マレーに於ける労働組合運動 39
マレーに於ける労働組合運動
前 川 忠 良
第一三 野二章 第三章 第四神 号五章
マレーに於ける社会構造と労働組合運動
印度人:Namyanan
マレー人La血Swee
申国人Lim Chin Siong
労働組合運動と政治情勢
第一章 マレーの社会構造と労働組合運動
(1) マレーシヤはシンガポールとともに,マレー人,中国人,印度人その他からなる複合 民族国家である。マレーの原住種族には,ニグリート,サカイ,プロト・マレイヤンの三 種族が残存し,マレー入自らもスマトラから移住して来たものといわれているが,マレー の人口はマレーの資源開発に伴って急激に増加して来た。1911年267万人にすぎなかった:
マレー半島の入口は,1941年560万人。1964年791万人に増加し,シンガポールを含めると 973万人に達する。
これを民族別に見ると,1953年統計によれば,マラヤ連邦内入口570万人申,中国人215 万入,マレー人280万人,印度人67万人であり,シンガポールでは,112万人中,中国人86 万人,マレー人14万人,印度人8万人であり,1964年統計では,マレー半島791万人中,
申国人287万人,マレー人391万人,印度人86万人,シンガポールでは,182万人申,中国 人136万人,マレー人25万人,印度人15万人と増大する。
これらの申,申国人,印度人の人口増加は,マレーに於ける錫産業,ゴム産業の発達に 伴う,中国本土及び印度からの労働移民であり,マレーの経済的発展は,主として中国人 に依存する面が大きい。
彼らは出稼人であったため,移入する者と同時に本国に帰還する者もあり,人口もかな り流動的であったし,現在でもマレー,シンガポール内で流動する人口は相等数(約10%〉
あると考えられている。中国人,印度人は中国本土や印度からの出稼人であったために,
男女の人口比は極めていびつであった。1921年には,中国人男子84万人に対し,女子32万 人,印度入男子33方人に対し,女子13万人であり,1931年に於ても,その不均等は或程度 緩和されているが,同様の傾向が見られる。
かくの如く,複雑な民族構成が国内の政治,経済その他,凡ゆる面に種々の影響を与え,
労働組合運動についても同様であることは否定し得ない。
民族の差異,従ってまた,言語の相異,宗教の相異が,世界的な政治,経済の複雑な情 勢を反映し,更に思想的問題の介入は,事態を益々複雑な問題として現われさせる。
こ〜に一応,マレーに於ける諸民族の職業についてのおおよその傾向を見ることは決し て無意味ではないだろう。
マレーは謂ゆる華僑の最大の中心地であり,南洋全華僑人口800万乃至900万人の申,
マレーシヤには380万を擁し,特にシンガポールは136万人を数える。その他,タイ国 260万人,インドネシヤ,比島,印度支那半島等に及んでいる。中国人は民族的団結が強
く,東南アジアに於ける経済的支配力は極めて大きいと云わねばならない。彼らは仏教,
儒教を信じ,錫鉱山の開発,ゴム農園の開発等に伴って苦力として移入して来た。もちろ ん,商人資本としてマレーシヤに進出する場合も多いが,次第に蓄財し商人として都市に 蝟集し,製造業,会社事務員等各種産業に進出しており,現在もその勢力は見逃し難いが,
マレーに於ける錫鉱山の初期の開発の多くは,華僑によって展開されたと云って良い。
しかし,300年にわたる植民地化による欧州人の経済的支配と比較すれば,尚相等の開 きがあることも事実である。例えば,ゴム・プランテーションに於ける所有面積は,5.5 百万エーカー中,欧州人が83%に対し,中国人は14%にすぎないし,錫鉱山に捨ても,そ の全牛堀量の50%が欧州人によって生産され,かつて優位を誇った中国人によるそれは40
%以下に低落して来た。
また,その原鉱の販売先である錫製錬会社は欧州系のEastern Smelting Co.と,中 国系のStraits Trading Co・によって行われるが,貿易部門に於ては欧州系が圧倒的で あり,中国人はその下請機関としての集荷及び配給販売の役割に甘んじているにすぎない。
また一般製造工業部門や銀行会社等の事務部門に於ても,その占める地位は一般に高く,
かつ全従業員の80%乃至90%に及ぶ場合が多い。中国人は一般に勤勉であり,教育水準も 高く,商才にとみ,マレーに於ける申堅層以上の地位を構成している。
印度洋は中国人と同様移民による増加であるが,英国政府がその植民地支配の時代から,
マレーの開発に印度人労働者を歓迎する移民政策をとって来た。彼らは印度南部から移住 したタミール族等を申心とし,主としてゴム栽培業に従事しているが,ペラ州に於ける錫 鉱山労働者も多い。都会に於ては,道路人夫,ガードマン等低級労働に従事し,小売業を 営む者も多い。
特に彼らは,語学に於て秀れた才能をもち,弁護士,学校の教師,労働組合の幹部等に 多いし,また,マレー生れの印度人には,Chettiesと称する高利貸業者が居る。
しかし,印度人社会には,,今なお,カースト制が強く残存し,身分,職業を支配し,掃
除人は掃除以外には,料理人は料理以外は一切働こうとしない者も多く,シンガポール在
住日本商社の人は,家庭内の仕事をして貰うためには,傭人を3,4名を必要とするという
嘆きとなって現われる。合理主義的近代企業にとっては,印度人やマレー人の回教,ピン
マレーに於ける労働組合運動 41 ズー教等の宗教上の戒律や,社会制度は雇傭上の障害となって現われている。
これに対して,マレー人は,零細農民,漁民,またゴム下等の労働者に多く,主として 地方に住み,都会に於ては一般職業としては,極めて低級な場合が多い。主として,自動 車の運転手や土工等に従事し,事務員や工場労働者は極めて少い。マレー人は一般に教育 の程度も低いが,決して彼らが無能力でないことは,いろいろの場所で見出すことが出来 る。われわれが見た,Malaya Sugar Companyでは,マラヤの東部地区の田舎から採 用した数十名のマレー人は,一般労働者と変りなく作業しており,特に公務員は主として マレー人をもってあて,そのマラヤ政府の能率の高いことは,日本の行政官庁と比較する と格段の相異があり,殆んど即決で決定されることが多いと,駐在日本人銀行員の述懐を きくことが出来る。他面彼らが回教を信じ,正月の一ケ月断食は仕事の能率を極度に低下 させ,近代企業の雇傭対象になり難い点もある。
(第一表) マラヤ,シンガポールの労働者 G955年)
マ ラ ヤ シンガポール
産 業
農業(ゴム,その他)及び林業 鉱 山 子 造 業 建 築 ・土 木 商 業 及 び 金 融
通信及びサービス
私 立 学 校 教職員 家 政 婦 公 務 員
429,000 44,000 46,000 35,000 107,000 55,000 15,000 50,000 208,000
労働者(熟練労働及び漁夫) 120,000
商 店 員 65,000
バス運転手,タクシー運転手,その他 ! 1LOOO
、
Licensed hawkers 10,000
Clerk,家政婦,ホテル従業員等 234,000
最近Dr. Victor Purcellの行った国民所得統計によっても,マラヤ連邦国民所得の配
分は,人口数に逆比例し,人口比率1.8%の非アジア人(大部分はイギリス系)が43%を
占め,人口比率36。9%の中国人が36.8%,人口比率11.2%の印度,パキスタン人が8%を
占めるのに対し,人口50.1%のマレー人が,国民所得の4.3%を占めるにすぎない。それ
によっても,マレー人大衆の貧困,中国系住民の経済的勢力,及びイギリス人による搾取
の実態を知ることが出来,1人当り所得に単純に逆算すれば,マレー人所得11に対し,印 度人9倍,申国人12倍,イギリス人300倍ということになる。このイギリス人300倍という 数字は,必ずしも現実にマレーに在住するイギリス人の収入であることではなく,おそら
く本国送金を含めた利潤総額であろうが,経済的支配勢力の実態を知ることが出来よう。
マレーを構成する多民族の言語,宗教,風俗,習慣に至るまで,その異質性は種々の問 題として経済閥題に波及し,職業別相異や,所得格差の存在は,労働組合運動にそれぞれ のニュアンスをもって反映し,かつそれちが政治問題として表面化して来るのは当然であ
ろう。
かつて,昭和[16年12月8日,日本が米子に対し宣戦を布告し,同日大マラヤ作戦を展開 し,コタバル,シンゴラ,パタニに上陸,1130Kを突破し,昭和/7年2月15日シンガポー ルを陥れ,英軍パーシバル将軍は降伏した。日本は約3ケ月の問に,香港,比島,インド ネシヤ,ビルマを占領し,東南アジアの主人となり,英軍の戦死乃至捕虜は,16万6千人 に及んだ。
第二次大戦に於ける日本を一方的に罪悪視するのは勝者の論理であり,戦後日本はあげ てその論理に従ったが,大戦は所詮帝国主義諸国間の対立の爆発にすぎなかったし,持た ざる国の帝国主義的既得権益に対する抵抗が,却って,三三の日本圧迫を強化した結果で
もあった。
「暴慢不正義なる英国を掃蕩し,万民苦楽を共にし,有無相通じ,各民族各個人各々そ の能力に応じてその処を得しむべき,所謂八紘一宇の大精神に基き,正義のもと新秩序を 整へ,東亜共栄団を確立して世運の進歩を促進せしめんとするに外ならない。」という占領 日本軍の声明は,単なる宣伝文句であったとしても,戦後東南アジアの独立運動に多大の 影響を与えたことは否定し得ないし,大東亜戦争が世界史の一つの転機として重要な役割
を果した。それは数百年に互り,植民地としてしいたげられて来た有色人種に,民族的自 覚を与え,白人種による経済的支配からの脱却を試みさせる歴史的契機であった。
日本はマライ半島占領後,シンガポールに軍政本部を設け,各州の軍政部支部を統轄し,
安定と建設工作に従事したが,先づシンガポールに於ける中国人虐殺としてあらわれた。・
日本と申国は1937年以来戦斗状態にあり,南方華僑は経済的にも精神的にも中国本土に対 する援助を惜しまなかったし,マレー,シンガポールでも決して例外ではなかった。従っ て,また彼らは英国軍にも協力した。日本はシンガポール降伏後,華僑の敵対行動を弾圧 し,特務機関,憲兵,警察,軍隊の力で,対日反対行動や意見の疑ひある者を訊問し,拷 問し,殺害した。華僑義勇軍長葉焼玉は処刑された。しかし,日本がマレーを支配するた めには,回国華僑の協力が必要であり,既に引退していた南洋華僑の長老下文慶を華僑総 会団長に祭りあげ,対日協力体制を強制した。
マレーは他の占領地に比較して,比較的迅速に安定化に向つたが,それは主として,マ
レー人,印度人の協力に負うところがあった。印度人は5万の義勇軍を組織し,日本軍と
々レpに於ける労働組合運動 43 ともに印度解放のためイラワジ河を渡り,インパールに於て潰滅した。
また,マレー人による最初の政治結社は,1926年のマライ連盟であり,1940年に結社登 録し,党首イブラヒム・ビン・ヤーコブと,そめ青年同盟800人は日本軍上陸とともに,
藤原機関と協力してシンガポールを攻撃し,イブラヒムは,マライ義勇軍隊長となった。
マレーに居住する諸民族の現在の対日感情は,種々判断する方法もあろうが,直接何人 かの人々に会った印象は,鴨る程度参考にすることが出来るだろう。クアラルンプールの 印度野幌で私に話しかけて来た印度人は,巧みな日本語で熱弁を振った。彼は日本軍占領 当時のマレー鉄道印度人部隊中佐だったと称し,今は道端に坐って自動車めナンバーを転 記する市役所の日傭人夫にすぎないが,自分達印度人が現在冷遇されているととを嘆き,
日本占領当時を懐かしがった。その日本語は20年前の1ケ年程に修得したもめであり,紙 片にかいて渡した名詞は,片仮名で明確に判読することが出来たが,彼が強く私に訴えた
ごとは,白人に対する憎悪と,日本に対する信頼であった。
われわれの短期間のマラヤ旅行で経験することは,マレー人の日本人に対して抱く親密 感であり,華僑についても屡々経験したところであった。
ペナンの街角にある飯屋のマレー人のおやじは,私の食事をのぞき込んでいる数人の子 供達に,「日本人は偉い。ラジオ,カメラ,自動車,なんでも作る。みんな勉強して日本 人のようになりなさい。」といいながらゴ日本の各大学の入学案内記を出して見せる。、また
クァラルンフ。一ル郊外の農園を訪れ,帰途道に迷った時,マレーの老人は,バスで市街ま で連れ帰り,バス代さえ受取ろうとしなかった。謹か百円の紙幣は,取組み合いに等しい やり・とりでも解決つかなかった。仲裁に入って来たのは,六尺豊かな申国人大人である。
彼は日本語で云う。「日本人は親切だ。」
最近に於ける日本のマレー進出も,非常に目立った現象となって,イギリス人に警戒心 を起させていることも事実である。ラーマン首相は北部米作地帯に於ける,日本人の米作 二季作技術指導に対して異例の表彰を行った。ペナンで訪れたマレー部落村長は,日本の 凸版印刷に留学し,若い秋田美人を新婦として連れ帰っていたが,そζには,6σ年も白本 に帰ったことのない90才の老婦人が,血縁のないマレー人一族に,非常に尊敬されて養育 されていた。ペナンでは,「人力車」と云う名の客用三輪自転車が走うている。
それらの事実は,アジア諸民族の日本人に対する経済的利害を越えたアジア人同志の親 密感の存在を否定することは出来ない。
(2) マレーに於ける労働組合運動について,政府は共産党非合法化のもとに,その勢力の 介入を極力警戒しつ\現在に及んでいるが,1962年末現在,The Trade Unions Ordin・
anceに基く登録組合数は299であり, Employers Union 12組合665名,:Federation of Trade Union 4組合, Unions in Trade&Industry gO組合171,247名, Unions of workmen employed by Government or by quasi・government bodies 197組合,
85,574名で,合計257,486名を擁している。農園労働組合としては,世界最大の組合,
The National Union of Plantation Workersに属する組合員は124,061名で,全労働 組合員の48%以上を占めている。組合員数2,000名以上の組合はつぎの通りである。(第二
表)
(第二表)
1.
2.
3.
4.
5.
6.
7.
8.
9.
10.
119 12.
13.
NationaI Union of Plantation Workers National Mining Workers Union of Malaya National Union of Commercial Workers, F.0. M.
Railwaymen,s Union of Malaya
War Department Civilian Staff Association Malayan Technical Services Union
Kesatuan Debangsaan Guru Sekolah K:ebangsaan, P。「T. M Central Electricity Board Employees Union
The East Coas℃Mining Industry Workers, Union NationaI Union of Teachers, F.0. M.
National Union of Telecoms Employees, F.0. M.
Harbour Trade Union, Port Swettenham Gvuernment Worker,s Union, Kedah/Perlis
124,061 8,503 7,801 7,499 4,8了6
3,696 3,144 2,814 2,728 2,371
2,280 2,i43 2,063
ホワイトカラーの労働条件は具体的に, (A)The:National Union of Bank Emplo.
yees in the:Federation of malayaとマラヤの銀行団20行との協約 (B)National Union of Commercial Workersとイギリス系15社との協約についてみるとつぎの通り である。
労 働 時 間
有 給 休 暇
年 次休暇
緊急 休 平 出 産 休 四 病 気 休 暇 医 療 補 助 入院費,手術治療費 時 閻 外勤 務
(A) 1 (B)
1週 6日 39時間労働
在勤切通未満14日10年以上21日 1醐7年未灘田年以上2旧
必要な場合考慮される 1賄ただし年間7日まで
ニ ケ 月 年間30日,肺結核に限り半年(そ の半年は給与半額,その後一年は 無給)
年間28日,事情によりこれを越え て考慮されることあり
嘱託医による診察,投薬は全額会社負担
轟立二等艘軌全額会社負1鴨。簾し年間28嘲500マラ
平日7時間,土曜日4時間の正味勤務時間を越える勤務時間1時聞に つき,本人時儀給(月給の駈 g)の平日5割増,休日伯割増
(註) 年次休暇の繰越も一定の条件で認められる。 (B)の場合には,海外旅行を目的とする場
合にのみ繰越が認められている。一般に年次休暇を利用せず,余すという習慣はない。
マレ・一に於ける労働組合運動 45 銀行従業員の給与スケールは大略次の通りである。G962年現在) (性別,.学歴,年令
による区別はない。)
Grade:肛初任給220マラヤドル (約26,000円)8年目まで毎年15マラヤドルの昇給,9 年目以降毎年16マラヤドル昇給,ただし9年目から通常Grade皿に昇格する。
Grade】1345マラヤドルにはじまり,毎年22マラヤドルの昇給,主任の地位についた者 にはGradelのスケールが適用される。
Gradel 520マラヤドルにはじまり, 6.年目まで毎年24マラヤドル昇給,7年目以降 毎年25マラヤドル昇給,たぼし最高790マラヤドル。以上はofficerと呼ばれる高級事務 職員を除く,一般事務職員(含タイピスト,電話交換手)に適用されるスケールであるが,
この他,運転手,守衛,掃除夫等労務系従業員に適用されるスケールは初任給110ドルに はじまり,10年目まで毎年6マラヤドル,11年目以降毎年7マラヤドルの昇給,最高給241 マラヤドルとなっている。(1964年末まで有効)その他,大学卒の初任給は一般に500ド ル〜600ドル程度である。物資が豊富で,物価も安いマラヤでは,日本の労賃水準より遙 かに労働条件は恵まれていると云えるし,マラヤ大学教授の給与は,われわれとは全く壌 較にならない高水準であった。
1957年には労働者階級98万9千人に対し,労働組合員は22万3千人であり,全労働者の 雛は労働組合に所属していないことになり,かつ,組合員の申號が組合連合に加盟し,そ の他は別個な組合の系列に入っている。 6つの指導的労働組合以外のマラヤに於ける労働 組合の平均労働者数は50人以下であって,法律的には6人以上であれば,組合を結成する
ことが出来ることになっている。
この情況は現在に於ても,大差ないものと考えられるが,労働者数の増加に比して,登 録組合員数はむしろ減少している傾向がある。
第二章 印度人Narayanan
マラヤには約30万人のプランテーション労働者が居るが,その殆んどがゴム産業従業員 であり,その中17万人以上が,プランテーション労働組合連合(National Union of pI antation Workers)の加盟者である。
マラヤ最大の労働組合National Union of Plantation Workersは,1954年11月に 結成され,Johore Plantation Workers Union, Alor Gajah Rubber Workβrsl Union, Perak Estate Employees Union, Malacca Estate Employee Union,
The Plantation Workers Union, Malaya,の五つの大きな労働組合が合併したもの である。
その中,最古にして,最大の組合は,The Plantation Workers Union, Malaya,で
ある。
それは,1946年に,印度系のP.P・:Narayananによって結成され,彼は現在もまた組 合連合会長の地位にある。
現在,The NationaI Union of Plantation Workersは全国に7ケ所の常設事務所 と70人の専従者を擁しているが,この組合はマラヤでは勿論,東南アジアでも特異な,か つ世界最大のプランデーショシ労働組合であり,1957年9月30日には,首都クアラルンフ。
一ル郊外の工場地帯Petaling Jayaに, National Union of Plantation Workers め本部として,プランテーション・ハウスを建設し,それは事務所は勿論,会議室,印刷 所を含む大規模なもので,30万ドルの建設費を必要としたといわれる。こ㌧の印刷所から は,週二回,タミール語,マレー語,中国語の新聞が発行され,発行部数では,タミール 語に関しては1万6千部でありgマラヤ最大のタミール語新聞の地位を確保している。
組合長:N肛ayananは,1923年に生れ,組合連合を結成した時は未だ32才にすぎなか った。1946年に,:Ne窪ri Sembilan印度人労働組合の仕事についたが,当時殆んどがそ うであったように一般労働組合であった。従って,その構成員には,プランテーション労 働者,公共機関労働者,鉄道員,金細工人,煙草労働者,その他の労働者を含むところの 印度人組合であった。三年たらずしてこの組合は,:Negri Sembilan Plantation労働 組合に発展した。
これに対して政府は,この組合が印度セミ族の民族的組合であることを指摘しジ凡ての 労働組合は一つ企業基盤によらなければならないことを告示した。
政府は労働組合制度を決定し,民主的産業組合や職業組合の急速な発展を計り,組合連 合は経済的要求を目的とすることだけに制限する法律が制定され,組合役員は書記を除い ては,所属組合の職業に3ケ年以上従事していることを条件とした。
このため共産党指導の組合との対立を激化し,また約100に達する組合が閉鎖され,最:
大の力を誇示した汎マラヤ労働組合連合もその条件に従うことが出来なかった。そのため 政治運動をも目的とした組合幹部は資金をもってジャングルに逃亡したため共産党指導の,
組合運動は潰滅した。
その結果,労働組合結成が凡ゆる民族を含んだ企業単位の組合への発展の道を切り開い た。それは他面共産党によって組織されていた一般的労働組合から独立して,企業労働組 合に経済的な権利を与えるものであったし,Narayananは,企業別乃至は産業別組合の 組織化のための指導者となった。
先づ,労働組合運動は印度人セミ族を基盤として次第に拡大したが,Narayananの目 的は一貫して,プランテーション労働者を一つの全国連合組織とすることであった。1952 年までに,印度:人セミ族のプランテーション労働組合の活動は,Perak州,:Kelantan州,
Trengganu州の三州を除く,全領域に拡大され,組合はThe Plantation Workers Union Malayaとその名称を変更した。
1948年の共産党ゲリラ化に伴い,6月16日マラヤ連邦,23日シンガポールに非常事態の
マレー・に於ける労働組合運動 47 宣言が行われ,一般の労働者やプランテーション労働者に脅威と疑惑とをもたらした。そ
して,果して政府が,労働組合運動を育成しようとしたのは真実なのかどうかに疑ひをも った。労働者の申には,非常事態宣言は、政府が組合を潰すためのものであると信ずるも のもあり,事実組合幹部の中では共産主義者がジャングルに逃亡したり,処罰されたりし た結果、潰滅するものも現われた。
Narayananはマラヤ大学に於て,労働組合主義の発展について講演したが,労働者は 組合員であることが.また組合員となることが,自動的にマラヤ共産党員であることだと 誤解する者も居り,戦後労働組合に対する政府の方針が,組合活動と政治との分離を目的
と一し,労働組合運動と共産主義活動とに対する政策は必ずしも同一でなかったが,共産主 義運動の政治的ゲリラ化は遂に非常事態宣言を生んだのである。
一般労働者は,労働組合に加入しておくことによって,雇傭主や警官との個人的紛争を さけることが出来るが,かくの如き事態に至っては逆に,労働組合から離れていることに かえって自らの安全を維持出来ると考えた。
従って,非常事態宣言はNarayananにとってぽ,労働組合主義の運動にとって大き な困難となって現われた。
彼は労働者の疑惑を晴らすため,組合指導者を派遣し,労働組合主義の意義を説得して 廻ったが,他方困難は組合内部が政治的抗争に捲き込まれていたことである。
労働組合員も,共産党と共に,ゲリラ活動に従事し,欧州系プランテーションの襲撃を 計った。ゴム園の作業は辺地の森林内に多く,tapperが作業する地域では,共産党ゲリ
ラが出没し,資金や食料を強要し,彼らがそれに従わねば殺害される場合もあり,ゲリラ を援助する結果となった。また一方共産党シンパが居たとしても,共産党員に物資を提供 したという罪によって,政府によって逮捕される者もあり,ゲリラと共に絞首刑にされた 者も多かった。これらの事は,多くの労働者を混乱させ,労働組合主義に対しても警戒的
となり,一般に悪影響を与えた。
もちろんこれらの困難の申に於て,単に組織の衰退を見たばかりではなく,他方組織上 の成功を得た場合もあった。
:Narayananは,非常事態宣言中のストライキについては,政府の弾圧による組合の潰 滅をおそれて反対の立場をとったが,例外的には,小規模の組合のストライキを支持した。
1949年に,ゴム価格の下落に伴い,資本家は賃金切下げを宣言レた。その時,27の企業別 組合が資本家に対抗するために,統一交渉委員会を組織し,Narayanをそのスポークス マンとして選出したが, このことは,必然的に:Narayananを指導者とする全国労働組 合結成の下:地を作るものであった。
労働組合主義運動の結果,労働者が得た成果は極めて大きい。ゴム・プランテーション
に於けるtapperの日々雇傭制が廃止され,ゴム園労働者の賃金は,1948年以来約5倍に
増加砺かつて休日がなかったのに対し2一週一日の休暇と,年四回の祝祭目,及び年6
日問の有給休暇が与えられることになった。また労働組合員が休日に働くことを経営者か ら要求されれば,その1.5倍の休暇を,祭日の場合には,2倍の休暇を得ることが出来る ようになった。
シンガポールからクアラルンプールまで,飛行機の上から地上を眺めると,おびた皮し いゴム園が地上を覆っている。tapper道路の渦巻き状のゴム園が,その植林年令が若け れば若い程明瞭に,可成りの成木林では一面の森林として眼下に広がり,幾つかの縦貫道 路に沿って,estateが点在し,事務所,ゴム処理場に並んで,数十軒の住宅の赤屋根が 整然と並んでいる。そこには近代的雰囲気を或る程度感じさせる農園形態がある。かつて の堀立小屋から,水道設備や,衛生管理が行われるestateに変革しつ㌧あることはうか
団われる。
Narayananはその意味で,典型的な労働組合主i義に徹底し,政治的三三を極力さける ことによって,世界一のプランテーション労働組合の結成に成功したものと云える。
そのことによって,印度人労働者の経済的地位は或る程度向上させることが出来たが・
マレーに於ける印度人の地位は必ずしも高いわけではなく,またマレー人主義的政府に対 してはoutsider的印象を免れないだろう。
第三章 マレー人:Lam Swee
:Lam Sweeは,錫鉱山の中心地,北部の工業都市Ipohの郊外に生れ,ゴム・フ。ラン テーションのtapper人夫として労働した。常々マレー人の生活程度の余りの貧困さに対 し,マレー人同胞の経済的・社会的地位の向上に一生を捧げようと志していた。彼は植民 地解放によって,マレー人を救おうとし,第二次大戦に際しては,共産党の指導するマラ
ヤ人民抗日軍に参加した。その意味では,マラヤ人の政治組織であった青年同盟の義勇軍 に入って日本軍に加担しなかった点は,むしろ例外的な感じを抱かせる。彼は,当時日本 と交戦状態にあった中国の南方華僑組織による人民抗日軍によって,英国に加担する結果 になった。日本の降伏によって平和がよみがえり,労働組合運動が公認され,彼は労働者 により多くの食物・生活条件・社会保障を提供出来ることを希望した。彼はJohoreに於
・ける一般労働組合代表となり,後,労働組合汎マラヤ連合のsecretary genera1となり,
また副会長に選出され,その他,港湾労働組合の役員,Selangor StateHolders Union の代表でもあった。
彼は共産党幹部としてはi数少い労働組合出身者であった。彼は「非常事態宣言」後共産 党の命令で,彼の労働組合活動を放棄し,ジャングルに潜入し,南ジヨホールの政治委員 となった。ジヨホールはシンガポールに隣接し,革命に於ける重要な拠点の役割を荷って いた。彼の首には1万ドルの賞金がかけられた。
・しかし問題は,:Lam Sweeの本質は,民主々義労働組合主義の信奉者であったことで
ぐレーに於ける労働組合運動 49 ある。共産党はゲリラ活動に於て,共産党に非協力の労働者に対するテロによる脅迫政策 を行ったが,彼はそれを非難する誤りを犯した。彼はマラヤ共産主義が暴力に基礎づけら れて,議論や説得による活動でないことを悟るまでは,組合主義者であったし,組合主義 者であることによって,同時に共産主義者であることが出来ると考えていた。マラヤ共産 党はゲリラ活動に変り,テロを重要な手段とする方向をとった。彼がその地位から追われ,
気づいた時には,連発拳銃は持ち去られ,彼らの監視下にあった。彼は政府の懐柔政策と してのゲリラ投降者に対する特赦令を生命の唯一のきずなと・して逃亡し,クアラルンプー ルの英国の刑務所に送られる運命となった。
Lam Sweeは1950年12月に,政府に投降した最:も重要なマラヤ共産党員である。かつ てゲリラ部隊の指揮者であり,重要な共産党の政治委員であった。しかし彼は天性の労働 組合主義者であり,彼は早口に,情熱的に,もし労働組合が一・般市民の生活水準を向上さ せることが出来るならば,その申で共産主義者と協力する決意であることを主張していた が,次第に共産主義者の教義と民主々義的労働組合とは相入れないことを発見した。
従って,もし共産党と絶縁しても,植民地に於ける民主々義的労働組合の組織化が可能 であるという考えをもつようになった。
戦後,英国政府によって,労働組合設立勧告委員会が設立され,非常事態宣言が行われ る6ケ月前に,英国の組合主義者,AuberyとDaUeyが招聰された時には,マラヤでは 既に多くの労働組合が設立され,共産党が支配していたのである。共産党は革命運動を実 行する前から,労働組合運動を支持することに重点をおいていた。1945年12月に英国がマ
ラヤに帰って来た時,共産党は錫鉱山やゴム・プランテーションからキャバレーに至るま で,商業も工業も含めて,様々な中核組織を作りあげていた。
共産党は労働者と常に密接に接触して,何時でも,喜んで,労働者の要求を満すことが 出来ると考えていた。1946年には,共産党はマラヤの労働組合を通じて,全種族の労働者
(第三表) (第四表)
マラヤ連邦に於けるストライキ シンガポールに於けるストライキ (1947〜1956)
年度ス・ライキ階働鷲
1947 1948 1949 1950 1951 1952 1953 1954 1955 1956
291 181 29 48 58 98 47 77 72 213
696,036 370,404 5,390 37,067 41,365 44,489 38,957 50,831 79,931 562,125
年 度 1ス・ライキi 労働喪姦
1946 47 851,937
1947 45 492,708
1948 20 128,657
1949 3 6,618
1950 1 4,697
1951 9 20,640
1952 5 40,105
1953 4 47,360
1954 8 135,206
1955 275 946,354
1956 29 454,455
馳