18世紀在華イエズス会士
アミオと満洲語
新 居 洋 子
序
リッチ ( 利瑪竇 1552 1610) 以来、 在華イエズス会士 は、 ヨーロッパ諸語による著作を行い、 ヨーロッパへ送る一方、 漢 文による西学書を多く著し、 キリスト教の教義や、 ヨーロッパにお ける自然科学など諸知識を、 中国人に紹介した。
清朝が成立し、 満洲語が公用語となると、 フェルビースト ( 南懐仁 1623 1688) やパルナン ( 巴多 明 1665 1741)、 ジェルビヨン( 張誠 1654 1707)、 トマ ( 安多 1644 1709)、 ペレイラ ( 徐日 昇 1645 1708)といったイエズス会士が、 満洲語を用いて、 ヨーロッ パの数学や医学、 音楽を進講する為の書物を著した(1)。
このように、 当時の在華イエズス会士は、 満洲語を用いて書物を 著す一方、 満洲語という言語そのものを、 ヨーロッパの人々に向け て紹介することも行った(2)。 まず、 フェルビーストによる満洲語 文法著作の (3) (以下 、 1696) がある。 また、 ドマンジュ ( 孟正気 1666 1735) の満洲 語文法著作である (4) (成立年代不明)、 そし てアミオ ( 銭徳明 1718 1793)の満洲語文法著
作である (以下 、 1788)、
及び満仏辞書 全三巻(5) (以
下 、 1789 1790) がある。 特にアミオは、 御製盛京賦 や 平定兩金川凱歌 、 また満文 武經七書 といった満洲語諸典籍の 仏訳も行っている(6)。
これらアミオの満洲語関係諸著作に対しては、 ヴォルテール 東
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( 1694 1778) ら同時代ヨーロッパ知識人から反響があったの みならず、 ラングレス( 1763 1824) やクラプロー ト( 1783 1835)、 レミュザ(
1788 1832)、 レオンティエフ ( 生没年不
明) といった19世紀の東洋学者たちも、 称賛するにせよ批判するに せよ、 満洲語に関する先駆的著作として重視し、 さらに20世紀の満 洲語研究諸著作にもアミオへの言及が見られる(7)。
しかし、 そもそもアミオが、 満洲語に関してこのように多くの著 作を執筆した意図とは何か。 アミオは、
( 1 7 7 5 ) や 、
(1788) といった著作に顕 著なように、 中国の古さに対し非常に強い関心を持っていた(8)。 しかし満洲語は、 無圏点老満文の創成が16世紀末、 有圏点満文の創 成は17世紀前半(9)という、 いわば新しい言語である。 この新しい 言語は、 アミオにとっていかなる存在だったのか。
こうした、 アミオの満洲語観をめぐる、 所謂 「言語文化」(10)的問 題については、 詳しく論じられたことが無い。 そこで本稿では、 ア ミオの満洲語関係諸著作を取り上げ、 そこに含まれた満洲語観がい かなるものか、 当時のヨーロッパにおける思潮との関係を考察しつ つ、 明らかにする。 そしてこのアミオの満洲語観を、 彼よりも前の 在華イエズス会士と比較し、 その独自性を明らかにしたい。
ここで、 アミオという人物について、 簡単に紹介しておく。 アミ オは18世紀後半の在華イエズス会士を代表する人物であり、 その経 歴全体については諸先行研究が述べている(11)ので、 ここでは満洲 語に関わる部分のみ概観する。 キリスト教禁教下の当時、 イエズス 会士は宣教師としてではなく、 何らかの技能をもって宮廷に仕える 者として中国に住むことを許された。 アミオもその例に倣い、 中国 入りした当初 (1750) は、 律呂即ち音楽に通暁した者として宮廷に 推挙されたが、 晩年に近い1790年前後のものと思われる 案には、
内閣蒙古堂繙訳として仕えたことが記されており、 ラテン語・満洲 語間の翻訳を掌ったと思われる(12)。 この職は、 ゴービル ( 世
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宋君栄 1689 1759) からアミオへ、 さらに1775年の在華イエ ズス会解散後、 北京フランス宣教会を任されたラザリスト会宣教師、
ロー ( 羅広祥 1754 1801) へと引き継がれ、 清朝・ロシ ア間交渉の通訳にあたった(13)。
またアミオは、 アカデミー・フランセーズや碑文・文芸アカデミー といったパリの諸アカデミー、 およびサンクトペテルブルク・アカ デミーやロンドン王立協会の会員たちとの文通によって、 中国情報 をヨーロッパに伝えた(14)。 その中で最も重要な文通相手だったの が、 フランス財務総監や国務卿を歴任し、 パリ王立科学アカデミー や王立碑文・文芸アカデミーの名誉会員でもあった、 ベルタン
( 1720 1792) である。 ベルタンの計ら
いにより、 高( 又は 高類思 1732 1790)と楊( 楊徳望 1733 1798) という2人の中国人青年が渡仏し、 フラン ス語やラテン語、 論理学や神学を学び、 経済学者テュルゴー (
1727 1781) らとの交流を経て、 1766年に帰国し た。 高と楊の協力の下、 ベルタンとアミオら在華イエズス会士の文 通が始まり、 古今中国に関する様々な報告がフランスへ送られた。
これらの報告は、 ベルタンの下で編纂され、
(以下 ) 全16巻 (1776 1814) として刊行され、 ヨーロッパで 広く読まれた(15)。 アミオの報告は、 この の大きな割合 を占めている。
前述の満文 武經七書 の仏訳や、 満洲語文法著作
も、 この に収められ、 刊行された。 また に収 められたものの他、 前述の 御製盛京賦 や 平定兩金川凱歌 の 仏訳も出版され、 大きな反響を呼んだという。
1. 満洲語文法著作
(1) 「文芸共和国」 に対する満洲語学習の勧め
ではまず、 アミオの満洲語文法著作 について見て いく。 は、 1788年出版の 第13巻に掲載され
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た。 但し1768年にパリへ送られた 御製盛京賦 仏訳のアミオ序に、
ヨーロッパの人々の満洲語理解のため 「私はこの地から、
と をお送りすることができる」 (
) と述べられていることから、 原稿自体はこの頃ほ ぼ完成していたのではないかと思われる。
この著作は、 前述のフェルビーストがラテン語で執筆した満洲語 文法著作 (1696) の仏訳と見られている。 このことにつ いてアミオ自身の言及は無いが、 確かに構成や例文の類似から、 主 に に取材したものと思われる。 しかしアミオ著作には独 自の部分も多く見られる。 その一つとしてまず挙げられるのは、 結 びの部分である。
それは文芸共和国 ( ) にとって大変有益であ る、 もしその、 いかなる仕事も厭わない学者 ( ) の幾人 かが、 中国の言語の迷宮、 即ち世界で最も古い文学的記念碑を 見出すことのできる迷宮へ、 他のいかなる助けも必要とせずに 入っていく為の、 容易な入り口をもたらすことに専心するとし
たら。 ( 13 73)
これは には無い部分である。 アミオは、 満洲語学習を、
「中国の言語の迷宮」 へ入る為の手段としているが、 この迷宮とは、
ホンタイジの命をうけた達海以来、 次々に満洲語訳された漢籍の宝 庫を指すと思われる。
アミオがこのように述べる背景には、 まず、 当時ヨーロッパ人の 漢語学習に少なからぬ困難がつきまとったことがある。 アミオは、
満文 武經七書 の仏訳で、 漢語は特異で他のいかなる言語にも似 ておらず、 ヨーロッパ人に困難以外の何物も与えない (
10)、 と述べている。 また、 漢字に関する報告では、
古代中国で漢字の 「省略と変形が行われるや否や、 それらは明らか にもはや認識不能となった。 ついでに言えば、 漢字が漢代の経書を 難解にし、 それらの曖昧さの主因となっている」 (
1 286 287) とも述べている。
但しこうした漢語学習における困難自体は、 アミオよりも前の在 世
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華イエズス会士が既に頻繁に言及してきたものである。 またドマイ
ヤ ( 馮秉正 1669 1748)
やゴービル、 シャルム( 孫璋 1695 1767) といっ た在華イエズス会士は、 通鑑綱目 や五経を翻訳してヨーロッパ に紹介する際、 満洲語訳された典籍を利用しており、 イエズス会士 が満洲語訳を通して漢籍に触れるということ自体は、 新奇なことで はなかった。 そして前述の如く、 康熙帝に仕えたフェルビーストや パルナンらは、 満洲語を用いて進講を行っており、 フェルビースト やドマンジュは満洲語文法著作を執筆し、 ヨーロッパに向けて満洲 語文法を紹介していた。
しかし、 パルナンが、 アカデミー・フランセーズ会員フォントネ ル ( 1657 1757) に対する1723年5月1日 の手紙で、 「あなた方のどなたかが理解してみようとするなど想像 できない」 ので満洲語の規則を伝えることは必要無いだろう (
19 1781 277) と述べたことに明らかなように、 アミオより 前の在華イエズス会士の著作は、 ヨーロッパ知識人に満洲語学習を 勧め、 彼らの間に満洲語を広めようとするものではなかった。 1788 年の時点で、 満洲語は依然として 「ヨーロッパでは全く知られてい ない言語」 であり、 パリの国王図書館に200冊以上蔵された満洲語 典籍も、 「無用の骨董品」 でしかなかった ( 13 )。 これに対し、 に現れたアミオの執筆意図の独自性は、
ヨーロッパの 「文芸共和国」 の 「学者」 たちに対し、 満洲語学習を 勧め、 満洲語普及を企図した所にある。
この 「文芸共和国」 = (16)という語の起源は ラテン語の である。 それは、 15世紀末から16世 紀にいたる時代、 「生まれつつあった後の国民国家的枠組み、 宗教 的立場の相違、 さらには地域に固有な習慣・習俗、 社会的身分の相 違を超えて結びつく全ヨーロッパの学者たちを指す」(17)言葉だった。
しかしフランスの国家語の地位を獲得したフランス語が、 ラテン語 に代わる普遍語となるにつれ、 それはフランス語の
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へ移行し、 しかもより広範に 「自然哲学への関心を基礎に、
定期刊行物などのジャーナリスティックな手段に支えられていたこ ともあって、 はるかに多くの人々を巻き込んでいた。」(18)
(2) 引き合いに出されるフランス語
上述の如く、 の独自性は、 まずその執筆意図、 即ち ヨーロッパの 「文芸共和国」 の知識人に対し、 満洲語学習を勧め、
満洲語普及を企図する所に見られた。 このように満洲語学習を勧め るにあたって、 アミオはある工夫を凝らしている。 学習を容易にす るため、 満洲語の発音や文法を、 フランス語に擬して説明するので ある。
その一つの例が、 次の文章に現れている。
満洲語の発音の仕方は、 その綴り方に常に一致するものではな い。 この点でこの言語はまるでフランス語のようであり、 これ らにおいては、 多くの文字が感知できないか、 或いはあまりに 軽く発音されるので、 それを聴き分けることができないほどで ある。 準則や規則より、 使いながら習得することの方が、 それ 発音の仕方 についてより多くを与えてくれる。 ここでは、 k が非常にしばしば、 とりわけ単語の中間か末尾に置かれる時に、
gの音をとる、 ということのみ述べておこう。 ( 13 40)
ここでアミオが触れている と とは、 満洲語文語における硬音対軟 音 (近代に至り発音が漢化されると、 帯気音対無気音)(19)の一例であり、
別の箇所には、 帯気音の ・軟子音の という定義づけも見える ( 40)。 アミオは、 こういった音の対立はそれ自体聴き分けるのは困 難で、 語中の位置から類推できるのみだとし、 こうした特質を持つ 満洲語は 「まるでフランス語のよう」 だと述べた。 フランス語では、
語末の多くの子音が、 綴り字で書かれていても発音されないため、
アミオはこのように述べたものと思われる。
上の如くアミオは、 満洲語の発音をフランス語のそれに擬して説 明する他、 満洲語の名詞格や代名詞を説明する時も、 「フランス語 世
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におけるのと同様、 ……」 ( 45 47) ともっぱらフランス語を引き 合いに出している。
これに対し、 でフェルビーストが引き合いに出したの は、 第一にヨーロッパ近世の 「カトリック教会と知識人集団という、
二つの国際的共同体」 の中心的言語だったラテン語(20)である。 ま たその他、 イエズス会の共通語ポルトガル語をはじめ、 ドイツ語や イタリア語、 そしてフランス語といったヨーロッパ諸語も出てくる。
また、 前述の在華イエズス会士ドマンジュによる
は、 フランス語で書かれた満洲語文法著作で、 成立年 代が不明だが、 ドマンジュ来華が1697年であり、 御製清文鑑 (1708) や舞格 滿漢字清文啓蒙 (1730) を参照したらしい箇所が
多く見られることから、 と の中間の時期
に成書したものと思われる。 この著作では、 特に満洲語の発音がし ばしばフランス語のそれに擬して説明されるが、 これに劣らず、 17 世紀に 「世界中で使われる言語」 と称されたイスパニア語(21)も頻 繁に出てくる ( 2 7)。
即ちこれらの著作において、 満洲語の発音や文法の説明の際、 引 き合いに出される言語は、 各時代のヨーロッパの言語状況を反映し たものとなっている。 においてそれは、 17世紀以降、
「文芸共和国」 の普遍語としての地位をラテン語から奪っていった フランス語(22)だった。
このようにアミオの満洲語文法著作 は、 満洲語を、
ヨーロッパの 「文芸共和国」、 および当時その普遍語であったフラ ンス語に結び付けるものだった。 そしてこうした態度は、 以下に見 るように、 他の満洲語関係著作において、 より顕著に現れている。
2. 「明晰」 な言語としての満洲語
(1) フランス語と満洲語
アミオは、 乾隆帝 御製盛京賦 (1746) を仏訳し、 パリへ送っ た (1768)。 この仏訳は、 ヘブライ語や中国語の研究者だったフー ルモン ( 1683 1745) の弟子、 ドギーニュ (
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1721 1800)(23)により出版された (1770)(24)。 アミオ訳 御製盛京賦 の訳者序に、 次の文章がある。
満洲語は、 我々ヨーロッパの流儀のものである。 それは自身の 方法と規則を持っている。 要するに、 明晰 ( ) に理解でき る。 中略 ある人間が、 満洲語で書かれた書物全てを有意義 に読むことができるようになるには、 5〜6年で十分である。
( )
ここにもやはり、 ヨーロッパ知識人に満洲語学習を勧める意図が見 える。 さらに では、 満洲語の発音における聴き分け の難しさがフランス語になぞらえられたが、 ここでは満洲語の読解 に関して、 満洲語は方法と規則を持ち、 明晰に理解できる言語とさ れている。 また満文 武經七書 仏訳の際も、 次の如く述べられて いる。
タタール語 ここでは満洲語の意 は、 漢語より はるかに明晰 ( ) で、 文句なしに我々ヨーロッパの言語の如く体系的であ
る。 ( 7 10 11)
アミオは、 「我々ヨーロッパの」 流儀、 言語と述べているが、 実 際にはフランス語を強く意識したものと思われる。 何故なら、 アミ オが述べた という語は、 当時フランス語と特別な関係にあっ たからである。
まず、 1635年に発足したアカデミー・フランセーズは、 フランス 語に 「明晰な規則を与え、 言語が純粋で」 あるようにすることを、
その主要な役割として掲げた。 そして辞書編纂の努力等により、
「フランス語はつづりの表記体系と文法がじゅうぶんに発達したヨー ロッパで最初の言語」 となった(25)。 ディドロ ( 1713 1784) とダランベール ( 1717 1783) 編纂の、
18世紀フランス思想を代表する事典 百科全書 (1751 1772) の
「フランス語」 の項にも、 次のような文章が見える。
我々の言語の特性は明晰さ ( ) と秩序である。 (
7 1757 286) 世
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さらに、 アミオの 御製盛京賦 仏訳より後だが、 リヴァロル ( 1753 1801) の 「明晰 ( ) でなければフランス 語でない」 (1784) という言葉はあまりに有名である(26)。 アミオが 満洲語をなぞらえたのは、 このように当時その明晰さが強く意識さ れ、 特に綴りの表記体系と文法の確立に向けて大きな努力が為され たヨーロッパにおける共通語、 フランス語であった。
しかし、 このように満洲語を明晰な言語とみなし、 同時にこの言 語で作られた詩を紹介することは、 一見矛盾した行為である。 何故 なら、 上に引いた 百科全書 の 「フランス語」 の項における文章 の続きには、 次のような部分があるからである。
その フランス語の 助動詞、 代名詞、 冠詞、 その語尾変化す る分詞の欠如、 そしてその単調な進行は、 詩における創造的霊 感を損なう。 ( )
このように、 フランス語を明晰な言語とする認識は、 それが詩作に 適さないという考えを少なからず伴っていた。
にもかかわらずアミオは、 御製盛京賦 や 平定兩金川凱歌 を満洲語で書かれた詩 ( ) として取り上げ、 乾隆帝は 「文学 の全ての分野において通常要求されるよりも、 さらに強く知識が要 求される作品」 を作ることができる ( )、 と述べている(27)。 さらに 平定兩金川凱歌 を仏訳 (1779) した際 には、 こう述べている。
私は敢えて、 彼らの言語 満洲語 が、 何か最も良いものを容 れることができると断言します。 それは、 私の知るいかなる言 語とも同じ位、 詩作に適しています。 ( 3 4)
(2) パルナンの満洲語観
こうしたアミオの主張を、 彼より前の在華イエズス会士の見方と 比べるとどうか。 前に取り上げた1723年5月1日付フォントネル宛 パルナン書簡は、 パルナンと、 満洲語をこの世で最上のものと信じ る康熙帝の皇子との議論の内容を伝えている。 パルナンは、 満洲語 では短い単語が明瞭に ( ) ものを言い表すとし、 犬や馬が、
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〇
その細かい特性に応じて異なる名を与えられていることを述べる
( 19 278
281)。 しかし一方で記憶力への負担が大きく ( 281)、 漢語と満洲 語とヨーロッパ諸語の文字数では、 漢語が最も多く、 満洲語がそれ に次ぎ、 ヨーロッパ諸語が最も少ないにもかかわらず、 ヨーロッパ 諸語は漢語と満洲語両方の音や単語を十全に表すことができるので、
最も優れているとする ( 268 269)。 これは、 満洲語を 「ヨーロッ パの流儀のもの」、 「ヨーロッパの言語の如く体系的」 とするアミオ の見方とは著しく異なっている。
パルナンはさらに、 満洲語による詩作に関しては、 こう述べる。
満洲語は 簡潔で区切りの多い文体には不便で、 幾つかの単語 は長すぎ、 これはそれが詩作の役に立たない一つの原因だと、
私は信じています。 私は、 タタール人 ここでは満洲人の意 学 者が詩句を作るのも、 散文体以外で漢詩を翻訳するのも、 見た ことがありません。 中略 何故なら押韻や区切りは漢語では とても容易ですが、 あなた方の言語 満洲語 では実践不可能 だからです。 ( 271)
アミオも、 漢語の単語より満洲語の単語の方が長い、 と認識してお り ( 3)、 この点で両者は共通する。 にもかかわら ず、 満洲語を 「他のいかなる言語とも同じ位、 詩作に適した言語」
とするアミオの帰結と、 パルナンのそれとは大きく異なっている。
(3) 翻訳における明晰さの追求
ではアミオは実際満洲語をいかに訳しているか。 まず 御製盛京 賦 の冒頭部分である。
満文:大淵献の位にあたる年。 柳星が早朝、 中央にある時節。
無射の律に一致する(28)。
アミオ訳:猪の名を持つ 年 に戻ってくる年の周期。 この月、
即ち柳星が早朝、 それが巡る所の天のこの部分の真中の辺りに 現れる間は、 律無射 ( ) と協和する。 (
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アミオ訳を見てみると、 原文正文の逐語訳とは言い難い。 原文注で は、 爾雅 釋天の 「太歳の亥に在るを、 大淵献という」 や、 禮記 月令の 「季秋の月、 日は房に在り、 昏に虚中、 旦に柳中」(29)といっ た文章が引かれているが、 アミオ訳は、 これらを正文中に加えたも のとなっている。
このように 御製盛京賦 のアミオ訳が、 説明的な散文体を基本 とすることは、 竜雲も指摘し、 これを 「西洋人に中国文化を真に理 解」 させようとした結果とする(30)。 但し竜雲は、 原文として漢文 のみを参照し、 満文やアミオの満洲語理解には触れていない。 しか しアミオは、 前述の如く訳者序で満洲語を明晰な言語とするなど頻 繁に満洲語に言及しており、 仏訳の文章にも、 アミオの満洲語に対 する態度が反映されたものと思われる。
次に 平定兩金川凱歌 第二節のアミオ訳を見てみる。
満文:天が加護して下さり、 成功した。 大帝は深く喜悦した。
信頼すべき将軍であって、 智略は明らかであった(31)。
アミオ訳:天に助けられ、 我々の兵士たちは最大の武勲をたて た。 我々を統治する大帝は、 喜悦の極みにある。 かの将軍は、
真にその信頼に値する。 その卓抜な指揮術は全て明らかである。
( 6)
ここでも、 「成功した」 に 「我々の兵士たちは最大の武勲をたてた」、
「大帝」 に 「我々を統治する大帝」 をあてる等、 アミオ訳の説明的 な性格は明らかである。
最後に、 アミオの満仏辞書 (1789 1790) での翻訳を 見てみる。 この辞書は、 アミオらイエズス会士の著作や彼らがもた らした満洲語典籍によって満洲語を研究し、 自身も満洲語研究著作 (1787) を出版したラングレス(32)によって編纂・
出版された。 その全体にわたる構成と内容の類似から、 李延基の満 漢辞書 清文彙書 (1751) を基礎としたものと考えられる(33)。
その中には、 アミオが満洲語単語について直接仏訳を試みたと思 われる記述と、 アミオ自身 「満洲語単語に対応するフランス語単語 を探すことに過度に気を取られないようにし、 適切な単語を知らな
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かったり、 そうした単語をすぐに思い出せなかったりした時は、 漢 語の説明文を翻訳することで満足した」 ( 1 ) と述べているように、 清文彙書 の漢語説明文を逐語訳したと思 われる記述とが見られる。
しかし、 満洲語から直接仏訳したにせよ、 清文彙書 の漢語説 明文を訳したにせよ、 原文に比してかなり説明的と思われる翻訳も ある。 幾つかの例を挙げてみる。 (尚 では、 各満洲語見出 し語を、 活字印刷された満洲字(34)及びローマ字音写で示しているが、 ここ ではメーレンドルフ式に改めた。)
清文彙書 漢語説明文:呈。 授。 手に持って人に与える。 献 じさせる。 小人が長上に書信を呈するの呈(35)。
アミオ訳:ある物を彼の上司に捧げる。 与える、 提出する。 手 から手へ与える。 神、 高徳の人、 老人、 鬼神へ提出し、 捧げ るよう、 命令する。 地位の低い者が高官に、 請願書や嘆願書 を提出する時。 ( 1 22)
清文彙書 漢語説明文:主子。 君皇帝。
アミオ訳:主人、 主君、 君主、 王、 皇帝( ) 等。 ( 112)
まず の項のアミオ訳は、 基本的には 清文彙書 の漢語 説明文の逐語訳といえるが、 「神、 高徳の人、 老人、 鬼神」 へ提出 し、 捧げる、 というのは漢語説明文には無い部分である。 これは、
漢語の 「献」 という行為の対象を詳細に示した(36)ものともいえ、
また漢語説明文とは関わりなく補足されたものともいえる。 どちら にせよ、 説明的な翻訳がなされている。 また の項では、 漢語 説明文が 「主子」 と 「君皇帝」 という2つの単語を示すのに対し、
アミオは5つの単語を示している。 これも、 漢語の 「主子」 と 「君 皇帝」 を詳細に説明したものとも、 漢語とは関わりなく補足された ものともいえるが、 いずれにせよかなり説明的な翻訳になっている。
このようにアミオの には、 少なからず説明的な翻訳 世
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が見える。 そもそも 清文彙書 自体、 御製清文鑑 や 滿漢字 清文啓蒙 (1730) 「清字辨似」 の如く、 見出し語に対し端的に一語 ないし数語をあてる満漢辞書に比べ、 かなり説明的な性格を有する。
編纂者ラングレスも、 の底本、 即ち恐らく 清文彙書 と思われる書物について、 「同義語によって表すというよりむしろ、
冗長な定義を与える」 という 「欠点」 があるとしつつも、 この 「欠 点」 は実は 「ここでは計り知れない程の利点」 であり、 「この辞書 をはるかに有用なものとしている」 ( 164) と述 べている。
アミオが 清文彙書 を選んだのは、 まず 御製清文鑑 の如く 見出し語が部類毎に配列されたものだと 「普通の読者を少なからず 困惑させる」 ( 11 516) のに対し、 清文彙書 は
「アルファベット順」( 1 )であることから、 ヨー ロッパ人にとってより有用と考えた為と思われるが、 それに加え、
上の如き 清文彙書 の説明的な性格に、 有用性を見出した為でも あったと思われる。
このように、 アミオが満洲語諸典籍に対し説明的な翻訳を行った 背景には、 ヨーロッパ人にとっての有用性ということがあったと思 われる。 即ち、 前述の如くアミオは、 ヨーロッパの 「文芸共和国」
の知識人に満洲語学習を勧めている。 そして が満洲語 学習の用に供されたのはもちろん、 御製盛京賦 仏訳が満洲語・
漢語の原文と共に送られ(37)、 平定兩金川凱歌 仏訳にも満洲語原 文が付されたことからして、 これら諸典籍の仏訳もやはり、 ヨーロッ パ知識人が原文と対照させながら読み、 満洲語に親しむことを少な からず意図したものと思われる。
こうした意図のためアミオは、 満洲語そのものを明晰な言語と述 べるだけでなく、 その翻訳・紹介においても、 満洲語の文章や単語 の意味をできるだけ明確に、 いわば明晰に、 伝えようとしたものと 思われる。
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3. 中国における 「文芸共和国」
(1) 皇帝による満洲語改革
このように、 アミオは満洲語をフランス語と同じく明晰な言語と し、 満洲語諸典籍の仏訳の際には、 翻訳における明晰さを追求した。
アミオのこうした、 満洲語を明晰な言語とする見方は、 清朝宮廷の 存在をその大きな拠り所にしたものと思われる。 何故なら、
のアミオ序には次のような文章があるからである。
宮廷において、 漢語と満洲語の単語は、 発音するのと同じよう に綴られ、 その表現は正確である。 ( 1 ) 前述の如く、 でアミオは、 「満洲語の発音の仕方は、
その綴り方に常に一致するものではない」 としたが、 上の文章は、
「宮廷において」 は、 満洲語の単語の発音は綴り方と一致し、 表現 は正確だとしている。 こうした見方は、 何に支えられたものなのか。
御製盛京賦 を見ると、 天聡6年 (1632、 原文では崇徳6年と なっている)、 ホンタイジが達海に命じ、 十二字頭に圏点を加えて 発音を分別し、 新字を作って漢字の対音を表すようにしたことを述 べる部分があるが、 その仏訳に付した注で、 アミオはこう述べてい る。
太宗以来、 今日統治している皇帝まで、 満洲の言語と文字は不 断に改良されてきた。 今日ではさらに、 元々全く名前を持たな かったものに全て名前を与える取り組みが行われている。 この 著作は既に非常に進んでおり、 完成すれば、 皇帝がそれを出版 し、 我々は、 いわば新しい、 我々がヨーロッパで有している言 語と同じく完全な言語を持つことになる。 (
301)
このように、 満洲語に明晰さ、 正確さを見出し、 ヨーロッパの言語 と同じく完全な言語とするアミオの見方は、 清朝皇帝による満洲語 改革の正当性へのいわば信頼に、 大きく支えられたものだった。 そ してアミオによれば、 この改革の頂点に、 ある 「著作」、 即ち当時 乾隆帝の下で編纂が進められていた 御製増訂清文鑑 (1771) の 世
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編纂事業がある。
アミオだけでなく、 アミオの の編纂と出版をてがけ たラングレスも、 その著作 にて 御製増訂清文 鑑 を詳しく紹介している。 「御製増訂清文鑑序」 は、 従来満洲語 において見られた 「字が音を得ず間違える」 ことや、 「字が意義を 無理やり求めて更に間違える」 といった間違いを正すべく、 康熙帝 の 御製清文鑑 に倣いながらも、 新たに三合切音による発音表記、
見出し語約五千余項目を加えたと述べている。 ラングレスはこの序 文を、 「乾隆帝が驚異的に豊かにした満洲語の進歩を証明する」 も のとして、 全文満洲字による原文とその仏訳を掲げている(
74 89)。 こうしたラングレスの乾隆帝および 御製増訂 清文鑑 に対する称賛は、 如上のアミオの報告における認識に、 少 なからず基づいたものだと思われる。
(2) 中国の 「アカデミー」
アミオの満洲語観を支えたのは、 清朝皇帝の存在だけではなく、
その下で働く官僚たちもやはり重要だった。 アミオは、 前述の如く において、 満洲語を学習し、 「中国の言語の迷宮」 即 ち満洲語訳された漢籍の宝庫への入り口をもたらすことが、 ヨーロッ パの 「文芸共和国 ( ) にとって大変有益」 だと述 べた。 御製盛京賦 仏訳にも、 満洲語の知識は 「全時代の中国の 文学への自由な入り口を開いてくれる」 という文章が見える。 そし てこうした漢籍の満洲語訳について、 以下の如く述べられている。
中国のいかなる良い書物も、 全て満洲語に訳されている。 この 翻訳は、 学問的なアカデミー ( ) によって、 順治から 現在王位に就いている乾隆までの統治者の命令と保護の下、 行 われている。 それらは別の、 同じく博学で、 その成員が完全に 漢語と満洲語に精通しているアカデミーによって、 再検討され
校正される。 ( )
前述の如く康熙帝の皇子と議論を交わしたパルナンも、 康熙帝の 統治初期、 満洲語と漢語の両方に最も堪能な人々から成る官庁
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( ) が設置され、 史・経の翻訳、 雄弁術 ( ) の書の翻 訳、 御製清文鑑 の編纂に携わったと述べている (
19 283)。
さらにパルナンは、 ヨーロッパには 「学問と美術の為と同様、 言 語を改革し完成させる為の役所 ( )」 がある、 とも述べてい る ( 274)。 しかし、 この議論を収めたデュアルド (
1674 1743) の著作は、 このヨーロッパの 「官庁 ( )」 を
「アカデミー ( )」 としている(38)。 デュアルドがこの改変を 加えた背景には、 前述のアカデミー・フランセーズの如き言語アカ デミーの存在があったと思われる。
これに対しアミオは、 さらに、 清朝において漢籍の満洲語訳にい そしむ官僚の集団、 即ちパルナンが単に 「官庁 ( )」 とした ものをも、 「アカデミー ( )」 とすることで、 中国にもヨー ロッパのようなアカデミーがあることを示そうとした。
では、 この 「アカデミー」 とは何か。 第1巻は、 ベル タンの計らいによる渡仏経験をもつ中国人イエズス会士高 (本稿序 を 参 照 ) が 、 中 国 の 古 さ を 論 じ た 著 作
を収める。 その中には、 次のような文章がある。
ヨーロッパの宣教師は、 翰林院をパリ科学アカデミー(39)( ) に例えている。 この比較はあらゆる 点において正当である。 我々の翰林院は、 中国において、 文芸 共和国 ( ) の一員であり、 フランスにおいて は、 アカデミーの紳士方は、 彼らが携わる所の数学と科学の高 度な領域の一員である。 ( 1 17)
これに従えば、 アミオの言う中国のアカデミーとは、 詩・文の作成 を職務とする翰林院(40)であり、 中国における文芸共和国の一員で ある。
ヨーロッパでは、 前述の如く1635年に言語アカデミーとしてのア カデミー・フランセーズが創設されると、 フランス語は、 「文芸の 専門家たちだけの閉鎖的な言語」 ではなく、 「宮廷的世界のすべて のオネットーム 、 即ち社交人、 教養・才気に富んだ紳士 世
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たちに理解可能な言語」(41)として、 即ち 「文芸共和国」 の普遍語と して鍛え上げられた。
一方中国では、 清朝成立以降、 公用語となった満洲語は、 間もな く漢語に押され、 北京に住む旗人は日常語としてもっぱら漢語を用 いるようになった。 こうした状況をみて改革を試み、 満洲語標準化 と満洲語能力向上を図ったのが乾隆帝(42)である。 前述の 御製増 訂清文鑑 編纂も、 こうした試みの中での出来事だった。
アミオにとって、 こうした皇帝の下で漢籍の満洲語訳にいそしむ 官僚の集団は、 満洲語を、 「文芸共和国」 の普遍語として鍛え上げ る 「アカデミー」 に他ならず、 同時に満洲語を通して文芸を享受し 合う 「文芸共和国」 そのものだった。
(3) アミオにとっての 「文芸共和国」
このようにアミオは、 ヨーロッパの 「文芸共和国」 における満洲 語普及を企図するだけでなく、 中国における 「文芸共和国」 の存在 をも示そうとした。 このようにアミオがその存在を強く意識してい た 「文芸共和国」 とは、 彼にとっていかなるものだったのか。
1788年のベルタン宛書簡で、 アミオはこう述べている。
や の出版を、 「己の努力を、 洗練された精神 ( ) のうぬぼれへと己を導く方にしか向けないあれらの文学 者 ( )」 のためのものにしないような努力が為されるなら、
その努力は、 少数の学者 ( )、 即ち 「その文芸著作において常 に、 ただ心地良いということより、 有用 ( ) であることの方を 好む人々」 から、 高い評価を得るだろう。 そしてこの学者たちに対 し、 自分の両著作は、 「中国の文学の広大な倉庫」 へ容易に入るこ とを可能にする扉の一つを、 開けて見せるだろう (
3 )。
ここに出てくる 「少数の学者 ( )」 は、 第1章で取り上げた の結びの部分に出てくる 「文芸の国家」 の 「学者 ( ) の幾人か」 に、 重なって見える。 隠岐さや香によれば、 17
〜18世紀のパリ王立科学アカデミーをめぐる言説においては、 しば 東
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しばアカデミーの 「学者 ( )」 および彼らの携わる科学の存在 意義が、 「有用性 ( )」 あるいは 「有用 ( )」 なものの追求を 目指す点に置かれ、 「有用性」 に関する様々な議論が展開された(43)。 また水林章によれば、 上の引用文に述べられた 「洗練された精神 ( )」 および 「文学者 ( )」 は、 ヴォルテールが18世 紀の 「文芸人 ( )」 のあるべき姿を掲げる際、 否定され たものだった。 即ち、 16・17世紀の 「文学者」 はもっぱら原典批判 にいそしむ 「書斎」 の人であり、 狭い 「文芸共和国」 の内部にとど まっていたが、 18世紀の 「文芸人」 は、 「社会に巣食う偏見を一掃 する」 ための哲学的精神を備えた 「社交的世界」 の人である。 それ ゆえ 「きらめくばかりの想像力」 と 「会話の妙味」 においてのみす ぐれ、 哲学的精神に完全に欠ける 「洗練された精神」 の輝きを追い 求める必要などまったくない。 こうしてヴォルテールは、 自らを狭 隘な 「文芸共和国」 の一員としてよりは、 批判的理性を行使する
「公衆」 とともにある存在としてとらえていた(44)。
これまで見てきたように、 アミオは 「文芸共和国」 の一員として の意識を強く持っており、 この点ではヴォルテールと必ずしも同じ ではない。 しかし 「洗練された精神」 或いは 「文学者」 を批判すべ き対象ととらえていた点は共通する。 即ちアミオのいう 「文芸共和 国」 とは、 「洗練された精神」 或いは 「文学者」 がうぬぼれや心地 良さのためにのみ努力する狭隘なものではなく、 「有用」 なものを 追求する 「学者」 から成る、 という当時のフランスにおけるアカデ ミーの掲げる理念に即したものだった。
結
以上見てきたように、 アミオの満洲語関係諸著作には、 満洲語を
「文芸共和国」 に結び付けて示そうとする満洲語観が強く現れてい る。
フェルビーストもやはり、 を含む自身の著作の 「イエ ズス会内外における流通を企図」 し、 それが 「ヨーロッパで出版さ れ、 広まるよう意図」(45)するなど文芸共和国を意識したといえる。
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しかし では、 ラテン語とカトリック教会及び教皇の普 遍性が賛美される( 7 8)。 これはアミオの
には無い部分である。 フェルビーストにとって、 普遍語とは唯一ラ テン語であり、 文芸共和国とは唯一、 当時ラテン語を普遍語とした ヨーロッパのそれであったと思われる。
またパルナンの認識は、 本稿で取り上げた書簡に明らかなように、
ヨーロッパ諸語を優位とするものだった。 彼にとって満洲語とは、
ヨーロッパのアカデミーの誰かが 「理解してみようとするなど想像 できない」 類のものでしかなかった。 パルナンもやはり、 満洲語を ヨーロッパの 「文芸共和国」 に結び付けることは無く、 満洲語を普 遍語とする中国の 「文芸共和国」 を見出すことも無かった。
これに対しアミオは、 ヨーロッパの 「文芸共和国」 の 「学者」 た ちに満洲語学習を勧めると同時に、 満洲語を当時 「文芸共和国」 の 普遍語だったフランス語に結び付けた。 さらに、 満洲語を普遍語と して鍛え上げようとする中国の 「文芸共和国」 の存在を示そうとし た。 このことによって、 満洲語を 「文芸共和国」 の 「学者」 たちの 関心事として、 強く打ち出そうとしたのである。 この企図は、 直接 的には、 ベルタンらアミオの文通相手となった諸アカデミーの会員 たちに向けられたものだったと思われる。
こうしたアミオの企図は、 19世紀以降のフランス東洋学において、
広く実践にうつされることになる。 即ち満洲語は、 ラングレスやレ ミュザといった、 アミオの著作の影響を少なからず受けた東洋学者 たちの関心の的となった。 そしてこうした東洋学者による多くの満 洲語研究著作や満洲語講座(46)は、 彼らが属する諸アカデミーを中 心に、 ヨーロッパ知識人の間に満洲語を広める役割を果たすことに なる。
註
(1) 渡辺純成 「満洲語のユークリッド 東洋文庫所蔵の満文 算法原 本 について」 満族史研究 3、 2004年。 同 「東洋文庫所蔵の満洲語 算法原本 について」 数理解析研究所講究録 1392、 2004年。 同 「満
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〇
洲語医学書 格体全録 について」 満族史研究 4、 2005年。
( ) 2010 王冰
「 律呂纂要 之研究」 故宮博物院院刊 総102、 2002年第4期。 陶亜兵 明清間的中西音楽交流 東方出版社、 2001年、 47 59頁。
(2) 18〜19世紀ヨーロッパ人による満洲語研究の歴史については、 以下
の各著作で概観されている。 1787
18 1849
53(1) 1993 87 90 (3)
1696 この著作は当時、 ジェルビヨンによるものとする認 識が一般的だったが、 ペリオによって、 フェルビーストの作であること が明らかになった。
21 1922
(4) (フランス国立図書館所蔵手稿、
275) (5)
8 1788 1 3
1789 1790
(6) 1770
1779 (フ
ランス国立図書館所蔵手稿、 285)
7 1780 は、 アミオによれ ば、 両金川遠征から戻った将軍阿桂を迎えるに際して歌われた 「凱歌」
で、 全18章、 各章は4句から成る。 「全ての満洲人高官は文学の知識に通 じ、 その詩作の才能というより、 彼らの長 皇帝 の意思に従うことへ の熱意を示すことに、 熱心です」 ( 3 4) と述べられていることからし て、 官僚の作と思われる。 アミオは満文 (満洲字及びローマ字音写) と その仏訳及び注釈を載せる。 漢文 平定兩金川方畧 藝文一は、 阿桂凱 世
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旋 (1776) の際、 「郊勞の樂」 に、 御製平定兩金川凱歌 の他、 于敏中 平定兩金川鐃歌 十六章が用いられたと伝える。 しかし、 現在まで確認 できた満文 平定兩金川方畧 は、 全て藝文を収めていない為、 アミオ の訳したものが 平定兩金川鐃歌 なのか否か、 不明である。
(7)
1815
1820 ( )
1815 羽田亨 満和辞典 国書刊行会、 1972年 (京都帝国大学満蒙調査会、 1937年の複 製)、 頁。 池上二良 「満漢字清文啓蒙に於ける満洲語音韻の考察」 満洲 語研究 汲古書院、 1999年。
(8) 拙稿 「十八世紀におけるイエズス会士アミオと中国音楽」 中国 社会と文化 22、 2007年、 135頁。 アミオの両著作は、 それぞれ
2 1775 13 1788に収録。
(9) 河内良弘 満洲語文語文典 京都大学学術出版会、 1996年、 頁。
(10) P・バークによれば、 とりわけドイツの言語学者によって、 「時代と 場所によって異なる言語のイメージや、 言語に関する一連の態度、 そし てその体系を考察するため」 に、 「言語文化」 の概念が用いられている。
P・バーク 近世ヨーロッパの言語と社会 印刷の発明からフランス 革命まで 岩波書店、 2009年、 2頁。
(11)
1915
《 》
( )
2005 11 77
(12) 中国側史料については前掲拙稿、 133頁。 ヨーロッパ側史料について
は、 68 69
(13) 45 68 69
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(14) 特に 35 43
(15) ベルタンとアミオを始めとする在華フランス人イエズス会士の交流、
および の誕生に至るまでの経緯については、 以下を参照。
81 1960 73 74 ( 19) 91 93 後藤末 雄 中国思想のフランス西漸 2、 平凡社、 1969年、 231 247頁。
1970
( ) 2006
46 47 また、 の概要については、
(1776 1814) 70 1983を参照。
(16) の概念については、 以下の著作等、 多くの研究
がある。 17
1 1978
147 1989
(17) 水林章 公衆の誕生、 文学の出現 ルソー的経験と現代 みすず 書房、 2003年、 13頁。
(18) 水林前掲書、 14頁。
(19) 河内前掲書、 1996年、 21頁。
(20) バーク前掲書、 56 80頁。
(21) バーク前掲書、 116頁。
(22) 水林前掲書、 13 14頁。
(23) フールモンの経歴や学問、 およびドギーニュとの関係については、
( )
2002を参照。 フールモンとドギーニュ は、 ともに碑文・文芸アカデミー会員だった。
(24)
1988 52
(25) J=B・ナドー&J・バーロウ フランス語のはなし もうひと 世
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つの国際共通語 大修館書店、 2008年、 50・64頁。
(26) ナドー&バーロウ前掲書、 92頁。
(27) このように、 乾隆帝を詩人として評価する態度は、 アミオの他の報 告にも見える。 「私の想像では、 あなた方のヴォルテールが亡くなった後、
かの少しく広大な名声を得ているという詩人たちの中で、 我々の乾隆帝 より年長の者はいません。」 13 418
(28)
(29) 「太歳 中略 在亥、 曰大淵献」 爾雅 釋天。 「季秋之月、 日在房、
昏虚中、 旦柳中」 禮記 月令。
(30) 竜雲 「銭徳明与 御製盛京賦 翻訳」 外交評論 総93、 2006年、 60 63頁。
(31)
(32) ラングレスは、 1795年創設のパリ東洋語学校の初代 運営者で、 ペルシャ語、 マレー語、 満洲語等の講座を担当した。 また、
王立図書館の東洋手稿の部管理員、 碑文・文芸アカデミー会員、 ペテル ブルク科学アカデミー名誉会員だった。
53(1) 1966 142 (33) フィステーらもこの見解をとっている。
2 1934 845
(34) ラングレスは、 印刷工ディドー ( 1764 1836) と協同し て満洲字活字を作り、 自身の著作や、 自身が編纂、 出版したアミオの
に用いた。
(35) 呈也。 授也。 手拿着給與人。 使献之。 小人與上人呈書信之呈。
(36) アミオは、 漢字について著述する際、 張自烈 正字通 (廖文英によ る刊行1671) や 康熙字典 (1716) を参照しており (
1 275 324)、 ここでもこれらの字 書を参照した可能性がある。
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(37) 但しアミオが送った 御製盛京賦 の原文は、 広東の官憲によって 差し押さえられ、 結局仏訳のみパリに到達した。
52 (38)
4 1736 86 (39) パリ科学アカデミー、 即ち1666年に創設され、 1699年の改革によっ
て明確に組織化されたパリ王立科学アカデミーについては、 次を参照。
隠岐さや香 科学アカデミーと 「有用な科学」 フォントネルの夢か らコンドルセのユートピアへ 名古屋大学出版会、 2011年。
(40) 清代の翰林院については、 次の論文を参照。 黨武彦 「清代の翰林院 清初から嘉慶期まで」 専修大学人文科学研究所月報 194、 2001年。
尚、 清末の郭嵩 は、 ヨーロッパのアカデミーを翰林院とした。 同論文、
11頁。
(41) 水林前掲書、 13 14頁。
(42) 2002 26
28
(43) 隠岐前掲書。 また 「学者 ( )」 の語については、 同書8頁も参 照。
(44) 水林前掲書、 63 72頁。
(45) ( )
2003 163 164
(46) 註 (7) および註 (32) を参照。 ちなみに、 註 (7) に挙げたレミュ ザの
は、 コレージュ・ド・フランスにおける漢語・漢文学および満 洲語講座の授業計画を記したものだが、 満洲語講座の主要参考文献とし て、 フェルビーストの (レミュザはジェルビヨンの作として いるが、 誤りである。 註 (3) を参照) や、 ラングレスの
と共に、 アミオの と が挙げられている。
(附記) 本稿は、 2010年度科学研究費補助金 (特別研究員奨励費) の助成に 世
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よる成果である。
(日本学術振興会特別研究員・東京大学大学院人文社会系研究科博士課程生
・武蔵大学非常勤講師) 東
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