々はある女性を思う主人公が食事もせず、痩せて、またやつれても彼女を忘れられない様子 を表現している。王国維はそれを用いて学問の第二の境界を比喩する。「望尽天涯路」の段階を 経験してから、自分の学術の方向を選定すると後悔せずに努力し、停滞することなく深く研究 しなければならないという意味である。この時期王国維が哲学典籍に対して、これを繰り返し 読んで、研究することはこの精神の表現であった。

 義和団蜂起と八カ国連合軍の北京出兵が爆発し、東文学社は1900年の秋に解散された。王国 維の珍しく平穏な学習生活が中断された。1901年の末、王国維は東文学社の出費で日本東京の 物理学校に留学した。それと同時に、沈紘と樊炳清もフランスとイギリスに留学に行った。狩 野直喜の王国維を追憶した文章では、生徒時代の王国維に対して藤田豊八は「頭脳が極めて明 晰で、日本文を善く読み、英語をも巧にし、且つ西洋哲学研究に興味を有しその前途大に嘱望

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するに足る」6)と評価した。東文学社時代の王国維の理系の成績がよかったため、王国維は先生 である藤田豊八の提案に従って、理科を専攻し始めたが、数ヶ月後脚気の再発で留学を中断し た。帰国してから羅振玉に従って南洋公学東文学堂の執事を務めた王国維は、これから「独学 の時代」を始めた。

留东京四五月而病作,遂以是夏归国。自是以后,遂为独学之时代矣。体素羸弱,性复忧鬰,

人生问题,日往复于吾前。自是始决从事于哲学,而此时为余读书之指导者,亦即藤上君 也。7)

 上述したように、王国維が哲学書籍を読むとき、指導を与えたのは依然として藤田である。

その後王国維は、羅振玉・藤田豊八に従って通州教育師範学校で心理学・哲学・倫理学の教員 を務め、この時から西洋の教育学・心理学などに広く接触し始めた。

春,始读翻尔彭之《社会学》,及随文之《辨学》,海甫定《心理学》之半。而所购哲学之书 亦至,于是暂辍心理学而读巴尔善之《哲学概论》,特尔彭之《哲学史》,当时之读此等书,

固与前日之读英文读本之道无异。幸而已得读日文,则日文之此数书参照而观之,遂得通其 大略。8)

 上述した内容からわかるように、王国維はこれから西洋の心理学・教育学・社会学などに関 する本を読み始めた。当時(1902年)の王国維は英語の書籍を読むとき、その意味をとるため に日本語の訳本を参照しなければならなかった。もちろんそれは王国維の哲学学習と研究の初 期段階である。後のいくつかの英語の長編訳書から見れば、王国維はその後英語を習得してい る。ただ早期に日本語訳本を通じて英語の書籍を読んだのは事実である。

既卒《哲学概论》《哲学史》,次年始读汗德之《纯理批评》。至《先天分析论》几全不可解,

更辍不读,而读叔本华之《意志及表象之世界》一书。叔氏之书,思精而笔锐,是岁前后读 二遍,次及于其《充足理由之原则论》中《汗德哲学之批评》一篇,为通汗德哲学关键。9)

 1905年、王国維は自分が『教育世界』に発表した哲学・美学・教育学の研究論文20編を『静

6) 狩野直喜《王静安君を憶う》,原载《芸文》第十八年八号、618頁。

7) 王國維 :《三十自序一》《王國維全集》第十四卷,廣東教育出版社 浙江教育出版社,2009年12月,第119-120 頁。

8) 同上,120頁。

9) 同上,120頁。

(7)

安文集』」に集めた。『静安文集』の自序で王国維は以下のように書いた。

余之研究哲学,始于辛、壬之间。癸卯春,始读汗德之纯理批评,苦其不可解,读几半而辍。

嗣读叔本华之书,而大而好之。自癸卯之夏以至甲辰之冬,皆与叔本华之书为伴侣之时代也。

其所尤惬心者,则在叔本华之知识论,汗德之说得因之以上窥 ;然于其人生哲学,观其观察 之精锐与议论之犀利,亦未尝不心怡神释也。后渐觉其有矛盾之处。去夏所作红楼梦评论,

其立论虽全在叔氏之立脚地,然于第四章内已提出绝大之疑问。旋悟叔氏之说,半出于其主 观的气质,而无关于客观的知识。此意于叔本华及尼采一文中始畅发之。今岁之春,复返而 读汗德之书。嗣今以后,将以数年之力研究汗德。他日稍有所进,取前说而读之,亦一快也。

故并诸杂文刊而行之,以存此二三年间思想上之陈迹云而。10)

 この序言によると、王国維はショーペンハウアーの哲学に対して、主観的には評価し好感を 抱いていたが、その観点に疑問もあった。そしてショーペンハウアーに基づいて、カント哲学 に重点を置いて研究したが、その過程において、彼は明らかに、思った通りの達成感を得てお らず、かえて「信頼されている者は愛することができない」という感を抱いた。王国維は主観 的にショーペンハウアーの哲学に傾けることが明らかにした。

 近代中国有名な哲学者馮友蘭は『中国近代美学の創始者王国維』で王国維と厳復を並べ て紹介した。

西方近代哲学主要分为英国经验派和大陆理性派,严复是经验派的介绍者,王国维是理性派 的宣传人。11)

 また王国維のショーペンハウアー、カントなどのドイツ哲学者に対する勉強と研究について の見方を示した。

从这两篇自序(《静安文集自序》以及《静安文集续编自序一》)看起来,王国维研究哲学始 于康德,终于康德,中间他放弃康德而研究叔本华,又从叔本华上窥康德。经过这几次 反复,他研究康德所遇到的“窒碍之处”越来越少,最后他才于康德哲学全通了。虽然还有 一些窒碍之处,但是这些很少的窒碍之处并不是由于他不懂康德,而是由于康德哲学 本身的错误。……这些话不说明王国维的哲学高于康德的哲学,但可以说明王国维对于康德 研究得比较透、理解得比较深。凡研究一家哲学,总要看出这一家哲学的不到之处,才算是

10) 王國維 :《靜安文集自序》《王國維全集》第一卷,廣東教育出版社 浙江教育出版社,2009年12月,3頁。

11) 馮友蘭 :《中國哲學史新編》第六冊 , 人民出版社 ,177頁。

(8)

真懂得这一家。12)

 馮友蘭は、王国維がすでにドイツの哲学者に代表される大陸の理性派哲学の研究を深く理解 していて、初期の大陸の理性派哲学研究の代表と見なすことができると思っている。実際に、

王国維は西洋学術の全体について幅広く読んで、その経験論に対する理解は厳復より少ないわ けではない。ただ主観的にそれを好まないのである。中国国内できわめて珍しいと思われる西 洋哲学研究に没頭した王国維は、彼の西洋哲学(広義)の研究過程において、次のような特徴 がある。

2.1 孤独

 当時の中国の社会問題は複雑で、本当に学術研究に専念する人は少ない。また西洋の哲学を 研究するには外国語に精通しなければならなく、それ自体もまた難しくて分かりにくいので、

西洋哲学の研究に没頭する人は更にいない。前述の通り、思想や言論の面で西学を宣伝する人 がたくさんいるが、その多くは政治的な目的を持っていて、学術を目的としているわけではな い。そのほか、外国へ留学し、哲学を勉強している学生たちはほとんど帰国していない。その ため、この時期西洋哲学に没頭した王国維は、孤独であったと言えるだろう。

2.2 日本からの深い影響

 ヨーロッパの留学生と違って、王国維の西洋学術研究は日本からの影響を深く受けている。

その影響は主に日本人教師藤田豊八・田岡嶺雲、また日本語書物の接触と翻訳の二つの面から 現れる。日本の学者の竹村則行は、王国維の有名な「境界説」の直接的な出どころは日本学者 田岡嶺雲であると考えている13)。その後中国でもこの説を支持する研究が現れた。この結論は必 ずしも研究者の共通認識ではないが、王国維は哲学研究の面で田岡嶺雲の影響を受けたことは 証明できる。これについて、王国維は『三十自序(一)』でも記述した。

是时社中教师为日本文学士藤田丰八、田冈佐代治二君。二君故治哲学,余一日见田冈君之 文集中,有引汗德、叔本华之哲学者,心甚喜之。顾文字睽隔,自以为终身无读二氏 之书 之日矣!14)

 ここから、王国維は既にカント、ショーペンハウアーの哲学に憧れていたことがわかる。当 時田岡嶺雲の哲学研究文集は、彼に最も直接的な接触のルートを提供した。その文学研究で打

12) 同上,180页。

13) 竹村則行 :「王国維の境界説と田岡嶺雲の境界説」『中国文学論集』(15),127-148頁,1986年12月。

14) 王國維 :《自序一》《王國維全集》第十四卷,廣東教育出版社 浙江教育出版社,2009年12月,第118頁。

(9)

ち出した「境界」説は田岡嶺雲に由来するかどうかについて、竹村則行と後のいくつかの中国 国内の学者の研究から見て、「境界」という言葉は、西洋哲学と中国古代文論の中には近い概念 が存在しているので、田岡の研究文集に似たような言葉が出ているのも無理はない。そして王 国維は様々な知識の蓄積の影響で「境界」という言葉を打ち出したが、その具体的な意味でも、

応用範囲でも上記のものと違いがあり、自身の知識による融合と革新であると考えて良いであ ろう。

 その他、この時期王国維は東文学社の仕事を続け、大量の日本語の書物を翻訳した。翻訳出 版の時間順に従って見れば、1900年に池田日升三の著書『農事会要』、1901年に藤利喜太郎の著 書『算数の項目と教授法』、1901年に文学博士立花銑三郎の著書『教育学』、1901年に中村五六 が編纂した『日本地理志』、1901年に磯谷幸次郎の著書『法学通論』、1902年に文学博士桑木厳 翼の著書『哲学概論』、1902年に日本文学博士元良勇次郎の著書『倫理学』(その本の最後に王 国維は「倫理学用語の中西対照表」と「倫理学における人名の中西対照表」を自作した)、1902 年に文学博士牧瀬五一郎の著書『教育学教科書』、1905年に理科大学教授、理学博士飯島魁が編 纂した『動物学教科書』などが挙げられる。このように訳書分野が広いので、王国維の西洋学 術の全面的把握に対してより広い基礎を築いたと考えられる。

2.3 分野が広い

 王国維はショーペンハウアー、カント、ニーチェーなどの西洋哲学者の学説を紹介する以外、

教育学、心理学の著作も広く読んで、翻訳した。彼は形而上学、純粋な美学、倫理学、実証論、

経験論などについてもよく知っている。訳書については1903年に出版されたイギリス人 Henry Sidgwick 作の『西洋倫理学史要』、英訳によって翻訳されたドイツの Helmholtz 著の『勢力不 滅論』、1907年に『イギリス百科全書』から訳された『欧洲大学小史』、またデンマーク学者 Harald Hoffding の『心理学概論』、1908年イギリスの有名な論理学者 W. S. Jevons の論理学著 作『Elementary Lessons Logic: Deductive and Industive』(訳名は『辨学』で、西洋の論理学 の研究方法について系統的に紹介した)、1910年に出版された『教育心理学』などがある。執筆 した文章は主に「汗德像賛」、「叔本華与尼采」、「書叔本華遺伝説後」、「附叔本華氏之遺伝説」、

「哲学辨惑」、「論哲学家与美術家之天職」、「古雅之在美学上之位置」、「文学小言」などである。

 教育学の面では、「教育雑感四則」、「論平凡之教育主義」、「奏定経学大学文系大学章程書後」、

「教育小言十二則」、「教育小言十則」、「教育普及之根本方法』、「論小学校唱歌科之教材」、「論教 育之宗旨」などの文章を書いた。これらの文章から王国維の教育に関する主張が二つ見られる。

一、高等教育、エリート教育を重視し、高等教育で最も重要な学科は哲学であると思っている。

「教育小言十二則」で、彼は「高等教育既兴,则外国留学可废。15)と書いて、さらに「吾人之主 15) 王國維 :《教育小言十二則》《王國維全集》第十四卷,廣東教育出版社 浙江教育出版社,2009年12月,

第30頁。

(10)

义谓之贵族主义,但所谓贵族主义者,非政治上之贵族主义,而知力上之贵族主义也。16)の観点 を打ち出した。ここで「知力上之贵族主义」はつまり現代のいわゆるエリート教育である。二、

美育を提唱する。学習者の理性的思考を高め、当時の国民の考え方を根本的に変えることを主 張する。彼は「論教育之宗旨」で美育を取り上げ、「知育、徳育、美育」の全面的な発展を強調 した。さらに『去毒編(鴉片烟之根本治療法及将来教育上之注意)』で「美术(美学教育)者,

上流社会之宗教也」と指摘し、美育を宗教のレベルに昇格させた。美学の分野で彼は『人間詞 話』を書いて、西洋哲学と伝統文学を結びながら、詞の「境界説」という美学理論の観点をう ちだし、今でも現代の文学評論に影響を与えている。そのほか、王国維は西洋の方法論を重視 し、当時『教育世界』に発表された「奏定経学科大学文科大学規程後」で、教育界と学術界に

今日之所最亟者,在授世界最进步之学问之大略,使知研究之方法。17)と呼びかけた。

2.4 中西の融合を主張

 王国維は「哲学辨惑」で中国と西洋の哲学の関係について次のように論じた。

哲学既为中国所固有,则研究中国之哲学足矣,悉以西洋哲学为?此又不然。余非谓西洋哲 学之必胜于中国,然吾国古书大率繁散而无纪,残缺而不完,虽有真理,不易寻绎,以视西 洋哲学之系统灿烂然,步伐严整者,其形式上之孰优孰劣,固自不可掩也。……且欲通中国 哲学,又非通西洋之哲学不易明也。近世中国哲学之不振,其原因虽繁,然古书之难解,未 始非其一端也。苟通西洋之哲学以治吾中国之哲学,则其所得当不止此。异日昌大吾国固有 之哲学者,必在深通西洋哲学之人,无疑也。18)

 哲学は中国古来の学問である以上、中国哲学だけを研究すればいいのではないか。王国維は この問題に対して反対の意見を持っている。それは西洋哲学が中国固有の哲学に勝るためでは なく、西洋哲学の書籍の厳しい編纂様式と比較して、中国の古書の多くは欠落があり、編集様 式も一致していなくて、系統的な研究と読書に不便があり、真理が含まれているのに容易に発 見できないからだ。また、西洋哲学を学ぶことは、中国の哲学を深く、系統的に理解すること を促進することができると考え、将来、中国の哲学研究において大きな成果を得るのは、西洋 哲学にも精通する学者であると主張する。この予言のような主張は、中西の哲学とも精通する 馮友蘭にふさわしいかもしれない。陳寅恪は『馮友蘭中国哲学史上冊審査報告』で馮友蘭の中 国哲学史研究について以下のように評価した。

16) 同上,第29頁。

17) 王國維 :《奏定經學科大學文學科大學章程書後》《王國維全集》第十四卷,廣東教育出版社 浙江教育出 版社,2009年12月,第32頁。

18) 王國維 :《哲學辯惑》《王國維全集》第十四卷,廣東教育出版社 浙江教育出版社,2009年12月,第8頁。

(11)

今欲求一中国古代哲学史,能矫傅会之恶习,而具了解之同情者,则冯君此作庶几近之。所 以宜加以表扬,为之流布者,其理由实在于是。19)

 王国維の中西哲学を結合する実践は馮友蘭より早い。最後まで堅持はしていないが、彼はす でに「西学」研究の「中学」研究に対する重要な意義を見極めていた。その学術面での優れた 先見性と見識はその非常に困難な十数年の西学研究の実践から得たもので、決して流行を追う 発言ではない。

 1898年から1910年にかけて、王国維は「西学」の研究に専念したが、彼のこの時期の評論文 章を総じて見れば、主な特色は西方の哲学観点と中国古代の哲学観点を比較して分析し、その 異同について説明を加えることである。これは、彼の多くの哲学的評論文章に見られる。「論 性」「釈理」「原命」で、中国古代哲学と西洋哲学を使って「性」「理」「命」の概念の中西にお ける異同を詳しく分析し、「孔子之美育主義」は西洋の哲学概念「美育」から入って、孔子の思 想の中で西洋の美育観点と一致する所を分析した。また「国朝漢学派戴阮二家之哲学説」の中 でもそれを西洋の哲学と比較して、中国古代の哲学は実質を重視し、理論と系統を軽視する特 徴を指摘した。『教育世界』に掲載された王国維の哲学研究文章「論性」と「釈理」を例にして 見れば、王国維は、西洋哲学と中国古代哲学の中で「性」と「理」に対する認識とその本質を 比較し、自分の認識を基礎にして「哲学は古くから中国の固有の学問である」との観点を打ち 出した。

 西洋哲学に比べて、中国の古代哲学の根本的な違いは「中国有辩论而无名学,有文学而无文 」にある。つまり哲学思想はあるが哲学学説はなく、文学作品はあるが文学理論はないとい うことである。専門的なシステムがないと、専門学科になる条件が欠けている。現代学科の基 本的な特徴は、基本的用語・範疇・パラダイム、また 1 セットの完全な理論構造システムであ る。そのため、「中国哲学思想」に基づいて「中国哲学」学科を確立しようとすれば、その理論 システムを構築する必要がある。自らの哲学的な観点とシステムを構築するのなら、まず西洋 哲学と中国固有の哲学、つまり中外哲学史について研究し、整理しなければならない。今の私 たちがある学問を研究したいなら、まずこれまでの研究成果を整理しなければならないのと同 じである。中国哲学の分野で、王国維はまず中国固有の哲学観点を系統的に分類して「孔子之 学説」、「子思之学説」、「孟子之学説」、「荀子之学説」、「老子之学説」、「墨子之学説」、「列子之 学説」、「周秦諸子之学説」、「周濂溪之学説」などに整理した。また以下のような観点を打ち出 した。

儒家之有哲学,自《易》之《系辞》、《说卦》二传及《中庸》始。《易传》之为何人所作,古

19) 陳寅恪 :《馮友蘭〈中國哲學史上冊〉審查報告》,中國海洋大學超星圖書館電子圖書。

(12)

今学者,尚未有定论。然除传中所引孔子语若干条外,其非孔子之作,则可断也。后世祖述

《易》学者,除扬雄之《太玄经》、邵子之《皇极经世》外,亦曾无几家。而此数家之书,亦 不多为人所读,故儒家中此派之哲学,未可谓有大势力也。独《中庸》一书,《史记》既明言 为子思所作,故至于宋代,此书遂为诸儒哲学之根柢。20)

 儒学において「易」の哲学が出所不明のため、その力は源のはっきりした「中庸」に及ばな いと指摘した。そのため、宋代に至っては、「中庸」は儒教哲学の基礎となった。

 「理」は、中国の宋の時代の「哲学」における重要な理論である。王国維は「釈理」の中で、

まず、外国の作品を翻訳したとき母国語にない表現がある場合、固有のもっともらしい言葉を 使って翻訳するのではなく、新しい言葉を作るべきだと主張した。彼は「文意之变迁,岂独在 输入外国新义之后哉!吾人对种种之事务,而发现其公共之处,遂抽象之而为以概念,又从而命 之以名 ;………理之意义之变化,与西洋理字之意义之变化,若出一辙。21)と思っている。続い て「理」の語源、広義的な解釈、狭義的な解釈、客観的な仮定、主観的な性質五つの面からそ の性質を取り立てて論じた。また西洋哲学に基づいて、「理」は形而上学の面の価値があるほか に、論理学的な価値もあると考えられている。

之一字,于形而上学之价值。实在。外,兼有伦理学上之价值。善。其间惟朱子与国朝 婺源戴氏之说,頗有可味者。朱子曰 :有个天理,便有个人欲。盖缘这个天理,须有个安顿 之处,若安顿不恰好,便有人欲出来。又说天理人欲分数有多少。………虽是天理,人欲 中自有天理”22)

 戴氏の「理也者,情之不爽失也」から現れた「理」に対する認識は実は朱熹のと同じで、た だ順序が逆さまになっただけで、つまり理と情がともに不可欠なものだと思われる。「釈理」の 最後に、王国維は中西哲学の融合の結論を出した。「理」は語義から見れば理由、理性の意味が ある。理由は論理学における「動機」と理解でき、動機には善悪、潜性と顕性がある。理性は、

「推理力」として理解でき、悪事をするにも善行を行うにも理性的な要素がある。理性的な能力 は、人間と動物を区別する最も重要な要素で、そのため「形而上之所谓真与伦理学之所谓善 つまり「理」の本質である。

 また、1904年に王国維がショーペンハウアーの哲学理論に踏まえて書いた『紅楼夢評論』は、

20) 王國維 :《書辜氏湯生英譯中庸後》《王國維全集》第十四卷,廣東教育出版社 浙江教育出版社,2009年 12月,第71頁。

21) 王國維 :《靜安文集・釋理》《王國維全集》第一卷,廣東教育出版社 浙江教育出版社,2009年12月,第 18頁。

22) 同上,第30頁。

(13)

西洋哲学・美学の観点を利用して中国の古典的な文学作品に対してテキスト分析を行って、文 学作品における美学の意を打ち出した。文学界で大騒ぎになり、文学理論の分野に先鞭をつけ た文章である。前述のように、このような中西融合の実践は『人間詞話』にも見られ、有名な

「境界」説はまさにその産物である。それについて譚仏雛は「王氏标举传统诗学的‘境界’(意 境)一词,而摄取叔氏关于艺术‘理念’的某些重要内容,又证以前代诗论词论中的有关论述,

以此融贯变通,自树新帜。他的‘境界’说原是中学西学的一种‘合璧’。23)と述べる。

3 .哲学を放棄した理由

 前述のように、当時の中国では、留学生はまだ帰国しておらず、西洋哲学の分野で王国維の ように十年を尽くして研究に没頭する人はいなかった。哲学、教育学、心理学など新しい分野 での学術研究を行うのは、当時の中国の学術界ではただ王国維一人であると言ってよい。王国 維の西洋の学術に対する情熱は知識欲と学術的責任感から来たものであったが、しかし哲学に 対する自分の認識と判断を持ってから彼は哲学の研究を放棄することを選んだ。

 王国維の哲学を放棄する理由について、彼は『三十自序(二)』で記述したことがあり、先学 たちもそれぞれの見解を発表している。これに基づいて、筆者は自身の認識と結合しながらそ の理由を以下のようにまとめた。1907年彼は『三十自序(二)』で次のように書いていた。

余疲于哲学有日矣。哲学上之说,大都可爱者不可信,可信者不可爱。余知真理,而余又爱 其谬误。伟大之形而上学,高严之伦理学,与纯粹之美学,此吾人所酷嗜也。然求其可信者,

则宁在知识论上之实证论,伦理学上之快乐论,与美学上之经验论。知其可信而不能爱,觉 其可爱而不能信,此近二三年中最大之烦闷。24)

今日之哲学界,自赫尔德曼以后,未有敢立一家系统者也。居今日而欲自立一新系统,自创 一新哲学,非愚即狂也。近二十年之哲学家,如德之芬德,英之斯宾塞尔,但搜集科学之结 果,或古人之说而综合之、修正之耳。此皆第二流之作者,又皆所谓可信而不可爱者也。此 外所谓哲学家,则实哲学史家耳。以余之力,加之以学问,以研究哲学史,或可操成功之券。

然为哲学家,则不能 ;为哲学史家,则又不喜,此亦疲于哲学之一原因也。25)

 以上から見れば、王国維自身がまとめた理由は、一)哲学の学説そのものからの困惑。彼の 言ったとおり、彼の好む哲学学説は、例えば純粋な美学、形而上学、倫理学など、ほぼ現実的 な生活の中で実現しにくい理想論であり、実証論や経験論など現実生活の中でまとめられた理 論は、好みではない。ここで彼の感性と理性との闘いの困惑を表し、また彼が哲学研究に求め

23) 譚佛雛 :〈評王國維的“三境說”《揚州師院學報(社會科學版),1979年2月。

24) 王國維 :《自序二》《王國維全集》第十四卷,廣東教育出版社 浙江教育出版社,2009年12月,第121頁。

25) 同上,第122頁。

(14)

た答えは、期待しているように人と世界の困惑を解決できなかった。また、自分が哲学者にな れるとは思っておらず、既有の哲学観点を研究する「哲学史家」にもなりたくない。王国維は、

この世界ではいわゆる「哲学者」が多く存在するが、これらの人がただ古人の学説をまとめて 修正するだけで、自分の哲学の理論を打ち出していないので、ただの「哲学史家」であると主 張した。カントの影響を受け、王国維は天才の第一要素を独創性としている。王国維は自分を 天才と見なしたかどうかはともかく、その一生の主張と研究を見れば、学術上の独創性(文章 の中でよく取り上げた「新発明」という言葉)は明らかに彼の求めた第一の目標である。

 二)文化を認める面での障害。どの学術も必ずその社会、歴史、人などの複雑な要素の育成 を経て形成されるものである。我々がそれを専門の学術と認めるのは、実用的かどうかによる 判断ではなく、明確な観点、厳密な論理、合理的な構造の体系などを備えているからである。

西洋哲学はヨーロッパ最古の学術として、とうとうたる西洋思想の川のように、長い年月をわ たって変化して、整えられた。様々な流派から哲学者が輩出し、理論学説が多様化している。

専門分野から見ると、現代哲学はすでに形而上学、美学、倫理学、知識論などの明確な分類が あって、間違いなく成熟した学術体系である。西洋哲学の奥深な人間性分析、精密な論理理論、

東洋のと異なった美学思想などからも、ある哲学的な観点ないし哲学体系全体が生まれる深層 にある文化要因が見られる。王国維は幼い頃から受け入れたのが中国の伝統的な学術・道徳・

倫理の教育と薫陶であり、思想の奥底に入り込んでいるのが中国の数千年に渡った文化価値観 である。『静安文集』の論稿からわかるように、彼の哲学研究は、中国と西洋の哲学思想の比較 と相互解釈に注目し、かつ議論の拠り所から見て、中国の古代思想を主役としている。その自 身に備えている中国の伝統的文化と統一した性格は、西洋の歴史文化に生まれた思想のいくつ かの観点を受容するとき必ず相容れないところが存在する。彼が『論近年之学術界』で言った ように、西洋哲学と中国固有の哲学の主要な流派は全部世間性のあるもので、仏教の出世間と は異なり、両者には必ず衝突と抵抗が生じる。

 『三十自序(二)』で彼は「可爱者不可信,可信者不可爱」という困惑を記述している。「可爱 者不可信」に属するのは形而上学、純粋な美学、高厳な倫理で、「可信者不可爱」に属するのは 実証論、経験論、快楽論である。ここから見られるように、王国維が西方哲学の学説に対して 表した好き嫌いの境ははっきりしていて、昇華した、純粋な、美しい、理想的な思想理論が好 きで、事実の経験からまとめた、既存の、人間性の弱点と社会の制限を暴露する理論が嫌いな のである。快楽主義、経験主義、実証論は、ちょうど社会・人間・歴史などと最も密接な関係 を持つ学説であり、現実から生まれて、人類の現実に対する適応を指導している。これらの理 論はまさに近代ヨーロッパの歴史・社会・文化の現実的な環境から生まれて、近代ヨーロッパ の功利性を持つ文化の全体の本質を体現している。「西洋哲学」を研究するには、その流派、学 説の源、変化過程を探究する必要があり、そうすればその偉大さと限界をより全面的に理解で きる。源と変化過程を究明するならば、これらの理論を生むヨーロッパの社会環境・道徳理念・

(15)

人間性などの長い歴史を考察しなければならない。王国維は西洋の哲学を研究する時にこの点 に対して重視していないようである。彼は外国の書籍に大量に接触したことがあるが、西洋の 歴史や社会思想の歴史を深く系統的に学ぶことはなく、多くの留学生のように幼いころから留 学を経験して、西洋の教育と生活に溶け込んだこともない。彼の哲学から得た理論と認識は西 洋の実際の社会・歴史・文化に対する認知とずれがあって、西洋の歴史に蓄積する西洋文化の 特徴を深く理解できず、西洋の文化の蓄積を認められないのは言うまでもない。本質的に言え ば、当時の王国維はただ「学術の西洋」を受け入れただけで、「文化の西洋」を受け入れていな いのである。

 1905年、王国維は自分が哲学に疲れ始めたことを意識し、1907年はさらに「疲于哲学已久」

になった。しかし彼はそれを主観的な認識と限定し、自分がただいくつかの哲学観点につまづ いているだけだと思って、その背後にある西洋の社会と文化の要因を無視した。そのため、彼 は自分がいくつかの哲学的な観点に抵抗することを表明したが、これらの哲学観点を育む近代 ヨーロッパ文化の価値観に対して懐疑が生じたことを意識していない。最後に彼は「可爱者不 可信」「可信者不可爱」という感性や理性の葛藤の中で、仕方なく哲学を遠ざけて、その後の

「西方文化具有侵略性特点」26)という観点に伏線を敷いた。

二 「西学」に対する態度と検討

 清の末期、西洋の思想は様々なルートによって中国に伝わり、日清戦争後、西洋に学ぶ声が ますます高まってきた。王国維もこの時から西洋の学問に触れ、新聞で変法維新を宣伝して民 衆を鼓舞する社会活動家たち、例えば維新の先駆である康有為・梁啓超などの革命者の主張に 接触した。戊戌変法の前に、彼らは多くの人に新しい思想の案内者で、中国社会の激変期の「社 会実践家」であると見なされ、様々な新聞によって中国社会の各階層に急速に影響を与えた。

王国維は『時務報』に入ったばかりの時にも康有為・梁啓超らに対して大きな好感を持ってい て、許家惺との手紙の中で何度も維新を提唱することへの賛成の気持ちを表明した。その他、

許家惺との手紙に彼は時局に対する心配と意見も時々言及し、戊戌変法の前、ある通信の中で 自分の維新法に対する見方を打ち出した。

尝谓此刻欲望在上者变法,万万不能,惟有百姓竭力做去,做到一分就算一分。27)

 そこから分かるように、王国維は清朝の上から下への維新変法に希望を抱いていない。譚嗣

26) 王國維 :《論政學疏稿》《王國維全集》第十四卷,廣東教育出版社 浙江教育出版社,2009年12月,第 211-216頁。

27) 王國維致許家惺書信,《王國維全集》,第十五卷,廣東教育出版社、江蘇教育出版社,第1頁。

(16)

同などの変法者が殺されたとき、彼は大きな同情と清政府に対する憤慨の意を表した。1898年 の末、王国維が脚気が完治して上海に戻ったとき、時務報は既に停刊された。間もなく戊戌の 政変の乱によって、義和団蜂起と八カ国連合軍の北京出兵が続々と爆発し、巨額の賠償金に直 面する清政府はさらに弱くなり、国が国らしくなくなった。戊戌変法が引き起こしたこれらの 一連の打撃がおそらく王国維の康・梁などに対する見方も変えた。数年間西洋学術に没頭して いた王国維は、康・梁が維新変法を担当する能力を持っていないことを明確に認識した。さら に重要なのは、彼は長期にわたって汪康年・羅振玉と接触して、彼らの立場に立って問題を見 がちであり、康・梁の変法の目的は国家を改善するのではなく、個人的な利益を図ることであ ると考えた。康有為が権力を利用して『時務報』を占有するやり方はその一例である。その故、

前の維新変法に対する賛成と同情の態度と全く違って、1905年『論近年之学術界』で、王国維 は極めて鮮明な態度で、康有為などの維新党が西洋の学術思想を歪曲して維新を宣伝して民衆 を煽り、自分の政治的目的を実現しようとするやり方に対して強く批判した。

其有蒙西洋学说之影响,而改造古代之学说,于吾国思想界上占—时之势力者,则有南海口 口口康有为之《孔子改制考》、《春秋董氏学》,浏阳口口口谭嗣同之《仁学》。口

氏以元统天之说,大有泛神沦之臭味、其崇拜孔子也颇模仿基督教,其以预言者自居,

又居然抱穆罕默德之野心者也。其震人耳目之处。在脱数千年思想之束缚,而易之以西洋已 失势力之迷信,此其学问上之事业,不得不与其政治上之企图同归于失败者也。然口氏之于学术,非有固有之兴味,不过以之为政治上之手段,《荀子》所谓今之学者以为禽 犊”者也。口(谭)氏之说则出于上海教会中所译之治心免病法,其形而上学之以太说,半 唯物沦、半神秘论也。人之读此书者,其兴味不在此等幼稚之形而上学,而在其政治上之意 见。口(谭)氏此书之目的,亦在此而不在彼,因与南海口(康)氏同也。庚辛以还,各种 杂志接踵而起,其执笔者,非喜事之学生.则亡命之逋臣也。此等杂志,本不知学问为何物,

而但有政治上之目的,虽时有学术上之议论,不但剽窃灭裂而已,如《新民丛报》中之《汗 德哲学》,其纰缪十且八九也。28)

 この批判の意味は大体以下のようである。西洋哲学の学説を借りて、中国の思想界で風潮を 一時的に巻き起こした文章には、康有為の『孔子改制考』『春秋董氏学』と瀏陽譚嗣同の『仁 学』がある。康有為の学説には汎神論の臭いがあって、孔子を崇拝しながらキリスト教も模倣 し、預言者を自任してムハンマドの野望も抱いている。その主張は中国の数千年の伝統的思想 の束縛から逃れようと試みたが、その代わりに西洋の迷信思想を導入した。その学術面の実践 は最後に政治的企てとともに失敗した。康有為は西洋の学問そのものに興味があるのではなく、

28) 王國維 :《觀堂集林・論近年之學術界》《王國維全集》第一卷,廣東教育出版社 浙江教育出版社,2009 年12月,第123頁。

(17)

学術を政治的手段として利用しただけである。つまり『荀子』が言った「今之学者以为禽犊 ということになる。譚嗣同の学説は上海の教会によって翻訳された「治心免病」法で、半分は 唯物論、半分は神秘論である。人々のこの本に対する興味はその学問ではなく、政治的な意見 にある。庚辛年以来、様々な雑誌が続々と創刊され、主筆を担当する人はお節介な学生か亡命 した役人である。このような雑誌は学問とは何かについて全く分かっておらず、ただ政治的な 目的に左右される。学術面の討論があっても、その多くは剽窃したものや謬論に過ぎない。例 えば『新民叢報』に掲載された「汗徳哲学」には誤りだらけである。

 『新民叢報』は、1902年に日本に逃亡した梁啓超によって創設された新聞で、西洋学術の一部 だけをひろって利用して政治改革を呼びかける内容をよく掲載している。王国維のこの評論か ら、康有為・譚嗣同・梁啓超が偽の学術を手段として政治的目標を図ることについて、彼がと ても賛成できないという態度をとっていることがわかる。しかし、それは王国維が西学の導入 に反対しているという意味ではない。逆に、彼はこの文章の中で、本当の西洋の学術の導入を 主張することに重点を置き、西洋の学術が中国で発展していない原因についても検討している。

冒頭で提示したように、「外界之势力之影响于学术,岂不大哉」なのであり王国維は、西洋の学 問を近代中国に導入することはインドの仏教が大唐に伝来したことと同じように思っている。

佛教之东,适值吾国思想凋敝之后,当此之时,学者见之,如饥者之得食,渴者之得饮。担 䔲访道者,接武于葱岭之道 ;繙经译论者,云集于南北之郡。自六朝至于唐室而佛陀之教极 千古之盛矣。29)

 これは王国維が記述した、唐の時代に仏教伝来の盛況である。王国維は、それと対照的に西 洋の学術が清に伝わって数年間発展できなかった原因も分析した。即ち、国が政治上の不安定 を考えて、西洋の学術を騒動の源とみなし、士大夫もそれを異端とみなして拒否した。これに よってわかるように、伝来初期には、西洋の哲学は一部の権力者に異端とみなされて、中国の 伝統的な道徳体系を破壊するものだと思われ、一般の民衆にも排除された。よって、仏教のよ うに上から下へと急速に広まってはならないのである。実際に、一部の学者、深く研究せずに 西洋の学術を歪めて政治的な目標を達成しようとしたやり方こそ、権力者と一般民衆の学術そ のものに対する抵抗を招いた。王国維は上述した観点と現状に対していちいち批判して、文章 の最後に「吾国今日之学术界,一面当破中外之见,而一面毋以为政论之手段,则庶可有发达之 日欤!30)との主張を打ち出した。王国維は『論近年之学術界』で西洋哲学の現状と価値を初め て論じ、1906年にまた『奏定经学科大学、文学科大学章程书后』で張之洞が京師大学堂の学制 変更の際に哲学の課程を設けなかったことに対して反対の意見を発表した。王国維は、西洋哲

29) 同上121頁。

30) 同上125頁。

(18)

学の研究によって、中国既有の哲学をより一層理解して、より詳しく説明することができると 考え、また将来の学者が世界の学術にも精通するべきだと主張した。1911年、羅振玉と王国維 は一緒に『国学叢刊』を創設し、序言で王国維も「学无中西(学術には中国と西洋の対立がな い)」との主張を呼びかけた。1911年に王国維はすでに西洋哲学の研究を放棄したが、西洋の学 術に対して依然として肯定的な態度を持っていて、いかなる偏見も生じていないことがわかる。

上述した西洋学術に関する見方から、王国維が反対したのは、ただ一部の学者の西洋学術と思 想・主張の旗を揚げながらそれを歪めて政治的手段とするやり方であり、西洋の学術そのもの の中国社会に対する価値は否定していないことを証明することができる。反対に、1911年まで 王国維は中国の思想界の能動性を掻き立てる希望を西洋哲学思想の導入に託したことがあり、

そのため西洋哲学の研究に十年の力を尽くした。

 しかしながら誰もが民族・学術・思想の発展の歴史全体に立って、遠く見ることができるわ けではない。もし王国維の思った通りに、西洋の哲学思想は仏教思想のように広く普及して、

浸透して、最終的に中国の伝統的な思想文化に入ることができるとしたら、それは必ず長期的 でかつ強要することができない過程である。その喧騒と急変の時代において、国と社会にとっ て重要なのは、国力の急速な強化と列強に囲まれる状況を改善する方法であるから、王国維が 認めた、民衆の思想の面で根本的な改革を行う呼びかけと独力でやる実践は、支持する呼応を 得るのは難しかった。

 その他、「学而优则仕(学問の面で優秀であれば役人になれる)」という伝統的制度があるた め、中国の大部分の学者が同時に官僚であるということで、結局、政治と学術が絡み合ってい る。1898年設立された中国初めての官営大学である京師大学堂の規約では、梁啓超が「中学为 体,西学为用,两者缺一不可(中国の伝統的学術は根本的なもので、西洋の科学技術は実用的 である。どちらも欠かせない)」と主張し、これは日本の明治維新の時期で提唱された「和魂洋 才」の教育方針とほぼ同じである。京師大学堂の創立目的と規約は明らかにその教育目標にお ける機能性を表している。つまり社会の需要を満たして、西学の基礎を持つ人材の育成を目指 し、毎年学生を欧米・日本などの国家に派遣して技術・法律などを勉強させる。王国維の言っ た通り、大部の留学生の専門は実用性を持つ科学類の学科である。実用性を重視して、純粋な 学術人材の育成を疎かにしたことは、当時中国の伝統的教育の改革過程に存在する普遍的な問 題で、その影響が今でも続いている。王国維は長い目でこの問題を見て、学術と思想の独立性 をしっかり守るべきだと主張し、また自分のチカラで実践してみたが、当時の緊迫した時局と 社会現実において、「学術が独立性を持つ。学術には新旧、東西の対立、有用か無用かなどの区 別がない」という観点を打ち出し、純粋の哲学思想の研究に没頭した彼は、多くの人に時代に そぐわない印象を与えた。しかしそれはまさに国学・西学、あるいは新学・旧学のいずれに対 しても、王国維が「学術の独立」を堅持することを説明できるのである。彼は生まれながらに 純粋な学術を守る責任感を持っているようだが、このような理想的な考え方とやり方を選択す

(19)

ることは同時に理解されにくい孤独感にも耐えなければならないことを意味する。

 王国維のこの時期の文章から見られるように、彼が十年の力を尽くして西洋哲学を研究した ことは、自分の認識と社会現状に対する判断に基づいて、学術と思想の発展などより深い面で 中国の現状の変化に対する呼応であった。つまり思想から根本的に国民思想を変えることである。

三 伝統学術の本位性に対する認識

 長期的な発展と変化を経ないと、本当に時代のニーズに合うのがどのような変化であるか、

どの方向を歩むべきかを知ることはできない。しかし、すべての人が自分なりの認識を持って いることは否定できない。大きな面から言えば国家政治の改革から手を入れたい人には光緒帝、

康有為、梁啓超、章太炎などがいて、小さな面から言えば農業・工業技術の改善と向上で国力 を高めたい羅振玉などがいた。そのほか、教育興国、実業興国などの主張が新思潮の席巻に伴 って当時の中国で急速に実践を展開した。先に述べたように、王国維は許同藺への手紙で、彼 は中国の上から下への改革が通じないと思っていたと書いた。最も根本的な方法は国民の思想 を変えることにあって、学術と教育の力によって下から上への変化を遂げる。これが王国維の 時代のニーズに対する認識である。上述した王国維の西方学術に対する積極的な主張とその哲 学を学ぶ極めて困難な過程を通じて、清末期の行動性に欠けた、硬直化した中国伝統的な学術 思想の現状と結合して考察すれば、この時期王国維の学術主張と学術実践と彼が認識した時代 のニーズとの一致性を発見することができる。つまり、王国維は「学術の独立性」を主張する と同時に、中国の学術発展の需要に対して自発的に呼応し、中国の学術発展発の責任を担おう とした。汪康年への藤田豊八などの日本知識人を守る手紙や西洋学術を導入する必要性を訴え る文章からも、また、張之洞への奏章に京師大学堂に哲学科を設立する提案からも、その責任 感が明らかに見られる。羅振玉は多くの学者に質疑を出した青年時代の王国維が傲慢だと評価 したことがある。比較的に落ち着いた後期の王国維に比べて、前期の彼は人間関係や学術主張 でより活発的て、自己主張的な特徴がある。実は、その時の王国維は中国の現状を変える希望 を持っているからこそ、西洋の学術に対する学習と重視を繰り返して呼びかけるのである。

 第一次世界大戦の前、西洋諸国は国力が強かったため、東方の国家の改革の手本となった。

日本の成功経験は、中国の各階層の識者をさらに刺激し、西洋の技術を導入し始めた。学術界 は西洋学術についての紹介も行われていたが、王国維が「論近年之学術界」で評価したように、

当時の中国に導入された西洋の学問の多くは科学技術類で、思想とは関係ない。康有為など学 者、新民叢報・浙江潮などの新聞雑誌の西学宣伝は政治の目的を持っている。国内の学校や留 学生はおもに科学を専門にしており、思想を専門にしても学術界に対する影響がまだ見られな い。要するに王国維は、当時の中国に導入された西洋思想の大部分が政治的手段で、独立した 学術ではないと思っている、純粋な思想的な哲学は教育の権力者に異端とみなされて、社会に

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