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世紀を生きたフランス国籍ユダヤ系 ドイツ人映画批評家
ロッテ・H・アイスナーの生涯
Das Leben der jüdisch-deutschen Filmkritikerin Lotte H. Eisner mit der französischen Staatsbürgerschaft,
die im 20. Jahrhundert gelebt hat
飯 塚 公 夫
要 旨
フランスのシネマテーク・フランセーズの創設者アンリ・ラングロワは映 画の世界では有名だが,その協力者であったロッテ・H ・アイスナーはナチス 亡命のユダヤ人であることは知られているものの,そのベルリンでの生い立 ちや映画と関わるようになった経緯については本人のインタヴューぐらいで しかわからなかったし注目もされてこなかった。その死後口述筆記による「メ モワール」が出てはじめてそれがかなり詳しく明らかになった。20世紀とと もに年を重ねたベルリンのユダヤ人女性にまた一つささやかな光が灯ったよ うに感じた。それを「メモワール」に即してまとめてみた。
キーワード
ロッテ・H ・アイスナー,ナチス亡命ユダヤ人,ドイツサイレント映画 1920年代ベルリン,シネマテーク・フランセーズ
1
プロローグ
ロッテ・H・アイスナー(Lotte H. Eisner)(1896 1983)は映画批評及びシ ネマテーク活動の分野では比較的著名である。しかし前者に関しては,ま
とまった著書としては3冊,よく知られている『鬼神的スクリーン』1)と
『ムルナウ論』『フリッツ・ラング論』のみで,後者に関してはシネマテー ク・フランセーズの発起人アンリ・ラングロワ(Henri Langlois)(1914 77)
の補佐役としてである。
1933年にヒトラーが政権についた3ヶ月後,ベルリン生まれベルリン 育ちの彼女がベルリンを去る決心をする。自他ともに許す「反ナチ」「ユ ダヤ人」「女性」「ジャーナリスト」だったからである。次にベルリンに足 を踏み入れるのは1953年。その間を彼女は「長期休暇」と形容する。し かしその間彼女は実に精力的に働き懸命に生きた。そしてそれを楽しん だ。結果的に充実した「長期休暇」となった。つまり働くこと・生きるこ とが文字通りただそれだけの意味しかないのであれば,それは彼女には何 の値打ちもなかったことだろう。彼女の「メモワール」を読んでみると,
そのことが伝わってくる。以下にそのメモワール『かつてありきわが祖 国』2)を手がかりに,その半生を追う(文中の括弧つきの「メモワール」はこ の本のこと)。
2
「メモワール」
「精神の豊かさの前では,可愛げのある彼女の人柄は背後に消えてしま うよう」で,「どうしても業績が表に出るものだから,全く独自の特別な 運命を担った一私人としては考えてもらえなかった。」だから「その付け が晩年になって彼女に回ってきた。彼女は自分の一生を語りたかったの に,まだ全てを語ってはいなかったのだ。そのようにして彼女は息を引き 取るまでメモワールに取り組み,自分の生涯を歪いびつでないものにしようとし ていた」(6)と,この「メモワール」のまえがきで,彼女を師とも恩人と も仰ぐヴェルナー・ヘルツォーク(Werner Herzog)(1942 )は書く3)。
この「メモワール」は口述筆記である。出版は死後の1984年,筆記者
は ヘ ル ツ ォ ー ク の 当 時 の 伴 侶 だ っ た マ ル チ ェ・ グ ロ ー マ ン(Martje
Grohmann)。3部構成で,350頁中280頁が文章化されており,およそ8頁
に及ぶ口述筆記者自身の彼女の思い出を語る文章がいわばつなぎの役を果 たす形となって,残りの60頁の二人の会話の部分へと移行する。おそら く文章化された部分はできた文章を本人が確認したもので,会話部分はそ こまで至らなかったのではないかと思われる。ただし読み合わせでの確認 作業がある程度行われていることをうかがわせる部分もある。ただし,挿 入されているアイスナーのかつての記事や創作短編やその他の資料が原著 者の意志によるものなのか筆記者ないし編集者のそれによるものなのかは 不明である。
彼女のインタヴュー映像を見たり4),雑誌インタヴューを読んだりする と,事実関係は「メモワール」と変わらず,ほとんど同じことの繰り返し となっている。しかし「メモワール」においては,その語り口がそのまま 現れている印象が強いうえ,脱線頻繁で事後編集なしの感も強いので,よ り濃密な「自伝」の一部ともなっている。ところで,その語り口は,ヘル ツォークのまえがきで言われている語りたがり的なものとは,ちょっと方 向性が違うようである。
駆け出し記者だった1929年彼女は,『淪落の女の日記』(Tagebuch einer
Verloreren)(1929年)撮影中だった主演の当時人気女優だったルイーズ・
ブルックス(Louise Brooks)(1906 85)をはじめて見る。「私はパープスト
(監督G.W. Pabst (1885 1967)のこと。なお公刊されている日本の映画本では
「パブスト」とか「パプスト」となっているが,ここでは標準的ドイツ語発音を用 いる)にインタヴューすべく撮影所へ向かったのだが,丁度休憩中に到着 した。そこで私はこの女優が手に一冊の本を持って椅子に座っているのを 見た。彼女は目を上げなかった。その様子がとても優雅だった。そのおで こはきれいに澄んでいて,横顔は古典的な美しさだった。漆黒の髪はスタ
ジオのライトを浴びて銀色に輝いていた。私はこの世のものとも思えない この姿に釘付けになってしまい,美しい生き物のようなこの絵姿に話しか ける勇気もなかった。しかしこういう人は何を読むものなのかという好奇 心に駆られていた。そっと彼女の椅子の後ろに近づいて,本のカバーを一 瞥して,『ショーペンハウアー・アフォリズム』(英訳の)の文字を読んだ ときの私の驚きといったらなかった。彼女は少なくともちゃんと文字を追 って読んでいるということを確認した。しかしそれでもパープストが私の 訪問を念頭において,宣伝用にさっとその手に握らせたのではないかとい うかすかな疑念が生じた。」(89 f.)この文章の中に見事に著者の性格が現 れているように思える。まず一応の固定観念,次いでそれを覆す事実の真 偽の確認,最後に自分の考えの一抹の留保つきの修正,このごく普通の日 常的弁証法がどこから生まれたかという問いを投げかけることで,本稿の テーマへと導いていくシナリオも可能かもしれないが,それはいかにも陳 腐であり,なにかというとまとめたがる虚しい思い上がり根性しか残らな いだろう。
ここではただ単に,ルイーズ・ブルックスが晩年文筆生活に入ってから のアイスナーとのあるエピソードとの関わりを見ておきたい。二人は 1958年パリで再会して友人になる。そのとき彼女は留保をやっと解消す る。つまり,「実家にいるときから父の蔵書にあった古典と哲学の本は全 部読んでたわ」という答えを貰うのだ。30年かかっての疑問の解決であ る。つまり,「こんなきれいな女性がそのうえ賢いなんてありえないとい う愚かな偏見に目が眩んでしまっていた私は,ルイーズ・ブルックスの本 当の姿を見ないで通り過ぎていただけだったのだ。」そして,「ドイツ語も 全く駄目で,共演者からも孤立していた」若干21歳の彼女を「元気づけ るためにスモール・トーク」を付き合ってあげたわけでもなかった自分を 反省する(90)。
「その芸術が回顧されはじめたころはじめて散文という力強い声で名乗 りを上げた」ルイーズ・ブルックスからの手紙の「メモワール」中の引用 からわかることは,アイスナーが彼女に,「安っぽいセンセーションをは らんだ自伝の求めには屈しないようにと」助言したらしいことだ。「ルイ ーズは小さな文章を自分でお書きなさい…そうすれば一冊の本ができるで しょう」(92)と。ルイーズはそれを受けてこう書く。「他の人々を通して 自分のことを書くという方法は,およそものを書くにはこれしかない方法 ね。私は自分のことは全くわからないから,資料を探し出してくるなんて ことはできない相談だった。私が他の人たちについて書けば,その人たち の体験に私が関わっていた経緯が自ずから出て来るわ。女優さんたちにつ いてきわめて詳しくリサーチしてみたら,彼らがお互いにとても似通って いて,一つの話はただ名前を変えただけでどの人の話にもなりうるのだと いうことがわかったわ。」(92 f.) つまりアイスナーはまさに自分の「メモ ワール」にこの方法を用いている。ラング・ムルナウ・パープスト・ルノ ワール・シュトロハイム・チャップリン……綺羅星のような映画史が登場 する。それはアイスナーの一部であって全部ではない。ルイーズ・ブルッ クスに対するアイスナーの30年にわたる弁証法が,読者と著者アイスナ ーとのそれと重なってくる。ただしこちらには落ちどころがない。ロッ テ・H・アイスナーは謎のままである。だから取り上げる。
3 生 い 立 ち
ロッテ・ヘンリエッテ・レギーナ・アイスナー(Lotte Henriette Regina
Eisner)は,1896年ベルリンの高級住宅地ティーアガルテン地区に生まれ
る。シレジア出身の父フーゴ(Hugo)(1857 1924)は,ベルリンで「老舗 織物卸店」(11)『アイスナー&エールマン(Eisner & Ehrmann)』を弟二人 と共同経営していた大ブルジョワ。母マルガレーテ(Margarethe)(1866
1942)はベルリンの「金持ち工場主」ヨーゼフ・アーロン(Joseph Aron)
と,フランクフルト・アム・マインで「トルコのショールを商っていた」
(8)商人の娘ヘンリエッテ・カーン(Henriette Cahn)の娘で,ベルリン生 まれの箱入り娘。イギリス趣味の父とフランス趣味の母,大好きだった理 想の父と,どちらかというと煙たかった常識的な面白みのない母,長女と しての男っぽい少女時代─この時代の記述は彼女ののちの性格や行動の核 となったものを見事に描き出している。
記されている家庭のトピックスの中で興味あるものを2点挙げておく。
一つは彼女のミドルネーム・ヘンリエッテの由来となった母方の祖母のこ と。彼女の「住居はフランクフルトの銀行家フォン・ロートシルト家の隣 にあった。この娘は幼少のころからフランス人の家庭教師をつけてもらっ ており,当然フランス語はぺらぺらで読書家だった。17歳でトゥーロン 出身の伯爵と恋に落ちた。『芸パンテオン・デザール術万神殿』誌の編集長ジョルジュ・ギャロ ンヌ・ド・ラヴォアジェである。」伯爵は求婚するが,彼女は拒絶する。
「理由は自分の方はユダヤ教徒のドイツ人で,彼の方はキリスト教徒でフ ランス人だから,というのだった。」それに対する彼のことば─「愛し合 っているとき,宗教や国籍が何の意味がありましょう。私たちはみな神の 被造物ではないのですか?」(7 f.)─たまたま1848年の伯爵からの2通の 手紙を伯母が見つけたのだと言う。もう一つは父方の大叔父にマクス・リ ング(Max Ring)(1817 1901)というフォンターネの友人の歴史小説家がい たということ。さらに彼は,「文学活動に入る前は医者で,19世紀半ばの コレラ発生の際,ボランティアでハンブルクへ行き,そこで貧民をただで 治療してやった」(20)のだという。文学系の家系というのは,父の跡を 継がされた兄フリッツ(Fritz Eisner)(1893 1977)にも言えて,この人は家 業の傍らハイネの研究にも打ち込み,その「情熱の成果が,書簡及びコメ
ンタール4巻を含むベルリン・アカデミー書店刊の没後100年記念大全集
と,おのれの詩人についてのもっとささやかな若干の研究と論考だった」
(17)という。
少女時代は一言で言うと,解放後のベルリンの成功したユダヤ人一家の ゴージャスな雰囲気の日常にどっぷり浸かって,嘘のように平和でやんち ゃで楽しくてちょっぴり不満な,それでいてごく普通でもある,そういう ブルジョワ生活を送っていたようだ。おそらく何になりたいとか将来のこ ととかはあまり考える必要がなかったのではないか。職業に就くという観 念そのものが皆無のようだ。
宗教に関してはこうだ。「わが家は,モーゼス・メンデルスゾーンの精 神的遺産相続人を自認する,同化ユダヤ人の仲間だった。つまり啓蒙主義 とドイツ理想主義のユダヤ側の代表選手の仲間だった」わけで,「私の親 戚の男性は大部分がプロテスタントの女性と結婚しており,私たち子供た ちも,ユダヤの信仰の中でよりも,むしろキリスト教の伝統の中で育って きたのだ。父がシナゴーグへ行くのは,年に一度贖罪の日だけだった。」
(15)
学校はまず「プロテスタントの基礎学校」に入る。ここでひと悶着あ る。ナポレオンについて書けという歴史の課題。「いつのまにかもはや全 然親ナポレオンではなくなっている私だが,あの頃は,その人物像にまと いついているロマン性やダーヴィトの美しい絵画,それにまた彼がそれを 行ってくれたおかげでユダヤ人解放につながったあの善行とかで,彼に対 する私の尊敬の心が増幅されていたのかもしれ」ず,「親ナポレオン,反 プロイセン」の文章を書いた結果,女校長に呼び出されて,「祖国なき小 娘」と言われて,危うく放校されそうになる。そのときは何とかなったも のの,2,3年して母がこの学校をやめさせる。その後は近所の子供たち を集めての私塾での学習となる。「そういう塾には10人から12人の女の 子」がいて,「授業の水準は結構高かった」という(26 f.)。従来からギリ
シア・ローマ文化に興味を持っていたらしいが,ここで古典語を学ぶ機会 を得たことがその後の進路に大きな影響を与えたようだ。「自分に人文的 教養がない」(27)ことを残念がっていた大好きな父の喜ぶ姿が傍らにあ ったのではないかと想像される世界である。6歳からの芝居見物(25)と 古典文学が結びつけば,何か書きたいという欲求が生じるのは必然だろ う。現に彼女は短編小説を書いている。全文「メモワール」に再録されて いる(30 37)。
大戦中の1916年にカールスルーエの女子寄宿学校入学5)。「プライベー
トの範囲で行われる教育には満足できなかった」からであり,すでに「大 学で古代史・美術史・考古学を学べるように,古典語の授業がある文科系 ギムナジウムで大ア学入学資格試験を受けたかった」からだ。しかも「純然ビ ト ゥ ー ア たる女学校だったということを思えば,授業のレベルは驚くほど高かっ た。」(46 f.)ギムナジウム入学が19歳から20歳の計算になるので,その前 だろうか,これまでの自分は「偽りの乳母日傘」だったことに気づいてい る。父を失望させないことと自分の能力とを考えたとき,これが最善の道 だったのではないかと思われる。
「私の成長の場は硬直した社会だった。父の私への愛,そして父の願望 への私の絶対的服従,これによって,私の内面的発展はそのうえさらに人 工的に阻まれてしまった。父の厳しい監視下にあっては,自由な友達関係 など生じうべくもなかった。兄の影響と私自身の観察能力の目覚めもあっ て徐々に働きはじめていた社会批判を抑えていたのは,父を心配させない ためだった。」(39 f.)とにかく「乳母日傘のブルジョワのお嬢ちゃんの役」
にうんざりしてきて「親許から出奔できる機会」を狙うようになっていた というわけだが(40),戦争の勃発ということもこの決断に影を落として いたのではないか。戦争は兄の出征及びその戦場からの真率な手紙によっ てより身近なものになる。そして勃発直後のある決定的な体験─「ウンタ
ー・デン・リンデンを散歩していると皇宮に辿り着いた。そこで私が見た ものは,ヴィルヘルム皇帝万歳を叫び戦争に熱狂する何十万もの人の群れ だった。群衆への恐れが私を鷲づかみにした。私はその仲間にはなりたく なかった。」6)このときから,「私の読むものは敵国の文学のみとなった」
のだが,「心変わりのことは,両親には念のため伏せておいた。」(45 f.)
キーワード的に言うと「20世紀女子の個の目覚め」とでも言おうか。
「メモワール」にはそのような総括は一切ないのだが,いろんな方向に向 かいうるときに,選んだ道がアビトゥーアを取得して大学へ行くことだっ たことは,結果的にだが,社会参加の大きな意思表明だったに違いない。
生活の心配はない。見るもの全てが,歴史・社会・哲学・倫理・美術の教 材だったに違いない。アビトゥーア論文は「ゲーテにおける自然感受と自 然叙述」(50)についてだった。あたかも卒論なしで大学を卒業したもの の,やっぱりそれでは物足りなくて,それを書くために再度学士入学した ような感じだ。
アビトゥーア後の大学入学は少し間をおいてからのようだ。本人は覚え ていないと書いているが,日記でも付けていない限り正確な日時がわから ないのは当然だろう。およそのところでは,まずバイエルンの別荘へ行っ て,そのまま3ヶ月イタリア旅行をしたのちにやっとベルリンの実家へ 戻って学生生活をはじめる。1919年。まずベルリンで美術史と考古学を 学び,次いでまずフライブルクでルートヴィヒ・ミヒャエル・クルツィウ ス(Ludwig Michael Curtius)(1874 1954)のもとで,それからミュンヘンで ハインリヒ・ヴェルフリーン(Heinrich Wölfflin)(1864 1945)のもとで学び,
最後はロストックで博士号を取得。学生生活は自由を存分に謳歌したよう だ。その記述は躍動感に溢れている。ロストックを選んだのは,ベルリン のような,演劇・舞踏会・コンサート・芸術家酒場といった誘惑の多い町 を避けた結果だったと言う。ベルリン時代の先輩ゴットフリート・フォ
ン・リュッケン(Gottfried von Lücken)(1883 1976)が,そこで教授になっ ていて,彼のもとで1924年『ギリシア壺絵上の画像構成の発展』という 博士論文が出来上がる。視覚資料の分析は,得意だった古典語が生きると ともに,のちの画面分析的な映画批評へとつながることにもなる。つま り,「私は,後に私の映画批評や演劇批評で行ったように,視覚上の印象 や発見をことばで追感しようとした。絵の内なる心の動きを記述しようと した」(64)と振り返っている。
博士号を取得すると,また小休止でイタリア旅行へ出かけるが,途中で 父重病の電報を受けてすぐ帰って父の死を見届ける。父の死後ティーアガ ルテン地区の大邸宅から,母と妹とともに新興の西部地区のもっと小さな アパートに転居するが,「仕事の見通しはついていなかったから,自分の アパートに住みたいなんて言えなかった。」(67)すぐにイタリア旅行を再 開して,まる一年を旅に費やし,それはカナリア諸島にまで及ぶ冒険の旅 でもあったらしい。最後にカールスルーエ時代の親友の嫁ぎ先ダヴォスへ 立ち寄ったらベルリンが恋しくなり,父という「障害」もなくなっていた ので,楽しいことを全部やりたくなったうえ,「働きたかった!何か意義 あるものを創り出したいという願望が他の何よりも強かった」が,「ただ それが何なのかがわかっていなかった。」(70)
4
ドイツ人女性映画批評家第一号
およそ人の一生というものは偶然で出来ていることが普通だと思われる が,終わったあとに俯瞰して見ると不思議なことにつながっているように 見えることが結構ある。本編の主人公ロッテ・H・アイスナーもまたその 典型の一人のように見える。そもそもユダヤ人であることこれ自体,その ことが意識される時点で,本人にとっては偶然が一つ生じたにすぎない。
次に見て行くのは,映画批評家という肩書が付くことになる経緯に見られ
る偶然と必然である。
まず彼女の社会への第一歩のきっかけが助言を求めた先述のロストック の指導教授の大雑把な一言だった。「考古学者のあなたは想像できません ね〔…〕。美術館の管理運営なんてもっと合っていませんよ。あなたは事 務方の人ではないですよ。美術商をやるにはビジネス感覚をお持ちでな い。でもあなたには文才があります。あなたの博士論文を読んでわかりま した。お書きなさい!芸術についてお書きなさい!」(71)まだ若いフォ ン・リュッケン教授の人を見る目に感心するとともに,家庭に入れなどと 言わないところには,第一次大戦後の20年代ドイツの新しい息吹みたい なものも感じられる。もっとも後年シネマテーク・フランセーズと関わる ようになってからは,「事務方」の仕事もしっかりとこなしていたわけだ けれども。
そこで兄の文学志向の友人たちがクローズアップされてくる。その一人 アルミーン・T・ヴェーグナー(Armin T. Wegner)(1886 1978),「今は忘れ られているが,当時は人気があった若手詩人」(72)7)が,著名な文芸週刊 誌「 文ディー・リテラーリシェ・ヴェルト
学 世 界 」(1925 33)の発行者ヴィリ・ハース(Willy Haas)(1891
1973)とコネがあって紹介してくれる。フリーの執筆者として「外国の芸
術家のインタヴューを行ったり,展覧会や文学関係の新刊書について書い たりした」が,「英・仏・伊語が流暢に」(73 f.)話せたので採用されたの だろう。このときヴィリ・ハースから貰った筆名がL・H・E。
次いでやはり身近の若手詩人アウグスト・クーン=フェーリクス(August Kuhn-Fölix)(生没年不詳)が,「ベベルリーナー・ターゲブラット
ルリン日報」(1872 1939)の「ツァーデ ク・ページ」8)の求人募集を教えてくれて,応募すると採用される。
「おミ ス ・ ド ク タ ー
嬢さん博士」が多少売りになると思ったからだというのが,彼女の自 己採点。やはりイニシャル署名で,「筆に任せて思う存分想像力を駆使す ることができた」「このインタヴューのかなりの部分はただ私の頭で作り
上げられたのだった。」(74)曲芸師・学者・芸術家のそれらを嬉々として 文章化していたようだ。
そのうちアウグストのパーティで「好感を持てる同業者」と知り合いに なる。映画日刊紙「映フィルム・クリーア画急使」の記者で,同じユダヤ人のハンス・フェル ト(Hans Feld)(1902 92)。「ツァーデク・ページ」に無署名で書いている と言うと,ツァーデクというのは「豚野郎です。他の人に仕事を全部やら せておいて,手柄は自分のものにするんです。そのうえ報酬は雀の涙でし ょう。うちの正規雇用の映画批評家になりませんか?」とスカウトされ る。自分に興味があるのは演劇であって,映画はほとんど見ていなかった ので二の足を踏んでいると,とにかく撮影所に行ってみなさい,明日早速 編集長のエルンスト・イェーガー(Ernst Jäger)(1886 1975)に話をしてお くからと,話はとんとん拍子に運ぶ。「もしうまく行けば,あなたはドイ ツの女性映画批評家第一号」になりますよとおだてられもする。演劇批評 も書いていいかと確かめると,芝居も見に行けるようにしてあげると言わ れて,参加を決意する。1927年6月のこと。(76 f.)
まず母と妹との生活から逃れて,ハンス・フェルトも住んでいた「ブラ イテンバハ広場の芸術家コロニー」に引き移る。「同じ仕事をやっても男 性と同じくらいは貰えなかったが」「何不自由なく暮らすには十分だった」
(78)経済状況の中で,会って・見て・書いての楽しい充実した生活だっ た様子がうかがえる。のちにハンス・フェルトは彼女のことをこう言った という。「躍起になって事に当たる小娘だったが,それでも,感情に訴え ることは,学問的修練が手綱となって抑えられていたし,才能に対する嗅 覚はたしかなものだった」(81)と。とにかくハンス・フェルトがロッテ・
H・アイスナー誕生の産婆役だったことは明らかなようだ。初対面のとき に彼女の才能を読み取ったのではないだろうか。教養と好奇心と表現力─
ジャーナリストの三要件が揃っていたのだろう。6歳年下の先輩なのだ
が。
ただし当初は彼女にとって映画は,「一段低いもの,サーカスや寄席や 道化芸の領域に納まるものだった」が,「監督たちやカメラマンたちの様 子を撮影所でつぶさに見ることができるようになってはじめて」,フリッ ツ・ラング(Fritz Lang)(1890 1976)の『ニーベルンゲン』(Die Nibelungen)
(1922 24年)の芸術性,「セットからはじまり,エキストラと主役陣の配置 を経て,衣装に至るまでの」見事な造形力を理解できるようになる(83)。 映画撮影全体の面白さ,虚構を作り上げていく醍醐味,つまり映画そのも のと映画作りの裏表に魅せられ,それを文章化する喜びに溢れていた様子 が「メモワール」から伝わってくる。またそのことによって,従来芝居だ けだった彼女の鑑賞眼が映画のそれに移行し,ブレヒトとラングの行き違 いのときも,映画製作・映画的効果という点でラングの方に軍配を上げ る。見事に映画批評家の誕生となる。だだその成果は,戦後シネマテー ク・フランセーズでの活動を経たのちの,本稿の冒頭で挙げておいた著作 においてはじめてまとまったものとなり,そのおかげでラングとはその晩 年に同志的な信頼関係を築くことにもなったようだ。
順調な滑り出しだったが,翌1928年から,「芸術の自由というものが次 第に下り坂になって行った。映画検閲はすでにずっとあったのだが,今や 政治的に気に入らない映画が,モラルないし道徳に反するものとか,公共 秩序を害するものと見なされるケースが増えて行った。」(146) ナチスに よる上映妨害・検閲による上映禁止・製作サイドの自主規制・作家の警戒 と日和見主義等々,腹に据えかねることが続発する。「新聞社から追い出 されるまで自由を守り抜いてやる心意気」だったが,彼女の文章も敵視さ れるようになる。おかしな世の中になって行くにつれて,彼女はハリー・
ピール(Harry Piel)(1892 1963)主演の大衆娯楽映画を自身の「反戦プロ パガンダに利用」したりもするようになる(150)。
「娯楽映画,たくさんの冒険のあるそれでもって彼は,決して反戦映画 を見に行かないであろう人々の心をとらえるのであり,いつか銃後の彼ら の目の前に戦争の恐怖が伝わってくる可能性があるのである。自分の陣営 をことあらためて納得させることより,このことの方がはるかに大事だと いうことは周知のことだ。」(1932年)これにナチス機関紙「フェルキッシ ャー・ベオーバハター」の記事(1932年2月27日)は反応する。「用心せ よ!」の見出しと「ハリー・ピールが毒ガス反対キャンペーンの『秘密諜 報員』」9)の小見出し,以下もっと引用されているが(150 f.),この見出し だけでもすでに反戦そのものが攻撃されていることがわかる。ぞっとする ような時代の空気というか,そういう空気を作り出そうとする意図が読み 取れる。
やがて「編集部内の陰謀ゲームと政治的怯懦のせいで,編集長が自分の 新聞から脱出するとともに,ハンス・フェルトもまた解雇されたとき,突 如私一人が政治闘争の続行の責任者となって」しまう。そして,ナチス機 関紙の記事の中で「首が転がるときは,この首だろう」と言われたと き10),「この国にはもう長くはいられないだろうとわかった。」(151)
ハンス・フェルトが解雇された1932年4月からおよそ1年間の彼女は 針の筵だったことだろう。1930年からはじまっていたトーキー映画への 切り替わりによって「ドイツ映画のクオリティが失われていることがはっ きりしていた」という思いも加わって,最後には,1919年「映画急使」
ではじまって,それから「トーキー急使」のようになり,最後は「検閲急 使」になり下がってしまった「映画急使」だと仲間内で自嘲していたと言 う(155)。「映画急使」はしまいにはナチスの突撃隊に引き継がれてしま うらしいが,そのときも彼女はまだ在籍していたらしい。身の危険は感じ てもまだ一応法の支配はあったということだろうか。しかし1933年1月 30日,ヒトラーが政権を握ったとき彼女にとってそれは終わった。3ヶ月
後の3月30日,夜行列車でパリへ向かう。ビザは社長のアルフレート・ヴ ァイナー(Alfred Weiner)(1877 1954)の夫人がフランス人で,領事館とコ ネがあったので2時間で発行してくれたという。連絡していたパリ在住の 妹の夫ウジェーヌ・ヴァン・デル・メールシュ(Eugène van der Meersch)
(1901 67)が北駅に出迎える。そのときのセリフはインタヴュー等で何度 も語られている。「やあ,ロッテ,パリで休暇かい?」「長期休暇になるか も。」(169) 結果50年になった。
5 亡命50
年──ラングロワとの出会い
妹シュテッフィ(Steffi)(Stefanie van der Meersch)(1906 90)のところに は2週間もたず,家族の友人だった人に,その人が住んでいる同じアパー トの台所共用の部屋を紹介してもらって,そこへ引っ越す。所持金はすぐ になくなり,アルバイトをしなければならなくなる。金持ちユダヤ人家庭 での家庭教師,弁護士事務所の電話番兼秘書,美術史の博士号を目指す書 店主のドイツ語文献の調査・翻訳,ガリマール社のドイツ語翻訳のゴース トライター,薬品会社の社誌の文化欄の執筆等々。一方で映画批評の方 は,パリ到着6週間後,義弟の取り持ちで日刊紙「妥ラ ン ト ラ ン シ ジ ャ ン
協しないもの」(1880
1948)に「映画急使」に書いたものの短縮版を掲載できた。さらに,彼女
と同じころにやはり大慌てでプラハに移住したハンス・フェルトが,その 地で発行をはじめていた「 批ディー・クリティーク評 」(1933 35)という演劇月刊誌のパリ 特派員にしてくれたうえ,同じくプラハで出ていた「反ファシズム系の雑 誌」「 国インテルナツィオナーレ・フィルムシャウ
際 映 画 展 覧 」誌にも記事を書けるようにしてくれる。おかげ で雑誌の記者証が手に入り,木戸御免で鑑賞できるようになる(175 f.)。 実入りがよくなって三つ目の住居に引っ越すことができる。新築で部屋も 広く,兄嫁にベルリンから家具と蔵書を送ってもらうことができた。
生活は何とかなってきたが,「パリでの最初の数年がきびしかった」の
は「心にとってだった。」「空腹はそれほどこたえなかったが,この国は私 の夢見ていたフランス革命や諸人権の国とは全然違っていた。私たちは同 民族のもの(セファルディ系の)に東方ユダヤ人と見なされていただけでは ない。フランス人そのものが私たちを敵性外国人,つまり『居メ テ ク留民』とし て扱っていたのだ。県庁では汚物扱いだった。多くの外国人が,フランス にコネと金がないと送還された。ヒトラーへ公然と敵意を示す市民は当初 はとてもたくさんいるように見えた。だからドイツ占領時にあんなにたく さん対コ独協力者がいたことは,それだけよけいショックだった。」ラ ボ (177)
移住翌年の1934年に,のちに(1937年)シネマテーク・フランセーズを 創設するアンリ・ランクロワとの「決定的出会い」がある。アンリ・ラン グロワとシネマテーク・フランセーズは多少なりとも映画に興味があるも のは必ず聞いたことがある名前で,ここで説明する必要はない。いわば両 方の伝記と言っていいような本も出ていて,邦訳もある11)。ただこの本 におけるアイスナーの証言は簡略化されているためか,アイスナー自身の
「メモワール」と相違しているところが若干あり,その部分はあとで指摘 する。
ラングロワに近づいたのはアイスナーの方である。映画雑誌「ラ・シナ マトグラフィ・フランセーズ」(1918 66)で「昔のサイレント映画フィル ムを破棄される前に救い出している二人の若いフランス人について書かれ ているものを読んで,これは『国際映画展覧』のための面白い記事になる かもしれないと思った。」(179) そこでその二人の若者ラングロワと,の ちの映画監督,当時はポスターを描いていたジョルジュ・フランジュ
(Georges Franju)(1912 87)と会う約束をして話を聞いたのが発端で,その 後アンリ・ラングロワの,映画フィルムと映画資料の収集・保存・上映,
そして国際的フィルム・アーカイヴのネットワーク作りに協力することに なる。ラングロワの強烈な個性は「映画愛」そのものだが,その「愛」は
かなり複雑なもので,実際に会わずに評価するわけにはいかないと言うべ き人物像としか言いようがない。ただ役人とは真逆の人間であることは確 かだろう。トリュフォ曰く「混沌と天才」12)。ドイツサイレント映画時代 からの記者で,当時の監督やスタッフの知人もいて,独・英・仏・伊語が 堪能で,彼ら同様損得勘定をあまり気にしないアイスナーは,うってつけ の助っ人だったに違いない。シネマテーク・フランセーズが国際的評価を 受けるようになってくると,メアリィ・メールソン(Mary Meerson)(1902 93)という女性がラングロワと公私をともにするようになり,彼の傍らで 第一席を占めるようになるが,協力者としてのアイスナーの位置は変わら なかったようだ。アイスナーにとってラングロワは,御しがたいが気にな る弟といった感じだ。
アイスナーがラングロワの映画資料収集の協力にのめり込んでいった要 因の一つは,ドイツへの郷愁もあったようだ。彼女はこのころ,発表には 至らなかったがドイツ語で小説を書いたと言っている。「母国語がどんど ん抜け落ちて行った。」しかし映像にことばがついて来なかった。「登場人 物が私自身のものとは違うことばを喋っていた。私が絞り出すようにして 書いた300頁の原稿13)のどの頁にも突き刺さって来るものがなかった。」
多読ゆえの辛い自己評価だと思われるが,至言を残す。曰く,「私は下手 な作家であるよりも良い批評家でありたい。」(191)彼女の人生訓となる のだろう。しかしそれ以上に,ラングロワの着想に虚を突かれて,彼がの どから手が出るくらい欲しがるであろうものに自分が実際に接していたと きにそんなことを思いつかなかったことが悔やまれてもいただろう。驚き と尊敬と嫉妬と競争心……おそらくことばでまとめることを拒否したい不 可分の感情が今を生きる推進力となって働いていたのではあるまいか。
6 亡命50
年──逃避行
1938年,パーティの最中に兄フリッツがベルリンから一人で立ち寄る。
二人の息子のうち兄はイギリスの,弟はパリの寄宿学校にすでに入ってい て,当然一家をあげてイギリスへ行くことになる。妻のパウラ(Paula
Eisner)(1898 1992)も,どういう首尾だったのかアイスナーの想像力は及
ばなかったようだが,アイスナー公認のしっかり者だったためか,あとか らイギリスで合流する14)。翌1939年アイスナーは一家をイギリスに訪ね ている。このときまでの6年間はフランスではドイツのような迫害を受け るまでには至っていなかったようだ。シネマテーク・フランセーズの若い 仲間たちと交流しながら,雑誌への執筆の収入で,楽しくつつましく暮ら していたのだろう。ほんとうはイギリスに留まりたかったのだが,こちら の生活は大変だからと言う兄嫁の反対で,どうしたらいいか迷っていると きに,フランス領事館から電話があって「フランスへ送り戻してくれる船 は残り一隻」だと言われる。それで戻ることにしたのだが,戻ったら今度 は,シェル石油総支配人で上級将校でもあって,情勢がよくわかっている ベルギー生まれの義弟ウジェーヌに,「イギリスにいる方がはるかに安全 だった」のに,戻るなんて「頭がおかしい」のではないかと言われる。つ まり「ドイツ軍の侵攻がいずれある」と言うのだ。このとき帰って来たの はひょっとしたら,ベルリンを出て妹のもとに身を寄せていた母親のこと が心配でもあったのかもしれない。母親は孫たちにあげるものを取りにベ ルリンへ戻りたいと言っていたので,自分が戻るまで動かないようにと言 い置いていたと言う。それを妹が止めないで帰してしまったので激昂す る。すでにベルリンの家を売却して来ていた73歳になる母を一人でベル リンへ帰してしまう状況には,かなりの家庭の事情があったようだが,母 と妹に状況の把握不足があったことは間違いない。母の消息の手がかりを
何度か求めたようだが,戦後かなり経って,1942年テレージエンシュタ ット強制収容所で「自然死」していたとわかる。日付まではわからない
(18,221)。
開戦後の1940年5月,「パリ警察から,ドイツ人女性は全員手荷物一つ
で冬ヴェロドローム・ディヴェール
季 競 輪 場に出頭するようにという命令」が出る15)。義弟に相談する と行かないと捕まってしまうから行った方がいいと言われる(196 f.)。こ のときからアイスナーの迫害と遍歴の旅がはじまる。
まず「ナチス女もユダヤ女」も一緒に250人の女の一人として冬季競輪 場に送り込まれる。酸欠と女たちのヒステリー。「私の身に付いてしまっ た女嫌い」はこれに起因すると言う。「危機のときは常に冷静だった」彼 女は,絶望的な女たちの慰め役になり,頼りにされる(197)。
一週間後「板張りの3等車」に乗せられピレネー山麓のギュルス(Gurs)
の収容所へ運ばれる。「女性60人で一つのバラック」,「悪名高きJブロッ ク」に収容される。「考えていたことはだだ一つ,できるだけ早くここを 出る以外にない」だった(198)。ここでもあきらめない。「何よりも私は 生きたいと思っていた。とにかく何があっても。私の蔵書票にはギリシア 語でこの『とにかく何があっても』ということばが書かれている─これが 私のモットーだった」と,ある個所で強調されている。「自分はまだこれ から何かを成し遂げなくてはいけないのだという信念があった」(173)か らだ。またかつてレーニ・リーフェンシュタールに,ヒトラーに一度会っ たらどうか,「とてもチャーミングだから」(160)と勧められたとき,断 固断ったものの,しかしあのとき会って殺していればジャンヌ・ダルクに なれていたろうとジョークみたいに語るところがあって,そうしなかった のもやはり「何となく何かを成し遂げるには生き続けなければならないと いう気持がいつもあった」からだと言う。このときは,それは「まだ書か れていない私の本のことだ」(161)と続けて言われているのだが,当時は
何の本なのかはまだわかっていなかっただろうから,自分の一生を振り返 っての述懐という感じで,必ずしも当時そうはっきりと思っていたわけで はないのではないだろうか。しかし,「生き続ける」こと,死の恐れがあ るときは生の可能性を求めること,これは本能的にインプットされてい て,もし失敗すればそれで終わりなのだが,それでも彼女にはいつも幸運 の女神がかすかに微笑みを投げかけてくれるらしいのだ。ただし,生き残 るためには手段を選ばぬのではなく,不当に理不尽に死にたくないから
「生き続ける」のであって,そのことがアイスナーの「メモワール」を貫 く一本の太い線だろうし,そのことが読み取れるから読んでいられるのだ とも言える。彼女はフランス人と急場しのぎの結婚をしてフランス人にな ることは,勧められても拒否した。
彼女はとにかく脱出に成功する。このままではドイツの強制収容所へ移 される可能性があると思っていたからだ。ここでの体験や観察も「メモワ ール」に記録として残している。ブルジョワ娘よりパリの売春婦の方が人 間的で強かったこと,フランスで撮影中ドイツ人として捕まってしまった が,非ユダヤ人のドイツ人だけは救出しにやってきたドイツ軍に取り入っ た(と彼女が言う)女優ディータ・パルロ(Dita Parlo)(1908 71)のこと,
そのベルリンのサロンには有名な俳優・監督が出入りしていたが,会話が 月並みすぎて避けていたベッティ・シュテルン(Betty Stern)(生没年不詳)
のこと,若い娘を餌食にしていた好色・残忍な収容所長のこと等々。彼女 の脱出はユダヤ人の被抑留者だったが医者としての仕事も行っていた女性 に計画を打ち明けて偽の診断書を書いてもらい,より話のわかる少尉の指 揮下にあった隣のブロックにこっそり入り込んで彼に会って,モンペリエ 駐屯軍にいる義弟のことを話し,自分はドイツにいるときすでにナチスの ブラックリストに載っていたことを訴えると,彼は「ためらうことなく逃 がして」(202)くれる。パリ解放までの逃亡生活のはじまりである。
先述したようにここから先の彼女の足跡が,翻訳で5頁ほどを占めてい る『映画愛』の内容と細部がかなり違っている16)。この本の存在を彼女 は知らなかったようだし,この本はあくまでもラングロワとシネマテー ク・フランセーズ中心にまとめられたものであってその他のインタヴュー はかいつまんでいる可能性が感じられるので,より具体的で詳しく臨場感 のある「メモワール」の方を信じることにした。
まず妹婿のいるはずだったモンペリエへ行くが,彼は頼るべき友人の住 所と200フランを彼女に残して,妻を探しにパリへ戻っていた。まず救貧 病院に助けを求めて,患っていた良性の腫瘍を除去してもらったあと,義 弟の友人のところに身を寄せる。そこは小さな屋根裏部屋であったうえ,
歓迎されているわけでもなく,一方でドイツ軍の脅威は南のモンペリエに も感じられるようになっている。しかも彼女はドイツ人でユダヤ人だ。フ ランスもドイツも味方ではない。「自由の身でいられるためには,自分の 存在を何らかの形で合法的なものにして」おくべきだと思い,「そこの教 授たちが寛大にも救いの手を差し伸べてくれたおかげで」(203),文学専 攻の大学生として入学手続きをする。アンリ・ラングロワだけが彼女の居 所を知っていてときどき訪ねてくる。彼女のダイヤの指輪を換金してお金 を持ってきてくれたりもする(彼自身もオケラだったので,半分は彼の取り分 にしてあげたらしいが)。不安と恐怖の中での貧乏暮らしのようで,映画は 検問と出費を恐れて見に行かなったが,大学図書館でたっぷり本を読んで いる。ある日そこで,ベルリン時代に家族づきあいをしていた同じユダヤ 人のハンス=ゲオルク・プフラウム(Hans-Georg Pflaum)(1902 79)(古代史 学者)に声をかけられ,郊外の自宅へ招かれる。彼のカトリックの妻に,
当地のラビが助けてくれるから行ってみるように勧められると,心はプロ テスタントである彼女には抵抗があったものの,一応行ってみる。しかし 待合室で待っていると,「お前はここで何をやっているんだ」と気づいて,
外へ出ると,あのパリの冬季競輪場でボーイフレンドを亡くして絶望して 自殺しようとしていたのを止めてあげた女の子と偶然出会い,彼女に経緯 を話すと,すぐに知り合いのプロテスタントの牧師のところへ連れて行っ てくれる。彼は援助を約束し,生活費も出してくれ,同業のもう一人の援 助者も紹介してくれる。プフラウム夫妻は自分たちの大家に頼んで彼女も 部屋を借りられるようにしてくれる(204 f.)。ほっと一息の瞬間だ。
偽造身分証明書作りに一度しくじったあと,モンペリエ在住のジェイム ズ・ジョイス翻訳者ルイ・ジレ(Louis Gillet)(1876 1943)の娘が,そのこ とを商売にしていると,パリ以来の知り合いだったのにこのときはじめて 知って直ちに依頼し,この偽証明書上の名,ルイーズ・エスコフィエ
(Louise Escoffier)を,終戦少しあとまで名乗り続けることになる。「メリ メの小説『カルメン』で知っていて」,「ジプシーのことばで『殺す』と言 う意味だった」と言う(206)。
そのころアンリ・ラングロワからモンペリエにもドイツ軍が来るので そこを出るようにと連絡が入る。「どこへ行ったらいいのかわからないが,
その前にもう一度お風呂に行っておこう」と思い,公衆浴場へ行って入口 で並んでいるとき,ふと振り向くとドイツの兵隊たちでいっぱいになって いる。慌てて義弟の友人たちのところへ戻ってパリから送ってもらってい た荷物を預けて手提げ鞄一つ持って,近くでこっそり住まわせてくれると ころがないか尋ねて教えてもらったのが,その人の知り合いの婦人服洋裁 師の女性であり,この人は確信的な親ユダヤで,その親切は身に染みたよ うだ。ところがよほど慌ただしかったのか,場所は覚えていないと言う。
ただしこれはまだモンペリエないしその近辺だったのだろう。もっと田舎 の村を探す。前述の紹介してもらっていたもう一人のプロテスタントの牧 師に助言を求めると,この人がさらにずっと奥地のロデーズ(Rodez)と いう町の同業者エクスブライヤ牧師(Exbrayat)を紹介してくれる。列車
も通じていず,交通手段は豪雪のせいでなくなっていたそこから,彼は
「雪の中を歩いてやって来て救いの手を差し伸べて」くれる(209)。後日 アンリとともにロデーズに行く。ただしアンリには計画があって,現在は そこから列車でも車でも1時間ほどのところにあるフィジャック(Figeac)
近郊の古城に映画フィルムを疎開させ,その管理・整理を彼女にさせよう というのだった。「城に住めるよ。城の所有者は政治的に完全に信頼でき るというわけではないが,少なくともある程度レジスタンスの味方だ」と いうわけで,彼女はすぐに承諾する。ベデュエ(Béduer)城と言い,許可 をもらうまでの4週間は,フィジャックの「15世紀の建築物である古い ホテルに泊まった。水洗トイレの代わりに床に穴が一つ開いているだけだ った」が,「素敵だった。」次の2,3ヶ月は城に住み,「同居相手はネズ ミたちと錆びついた一山の映画のフィルム缶だけだった。」「仕分けと記録 作業が終わると,映画フィルムは城の『地ウ ブ リ エ ト下牢』に隠し」,「それからまた 仕事がなくなった」ので,エクスブライヤ牧師に手紙を書いて,フィジャ ックの女子寮のコックの仕事を紹介してもらう。住居は生徒たちと一緒で その世話もしなくてはならなかった。「私は朝早くから晩遅くまで働いた。
料理と掃除をしていないときは,上級クラスの女の子たちのためにラテン 語と英語の補習授業をしてあげた。ただ日曜だけは2時間の自由時間があ った。」(209 f) ところがまたしても運命の女神は微笑む。第二の母と呼 ぶことになるギタール夫人(Madame Guitard)17)と知り合いになったこと だ。彼女は,女学校で行われていた日曜礼拝に来ていて知り合いになった 人で,女学校の女教師二人とスペイン人のレジスタンスの女性闘士一人を 下宿させていて,このスペイン女性にスペイン語を習うことと引き換えに 英語を教えることになる。あるとき女校長にウサギを潰せと命じられたの を断ったことをきっかけに退職して,アンリ・ラングロワを介して知り合 いになっていたジョルジュ・サドゥール(1904 67)のおばさんのところに
でも間借りさせてもらおうと思っていたところ,丁度その隣家に住んでい たギタール夫人のところに立ち寄って退職のことを話すと,彼女はそれを 聞いて,ほっとしたと言う。実は女校長は忠実なペタン派で嫌いだった が,牧師に遠慮して黙っていたのだ,と言う。さらに,サドゥールのおば さんは信心ぶった人だから行かない方がいい,自分のところへ来なさい,
家賃はいらないと言ってくれる。他の町への移動に危険を感じていたアイ スナーは喜んでそうさせてもらう。サドゥールのおばさんはコミュニスト の甥のことを恥じていた人だし,家賃を払わなくてもいいわけで,渡りに 舟だった。そして何よりもギタール夫人は人間的に馬が合っただけではな く,尊敬もできる人だったのだろう。下宿人には内緒で,「イギリスの落 下傘部隊と,フランスのレジスタンスと連携していたスペインのマキのメ ンバー」に協力して活動していた。その上彼女はルイーズ・エスコフィエ は偽名だと気づいていた。近所に怪しまれないようにエスコフィエ一家と の親しい関係をでっちあげて吹聴してくれたりもした。ただし食べるもの は期待できず,アイスナーは,コックの仕事で貯めたお金とアンリからの 仕送りで生活していたようだ(211 ff.)。
しかし一度会ったことがあったゲスタポ(普通ゲシュタポと書かれている 場合が多いが,これも正しくはゲスターポなので,ここではこの表記にした)協 力者の男がレジスタンスに殺され,それでドイツ軍が入り込んできて,彼 女の住む家のすぐ近くに司令部を置いてしまった。マキとゲスタポの銃撃 戦があったり,ユダヤ人一斉検挙が行われたりで,「現在の心臓病の基と なったのはこの恐怖の時代だった」(215)と述懐する。事実一斉捜索でゲ スタポに踏み込まれたこともあるが,ドイツ語がわからないふりをしつ つ,結局シネマテーク・フランセーズの雇用証明書を提示することで九死 に一生を得る。このとき,長すぎたので心配したギタール夫人があとで来 てくれたので,自分の本当の身の上をはじめて明かす。そのときの彼女の
セリフ─「それならなおさら結構じゃない。」「私が何もわかっていなかっ たとは思ってないでしょ。ラテン語の知識があって広範な教養があるのに 学校でコックをやっているあなたを見つけたとき,私なりに考えたのよ。
そして一つのことをあなたに断言できるわ。私はユダヤ人が好きよ。」 こ れに対して,迷惑をかけたくないので,出て行ってレジスタンスに加わる つもりだと言うと,「ここにずっといなさい」と「短く母親のように命じ てくれた。」(217)─だから終戦までここに残る。
冬季競輪場→ギュルス→モンペリエ→ロデーズ→フィジャック→同・ベ デュエ城→フィジャック→パリ,これが1940年5月から1945年までのア イスナーの足取りということになる。そのラストシーンがあるとしたら,
アンリが迎えに来るシーンだろう。もっともそれはベデュエ城に隠してい た映画フィルムを手伝い二人を連れて取りに来たついでであったようだ。
7 エピローグ
戦後の彼女はシネマテーク・フランセーズの信頼できる姉御であり続け る一方,はじめの10年はルイーズ・エスコフィエから次第にロッテ・H・
アイスナーに戻って行く過程でもあった。「ホロコーストのあとではもう ドイツ人でいたくなかった」状態から「次第にこわばりがほどけて」くる
(222)。映画と関わる以上ドイツとも再び関わらざるをえない。それでも はじめてドイツに戻るのは,前年にフランス国籍を取ったのちの1953年 のことだ。彼女はドイツ人に良心の呵責を期待しない。子供の世代に対し てはじめて心を開く。ヘルツォークであり,アハテルンブッシュ(Herbert
Achternbush)(1938 )である。ドイツに対してはずっとこの宙ぶらりんの
状態を生きていくわけだが,一方でこれが上からの俯瞰を可能にし,その 俯瞰するまなざしもどこか覚めている。しかしそれはシニックというのと は違うし,またただ単に悟りを得たような優しげなものでもなく,俯瞰の
あとはズームによるクローズアップが必ずどこかに向かう。しかしこのク ローズアップも,もしストップモーションででも終わろうものなら,特別 な折り目でもつけられたようで気恥ずかしくなるだろう。それはしないだ ろう。─ロッテ・H・アイスナーを一つの映画とするならば,そのラスト シーンはない。気の利いたラストシーンは無用だと言っているようなもの だ。ドイツからの各種の賞も拒否しないし,母校の大学の講演も引き受け る18)。こだわりは心の奥の奥にしまっておく。それがあってもひけらか さない。その奥底をえぐられたときはじめて吐き出せばいい,どこかそん な感じである。
シネマテーク・フランセーズでのロッテ・H・アイスナーについては半 分はフランス文化の領域に,半分は映画史の領域に属すと言っていいだろ う。本稿の筆者はラングロワ解任事件の経緯とかフィルム・アーカイヴ制 度の変遷とかに言及する能力も興味もないので,それは『映画愛』でたっ ぷり触れられているし,専門の人たちもいるのでそちらに任せて,ここで はひとまず20世紀を生きた一人のユダヤ人女性の半生を追うことで終え ておく。あまりに紹介されることがない部分だからである。
注
1) この作品は当初イタリアで出版予定だったが,うまく行かずフランスで
1952年に,”LʼEcran Démoniaque. Les influence de Max Reinhardt et de lʼ expressionisme“(『鬼神的スクリーン。マクス・ラインハルトと表現主義の 影響』)というタイトルで出版される。短縮版で本人曰く「貧相な小冊子」
だった。タイトルは最後まで決まらず,「悪魔的(diabolisch)」という案が 出されたが彼女は気に入らずもっと「古い意味合いの」「鬼神的(dämonisch)」
ということばが浮かんだのだという(268)。このことばはドイツの保守的宗 教的思想家レーオポルト・ツィーグラー(Leopold Ziegler)(1881 1958)の
『ドイツ国民の神聖帝国』(Das Heilige Reich der Deutschen)(1925)からと
っ た よ う だ(264 f.)。 独 語 版 は1955年 に”Dämonische Leinwand. Die Blütezeit des deutschen Films“(『鬼神的スクリーン。ドイツ映画の全盛期』)
のタイトルで出版される(本来定冠詞つきの”Die dämonische Leinwand“と なるのが普通だが,実物がないので,「メモワール」に載っているこの版の 写真を見ると定冠詞が抜け落ちている)。1965年に増補第2版がフランスで 出る。1969年には英語版”The haunted Screen. Expressionism in the German Cinema and the Influence of Max Reinhardt.“(『憑依されたスクリーン。ドイ ツ映画における表現主義とマクス・ラインハルトの影響』)が出て,さらに 独語版増補改訂版が1975年に出る。このときはちゃんと定冠詞付きの”Die dämonische Leinwand“となっている。1980年にはこれの文庫版も出版され る(Vgl. CineGraph. Lexikon zum deutschsprachigen Film, Lg.50, Lotte H.
Eisner, B7.)。本人曰く7ヶ国語に翻訳されているという(269)。
2) Lotte H. Eisner: Ich hatte einst ein schönes Vaterland. Memoiren, geschrieben von Martje Grohmann, Heidelberg 1984。文中の年号以外の括弧 内の数字はこの本のページ番号。なおこの作品のタイトルに関しては文中に 次のような記述がある。名前やデータや出来事を思い出す事が「私は少し前 からはるかに大変になっている。そのせいもあって私は完璧な自伝ではなく,
回想のみで済ますことにした─思い出す事だけである。思い出すにせよ,思 い出さないにせよ…欠落部分を補って行こうとすればするほど,よけいそれ は埋まってくれないのだ。最近記憶力を強化するためにハイネの詩を暗記し てみたのだが,何の役にも立たなかった。どうしたらいいのだろう?」(192 f.)ちなみに題名はハイネの詩の一節。
3) 彼女が一度病についたとき,彼が回復を願って徒歩でパリまで行った話は
伝説化していて,本にもまとめられていて邦訳も出ているので,ここでは触 れない。邦訳・ヴェルナー・ヘルツォーク『氷上旅日記─ミュンヘン─パリ を歩いて』(白水社,1993年)。
4) 彼女自身をテーマとしたインタヴュー映画が2編ある。西ドイツ映画『ロ
ッテ・H・アイスナーの長期休暇』(Die langen Ferien der Lotte H.Eisner)
(1979年)(監督:ソフラブ・シャヒド・サレス(Sohrab Shahid Saless)
(1944 98))とアメリカ映画『ドイツのロッテ・アイスナー』(Lotte Eisnerin Germany)(1980年)(監督:S・マーク・ホルヴィッツ(S. Mark Horwitz))。
どちらもYouTubeで鑑賞可能。
5) 前掲書「CineGraph, B1」ではカッセルとなっているが,本人が何度も書
いているカールスルーエの取り違えだろう。
6) ここでエリアス・カネッティを持ち出してくれば,それは無粋というもの
だろう。この論考の主人公の人生の流れをノーベル賞作家を持ち出してきて 分断することはない。
7) この作家は今ではむしろ,オスマン帝国によるアルメニア人虐殺を記録し,
その証拠写真を公開し,そのことを世界に訴えた人物として知られる。ただ そのヒトラーを諫める手紙・ナチスによる拷問・迫害・移住・平和運動など 一貫して人道の立場に立った生涯は,やっと前世紀の終わりごろに注目され るようになったらしい。アイスナーの「メモワール」が出たころはまだ知ら れていないどころか,まだローマに存命していることも一般には知られてい なかった節がある。当然アイスナーもそのことは知らなかったと思われる。
(参考資料:DVDとしては『Die Austreibung des armenischen Volkes in der Wüste』, absolut Medien GmbH, 2018,本は『Richard M.G.Nickisch: Armin T. Wegener』, Wuppertal 1982。また選集も出ている。)
8) 当時の文化欄の編集者ヴァルター・ツァーデク(Walter Zadek)(1900
1992)(著名なドイツの演出家ペーター・ツァーデク(1926 2009)の叔父)
の名から来ている。その文化欄のことをツァーデク・ページともいったよう だ。
9) ハリー:ピール主演の『秘密諜報員』(Der Geheimagent)(1932)を指し ている。
10) 前掲書「CineGraph」よれば(B2),この記事は見当たらないらしい。
11) リチャード・ラウド『映画愛 アンリ・ラングロワとシネマテーク・フラ
ンセーズ』(村川英・訳,リブロポート,1985年)。
12) 前掲書『映画愛』3頁。
13) この『ダーヴィルの犯罪(Das Verbrechen in Durville)』という作品の原 稿は残っているらしいが,今現在どうなっているかはわからない。本人は公 にしたくないと言っているが,興味をひかれる。「発掘」が待たれる。
14) 彼女も旧姓シュモラー(Schmoller)というユダヤ系ドイツ人である。任
意記入の家系図サイト「Geni」を見るとその兄(Dr. Ernst Schmoller)(1890 1939)も弟(Fritz Schmoller)(1898 1942)もナチス時代にベルリンで亡く なっていて,兄の妻(Lisbeth Ruth Schmoller)(1902 43)はアウシュヴィ ッツで亡くなっている。シュモラー一族にもたくさんの物語がありそうだ。
ただアイスナーが語っているのは弟のことだけで,それはこうだ。「パウラ のいささか知恵遅れの弟は,外国入国の際に提示しなければならない,絶対 に必要な健康証明書を交付されなかっただろうから,外国のビザを手に入れ ることができず,ナチスに殺された。」(222) たしかに「Geni」には弟は病 院で亡くなったと書かれている。安楽死が連想される。ただパウラのことを
語るときどこか突き放した印象があって,この語り口にもそれがうかがえるか もしれない。
15) いくつかの映画で描かれている有名な大ラ フ ル量検挙事件は1942年7月16 17日 で,その2年前にすでにこういう検挙が行われていたのだろう。アイスナーの 勘違いとは考えにくい。いずれにせよ,年表レベルではなく生活者レベルでは,
当時のパリ及びフランス全体がかなり混乱していて流動的だった様子が「メモ ワール」の記述からうかがえる。
16) 前掲書『映画愛』90 94頁。
17) フランス語文献(Danielle Auby: La grande filature, 1997/Jean-Michel Oalmier: Exilés en France: Les longues vacances de Lotte H.Eisner, 1982)では,
読みは同じだが綴りはGuitareになっている。こちらの方が正しいようだが,
アイスナーはそこまで気にしていなかったのだろう。
18) 1966年7月5日にフォン・リュッケン教授の招きに応じて「ドイツ映画にお
ける様式の影響」についての講演をロストックの古代史研究所で「映画上映つ きで」行う。 Vgl. Hella Ehlers: Lotte H. Eisner(1896 1984ママ).Pionierin der Filmographie. Annäherung an eine ungewöhnliche Frau. In: Frauen in Wissenschaft,(Rostocker Studien zur Universitätsgeschichte Bd 16), Rostock 2011, S.94.