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秋田大学教育文化学部研究紀要 人文科学 ・社会科学部門 58 pp.1‑7 2003

舞台の上のカスバ一

一 戯曲 『カスパー』の上演 にみるベーター ・ハ ン トケの言語批判の現在 ‑ 服 部 裕

Ube rdi eAuf f 也hr ungde sSt t i c ks" Ka s pa r "vonPe t e rHandke

i m " The a t e ra . d. Ruhr "

HiroshiHATTORI

Zusammenfasstlng:

1999nahmendielnszenatorenRobertoCiulliundHelmutSch畠fervom "TheateranderRuhr"ihr altesRepertoire"Kaspar"YonPeterHandkewiederauf,dessenPremieresie1987aufgeftihrtbatten.

WiesodiesesS拍ck mach langerPausewiederaufgenommen wurde,kann nurim Kontextder deutschenbzw.europaischenpolitisch‑gesellschaftlichenLageinden90erJahrenverstandenwerden.

ihrerMeinungmachistdasOppositionelleinderdeutschenGesellschaftaufgehoben,seitinsbesondere derBegriff"Neue Mitte"Von SPD in diedeutsche Politik eingefdhrt und durch die Medien wirkungsvollandieGesellschaftverbreitetwurde.Dabeierkennendielnszenatorendieerweiterte grtindlicheGefahrderselbstndigenSpracheunddamitauchdeskritischenGedankens,aufdieschon Ende60erPeterHandkeu.a.in"Kaspar"aufmerksam gemachtねatte.InderAuff肋 rungwurdedie sprachkritischepolitischePerspektivederLiteraturHandkesim gegenw豆rtigenKontextaktualisiert, indem siedarstellte,dasseine"Konsensgesellschaft"ohnedieM6glichkeitder"inhaltlichenSprache"

denjenlgen,"diewollen,dasssichetwasandert",nureineAlternativeanbieten wird,n畠mlich den

"bewaffnetenKampf''.AngesichtsdergewalttatigenKonfrontationenwiez.B.desJugoslawienkriegs bzw.derReaktionderNATOdaraufusw.inden90erJahrenistdieseBehauptungnichtnurbereits tiberzeugend,sondernauchprophetischgenug,wennmanzweiJahrespえーerdenTerrorangriffvom 11. September01erlebthat.AuBerdemstelltesichdieAktualittbzw.derWertderliterarischenThematik vonHandkeerneutheraus.

ベー ター ・ハ ン トケの初期の作品は小説であれ戯曲で あれ,通常 は文学作品の命 とみなされ る物語性 を拒んで いる。人間の生 の具象 としての物語 を描 くことでその本 質 に迫 るので はな く,物語を排除 して人間の生 の形式そ の もの,つま りそれが否応な く依存す る言語 の規定的本 質をあぶ りだす ことで,若 い‑ ン トケは人間の非 ・主体 的な本質 を暴 きだ している。 これは結果 として,社会 に おける人間の疎外 を描 きだす ことになるため,高度資本 主義や物質偏重 とい った, いわゆる人間中心主義的な意 味 における近代社会機構の人間性抑圧の典型的なモデル としての価値 を獲得す ることにな って しまう。初期の‑

ン トケ文学 がその非調和的な反物語的性格 にもかかわ ら ず,文学市場 において目を見張 るべ き成功をおさめた理 由 もここに認 め られ る。

しか し,「この戯曲 『カスバ‑』 は,現実のカスバ一 ・

‑ ウザーが如何なるものか,或 いは如何 なるものであ っ たかを措 くものではない。 それ は誰 にで も起 こりうるこ とを描 いている。 それは, ひとが話す ことによって話す ことへ と導かれ うるとい うことを措 いている(1)とい う 作家 自身の言語 モデル宣言が強調す る反物語性を目の当 りに した読者 は

,

『カスバ‑』が実 際 の舞 台で はい った いどのような芝居 として演 じられ るのか とい う疑問を前 に して少 なか らず当惑 して しま うであろう。 さらに,劇 場 に足を運ぶ観客 の多 くが必ず しも原作を読んでいると は限 らず, またハ ン トケの言語批判 的な文学理論 をよ く 理解 しているとは限 らないことを考 え ると, この当惑 は より大 きくなるはずである。実際に‑ ン トケの戯曲の上 演をみた普通の観客か らは,一般的 に訳の分か らない芝 居だ ったとい う感想がよ く聞かれる。つま り,ハ ン トケ の劇作 は一見す るととて も芝居 にす るのか難 しそ うな印

‑ 1‑

(2)

象を読者 に与え,原作を知 らず に上演をみて しまった観 客 にはある種の混乱 をまねいて しまう作品であるとい う

ことである。

そんな反物語的な戯曲 rカスパー』を果敢 に上演 し, さ らには長期 にわたって劇団の レパー トリーにして しまっ たのが "TheateranderRuhr"(「ルール河畔劇団」) である。演出家のロベル ト・チウリとヘルムー ト・シェ‑

ファーは,1987年 に初演 して以来1993年 に至 るまで 『カ スバ‑』 を同劇団の レパー トリーに加えたのである。 6 年 に もわた って レパー トリー公演 していたということは, 同戯曲の強調 された理論的性格 にもかかわ らず, その上 演が多 くの観客を納得 させた ことを意味 している。 しか し,戯曲 『カスパー』 の発表が1969年であ ったことを考 え ると,上演 までには18年の歳月が必要だ ったわけで, それ一つを とって もそ こへ至 る道筋が必ず しも平坦な も のでなか ったであろ うことは察せ られる。原作の反物語 性 と言語 モデル性 を損 なわないまま.一方で観客の鑑賞 に耐え うる舞台をつ くりだす ことは,かなり要求度の高 い作業であ ったはずである。

1993年 に一度打切 られた レパ‑ トリー公演が,1999 に同 じ演 出家の下で復活す る。以下本稿では,同劇団が 20005月に ミュンヘ ンの 「レジデ ンツ劇場」で客演 し たときの上演 に基づいて,芝居 『カスバ‑』 と戯曲 『カ スパー』が現在 に対 して もっ意味 について論述す る。

原作で は1か ら65までの番号 によって段落が区切 られ 場面が設定 されているだけで, そのつ ど ト書 きによって 照明の明暗や幕 の開 け閉めなどが細か く指示 されている が, チウ リは伝統的な形式 にな らって二幕物の芝居の形 を踏襲 して い る。 ただ し, 演 目表 に は通 常 使 わ れ る

"Akt"ではな く "Teil"という言葉が使われてい る。 し たが って厳密 に見れば,二幕ではな く二部構成の芝居 と い うことになる。そ こに演出家の明確な意図があるのか どうかは確認で きないが,第二部がカスパーの最後の台 ̀̀ZiegenundAffen''(「ヤギとサル」)を除 いて は‑

ン トケの原作 にはない場面か らで きあが っていることを 考 えると,"Akt"ではな く"Teil"を使 った ことに何 ら かの演出的な意図がないとは言えない。いずれにしても, 後で詳 しく述べ るよ うに第二部の場面設定 は原作にはな

い ものである。

それよりまず問わなければな らないことは,1987年 に 初演 した 『カスバ‑』 を12年後の99年 になぜ再 び遠 目に 加 えたのか とい うことである。 この問いに対 して,演出 家 の一人である‑ルムー ト・シェーファ‑は自身の作品 解釈 を述べた上で,再上演 の動機を次のように述べてい

る。

『カスパー』の中でハ ン トケは, どのよ うに人間が 言語 を習得 し,同時 に言語 とともに社会の文法 を獲得 す るのかを語 っています。 とい うのは, プロンプター (Einsager)によってカスパーに注入 され る もの は, そ こに社会が反映 されている要素 だか らです。 メデ ィ アがますます影響力を強めるわれわれの現実では,社 会‑の言語の関与 はいよいよ大 きくなると同時 に,そ の反面言語が媒介す るもの,つまり社会秩序の体系全 体 に対す る意識 はどんどん失われていきます。われわ れの初演か ら12年 た ったいま, この‑ ン トケの戯曲の

丁ク トゥ丁 リテー 中心的なテーマとわれわれの演出が もつ 今 日 性 は減 少 していません。(2)

シェーファーが指摘す るとお り, いわゆる先進国 と言 われ る国々の情報伝達 におけるマスメデ ィアの役割 と影 響力 はますます増大 している。言語 による情報 は単 なる データの伝達だけではな く思想 の形成や コン トロールを も決定づけることを考 え ると, 早 くも60年代 の後半 に

「ビル ト紙」の言語 の危険性 を意識 しなが ら創作 を進 め た‑ ン トケの言語批判精神(3)は, 今 日その意 味 を よ り 強めていると言える。‑ ン トケ自身,90年代 のユーゴス ラグィア内戦時の報道を目の当 りに して,改めてメデ ィ ア言語 の虚偽性 と社会的影響力を痛感 し, ジャーナ リズ ムの事実報道か らかけ離れた姿勢 を次 のように批判 して いる :(ジャーナ リス トたちは) 自らの物書 きとしての 職業を裁判官のそれ と, あるいはデマゴーグの役割 と取 り違えている」。(4)湾岸戦争の とき, アメ リカ空軍 の爆 撃が ピンポイ ン トで攻撃 目標 に命中す る様子 をテ レビ局 が全世界の家庭のテ レビに映 しだす時代 において,映像 を駆使 したメデ ィア言語が世論形成や思想操作 に対 して 行使す る力 は計 りしれない。 その意味で‑ ン トケの言語 批判的な文学 は, とりわけ90年代以降 はメデ ィア言語 に 支配 された社会状況を打破す る意図 に貫かれている。 メ デ ィアの 「裁 き手」 としての役割を自明な こととして許 容 して しまう現在の社会状況を,‑ ン トケは 「ソフ トな 全体主義」(5)と呼び, ナチの第三帝国を連想 させ る 「 四帝国」 と呼ぶ ことも辞 さない。

今 日メデ ィアが一種の第四帝国を形成 していると言 っ て も,それは決 して誇張ではあ りません。 それ は, メ デ ィアの言語 によるものです。だれ も逃れようがな く, きわめて専制的でほとんど隙のない言語です。 もちろ ん, それで も生 きてい くことはで きます。 [中略] い いえやはり,個 々の人間の存在を侵害あるいは制限 し ているのです。 [中略]実際には12年 Lかつづかなかっ

‑ 2‑

(3)

服部 :舞台の上 のカスパー

た千年帝国 と比較す ると,第四帝国がいっ終わるのか 見当す らつ きません。第四帝国の言語 は千年 よりも長 くつづ き,残念 なが ら,世界の果てまで到達す ること で しょう。 そ して, この ことばの空騒 ぎをます ます隙 のない ものにす ることで しょう。(6)

先 のシェ‑ファーの言葉 は, メデ ィア言語 の支配力の 増大を指摘す るハ ン トケの現状分析 と一致す る。 メデ ィ アの言語 はハ ン トケが 「ビル ト紙」の言語 の 「白痴性」

を意識化 した60年 代後半 よ りも, また "Theatera.d.

Ruhr"が 『カスパー』を初演 した80年代後半 よ りもな お一段 とその権力性をあ らわに しているとい うのが,両 者 の一致 した解釈であるO同劇団が, セル ビア問題 によ る ドイツ社会の‑ ン トケ非難及 び攻撃(7)が まだお さま りきっていない99年当時に 『カスパー』 の再上演 にふみ きったことは, メデ ィアの言語が現在の社会においてそ の中心的な位置を占めていて,それによって個 々の人間 の言語使用の主体性が危機 にさ らされているという演 出 家 の強い意識 の現れ とも理解で きる。

かつて西 ドイツはいわば 「メデ ィア保守社会」 とも言 える くらいで, アメ リカや 日本のよ うな放送 メデ ィア自 由主義社会 とは一線を画 していた。 テ レビ局 は全国放送 の二局 ("ARD"と "ZDF'') と地方放送の一局の計三局 とい うのが普通で,情報網 の中心 には日刊紙や週刊誌が 位置 していた。 しか し東西冷戦構造の崩壊 と統一後の90 年代 に入 ると, ドイツはさまざまな自由化 と民営化の潮 流 の中で メデ ィアのあ り方 も急激 に変化す る。つまり, ドイツもいよいよアメ リカや 日本 と同様 に,放送 メデ ィ アの情報網が急速 に発達 したと言 えるのである。 テ レビ のチ ャンネルはそれまでの何倍 に も増え, イ ンターネ ッ トの普及 は言わず もがなである。そうした社会1尤妃をシェー ファーは 「言語が氾濫す る社会」(8)と呼 び,芝居の第一 部で は三人のプロンプターの過度の言語使用の中に 「 語 の氾濫」 と 「言語の社会化機能」を表現す る。調教 と

も言え る徹底的な言語教育を施 され ることによって,言 語世界 とまった く無縁であ った非社会的存在 としてのカ スパーは社会的存在,つま り社会 と協調 していける人間 に仕立て られてい く。 このように芝居の第一部では,言 語が如何 に人間 にとって基底的な意味を もっているか と い うことが, さまざまな形で示 され るのである。

ハ ン トケの原作 にある言語 の社会化機能 とい う主題の 中で,演出家チウ リは特 に言語 と思考 との逆転関係を明 らかにす る表現 を第一部 の中心 に据えているようにみえ る。人間の姿ではな くまるで物体 を思わせ るような形で 舞台 に置かれたカスパーの出現か ら始 まって,第一部 の 舞台 はプロンプターの 「言語調教」にしたがってカスパー が徐 々に人間の姿を獲得 し,やがて言葉を発 し,ついに

は思考 を開始す ることをみせ る。言語が強制的に注入 さ れるとい う,通常 は意識化 されない言語 と人間の関係 の 描写 をとお して, カスパーは観客 に自 らの思考 の主体で はない存在 として立 ち現われ るのである。 プロンプター は 「おまえの考えていることを言 え。 おまえは自分が考 えていること以外の ことは何 も言えない」(9)と言語 と思 考 の正常 な関係を指摘 した うえで,「お まえ は喋 る こと を始 めなければな らない。喋 ることを始 めれば, おまえ は自分が喋 っていることを考 え始 めるだろ う, た とえ他 のことを考 えようとした として も」(10)と続 けることで, 言語 と思考 の逆転関係を明 らかにす るのである。原作 の このテーゼをチウ リが自らの演 出の中心 に据えたのは, 現在の ドイツの社会状況がまさに この逆転関係の中にあ ると考えたか らである。 チウ リ自身 はこの点 について次 のように述べている。

この言語 と思考の逆転関係 には,誘惑 もあるのです。

ひとは一般化 された言語 をマス ターさえすれば, もは や自分で考える必要 はな くなるのですか ら。 この こと はますます現実 にな っています。最近20年 の政治をみ れば ‑ 内容を媒介す るとい う意味での言語の ことで すが ‑ ヨーロッパの政治的対決 における言語 レベル が, とてつ もな く低下 してい るのは明 らかです。(ll)

つまり演出家 は, カスパー的な人間の姿が表意す る主 体性の危機的状況 を, ドイツ社会 の政治状況の文脈の中 に読み取 っているのである。すで に60年代か ら政治 は問 題の核心 をつ く言語使用を放棄 し始 め,現在 に至 って は

「もっとも異なる政党や党派か ら, あ らゆ る ことが想起 で きるか或 いは何 も想起で きないよ うな概念が生みだ さ れている」(12)とみているのであ る。 ここにおいて 「言語 は形而上学,つまり問い直す ことがで きない ものにな っ て しまった」 と言える。た とえば,現在 の ドイツの政治 状況 における 「新 しい中道 (NeueMitte)」 とい う概念 が,そのように 「何 も言わない, しか しコンセ ンサスへ と調整 された概念」(13)である。「新 しい中道」 とは, ド イツの政権党であるSPD(社会民主 党) が従来 の左翼 寄 りの性格を放棄 し, 自ら 「新 しい中道」路線を採用 し た ことによ って, 最大野党で あ るCDU/CSU (キ リス ト教民主同盟/キ リス ト教社 会 同盟) とFDP (自由民 主党) とと もに,「縁 の党」 を除 く主要政党 すべて が

「中道」を党の基本路線 に据え るとい う, ドイ ツ社 会全 体の政治的均質化が起 こったことを意味 している。政党 間の政策的境界線の消滅 は,健全な政治的対決,つ まり は社会の批判的思考 の消滅を準備す るものである。 そ こ

,

『カスパー』 の演出家 は現在 の ドイ ツが直面 す る社 会的危機 を看破 しているのである。

13‑

(4)

ドイツ社会 はカスパーのように一般化 された言語を注 入 され, それによって思考を コン トロールされている。

そ うした均質化 された政治的言語 を 「大多数 のメデ ィア は許容 し, それを使用す ることによってその効力をあ ら ゆ る意味内容 を喪失 した形而上学的な基準 に高めよ うと している」(14), とい うのが芝居 『カスパ』 の第‑部 の 核心である。『カスパー』 の原作が提示 す る言語 モデル に強い政治的 メ ッセージを読み取 り, そこに描かれた政 治状況が90年代 までの過去20年間 さらに悪化 していると 判断す る演出家 には

,

『カスパー』 の今 日性 は疑 いの余 地 はない。 さ らに, メデ ィア言語 の政治権力 との共犯関 係 を見逃 さない演出家 チウ リとシェーファーの認識 は, 先 に述べたハ ン トケのメデ ィア言語 に対す る批判意識 と

も共鳴 しあっているのである。

「新 しい中道」 は権力 に対立 す る力 (dasOpposi tionelle)が社会か ら消滅 して しま うこ とを象徴 して い

る概念である, と二人の演 出家 は危機感をっの らせ る。

その結果,言語 はその批判力を喪失 し,単なるイデ ィオ ムと堕す。言語が 「合意社会 (Konsensgesellschaft)

の無批判 なイデ ィオムと化す ことで, それはさらに社会 における対立勢力の消滅を助長す ることになる。言語 と 思想 の逆転関係 に続 いて,言語その ものの定式化が進む ことによって人間か らさらに思考 の主体性 は奪われて し ま うのである。二人の演 出家 はハ ン トケがその ことを明 確 に意識 していた ことを, 作家 が意図的 に, た とえば

南へ行 けば行 くほど,人々はより怠惰になる」(15)といっ

たイデ ィオムを数限 りな く使 っていることに認めている。

しか もそれ らの多 くは60年代の 「ビル ト紙」のイデ ィオ ム表現か ら引用 された もので,最終的にはハ ン トケが, 言語か ら一切の批判力を奪 って しまうファシズムの言語 使用 との連関の中でイデ ィオム化 した言語 を提示 してい

るのであると指摘す る。

このように

,

『カスパー』 の上演 は原作 に対 す る深 い 理解 に基づ き,それをさらに現在 の ドイツ及 び ヨーロッ パの社会状況 に敷衛 させた力作である。 さらに特筆すべ きは,その批判の視座が90年代の‑ ン トケ文学 のそれ と 同方向をむいているとい う事実である。 それは90年代以 降の社会 において,主体的な言語使用 に基づいた思考が メデ ィア言語 の支配力の増大の中で大 きな危機 にさらさ れているとい う事実か らの必然的な帰結であると理解で きる。

いずれに して も,‑ ン トケの言語理論的かつ反物語的 な形式で表現 された批判精神 を損ね ることな く,生 きた カスパーの姿 に言語 と人間主体 の逆転関係 とその危機 を 目にみえ る形象 として表現 した演出は高 く評価 されなけ ればな らない。『カスパ』 の第一部 は, 原作 の理論性 と舞台の生命力が見事 に融合 しあった世界を作 りだ して いるのである。

芝居 『カスパー』 には,原作 にはない第二部がある。

ー 4‑

(5)

服部 :舞台の上 のカスバ‑

それが,原作 のテーマへの深 い理解に基づいて現在の社 会状況 に対す るきわめてアクチュアルなアプローチを試 みている第一部 とどのような関係 にあるのかを知 ること は,芝居全体の意図を読み解 くうえで非常に重要である。

すでにみたように,第一部では言語 と思考 の逆転関係 と言語使用のイデ ィオム化が 「言語の氾濫」の中に見事 に表現 されているが,演 出家 は第二部では 「言語が氾濫 す る社会」 と正反対 の世界を提示す る。舞台の中央 には

ドラム缶 の台の上 に, カスパーがまるで彫像のように一 言 も言葉 を発す ることな く脆 いている。その 「カスパー 像」 のまわ りで十人 ほどの男女が, こち らもまった く無 言で 日常 の生活を思わせ る動作を延々と続 ける。観客 に 聞 こえ るのは,一人の男が無表情 に一定のテ ンポで踏み つづ ける リズ ミカルだが苛立 ちをさそう足音だけである。

つ ま り,第一部ではプロンプターが休みな く発す る言語 が舞台の中心を成 していたのに反 して,第二部では言語 のない世界が展開す るのである。 このハ ン トケの原作 に はない演 出家の創作 は,人間の思考や理性を可能 にす る のは言語であ り,言語 による理性 な しに社会の秩序を作 りだす ことはで きないとい う,言語 の本質を逆照射す る ために仕掛 け られた演出であると理解で きる。つまり, 言語 のない社会の中に無秩序を措 くことで,言語 こそが 人間を人間た らしめ,社会 に秩序を与えているものであ るとい うことを,改めて観客 に強調す るのが第二部の演 出の意図であるo シェープァー自身の言葉を借 りると,

言語 はいわば理性がそ こか ら生 じて くる網 のよ うな も

の」であ り

,

言語外の理性 は考え られな い」(16)ので あ る。

このよ うに,第二部で展開す る 「言語のない社会」は, 第一部で提示 される言語 の社会化機能 とい う本質 をさか

さに映 しだす鏡の役割 を果た している。 その意味では, 第二部 は‑ ン トケの原作のテーマをよ り象徴的に表現す るための舞台演出的な一手段以上 の ものではないとも考 え られる。つまり,現実 の社会 は言葉が氾濫 しているこ とを考えれば

,

言語のない社会」 は今 の現実 とは無縁 の, もし人間が言語 を失 った らどうなるであろうか とい うフイクテ ィヴな逆説世界を意味 しているのにす ぎない のか もしれない。 しか しもし仮 に

,

「言語 のない社会」

が言語が氾濫 しているわれわれの現実社会の寓意である とした ら, それはい ったい何を意味 しているのであろ う か。第二部 はそ うした疑問を観客 に抱かせ るのに足 るも のである。

第一部で示 された言語の均質化 とそれに伴 う主体的思 考 の停止の問題 は, メデ ィアやイ ンターネ ッ トなどの情 報伝達回路 によって言語が溢れかえればかえ るほど, そ の量 とは反比例す るように言語 に託 された内容が消失 し て きた ことの結果ではないか。内容 を奪われた言語がい くら氾濫 して も, そこには自立 した思考 の成立 と移動 と 共有 は望むべ くもな く,せいぜいイデ ィオム化 された定 式の再確認が生ず るだけではないか。 こうした疑問を追 究 してい くと

,

新 しい中道」 は, とりもなお さず 「言 語 の現実的内容の喪失」(17)を象徴 している政治 ・社会状 況なのではないか とい う認識 に到達す る。 その意味で,

●●

第二部で展開す る言語を喪失 した世界 は,、言語内容 を喪 失 した社会の寓意 と理解す ることが可能である。つまり, 演出家 自身の言葉を借 りると第二部 の言語 を失 った世界

●●

,

「ある特定の瞬間 にはすでに現実 とな って い る社会

(6)

の過激 な幻想(18)(傍点 は引用者 によ る) であ るとい う ことになる。

言語がその内容を喪失 した社会 において は

,

「いかな る言語 も, またいかなるコ ミュニケーションもまった く 無意味」(19)であ り,それは

,

表現のため には, 動物 の

よ うにただ鳴 き声をだす ことしかで きない言語のない社 会」(20)を意味 している。つま り,政治的 ・社会的な対立 構造が消滅 し, それに帰結す る思考 の均質化が支配す る 社会 は,すでに 「言語が喪失 した社会」 と同義ではない か とい う解釈が,第二部の底流を流れているのである。

第一部 で言語 を教え こまれ ることによって,文字 どお りの裸 の存在 ‑ 実際に舞台の上で は,勝手 な言語使用 を試 みるカスパーは一度全裸 の姿 に もどされ,再度 「 しい」言語使用を教 え こまれ る ‑ か ら言語 を使用す る 社会的存在 に作 り上 げ られたカスパーが, なぜ第二部で は再 びまった く言葉を発 しない彫像の姿で現われるのか。

これが, この芝居 の演出の意図を読み解 くための最後 の 問いである。

演 出家 自身 は彫像のように舞台の中央 に鎮座す るカス イコン

パーを 「聖画像」 と呼ぶ。「イコン」 と しての カスパ ー は, 自らの周囲で生起す る 「言語 を失 った」生の営みを, 一言 も言葉 を発す ることな くただひたす ら見つめる。沈 黙 の 「イコ ン」 は,明 らかに 「言語を喪失 した社会」そ の ものであ り, その意味で,今現在の社会が言語内容の 喪失 の危機 に直面 していることを体現 していると同時に, 言語 の危機 がさ らにエスカ レー トした未来への不安 を表 徴 しているとも言えるのである。

このよ うに芝居 『カスバ‑』 は,原作が明 らかに して いる言語 の本質 と,言語 と人間の関係についての洞察を, 90年代以降,特 にその後半 における現実 の政治 ・社会状 況 の コンテクス トの中に再生 させていると言え る。 それ は言語 の社会化機能や言語 と思考 の逆転関係であり, さ らには言語 の均質化 による主体的人間及 び社会の危機で ある。 そ うした社会の危機的状況を,第二部では言語が 氾濫す る現実 の世界像 に対 して言語 を失 った世界像を対 置 させ ることで, より象徴的に際立 たせている。人間の 言語 に対す る関係 は一筋縄ではいかないとは言え,言語 を失 って しまえば人間存在 その もののが終わ って しまう のである。それ は単 なる理論的な危機意識ではな く,覗 実 に起 こっている社会的危機であるとい うことを,第二 部 は訴えか けて くる。第二部 のカスパーは,そ うした現 実社会の不安 を 「イコン」 とい う姿の中にみせ るのであ るが, しか しもう一つ見逃 してな らないことがある。 そ れは

,

「イコン」のカスパーが言語 を喪失 した世界 の中 で,最後 の最後 に 「ヤギ とサル」 とい う言葉を発す ると ころに現われている。原作の最後の台詞で もあるこの言 葉 はま った く意味不明の言葉であるが, それがカスパー

自身の意志 によって発せ られたとい う事実 によって,失 われつつある言語 と言語使用の主体性がかろうじて救済 されることへの希望が表現 されていると理解で きる。そ の意味において

,

「イコンとしての カスパ ー は失 われた ものを体現 しているのと同時に, その失われた ものを保 持 している」(21)とい う演出家 チウ リの言葉 は理解 され る べ きである。

自らの言葉を使用す るところに しか主体的な思考 はな く, それな しには人間 は真のコ ミュニケーシ ョンを営む ことも,社会を変革す ることもで きない。つ まり,すべ ての人間が権利 と自由を等 しく保障 された社会の実現は, 一人ひとりの人間が 自らの言語 とその使用の主でいるこ

とな しに可能 とはな らないのである。 『カスパ ー』 の演 出家が言語 の危機を訴え るとき, それは極めて政治的で, 具体的に90年代後半 の ドイツ及 び ヨーロッパの 「合意社 会」 における言語の批判力の喪失を念頭 においている。

主体的言語を失 ったとき,人間に残 された力 はいったい 何であろうか。「内容を伴 った言語の可能性 な しに は, つまり現実的な対決の機会を可能 とす る政治文化 な しに は,変化を求める人間にとって残 された手段 は武力 によ る闘争 しかな くなって しまうのです」(22)とい う99年当時 のシェーファーの警告 は,20019月11日の大規模 なテ ロ攻撃をまつまで もな く現実的な響 きを持 っている。警 告 の的中 は, もちろん偶然ではない。テロだけではな く, 湾岸戦争,ユーゴスラグィア内戦 とNATOの軍事介入, イスラエル ・パ レステ ィナ紛争, さ らにはアフガニスタ

ン戦争等 々, この1t)年余 りで起 こった武力闘争 は主 な も のだけで も驚 くべ き数 にのぼ っているのである。 それが 90年代以降の世界の一極構造化 に伴 う,国内及 び国際社 会の 「政治文化」 の弱体化 とい うコンテクス トの中にあ ることを,芝居 『カスパー』 は改めて想起 させ るもので ある。

以上,‑ ン トケが 『カスパー』で表現 した言語 と人間 の関係,並 びにその危機 に対す る意識 を,演出家 ロベル ト・チウ リとヘルムー ト・シェープァ‑が90年代以降の ドイツ並 びにヨーロッパの政治 ・社会状況の文脈 の中に 再生 させた ことの意図 と意味 についてみてきた。最後に,

‑ ン トケ文学の主題がその表現 (及 び作家 自身) の非政 治的ボーズに もかかわ らず,極 めて現実的な政治性 に基 づいていることを も改めて 『カスパー』 の上演が明 らか していることを指摘 して この論考を閉 じることにす る。

(1) PeterHandke:Kaspar.In:Sttick 1,suhrkamp taschenbuch,1972,S.103

(2) ZurWiederaufnahmeYonPeterHandkes"Kaspar".

‑ 6‑

(7)

服部 :舞台の上のカスバ‑

StefanSchroerim Gespr畠chnitRobertoCiulliund HelmutSchafer,Impressum,Theatera.d.Ruhr,Heft 14S.1

(3) PeterHandke:ZuHansDieterM凸11er,≫DerSpringer Konzern≪.In:IchbineinBewohnerdesElfenbein‑

turms,suhrkamptaschenbuch,1981,S.170

(4) PeterHandke:AbschieddesTraumers,Winterliche Reise,SommerlicherNachtrag,suhrkamp taschen‑

buch,1998,S.148

(5) PeterHandkeim GesprchnitThomasDeichmann.

In:NocheinmalftirJugoslawien,suhrkamptaschen‑

buch,1999,S.197 (6) ibid.S.191

(7) 拙論参照 :文学的理想 としてのユーゴスラグィア,ベー ター ・ハ ン トケの"EienWinterlicheReisezuFltlssen Donau,Save,MorawaundDrinaoderGerechtigkeit ftlr Serbien" "Abschied des Trumers vom NeuntenLand"についての考察。東北 ドイツ文学研究

‑ 7‑

No.45,200112

(8) ZurWiederaufnahmeYonPeterHandkes''Kaspar".S.

1

(9) PeterHandke:Kaspar",S.150 (10) ibid.S.151

(ll) ibid.S.1 (12) ibid.S.1 (13) ibid.S.1 (14) ibid.S.I

(15) PeterHandke:"Kaspar",S.143 (16) ibid.S.I

(17) ibid.S.2 (18) ibid.S.2 (19) ibid.S.2 (20) ibid.S.2 (21) ibid.S.2 (22) ibid.S.2

参照

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