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久 富 木 成 大

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(1)

﹃六餡﹄は﹁龍餡﹂・﹁虎鞘﹂・﹁豹餡﹂・﹁犬餡﹂という篇名をは

じめとして︑全篇に多くの動物にかかわる言葉や表現が散りばめら

れた書物であるということができる︒小論においては︑その実態を

先ずえがき出し︑それら動物に由来する部分が︑総体として何をえ

がき出そ︑フとして用いられているのかとい︑うことを明らかにしてみ

たい︒そ竜フして︑そのことがまた︑思想史的にどのよ﹄フな意味を持

つのかとい︑うことをも︑同時に考えてみたい︒

はじめに

岡 三 二 一

、、、、

﹁六鞘Lにおける動物模倣をめぐって

はじめに 釣りのイメージと人間

動物イメージ

軍隊と動物イメージ

兵器と兵士をめぐって

おわりに

は﹁龍餡﹂・﹁虎鞘﹂・﹁豹餡﹂・﹁犬餡﹂という篇名をは

全篇に多くの動物にかかわる言葉や表現が散りばめら

るとい︑うことができる︒小論においては︑その実態を ﹃六鞘﹄については︑従来︑文献学的にも異説が多い・清朝の桃

際恒の﹃古今偽書考﹄における︑偽書説はよく知られている︒一方

ではまた︑近年の﹃六鞘訳注﹄︵盛冬鈴訳注︑一九九二年︑河北人民

出版社刊︶のように︑厳密な考証の結果︑﹃六餡﹄は後人が太公望に

仮託したものではあるにしても︑古い兵書であり︑おそくとも戦国

後期までには成立していたとして︑その書の思想史上の史料として

の価値を高く評価する立場も目立つようになった︒小論では︑しか

し︑そ︑フした問題は措き︑ひたすらその構想を追い︑そこからうか

びあがる主題を求めることに専念したい︒

﹃六餡﹄の諸本の本文には異同が多い︒小論では︑﹃武経七書本﹄

をもとにして︑新出の銀雀山出土の竹簡︵西漢墓地出土︑一九七二

年︶にいたるまでのいろいろな版本を参照して定められた︑前掲の

﹃六鞘訳注﹄の本文に︑おもに依拠することにした︒ 久富木成大

(2)

人間の価値をはかるための根本的な観点をうかがわせる話題とし

て︑﹃六鞘﹄では以下のような場面を選んで︑のべはじめている︒

○文王︑乃ち齋すること三日︑田車に乘り︑田馬に駕して︑渭陽

に田︵かり︶す︒卒に太公の茅に坐して以て漁するを見る︒文

王︑勢ってこれに問いて曰く︑子︑漁を樂しむや︒太公曰く︑

君子はその志を得るを樂しみ︑小人はその事を得るを樂しむ︒

今︑わが漁︑甚だ似たることあり︒文王曰く︑何をかその似た

ることありと謂ふ︒︵文王乃齋三日︑乘田車︑駕田馬︑田於渭陽︑

卒見太公坐茅以漁︑文王勢而問之日︑子樂漁耶︑太公日︑君子

樂得其志︑小人樂得其事︑今吾漁︑甚有似也︑文王日︑何謂其

有似也I﹃六餡﹄文師︶

すでによく知られている文王と太公望呂尚との出会いの伝説につ

いては︑ここではふれない・右の文章に述べているところの︑﹁君子﹂

﹁小人﹂とい︑フことばに︑今は注目したい︒人間を﹁君子﹂と﹁小

人﹂とに分けて考え︑﹁君子﹂に価値﹂を認め︑後者を低い評価のも

とにおく考えは︑すでに古代中国においては伝統的な見方として一

般化し︑確立している︒ここでも︑人間を︑﹁君子﹂と﹁小人﹂とに

区分はしている︒しかし前述の伝統的扱いとは︑状況が異なる︒そ

れは︑この引用文では︑﹁君子﹂とは︑﹁その志を得るを楽しみ﹂︑﹁小

人﹂の方は︑﹁その事を得るを楽しむ﹂ものであるということに︑そ

の分類の根拠をおいているからである︒これによれば︑結局のとこ ﹃六鞘﹄における動物模倣をめぐって︵久富木成大︶

一︑釣りのイメージと人間 ろ﹁君子﹂と﹁小人﹂とは︑﹁志﹂を楽しみとするか︑﹁事﹂を楽し

みとするかのどちらかによってその区別が生ずるのであるというこ

とになるにすぎない︒しかも︑何を楽しみとするかによって︑人間

は﹁君子﹂と﹁小人﹂とに二分されるのである︒右の引用文では︑

﹁君子﹂と﹁小人﹂とを︑このよ︑フにみているのであるといっても

よい︒ところで︑この﹁楽しみ﹂の内容をなす﹁志﹂と﹁事﹂とに

ついて︑例えば︑以下のよ︑フに解くとき方がある︒ ︑︑︑︑︑︑︑︑︑ ○君子は自分の抱負を実現することを樂しみとなし︑小人は自分 ︑︑︑︑︑ の仕事の完成を樂しみとする︒︵君子以実現自己的抱負爲樂︑小

人以完成自己的工作爲楽I﹃六鞘訳注﹄︶

﹁抱負を実現すること﹂と︑﹁自分の仕事の完成﹂とを︑ここでは

それぞれ︑﹁君子﹂と﹁小人﹂のこととしてとらえている︒この﹁抱

負を実現すること﹂と︑﹁自分の仕事の完成﹂ということとは︑もと

もと別のことではない︒二つのことは︑あるところで︑分かちがた

くむすびついているといってもよいであろう︒したがって︑こうし

たことを綜合して考えてみると︑ここに述べたよ︑フな︑あまり違わ

ないことを﹁君子﹂も﹁小人﹂も︑ともに楽しみとしている以上︑

﹁君子﹂といい︑﹁小人﹂といっても︑実はあまり異なるものではな

いのではなかろ︑7か︑とい︑うことになる︒

﹃六鞘﹄の︑右に引いた部分では﹁君子﹂・﹁小人﹂とい︑フ︑伝統

的な価値判断を荷なう表現を用いて︑その実︑この言葉に︑そうし

た価値的要素を荷なわせていないことになるといってよい︒では︑

こうして﹁君子﹂と﹁小人﹂ということばから︑価値的尺度を払拭

することによって︑何をいお︑フとしているのである︑フか︒

一一

(3)

﹁釣りが楽しいか﹂と聞かれた太公望は︑のちにのべる﹁釣り﹂

という行為の持つ象徴的な意味あいを強調するために︑﹁釣り﹂が楽

しいか︑楽しくないかというような︑一般的な価値尺度からする見

方を否定してみせたかったのであるとみてよいである︑フ︒前述のご

とく︑﹁君子﹂と﹁小人﹂などといっても︑よく考えてみると大して

ちがわないものなのである︒同じよ︑フに︑釣りについても楽しいか

楽しくないかなどという︑浅い考え方からのみ見ないでほしいと︑

太公望はいいたいのである︒そ︑フして︑こ︑うしたことをふまえなが

ら︑この︑﹁君子﹂と﹁小人﹂があまり違わないとい︑うよ亀フなことは︑

遊びとしての﹁釣り﹂と︑支配者にとっての主たる行為であると見

なされているところの﹁政治﹂とが︑あまりかけはなれたものでは

ないのだとい︑うことと︑よく似通っているのであると︑太公望はい

︑フ

﹁君子﹂と﹁小人﹂が︑実はあまりちがわない︒このよ︑フな︑い

わば革命的な発想があってこそ︑初めて︑釣の持つ真の価値も知る

ことができるのであると︑太公望はいいたいのである︒ここに引い

た﹃六鞘﹄の文章にい︑フところの︑﹁今︑わが説︑甚だ似たるあり﹂

というのは︑前述のごとく︑革命的な発想をしたとき︑初めて︑﹁釣﹂

と﹁政治﹂が似ているのであるとい︑うことが納得されるのであると︑

太公望はいっているのである︒では︑なぜ﹁釣﹂と﹁政治﹂とが似

ているとい︑うことになるのである︑フか︒

○太公曰く︑釣に三權あり︑緑等以て權し︑官等以て權す︒夫れ

釣は得んことを求むるなり︒その情深くして︑以て大を観るべ

し︒文王曰く︑願はくはその情を聞かん︒︵太公日︑釣有三權︑

﹃六鞘﹄における動物模倣をめぐって︵久富木成大︶ 緑等以權︑死等以權︑官等以權︑夫釣以求得也︑其情深︑可以 観大美︑文王日︑願聞其情I﹃六鞘﹄文師︶ 釣りをするには︑政治を執るのと同じような三つの﹁権﹂︑つまり

権謀術数が必要であるから︑その点において︑釣と政治は似ている

のであると︑太公望はいう︒そうして両者にかかわるその権には︑

以下のよ管フな三種類があるのであると指摘する︒

第一に︑人君が計略的に禄位で人を誘って仕えさせるのに等しい

ところが︑釣にもある︒それは餌で魚をおびきよせることである︒

第二に︑人君がたばかって重賞で臣下に死力を尽させることがあ

る︒そうした場合︑実際に臣下は死ぬことがあるのであるが︑また

釣にもある︒それは︑格別上等の餌を使って︑ふつうなら釣れない

魚が︑死を忘れて食いついてきたのを釣り上げることである︒

第三に︑人君は仕えている臣下の才能の高下をよく見定め︑それ

ぞれに似合った官職を与える︒そうして存分に働かせ︑人君は自ら

の利益をふやすのである︒これに等しいところが︑やはり釣にもあ

る︒それは釣った魚の大小・種類を︑うまいぐあいに料理に生かし

て︑利用するところが︑それにあたるのである︒

以上のべたよ︾フに︑﹁禄﹂・﹁死﹂・﹁官﹂などとい︾7︑きわめて政治

に密着した概念が︑またそれらをめぐっての計略に匹敵するものが︑

釣りの中にもあるのである︒したがって釣りといえどもゆるがせに

はできない︒釣りはい︑フまでもなく魚をつるための行為であるが︑

そこには︑政治への単なる比嚥からするものを超えた︑深い道理が

あるとして︑太公望は以下のよ﹃7にい︑フ︒

○太公曰く︑源ふかくして水流れ︑水流れて魚これに生ずるは情

一一一

(4)

なり︒根深くして木長く︑木長くして實これに生ずるは情なり︒

君子の情同じくして親合し︑親合して事これに生ずるは情なり︒

言語應對は情の飾りなり︒至情を言ふは事の極なり︒今︑臣は

至情を言ひて謹まず︒君それこれを悪まんか︒文王曰く︑唯だ

仁人のみ能く正諫を受けて︑至情を悪まず︒何すれぞそれ然ら

ん︒太公曰く︑絹︵いと︶微にして餌あきらかなれば︑小魚こ

れを食ひ︑絹網︵ちゅう︶にして餌香︵かんば︶しければ︑中

魚これを食ひ︑繪さかんにして餌豐かなれば︑大魚これを食ふ︒

夫れ魚はその餌を食ひて︑乃ち絹に牽かれ︑人はその緑を食み

て乃ち君に服す︒故に餌を以て魚を取れば︑魚殺すべく︑緑を

以て人を取れば︑人喝すべく︑家を以て國を取れば國抜くべく︑

國を以て天下を取れば︑天下畢すべし︒︵太公日︑源深而水流︑

水流而而魚生之︑情也︑根深而木長︑木長而實生之︑情也︑君

子情同而親合︑親合而事生之︑情也︑言語應對者︑情之飾也︑

言至情者︑事之極也︑今臣言至情不諄︑君其悪之乎︑文王日︑

唯仁人能受正諫︑不悪至情︑何爲其然︑太公日︑繪微餌明︑小

魚食之︑絹網餌香︑中魚食之︑絹隆餌豐︑大魚食之︑夫魚食其

餌︑乃牽於絹︑人食其緑︑乃服於君︑故以餌取魚︑魚可殺︑以

緑取人︑人可喝︑以家取國︑國可抜︑以國取天下︑天下可畢l

﹃六鞘﹄文師︶

先に引用したところにおいて︑釣りによって﹁大を観る﹂といっ

ていたことを想起したい︒その﹁大﹂とは︑偉大なる道理というこ

とであり︑その道理が︑具体的に何であるかについて︑ここに引用

した文章では述べているのである︒そうして︑その結論は︑結局の ﹃六餡﹄における動物模倣をめぐって︵久富木成大︶

ところ︑﹁天下を取る﹂ということに関しての道理であるのである︒

この﹁大﹂︑つまり﹁偉大なる道﹂は︑言葉の表面の応対のみでは

伝えられないと︑太公望はいう︒対話をかわす者どうしが︑﹁君子﹂

でなければならないと︑さらにい︑フ︒なぜならば︑道を伝える人と

伝えられる人とが︑心の深い所で理解をかわしあい︑心を一つに融

合させなければならないからである︒﹁君子﹂と心を共有できるもの

は︑あるいみで楽しみを共有できるもののことであるのであるが︑

それは﹁君子﹂しかいない︒しかも︑道を伝える﹁君子﹂どうしの︑

道への共感からしか︑その道を伝えることばの内容は︑現実化への

力を持ちえないのであると︑太公望は強調する︒

太公望のはなしは︑﹁源深くして水流れ︑水流れて魚これに生ずる

は情なり﹂といい︑﹁根深くして木長く︑木長くして実これに生ずる

は情なり﹂とつづけるところからはじまっている︒﹁源深い水﹂︑﹁根

深い木﹂︑その﹁深さ﹂が必要であるとする︒この﹁深い﹂心を持つ

ものを︑ここで︑太公は﹁君子﹂であるとしている︒そのよ︑フな﹁深

い心﹂の持主どうしの心のふれあいを︑ここに﹁君子︑情同じくし

て親合し︑親合して事これに生ずるは情なり﹂という︒これを受け

て文王は太公望に誓った︒﹁ただ︑仁人よく正諫をうけて至情を悪ま

ず﹂︑と︒また︑右の引用文でい︑7﹁親合﹂は︑文章の流れからして︑

﹁深合﹂とい︑7意味をもおびるである︑うことは否定できない︒そう

した﹁親合﹂をふまえて︑太公望は﹁君子﹂どうしのはなしとして︑

﹁釣り﹂のことをふまえながら︑結局のところ﹁国を以て天下を取

る﹂とい︑うことを︑文王にすすめている︒これは︑い︑うなれば叛乱

を教唆することに外ならず︑一歩まちがえば大罪におちいってしま

(5)

うとい︑フ危険性をもはらんでいるのである︒お互いを﹁君子﹂とし

て確認しあい︑﹁親合﹂しえてはじめて話せることである︒こうした

内容を予想して︑なおかつ共感し合一しうる人間性の持ち主を︑﹁君

子﹂として︑﹃六鞘﹄の書では︑それを太公望のい︑フところとして規

定しているのである︒このよ︑フにして︑話しの過程に生ずるはずの

共感こそが︑現実の﹁事﹂を支えるところの︑甚大な力のもととな

ることが期待されているのである︒

﹁釣り﹂における魚とりのはなしは︑如上の論点をふまえつつ︑

当然のこととして︑話しの展開のうちに自然に﹁国とり﹂の方法へ

と変っていっている︒以下のごとくである︒

○鳴呼︑曼曼縣縣として︑其聚必ず散じ︑喫喋昧昧として︑其光

必ず遠し︒微なるかな聖人の徳︑誘乎として濁り見る︒樂しき

かな聖人の盧︑各々その次に歸して敏を立つ︒文王曰く︑数を

立つることいかにして天下これに歸せん︒太公曰く︑天下は一

人の天下に非ず︒乃ち天下の天下なり︒天下の利を同じくする

ものは︑天下を得︑天下の利を檀︵ほしいまま︶にするものは

天下を失ふ︒天に時あり︑地に財あり︑よく人とこれを共にす

るは仁なり︒仁のある所は︑天下これに歸す︒人の死を免れし

め︑人の難を解き︑人の患を救ひ︑人の急を濟ふは徳なり︒徳

のある所は︑天下これに歸す︒人と憂を同じくし︑樂を同じく

し︑好を同じくし︑悪を同じくするは義なり︒義のある所は︑

天下これに赴く︒︵鳴呼︑曼曼縣縣︑其聚必散︑喋喋昧昧︑其光

必遠︑微哉聖人之徳︑誘乎濁見︑樂哉聖人之盧︑各歸其次︑而

立數焉︑文王日︑立數何若︑而天下歸之︑太公日︑天下非一人

﹃六鞘﹄における動物模倣をめぐって︵久富木成大︶ 之天下︑乃天下之天下也︑同天下之利者︑則得天下︑檀天下之 利者︑則失天下︑天有時︑地有財︑能與人共之者仁也︑仁之所 在︑天下歸之︑免人之死︑解人之難︑救人之患︑濟人之急者徳 也︑徳之所在︑天下歸之︑與人同憂同樂同好同悪者義也︑義之 所在︑天下赴之I﹃六鞘﹄文師︶ 天下をとるには︑人民の心をつかまえなければ︑絶対に事は成就

しないと︑先ず太公望は主張する︒そして︑人民が﹁凡君﹂のもと

を去ることを︑ここでは﹁散﹂と表現している︒それとは逆に︑聖

君の人心をおさめる徳のあり方を︑﹁数﹂を立てるとして表現してい

ブ︵︾O

さきに引いた文章において﹁三権﹂︑つまり三つの権謀術数につい

て言及したが︑ここでもまたそのことを別のことばで述べている︒

そうして︑﹁国を以て天下を取れば︑天下畢︵つく︶すべし︒﹂とし

て︑その権術の最終的な到達点として︑天子の地位に即くことが示

されている︒しかし︑あまり事を不用意に︑華やかにとり行いすぎ

るよ︑フなことがあれば︑﹁曼曼縣縣﹂として流れている時間の経過と

ともに︑﹁其衆必らず散じ﹂てしまうのであると︑太公望はいう︒つ

まり︑民衆︑臣下が天子のもとから離散してしまミフという︑亡国の

危機が︑常にあるのだと︑つけ加えている︒しかしながら︑聖天子

の場合には︑そうした危機はない︒聖天子のごとく︑﹁喫喋昧昧﹂︑

すなわち黙々として自己を表面に出すことなく︑地道に政治に専念

すれば︑その政権は︑地理的にも時間的にも︑達くまで力を発揮し︑

その結果︑国は安泰でありつづけるであろうという︒聖天子の政治

が︑このようにうまく行われるのは︑この﹁喫喋昧昧﹂とした態度

(6)

ばかりによるのでは︑実はない︒ここでは︑その現実に︑うたれる手

段の︑﹁数を立てる﹂とい︑フ言及に注目をはらいたい︒しかも︑﹁そ

の次に帰して﹂︑その﹁数を立てる﹂のであるというのである︒これ

は︑臣下︑人民のすべてを︑彼らの好みの合うところにその地位を

配して与え︑それによって人心を収攪することをいっているのであ

る︒

以上のべたよ︑フにして︑人心の﹁散﹂ることを防ぎ︑逆にこれを

﹁数﹂︵おさ︶めることができるのであるとい︑フ︒太公望は︑さらに

この﹁数﹂の現象を︑﹁徳のある所は天下これに帰す﹂︑﹁義のあると

ころは︑天下これに赴く﹂と表現している︒では︑なぜ︑このよ︑フ

な現象をひきおこすことができるのであろうか︒これは結局のとこ

ろ︑人を動かすことである以上︑この問いへの答えは︑人間をどの

よ︑フなものとしてとらえているかとい︑うことが明らかにされること

によって︑与えられる性質のものであろう︒事実︑右の引用文のあ

とに︑すぐつづけて︑太公望は以下のよ︑フにい︑フ︒

○凡そ人は︑死を悪みて生を樂︵この︶み︑徳を好みて利に歸す︒

生利を能くするは︑道なり︒道の在る所は︑天下これに歸す︒

文王︑再拝して曰く︑允︵まこと︶なるかな︑敢て天の詔命を

受けざらんやと︒乃ち載せて與に倶に歸り︑立てて師と爲せり︒

︵凡人悪死而樂生︑好徳而歸利︑能生利者道也︑道之所在︑天

下歸之︑文王再拝日︑允哉︑敢不受天之詔命乎︑乃載與倶歸︑ 下歸之︑文王再拝日︑允邦

立爲師I﹃六報﹄文師︶

冒頭に﹁凡そ︑人は死を悪っ

に帰す﹂と︑その人間性を見﹄ ﹃六鞘﹄における動物模倣をめぐって︵久富木成大︶

そ︑人は死を悪みて生を楽︵この︶み︑徳を好みて利

その人間性を見ぬいた太公望は︑さらにつづけて︑そ れを要約して︑﹁生と利とを能くするは道なり﹂とのべている︒そし て︑﹁道のあるところは︑天下これに帰す﹂としめくくる︒このよう に︑人間性の根源にあるものを﹁生﹂と﹁利﹂への欲望であるとす る立場を︑太公望はとるのである︒そうして︑こうした欲望を持ち︑ この欲望充足のために動くのが︑人間であると︑主張するのである︒

こうした人間観にたつかぎり︑従来の﹁君子﹂とか﹁小人﹂など

という区別は︑これは表面のことで︑論ずるに足りない部分に注目

してなされているといえるのである︒ここにのべるところによれば︑

﹁君子﹂も﹁小人﹂も︑﹁生﹂と﹁利﹂への欲望︑つまり︑生得の︑

あるいはまた︑動物的ともいえるような︑基本的な部分において︑

等しいものであるということになるであろう︒前述の︑人間にかか

わる表面上のこととい︑フのは︑自発的に動ける部分をさすとみてよ

い︒つまり︑ある人が︑自らの理想によって動くか︑現実によって

動くかとい︑うことに帰せられるもので︑それは動かされなくても動

くレベルのことである︒しかし︑この表面上の部分によるだけでは︑

決定的な形では国を動かすことはできない︒国を構成する﹁人﹂は︑

﹁君子﹂も﹁小人﹂も︑ひとしなみに︑この﹁生﹂と﹁利﹂への欲

望を持つことにより︑﹁三権﹂の操作の対象でありうるのである︒人

間にやどる︑動物性ともとれる︑この﹁生﹂と﹁利﹂への欲望に注

目し︑その誘導によってのみ天下を手中におさめることが可能であ

ると︑太公望はい︑7のである︒ 一ハ

(7)

﹃六鞘﹄の冒頭には︑以下のよ雲フな文章がつらねられている︒

○文王まさに田︵かり︶せんとす︒史編︑卜を布きて曰く︑渭陽

に田せば︑まさに大いに得ることあらんとす︒龍にあらず︑膨

にあらず︑虎にあらず︑龍にあらず︑兆︑公侯を得たり︒天︑

汝に師を遣り︑これを以て昌を佐けて︑施いて三王に及ばん︒

文王曰く︑兆︑これを致せるか︒史編曰く︑編の太祀史檮︑禺

のために占いて皐陶を得たり︒兆︑これに比す︑と︒︵文王將田︑

史編布ト曰︑田於爲渭陽將大得焉︑非龍非瞬︑非虎非罷︑兆得

公侯︑天遣汝師︑以之佐昌︑施及三王︑文王日︑兆致是乎︑史

編日︑編之太蛆史檮︑爲禺占得皐陶︑兆比於此I﹃六鞘﹄文

師︶

狩猟の獲物が何であるかを占って︑その大きな獲物について︑こ

こでは述べているのである︒その獲物は龍でもなく︑瞬︵ち︶でも

なく︑虎でもなく︑寵︵ひぐま︶でもないという︒こうした龍や虎

や龍などは︑狩猟の獲物としては最上のものとして位置づけられて

いる︒しかも︑龍・爵などという動物は︑おそらくは想像上のもの

であり︑実際の狩りでは得られるものではない︒現実をこえて想像

し︑フる最上の獲物ということで︑こ︑フした名称を出したのである︑フ︒

それにしても︑実際に狩りをして捕獲されるえものの︑うちでも︑最

もよいものの上に︑想像によってつくり出して︑さらにすぐれたも

のをつらねているのである︒一方︑その狩りのための占いにあらわ 二︑動物イメージ

﹃六鞘﹄における動物模倣をめぐって︵久富木成大︶ れたものは︑昔々︑禺が︑忠功の臣︑皐陶を得たときのものと同じ であった︒文王に帝業をなさしめるための助けとも︑師ともなるほ どの人物を︑このたびの狩りでは手に入れることになるである︑フと︑ 占いに出たのである︒そうして︑そのような大人物を話題として提 出するとき︑その対応物として列挙されたのが︑龍・瀞・虎・窯の 四種の動物であるのである︒これらの動物と︑のちにあげられた人 物とは︑実は︑全くの無縁のものとい︑フわけにはいかないである︑フ︒ このことを述べたてながら︑次第に一つの︑あるイメージが形成さ れていったはずである︒あるいは︑そのイメージが前提にあったは ずであるといいかえたにしても︑大きな誤りはないであろう︒ある いみで︑貴重ですぐれた動物によって︑傑出した人間をイメージす ることは︑よくあることであろ書フ︒そのよ︑フな例として︑﹃六報﹄で は︑つぎのよ︑フなことをのべている︒

○夫れ王者の道は︑龍首の如く︑高く居りて遠く望み︑深く硯て

審に蕊き︑その形を示してその情を隠し︑天の高くして極むく

からざるが若く︑淵の深くして測るべからざるが若し︒故に怒

るべくして怒らざれば︑姦臣乃ちおこり︑殺すべくして殺さざ

れば︑大賊乃ち發し︑兵勢︑行はれざれば︑敵國乃ち強し︒文

王曰く︑善いかな︒︵夫王者之道︑如龍首︑高居而遠望︑深覗而

審鶏︑示其形︑隠其情︑若天之高︑不可極也︑若淵之深︑不可

測也︑故可怒而不怒︑姦臣乃作︑可殺而不殺︑大賊乃發︑兵勢

不行︑敵國乃強︑文王日︑善哉I﹃六鞘﹄上賢︶

ここには︑王者を龍になぞらえる立場があることに注目しなけれ

ばならない︒その王者のあり方が︑深淵にひそみ︑時に天に昇る龍

(8)

の形と行動とになぞらえられているのである︒あるいは又︑龍の性

癖と行動とに思いをいたしながら︑同時にそのことが王者のイメー

ジを形成することにつながっているのだともいうことができるであ

う︵一︑﹁ノO

また︑以下のよ︑フな記述もある︒

○鶯烏︑將に撃たんとすれば︑卑く飛んで翼を数め︑猛獣︑將に

榑たんとすれば︑耳を詞︵すぼ︶めて傭伏す︒聖人︑將に動か

んとすれば︑必らず愚なる色あり︒今︑かの有商︑衆口相惑は

して︑紛紛秒秒として︑色を好むこと極まりなし︒これ亡國の

證なり︒吾︑其の野を観れば︑草菅︑穀に勝ち︑吾︑其の衆を

観れば︑邪曲︑直に勝ち︑吾︑其の吏を観れば︑暴虐︑残賊す︒

法を敗り刑を創れども︑上下覺らず︒これ亡國の時なり︒大明

發すれば︑萬物みな照らされ︑大義發すれば︑萬物皆利し︑大

兵發すれば︑萬物みな服す︒大なるかな聖人の徳︑濁り聞き濁

り見る︑樂しきかな・︵鶯烏將鑿︑卑飛數翼︑猛獣將榑︑稠耳傭

伏︑聖人將動︑必有愚色︑今彼有商︑衆口相惑︑紛紛秒秒︑好

色無極︑此亡國之證也︑吾観其野︑草菅勝穀︑吾観其衆︑邪曲

勝直︑吾観其吏︑暴虐残賊︑敗法飢刑︑上下不覺︑此亡國之時

也︑大明發而萬物皆照︑大義發而萬物皆利︑大兵發而萬物皆服︑

大哉聖人之徳︑燭聞濁見︑樂哉I﹃六餡﹄發啓︶

ここでは︑烏とけものとがとり上げられている︒しかも︑それら

はただの烏やけものではない︒鳥の方は鶯烏と書かれており︑けも

のの場合には︑猛獣と記されているのである︒鶯烏というのは︑鷲

︵わし︶や︑蘆︵たか︶や︑隼︵はやぶさ︶などのような︑飛ぶこ ﹃六鞘﹄における動物模倣をめぐって︵久富木成大︶

とが速く︑性質も激しい烏のことである︒猛獣については︑虎など

のような︑体も大きく︑強いけもののことであることは論ずるまで

Jb力今い・

鶯烏は︑まさに大きくはばたき︑獲物をとろうとしてとび上ろう

とするときには︑一度︑おもいきり翼をすぼめる︒そのため︑必然

的に飛ぶ高さもひくくなる︒そ︑フしてそこから一気に羽を広げて上

翔する︒猛獣は相手におそいかかろうとするときには︑耳をすぼめ︑

身をちぢめて︑パッとばかりにとびかかる︒

ここでは︑鶯烏や猛獣を︑人のなかでもことにすぐれているとさ

れる聖人に関連させて記述をすすめている︒例えば︑贄烏と猛獣が︑

まさに獲物にとびかかろうとしている直前の︑身をちぢめ︑かがめ

ている状態が︑彼らの大きな力の源泉だととらえ︑それを聖人が身

を誇ることなく︑謙遜して︑あたかも愚人のごとくにふるまい︑人

にもそのよ︑フにとられているよ︑フな状態と︑同じことであるといっ

ているのである︒しかも︑そのよ︑フな聖人の生きている時代と環境

とは︑まさに亡国の時そのものなのである︒こうした時にこそ︑あ

たかも鶯烏や猛獣のごとく︑聖人が一気にその本領を発揮して立ち

上がれば︑ここにい︑うよ︑フに︑﹁大明発すれば︑万物みな照らされ︑

大義発すれば︑万物皆利し︑大兵発すれば︑万物みな服す﹂という

よ︑フに︑偉大な力を社会に及ぼすことが可能となるという︒そうし

て︑ついには世の中が治まり︑太平の世が出現するのであると述べ

られている︒

ここに引いた文章の冒頭の﹁贄烏ひくく飛んで翼を数め︑猛獣ま

さに榑たんとすれば耳をすぼめて傭伏す﹂とい︑7ところには︑い︑7

(9)

なれば︑負の動作の発見と︑その価値の認識というようなものが︑

述べられているのだと見たい︒では︑こ︑フした認識は︑いかにして

得られたのであろうか︒ここに︑ついでに見ておきたい・

○文王︑割に在り︑太公を召して曰く︑鳴呼︑商王︑虐きはまり

て享あらざるを罪殺す︒公尚︑予を助けて民を憂ふることいか

ん︒太公曰く︑王それ徳を修めて以て賢に下り︑民を惠んで天

道を観よ︒天道︑狭ひなければ︑先づ偶ふくからず︑人道︑災

ひなければ︑先づ謀るべからず︒必ず天の狭ひを見︑又︑人の

災ひを見て︑乃ちもって謀るべし︒必ずその陽を見︑又その陰

を見て︑乃ちその心を知る︒必ずその外を見︑又その内を見て︑

乃ちその意を知る︒必ずその疏んずるを見︑又その親しむを見

て乃ちその情を知る︒その道を行けば︑道いたすべきなり︑そ

の門に從へば︑門︑入るべきなり︒その禮を立つれば︑禮なる

べきなり︑その強を孚へば︑強︑勝つべきなり︒全勝は罰はず︑

大兵は創つくることなし︒鬼榊と通ず︒微なるかな微なるかな︒

人と同病相救ひ︑同情相成し︑同悪相助け︑同好相遷︵おも︶

むく︒故に甲兵なくして勝ち︑衝機なくして攻め︑溝麺なくし

て守る︒大智は智ならず︑大謀は謀らず︑大勇は勇ならず︑大

利は利ならず︒天下を利するものは︑天下之を啓き︑天下を害

するものは︑天下これを閉づ︒天下は一人の天下に非ず︑乃ち

天下の天下なり︒天下を取るものは︑野獣を逐ふが若くにして︑

天下みな肉を分つの心あり︒舟を同じくして濟るが若し︒濟れ

ば皆その利を同じくし︑敗るれば皆その害を同じくす︒然れば

すなわち皆もって︑これを啓くことありて︑もって之を閉づる

﹃六鞘﹄における動物模倣をめぐって︵久富木成大︶ ことあるなきなり︒民より取ることなきものは︑民を取るもの なり︒民に取ることなきものは︑民︑これを利とし︑國に取る ことなきものは︑國これを利とし︑天下に取ることなきものは︑ 天下︑これを利とす︒故に道は見るべからざるに在り︑事は聞 くべからざるに在り︑勝は知るべからざるに在り︑微なるかな 微なるかな︒︵文王在鄙︑召太公日鳴呼︑商王虐極︑罪殺不睾︑ 公尚助予憂民如何︑太公日︑王其修徳︑以下賢︑惠民以観天道︑ 天道無映︑不可先侶︑人道無災︑不可先謀︑必見天映︑又見人 災︑乃可以謀︑必見其陽︑又見其陰︑乃知其心︑必見其外︑又 見其内︑乃知其意︑必見其疏︑又見其親︑乃知其情︑行其道︑ 道可致也︑從其門︑門可入也︑立其禮︑禮可成也︑箏其強︑強 可勝也︑全勝不闘︑大兵無創︑與鬼肺邇︑微哉微哉︑與人同病 相救︑同情相成︑同悪相助︑同好相超︑故無甲兵而勝︑無衝機 而攻︑無溝麺而守︑大智不智︑大謀不謀︑大勇不勇︑大利不利︑ 利天下者︑天下啓之︑害天下者︑天下閉之︑天下者︑非一人之 天下︑乃天下之天下也︑取天下者︑若逐野獣︑而天下皆有分肉 之心︑若同舟而濟︑濟則皆同其利︑敗則皆同其害︑然則皆有以 啓之︑無有以閉之也︑無取於民者︑取民者也︑無取民者︑民利 之︑無取國者︑國利之︑無取天下者︑天下利之︑故道在不可見︑ 事在不可聞︑勝在不可知︑微哉微哉I﹃六餡﹄發啓︶ 一見︑亡国の時に直面しているかのような王朝でさえも︑本当に

そうであるかどうかを判断することは容易ではない︒ここでは︑自

然の災害を天のくだす狭︵わざわい︶ととらえ︑それがおこってい

るかど︑うかとい︑うことと︑人心の離叛︑即ちここでい︑フところの人

(10)

災があるか否かを︑よく見分けなければならないという︒これらは︑

現象に依拠しながら︑その背後にある︑目に見えない︑﹁天道の向背﹂

を知る手段についてのべているのである︒

つぎに︑﹁陽と陰﹂を見て︑人の心を知れ︑という︒また︑﹁外と

内﹂をみて︑人の心を推しはかれともい︑フ︒さらに︑ある人物がい

かなる人を﹁疏んじているか︑親しんでいるか﹂をみて︑人の情︑

つまり︑心の真実をしっかりとつかめという︒いずれも表面の現象

からだけでは真実に達することはできないのであるということを主

張している︒

以上のことをふまえてはじめて︑﹁鬼神と通ずる﹂︑つまり︑微妙

な道理︑認識に到達できるのであるという︒そうすれば︑自分より

も強い軍隊にも勝つことができ︑自分自身は傷つけることなく︑勝

利を手中にすることができるのであると︑述べている︒こうした状

況を実現するためには︑前述の外面と内面の両方へのゆきとどいた

認識の外に︑さらに︑どのような配慮が必要とされるのであろうか︒

﹁人と同病あい救い︑同情あい成し︑同悪あい助け︑同好あい超

︵おもむ︶く﹂︑と︑ここに引いた文章ではのべている︒このよ︑フに

君主は人民と︑真に心身において一体化したとき︑そこに予想外の

莫大な力が生ずるという︒そこで戦うと︑まさに敵なしの状態とな

るとされる︒

では︑なぜそのよ壜フな力が生まれるのである違うか︒﹁天下を利する

ものは︑天下これを啓き︑天下を害するものは︑天下これを閉ず﹂

とここに述べている︒この﹁啓き﹂﹁閉ず﹂とい︑うことに注目が払わ

れなければならない︒このことについては︑引用の文章は︑さらに ﹃六鞘﹄における動物模倣をめぐって︵久富木成大︶

以下のよ︑フにつづける︒﹁天下を取るものは︑野獣を逐うが如くにし

て︑天下皆︑肉を分つの心あり︑舟を同じくして済るが如し︑済れ

ば皆その利を同じくし︑敗るれば皆その害を同じくす︒然れば皆︑

これを啓くことありて︑これを閉ずることあるなきなり﹂︑と︒こう

してみると︑﹁啓く﹂︑﹁閉ず﹂とい︾フのは︑結局のところ︑人民が主

君に一体化して︑わがこととして協力するか︑しないかということ

であるといえよ︑フ︒そミフして︑なぜ人民は主君に協力するのかとい

えば︑それは主君と利害が一致するからに外ならない︒そうした利

害のあり所を見分け︑確実にとらえるとらえ方が君主の眼識という

ものであり︑その其本的姿勢と立場とをここでは﹁野獣を逐うが若

し﹂として表現している︒そうして︑さらにその本質を右の引用文

ではつぎのよ︑フにい︑フ︒﹁民より取ることなきものは︑民を取るもの

なり︒民にとることなきものは︑民これを利とし︑国に取ることな

きは︑国これを利とし︑天下に取ることなきものは︑天下これを利

とす﹂とある︒このよ管フに︑自分が取ろうとする︑人民︑国︑天下

から︑自己の利益をむさぼりすぎないことが大切であるという︒こ

の相手から取りすぎないことが︑結果として︑相手から大いに取る

ことになる︑としているのである︒このことは言葉をかえれば︑取

ることがないこと︑つまり相手の利益を十分に考えてやることが︑

最も自らの利益につながるのだということである︒﹁野獣を逐う﹂も

のが考えなければならないのも︑このことに外ならない︒したがっ

て︑自分を助けて一しょに野獣狩りに参加している仲間達に︑十分

に報いるだけの肉を分けてやるとい︑フ心がけを忘れてはならないの

である︒

(11)

﹁取る﹂という自益・自利の現象の背後にあって︑そのことをよ

り有効に成り立たせるべく働いている︑﹁与える﹂という利他の行為︑

つまり自らの利益に相反する︑マイナスの行為こそが大切であると︑

太公望はい︑フ︒このことの大きな役わりが︑衆人にはわかっていな

い︒このことを太公望は︑﹁道は見るべからざるにあり︑事は聞くべ

からざるに在り︑勝は知るべからざるに在り︑微なるかな︑微なる

かな﹂とい︑フ︒

この﹁微なる﹂ことの発見と認識の契機となったのが︑この章の

冒頭にあげたところの︑鶯烏・猛獣の姿態に外ならない︒つまり︑

それらの動物が︑ひくく飛んで翼をおさめることと︑耳をすぼめて

身を伏せるという行動をする︒そうした行動への深い観察と︑そこ

からの解釈が出発点となって︑この﹁微なるもの﹂への認識が導か

れたのであることは︑この章に引いた﹃六餡﹄からの引用文におい

て︑見てきたごとくである︒

社会の新生に大きな力を発揮するところの聖人の︑﹁将に動かんと

すれば︑必らず愚なる色あり﹂という行為のモデルも︑前述の動物

たちの動きにあったのであり︑動きはじめた聖人の行為の︑利他の

立場も︑動物を逐う狩人の集団をモデルにして導き出されたもので

あった︒動物をめぐるイメージが︑人間の価値の認識と︑行為の型

の発見とにあずかって︑大きな力になったのである︒

三︑軍隊と動物イメージ

﹃六鞘﹄における動物模倣をめぐって︵久富木成大︶ ㈹軍人における動物イメージ ⑧ ﹃六鞘﹄においては︑一群の軍人たちを﹁股肱羽翼﹂ということ

がある︒ここには︑猛獣の股︵もも︶・肱︵ひじ︶および鶯烏のつば

さのイメージが投影されているとみてよいである︑フ︒﹃六鞘﹄のなか

では︑このような立場から︑軍隊の構成について以下のごとく述べ

ている︒

○武王︑太公に問うて曰く︑王者︑師を帥ゐるに︑必ず股肱羽翼

ありて以て威紳を成す︒これをなさんこと奈何ん︑と︒太公日

く︑凡そ兵を塞げ︑師を帥ゐるには︑將を以て命となす︒命は

通達にあり︑一術を守らず︑能に因りて職を授け︑各々︑長ず

るところを取り︑時に随ひ鐘化して︑以て綱紀を爲す︒故に將

に股肱羽翼七十二人ありて︑以て天道に應ず︒數を備ふること

法の如くし︑審に命理を知る︒殊能異技萬事畢︵つ︶く︒︵武王

問太公日︑王者帥師︑必有股肱羽翼︑以成威紳︑爲之奈何︑太

公日︑凡翠兵帥師︑以將爲命︑命在通逹︑不守一術︑因能授職︑

各取所長︑随時鐘化︑以爲綱紀︑故將有股肱羽翼七十二人︑以

應天道︑備數如法︑審知命理︑殊能異技︑萬事畢美I﹃六鞘﹄

王翼︶

王者が︑その任務を逐行するためには︑必らず﹁股肱羽翼﹂の助

けがあって︑はじめてそれが成立するのであると︑ここにはい︑フ︒

そのことをさらに具体的に︑つぎのよ雷フに述べている︒軍隊には︑

まず大將が任命されなければならない︒そしてその大將には七十二

人の﹁股肱羽翼﹂が必要とされる︒この七十二人というのは︑天の

道︑つまり法則にかなった数である︒これらがそれぞれ十分に力を

出しあって︑はじめて軍隊の力がととの︑フのである︑と︒そ︑フして︑

一一

(12)

その七十二の﹁股肱羽翼﹂の一々については︑以下のごとくのべて

いつつ︒ ○武王曰く︑その目を請ひ問ふ︑と︒太公日︑腹心一人︑謀を賛

け卒に應じ︑天を撲り︑鐘を消し︑計謀を總攪して︑民命を保

全することを主る︒謀士五人︑安危を圖り︑未萌を慮り︑行能

を論じ︑賞罰を明にし︑官位を授け︑嫌疑を決し︑可否を定む

ることを主る︒天文三人︑星暦を司り︑風氣を候ひ︑時日を推

し︑符験を考へ︑災異を校りて︑天心去就の機を知ることを主

る︒地利三人︑軍の行止の形勢︑利害の消息︑遠近瞼易︑水個

山阻︑地利を失はざることを主る︒兵法九人︑異同を講論し︑

成敗を行事し︑兵器を簡練し︑非法を刺筆することを主る︒通

糧四人︑飲食を度り︑蓄積を備へ︑糧道を通じ︑五穀を致して︑

三軍をして困乏せざらしむることを主る︒奮威四人︑材力を樺

び︑兵革を論じ︑風馳電製︑由る所を知らざることを主る︒伏

旗鼓三人︑旗鼓を伏せ︑耳目を明らかにし︑符印を誰り︑號令

を謬り︑闇忽として往來し︑出入すること肺の若くなることを

主る︒股肱四人︑重きを任じ︑難きを持し︑溝蓮を修め︑壁塁

を治めて以て守禦に備ふることを主る︒通才二人︑遣を拾ひ過

を補ひ︑賓客に應偶し︑議論談語して︑患を消し結を解くこと

を主る︒權士三人︑奇論を行ひ︑殊異を設け︑人の識る所に非

ずして︑無窮の愛を行ふことを主る︒耳目七人︑往來して言を

蕊き鍵を硯︑四方の事︑軍中の情を寶ることを主る︒爪牙五人︑

威武を揚げ︑三軍を激勵し︑難を冒し鏡を攻めて︑疑盧する所

なきを主る︒羽翼四人︑名譽を揚げ︑遠方を震はし︑四境を動 ﹃六鞘﹄における動物模倣をめぐって︵久富木成大︶

かして︑以て敵の心を弱くすることを主る︒遊士八人︑姦を伺

ひ鍵を候ひ︑人情を開閨し︑敵の意を観て︑以て間諜を爲すこ

とを主る︒術士二人︑藷詐を爲し︑鬼紳に依託して︑以て衆の

心を惑はすことを主る︒方士三人︑百藥以て金瘡を治め︑以て

萬病を癌すことを主る︒法算二人︑三軍の螢塁糧食︑財用出入

を會計することを主る︒︵武王日︑諸問其目︑太公日︑腹心一人︑

主賛謀應卒︑撲天消鍵︑總攪計謀︑保全民命︑謀士五人︑︑王圖

安危︑盧未萌︑論行能︑明賞罰︑授官位︑決嫌疑︑定可否︑天

文三人︑主司星暦︑候風氣︑推時日︑考符験︑校災異︑知天心

去就之機︑地利三人︑主軍行止形勢︑利害消息︑遠近瞼易︑水

個山阻︑不失地利︑兵法九人︑主講論異同︑行事成敗︑簡練兵

器︑刺翠非法︑邇根四人︑主度飲食︑備蓄積︑邇狼道︑致五穀︑

←令三軍不困乏︑奮威四人︑主揮材力︑論兵革︑風馳電禦︑不知

所由︑伏旗鼓三人︑主伏旗鼓︑明耳目︑諭符印︑謬號令︑闇忽

往來︑出入若紳︑股肱四人︑主任重持難︑修溝麺︑治壁塁︑以

備守禦︑通才二人︑主拾漬補過︑應偶賓客︑議論談語︑消患解

結︑權士三人︑主行奇譜︑設殊異︑非人所識︑行無窮之鍵︑耳

目七人︑主往來鶏言覗鍵︑寶四方之事︑軍中之情︑爪牙五人︑

主揚威武︑激勵三軍︑使冒難攻鋭︑無所疑盧︑羽翼四人︑主揚

名譽︑震遠方︑動四境︑以弱敵心︑遊士八人︑主伺姦候鍵︑開

閨人情︑観敵之意︑以爲間諜︑術士二人︑主爲論詐︑依託鬼紳︑

以惑衆心︑方士三人︑主百藥以治金瘡︑以癌萬病︑法算二人︑

主會計三軍螢塁粧食財用出入I﹃六鞘﹄王翼︶

七十二人の﹁股肱羽翼﹂については︑以上にのべているごとくで 一一一

(13)

ある︒すなわち︑腹心一人︑謀士五人︑天文三人︑地利三人︑兵法

九人︑通糧四人︑奮威四人︑伏旗鼓三人︑股肱四人︑通才二人︑権

士三人︑耳目七人︑爪牙五人︑羽翼四人︑遊士八人︑術士二人︑方

士三人︑法算二人である︒

﹁股肱羽翼﹂の上にいて︑軍隊の中心となる﹁将﹂の重要性につ

いては︑﹃六鞘﹄では︑つぎのよ書フにとらえている︒

○兵は國の大事︑存亡の道なり︒命は將に在り︑將は國の輔け︑

先王の重んずる所なり︒故に將を置くこと︑察せざるべからず︒

故に曰く︑兵は雨つながら勝たず︒また雨つながら敗れず︑と︒

兵出でて境を蹄之︑期十日ならずして︑國を亡ぼすことあらざ

れば︑必ず軍を破り將を殺すことあらん︒武王曰く︑善いかな︒

︵兵者國之大事︑存亡之道︑命在於將︑將者國之輔︑先王之所

重也︑故置將不可不察也︑故日︑兵不雨勝︑亦不雨敗︑兵出踊

境︑期不十日︑不有亡國︑必有破軍殺將︑武王日︑善哉I﹃六

餡﹄論將︶

戦争は国の存亡のかぎをにぎる大切なものであり︑戦いの結果は︑

ここにいうように︑勝ちか負けしかない︒そのような戦争の主体と

なる︑軍の行動の責任を負うものが将軍である︒したがって︑将軍

こそは国の興亡の運命を左右する人物ということになる︒将軍の権

力の重さについては︑つぎのような記述が︑さらに成されている︒

○武王︑太公に問︑うて曰く︑將を立つるの道はいかん︑と︒太公

曰く︑凡そ國に難あれば︑君︑正殿を避け︑將を召してこれに

詔して曰く︑肚稜の安危︑一に將軍に在り︒今︑某國不臣なれ

ば︑願はくは將軍︑師を帥ゐてこれに應へよ︑と︒將︑すでに

﹃六諸﹄における動物模倣をめぐって︵久富木成大︶ 命を受くれば︑乃ち太史に命じて卜し︑齋すること三日︑太廟 にゆき︑霊韮を鎖り︑吉日をトして︑以て斧鋏を授く︒君︑廟 門に入りて︑西面して立ち︑將︑廟門に入りて︑北面して立つ︒ 君︑親ら鋏を操り︑首を持ちて︑將にその柄を授けて曰く︑こ れより上︑天に至るまで︑將軍︑これを制せよ︑と︒復た斧を 操り柄を持ちて︑將にその刃を授けて曰く︑これより下︑淵に 至るまで︑將軍︑これを制せよ︑と︒︵武王問太公日︑立將之道 奈何︑太公日︑凡國有難︑君避正殿︑召將而詔之日︑肚穆安危︑ 一在將軍︑今某國不臣︑願將軍帥師應之也︑將既受命︑乃命太 史ト︑齋三日︑之太廟︑鑛襄韮︑卜吉日︑以授斧鋏︑君入廟門︑ 西面而立︑將入廟門︑北面而立︑君親操鋏持首︑授將其柄日︑ 從此上至天者將軍制之︑復操斧持柄︑授將其刃日︑從此下至淵 者︑將軍制之I﹃六鞘﹄立將︶ 将軍の任の重さについては︑﹁社稜の安危︑一に将軍にあり﹂とま でいわせている︒また︑その権力の大きさについては︑同じく王は ﹁上︑天にいたるまで将軍これを制せよ︒下︑淵に至るまで将軍こ れを制せよ﹂︑と詔りしていっている︒

一方︑将軍はまた自らの権力について︑つぎのように王に要求し

ている︒

○臣︑既に命を受けて︑斧鋏の威を專らにす︒臣︑敢て生きて還

らじ︒願はくは君︑また一言の命を臣に垂れよ・君︑臣に許さ

ざれば︑臣あへて將たらじ︑と︒君これを許す︒乃ち群して行

く︒軍中の事︑君命を聞かず︑皆︑將より出づ︒敵に臨み戦を

決して︑二心あるなし︒此の若くなれば︑上に天なく︑下に地

一一一一

(14)

なく︑前に敵なく︑後に君なし︒是故に智者︑これがために謀

り︑勇者︑これがために鬮ひ︑氣︑青雲を属ぎ︑疾きこと︑馳

蕉するが若く︑兵︑刃を接せずして︑敵は降服す︒戦ひて外に

勝ち︑功うちに立つ︒吏︑上賞に遷され︑百姓權悦し︑將︑筈

映︵きゅうあう︶なし︒このゆえに︑風雨時節し︑五穀豐登し︑

祗稜安寧なり︒武王曰く︑善いかな︒︵臣既受命︑專斧鍼之威︑

臣不敢生還︑願君亦垂一言之命於臣︑君不許臣︑臣不敢將︑君

許之︑乃鮮而行︑軍中之事︑不聞君命︑皆由將出︑臨敵決戦︑

無有二心︑若此則無天於上︑無地於下︑無敵於前︑無君於後︑

是故智者爲之謀︑勇者爲之鬮︑氣属青雲︑疾若馳篤︑兵不接刃︑

而敵降服︑戦勝於外︑功立於内︑吏遷上賞︑百姓歎悦︑將無筈

映︑是故風雨時節︑五穀豐登︑祗稜安寧︑武王日︑善哉1﹃六

餡﹄立將︶

将軍は︑﹁一言の命を臣に垂れよ﹂︑とい︑フ︒これは︑軍隊の内部

のことは︑王の命令を待たずに︑将軍が自分の判断でとりおこなっ

ていいようにしてほしいという要求である︒そのことを︑王は許し

ている︒したがって︑﹁軍中のこと︑君命を聞かず︑皆︑将より出ず﹂

とあるのである︒さらに又︑﹁かくの若くなれば上に天なく︑下に地

なく︑前に敵なく︑後に君なし﹂と述べられているのも︑同じ事情

による︒ 将軍には︑このように君権をも超越するような大きな権力も︑軍

隊の中では与えられている︒そうして︑将軍の︑以上にのべたよう

な権力を︑現実のものとして︑実現させるのに︑必要不可欠なもの

が︑前述の七十二人の﹁股肱羽翼﹂の活躍に外ならない︒ ﹃六鞘﹄における動物模倣をめぐって︵久富木成大︶

この章の主題にそって︑もう一度︑﹁股肱羽翼﹂のことに話題を移

したい︒すでにのべたように︑この﹁股肱羽翼﹂ということば自体︑

動物のことを念頭において発せられたものであったのである︒ここ

では︑そのなかでも︑直接に動物にかかわるところの深いと見られ

る︑いくつかの︑﹁股肱羽翼﹂の構成内容について︑それらがいかに

動物のイメージと連接しているかとい︑うことを︑たしかめておきた

い︒ まず︑﹁股肱四人﹂︒役わりのおもなものは︑﹁重きを任じ︑溝藪を

修め︑壁塁を治めて︑守禦に備ふることをつかさどる﹂︑ということ

である︒これは︑防衛のための︑士塁や︑溝を築くことを司るもの

で︑戦いの基本的条件の整備の任を負うものである︒動物が体を支

え︑物を動かすときにつか︽フ︑股︵もも︶や︑肱︵ひじ︶のように︑

基本的な動作を行う器官のイメージが︑ここには投影されている︒

つぎに﹁耳目四人﹂︒将軍の耳ともなり︑目ともなって︑戦いにお

ける情報収集の任務を遂行するのである︒これは敵に対してばかり

でなく︑﹁軍中の情﹂もさぐるのであるという︒一種の︑叛乱防止の

任も負わされているとみてよいであろう︒これは︑動物の鋭い聴覚

や視覚の器官である︑耳や目に︑その名を置うていることは︑いう

までもない︒

さらに︑﹁爪牙五人﹂︒これは﹁威武を揚げ︑三軍を激励し︑難を

冒して鋭を攻め︑疑盧する所なきを主る﹂とのべてある︒軍の士気

を高めるため︑先頭になって戦うのあろう︒いうなれば︑猛獣の敵

につかみかかるときの︑爪や牙のように︑まつ先に敵にいくこむ部

分に相当するのである︒

(15)

さいごに︑﹁羽翼四人﹂︒﹁名誉を挙げ︑遠方を震わし︑四境を動か

して︑以て敵の心を弱くすることを主る﹂と︑これについて説明し

ている︒一種の︑心理・宣伝作戦を練り︑実行する任務を負ってい

たのである︒こうした作戦により︑味方の戦意が高揚するのであり︑

そのさまを鶯烏が高翔するときその力づよい羽翼の活動になぞらえ

て︑その任にあたる者の職名としたのであろう︒

将軍と︑それを助ける﹁股肱羽翼七十二人﹂とは︑相共同して軍

の首脳部を構成している︒これらの集団は︑見方によれば︑将軍を

頭部にして︑﹁股肱羽翼﹂を身体および手足とする︑一つの大きな動

物︑あるいはまた︑人間とも見なすことができるのである︒さきに

見てきた︑﹁股肱羽翼七十二人﹂は︑それぞれ︑手足︑耳目︑爪牙︑

羽翼というように︑動物のいろいろな器官のイメージの反映によっ

て命名され︑その任務までが説明されていた︒ここにとり出すこと

のできたのはわずかな部分であるが︑全体として︑﹁股肱羽翼七十二

人﹂は︑その名称から推しても︑動物︑ことに鶯烏・猛獣のたくま

しい体のイメージが強く作用して︑形成された組織であるよ︑フに思

われてならない︒こ︑フして︑将軍と﹁股肱羽翼﹂は一体化し︑猛り

狂う︑大きな力をふるう動物︑あるいは巨人のイメージで︑統一さ

れる︒前述のごとく︑君権をも超えるような︑大きな権力と軍事力

の根源も︑あるいみで︑それらの鶯烏︑あるいは猛獣たちの力への

信仰に由来するのであると見るべきである竜フ︒

㈲布陣についての動物イメージ

前項においては︑軍の組織に︑動物に対するある種のイメージが

寓せられていることについてのべたのであるが︑実戦における戦陣

﹃六鞘﹄における動物模倣をめぐって︵久富木成大︶ の形成にも︑この動物についてのイメージが︑深くかかわっている のであるとい︑うことについて︑以下にみていきたい︒

○武王︑太公に間うて曰く︑兵を引きて深く諸侯の地に入り︑高

山盤石︑その上に亭亭たる草木あることなきに遇ひて︑四面に

敵を受け︑吾が三軍恐催し︑士卒迷惑するに︑吾れ︑以て守ら

ば固く︑以て戦はば勝たんことを欲せば︑これをなさんことい

かん︒太公曰く︑凡そ︑三軍山の高きに慮れば︑敵のために棲

ませられ︑山の下きに虚れば︑敵のために囚はる︒既に以て山

を被りて虚らば︑必ず烏雲の陳をつくれ︒烏雲の陳は︑陰陽み

な備へ︑或はその陰に屯し︑或はその陽に屯す︒山の陽に虚ら

ば山の陰に備へ︑山の陰に虚らば山の陽に備へ︑山の左に虎ら

ば山の右に備へ︑山の右に虎らば山の左に備へ︑敵よく陵ぐと

ころは︑兵その表に備へ︑衝道通谷は︑絶つに武車を以てし︑

高く旋旗をおき︑謹みて三軍に勅して︑敵人をして吾れの情を

知らしむることなかれ︒これを山城と謂ふ︒行列すでに定まり︑

士卒すでに陳し︑法令すでに行はれ︑奇正すでに設け︑おのお

の衝陳を山の表におき︑兵の慮る所を便にし︑乃ち車騎を分ち

て烏雲の陳をつくり︑三軍疾く戦はば︑敵人衆しといへども︑

その將︑檎にすべし︒︵武王問太公日︑引兵深入諸侯之地︑遇高

山磐石︑其上亭亭︑無有草木︑四面受敵︑吾三軍恐灌︑士卒迷

惑︑吾欲以守則固︑以戦則勝︑爲之奈何︑太公日︑凡三軍虎山

之高︑則爲敵所棲︑虎山之下︑則爲敵所囚︑既以被山而虚必爲

烏雲之陳︑烏雲之陳︑陰陽皆備︑或屯其陰︑或屯其陽︑虎山之

陽︑備山之陰︑虎山之陰︑備山之陽︑虎山之左︑備山之右︑虚

(16)

山之右︑備山之左︑敵所能陵者︑兵備其表︑街道通谷︑絶以武

車︑高置旋旗︑謹勅三軍︑無使敵人知吾之情︑是謂山城︑行列

已定︑士卒已陳︑法令已行︑奇正已設︑各置衝陳於山之表︑便

兵所虚︑乃分車騎︑爲烏雲之陳︑三軍疾戦︑敵人錐衆︑其將可

檎I﹃六鞘﹄烏雲山兵︶

わが軍が︑敵に四方を囲まれ︑絶体絶命の窮地におちいったとき︑

それを突破する方法があるであろうか︒右に引いた文章においては︑

例えば︑山頂に陣をしいたとき︑山下を敵にとりまかれたような場

合︑﹁烏雲の陳﹂を布くべきであると述べている︒そうして︑それを︑

﹁陰陽みな備え︑或はその陰に屯し︑或はその陽に屯す﹂などと説

明する︒こうしたことについて︑また︑以下のよ﹃フな記述もある︒

よりわかりやすい説きかたに注目したい︒

○武王曰く︑敵︑得て詐るべからず︑吾が士卒︑迷惑し︑敵人わ

が前後を越えれば︑わが三軍︑敗走せん︒これを爲さんこと奈

何ん︑と︒太公曰く︑途を求むるの道は︑金玉を︑王となす︒必

ず敵の使によりて︑精微なるを寶となす︒武王曰く︑敵人︑わ

が伏兵を知りて︑大軍あへて濟らず︑別將︑隊を分ちて以て水

を蹄ゆれば︑吾が三軍大いに恐れん︒これを爲さんこと奈何ん︒

太公曰く︑此の如きものは︑分ちて衝陳をなし︑兵の虚る所を

便にし︑その畢く出づるをまちて︑我が伏兵を發して︑疾くそ

の後を撃ち︑強弩は雨妾よりその左右を射︑車騎は分ちて︑烏

雲の陳をつくり︑その前後に備へて︑三軍︑疾く戦へ・敵人︑

わが戦ひ合ふを見て︑その大軍︑必ず水を濟りて來らん︒わが

伏兵を發して︑疾くその後を撃ち︑車騎はその左右を衝け︒敵 ﹃六籍﹄における動物模倣をめぐって︵久富木成大︶

人︑衆しと難も︑その將︑走らすべし︒凡そ兵を用ふるの大要

は︑敵に當り戦に臨みて︑必ず衝陳を置き︑兵の慮る所を便に

し︑然る後に車騎を以て分って烏雲の陳をつくる︒これ︑兵を

用ふるの奇なり︒いはゆる烏雲とは︑烏散じて雲合し︑鍵化す

ること窮りなきものなり︒武王曰く︑善いかな︒︵武王日︑敵不

可得而詐︑吾士卒迷惑︑敵人越我前後︑吾三軍敗而走︑爲之奈

何︑太公日︑求途之道︑金玉爲主︑必因敵使︑精微爲寶︑武王

日︑敵人知我伏兵︑大軍不肯濟︑別將分隊以踊於水︑吾三軍大

恐︑爲之奈何︑太公日︑如此者︑分爲衝陳︑便兵所虚︑須其畢

出︑發我伏兵︑疾鑿其後︑強弩雨壽︑射其左右︑車騎分爲烏雲

之陳︑備其前後︑三軍疾戦︑敵人見我戦合︑其大軍必濟水而來︑

發我伏兵︑疾鑿其後︑車騎衝其左右︑敵人錐衆︑其將可走︑凡

用兵之大要︑當敵臨戦︑必置衝陳︑便兵所虚︑然後以車騎︑分

爲烏雲之陳︑此用兵之奇也︑所謂烏雲者︑烏散而雲合︑鍵化無

窮者也︑武王日︑善哉I﹃六鞘﹄烏雲澤兵︶

﹁烏雲の陳﹂の定義として︑﹁これ兵を用ふるの奇なり︒いはゆる

烏雲とは︑烏︑散じて︑雲︑合う︒変化きわまりなきものなり﹂︑と

述べている︒烏が群れているかと思うと︑パッと飛び散り︑ただよっ

ている白雲が︑時々あちこちから集まって合わさるというようなぐ

あいに︑自由自在に変化し︑人の意表をつくようなすばやい集合離

散をくりかえしながら︑陣形を変化させて敵軍と戦うことをこの﹁烏

雲の陳﹂は本命としている︒このよ︑フに周囲をとりまかれながら︑

軍隊がそこから脱出して攻勢に転ずるための︑最も有効な陣立ての

一つに︑この﹁烏雲の陳﹂があるのである︒これは︑軍をいくつか 一一ハ

参照

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