研究ノート
メキシコ金融制度の成立と発展ド
中 川 和 彦
一
ラテン・アメリカ諸国の法︑ラテン・アメリカ法は︑沿革的には旧母国や欧米先進諸国の立法と結びついてお
り︑特に︑その成文法について言えば︑その母法である欧米諸国の法の投影にすぎない場合が少なくない︒した
がって︑ラテン・アメリカ法研究の対象をその成文法に限定する限り︑研究の積極的意義を見出すことは困難で
あろう︒しかし︑ラテン・アメリカ法を動態的にみる場合︑それが適用される︑かつ運用されるラテン・アメリ
カの風土︑経済条件︑社会構造の特殊性の故に︑母法と異なるものを認めることができるであろう・︒私がラテン
・アメリカ法研究に独自の意義を見出しているのはこういったことにおいてである︒
ところで︑筆者の研究の対象は商法・経済法を中心とする分野であるが︑研究の課題の一つとして︑銀行制度
にかねてから着眼していた︒というのは︑ラテン・アメリカ諸国がひとしくおしすすめている経済開発の要の一
メキシコ金融制度の成立と発展日
つが金融機関であるということ︑今一つは︑ラテン・アメリカ諸国の銀行・金融機関の沿革がその商法または会
社法の発達とからみあっているということからである︒
本稿は︑このような立場で︑メキシコの銀行制度の研究に着手したのを機に︑その前提として︑メキシコの金
融制度の沿革を素描したものである︒
二
一 スペインの植民地時代︑植民地は本国の厳重な統制の下におかれ︑経済活動は大きく制約されていたので︑
民間の金融機関の必要はなかった︒一つの組織体として初めて設立された民間金融機関は︑スペイン統治の末期
一八世紀末︑一七七五年に設立されただ[onteふeコ孔乱である︒これは富裕な鉱山主の出損を基金として︑質
物担保による小額貸付け︵設立当初は無利子︑間もなく低利︶をなすものであった︒
次いで︑一七八四年まanりodeyv「odeK{nQsが設立された︒これは︑鉱山が国庫︵RealHle乱μ︶に納付
︵2︶すべき賦祖︵regQFs︶の一部を資金とする公的組織体で︑鉱山の営繕費の貸付けを目的とするものであった︒
これら両者は︑その一つがま叫nco︵銀行︶の名称を用いていたとしても︑今日︑われわれが銀行取引と呼んで
︵3︶いるものの極く一部を営んでいたにすぎないのであって︑銀行の実体を備えたものではなかった︒
二 一九世紀の初め︑メキシコは独立を達成した︒一般に︑一八一〇年に独立︑と説かれているが︑それは︑イ
ダルゴ神父が蜂起した独立運動の端緒となった年であって︑完全に独立をかちとったのは一八二一年のことであ
る︒しかし︑それから約三〇年間︑独立したものの︑メキシコは混乱と戦乱の連続であった︒立法面をみても︑
一八二四年に憲法が制定されているが︑民事および商事については︑それぞれ︑一八七〇年に初の民法典︑一八
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︵2︶五四年に初の商法典が制定されるまで︑スペインの制定した植民地時代の法令が行なわれていた︒
こういう混乱期にまず設立された金融機関が一八三〇年の帥ancodeμ汽oparae}吻omentode}a{nd回t‑ ︵3︶SaNQSona}である︒これは︑かけ声に終った当事の政府の殖産興業政策の下で︑製造業︑特に紡績業の振興
をはかるべく︑優秀な紡績機械の輸入代金などを低利に融資することを主な目的として設立されたもので︑資本
金は輸入綿製品に課せられる関税の五分の一の額をもって構成されることになっていた︒しかし︑テキサスの離
反︵一八三五〜三六年︶︑あいつぐ内戦による政情不安になやまされ︑さらにこの融資を補完すべき民間資金の欠
如も重なって︑一八四二年に︑所期の目的を達成できぬまま︑廃止されるに至った︒
次いで︑一八三七年りan8Naaona}dQymo「traり&ndQKonedadeのoびreが設立された︒これは︑名
称の如く︑銅貨の銷却を目的とするものであった︒当時︑流通中の銅貨の量が過大であり︑かつ贋造されたもの
が多かったため︑他の通貸と比べて︑銅貨は額面額より低く評価され︑主としてそれを受けとる下層の人民の経
済的損害︑不便などを考慮して︑これが設立されたと言われるが︑一八四一年に廃止された︒
以後︑一八六四年のLo乱呂・anrofyへ[e吃coandSouthAmericaの支店設置まで︑銀行設立の企画がい
くつかあったが︑いずれも実現までに至らなかった︒
ただし︑植民地時代に設立され︑独立後も存続していただ[ootedQコed乱に︑一八四九年に貯蓄部︵CaiadeA
Aorross︶が設けられた︒これは︑五パーセントの利子で預金を受け入れ︑この資金をもって︑質取り貸付けおよ
び手形割引きを行ったと言われる︒
三 ちなみに︑当時の通貨を瞥見すれば︑独立後も︑引続き︑スペイン統治時代の貨幣がデザインに変えただけ
で︑同一の形状︑規格で鋳造所のasadaジヘ[ooedaで鋳造された︒独立直後︑紙幣の発行が一度企画されたが︑
抵抗が強く︑極く一部が実際に発行されたにとどまり︑しかも︑極めて短命であった︒したがって︑主たる貨幣
は銀貨であって︑一八二三年のデクレトにより︑銀位〇・九〇二七の銀二七・七三グラムが一ペソと定められて
いた︒この地︑金貨︑銅貨︑ニッケル貨も使用され︑銅貨について問題のあったととは前述した︒十進法が採用
されたのは一八六一年のことで︑それまで種々の呼称が用いられた︒たとえば︑銀ペソの場合︑一ぺソ=2トス
トン︑1トストン=2ペセタ︑1ペセタ=2レアル︑1レアル=2メディオ︑1メディオ=2クアルティリヤと
いう具合であった︒なお︑この銀貨は貨幣として用いられたばかりでなく︑中国︑日本にも輸出されていた︒こ
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三
一 一八六二年︑フランスのナポレオン三世はメキシコに武力千波し︑一八六四年︑オーストリア・ハプスブル
グ家のマクシミリヤンをメキシコ皇帝に擁立した︒その治下で︑同年六月︑ロンドンに本店をおく︑︼「eLon‑
don図呂rofKe昿8Qnd∽呂争ymericaが支店をメキシコ市に設置した︒
当時︑銀行法がいまだ制定されておらず︑商法︵一八五四年法典︶のなかにも銀行を規律する規定がおかれてい
なかったので︑会社に関する一般規定に準拠して支店の設置の手続がなされ︑商事裁判所の認可を受けることで
足りた︒その他に︑何んら法的規制がなく︑計算書類の公表も要求されていなかったので︑その詳細は明確では
ないが︑設置当初︑一五〇〇万ペソの引受資本︵・ap。ta7g・降o︶をもって営業を開始したととは知られている︒
翌六五年Londoロ図anrはメキシコ各地に営業所を開設し︑また︑小切手を初めて実用に持込むとともに︑
明文の禁止規定がないままに︑銀行券を発行した︒このような点から︑これがこの国として近代的の意味におけ
る初の銀行とされ︑銀行の沿革をこれより説き起こす者が少なくない︒
間もなく︑一八六七年︑マクシミリヤン政権が崩壊し︑共和国が再建されるが︑それとともに︑マクシミリヤ
ン帝政時の法令はすべて無効とされたが︑Londonりanrは存続し営業を続け︑今日︑メキシコの代表的な民間
銀行の一つであるりancodeLondreayMexicoとなっている︒
二 このLondonりanrの支店設立が一つの契機となり︑また︑北部のチワワ州の鉱業開発の進展にともなう
資金需要にこたえるべく︑一八七五年にtaロ(四〇de汐ntaM巴eF︑一八七八年に吻pn(⁚oだ[e昿an〇︑一八八二年
にBancoMinerodeChihuahuaの三行がチワワ州で設立された︒これらはいずれも︑連邦政府が銀行設立の
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メキシコ金融制度の成立と発展八吋
明確な規定を設けていなかったので︑チワワ州の認可を根拠として設立されたもので︑その上︑認可に際し︑銀
行券発行の権利も付与された︒このことが後で州と連邦との間に調整が必要となる問題をひきおこした︒
三 他方︑スペインの統治時代に設立されただ[oぼのdePiedadは︑独立後も存続し︑前述の始く︑預金を受け
入れていたが︑一八七九年︑預金と引換えに︑一覧払いおよび持参人払いで払戻す旨を印刷した証券の発行を許
され︑これが事実上︑銀行券の役割を果していたと言われる︒そして︑一ハハ一年︑割引・発券銀行として営業
する認可を受け︑発券限度額が九百万ペソに引上げられた︒
四
一 一八七六年から一九一〇年までメキシコはポルフィリオ・ディアス︵torf区oDF︶の独裁政治の下にあっ
た︒この間圧政にしろ︑国内は一応安定し︑近代的産業の導入︑鉄道の建設など︑殖産興業に努力が払われたた
め︑メキシコの経済は未曽有の発展をした︒たとえば︑鉄・鋼・鉛などの鉱山の開発が倍増し︑油田の開発が新
現に始められ︑鉄道も一八七六年の六一七キロメートルから一九一〇年には二五〇〇〇キロメートルに増加して
いる︒もっとも︑このような繁栄の成果がメキシコ国民に帰属せず︑むしろ︑国内の資源・産業の大半が外国人
の手中に帰してしまった︒
いずれにせよ︑経済発展をおしすすめるにあたって︑ディアスは外国資本の誘致に努めたが︑このことは︑こ
の時期の銀行制度にも反映している︒
ニ ディアスが政権を家探した時︑メキシコにおける発券銀行は︑Lo乱onBankofMexicoandSouthAme‑
ricaおよびチワワ州で設立されたりan8deSantaEuleliaのみで︑間もなく︑これにIぐ[0μtedeコed沁お
よび帥ancoだ[a匹c呂oも加ったが︑これらの銀行を合わせても︑当時の貨幣需要をみたすことができなかっ
た︒そのため︑政府は外資誘致に努め︑その結果の一つとして︑まず︑一八ハ一年八月政府はBnaqueFra召?
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Egyptienneに発券銀行設立のコンセッションを与えた︒
コンセッションの内容の主要点は次のようであった︒
設立される銀行の授権資本︵・apta↑autorrado︶の額を二〇〇〇万ぺソ︑設立時における払込額を三〇〇万ぺソ
とし︑二〇パーセントがメキシコ国民に割当てられるべきこと︑銀行券の発行限度を金属準備︵reservame呂ca︶
の三倍とすること︑政府機関は︑だ[OntedQりedadを除く他の銀行の発行する銀行券を受取らないこと︑政府
のため︑年間四〇〇万ぺソを貸越し限度とする当座預金口座を銀行が開設すること︑租税の三〇年間の免除︑株
式の配当金の額を限度とする金属輸出の自由︑事後︑他の銀行よりも有利な取扱いをすること︒
このようなコンセッションにより設立されたのが}wpncoNaQ{ona}Mexicanoで︑一八八二年二月に営業を開
始した︒
続いて︑同年二月BanQOZarのantFygrro}aのHpoteQaSo設立のコソセッションが付与された︒同行は
資本金三〇〇万ぺソ︑金属準備の三倍を限度として発券も許されており︑取締役の大部分がスぺイン人で︑翌八
三年に営業を開始したが︑︑程なく︑一八六四年︑前述のBancoNacionalMexicanoと合併するに至った︒
そのいきさつは次に述べよう︒
三 一八八四年メキシコは金融恐慌にみまわれた︒これは当時の世界恐慌の波紋の一つで鉄道建設に投じられて
いた外資が引き上げられ︑政府の歳入は激減した︒このような金融事情の悪化を大衆が知るに及んで︑銀行の取
りつけさわぎが生じた︒まず︑Montedejedadが兌換を停止し︑それが他の銀行にも急速に広がった︒
政府はこのような事態に対処するとともに︑新たなる資金源の確保にせまられ︑当時もっとも有力であった
Ban8Nac{ona}︼K[e吃cQooとりanc()ど{acantF一・9陛0}aeH{potgarぎとの合併をはかった︒合併銀行を
して政府に資金を提供せしめようというのである︒このため︑政府は︑合併銀行が政府のために八百万ペソを貸
越し限度とする当座預金口座を開設する代償として︑今後新たに発券銀行を認可しないこと︑既存の発券銀行の
発券について禁止的とも言える条件を課すること︑納税に際して︑合併銀行の銀行券のみを受けとることを約束
した︒そして︑このような内容のコンセッションの付与を受けて︑一八八四年五月︑資本金二〇〇〇万ペソの株
式会社として図an(woNac{ona1deMexico。S.A.が発足した︒
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四 ynQONalona}dey宗匠co。S.A.の発足の一ヵ月前︑四月に政府は新商法典を公布した︒これは︑この
国としては︑一八五四年法典に次ぐ第二次の法典であった︒その後︑八九年に現行の商法典が制定されているの
で︑八四年法典の施行された期間が僅かではあったけれども︑銀行に関する一般規定が初めて定められたのは八
四年法典においてであった︒
その内容の主要点は次の通りであった︒
これらの規定の中心点は︑発券銀行はその発券高につき三分の二の準備を必要とするということで︑その真の
狙いは︑当時の有力な発券銀行であったL呂don吻anrを清算に追いこみ︑りanQONacional
一の発券銀行として独占的な地位を与えようとするものであった︒
ところが︑当時の一八五七年憲法は営業の自由を保障しており︑Lo乱onBankはこれを根拠として︑アムパ
ーロの訴えを提起した︒そして︑法律上の結着がつけられる前にLondoロりanだは︑当時︑設立手続の段階に
あつたL3an.code図mp}eadoのコンセッションを譲受けて︑形式上︑発券の権利を獲得し︑次いで︑これと合
併し︑apncodeLOodresyMexicoというメキシコ会社となり︑この問題は︑LondonBankに関する限り一
︵5︶応解決した︒
他方︑前述したように︑地方的に︑チワワ州で発券を認可されている銀行があったが︑これらの地方銀行も︑
州の主権を根拠に八四年法典に従わず︑連邦政府の規律に服すに至ったのは一八八九年以降からであった︒
いずれにせよ︑一八八七年︑複数の発券銀行の存在を認めるよう商法の一部が改正され分散発行制度︵elsist‑
aadepluralidadde emisiones︶が維持されたのである︒
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五 一八八九年︑新しい商法典が制定された︒その後︑部分的に改廃され︑現在︑形骸だけをとどめているにせ
よ︑これが現行商法典である︒
八九年法典は︑その第六四条において︑金融機関法︵unaleydemstitucionesde
間︑金融機関は︑連邦政府との間で締結し︑国会の承認を受ける契約にょり規律されるべきである旨を定めた︒
これにより︑政府に銀行設立認可の広い裁量権が与えられ︑次の銀行が設立された︒
一八八九年 BanCOMercantildeJ̀.Ucatan
一八九〇年 図anc()deDuraμgo
一八九一年 }‑ancodeNaQatena∽
一八九一年 ︼⁝'an(⁚odaNuev()Leon
この結果︑りancoNac{onaldeMexicoの特権的地位がゆらいだが︑同時に︑金融制度に︑今一つの問題を
もたらしたのである︒というのは︑コンセッションの期間︑資本の最低額︑発券限度額︑準備率などがまちまち
で︑統一がなかったからである︒
六 このような無秩序を解消するため︑一八九七年三月一九日︑金融機関一般法LeyGenaa}dQ{n医tuSooe・
dりの限d{toが制定された︒これは︑この国としては︑初の単独の銀行法であった︒その内容の主要点は次の通
りであった︒
a 銀行の種類として︑発券銀行︵rncodeeis'i︶︑抵当銀行︵rancohipotecario︶および農工銀行︵ranco
「efgcぎn艮o︶の三者が規定された︒
b 設立には連邦政府の事前の認可を要し︑資本の最低額は︑発券銀行および抵当銀行について五〇万ペソと
し︑農工銀行については二〇万ペソとし︑いずれの場合とも︑半額の払込を必要とした︒
c コンセッションは三名を下らない個人に付与されるが︑銀行営業は株式会社によらなければならない︒
d 銀行券発行高は︑発券銀行の引受資本の額の三倍︑かつ金属準備の二倍の額を限度とする︑なお︑銀行券
は任意通用力︵cursovoluntario︶を有する︒
e 発券銀行は六ヵ月以上の貸出しを許されず︑かつ︑若干の例外があるが︑担保貸付けをすることもできな
い︒
f 抵当銀行は︑抵当物件の価格の五〇パーセントを限度として︑一〇年以上四〇年以下の期限で担保貸付け
をなす︒その貸出し総額は払込資本の額の二〇倍を越えることはできず︑同一人について払込資本の二〇パ
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ーセントを越える貸付けは許されない︒抵当付貸出し総額に等しい額の抵当証券︵ざno・rpote・a「i︶の発
行︑資本の五倍を限度とする当座預金の受入れ︑第一級の有価証券担保による六ヵ月以内の貸出しは許され
ている︒
g 農工銀行は︑農業︑工業︵鉱業も含める︶への資金供給を目的とし︑3ヵ年を期限として貸付けをなし︑6
ヵ月以下の期限の手形︵pagaresuo呂gacぎne∽︶を保証することもできる︒一定の制限内で︑3ヵ月ないし
3ヵ年満期の金庫証券︵ronosde旦一︶の発行も許されている︒一般に︑抵当銀行と同様の業務を営むこと
ができる︒
h 地方銀行︵ごanQoωproV{naa{e昨︶は︑他の州に支店を設置することを禁止された︒しかし︑若州に最初に
設立される銀行は一定の税の減免をうける︒
その他︑監督︑計算︑法定準備金の積立などに関する規定もあった︒
この九七年法の制定によりまancoNaQ‑ona}deだ[y‑coをはじめとして︑各
銀行と政府との間で締結されていた契約の内容が︑九七年法の規定に調和するよ
う・変更され︑銀行制度に統一と秩序がもたらされた︒当時︵一八九七年︶メキシコ
の銀行として上記のものがあった︒大部分が発券銀行であって︑抵当銀行は一行
しかなかった︵}anco{nteroaSona}QH{potQcar0︶︒
一八九七年法の制定から一九○三年までの間に︑次ページの二四件のコンセッ
ションが付与された︒
設立年 銀 行 名 資本金 (100万ペソ)
こうして︑コリマおよびトラスカラ2州を除く︑すべての州に少なくとも一行が設立された︒その種類別の数
は発券銀行三〇行︑抵当銀行一行︑農工銀行二行であった︒
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七 銀行制度が整備されていくかたわら︑鉄道建設工事や鉱山事業に資金が流入したため金利は低下した︒一八
八〇年以前の一〇ないし一二パーセントから︑一八八四年には八ないし一〇パーセントに︑さらに︑一八八八年
には六ないし八パーセントに下っている︒一方︑銀行券の流通高は︑一八八六年の一三〇〇万ペソから︑一八九
〇年には三三〇〇万ペソ︑さらに︑一八九六年には三七〇〇万ペソに増加した︒
そして︑一九世紀末︑予算が初めて均衡し︑アルカバラ︵売上税︶が廃止され︑輸出産品の価格上昇も加わって
メキシコの経済は健全の状態にあった︒
しかし︑この状態は長続きせず︑一九〇一年︑世界的な銀価格の下落の影響を銀の産出国であるメキシコはも
ろに受けた︒金本位制を採用する国が増加するにしたがって︑銀に対する需要が激減し︑銀が輸出の二分の一を
占めていたため︑その経済は打撃を受け︑特に労働者階級に困窮をもたらした︒しかし︑この時でも︑資金の需
要は引続き盛んで︑銀行は貸出しおよび発行高を増加した︒
一九〇五年︑メキシコは貨幣法︵Lexだ[og{al︶を制定し︑金銀の比価を一対三二とするとともに︑一ペソ
を純金〇・七五グラムと定め︑金本位制を採用するに至った︒もっとも︑銀ペソも引続き強制通用力を有した︒
この金本位制への移行が円滑に行なわれた︒銀の価格が再び高騰し始めたからである︒
こうして︑しばらく景気が回復したが︑一八〇七年︑ヘニケンの輸出価格の下落により︑メキシコ経済は再び
不況におそわれた︒特にヘニケンの産地である︒カタン地方では︑ヘニケン生産農民に対する貸出しの回収が不
能となり︑その地方の銀行の流動性が低下した︒一九一〇年に革命が起った時︑この傷がまだ完全に回復してい
なかった︒
八 以上の叙述の如く︑ディアスの時代にまがりなりにも政情は初めて安定し︑政府はその殖産興業の政策をお
しすすめようとした︒しかし︑資本の蓄積も技術もなかった当時として︑外資の導入を積極的にすすめ︑欧米の
経験を模倣する他はなかった︒銀行制度についても︑欧米の制度を継受するとともに︑外資を導入したのである
︵次ページの表を見よ︶︒
その組果︑銀行制度は一見整備されているように見えた︒しかし︑それは︑あくまでも形式上であって︑経済
上の危機がくりかえされる度に︑制度上の欠陥︑その運用をめぐる好ましからざる慣行が露呈していったのであ
る︒たとえば︑銀行の幹部クラスの人材の不足︑BancoNacionaldeMexicoに特権的地他を与えたため︑銀
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銀行に対する外国の投資(1910年)
銀行刑の外国投資(1905〜1906年)
よりも︑長期のものに重点がおかれるべきであり︑事実︑長期貸付けの需要が多かった︒しかし︑実際には︑貸
出しは6ヵ月を期限とするものが大部分であった︒というのは︑銀行の大半を占める発券銀行にあっては︑危険
回避のため︑貸出し期限が法律上6ヵ月に制限されていたからである︑そのため︑6ヵ月の期限をくりかえし更
新するという銀行と借主間の黙契が一つの慣行となっていたと言われる︒ 行券の流通に障害の生じたこと︑銀行の資産の流動性が低いこと︑信用の集中︑出資者に出資金に見合う貸付けを行う預合いに似た慣行などがあげられるが︑何よりもまず︑その制度が︑メキシコの実情にそぐわない外国の制度の継受であったととが問題であった︒ 一九○八年当時︑メキシコには銀行が三三行存したが︑そのうち抵当銀行は二行︑農工銀行は四行にすぎず︑他はすべて発券銀行であった︒ところが︑当時のメキシコでは商業が高度に発達しておらず︑その殖産興業政策からすれば︑信用は短期のもの
こうした欠陥を是正すべく︑一九〇八年金融機関一般法が一部改正されるとともに︑基金一〇〇〇万ペソの農
業振興金庫のaydetre降amosparQOごrasdetr{gaり&nMFomentodeyg器a}turaが設立された︒しかし︑
時すでにおそく︑一九○八年りancoのentrQ{yへ[aQanoの経営悪化が明らかとなったのを契機として︑金利の
引上げ︑貸付けの早期回収︑新規の貸出し停止と︑金融機関に恐慌状態が生じた︒こうした頻死の銀行制度の弔
鐘となったのは一九一〇年からの革命であった︒
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