社会的責任と責任否定論 61
社会的責任と責任否定論
桜井克彦
一 序
二 社会的責任に対する諸批判 三 レビットの社会的責任批判 四 多元主義理念
五 批判説の問題点
一 序
企業ないし経営者の社会的責任なる問題が経営学における研究課題の一つ として登場してきていることは,あらためて指摘するまでもないであろう。
社会的責任がなにを意味するかについては末だその完全な解明をみていない といわねばならないが,しかしながら,企業とりわけ現代の巨大株式会社がそ の社会的責任の遂行を不可避たらしめられていることは明らかである。かか る社会的責任とは一応,その内外をめぐるさまざまなグループの期待に企業 が応えていくこととして解しうるが,現代企業はその存続の過程においてそ のような責任の積極的履行を不可避的に要請されるに至っているのであり,
社会的責任はこの意味で現代企業をめぐる必然的論理として出現してきてい るのである。
しかるに社会的責任の概念に対する批判が,多くの論者によってさまざま な観点から提起されているという事実が存在する。たとえば,かかる論者の
(1)
一人にハイエクが存在する。
ハイエクは株式会社企業が株主以外のグループに奉仕することは,これら
グ/レープに対する危険な権力を企業がもつに至ることであり,単にかれらの
利益が抗われうるのみならず,究極的には,公益を代表する国家による企業
統制の増大によって自由企業体制の崩解が結果しうるとみる。かれは,いわ
ゆる社会的責任への配慮をば企業に行わせしめる,もしくは企業が行う乙と を拒否するのであり,企業が追求すべき唯一の目的はその出資者の受託者と
して長期最大利潤を達成することにあることを強調する。
かれはいう r わたくしの主張したい点は,もし会社が有用な存在となる よう,会社の権力を制限したいならば,株主によって委託されている資本の 利益を生むための使用,という特殊の目的以外のものはすべてこれを制限し
( 2 )
てしまわねばならぬ,いう乙とである。 J r 長期利潤の最大収益をうるという 唯一の目的に会社の資源を使うことによって,会社はもっともよく公共の利
( 3 ) 益に奉仕するということを信じないならば,自由企業体制は崩解しよう。」
かくのごとき責任反対論は,社会的責任の問題を検討するにあたって少な からぬ意味をもっと思われるのであり,本稿では社会的責任に対する批判に 関して検討を加えることにしたい。
註( 1 ) Friedrich A. Hayek , "The Corporation and the Democratic S o c i ‑ e t y " i n M. Anshen and G. L . Bach (eds.) , Management and Corporation 1 9 8 5 , 1 9 6 0 , p p . 9 9 . . . . . . . . 1 1 7 (名束孝二訳, 1 2 0 年後の会社と経 営 J ,昭和 38 年 , p p . 8 9 . . . . . . . . 1 0 7 ) .
( 2 ) 同訳者, p . 8 9 。
( 3 ) 同訳書, P . 1 0 6 。
二 社会的責任に対する諸批判
いわゆる社会的責任の概念をめぐって提示されている批判の一例としては じめにハイエクによる批判を挙げたが,むろん批判はそのようなもののみに とどまらないのであり,社会的責任の概念への批判ないし反対はその性格お よび内容を論者によって具にする
O社会的責任への批判にどのようなものが
( 1 )
みられるかは,ボーエンによる検討のうちにかなりに明らかである
Dボーエンは,社会的責任なる概念に対する批判を分類,検討している
oか
れは社会的責任反対説の根拠として競争,コストの増加,企業家の動因,権
力,道徳的責任,および法律という六種を挙げ,こ乙から反対説を六程の範
社会的責任と責任否定論 6 3 ( 2 ) 目 前
ζ分類する
oかれはこれら六種の反対説の検討および反批判を行なうが,
諸反対説およびそれへのボーエンの反批判は,要するにつぎのようである。
すなわち,反対説の第一は I 競争的条件の下では,社会的な関心を持っ た企業家も,その競争相手が同様の関心を示さないために,自分も社会的行
( 3 )
動を起しえない」というものであり,ボーエンはこれに対して I 多くの企 業家は必ずしも,完全な競争市場の中で動いているのではないし,競争的な
( 4 ) 産業の中にあっても,社会的に認められた企業の迩営が行ないうること」を 指摘する
O反対説の第二は I 企業家が社会的責任をとれば,企業のコストが上が り,そのコストは,消費者(または従業員)に転嫁されやすく,社会的な行
(5)
動から生まれるものは,結局高価格(または低賃金)である」というもので あり,これに対する批判結果をボーエンはつぎのように示す。 I この問題に ついては,確かにコストが往々にして他に転嫁されるという乙とが認められ た。しかし一国の生活水準は二つの部分一一最終製品と,それが作られる諸 条件一ーから成ることが指摘された。一方の水準を改善しようとすれば,他 方が犠牲になる場合がしばしばあり,問題はどうしてこの二つのバランスを とるかにかかっている
oそこで,もし消資者価格が上昇するとしても,その ために労働条件が良くなり,経済が安定し,方針決定にさらに多くの人が参 加でき,その他,生産条件が改普‑されれば,その価格上昇は十分正当化され
( 6 ) るのである。」
反対説の第三は, I 企業家は利益動機にこり固まっているので,自主的に
(7)
社会的責任を考えることなどない」というものであり,それへのボーエンの 批判はつぎのごとくである。「これに対する答えとして,企業家は多くの動 隊を持っており,利益動機は,主要なものではあるが,ただ一つのものでは ないことが指摘された。乙の多くの劫機のなかには,社会の基準に順応する というものも含まれている
Oそのうえ,企業家は自分遠の長期的な利益の ためには,社会的義務に関心を払うことが必要であることをよく知ってい
(8)
る 。 」
反対話の第四はこの社会的責任説は,他のすべての支配階級が使っていた
と同様に,企業家によって,単に自己の権力を保持し,正当化せんとする子 ( 9 )
段として使われているのだ,というもの」であり,ボーエンの反批判の要約 は「乙の議論には,正当なところもあるが,現代の企業家は多くの社会的制 約を受けており,自分だけが,自己の社会的責任についての裁定者たる地位 にはいないことが指摘された口しかしながら,企業の社会的責任を定義する 完全に民主的な方法とは,社会のすべての階級の利益が,企業迩営について 社会的に受け入れられた基準を,十分に反映できるような方法でなければな
( 1 0 )
らない。」というものである。
反対説の第五は, r ばく然とした社会的責任というものを企業家に押しつ けるのは,かえって彼らが,自分の直接的な,道徳的責任をないがしろにす
( 1 1 )
るようになる」というものであり,乙れに対してボーエンは r 道徳的な責 務というものは,ばく然としたものであると同時に直接的なものである乙
( 1
2)と」を指摘している
O責任反対論の最後のものは r 企業家が,社会目的を持った決定を行なう 聞
ことは,株主に対する義務の冒涜であるというもの」であって,これに対し てボーエンは,広い社会的目的をもった経営政策の遂行に対する法律の現状 を検討しつつ,つぎのようにいう。
「以上,法的現状を簡単に観察してきたが,その結論は次のようになる。
( 1 ) 法律や,実際のケースでは,いまだに,企業は株主の利益のためにあ り,経営者はこの目的を持って迩営に当たらなければならないと考えられて いる
o( 2 ) しかし,裁判所は,企業の経営者にますます広い判断の余地を与え,
株主の利益を増進すると考えられる政策の範囲も徐々に広げてきている。
( 3 ) いまだ法廷で争われたことはないが,現在の世論や企業慣行は,企業 は株主に対して義務を持っと同椋に,一般公衆に対しても義務を持っと考え るようになってきた。
企業は,社会の利益を目的とした政策を行なう一一株主の最大利益を犠牲
にしてまでも一一一ための広い余地を与えられたことは疑いないが,この点
でも,限度があることを忘れてはならない。経営者に,広い社会的な目的を
社会的責任と責任否定論 65 追求するあまりに,会社の財産を意識的に使い果たしてしまうというような
( 1 4 ) 乙とがあってはならないのはもちろんである
D……」
以上が,社会的責任批判説に対してボーエンが行なっている整理と反批判 である。責任反対論についてのかれの整理に関してはのちに触れるとして,や ( 1 5 ) はり反対論についてその整理・分析を行っている論としては,ペティットを 挙げることができる
Dペティットは社会的責任の概念への支持者と批判者の 見解を検討しているが,そのなかでかれは,批判論の共通的特色,責任概念 への賛否の出現理由,および,批判論におけるポイントについて論じてい る。かれの論旨は,つぎのごとく要約しうる。
まず,ペティットは,社会的責任の教義に対する批判が,経済学者,法千 1 i
学者,政治学者などによってなされていることを指摘するが,これらの批判 に共通するものは市場システムへの信奉であるとみる r 教義への批判の根 底には,市場システムへの強いイデオロギー的なコミットメントが存在す る
D諸資源をその最も効率的な用途へと向けるという,ならびに製造コスト に対するチェックを維持するというその経済的機能に加えて,市場は,個人 の自由を保護し促進するという倫理的機能,および私的権力を最小化し少数
( 1
6 ) 派グループの権利を保護するという政治的機能を遂行する。」
そしてペティットは,教義への賛成者と批判者の閣の差異がもたらされた 理由として,企業において認識・主張されてきた社会的責任教義に数個の発 展段階が存在したこと,および社会的責任の定義が多様であることを挙げ る。前者については,かれはいう
O「支持者と批判者の間の差異のあるものは,疑いもなく,社会的責任の教 義の進化において六つの局相がみられたという事実による
oすなわち,
1 1 8 9 0 年代における, E の受託の原理:事業家は,その宮をば国民から 託せられて保有している私的な個人とみられる。
2 世紀の変わり目における"開明的絶対主義強力な会社が労働者の 福利へのその係わりあいを認識し始める。
3 第 l 次大戦前の会社のパブリック・リレーションズ:巨大会社は一般
大衆の是認を得ょうと試みる。
4 1 9 2 0 年代における,企業のサービス概念:事業家は大量生産をば社会 に対する企業の主要な貢献とみる
o5 1 9 4 0 年代の
q自由企業売込み"辺動:事業界は,資本主義について大 衆を教育することで,大恐慌に始まる企業への批判を和らげんと試みる
o6 第二次大戦以後に高揚された社会的責任教義:会社良心なる概念の出 ( 1 7 )
現。」
他方,後者についてはペティットはつぎのように指摘する。
「社会的責任ある経営者についての支持者と批判者の間の差異のもう一つ の理由は,概念を五つの異る方法に解釈しうることである
Oすなわち,
l 利潤最大化を秘めるものとしての社会的責任:経営者はやはり利潤の 極大者ではあるが,しかしながら,かれは,企業の社会的ならびに政治的環 境がかれに社会的責任の姿勢をとることを認識する
G2 大衆のコンセンサスに注意することとしての社会的責任:もし経営者 は大衆が,間違ったもしくは不適切と考えることをするならば,かれは処罰 される
O3 会社によって影響を受ける種々の利害をバランスすることとしての社 会的責任:経営者は自身を公平な裁定者とみなす口
4 企業政治家としての社会的責任:経営者はより良い世界をもたらすた めに会社の資源を用いる。
5 経営者の役割の遂行としての社会的責任:経営者はその役割期待にか
(18)
なうことによって,社会的に責任ある具合に行動する。」
結局,ペティットは,社会的責任に対する批判を四つの問題に集約しうる とみる。かれはいう。
「社会的責任の教義の批判者と支持者の観点における差異は,つぎの四つ の基本的問題の見地から分析しうる。すなわち,
l 会社と経営者の地位:アメリカ社会におけるその地位はなにか口 2 会社と経営者の機能:もしありとせば,財貨と用役を生産するという 経済的な仕事以外にどのような機能を,かれらは果たすべきか。
3 会社と経営者の権力:会社と経営者の経済的ならびに政治的な権力
社会的責任と責任否定論 6 7
は,どのような根拠に基いて正当化されうるか。
4 会社と経営者のコントローノレ:いかにして社会は会社と経営者をコン ( 1 9 )
トローノレしうるか。」
社会的責任反対説をめぐるペティットの整理は,以上のようである。かか るべティットの整理,およびはじめのボーエンのそれを眺めるとき,責任概 念に対して提示されている諸批判の概要は,概ね明らかになったと思われ
る 。
ペティットは責任概念への批判におけるポイントとして,企業ないし経営 者の実態,企業が果たす,もしくは果たさざるをえない機能,企業の権力の 正当性,および,いわゆる責任体制を挙げているとみなしうる
oこれらの論 点のうち企業ないし経営者の権力の正当性の問題は,企業機能の問題および 責任体制の問題と不可分に結び、ついていると考えられ,結局,ペティット l 乙 従うとき,責任批判の諸説は,企業の本質的動向,企業の正当な機能,およ び責任体制を問題にしているといえよう
Oそして,ボーエンの挙げる諸批判 説のうち,市場競争の観点からの批判は企業をめぐる本質的効向を問題とす るものであり,コスト増加,道徳的責任,および法律の諸観点からの批判は 企業機能の正当性を主として問題とするものであって,経営者の動機の観点 からの批判は企業の本質的動向および責任体制を,また,権力の観点から の批判は企業機能および責任体制を主として問題にするものであると解し
うる
oそれはともかくとして,ペティットの整理において示されるような,責任 批判説の諸論点は,社会的責任の問題を検討するときに念頭に置かれねばな らないであろう。なぜならば,現代企業ないしその経営者の社会的責任を主 張するためには,社会的責任の必然性ないし不可避性を論証せねばならず,
また,社会的責任として企業が遂行する諸機能の正当性ないし必然性が強調
されねばならない。のみならず,企業ないし経営者をして責任あらしめるた
めのワーカフ勺レな諸体制が考えられねばならないのである。そして,この志
味で,責任概念に対する批判は,いずれも,ひとまずそれなりの正当性を有
するといいうるのである。
註(1) Howard R . Bowen , S o c i a l Responsib i 1 i t i e s o f the Businessman , 1 9 5 3 (日本経済新聞社訳,
( 2 ) 同訳書
Jp p . 1 4 5 " ‑ ' 1 8 2 。
(3)同訳書
Jp . 167 。 ( 4 ) 同訳書
Jp p . 1 6 7 ‑ ‑ " " 1 6 8 。 ( 5 ) 同訳書, p . 1 6 8
0( 6 ) 同訳者
Jp . 1 6 8 。
(7)同訳者
Jp . 168 。 ( 8 ) 同訳書
Jp . 1 6 8 。 ( 9 ) 同訳書
Jp p . 1 6 8 " ‑ ' 1 6 9
0U O ) 同訳書
Jp . 1 6 9 。 ( 1 1 ) 同訳者
Jp . 1 6 9
0ω 同訳書
Jp . 1 6 9 。
間 同 訳 書
Jp . 1 6 9
0(
1 4 ) 同訳書
Jp . 1 8 0
0「ビジネスマンの社会的責任 J
J昭和 3 5 年) .
(
1 日 Thomas A. P e t i t , The Moral C r i s i s i n Management , 1 9 6 7 (土屋守 章訳, r 企業モラルの危機 J
J昭和 4 4 年).
出 : ) I b i d . , p . 6 3 . U l 7 I b i d . , p p . 6 4 " ‑ ' 6 5 . ( 1 8 ) I b i d . , p p . 6 9 . . . . . . . . 7 0 .
U~
I b i d . , p . 7 4 .
三 レビットの社会的責任批判
( 1 )
さて,現代企業の本質的動向を眺めるとき,社会的責任を主張することは ひとまず科学的に意味があると思われる
Oしかしながら,かかる主張が理論 的に適切であるためには,責任として果たされる企業機能の正当性,および 責任体制に対する考察が存在せねばならない。とりわけ,企業の正当な機能
に対する考察が不可欠である
O責任説への批判の多くは社会的責任の機能の正当性に関するものであり,
社会的責任と立ー任否定論 6 9
かかる批判説は責任問題の検討にあたって,軽視しえない怠義を有する
o本 ( 2 )
節では,批判品の代表のーっと考えられるところのレピットの見解を詳細に 眺めることにしたい。かれの見解はかなりに規範論的ないし倫理的なもので はあるが,しかしながら,示唆に富むところが多いといわねばならない。以 下 i 社会的責任の危険」と題するかれの論文を,その内容を追って眺めて いこう
Dレピットは論文の冒頭で,社会的責任への経営者の関心が「キリスト教の 兄弟愛の敬度な宣言の単なる吟唱以上のもの」となっており, i 致命的に真
( 3 )
面白な没頭」となっているとみる
oi 容放ない批判者がいうこととは反対に,
この専念は気どりの態度でない。社会的責任への自己意識的な没頭は,日大 会社へのおよび利潤システムの道徳的欠陥への耳障りな攻撃に対する純粋に 防衛的な行為として始まった。しかし,防衛のみではもはや動機を説明しえ
( 4 ) ぬのである。」
まずかれは,非営利的動機の台頭をめぐって論ずる
Oはじめにかれは,企 業に対する非難が投げかけられるにつれ,企業が社会的責任に関心を抱きは
じめ,今日ではかかる関心が普遍的であるという
Oi . . . ・
H・..おそらく,批判者達が申立てを行ったとき,企業はかれらのいう すべてを単に否定した。しかし二三の企業にとってはこの批判は必ずしも全
くのこじつけではなかった。そして,かれらは自分達の仲間に説教を始めた。
まもなく,資本主義のイデオロギーに新しいものが付け加えられた。企業
の指導者が自ら,代社会的責任"とは企業が必要とするものであると宣言し
た。企業は社会のことをもっと真面目に考える必要がある
oそれは,コミュ
ニティの諸問題に参加することを,すなわち,ただコミュニティから受けと
るのではなくて与えることを必要とするのであると。徐々に企業は,その従
業員の要求,学校,病院,福祉機関 l こ,および美術にさえもより関心を示す
ようになった。更に,ひとびとが明らかに手に入れたがっているようにみえ
る通常の社会経済的快適さのあるものを企業と地方自治体が抗供しないなら
ば,ワシントンの巨大な怪物が提供するであろうということが,ますます明
確となった。
されば,二・三の無私の事業家の誠実な個人的観点として出発したもの ( 5 )
が,かれらすべてにとり普遍的な流行となった。……」
「このことは良い乙とであると,広く考えられている
o企業はパブリック に尊敬されてその地位を高め,それによって企業への政治的攻撃を、沈めてし まう。……かくて,社会的責任は企業の生命をひきのばすであろうと。その 聞に利潤劫機は,言行の両面で傷われている
oそれはいまや,より高尚にし て満足な価値を熱望する多数の非営利的動機とその王座をともにしている
o今日の利潤は,極大でなくただ適度でなければならないのである
oそれが巨 額である場合,そのことは誇らしげな賛美のたねであるよりもむしろ,弁解 による合理化のたねであり,例えば,利潤は会社の能力を拡張してパブリッ クによりよく 奉仕する"のに必要であるという合理化がなされる。会社が 金もうけを喜んで自慢するということは,流行していない
D流行しているの は会社が,自分は偉大な平新者,より明確にはパブリックへの偉大な恩恵者 であることを,とりわけパブリックへの奉仕"のために存在しているこ とを示すことである
o……われわれは,ジェットで駆動する天国にと近づきつつある
oそして,
短くかっ不穏な資本主義の歴史における他の期間と具って,現代の資本主義 はその実践的哲学者達を有している
Dかれらは,新しい正教についての,す なわち 社会的に責任ある企業"の時代についての宗教法学者的説明に忙し
( 6 ) く従事するひとびとである。」
「事実は利潤動機は今日,経済開発委員会の自由な参加者の間で,もしく は全国製造業者団体の中でさえ流行していない。それは乙の 1 0 年間,ゆっく りと,悲しまざれざる死をたどりつつある。大企業の指導者は,自己意識 的にまゆをひそめる仲間違から非難されることなしにはそれを賞讃しえな
(7)
し 、 。 」
そして,レピットはかかる非営利的動機の本質およびその危険性をつぎの ようにみる i 社会的責任症候群には神秘的なものはない。それは事業家の 本質における変化を,もしくは利己の衰退を反映しない。全く反対に,しば しばそれは,批判者に先手をうつ乙とで資本主義の生涯を最大化する方法で
,
. . .
4
社会的責任と責任否定論 7 1 あるとみられている
O単万直入の質問の下では,学校内での審美上のプログ ラムの援助,会社の聖歌会のための指揮者の雇用,もしくは従業員の演劇活 動の費用の引き受け(勤務時間中の活動であってさえ)のごとき活動は慈善 ではないことが認められる
Dそれらは,政治家および職業的非難者の突撃か ら生き残るための実際的な戦術である。更に,それらはモラー
jレをうちた て,効率を高め,現金の形で報酬をもたらすのである
o換言すると,そうすることは引き合う
Oもし引き合わないならば,ゲーム ば存在しない。例えば,もし発注が停止すれば町が破滅してしまうようなア ーカンサス州の小都市にある仕入先と,より安価に製造しうるミネアポリス 州の仕入先との問で選択を行うようになれば,疑いもなく,最も社会的に責 任がある会社でさえ後者をとる
Dそれはその従業員,株主,もしくは顧客へ の責任に常に頼る乙とができるのであり,依然として,自分は流行を追って いると主張しうるのである。
従って,幾つかの点で,これらのおしゃべりのすべては単におしゃべりで ある
oそれは,紙入れの中にとどまっている
oそれでは,どのようにしてそ れが危険なものたりうるのか。私はその答えは大変簡単だと考える
Dすなわ ち,ひとびとは自分が話すことを,もしそれを十分に話しているならば信ず るようになるのであり,自分が信じていることがかれらの行動に影響を及ぼ
( 8 ) すのである
D……」
「社会的責任をめぐるおしゃべりは,既におしゃべり以上のものである。
(9)
それは,信念の段階に向いつつある。……」
このようにレピットは,非営利的動機の台頭をめぐって論ずる
oかれは,
企業および経営者がその社会的責任に関心を払っておりそれを実践している
こと,そして,大部分の場合 l こはかかる実践は営利的動機に基くものであ
り,その限りでは営利原則が現代の資本主義を依然として支配しているこ
と,しかしながら,一部の経営者は社会的責任それ自体を目的視しつつあ
り,かかる観点から実践を行う可能性も示し始めつつあって,このことは甚
だ危険な傾向であることを指摘するのである。かれは,乙の危険性を企業に
よる全人的支配の可能性のうちに,すなわち「新しい封建制度」の出現の可
能性のうちに理解するのであって,この点をつぎのように論ずる
Dまず,
企業による責任引受けが企業に危険な権力をもたらすことになるとされ る
D「企業の機能は,高水準の利潤を継続的に生み出すことである
O自由企業 の本質は,経済システムとしてのそれ自身の存続と一致する方法で利潤を追 求する乙とである
D……資本主義は,政治的民主々義と個人の自由という環 境の中でのみ繁栄しうるのであり,われわれもそれを望む。政治的民主々義 と個人の自由は,多元主義的社会を必要としており,そこでは,権力の集中 ではなくその分割が,志見の一致ではなく,その多秘性が,日常の経済的・
政治的・社会的・精神的諸機能の単一化ではなくてその分離が存在する。
われわれは全能的国家を,それが不快にして驚くべき服従を,すなわち一 枚岩的な社会を創り出すが故に恐れる。われわれは,一個の権力所在地,一 つの権威,適切さについての一つの裁定者をもっ社会を望まない。われわれ は多様性,変化,自発性,競争を,要するに多元主義を望む。われわれは,
単一の観点もしくは一つのやり方がわれわれの生活を形作ることは,たとえ 物質的結果が豊富であり怠図が立派であっても望まなし'1
0・ ・
われわれは,福祉に反対するが故l こではなく,それが不可避的にもたらす 権力集中と荒っぽい規律とに反対するが故に,すべてを包合する福祉国家に 反対する
Dわれわれは,全面的な福祉国家を政府に求めないし,それを組合
( 1 のうちに求めなし凡そして,同様の理由でそれを会社のうちに求めない。」 日
「しかるに,現在の調子では,企業政治家がその鳴り響く善意のもとで一 元国家の会社版を造り出す可能性は五分五分以上である
Dその増大する従業 員福祉プログラム,コミュニティ・政府・慈善・教育の諸問題へのその隠険 な係わりあい,多数の末梢的活動を通じての政府とパプリックへのそのとり 入り,これらの,善意からのしかしながら油断ならない諸工夫はすべて,会 社の批判者にとってのみならず会社自身にとっても不快であるような社会秩 序へと国民を導く路線を整備しつつある。危険は,これらのととすべてが 会社をば中世の教会の 20 世紀版へと向わしめるであろうということである
o会社は遂には自らに全面的な,責務・義務・および最終的には権力を与え
社会的責任と責任否定論 7 3
るようになって,それは、全人に奉仕するとともにかれと社会をば会社の狭 い野望とその本質的に反社会的な要求とのイメージにはめ込むであろう
oさて会社の狭い野望もしくは要求には,それ自体では惑いものはない。実 際,もし今日,悪いものがあるとすれば,それは会社がその野望と要求をあ まりに広く考えることである白難点はそれがあまりにも狭く利潤指向的であ るということではなくて,それが十分に狭く利潤指向的ではないことであ る。引き出された基準の狭い範囲を超えようという,罪悪感 l と駆られたその 街動から,近代会社は社会の経済的な地勢図をのみならず,制度的・社会 的・文化的・政治的地勢図を作り直しつつある
Oそして,そこが難点である。というのは,そのプロセスで会社もまた自ら を変形する一方,根底においてはその見解は狭く物質主義なままである
oさ れば,われわれがもつものは,その将来と知覚がかねとものという厳格に物 質主義的な文脈の中で形成されるところの,しかしながら,無関係な非経済 的な主題の広範なスペクト
jレについてのその狭い概念をば人間と社会に課す るところの強力な経済機能的グループという驚くべき光景である
oたとえその見解が最も純粋な程類の善意であっても,そのことは会社をわ れわれの生活の裁定者として勧めはしないであろう。この国にとり,また他 の国にとり思いことは,それがなんであれ単一の機能的グループもしくはイ デオロギーによって社会が怠識的,積械的l 乙形成されることである
Oもし会社がこれらの末梢的諸活動によってその長期的収益性が強化される と信ずるならば,すなわち,それらは慈善ではなくて利己であると信ずるな らば,そのことはずっと惑い。というのは,もしその通りであるならば,会 社は,人間にとり,社会にとり本質的に悪いところの,そして究極的には会 社それ自身にとっても惑いところの諸活動に,より明瞭な正当化とはずみと
( 1 1 ) を与えているのである。」
ついで,レピットは一つの制度がそのメンバーの生活に全面的に係わりあ うようにみえる傾向の例として,労働組合における全智全能的教父化の傾向
( 1 2 )
をあげ,諸制度におけるかかる係わりあいの傾向が一枚岩的社会をもたらす
ことになるという
oすなわち,かれは組合の教父化ということに関述してい
つ
o「乙のことは,もし会社がその社会的義務,従業員福祉,および国事に専 念するようになれば,それが遂にはもつであろうところの一枚岩的影響であ る
Dただ,会社がそれを行なう場合,会社は仕事を通じて組合よりももっと 多くのことを行うであろう
oというのは,それはこれまで考えられてきたど んな民主的組合よりも,変幻自在であり,本質的により強力である
Dそれは 自家制の細菌培養器であって,組合に比してより安定的であり部下を引き寄 せ保持することがより可能な,強力な用具である
oそれは自身の資本と権力 とを,遂行を期待されていることを行なうという全くの偶有性によって創造
凶 する
o……」
「もし人間への会社の奉仕が,ただ半分ほど行きわたるならば,それは,
ビザンチン的大きさのシモン的企業へと向う
o企業によるこの程の全面的奉 仕には名前が存在しており,それを用いるのは心苦しい。その名はファシズム である
Dそれはわれわれが第 2 次大戦で戦った隠険にして超道徳,超現実的 なファシズムでも,腐敗しかっ増大するラテン・アメリカ版でもないかもし れぬが,しかしながら諸結果は,事業会社の本質的に狭い気風がすべてのひ ととものに,悪意をもって行きわたっていると乙ろの一枚
a岩的社会であろ う 。 凶 」
そして,レピットは全人的奉仕が資本主義の終了である乙とを指摘する
D「会社は,一程の商業的な準教会としてそれが得るところの権力を,利潤 動機的資本主義の機関としては失うであろう
D実際,利潤動機がますます昇 華してしまうとき,資本主義は陰l 乙過ぎなくなる,すなわち,創造的ダイナ ミズムの麻痔した遺骸に過ぎなくなるであろう
Dそれは総会の演壇および商 業会議所で,名前だけ栄えるであろう。すなわち,盛儀で弱々しく支えられ
U l 5 て実物が言葉としてのみ残るであろう
o……」
レピットは新しい封建制"をめぐって以上のごとく論ずる
oそして,
ここから,権力の合併を斥けるのであり,諸機能の分離を主張する
Oすなわ ち,レピットはまず,つぎのようにいう
o「現代の社会がもっ問題は政府が,審判者よりもむしろ競争者となりつつ
社会的責任と責任否定論 75
あるということでも,われわれの生活のすべてのすきまに手をつっこむ巨大 な福祉者であるということでもない。問題は,企業,労働,農業,および政 府という主要な機能的グループのすべてが,われわれの私的な生活たるべき ところに他を出し抜いて侵入しようと敬皮に試みつつある乙とである。いず れも,自身の必要と好みに従いつつそれ自身のイメージへと全人を型にはめ 込まんと試みつつある
Dいずれもが,われわれの制度,ひとびと,観念,価 値,信条の最も広い範囲に対してそれ自身の狭い暴政を及ぼさんとしつつあ り,そのことを最も純粋な動機で,すなわち,それが正直に信ずることを行 うことは社会にとって最も良いという動機で行いつつある
oそして,それは正しく悪い。さほどに夢魔的なものは,純粋さと奉仕のこ の局面である
o……強力な制度のとりわけ経済的制度の強大な機構に支えら れた,誠実にして自己意識的な,
Iむからの改宗者ほど危険なものはないので
( 1 6 ) ある
O…… J
そして,使命感をもっ一部の経営者が若宮や講演でその影響を経営者界に 与えつつあり,かかる傾向は軽視しえない乙とを述べたあと,つぎのように 論ずる
o「企業は存続を願う。それは攻撃と規制からの保障を願うのであって,そ れがその最大の潜在的な敵であると信ずるものを,すなわち国家を最小化し ようと願う
oさればそれは,その従業員および一般大衆を味方につけるため の多数の計画を用いることで国家の活気を弱める口乙れらはそれがその存続 のためになしうる最も可能な投資であると考えられている
oそして,論理が 誤っているのはそこである
oこれらの投資は最善の解決策ではなく,表面的 な安易なそれに過ぎない。
福祉と社会とは会社の仕事ではない。その仕事は金もうけであり,甘い音 楽ではない。同じことが組合に該当する
oその仕事は代パンとバター"であ り職場の権利である
o自由企業システムでは,福祉は自動的であると想定さ れるのであって,そうでない場合,それは政府の仕事となる
oこれが多元主 義の概念である
o政府の仕事は事業ではなく,企業のそれは統治ではない。
そして,これらの機能があらゆる点で確固として分離していないならば,そ
れらは最後にはすべての点で結合する
o結局は,危険は政府が企業を運営す るであろうということでも,企業が政府を迩営するであろうということでも なくて,むしろ,われわれがみたように,反対されず反対しえぬような単一 の権力へと両者が合体することである
U企業,労働,および良業の唯一の政治的機能は,いずれもが長期にわたり 支配的とならないよう相互に闘うことである
o一つが圧倒的な権力と支配に 到達するとき,よくて国家は,他のすべてを保護するという口実で遂には支 配を行う
Dその時点で大企業の経営者は,大規模経営の用具の保持を主張し て,戦時にそうしたように,国家を運営する官僚となるであろう。
最終的な勝利者はそれ故,民衆の代表としての政府でもなければ,政府に よって代表される民衆でもない。新しい独裁国家は,資本主義の建設者がか つて可能と考えたよりもより独占的にして高位の水準で活動する専門的な会 社官僚であろう。
われわれの経済における四つの主要集団の,つまり政府,企業,労働,民業の 諸機能は,分離されておらねばならず分離可能でなければならぬ。それらが ( 1 7 ) 合体し区分し難くなるやいなや,それらは怪物化し拘束的となるのである。」
要するに,権力の合体をめぐってレピットは,企業による純粋に利他的な 関点からの全人的関心の危険性を再度主張したあと,たとえその存続のため にであるにしても企業がそれに国有な領域を超える乙とは,政府の干渉を介 在として究極的には経営者による社会支配をもたらすとみるのである。かく て,レピットは企業に対して注意する。つまり,分別のある福祉を行なうべ きことを主張するのである。
「もし事業家が社会的責任,福祉,および自己規制を説教し実践しないな らば,いかにして経営者はその批判者,政治的攻撃,拘束的な法規を,すな わち,会社をして民間福祉国家を創造するよういざなっているものと対処し うるか。答はかなり単純である。批判者が非難をしえないほどにその主要な 仕事を十分に遂行すること,および,そこで, 1 9 世紀の資本主義を極度に偉 大たらしめたところの高湯した精神でその機能と業績を卒直に主張すること
闘
である。」
社会的責任と責任否定論 77
「わたくしは,経営者がその批判者を無視すべきだと論じつつあるのでは ない。かれらのあるものは,企業の社会的非行に対して,および,保障を提 供せんとするワシントンの努力のすべてと実際に闘うというその近視眼性 に対して,ときどき,正しい主張を行なってきている。……
わたくしはまた,経営者は社会に対して全く福祉義務をもたないと論じつ つあるのでもない。全く逆である。会社の福祉は,もしそれが経済的に志義 があるならば,怠味があるのであって,しばしばそうである。……産業にお ける支配的原則は,なにごともそれが引き合うときにのみ良いというもので ある
Oさもなくば,それは無関係であり,認め難い。これが資本主義の原 則である。」 ω
かくして, レピットはその結論として,事業家は奮闘せよという
or 企業 はもしその目標に関してナンセンスが存在しないならば,すなわち,長期利 潤の最大化が理論においてのみならず実践での唯一つの支配的目的であるな らば,ずっと多くの存続の機会をもつであろう。 間) J r " 予防は治療にまさる"
という気の抜けた格言を口実にして自己規制を実践することは,限られた正 白 1 )
当性をもつに過ぎない。 J r 結局は企業は,二つの責任を,すなわち,毎日直 面するていちょうさについての基本的な規準(正直,誠怠,等)に従うこ
(22)
と,および物質的利得を追求することを有するに過ぎない。 J r 産業政治家の ふりをしつつー述の戦略的返却によってその存続のために戦う代わりに,企 業は,戦争をしているかのように戦わねばならなし」そして,正しい戦争と
同様に,それは雄々しく,敢然と,そしてとりわけ,道徳的にではなく,単~
(23)
われねばならない口」
企業ないし経営者の社会的責任の概念に反対するレビットの主張は,以上 のようである
oかれの見解は, k [i.!乙経済学的,もしくは法律論的な観点から の責任反対論と異なり,より広い視野に立脚する反対論であり,それは責任 への批判の典型的なものの一つである。
註
(1)この点については,拙杭「現代企業の本質的勤向と企業の制度化 J ,経済科 学 , 1 5 巻 l 号を参照のこと。
( 2 ) Theodore L e v i t t , "The Dangers o f S o c i a l R e s p o n s i b i l i t y , " Harvard
Business Review , Vo l . 3 6 , No. 5 (September‑Octoberi 1958) i n William T. Greenwood e d . , I s s u e s i n Business and Society , 1 9 6 4 . ( 3 ) I b i d . , p . 46 1 .
( 4 ) I b i d . , p . 46 1 . ( 5 ) I b i d . , p . 4 6 2 . ( 6 ) I b i d . , p p . 462
...,4 6 3 . ( 7 ) I b i d . , p . 4 6 3 . ( 8 ) I b i d . , p . 4 6 4 . ( 9 ) I b i d . , p . 4 6 5 . U
O)I b i d . , p . 4 6 5 . U 1 ) I b i d . , p p . 465
...,4 6 6 . ωIbid. , p p . 466
...,4 6 7 .
u m I b i d . , p . 4 6 7 .
u~I b i d . , p . 4 6 8 .
u 日 I b i d . , p . 4 6 8 .
u m I b i d . , p . 4 6 9 .
u~I b i d . , p . 4 7 0 .
u m I b i d . , p . 4 7 0 . 間 I b i d . , pp. 4 7 1
...,4 7 2 . 印 ) I 1 b i d . , pp. 472
...,4 7 3 . ( 2 1 ) I b i d . , p . 4 7 2 .
白~I b i d . , p . 4 7 3 . ( 2 3 ) I b i d . , p . 4 7 4 .
四 多 元 主 義 理 念
レピットの所説を眺めるとき,その特色のーっとして多元主義理念に対す る強い信奉を認めることができる。かれは個人の価値をなによりも基本的な ものとみ,そこから,単元的社会の否定,社会的責任の概念の否定を行なう。
多元主義理念へのかかる強調ば,じつは,レピットのごとき責任概念批判者
にのみならず,責任説の支持者にも共通するものであり,本節では,とりわ
社会的責任と責任否定論 7 9
けアメリカの論者の主張の根底にある多元主義概念について簡単に眺める乙 とにしたい。多元主義がなにを意味するかについてのかなり詳細な説明がイ
(1)
ーノレズらによってなされており,以下,かれらの説明をみていこう
oさて,イーノレズらにあっては多元主義なる語は,多極化した現代資本主義 社会を支えてきているところの社会理念を指していると解しうる
oかれら は,はじめに,かかる理念において想定されている幾つかの原理をつぎのよ うに説明している
O多元主義は目的(権力の広範な分散)と構造(個人を従属もせしめねば支 配もしないやり方で政府と市民の問で活動している自主的な諸ク勺レープ)を 含むが,それはまた,結果を評価する方法をも含んでいる
oこの方法とは,
固定的な教義 l 乙基いて広範な社会的プログラムをうちたてるというのではな く,政策の出現を求めての多様なクツレープの行為から生ずる結果を信頼する というものであり,行為の結果の評量に対するかかるやり方は,アメリカ固 有のプラグマテイズム哲学の主要な要素である
Qしかし,多元主義は,ま た,ある程の自然法の教義にも基いているのであって,それは,世俗的な諸 政体問での権限分割についての中世的な "two
・swords" 概念と,世俗の権 力の行使に対する究極的な認可は人民からもたらされるという概念とからも
(2)
インスピレーションをえているのである
O政治的観点からは多元主義は,自由主義の伝統と保守主義の伝統との両者 の側面を有しており,自由主義的側面に関してはそれは問題点の指摘と変化 への信頼とを特徴とし,その保守主義的特徴は一方での,国家
i権力と集権的 な国家計画とへの懐疑のうちに,また他方での,地方責任と州経とへの尊重
( 3 ) のうちに表われているのである。
多元主義の原理に関してイー
jレズらはとのように述べるが,かれらは更に かかる理念の定義を行う
oかれらはまず,多元主義に関してつぎのごとくい う
o多元主義は,多数の組織と集団に椛力を分散することを指向しており,
かくして権力の不均衡状態の発展の阻止を,および暴政からの個人の自由の
保護を指向している
oそれは,政治的独裁者による支配であれ,あるいは大
衆自身によるものであれ,あらゆる種類の全体主義に挑戦する
Dそれは,全
( 4 )
智全能に対する主張を疑うのであると
Oそしてかれらは,かかる多元主義の 理念が多様な外観をとっており,国家と教会の分離という教義のうちにそれ が入り込んでいること,政治の分野のうちにも,また,事業界では反トラス
( 5 ) ト法のうちに,それが遍在していることを指摘する
oかくのごとくイーノレズらは述べたあと,立志制の概念との対比のうちに多 元主義の定義をより明らかにせんとする
oかれらは論ずる
O多元主義は権限と機能の配分に,すなわち,第ーに政治・経済・宗教・文 イじなる国民生活の主要なセクターの間での,ついでこれらの主要なセクター のそれぞれの内部にある多様な団体の問でのそれらの配分に,基本的な関心 を抱く
o多元主義は支配と団体の数を定めようとしており,立憲制とは,後 者が特定の組織の内部の権限 l こ対する拘束に第一次的に係わるという点で異
る
D多元主義と立窓制とは,いずれも権力の集中に対して懐疑を抱く
o決定の 権力をもっ多様な組織を前者が奨励しようとするのに対して,後者は組織自 身が有する権力を内部的に分散させる乙とに関心をもっ。経済面についてい うならば,活気ある競争を行っている企業社会は,多元主義が作用している 好例なのである
O合併は,それが大きな効率をもたらす場合でさえも,多元 主義にとって脅威となる
D他方,立憲制は,管理者がその選挙民に対する責任を履行する方法に力点 を置乙うとする。それは,地理的な形であれ,機能的もしくは期間的な形で あれ,そのような形での権力配分をとりあげる。多元主義が自律的なグルー プの問での権限の配分に関心をもっ一方,立官、制は一度権力が確立されるや
( 6 ) かかる権力を制限せんとするのである口
そしてイーノレズらは,立憲制の精粋ないし本質が,メンバーの全面的な忠 誠を要求せんとする各組織から佃人を保護することにあること,また,多元 主義は諸組織に対する個人の多元的忠誠を主張するものであって,事実,
( 7 )
個人の忠誠ないし関心は多元的ならざるをえないことを指摘したあと,なぜ 意志決定権力の分散が多元主義社会の至高の目的たる最大の個人の自由を可
( 8 ) ( 9 )
能ならしめるかについて,ハイエクの所説を引用する
oハイエクによると,
社会的責任と責任否定論 8 1 異った権限の聞に権力を分割することが権力を減少せしめる理由は,単 l こ , 権限保有者相互の権力が権限超過を互いに妨げあうことのみならず,より主 要なことだが,ある程の強制は臭った権力の同時的・整合的な伎用を,もし くは数種の手段の使用を必要とするのであり,これらの手段が異るひとびと
( 1 0 ) の手にある場合にはたれもこの程の強制を行使しえぬということである
Oなお,イー
jレズらは権力と責任の分割に関して,もしそれが極端になされ るならば混乱が生じうる乙とを注意する
Qすなわち,権力があまりに断片化 され個人もしくはグループが全体の福祉のために行動しえなくなるならば,
社会は挫折してしまう
D特定の機能の遂行のための責任は,全体が機能する ための責任をなんらかのグループが引き受けていることを保障はしない。社
(11)
会は,その個々の部分の単なる総計ではないのである。
多元主義の定義をめぐってイールズ、らは,以上のように述べている。そし てイーノレズらは,かくのごとき多元主義理念およびそれを基礎とする多元社 会が西欧社会でどのようにして展開されてきたかを眺めたあと,大企業に焦 点をあてつつ現代の多元社会における問題点について論じており,最後にか かる問題点に関するかれらの見解をみていこう
Oかれらは,そのような問題点を均衡維持における諸問題として把える
Dそ れらの一つは,企業と労働と政府の間のバランスの問題であるとされる
oす なわち,企業と労働組合の大規校化に伴って多くの論者が,これら巨大組織 による権力乱用に対する非難を,および大企業と大労組とによる公益への配 慮に対する要請を捉起しつつあること,そして,政府の権力の拘束策たる立 憲制によっては民間大組織におけるかかる権力問題は処理しえず,これら大 組織との関係における政府の役割ないし地位をどう定めるべきかが問題とな
( 1
2) っていることが指摘さ~1,るのである。均衡維持における他の問題としてイーノレズらは,事業界内部の特定の問題 を,および企業における分権制の問題をあげる
D前者の問題とは,専門家団 体ならびに同業者団体と企業との聞の関係をめぐるものであって,そこでは 大企業は,これらの団体がその効果的な作用によって企業自身に利益をもた
( 1 3 )
らしうるよう,自己の権力を適切に行使すべきであるとされる。後者につい
ては,一方での企業権力の適切な行伎を求めての政府による企業干渉の可能 性と,他方での,多 r ! j 場・多製品・多国籍化といったような企業構造の変化
( 1 4 ) とが,企業において分権化をもたらしつつある乙とが指摘される
oそしてイーノレズらは,多元主義はその上部構造を四つの前提に,すなわ ち,自分の目的のためにひとびとが自主的に団体化する権利,法の支配の下 でそのような団体が自律的な単位として活動する権利,多元社会は自由と創 造性に対する最大の刺激を捉供するという確信,および,それぞれの自律的 な団体の活動をば社会は責任あらしめるであろうという概念に依存している
ことを,また,これらの前提の他 l 乙,多元主義は事業家{乙三重の責任を,つ まり,責務を実践上の手続へと翻訳すること,既存団体が新規加入者をこばみ えない環境を促進すること,および,その中で自らが栄えている全体社会の
( 1 5 ) 要求に対して百目とならないことというそれを課していることをあげ,つぎ のように結んでいる。 I 多元主義が隆盛を極めていた時代の生活の事実と は,家族経営の小規校企業,強力なる地方責任の伝統を伴う大小の政治的エ ンティティ,および,ひとびとの要求に応じつつ繁栄する多程の団体(教 会,ギノレド,都市)からもたらされる事実であった。企業における寡頭的支 配,超父権的な政治団体,単元的な諸権力中心点という社会にあっては多元 主義は,なんとなく時代遅れにみえる
Oそれはそうたり続けるのか。それと
( 1
6)も,消滅しつつある理想に新しい活力を吹き込まねばならないのか。」
以上,多元主義なる概念をイールズらに従って眺めた。それはアメリカに
おいてとりわけ顕著な社会理念であるが,多元主義を怠志決定センターの多
様性と解するならば,かかる理念は現代の資本主義社会一般において,ある
程度共通に認められるであろう
D乙の芯味では乙の理念は現実的・必然的性
格の理念であり,社会的責任説においてであれ責任反対説においてであれそ
れが主張されることは,その限りでは適切である
oとはいえ, レビットのご
とき反対説におけるその主張は,それが現代企業の巨大な権力を念頭に置か
ない点に,また多元主義社会を古典的・伝統的社会としてのみ解するにとど
まる点に,基本的な問題を有するといわれねばならない。
社会的責任と責任否定論 83
註 ( 1 ) Richard E e l l s and Clarence Wa 1 t on , Conceptual Foundations o f Business , 1 9 6 1 .
( 2 ) I b i d . , p . 36 l . ( 3 ) I b i d . , p . 3 6 2 . ( 4 ) I b i d . , p . 3 6 3 . ( 5 ) I b i d . , p . 3 6 3 . ( 6 ) I b i d . , p . 3 6 4 .
(7)I b i d . , pp. 3 6 5 ‑ ‑ ‑ ‑ 3 6 6 .
( 8 ) F . A. Hayek , The C o n s t i t u t i o n o f Li berty , 1 9 6 0 . ( 9 ) R . E e l l s and C . Wa 1 t on , o p . c i t . , p . 3 6 6 . ( 1 0 ) F . A. Hayek , o p . c i t . , p p . 1 8 4 ‑ ‑ ‑ ‑ 1 8 5 . ( 1 1 ) R . E e l l s and C . Wa 1 t on , o p . c i t . , p . 3 6 6 . (
1
2)I b i d . , p p . 3 7 1 ‑ ‑ ‑ ‑ 3 7 3 . ( 1 3 ) I b i d . , p p . 3 7 3 ‑ ‑ ‑ ‑ 3 7 4 .
(1
4 ) I b i d . , p p . 3 7 4 ‑ ‑ ‑ ‑ 3 7 6 . {
1 日 I b i d . , p p . 3 7 6 ‑ ‑ ‑ ‑ 3 7 7 . (
1 ) I 6 b i d . , p . 3 7 7 .
五 批 判 説 の 問 題 点
社会的責任の概念に対する批判は,これまでみてきたように,一般に,方 法論的観点,企業機能的観点,および責任体制的観点からなされており,本 稿ではとりわけ,企業機能的観点からする責任概念批判についてその内容を 眺めてきた。責任概念へのこれらの批判がそれなりの芯義を有することは,
否定しえないであろう
o企業は社会の経済プロセスにおいてその第一次的な 存在怠義を有するのであり,社会的責任もこのことを念頭に置いて規定され ねばならない
Dまた,責任休 f i I
Uの問題への考ほも責任の主張に際しては不可 避であるといわねばならない口
それにもかかわらず,責任の存在を基本的に否定するところのそのような
批判説は,なによりも,それが現代企業および現代資本主義
4社会における不
可避的事物として社会的責任を把握していない点で[誤りであるどいえよ
う
D現代企業はその内外をめぐるさまざまなクツレープに対し強大な権力を有 するに至っており,ここからかかる権力に即応する責任の受け入れを社会か ら不可避的に要請されるに至っている
Q要するにそれは,その権力の適正な 行伎を通じて諸グノレープの期待に応えていくという責任を訟せられているの であり,責任の放棄は,企業が究板的には自律性を失うことになるのであ
る 。
(1)