バグダード鉄道論ノート(3)
その他のタイトル The Bagdad Railway : A Study (3)
著者 杉原 達
雑誌名 關西大學經済論集
巻 38
号 6
ページ 831‑863
発行年 1989‑03‑10
URL http://hdl.handle.net/10112/14288
8 3 1
論 文
バグダード鉄道論ノート
( 3 )
杉 原
達
はじめに
I
鉄道建設の背景(1) トルコにおける危機の深化 (2) 危機打開策としての鉄道建設
I l
鉄道建設の過程( 1 )
前 史(2) アナトリア鉄道建設 (3) バグダード鉄道建設
( 4 )
小括〔以上,『経済論集』第28
号第1・2・3・4
合併号〕I I I
ドイツ帝国主義とバグダード鉄道建設 (1) 研究史の整理と課題の設定(2)独土関係の形成〔以上,「経済論集」第30号第4・5・6合併号〕
(3) ドイツ帝国主義とバグダード鉄道建設一~世紀転換期を中心に一
① アナトリア鉄道延長交渉の開始
—画期としてのトルコーギリシア戦争 (1897年)一
③ バグダード鉄道協定の締結〔以上,本号〕
皿 ドイツ帝国主義とバグダード鉄道建設 一 世 紀 転 換 期 を 中 心 に 一 一
バ グ ダ ー ド 鉄 道 問 題 は , 外 交 史 的 に み れ ば 第 一 次 世 界 大 戦 に 至 る 独 英 ・ 独 露 緊張の一つの導火線という意味で• 「 外 交 の 優 位 」 の 観 点 に 立 つ 伝 統 史 学 に と っ て は , 格 好 の 研 究 テ ー マ で あ っ た 。 そ し て 実 際 , 鉄 道 建 設 が 現 在 進 行 形 で あ った
1 9
世 紀 末 か ら . 大 戦 を 経 て 現 在 に 至 る ま で , こ の 観 点 の 下 で 多 く の 実 証 研 究が積み重ねられてきた。これに対してマルクス主義歴史学の陣営では,この問題を. ドイツ帝国主義
8 3 2
関西大學「経清論集」第3 8
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号( 1 9 8 9
年3
月)の下部構造分析と関わらせて把握しようとする意識が強いのは当然である。っ まりバグダード鉄道政策は, ドイツ帝国主義の対外膨張の典型,即ちドイツ銀 行を中心とする金融資本の利害が国家のトルコ政策を規定し,国家が金融資本 に奉仕した典型として把握され,いわば正統マルクス主義的帝国主義論が見事 に適用できるテーマとみなされてきたのである。
確かにバグダード鉄道問題にあっては,それが提起された時点から常に経済 的利害が前面に登場し,経済帝国主義とも言うべき性格が,一貫して存在して いた。だが現代帝国主義の対外政策の批判的分析は,支配的資本の要求が基本 的に貫徹されたという結果を事後確認し,それを帝国主義段階における経済政 策の例証として提示することによっては,およそ十全には果たされ得ない。む しろ帝国主義が有する経済・政治・軍事・文化等の諸側面を意識的に関連させ ることによって,対外政策が生み出されてゆく歴史的諸条件を構造的に把握す る営みこそが,求められているのではないであろうか。
いったいバグダード鉄道政策は, ドイツ国内における社会的諸勢力のどのよ うな配置状況の下で選び取られたのか? それは,どのような経済的利害の,
どのような角逐の中での決定であったのか? そして建設推進派は,いかなる 説得の論理を展開したのか? 同じく推進といっても,何を基準にして,ある 時は積極的となり,ある時は慎重となったのか? 反対派のイデオロギーはど のようなものであったか? そのイデオロギーの背後には,どのような経済的
・社会的利害や意図がかくされていたのか? 等々ー一本稿は,列強間の国際
関係やトルコ内部の政策路線の確執にも視線を向けながらも,基本的には,内政
との関連を意識したこのような問題設定に回答を試みることをめざそうとして
いる。典型的な外交政策上の課題に他ならなかったバグダード鉄道政策の分析
も,こうした作業を通じて, ドイツ帝国主義の社会的・構造的 ( g e s e l l s h a f t l i c h )
な把握に対して一定の寄与をおこなうことができるのではないであろうか。以
下では, この鉄道問題が国際的にもまたドイツ国内でもクローズ・アップさ
れ,その中で以後の政策展開の粋組も確立した時期である世紀転換期を中心と
バグダード鉄道論ノート
( 3 )
(杉原)8 3 3 して,一定の国際的・国内的緊張状況におけるバグダード鉄道政策の形成過程 および決定過程の歴史的分析を課題としたい。
第
1節アナトリア鉄道延長交渉の開始
—画期としてのトルコ=ギリシア戦争 (1897年)_
C
1) 1 8 9 0 年代中葉におけるトルコの危機
1 8 8 8 年協定に基づき,翌 9 9 年に建設が開始されたアナトリア鉄道は, 9 2 年に アンゴラ線が, 9 6 年にはコンヤ線が開通する。この鉄道の延長,つまり狭義の バグダード鉄道建設は,第 I I 章でみたように, 1 8 9 3 年 2 月に結ばれたエスキシ ェヒルからコンヤヘ南下する路線の建設協定において,既に問題とされていた が,続いてこのコンヤ線の完成後,アンゴラ線の延長か,コンヤ線の延長か,
それとも別の路線の敷設かという点では議論の余地のあるものの,バグダード からペルシア湾へ向けての大規模な鉄道建設が, トルコ側からドイツに対して 繰り返し打診されることになる。スルタン・アプデュル=ハミト 2 世からは,
例えば 1 8 9 5 年 3 月イスタンプ)レのドイツ大使館に対し,また 9 6 年 2 月にはベル リンのトルコ大使を通じて皇帝ヴィルヘルム 2 世に対して延長要請が行われて いる
D。 トルコ側の要請の根拠については, すぐ後に述べることにし, 9 ° 5 / 9 ° 6 年時点でのドイツ側の反応を先に見ておこう。
こうした要望に対してドイツ銀行は,いずれの場合にも拒絶の意を示し,さ らに 9 6 年 1 1 月にも,当面はアナトリア鉄道会社の経営基盤を固めることが第一 と , ドイツ外務省に説明している。ドイツ銀行頭取ジーメンスは, トルコの財 政事情が,現存の路線に対するキロメートル保証金の支払い義務さえ滞る状態 である以上,まして保証金支出の負担を更に増加するような鉄道延長は論外で ある,という態度であった。だがジーメンスが消極的にならざるを得なかった ことには, ドイツ銀行自身がかかえていた困難も作用していた。その一つは,
1 ) K . H e l f f e r i c h , G e o r g v o n S i e m e n s , B d . 3 , B e r l i n 1 9 2 3 , S . 8 3 . B . S 1 t k 1 , Das Bagdad‑Bahn‑Problem 1 8 9 0 ‑ 1 9 0 3 , D i s s . , F r e i b u r g i . B r . 1 9 3 5 , S . 4 3 . ・
71
8 3 4
闊西大學「経清論集」第3 8
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年3
月)1 8 9 3 年 7 月に生じたアメリカの経済危機の結果, 1 8 8 0 年代初頭以来北太平洋鉄 道( N o r t h e r nP a c i f i c R a i l w a y ) へ巨額の投資をしてきた同行の打撃が大きかった ことである―北太平洋鉄道の苦難はアナトリア鉄道の先例と映った―。そ して第二に,アルゼンチン債・イタリア債発行に伴う損失が,なお響いていた ことも指摘できよう。以上を要するに, ドイツ銀行としては,延長計画につい ては拙速を急ぐ気はなく,むしろ消極的な姿勢を示していたのであった
2)。
では 1 8 9 0 年代半ばの時点で, 卜)'レコ側がアナトリア鉄道の延長を強く求めた 背景は,何であったか? 1 8 9 5 年 8 月1 5 日,イギリス上院において首相ソール ズベリがおこなった「トルコの独立とは, トルコに手をつけずにそれを維持 しようという列強の合意の上に成り立っているという, 全 く 特 殊 な 独 立 で あ る 」
3)という発言は, 国際社会の中でオスマン帝国が置かれていた位置を明示 したものといえるだろう。まず国家財政の破産,そして列強代表をメンバーと する債務管理委員会の介入によって, 1 8 8 0 年代を通じて大きく進行したオスマ ン帝国の危機は,今や,国家としての存続に関わる諸問題の続出によって,ま すます深刻さを増しており,その早急な打開策が求められていたのであった。
以下,①アルメニア人問題,② トルコ分割問題,③クレタをめぐるトルコ=ギ リシア戦争の順に見ていこう。
まず第一のアルメニア人問題について。アルメニア人は,既に 1 8 6 0 年代から 自治を要求しており, 1 8 7 7 / 7 8 年の露土戦争では, ロシアの側にシンパシーを 寄せていた。 1 8 8 8 年のベルリン条約の時点では,おおよそロシアに 1 0 0 万 , ト ルコに8 0 万(うちイスタンプルだけで1 6 万),そしてペルシアに 1 0 万人がそれぞれ 居住していた。とくにトルコでは,このベルリン条約で,アルメニア人の処遇 改善のための改革実施が義務づけられたにもかかわらず,その実行が果たされ なかったこともあって,アルメニア民族主義組織が,イギリスを中心に 1 8 8 0 年
2) H e l f f e r i c h , o p . c i t . , S . 8 2 f . , S i t k 1 , o p . c i t . , S . 4 3 .
3) J . L e p s i u s u . a . , H g . , D i e G r o / 3 e P o l i t i k d e r E u r o p a i s c h e n K a b i n e t t e , 1871‑
1 9 1 4 , B e r l i n 1 9 2 2 f f .
(以下G .P .
と略記),B d . 1 0 , S . 3 2 , F u B n o t e .
72バ グ ダ ー ド 鉄 道 論 ノ ー ト(3)(杉原)
8 3 6 代末から活発な活動を展開していた。イギリスは, トルコにおけるキリスト教 徒の救出という十字軍的「ヒューマニズム」の大義名分に加えて,エジプト問 題から眼をそらせ,かつロシアの南下を牽制するという実利も絡んで, 1 8 9 4 年 夏 , 9 5 年夏と「アルメニア人虐殺」が相次ぐ中で,この民族迎動を支持し, ト ルコに圧力をかけていた。とりわけ自由党グラッドストーンは,比較的親トル
コの立場をとる保守党・ソールズベリ政権を揺さぶるという内政的関心から,
アルメニア民族運動支援に対して特に力を入れていたといわれる叫
こうした状況下で, ドイツは,同じくキリスト教世界に属しながらも,イギ リスとは一線を画していた。たとえばヴィルヘルム 2 世は, 1 8 9 5 年 8 月のイギ リス訪問の際にも,・ トルコの状態がますます悪化して崩壊の危機が迫っている ことを説くソールズベリ首相に対して, トルコの状態は改善されており,善意 をもってスルタンに意見をすることが必要と異論を述べている尻 つまりドイ ツは,列強への何らかの圧力手段としてスルタンに利用されることを避けなが
らも, トルコに対して友好的な態度を維持し続けていたのである。
第二は, トルコ分割問題である。これもまたイギリスから発せられたもので あった。 1 8 9 5 年 7 月ソールズベリは,駐英ドイツ大使ハッツフェルトとの会談 で , トルコ分割を暗示する発言をおこなった。従来,南下を求めるロシアを抑 止するためにトルコ保全をはかるのがイギリスの政策であったが, 「ソールズ ベリは早くから, トルコ帝国の維持が結局は困難であることを見透して,決定 的な瞬間にはその崩壊もやむを得ぬ」
6)とみていたのである。 これに対してド イツ外務省は,猜疑の念をもって応対し,ィギリスの真の狙いは, トルコ分割 が具体化すると,バルカンをめぐるオーストリアとイタリアの矛盾も噴出し,
その結果予想される独襖伊「三国同盟」の弱体化にあるのではないかと分析し
4) S 1 t k 1 , o p . c i t . , S . 4 7 f f .
5)
岡部健彦「東方問題とドイツ(1895・96
年)」(『西洋史学』第1 0 0
号,1 9 7 6
年3
月), 9ページ。6)
岡部論文,5
ページ。836
関西大學「経清論集」第3 8
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年3
月)ていた。こうした意味で, ドイツはトルコ分割案を受け入れることを拒絶した のであった。(なおストウクゥは,アルメニア人救済を強調することによって, 親トル コ的な保守党政権を揺さぶろうという自由党の内政的戦略を嫌ったゾールズベリが, トル コ分割案という思い切ったフ゜ランを示して「アルメニア改革」に抵抗するスルタンとロシ アを刺激しようとした, というイギリスの中での内政的脈絡で分割問題をとらえようとし ている。そしてその根拠として,ソールズベリが,スルタンから改革努力をうたった取る に足りぬ譲歩を引き出して以後は, 二度と分割案には触れなかったことを挙げている凡)
次いで第三の,クレタ島の帰属をめぐって勃発したトルコ=ギリシア戦争を 見ておこう。ベルリン会議後の
1 8 7 8
年1 0
月,クレタ島を「ギリシア国王の次男ゲ オルギオスを高等弁務官とするトルコ宗主権下の自治体制」8)におくことが,一応は承認されていた。しかし大ヘレニズム帝国建設をめざすギリシアークレ 夕統一運動にとっては,こうした「改革」は,全く不十分なものでしかなかっ た。
1896 年 4
月,島内西部のカニアで蜂起があり,ギリシア政府は公然とこれを 支持した。列強の工作で1 4
項目にわたるプログラムに基づいてスルタンが「改 革」を約束するという形で,この蜂起は一応の終息をみるに至ったが,更にこ れに続いて翌9 7 年 1
月再びキリスト教徒による蜂起が起こり,1
月1 0
日には,ギリシアとの統一を宣言した。列強による紛争の地域化工作にもかかわらず,
2
月1 6
日にはギリシア将校バッソが,ギリシア国王の名においてクレタ島占領 を宣言している。その際, ドイツ皇帝は, ギ リ シ ア と ク レ タ の 連 絡 を 断 つ べ く,列強の戦艦による海峡封鎖を提唱,英仏の同意を得られず,国内でもビス マルクの批判を招くことになる。3
月の列強による調停は, トルコの主権下で のクレタの自治を承認するというものであった。これに反発したギリシアは,ついに
4
月トルコとの国境を越えて戦争に突入したが,早くも4
月1 8
日にはト ルコが戦勝を表明するに至った( 1 2
月4日に講和)。
7) S 1 t k 1 , o p . c i t . , S . 5 3 .
8)
木戸蒻『バルカン現代史』山川出版社,1 9 7 7
年,1 3 0
ページ以下。バ グ ダ ー ド 鉄 道 論 ノ ー ト(3)(杉})厠) 837
トルコ側はこの戦争によって直接に得たものはなかったにもかかわらず,そ の意義は大きかった。 トルコ人歴史家ストゥクゥによれば, この戦勝が, トル コはもはや軍事的能力を有していないとするヨーロッパの見方を事実をもって 否定したこと,そして何よりもトルコ人の民族感情の覚醒に寄与したことにこ そ,その成果があった尻
トルコ=ギリシア戦争は,クレタ島問題を直接の原因としており, ドイツ,
ましてアナトリア鉄道とは何の関係もなく発生したものであった。だが一ーも とよりテッサリア地方を奪還しようというスルタンの野望には同調しなかった
とはいえ—-,先に見たような皇帝の激しい提案や,あるいは講和の際に示さ れたように, ドイツは,このクレタ問題そしてトルコ・ギリシア戦争におい て,明確に親卜)レコ色を打ち出した。ベルリンでは,十年以上にわたるドイツ 軍将校による軍事教育の蓄積とドイツ製の武器の浸透とが,戦勝の背景として 認識されていたのである。
以上に瞥見したように, 1 8 9 0 年代中葉のオスマン帝国は,民族問題と宗教問 題が重畳するアルメニア人問題, ィギリスによるトルコ解体・分割計画の浮 上,そしてクレタ島領有をめぐる隣国ギリシアとの戦争勃発といった,国家と しての存立が問われるような危機が進行しつつあった。しかもドイツは,この いずれの問題においても,程度の差こそあれ,親トルコの立場を堅持し,スル タンの信頼を一屈強いものとした。こうした中で,とりわけ対ギリシア戦争勝 利の後,小アジアからメソポタミアさらにペルシア湾へと展開する横断鉄道の 実現をドイツに要望するというトルコ側の意向は,スルタン自身とトルコ陸軍 の強力なイニシアティヴのもとで,何よりも戦略的観点に砧づいてますます強 いものとなったのである
10)。
9) S 1 t k 1 , o p . c i t . , S . 5 8 .
1 0 ) H e l f f e r i c h . o p . c i t . , S . 8 2 f . , S 1 t k 1 , o p . c i t . , S . 4 2 f f . , 6 4 . , L . Rathmann, D i e
N a h o s t e x p a n s i o n d e s d e u t s c h e n J m p e r i a l i s m u s vom Ausgang d e s 1 9 . J a h r h u n ‑
d e r t s b i s zum Ende d e s e r s t e n W e l t k r i e g s . E i n e S t u d i e u b e r d i e w i r t s h a f t s p o ‑
l i t i s c h e Komponente d e r B a g d a d b a h n p o ! i t i k , H a b l . M a s c h . S c h r i f t , L e i p z i g 1 9 6 1 ,
8 3 8
闊西大學「純清論集」第3 8
巻第6
号( 1 9 8 9
年3
月)〔
2) トルコ=ギリシア戦争とアナトリア鉄道
既にみたように,アルメニア問題やトルコ分割問題において示されてきたド イツ外交の親トルコ的色彩が,画然たる様相をあらわしたのは, 1 8 9 7 年に勃発 したトルコ=ギリシア戦争においてであった。 この戦争は, 次のような意味 で,軍事を軸とするそれまでのドイツ・トルコ関係の総括としての性格を有し ていたといえるだろう。
まず第一に,この戦勝の内に,ゴルツの指導下でのプロイセン・ドイツ流軍 事教育の成果が示された。ゴルツは戦争を総括して, 次のように記した。「こ の戦争は,スルタン・アブデュル=ハミト 2世によって 1 8 8 6年に開始され,し ばしば中断はありつつも,全体としては成果をあげつつ進められてきた軍政改 革が無駄ではなかったこと,またそれは今後進むべき正しい道を奇し示してい ること,を教えたのである」
11)と 。
そして第二に, ドイツの継続的武器輸出もまた戦勝に大きく貢献したのであ り,ベルリンでは,ク)レップのクルーゾー(仏),アームストロング(英)に対す る勝利と受けとめられた
12)。初代の大使館付武官モルゲンは,着任早々以下の ように皇帝ヴィルヘルム 2 世に伝えている。「ドイツ軍事使節の仲介による軍 需資材(魚雷艇,野戦砲,沿岸砲,銃,砲弾および歩兵銃用弾薬)のドイツヘの発注 S . 2 0 1 f f . L . Rathmann,'Volldampf v o r w a r t s nach Euphrat und Tigris'Die Endkampf um d i e Beherrschung d e s osmanischen R e i c h e s i n d e r I a h r e n 1 8 9 7 ‑ 1 9 0 3 , i n : W a l t e r Markov ( H g . ) , K o l o n z a l z s m u s und N e o k o l o n i a l i s m u s i n N o r d a f r i k a und N a h o s t , B e r l i n 1 9 6 4 , S . 1 4 1 , F . H . K o c h w a s s e r , Das d e u t s c h e R e i c h und d e r Bau d e r Bagdadbahn. Ein K a p i t e l d e u t s c h e r O r i e n t ‑ P o l i t i k , i n : D e r s . und H .
R.Roemer ( H g . ) , Araber und D e u t s c h e . Begegnungen i n e i n e m J a h r t a u s e n d , T i i b i n g e n / B a s e l 1 9 7 4 , S . 3 0 2 f .
1 1 ) v . d . G o l t z , Der T h e s s a l i s c h e K r i e g und d i e . T u r k i s c h e Armee. E i n e k r i e g s ‑ g e s c h i c h t l i c h e S t u d i e , B e r l i n 1 8 9 8 , S . 2 5 7 .
なお本書執筆のための資料を提供したのはモルゲンであり
( v .d , G o l t z , D e n k w u r d i g k e i t e n , B e r l i n 1 9 2 9 , S . 1 7 1 , V g l . W. van Kampen, S t u d i e n z u r d e u t s c h e n T u r k e i p o l i t i k i n d e r Z e i t W i l h e l m s I I , D i s s . , K i e l 1 9 6 8 , S . 3 6 4 ) ,
ここに両者の親密な関係の一端が示されている。1 2 ) Rathmann, V o l l d a m p f , S . 1 4 1 .
バ グ ダ ー ド 鉄 道 論 ノ ー ト(3i(杉原)
8 3 9 が , 1885‑1895 年の間に 1 億フランは下回らない,ということが想起されてよ いでありましょう。それは確かに道徳的な影響ー一このことは,とりわけ今回 の戦争において,どのトルコ人将校・兵士も皆が,この戦勝はドイツ式教育を
通じてのみ得られたという意見であったことによって際立ったのですが一~と並ぶ明確な帰結であります」
13)と 。
だが上述のドイツ式軍事教育, ドイツ製軍事資材と並んで, ドイツがトルコ の戦勝に貢献することができた第三の要素は,ほかならぬアナトリア鉄道であ った。 1 8 9 0 年代には,アナトリア鉄道の完成によって,約 1 0 0 個の大隊を, 最 長でも 14 日以内にヨーロッパ・トルコの戦場に派遣することが可能となってい たのである
14)。
ところでヘルフェリッヒの『ジーメンス伝」には, トルコ=ギリシア戦争と アナトリア鉄道に関して, 次のような記述が見られる。一「戦争そのもの が , トルコ帝国の防衛のためには,鉄道が巨大な意義を持っていることを示し
た。動員および部隊・物資•生活手段の輸送にとって,アナトリア鉄道の能力は , トルコの武力勝利の最も重要な前提のひとつであった。」
15)これを受けて, トルコ人歴史家ストゥクゥも, 「動員と補給輸送に際して,
アナトリア鉄道は,その任務に十分対処できる能力を示した一方,フランス人 によって管理されていた鉄道は,その際に何の役にも立たなかった。アナトリ ア鉄道の能力は, トルコの勝利に本質的に寄与した。 トルコとギリシアの間の 講和条約が締結される ' ( 1 8 9 7 年 1 2 月 4 日)や否や,スルタンは彼のバグダード 鉄道計画に関して,着任早々の新大使マルシャルに, しきりに接近した。」
16)と 1 3 ) v . Morgen an Wilhelm I I . , v . 3 . 2 . 1 8 9 8 , M i l i t a r b e r i c h t N r . 6 , P o l i t i s c h e s
Archiv d e s Auswartigen Amtes ( B o n n ,
以下PA
と略記),T i i r k e i 1 3 9 , B d . 1 8 , A 1 6 9 5 .
なおJ . L . W a l l a c h , A n a t o m i e e i n e r M i l i t a r h i l f e . D ̲ i e p r e u f 3 i s c h ‑ d e u t s c h e n M i l i t a r m i s s i o n e n i n d e r T u r k e i
1835~1919,D i i s s e l d o r f ̲ 1 9 7 6 , S . 1 0 5 .
も参照。1 4 ) K a r l s r u h e r Z e i t u n g v . 4 . 1 4 . 1 9 0 6 . 1 5 ) H e l f f e r i c h , o p . c i t . , S . 8 3 .
1 6 ) S 1 t k 1 , o p . c i t . , S . 6 4 .
7 7
8 4 0
闊西大學「経渭論集」第3 8
巻第6
号( 1 9 8 9
年3
月)述べている。
近代戦争において,鉄道が戦争の帰趨に及ぼす影響が甚大であることは,改 めて言及するまでもない。とりわけオスンマ帝国のように,広大な低開発地域 を擁した独裁体制の場合には,的確な動員の可否が,戦況を左右することは大 いにあり得よう。だが注意すべきは,鉄道が軍事的意義を有するという時,そ
れは必ずしも,常に一一つまり平時においても一~軍用収入が営業収入の中で高い比重を占めるということを意味するわけではないという点である。近代戦
...
の場合は,緊急の有事の際に,どれだけ大量かつ迅速な必要兵力の軍事動員が 可能であるかが,戦略的にみて決定的な重要なボイントなのである。アナトリ ァ=バグダード鉄道は,何よりもまずこの目的実現のために建設が企図された のであって,こうした意味での軍事性にこそ,鉄道の根本的性格が存在してい たのであった。
しかるに従来の研究史を一瞥しても,管見の限りでは,外国語・邦語文献を 問わず,鉄道が戦勝に貢献したという結論だけが指摘されるにとどまってお り,立ち入った分析を見ることができない。そこで以下では,研究史上の空白 を若干なりとも埋めるために, トルコ=ギリシア戦争がアナトリア鉄道の経営
...........................
に対して,具体的にどのような形で,どれだけの収入をもたらしたのかを,営 業報告書
17)を活用しながら考察し,この鉄道のすぐれて軍事的な性格を明らか にしていこう。
①
第 1 表に掲げた数字は, トルコ=ギリシア戦争が勃発した 1 8 9 7 年前後のア ナトリア鉄道会社の収入状況である。やや情報を盛り込みすぎたので,簡単に 表の説明をしておきたい。まず営業収入は,旅客収入・急行貨物収入・普通貨 1 7 )
第1 6
表 お よ び 第9 10
表は,S o c i e t edu c h e m i n d e f e r O t t t o m a n d ' A n a t o l i e ,
B e r i c h t d e s V e r w a l t u n g s r a t h e s u b e r d a s n e u n t e B e t r i e b s j a h r ( 1 8 9 7 )
を中心にして,そのほか
1 8 9 9
年度,1 9 1 2
年度および1 9 1 4
年度の各営業報告害の巻末に掲載されている 諸付表から作成した。なお以下の論述は,私の研究に対するクアークートの言及への応 答を試みたものである。C f .D . Q u a t a e r t , S o c i a l D
函n t e g r a t i o nand P o p u l a r R e s i s ‑
t a n c e i n t h e Ottoman E m p i r e , 1 8 8 1 ‑ 1 9 0 8 , New York and L o n d o n , 1 9 8 3 ,
p.1 7 2 .
78
バグダード鉄道論ノート
(3)(杉原)
841物収入およびごく僅少のその他収入から構成されており,その総額が総収入の 列の右欄である。次に,「うち軍用収入」と示された列は,各項目の中で軍事 輸送によって得られた収入を指し,その合計がやはり右欄の第 2 列に表示され ている。「
9ヽ」の欄は,軍事輸送収入の合計に占める, 旅客・急行貨物・ 普通 貨物の 3 項目の配分を指している。最後の「軍用収入比」は,各項目内での収 入に対する軍事輸送収入の比重を示すものである。
まず全営業収入の中で, 3 つの部門が有する比重を確認しておこう。第 1 項 の旅客収入は, 全体のほぽ 3割弱を占めており, 第 2項の急行貨物収入は,
1 8 9 7 年には 1 割に達しているとはいえ,これは例外的で比重は小さい。これら に対して,穀物を中心とする普通貨物の輸送による収入は,全営業収入の 3 分 の 2 近くに達しており, しかも注意すべきことに, 1 8 9 7 年でもこの比重には何 ら変わりがない。この傾向は,その後も続くが,本節の末尾で示すように 1 9 1 2 年以降ドラスティックな変化を見せることになる。
③
次に各年度の営業収入および軍用収入の総額の,各年度間の推移を考察し よう。第 1 表右欄を見ていただきたい。直ちに目をひくのは, 1 8 9 7 年の営業収 入の高さであるー。前年の2 , 2 8 6 万ビアスターから 4 , 7 3 3 万ビアスターヘと 2 . 1 倍 もの上昇を示している。そしてこの大幅な増収は,何といっても前年の 2 2 9 万 ピアスターから 1 , 2 2 6 万ビアスターヘと 5 .7 倍にも達した軍事輸送による収入の 急増に基づいていた。営業収入の増収額( 2 , 4 4 7 万ヒ゜アスター)と軍事輸送収入のに 増収額 ( 9 9 7 万ヒ°アスター)とをつき合わせると,後者は,前者の 4 1 $ ! るにも及んで いる。こうして,平時の 1 8 9 6 年では営業収入の1 0 形であった軍用収入は, 9 7 年 には一挙に26% を占めるに至ったのであり, 98 年以降再び1 0 $ ! る前後 ( 9 8 年は 1 2 . 0 9 6 , 9 9 年は8 . 5 9 6 ) に戻っていることをあわせて考えるならば,対ギリシア戦争の 勃発と,軍事輸送によるアナトリア鉄道営業収入急増との相関関係が浮きぽり になってくるであろう。
⑧
では軍事輸送による収入は,どのような項目から構成されていたのか?
1 8 9 6 年に比べて 9 7 年には,軍用収入の合計が 5 . 7 倍になっているが,そのうち
7 9
80
第
1
表アナトリア鉄道株式会社の項目別営業収入と軍用収入l
総収入1896
年うち軍用収入 軍用収入比 総収入1897
年うち軍用収入 軍用収入比1898
年I
旅客
総収入 うち軍用収入 軍用収入比
7,250,112.41 697,401.19 9.6 11,408,782.77 4,856,304.35 42.6 10,504,576.40 2,684,741.57 25.6
96
131. 7 30.5 24.1 39.6 28.4 60.8
第2
表!
急
I% I
普通貨物%1 4. 7 14, 301, 369. 19 62. 5 0. 7 1. 571, 004. 06 68. 7 11.0 10. 4 30,682,343. 95 64. 8 31. 4 3,555,638. 08 29. 0 11. 6 3. 2 25,042,924.05 67. 8 2. 2 1,635,843. 75 37. 0 6.5
(単位はGoldpiaster. 1 Franc=4. 4 Goldpiaster) (
行
貨
物
1,067, 206. 29 16,875.25 1.
64,943,355.32 3,848,126.75 77.8 ‑ 1, 164, 788. 60 97,963.25 8.4
アナトリア鉄道の旅客収入(単位:Gold piaster)
ア1896
年ン一ー│‑
ゴーフ %
1897
年 線96
コ
1896
年 ー等旅客139,381.47 2.3 139,260.12 1. 7 15,460.25 1. 3 11,449. 75 0.4 154,841. 72 2.1 150,709.87 1. 3
二等旅客997,339.74 16.3 985,160.28 12.1 127,856.36 11. 2 128,181.49 3.9 1,125,196.10 15.5 1, 113, 341. 77 9.8
三等旅客4,304,035.47 70.5 4,136,257.83 50.8 938,605.62 81. 9 1,114,023.06 34.1 5,242, 641. 09 72.3 5,250,280.89 46.0
軍用637,796.44 10.4 2,854,816.60 35.1 59,604.75 ・5.2 2,001,487.75 61. 3 697,401.19 9.6 4,856,304.35 42.6
その他24,943.82 0.4 29,421.39 0.4 5,088.49 0.4 8,724.50 0.3 30,032.31 0.4 38,145.89 0.3
』
ン 飴 ヤ
1897
年線︱ー%
両
1896
年 合線`1897
年842
合
計
(22,864,564.26) 2,285,280.50 10.0 47,333,144.12 12,260,069.18 25.9 (36,929,472.39) 4,418,548.57 12.0
)内は推定。+︳ー舌n
96
歪固汁撫「階章爵装」渫38~ffi6 % (1989~3 Jl)
合
呻, 103,496. 94[ 100. o!8, 144,916. 22[ 100. o 1. 146,615. 47[ 100. o[3. 263,866. 55[ 100. 0[1. 250,112. 41[100. 0[11. 408,782. 77[ 100. o
バ グ ダ ー ド 鉄 道 論 ノ ー ト(3)(杉原) 843
`旅客収入は7 . 0 倍,急行貨物収入は 2 2 8 . 0 倍,普通貨物収入は2 . 3 倍と, 伸び率 には大きな差異がみられる。なかでも急行貨物収入の増大は飛躍的と言わねば ならない。 9 6 年 ( 1 . 7 万ヒ°アスター)から 9 7 年 ( 3 8 5 万ヒ゜アスター)かけて 2 ケタも増 え , 9 8 年 ( 9 . 8 万ヒ゜アスター)には逆に 2 ケタ減少するという極端な増減の結果,
急行貨物収入が軍用収入全体の中で占める比重も, 1% 未満から 31% と急上昇 を示した後,再び 296 に落ちている。
したがってトルコ=ギリシア戦争は,アナトリア鉄道会社に対しては,まず 第ーに急行貨物収入の急増として,そして第二に旅客収入の増大として,経営 の安定化に貢献を果したと言えるであろう。
④
営業収入を構成する 3収入のうちで,まず第一に旅客収入について検討し よう。
第 2 表を参照されたい。まず一般旅客収入の絶対額については,両年を比較 して,ー等・ニ等・三等のどの等級をみても,またアンゴラ線・コンヤ線のい ずれにおいても,それほど大きな増減は見られない。だが軍用収入だけは,絶 対額でみて,アンゴラ線で6 4 万ビアスターから2 8 5 万ヒ゜アスターヘと 4 . 5 倍に,
またコンヤ線では 6 万ビアスターから 2 0 0 万ビアスターヘと実に 3 3 . 6 倍に増大 している。大まかに言えば,兵士動員による軍用収入が増えた分(アンゴラ線2 2 2 万ヒ゜アスター,コンヤ線1 9 4 万ビアスター)だけ,旅客収入も増大した(アンゴラ線2 0 4 万ピアスター,コンヤ線2 1 2 万ヒ゜アスター)とみることができるだろう。
その結果,相対的にも,旅客収入全体に対する軍用収入の比率は,アンゴラ 線で9 6 年の 1 0 . 4 彩から9 7 年の3 5 . 1 彩へと急増し,またコンヤ線でも, 5.2% か ら 61.3% へと驚異的な伸びを示した。平時には主力の座にある三等旅客収入 の,全旅客収入に対する比は,ァンゴラ線で7 0 . 5 形から5 0 . 8 彩へと,またコン ヤ線では8 1 .9% から 3 4 . 1 9 6 へと急減した。コンヤ線の場合,兵士動員による収 入の方が,三等利用者からの収入を大幅に上回っていた。こうして両線あわせ
ると軍用収入比は,前年の9 . 6 彩から, 42.6% にのぽったのであった。
⑥
この旅客軍用収入の増大の原因となった兵士動員数をみておこう。
8 1
8 4 4
闊西大學「紐清論集」第3 8
巻第6
号( 1 9 8 9
年3
月)第 3
表アナトリア鉄道の旅客数
~ 1 8 9 6
年 ゴー 等 旅 客 3 1 , 0 2 4 人 二 等 旅 客 2 2 0 , 7 1 7 三 等 旅 客 6 6 2 , 2 6 2 軍 用 3 5 , 7 6 0
ムロ
町 4 9 , 7 6 3 9
ラ 線 1 8 9 7
年3 0 , 4 3 7 人 2 0 9 , 4 0 3 6 4 7 , 6 5 7 8 6 , 3 7 0 9 7 3 , 8 6 7
コ ン ヤ 線 1 8 9 6
年 I1 a 9 1
年2 2 4 人 1 2 7 人 4 , 6 9 5 4 , 2 9 4 5 2 , 1 4 1 5 5 , 2 0 0 3 , 7 0 7 4 8 , 3 8 5 6 0 , 7 6 7 1 0 8 , 0 0 6
第 3 表は,路線別および等級別の利用者数を示している。路線としてはアン ゴラ線が,等級としては三等旅客が,それぞれ圧倒的な地位を占めている。た だし 2 年度を比較すると,④でみた旅客収入の場合と同様に,ー等から三等ま での利用者数に変化はなく,これに対して軍用が急増しているのがわかる。アン ゴラ線では, 3.6 万人から 8.6 万人へ増大したが,コンヤ線では更に高い増加率 を示して, 0.4 万人から 4.8 万人になっている。かくして全体として 1897 年は,前 年の 3.4 倍にあたる 13.5 万人の兵士がアナトリア鉄道を利用*したのであった。
⑥
次に営業収入の第二の部分を構成する急行貨物の輸送収入を路線別にみて みよう。
上記③では,軍事輸送による急行貨物収入が,軍用収入全体の中で占める比 重をみたが,ここでは急行貨物の輸送収入の中で,軍事輸送による収入が占め た位置を確定しておきたい。第 4 表によれば, 1896 年の急行貨物の輸送収入の うちで,軍用収入はわずかに 1 . 6 ; l るに過ぎなかったが, 1897 年には一挙に 77.8 形にも達したのであった。
これを路線別にみるならば,アンゴラ線の場合でも, 96 年の 1896 に比して 97 年には 7 0 ; l ると急上昇しているが,コンヤ線をみると,前年度では急行貨物はす べて非軍事物資であったのに対して, 97 年にはその 92% が軍用となっている。
この驚異的な比重によって,私たちは,戦時におけるアナトリア鉄道が,軍事 物資の迅速な輸送に画期的な役割を演じたことを確認できるであろう。
8 2
バグダード鉄道論ノート
( 3 )(杉原) 8 4 5 第 4
表急行貨物輸送における総収入と軍用収入
(単位:
G o l d p i a s t e r ) アンゴラ線 コ・ンヤ線
ム口 計総 収 入 9 3 9 , 7 7 6 . 4 1 1 2 7 , 4 2 9 . 8 8 1 , 0 6 7 , 2 0 6 . 2 9 1 8 9 6 年 うち軍用収入 1 6 , 8 7 5 . 2 5
゜ 1 6 , 8 7 5 . 2 5
劣
1 8 . 0
゜ , 1 . 6
総 収 入 3 , 1 8 2 , 8 6 7 . 4 3 1 , 7 6 0 , 4 8 7 . 8 9 4 , 9 4 3 , 3 5 5 . 3 2 1 8 9 7 年 うち軍用収入 2 , 2 2 4 , 8 6 5 . 0 0 1 , 6 2 3 , 2 6 1 . 7 5 3 , 8 4 8 , 1 2 6 . 7 5
% 6 9 . 9 9 2 . 2 7 7 . 8 第 5
表普通貨物輸送における総収入と軍用収入
(単位:
G o ! d p i a s t e r ) アンゴラ線 コ ン ヤ 線
ム口 計総 収 入 1 1 , 1 5 4 , 6 7 3 . 8 9 3 , 1 4 6 , 6 9 5 . 3 0 1 4 , 3 0 1 , 3 6 9 . 1 9 1 8 9 6 年 う ち 軍 用 収 入 1 , 1 2 9 , 8 7 8 . 1 9 4 4 1 , 1 2 5 . 8 7 1 . 5 7 1 , 0 0 4 . 0 6
彩
1 0 . 1 1 4 . 0 1 1 . 0
総 収 入 2 2 , 5 8 8 , 2 6 9 . 5 4 8 , 0 9 4 , 0 7 4 . 4 1 3 0 , 6 8 2 , 3 4 3 . 9 5 1 8 9 7 年 うち軍用収入 2 , 0 7 9 , 4 2 3 . 9 8 1 , 4 7 6 , 2 1 4 . 1 0 3 , 5 5 5 , 6 3 8 . 0 8
% 9 . 2 i B . 2 1 1 . 6
⑦
では営業収入の第三の部分を構成する普通貨物収入は, トルコ=ギリシア 戦争によってどのような影響を受けたであろうか。
第 4 表と同じ形で普通貨物輸送における軍用収入の比重を確定しようとした のが,第 5 表である。まず路線別にみるならば,アンゴラ線の場合では,絶対 額では軍用収入が倍増しているが,総収入もやはり倍増しており,比率はむし ろ低下している。またコンヤ線の方は,軍用収入が 3.3 倍となって, ポイント.
を上げており,アンゴラ線との比較の限りでは軍用収入への依存が大きいもの の,決定的な比重を示しているとはおよそ言えない。
その結果, 1896 年の普通貨物の輸送収入のうちで,軍用収入は 1̲1.0% であっ たのに対して, 1897 年にも大きな変化は見られず, 1 1 .6% にとどまったのであ った。実はその後も,普通貨物に関する限り,軍用収入の比重はきわめて低く
8 3
8 4 6
閥西大學「紐流論集」第3 8
巻第6
号( 1 9 8 9
年3
月)(皆無の年さえあった) 1913 年にアンゴラ線で 5.8 彩,コンヤ線で 8.2 形であったの が,第一次世界大戦が勃発した 14 年になって初めてそれぞれ 2 0 .7 9 6 , 2 2 . 8 % と 一定の高水準を示したのである。この事実から明らかなように,普通貨物の場 合は,平時・戦時を問わず,圧倒的に一般の非軍事物資の輸送が主体であった のであり,この点で,急行貨物の輸送と際立った対照を示すものであった。
⑧
続いてアナトリア鉄道を,アンゴラ線とコンヤ線に区別して,両者を比較 しておこう。
まず全体として絶対額を見るならば,当時幹線とされたアンゴラ線の方が,
支線のコンヤ線より,営業収入面でも,またその内の軍用収入においても高い 比重を示していることがわかるであろう。ただし傾向としては,営業収入にお ける両線の比は, ( 9 6 年 ) 81 : 1 9 , ( 9 7 年 ) 72: 28 となっており, 98 年 に は 再 び 79
: 21 と逆戻りするとはいえ,以後コンヤ線が徐々に比重を高めてくる。また軍 用収入では, ( 9 6 年 ) 78 : 2 2 , ( 9 7 年 ) 58: 42 であり, 98 年には 84:16 とやはり戻 っているが, その後は営業収入同様コンヤ線の位置が大きくなることになる
(この点は後に再論しよう)。
次に営業収入に対する軍用収入の比重に眼を向けると,アンゴラ線の場合,
軍用収入が 4.0 倍になった結果, 9.7 %から 20.9 %へと上昇しているのに対し て,コンヤ線では,軍用収入が 1 0 .2 倍にはね上がり,比重も 1 1 .3 9 , るから 38.8 形 へと高まったのであった。
⑨
最後に視点をかえて, トルコ政府がアナトリア鉄道会社に対して支払わな ければならなかったキロメートル保証金の支払い状況をみてみよう。
第
6
表アナトリア鉄道・路線別収入の比較 (単位: G o l d p i a s t e r ) ア ン
ゴラ 線 コ ン ヤ 線
1 8 9 6 年 1 8 9 7 年 1 8 9 6 年 1 8 9 7 年 営 業 収 入 1 8 , 4 3 7 , 4 7 7 . 5 0 3 4 , 1 9 3 , 8 9 3 . 0 3 4 , 4 2 7 , 0 8 6 . 7 6 1 3 , 1 3 9 , 2 5 1 . 0 9
うち軍用収入 1 , 7 8 4 , 5 4 9 . 8 8 7 , 1 5 9 , 1 0 5 . 5 8 5 0 0 , 7 3 0 . 6 2 5 , 1 0 0 , 9 6 3 . 6 0
形9 . 7 2 0 . 9 1 1 . 3 3 8 . 8
8 4
バグダード鉄道論ノート(3)(杉原)
8 4 7
トルコ政府は,1888
年10
月の協定に基づいて,アナトリア鉄道会社のアンゴ ラ線については,鉄道の1
キロメートルにつき15,000
フランの年間最低収入を 保証し,もし営業収入だけでその額に達しない場合には,差額を援助すること となっていた。またコンヤ線については,1893
年2
月の協定によって,年間最 低収入を13,892フランに設定し,ただしいくら経営状況がかんばしくなくても5,000
フラン( 9 8
年1
月より6 , 7 5 0
フラン18 ) )
以上の保証はしないという条件がつい ていたのである。そのキロメートル保証金の支払い状況は,第
7
表のようであった。さてこのうち当面の分析に必要な
4
カ年について,貨幣単位を換えて(1F r c .
= 4 . 4 G o l d p i a s t e r )
表示したのが,第8
表である。1897
年度のキロメート)レ保証金支払いを前年度と比較すると,とりわけアン ゴラ線に対する保証金の大幅減額が目を引く。1,775
万ヒ゜アスターから176
万ビ第
7
表 アナトリア鉄道へのキロメートル保証金の支払い状況(単位:
F r c s . ) 1 9 l
ア ン ゴ ラ 線 コ ン ヤ 線 アナトリア鉄道 計[km
あたり 計[km
あたリ ムロ 計1 8 8 9 1 8 1 , 4 0 7 1 8 1 , 4 0 7 1 8 9 0 7 5 4 , 3 3 2 7 5 4 , 3 3 2 1 8 9 1 1 , 5 7 3 , 4 3 2 1 , 5 7 3 , 4 3 2 1 8 9 2 2 , 9 5 9 , 2 0 3 2 , 9 5 9 , 2 0 3 1 8 9 3 4 , 1 2 3 , 3 4 7 7 , 1 3 3 4 , 1 2 3 , 3 4 7 1 8 9 4 4 , 9 7 8 , 0 5 4 8 , 6 1 3 2 , 1 1 0 4 , 9 8 0 , 1 6 4 1 8 9 5 4 , 6 2 7 , 3 8 3 8 , 0 0 6 6 4 3 , 8 8 3 4 , 9 5 3 5 , 2 7 1 , 2 6 6 1 8 9 6 4 , 0 3 5 , 0 1 3 6 , 9 1 2 1 , 7 8 4 , 1 2 4 4 , 9 9 5 5 , 8 1 9 , 1 3 7 1 8 9 7 4 0 0 , 6 8 2 6 9 3 2 , 2 2 2 , 2 1 5 4 , 9 9 4 2 , 6 2 2 , 8 9 7 1 8 9 8 1 . 5 3 0 , 6 5 1 2 , 6 4 8 2 , 9 6 1 , 5 4 9 6 , 6 5 5 4 , 4 9 2 , 2 0 0 1 8 9 9 4 , 0 7 7 , 3 1 7 7 , 0 5 4 2 , 9 9 4 , 1 9 4 6 , 7 2 8 7 , 0 7 1 , 5 1 1 1 9 0 0 2 , 7 2 1 , 7 4 4 4 , 7 0 9 2 , 9 9 4 , 1 9 4 6 , 7 2 8 5 , 7 1 5 , 9 3 8 1 8 ) I b i d . , S . 8 .
1 9 ) M. H e c k e r , Die Eisenbahnwesen d e r a s i a t i s c h e n
T廿r k e i ,i n : Archiv fur E i s e n b a h n w e s e n , 3 7 , 1 9 1 4 ,
S1 5 6 6 .
8 5
8 4 8
闊西大學「綬渭論集」第3 8
巻第6
号( 1 9 8 9
年3
月) 第8
表アナトリア鉄道へのキロメートル保証金の支払い状況
(単位: Gold p i a s t e r ) アンゴラ線 コ ン ヤ 線 合 計 営 業 収 入 1 8 9 6 1 7 , 7 5 4 , 0 5 7 . 2 7 , 8 5 0 , 1 4 5 . 6 2 5 , 6 0 4 , 2 0 2 . 8 2 2 , 8 6 4 , 5 6 4 . 2 6 1 8 9 7 1 , 7 6 3 , 0 0 0 . 8 9 , 7 7 7 , 7 4 6 . 0 1 1 , 5 4 0 , 7 4 6 . 8 4 7 , 3 3 3 , 1 4 4 . 1 2 1 8 9 8 6 , 7 3 4 , 8 6 4 . 4 1 3 , 0 3 0 , 8 1 5 . 6 1 9 , 7 6 5 , 6 8 0 . 0 3 6 , 9 2 9 , 4 7 2 . 3 9 1 8 9 9 1 7 , 9 4 0 , 1 9 4 . 8 1 3 , 1 7 4 , 4 5 3 . 6 3 1 , 1 1 4 , 6 4 8 . 4 2 2 , 8 4 8 , 9 4 1 . 4 9
アスターヘと,実に 10分の 1 に低下している。•他方コンヤ線の方は,なお経営状況が軌道に乗ったとは言えず,保証金の支払い額は増大している。だが全体 としてみた場合,軍事輸送の急増が決定的な根拠となって営業収入が増え,そ の結果として,保証金の合計額は,前年の 45.1 形に減じたのであった。とはい え 1899 年には, 96 年以上の水準にもどっており,やはり右欄に示した営業収入 の落ち込みが反映していると言えよう。
それにしても,営業収入を越える金額がオスマン帝国の国庫から助成されて いるわけであり,このキロメートル保証金制度の有した,凄まじいまでの植民 地収奪的性格が,ここに示されている。この点は,後に再び触れることにした
し' a
以上を,簡単に総括しよう。
平時の前年に比して, 1897 年には,営業収入が絶対額で倍増したが,増収額 の 4 割が軍事輸送による収入であった(②)。その結果,軍用収入が営業収入の 中で占める割合も, 1 0 § 1 るから 26 飴へと急上昇したのである。この軍用収入の増 大は,
(a)急行貨物による軍事物資の輸送と,
(b)兵士動員に基づくものであった
( ③ ) 。
( a ) 1 8 9 7 年の急行貨物収入の 8 割近くは,軍用収入によって占められており,
有事の際の緊急物資輸送の威力が,ここに示されている(⑥)。
( b ) アナトリア鉄道の兵士動員は, アンゴラ・コンヤ両線あわせて, 96 年の 3.9 万人から, 97 年の 13.5 万人へと約1 0 万人の増加をみた(⑤)。その結果, ト
J
レコ==ギリシア戦争の年には,アンゴラ線旅客収入の 35
ク; 5 , コンヤ線旅客収入
8 6
バグダード鉄道論ノート(3)(杉原)
8 4 9 第 9 表 アナトリア鉄道株式会社 (3 線合計)営業収入の構成
(単位:
G o l d p i a s t e r ) [ J
内はH e c k e r ,o p . c i t . ,
による。旅 客 収 入 %1 急行貨物収入彩 1 普通貨物収入 1
飴総 収 入 1 9 1 1 2 1 , 2 1 2 , 1 7 4 . 4 6 3 1 . 9 4 , 0 2 0 , 7 8 8 . 0 9 6 . 1 4 1 , 0 9 6 , 8 6 2 . 1 1 6 1 . 9 [ 6 6 , 4 4 1 , 1 9 2 . 4 ] 1 9 1 2 3 3 , 5 6 2 , 6 7 2 . 0 3 4 0 . 5 1 2 , 2 8 0 , 0 2 9 . 8 3 1 4 . 8 3 5 , 5 0 2 , 4 6 2 . 5 2 4 2 . 8 8 2 , 8 9 7 , 8 4 9 . 0 4 1 9 1 3 3 4 , 2 6 3 , 0 6 1 . 2 2 4 3 . 5 7 , 8 3 5 , 8 5 5 . 6 3 1 0 . 0 3 6 , 4 6 6 , 7 3 7 . 1 9 4 6 . 3 [ 7 8 , 6 9 8 , 4 8 3 . 1 8 ] 1 9 1 4 3 3 , 7 2 5 , 4 8 0 . 0 5 2 4 . 5 7 1 , 5 5 1 , 9 4 4 . 9 1 5 2 . 0 3 2 , 2 1 1 , 5 1 8 . 8 2 2 3 . 4 1 3 7 , 5 9 0 , 9 1 8 . 4 7 の 61% が,軍事動員によるものとなった。両線合わせて, 96 年 725 万ヒ°アスタ ーから 97 年 1,141 万ヒ°アスターヘと 416 万ヒ゜アスター旅客収入が増大をみたの は,実は軍用収入が, 70 万ビアスターから 486 万ヒ゜アスターヘと 416 万ヒ゜アスター 増大した結果であった。偶然とはいえ,この数値の一致には驚きを禁じざるを 得ない。かくして 96 年に旅客収入の 9.6% に過ぎなかった軍用収入比は, 97 年 には 42.6 形にも達したのである(④)。
またトルコ政府にとって大きな負担であったキロメートル保証金の支払い増 減状況も, 1897 年における軍用収入の増加の特殊性をしめしている(⑨)。
ところで 1897 年には,営業収入に対して普通貨物収入の比重は,特筆すべき 変化を見せていなかったが(①,⑦), 唯一ともいうべきこの不変化指標も,
1912 年以降大きく変容した。この点を明らかにしたのが,第 9 表である。それ に従えば, 1912 年にはじめて普通貨物収入が営業収入の半分を切り,大戦の勃 発した 1 4 年には, 23 形に急落した。こうして非軍事物資輸送の比率は大幅に低 下し,戦争に対して鉄道がむき出しの貢献を行う姿が,前而に押し出されるこ とになる。逆に急行箕物輸送の方は, 14 年には対営業収入比が 52 形に及んでい た。同年の急行貨物収入のうち,アンゴラ線では 9 4 5 l る が , コンヤ線では 9 6 9 , るが 軍用収入を構成していたのである。
バルカン戦争から第一次世界大戦に至る過程で,第 1 0 表が示すように,軍用 収入は驚異的な増加をとげた。 1 9 1 1 年には 636 万ピアスターであった同収入は,
1 2 年に 2,544 万ヒ°ァズター, 1 3 年に 2,279 万ピアスター, そして 14 年には 9225 万ヒ゜アスターに達した。その結果, アナトリア鉄道営業総収入に占める比率
8 7
8 5 0
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年3
月)第1
0
表 アナトリア鉄道会社の営業収入と軍用収入 (単位:Gold p i a s t e r )
営 業 収 入 うち軍事1喩送による収入 ゜/0/1 9 1 1 [ 6 6 , 4 4 1 , 1 9 2 . 4 ] 6 , 3 5 9 , 2 1 2 . 7 1 9 . 6 1 9 1 2 8 2 , 8 9 7 , 8 4 9 . 0 4 2 5 , 4 4 0 , 5 3 8 . 8 2 3 0 . 7 1 9 1 3 [ 7 8 , 6 9 8 , 4 8 3 . 1 8 ] 2 2 , 7 8 5 , 6 4 2 . 1 8 2 9 . 0 1 9 1 4 1 3 7 , 5 9 0 , 9 1 8 . 4 7 9 2 , 2 5 2 , 7 1 8 . 8 8 6 7 . 0
も,
9 .6 ; , l
るから,3 0 .7
形,29.0
飴,そして6 7 .0 9 '
ると推移したのであった。後に改めて表を掲げるが,営業統計を入手した
1896 1902, 1905 08, 1911 14
年度の内で,軍用収入が1,000万ピアスターを凌駕したのは,1897
年と1912 14
年だけであった。軍用収入の対営業収入比が,20
形を越えたのもまた,1897
年と1912 14
年だけであった。有事の際に,アナトリア鉄道の貨客車が軍 事輸送に投入された事実が,ここにはっきりと示されているであろう。鉄道のこの軍事的性格は,後のバルカン戦争から第一次世界大戦において,
最も明瞭な形で示されることになるのだが,
1897
年トルコ=ギリシア戦争は,いわばそのパイロット・ケースとしての意義を持つものであったのである。こ の点を十分に認識していたのが, トルコ軍部そしてその教育者たる位罹にあっ たドイツ軍部にほかならなかった。だからこそ,
1897
年以降, ドイツの手によ るアナトリア鉄道の即時延長,すなわちバグダード鉄道の建設を求める要求 が,一方ではトルコ陸軍を通じてスルタン・アブデュル=ハミト2
世へ,他方 ではドイツ陸軍を通じて皇帝ヴィルヘルム2
世へと,強力に押上げられていっ たのであった。第
2
節 バグダード鉄道協定の締結〔
1 〕
新大使マルシャルの赴任( 1 8 9 7
年)内からのアルメニア人問題・ クレタ島問題,外からの帝国分割計画の浮上に よって,国家的危機に直面したスルタンおよびトルコ軍部は,対ギリシア戦争 勝 利
( 1 8 9 7
年)を画期として, 軍事戦略的観点に基づき, ドイツに対してアナト8 8
バグダード鉄道論ノート
(3)(杉原)
リア鉄道の延長を強力に求めるようになった。
851
だがこうしたトルコ側からの要請とは別に,既にコンヤ線完成直後の1 8 9 6 年 7 月の時点で,現地駐在のドイツ人外交官からアナトリア鉄道の延長を求める 声が,ベルリンの外務省に出されていたこともまた,同時に注目されねばなら
ない。
たとえばテヘラン駐在の総領事ゲルトナー ( G a e r t n e r )は,「ドイツが, ペル シア湾地域において,自らの役割を,単なる傍観者に限定し続けるなら,ペル シアやアラプのみならず肥沃なメソポタミアまでも,イギリスの手に委ねてし まい, ドイツの貿易にとって絶えざる損失になるという危険に陥ることにな る。メソポタミアの損失は, ドイツにとってことのほか打撃となるであろう。
というのもこの地は,植民という目的にとって大変適しているようにみえるか らである」と述べて, 対イギリスという観点から, メソポタミア・ペルシア 湾方面へのドイツの積極的な行動を要望していた。そしてゲルトナーは,影響 力を増大させるための具体的方策として,ペルシア湾岸都市プシールにおける 領事館新設 ( 1 8 9 7 年 1 1 月に設立された),バスラでの代理領事館設立, ドイツ戦艦 をペルシア湾へ毎年派遣すること, ドイツとボンベイを直接結ぶ快速蒸気船の 定期航路開設,テヘラン・バグダード間の道路建設とならんで,とりわけ「ア
ンゴラ_シヴァスーーディヤルバク)レー~ド間の, ドイツの鉄道の 延長」を挙げたのであった。
あるいはまた領事リヒャルツ ( R i c h a r z ) は , 1 8 9 5 年 4 月にドイツ領事館が開設 されたばかりのバグダードから,壮大な交通事業の構想をベルリンに寄せてい た。それは,
① アナトリア鉄道の延長(デイヤルバクルーーモスル—バグダード,更にはバ スラ—ペルシア湾—東インドヘと接続)。
R
ドイ・ツのみで,あるいはドイツ・トルコの合弁によるチグリス河蒸気船 会社の設立(バスラーーバグダード間,更にはバグダードーーモスル間)。
⑧
北海沿岸港湾都市(ブレーメンまたはハンプルク)とペルシア湾との定期蒸
898 5 2
闊西大學「経流論集」第3 8
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年3
月)気船航路の開設。
④ テヘラン一~
ン間(更にはバグダードヘ)の自動車道路建設。
という 4 つのプロジェクトから構成された大計画であり, 国際情勢に鑑みて も,またドイツの力量の点からみても実現不可能なものであった。とはいえ,
ここに示された出先機関の積極的な提言は,これまで関係の薄かったオスマン 帝国の東方に向けて, ドイツが急速に浸透していく状況を勢罷とさせるものと 言えるであろう
20)0ベルリンの本省にあって,このような領事報告を受ける立場にいた外務次官 マルシャルが, 1 8 9 7 年1 1
月1 5 日に今度は自らが,駐トルコ大使として現地イス タンブルに着任したことは,以後の独土関係の展閲に大きな意味を有した。
1890 年より外務次官を勤めたマルシャルは,商品輸出・資本輸出・移民の諸形 態でのドイツの対外膨張の侵出先を,先進資本主義国ではなく,低関発国に見 ており
21),駐米大使のポストを蹴ってオスマン帝国への赴任を希望したのであ る
22)。ちなみにマルシャルは,内政的には中央党寄りであり,とくに軍事法廷
2 0 )
ゲルトナーおよびリヒャルツの領事報告は,Rathmann,N a h o s t e x p a n s i o n , S . 1 9 8 ‑ 2 0 1 ,
を 参 照 。 な お ウ ル フ は , ア ナ ト リ ア 鉄 道 延 長 間 題 に つ い て は ス ル タ ン の イ ニ シ アテイヴのみを見ており( J .B . W o l f , The D i p l o m a t i c H i s t o r y of t h e Bagdad R a i l r o a d , Missoouri‑Columbia 1 9 3 6 , r e p r i n t : New York 1 9 7 3 , p . 1 9 ) ,
この点 でのラートマンの指摘は,歴史の総体的把握の点で極めて重要である。Rathmann, V o l l d a m p f , S . 1 4 1 Anm. 2 0 5 .
2 1 ) S c h u l t h e B , E u r o p a i s c h e r G e s c h i c h t s k a l e n d e r , 1 8 9 6 , S . 4 3 f . , Rathmann, Zur Legende vom'antikolonialen'Charakter d e r B a g d a d b a h n p o l i t i k i n d e r w i l h e l m i n i s c h e n Ara d e s d e u t s c h e n M o n o p o l k a p i t a l i s m u s , i n : Z e i t s c h r i f t fur G e s c h i c h t s w i s s e n s c h a f t , S o n d e r h e f t 1 9 6 1 , S . 2 5 0 , Anm. 1 5 , Rathmann,
V o l l d a m p f , S . 1 0 7 f f . , Rathmann, S t o B r i c h t u n g N a h o s t 1 9 1 4 ‑ 1 9 1 8 . Zur E x p a n s i ‑ o n s p o l i t i k d e s d e u t s c h e n J m p e r i a l i s m u s zm e r s t e n W e l t k r i e g , B e r l i n 1 9 6 3 , S . 2 5 f . , G . W. H a l l g a r t e n , J m p e r i a l i s m u s v a r 1 9 1 4 , Munchen ( 1 9 5 1 り 1 9 6 3 2 ,B d . 1 , S . 4 0 6 f f . , E . M. E a r l e , T u r k e y , G r e a t P o w e r s and t h e
、Bagdad R a i l w a y A Study i n I m p e r i a l i s m , New York 1 9 2 3 ( r e p r i n t : New York 1 9 6 6 ) , p . 4 3 , n o t e 2 5 .
2 2 )
この点,E . Lindow, F r e i h e r r M a r s c h a l l v o n B i e b e r s t e i n a l s B o t s c h a f t e r i n
9 0
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バグダード鉄道論ノート(3)(杉原)