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今日の学校における道徳教育について、まず考える べきことは何か

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

今日の学校における道徳教育について、まず考える べきことは何か

著者 伊豆藏 好美

雑誌名 奈良教育大学教育研究所紀要

巻 36

ページ 1‑10

発行年 2000‑03‑01

その他のタイトル What Should We Consider First on Moral Education in Schools Today?

URL http://hdl.handle.net/10105/7028

(2)

今日の学校における道徳教育について、

    まず考えるべきことは何か‡

 伊豆蔵好美

(哲学・倫理学教室)

要旨:今日の学校における道徳教育のあり方を論じる際に、まず問題とす べきことは何か、を考える。人々は学校において道徳教育が行われている ことも・それに多くを期待することも当然だと思ってい孔しかも・自分 がそう思い込んでいることに気づいていない。そこで働いている先入観を 一度は明るみに出して総括しておくことが、今後の学校における道徳教育 についての議論を有意義なものとするためには、是非とも必要であろう。

キーワード;道徳教育、教師=聖職者観、学校万能主義

 今日、「道徳教育は重要である」と言われて、それを即座に否定できる人はまずほとんどいな いであろ㌔と同時に、「道徳教育は難しい」と言われて・それを即座に否定できる人もやはり ほとんど皆無であろう。道徳教育は重要である。しかし、道徳教育は難しい。これが、大方の人 の抱く率直な感想ではないだろうか。ところが、その重要だが難しいはずの道徳教育を当然のよ うにこなすことを世間から期待され、しかも、大切で困難な仕事を求められているわりには、そ れに相応しい尊敬や待遇を得ていない人々がいる。言うまでもなく学校の先生たちである。考え てみれば、これは実に奇妙なことである。大事な仕事を依頼するならそれなりに遇する必要があ るし、その任に堪えないと分かったらもう頼まない、というのが一般の常識であろう。にもかか わらず、こと道徳教育に関しては、世間の人々は学校の教師たちに、相応の条件を用意しないま まに困難な仕事を要求し、望み通りの成果が得られないと、なおも、できて当然とばかりに虚し い努力を強いているように見えるのである。いったい、なぜそんな非常識がまかり通っているの か。そもそも、人々は道徳教育をいったいどのような営みであると考えているのか。まずは、こ の問いから始めてみることにしよう。

1.道徳教育とはどのような営みか

 およそ道徳教育について何かを考えようとするなら、第一に問われるべきは、道徳教育とは何 か、それがいかなる営みであるか、という最も原理的な問いであろう。この問いにどう答えるか に応じて、それを学校で行うことの意味や可能性や必要性についての認識も変わってくるはずで ある。しかるに、その肝腎の前提が曖昧なままに、学校における道徳教育の強化や充実化の方策 が論議されたり、その不毛性が指摘されたりしているとすればどうであろうか。それぞれがまっ たく別のことを念頭に置いていながら、あたかも同じことについて議論しているかのように錯覚

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Yoshimi IZUKURA(D即αr伽θ耐。/P舳。so助ツ&亙 cs,Nαrαση沁ers三む0ゾ亙ぬ。α亡{oπ,

 Mαrα)

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している場合がしばしばあるものだが、遺徳教育に関しても、まさにそのようなケースが多いの ではないか、とまずは疑ってみる必要があるだろう。

 例えば、次のように考えたとする。道徳とは、要するに「人の道」であり、「人間としての生 きるべき道、あるいは、あるべき姿」を指し示すものである。それゆえ、道徳教育とは、そのよ うな「人問としての生きるべき道、あるいは、あるべき姿」を、未だそれを知らない者たちに対 して教え示すことに他ならない、と。

 さて、もしも道徳教育をこのように捉えた場合には、そんな大それたことを、いったい誰が、

どこで行えるのか、というごく素朴な疑問が直ちに生じてくるはずである。実際のところ、人問 としての生きるべき道とか、あるべき姿とかを、自分は他人に教えられる、と自信をもって言え る人が、はたしてどれだけいるであろうか。とても無理だ、自分はそんなことを人に教えられる ような立派な人間ではない、というのが、まずは大方の人の実感であろう。しかも、実は、たい ていの他人も、その自分と五十歩百歩にしか見えない、というのが偽らざるところなのである。

 さらには、より本質的な疑問も出てくるはずである。すなわち、誰から見てもこれこそが人間 としての生きるべき道であるとか、あるべき姿であると言えるような理想が、そもそも、本当に 存在し・知り得るのか・という疑問である。これに対しては・たとえそのような理想の存在や・

認識可能性について確信はできなくとも、それでもわれわれにはそのような理想を探求し、追求 し続けることはできるのであって、そうした人間的努力のうちにこそ高い倫理性は実現されるの だ・といった考え方が・確かに成り立ち得るかもしれない。( 〕ただ・そうした・いわば求道者的 理想を追求できたり、自分はそれができる人間だと思い込めたりするのは、やはりきわめて限ら れた、ごく少数の人たちであろう。そのような高く厳しい要求を、不特定多数の人々に等しく要 求するのは・いかにも無理に思えるし、ましてや・学校ですべての子どもたちに要求するのは・

あまりに非現実的とみなさざるを得まい。つまり、もしも道徳教育を以上のような仕方で捉えた 場合には、それを学校で行おうとすることは、非常に困難な、現実性を欠いた、ほとんど不可能

に近い試みに思えてくるのも必然なのである。

 だが・別の人々は・道徳教育が現実性を欠いた・不可能に近い試みである・などと聞けば・た ちまち次のように反論するに違いない。道徳教育とは、決して特別な試みではなく、日々のごく 当たり前の生活の中で・ごく自然に行われている営みである・と。このように主張するとき・そ の人は、「道徳」という言葉で、おそらくは、社会生活上の常識的なルールとか、基本的な生活 習慣のことを念頭に置いているのであろう。例えば、「親切にしてもらったら礼を言う」とか、

「約束をしたら守る」とか、「道路にゴミは捨てない」とか・「他人に迷惑はかけない」といった ことである。確かに、そうした一般常識とも言えるような諸箇条については、少なくとも知識と しては、誰でもわきまえていることであろうし、実際、多くの子どもたちは、それぞれの生活環 境の中で、周囲からの様々な働きかけを受けながら、少なくとも知識としては、ごく自然に身に つけていっていることだ、と考えられよう。

 さて、道徳教育とは、要するにそうした社会生活上の常識や基本的な生活習慣を身につけさせ

ることだ、と捉えたとき、それはいわゆる「身美」に限りなく近いものになるであろう。その大部

分は、比較的小さい段階、例えば小学校に入る以前の段階で、もっとも身近な大人、っまりはた

いていの場合は親が、家庭で身にっけさせるべきであり、また、たとえ学校に入ってからであっ

ても、ごく一般的な生活環境にある子どもが社会常識をわきまえていないとすれば、それはまさ

に常識的には親・もしくはそれに代わる保護者、養育者の責任である・と考えるのが妥当ではな

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いだろうか。したがって、この場合には、それは果たして学校や学校の教師が、特に責任をもっ て教えるべきことなのだろうか、という疑問が、当然生じてくるように思われる。ω

 いや、そんなことが今日の学校における道徳教育に求められているわけではない、という苛立 ちの声が聞こえてきそうである。道徳教育とは、ただの瞭」ではない。道徳教育とは心の教育 であり、思いやりの教育であり、生命を尊重する精神を養う教育である。それこそ今の学校教育 にもっとも欠けているものであり、もっとも必要とされているものである。いじめや、自殺、校 内暴力などといった、切実、深刻な問題に対処するためにも、何とか、子どもたちに思いやりや、

やさしさや、命を大切にする心を植えっけていかなければならない。道徳教育とは、まさにその ようなことを目指す営みである。こんなふうに考える人も少なくないかもしれない。

 確かに、やさしさとか思いやりとか生命尊重の精神といったものを育てることが大事だ、と言 われれば・まあ・たいていの人は・その通りだ・と思うであろ㌔だ孝ミ・それではどうすればそ うしたものを育てられるか、という点になると、実は誰にもわからない、というのが本当のとこ ろではないだろうか。わかっていればきっと誰でもそうしているだろうし、子どもたちは皆、心 優しい、思いやりのある子になっているはずだろう。しかし、もちろんそんなことはないのであ 孔現実に私たちにできることは・せいぜい、どう考えても子どもの人格形成に悪影響を与える であろうと思われることを、可能な限り差し控えたり、遠ざけたりすることぐらいではないか。

しかも、既にどういう原因からか、明らかに人格的に大きな問題を抱えてしまっているようにみ える子どもを相手にしたとき、その問題を解決し取り除くことは、その道の専門家にとっても非 常に困難な仕事とならざるを得ないであろう。それは、当然のことながら、肉親にとっても非常 に難しい仕事であり・その成功のためには・よほどの愛情や熱意や我慢や努力が・さらには幸運 も必要となるであろう。ましてや、それは学校の教師にとっても非常に難しい仕事であり、よほ どの愛情や熱意や我慢や努力が、さらには幸運が必要とされることであろう。

 さて、以上で、さしあたり道徳教育についての三つの類型的な捉え方を想定した上で、実はそ のいずれを出発点とした場合にも、道徳教育を特に学校で行うべきであるかどうか・また、その 必要があるかどうか、あるいはそもそも可能であるかどうか、という問いに対しては、否定的な、

あるいは少なくとも消極的な結論が導き出されるのではないか、ということを確認した。ここま での議論には、常識的思考に反する点は何もなく、したがって、この暫定的な結論にも、ほとん どの人が同意できるはずのように私には思われる。にもかかわらず、学校における道徳教育が充 実、強化されなければならない、といった主張が当然のごとくなされる場合、そこではいったい 何が求められていることになるのであろうか。学校が責任をもって、積極的に道徳教育を行うべ きである、と人々が当たり前のように考えてしまうとき、その背景には、いったいどのような暗 黙の前提が働いているのであろうか。

 このような問いを立てたとき、私たちの社会の中に否定しがたく蔓延っている二つの先入観の 存在が浮かび上がってくるように思われる。すなわち、第一に、教師=聖職者観とでも呼んでお けるような先入観、そして、第二に、学校万能主義の神話とでも名づけておけるような先入観、

の存在である。(3〕まずは前者から見ていくことにしよう。

2.教師!聖職者観の陥穿

教師は「聖職者」であって、ただ単に知識や技能において優れているだけではなく、人格的に

も申し分のない、高い品性の持ち主でなければならない。愛と善意と情熱とに充ち溢れ、自分自

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身のことなど顧みず、ひたすら子どもたちのために尽くせるような、そのようなすばらしい人物 でなければならない。およそこのような一般的な思い込みが、私たちの社会には根強く存在して いるように思われる。例えば、教師の破廉恥な行為、犯罪行為などが、非常に大げさに、時には ヒステリックなまでにマスコミに取り上げられるのも、そのことの裏返しであろう。さて、この 先入観のやっかいなところは、今触れたような、当の思い込みに反する現実が露呈することによっ て霧散するどころか、逆に、倒錯した仕方で強化されてしまう、ということである。それ見たこ とか、今の学校が様々な問題を抱えているのは、ひとえに、教師がその本来のあるべき姿を失っ ているからである。もしも学校の先生たちが、その理想的なあり方を取り戻すならば、つまりは、

聖職者としての使命感に燃えた理想的な人格者となるならば、今の学校が抱えている様々な問題 は決して起こらないはずだ、というわけである。(一〕そして、もしも、学校の先生がそのような理 想的な人格者であるならば、先に確認したような、ほとんど非現実的なまでに理想的であったり、

困難であったりする道徳教育も、当然、学校でこそ可能になるはずだ、ということになる。

 既に明らかなように、この先入観は、いかなる事実によっても決して反証されることがない。

なぜなら、現実の中にもしもこの思い込みに反する事実があったとすれば、間違っているのはそ の現実の方であり、現実の方こそが理想に向かって正されるべきだ、ということになるからであ る。しかも、この理想は決して実現することはない。なぜなら、すぐ後で見るように、それは現 実との接点をまったくもたない、見果てぬ夢にしかすぎないからである。もちろん、完全な実現 は不可能だとしても、しかし、それを夢見て人々が努力することで少しでも現実をよくしていけ るような、そのような理想も存在することだろう。だが、逆に、人々が見続けることで現実をま すます悪化させるような夢も、また確かに存在するのだ。{5〕そのような夢からは、やはり少しで

も早く醒めた方がよいだろう。

 この夢のもっとも罪深いところは、学校が抱えている問題をすべて、教師の力量や人格や資質 の問題へと還元することで、当の学校教育のあり方を根本的に規定しているはずの政治・行政制 度や社会構造や時代状況についての問いを、予め封殺してしまい、結果的に、現実的で実効的な 改善策が論議されることをほとんど不可能にしてしまう点である。実際のところ、この夢に囚わ れていると、学校で何か問題が起こるたびに、それは教師の指導力や人格に問題があるからだ、

としか思えなくなる。(缶)そこで、何と言っても教師の「質」を高めることが重要である、という わけで、例えば、教員養成のカリヰエラムをもっと工夫せよ、とか・教員採用のシステムを改善 せよ、とか、初任者研修を充実させよ、といったことが声高に主張されることになる。

 だが、考えてもみよう。そもそも、学校の教師に求められる資質がいったいどのようなものか にっいて、私たちは明確なコンセンサスをもち得ているだろうか。例えば、ある人は、何よりも 情熱や愛情こそが今の教師には求められている、と主張するかもしれない。別の人は、むしろ今 の子どもたちに必要なのは厳しさであり、教育者としての確固たる信念と指導力こそが大切だ、

と言うかもしれない。いや、これからの学校で重要なのは、個人の指導力というよりはむしろチー ムワークであり・協調性や柔軟性をもった人材こそが求められている・と反論する人もいるかも しれない。他方では、何と言っても教科の授業をするのが教師の主たる仕事であり、わかりやす いしっかりした授業ができることが一番大事だ、と考える人もいるであろう。しかしまた、別の 人は、勉強だけが重要という風潮こそが現在の学校の様々な問題を生みだしているのであって、

その学校に不適応を起こしているような子どもたちの気持ちを本当に理解でき、その悩みを共有

できるような人にこそ教師になってもらいたい、と思っているかもしれない。要するに、本当の

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ところ学校に何を望み、教師に何を期待するか、という点についての明確なコンセンサスは、実 は、私たちの社会には、ほとんどなきに等しいのである。川

 もちろん、そのような考え得る限りの望ましい資質をすべて兼ね備えた教師ならば申し分ない のであろう。だが、そのような理想的な人材が幸運にも発見できると仮に想定したとしても、そ れほどの有能な人材を、現在の学校教員の標準的な労働条件の下で、必要人数確保できると考え るとすれば、その人はよほどの楽天家か夢想家であろう。しかも、望ましい資質とみなされるも ののうち、例えば教科の授業を行う力量やその裏付けとなる知識等については、なるほど、ある 程度客観的に評価し、その点に優れた人材を選抜し、あるいは、計画的育成のためのカリキュラ ムを考案することも可能であるかもしれない。だが、それ以外の、例えば情熱とか愛情とか協調 性とか子どもの気持ちを理解できる感受性とかは、いったいどうすれば客観的に評価して、それ を教員採用システムに反映できるのか、あるいは・いったいどうすれば計画的に育成することが できるのか・ほとんど想像することもできないであろう。また・もしもそういった人間的な資質 を本当に望む通りに作り上げることができるくらいなら、そもそも道徳教育が難しいなどとは、

誰も思ってはいなかったのではあるまいか。

 結局のところ、教員も「普通の職業人」なのであって、本当は誰もが知っているように、現に まったくごく普通の人たちが教員になるのである。{8〕したがって、それを大前提として、現在の 学校でできること、できないことは何かを、まずは考えるべきなのであって、その上で、可能な 範囲でどうしても学校に、そして教師に望まねばならないことは何か、を明確にし、次に、それ を実現するためには、いったいどのような制度的な改革や、サポートが必要か、を検討していく、

という手順を踏むことが、これからの学校論議を生産的なものにしていくためは、必要不可欠で

あるように思、われる。{目〕

 道徳教育についても、事情はまったく同様ではないだろうか。すなわち、「道徳教育」という 言葉によって、いったい私たちは何を望んでいるのか、をまずは明らかにする必要があるし、そ

もそもそれが現在の学校でできることなのか、そうでないのかをはっきりと見切る必要がある。

しかる後に、どうしても今後の学校や教師に望まねぱならないことは何か、が明らかになったな ら、そのときに初めて、では、それを可能にするにばいったいどのような仕組みやサポートが必 要なのか、の検討が開始できるであろう。そうした一連の手順を踏んでいくことなしに、今日の 学校における道徳教育について何か有意味なことを考えるのは、およそ不可能なはずなのである。

 ところが、実際には、そうした検討や吟味はまっナこく行われないままに、私たちの国の学校で は、とにかく道徳教育は行われていなければならないことになっており、その目標や内容も『学 習指導要領』の中でしっかりと定められており、しかも、大方の人は、それをさして疑問にも思っ ていないようなのである。いったいどうしてそのようなことになっているのだろうか。また、そ

もそも、教師=聖職者観が、これほどまでに私たちの社会に蔓延してしまったのは・いったいな ぜだったのだろうか。

3.「国民道徳」形成機関としての学校

 r教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家および社会の形成者として、真理と正義を愛し、

個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成 を期して行われなければならない。」

 よく知られた教育基本法の第一条である。さて、改めてこれを読んで気づかされることが二つ

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ある。第一に、ここで規定されているr教育の目的」は、「教育」を「道徳教育」に置き換えて もほぼそのまま通用するのではないかと思えるほどに、きわめて道徳教育的である、という点で ある。第二に、その教育の目指すところが、明確に「国民の育成」である、とされている点であ る。この二点の間に、いったいどのような関連があるのかを明瞭に捉えるためには、通常はほと んど意識されることすらない疑問を、あえて問いの形で立ち上げてみることが必要となろう。そ の疑問とは、およそ国家が、国の法律で「教育の目的」を定めるということそのこと自体、何ほ どか奇妙なことではないか、という疑問である。もちろん、この第一条の文言には、別段大きな 問題があるようには見えない。しかし、その内容以前の問題として、そもそも国が、教育の目的 を法律で定める必要がいったいどうしてあるのか、という問いは、やはり立つはずなのである。

 これに対して、直ちに患い浮かぶのは、教育の目的を思い誤った人間や集団が、間違った教育 目標を目指して組織的な教育を行おうとすることを、未然に防ぐため、という答えである。例え ば、この第一条の規定とはまったく相反するような、個人の価値を否定し、自主的な精神なしに 指導者の命令のみに絶対服従し、平和や人間の命の尊さをまったく感じないような人間を育て上 げ、そのような人間による戦闘殺数集団を組織しようとする、などといった試みを許さないため、

といったような答えが、一応は考えられよう。

 だが、いったい誰がそのようなことを企てるだろうか。一般の市民なり団体なりが、そのよう なことを企てるなどということがあり得ようか。まずあり得ないであろう。仮にあったとしても、

そのような教育を組織的に行い、成功させるなどということが可能であろうか。まず不可能であ ろう。もしも、そのような試みを企てるものがあるとしたら、しかもそれを成功させる可能性が あるとしたら、それは他ならぬ国家そのものではないだろうか。誤った教育目標を立てて、その ための教育を組織的に行い、結果的に、人々に大きな不幸をもたらす可能性をもつ危険な存在と は・他の何よりも国家自身なのではないだろうか。

 実際・ここで詳しく検証するまでもなく、戦前の日本における学校教育は、まさにすべての国 民に軍国主義、全体主義を植えつけるために、国家によって最大限利用されていたのであった。

しかも、それが他ならぬ道徳教育の名の下に行われていたのは周知の事実であろう。(m〕教育基本 法は、そのような戦前の学校教育のあり方を完全に清算し、戦後の民主主義国家日本を建設して いくための新しい学校教育の指針として、日本国憲法と同時に作られたものであった。

 さて、そのような歴史的文脈の中で、改めて第一条の文言を読み直すとき、なぜこのような形 で、国が教育の目的を定める必要があったのか、しかも、それが表面上は教育一般について規定

しながら、内容はほとんど道徳教育的であるのはなぜか、さらに、「国民の育成を期して」と明 言己されているのはなぜか、がはっきりと見えてくるはずである。つまり、戦前の日本の学校教育

は、他ならぬ国家自身の手によって、道徳教育と称して、国民全体に誤った価値観を植えつける ための手段として徹底的に利用されてきた。だから、決しでそのような過ちを繰り返すことがな いように、今後の学校教育の目的を明確に定め、それに向かって国民を再教育していかなければ ならない。あの条文が語っているのは、歴史的文脈においてみれは、実はそういうことだったの

である。(11〕

 ところで、教育基本法は、一般には、戦前の「教育勅語」に基づく国家主義的学校教育体制か

らの、戦後の学校教育の訣別と断絶とを理念的に象徴するものとみなされており、事実、内容的

にはまったくその通りなのだが、しかし、結果的には、戦前とまったく変わることなく、そのま

ま受け継がれてしまったものが一つある。それは、国民に対する道徳教育は国が学校教育の中で

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行う、とする思想に他ならない。おそらくは戦前の日本の学校教育がもたらした不幸な教訓は、

皮肉なことに、一面では戦後の新たな学校教育を推進しようとする人々を勇気づけるものでもあっ たに違いない。というのも、戦前の日本の学校教育は、国民全体に画一的な価値観を短期間に効 率よく植えつける、という課題を、ものの見事に成功させていたからである。( 2)学校における道 徳教育によって、天皇への忠誠心や国家への帰属意識のために自分の命を惜しげもなく犠牲にし たり、他国の兵士や民をためらいなく殺したりできる国民を作り上げることができたのなら、今 度は、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を愛する国民を作り上げることも、できないわけがあろ

うか、というわけである。

 こうして、国民に対する道徳教育は国が学校教育の中で行う、とする思想は、戦後へとそのま ま生き延びたのである。その場合の道徳教育とは、国家が国民に、ある特定の画一的な価値観を 植え付けようとする営みであり、道徳とは、国家が国民に植えつけようと望む当の価値観の別名 に他ならない。戦前と戦後とで変わったのは、要するに、その価値観の中身なのである。その中 身の一覧表は、今では『学習指導要領』の中で、道徳の「内容」として列挙された諸箇条として 与えられているが、学校教育システム全体の中で果たすことを期待されている役割という観点か らみるならば・それらは、戦前の「教育勅語」に示され、「修身書」の中に並べられていた諸徳 目の代替物に他ならないのである。教師=聖職者観は、そのような歴史の中で、いわばその双生 児とも言える学校万能主義の神話とともに、この神話成立のための不可欠の条件として育まれて

きたものと思われる。

      4.学校万能主義の神話を越えて

 さて、「教育勅語」の発布により、天皇を中心に据えた「国体」の思想が、「国民道徳」として すべての子どもたちに植え付けられていくようになる少し前の話である。当時の有力な政治家や 知識人の多くを巻き込んで、学校における道徳教育のあり方をめぐる論争が繰り広げられたこと があった。そのさなか、福沢諭吉は、学校での道徳教育に多くを求める人々を痛烈に批判して次 のように書いた。r学育もとより軽々看過すべからずといえども、古今の教育家が漫に多を予期

して、あるいは人の子を学校に入れてこれを育すれば、自由自在に期するところの人物を陶冶し 出すべしと思うが女口きは、妄想のはなはだしきものにして、その妄漫なるは、空気・太陽・土壌 の如何を間わず、ただ肥料の一品に依頼して草木の長茂を期するに尊しきのみ」㈹と。

 福沢がはなはだしい「妄想」と切って捨てたその思想を、ここで改めて「学校万能主義」と呼 んでおくことができよう。この思想は、しかし、福沢の思惑に反して、遅まきながらの近代国民 国家を極力短期間で立ち上げようとした明治政府の指導者たちに採用され、戦前の不幸な成功例 に力を得て戦後へと生き延び、その問に、元々は一つの思想にすぎない、ということすら忘れ去 られるほどに日本の社会に浸透していった。すなわち、この思想に基づいて立てられた、国民の 教育は国が学校の中で行う、という基本方針に沿って教育政策が推進され続けた結果、子どもの 教育に関しては、すべて学校が責任をもって引き受けるのが当然である、という考えが、政治家 にも官僚にも教育者にも世間の親にも、いつの間にか疑い得ぬ常識となってしまった。そして、

子どもの教育は一切学校が引き受けるのが当然であるとすれば、子どもに提供されるべき理想的 な教育が、学校に通わせておきさえすれば、すべてそこで与えられるのもまた当然であり、そう でなければならない、と人々が考えるようになるのも、無理のない話ではないだろうか。(H〕こう

して、一つの思想にすぎなかったものが常識となり、さらには神話となる。

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 一度この学校万能主義の神話が形成されてしまえば、たとえ道徳教育がどのようなものと考え られようと、とにかくそれが学校で行われていなければならないのは自明のこととなる。道徳教 育の中身が、人間の理想的な生き方の教育だろうと、蟻だろうと、心の教育だろうと、およそそ れが子どもの教育である限りは、当然学校で行われるべきものとみなせるからである。だが、実 際には、学校が人々の望むものを何でも取り出せる魔法の玉手箱であり得るはずもない。そこで 起こるのは、既に述べた通りのことである。人々は学校が自分の望み通りの成果を上げてくれな いことに対して、しきりに文句を言い始めるが、教師は理想的人格者であるべきだという夢と、

学校は万能であるはずだという神話そのものは、決して意識化、主題化されないために、学校が 抱える問題は、本質的にはやはり学校で教師が解決すべき問題である、と誰もが信じ続けること にな孔政治家も財界も役人も、マスコミも教育評論家も世間の親も、今の学校はいったいどう なっているのだ、教師は何をしているのだ、というわけで、多少制度はいじっても、金は出さず、

人も増やさず、アイデアも練らず、協力もせずに、ただ教師バッシング、学校バッシングばかり を繰り返すことになる。見果てぬ夢の中で、時代遅れの神話を信じながら、しかも、自分たちが 夢を見、神話にすがっているという、その事実には気づかぬままに。

 とは言え、そうした状況にもようやく変化の兆しは見え始めてきたようであ乱例えば・昨今 大きく取りざたされるようになった「学級崩壊」と呼ばれる現象は・長い間の夢を根底から揺る がすものであり、現在の学校が抱える諸問題が、もはや一人一人の教師の人間的な努力によって 解決できるような性質のものではないという直感を、これまでにない危機感や不安感とともに、

人々に与え始めている。学校は万能ではない、ということが自明の真理として語られ出し、学校 教育のスリム化が論議され、子どもの教育を家庭や地域社会に返すべきだ、といった主張が、当 の学校万能神話の伝承者であった人々の口から発せられるようになってきている。人々が、夢が 夢にすぎないことを、神話が神話にすぎないことを、はっきりと悟り始めたのだとすれば、それ は喜ぶべきことである。だが、楽観はできない。学校というものを、数あるオプションの中の一 つとして相対化できるような視点から教育について考えることに、残念ながら私たちはあまり慣 れておらず、夢や神話から目覚めて向き合わねばならなくなった現実の苛酷さに耐えかねて、い っまた、もとの幻想の中へと逃げ戻りたくなるかもしれないからである。

 例えば、近年、学校で「キレる」子どもたち、些細なことに我慢できずに感情を爆発させる子 どもたちのことが問題になっている。なぜそうなるのか。おそらく、現代の社会において、学校 ほど子どもたちに様々な我慢を強いている場は、他にはないからであろう。わからなくてもとに かく授業に出席し、時間まで椅子に座っていなければならない。こいつは気にくわない、と思っ ても、隣の席で朝から夕方まで顔を合わせていなければならない。この先生よりあの先生に教わ りたい、と思っても、そんな自由は許されない。修学旅行は面倒だ、と思っても、全員参加が建 前だから、簡単には不参加というわけにはいかない。日々の学校生活において、子どもたちは非 常に多くの我慢を強いられていることになる。

 ところが、その同じ子どもたちは、学校の外ではどうだろうか。かっては、子どもは家庭でも さまざまな我慢を当然のことのように強いられていた。欲しいおもちゃを買ってもらえることは 年に何回かだったし、好きなお菓子を食べられることもめったにないチャンスだった。テレビの

チャンネルの優先権は、もちろん大人たちにあり、特に許された時間帯にしか見たい番組は見ら

れなかった。ところが、現代の多くの家庭では、当然のことのように、子どもに多くの優先権が

与えられている。晩御飯のおかずは子どもの好みに合わせて作られるし、休日の過ごし方は子ど

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もの意向に合わせて決められる。いつでもテレビゲームで遊べるし、豊富なお小遣いで欲しいも のはいつでも自分で買えるのである。

 だから、学校でもっと我慢することを教えるべきだ、というのは全くのナンセンスに思えてく る。一般の社会や家庭の中ではもはや要求されないような我慢を強いる仕組みを、今でもたくさ ん残しているからこそ、子どもたちは学校の中でキレやすくなるのだから。

 では、いったいどうすればいいのか。学校の中をもっともっと自由にして、今以上に何でもあ りにしてしまうのか。すると、我慢することはいったいどこで教えるのか。家庭や地域社会でそ れが教えられるのか。だが、肝腎の大人たちはどうだろうか。大人たちもまた、実は我慢できな くなっているし、些細なことでキレやすくなってはいないだろうか。あまりに短絡的、衝動的な 動機に基づいた、背筋の寒くなるような犯罪も急増している。このままでは私たちの社会はいっ たいどうなってしまうのか。やはり、学校の道徳教育でこれを何とかしていかなければ…。

 大人の社会の問題が学校教育によって解決できる、と思い込んでしまうのも、あの神話に特有 の妄想ではなかったか。やっと出てきたばかりの迷路に再び迷い込まぬよう、ここではっきりと 言い切ってしまおうではないか。およそ道徳教育に関しては、世間の大人たちにできないことを 学校に求めても、無駄であるし無意味である、と。だが、道徳教育とはそもそも何であったのか。

この棚上げされたままの問いには、やはり別の機会に答えなければならないだろう。ただ、その 問いの検討は、ここで扱われた問題ほど緊急を要するわけではないことだけは確かなようである。

(1)例えば、プラトンの伝えるところによれば、ソクラテスは、「徳(アレテー)とは何か」

   という間いの探求を続けるということそれ自体が、「魂をできるだけすぐれたよきものと    する」ための実践に他ならない、と信じていれプラトン『ソクラテスの弁明』(29d−

   30b,38a)o

(2)ここで直ちに、いや、家庭や地域社会がかつてのような教育力を失ったからこそ、学校で    道徳教育を行う必要があるのだ・というお馴染みの指摘がなされるかもしれない。だが・

   すぐ後に見るように、問題なのはまさに、なぜ家庭や地域社会では「できない」と簡単に    決めつけてしまえることが、学校でなら「できるはずだ」と即断できてしまえるのか、と    いうことなのである。

(3)この二つの先入観のありようについては、小浜逸郎の一連の著作から多くを学んだ。とり    わけ、例えば、『子どもは親が教育しろ』(草思社、1997年)108頁以下、178頁以下を参一照。

(4)このような世間の思い込みが、実際にはいかに理不尽な要求を現場の教師たちに突きつけ    ていることになるか、を丹念に分析したものとして、次を参照。夏木管『誰が学校を殺し    たか」(JICC出版局、1992年)第1章「教師たちの憂欝」。

(5)人類の歴史や私たちの社会の現実は、その実例に満ち満ちている。そのありさまはまるで    悪夢のようである。

(6)私たちの社会で、この夢をことさら増幅させ、人々がそれから醒めることを困難にしてい    る要因の一つとして、例えば「金八先生」に代表されるような、学校を舞台とする一連の    「感動」ドラマの存在があげられよう。小浜は、「日本中に人気のあったこの人情ドラマ」

   が、「有害」な理由として、第一に「教師と生徒の信頼関係の崩壊は、人間的な努力や情

   熱で解決できるという幻想をふりまいた」こと、そして、第二に、r教師は聖職者である

(11)

  べきだという古くさい理想観念を助長し、理想に近づけない普通の教師を、劣等感と被抑   圧感と無力感の中に追いやった」こと、の2点を挙げている。小浜『前掲書』113頁。

(7)にもかかわらず、たった一つだけ、不幸にも合意されてしまうことがある。すなわち、た   とえそれがどのようなものであるにせよ、とにかく教師の資質の向上が図られなければな   らない、ということである。だが、望ましい資質の中身が明らかでないのに、いったいど   うして「資質向上」のための具体策(例えば初任者研修)を立てることが可能となり、現   に実行に移されてしまっているのか。この「ほとんど笑い話」が「ほとんど悪夢」となっ   てしまう事情については、夏木が説得力のある議論を展開している。夏木『前掲書」22頁   以下。

(8)学校問題についての著作活動や発言を精力的に行っているある現職中学校教師が、かつて   テレビ番組でのインタビューに答えて、「だって・フツーのおじさんやおばさんが教師を   やっているんですから。そうでしょ。われわれはフツーのおじさんやおばさんですよ。」

  と語っていたことが強く印象に残ってい乱これに対して・もしも「フツーのおじさんや   おばさんに教師になられては困る」と言いたいのなら、その人は、まずは自分が教師に望   む資質を具体的に明らかにした上で、実際にその資質を有する人に対して、いったいどれ   くらいの待遇を用意する準備が私たちの社会にはあるのか、といったことを、せめて一度   は真剣に考えてみる必要があるだろう。

(9)cf.小浜『前掲書』117頁。

(10)明治以降の日本の学校における道徳教育の歴史については、それこそ無数の参考文献があ   ろうが、ここでは、次の2点だけを挙げておく。勝部真長・渋川久子『道徳教育の歴史」

  (玉川大学出版部、1984年)、右島洋介編『道徳教育の研究一資料集〔増補改訂版〕」(晃洋   書房、1990年)。

(11)このことは、第一条に先立っ「前文」を読むと、より一層はっきりする。そこでは次のよ   うに言われている。「民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献」

  するという新しい「理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」。した   がって、今後は「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間」を育成するような教   育を「普及徹底しなければならない」。そのためにあえて「教育の目的を明示して、新し   い日本の教育の基本」とする、と。

(12) 「日の丸・君が代」で道徳教育ができる、と信じている人が未だに後を絶たないのは、お   そらくはこの大成功の記憶ゆえであろう。ただし、そのような人々は概して、その成功が   あまりにも大きな不幸を代償として伴っていたことの方は忘れがちのようではあるが。

(13)福沢諭吉「徳育如何」山住正己編「福沢諭吉教育論集』(岩波文庫、1991年)71頁。

(14)さらに言えば、そもそもそれがr教育」という範躊に入るかどうかさえ必ずしも自明では   ないような数多くの業務も、学校では当然のことのように行われてきた。例えば、給食、

  健康診断、進路指導、非行防止のための校外巡視等が、果たして本来学校が提供すべきサー

  ビスであるのかどうか、という問いがほとんど立てられてこなかったのはなぜか、という

  問いが立てられてしかるべきである。

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