第 章 マ ク ロ 安 定 化
第 1 節 は じ め に 周知のように、1980 年代のラテンアメリカ諸国やサブ・サハラ諸国は、深刻なマクロ不均衡 に直面し、対外債務問題やインフレーションの高進を経験した。こうした事態に対して、世界 銀行やIMF主導の「ワシントン・コンセンサス」と呼ばれる経済調整が実施され、マクロ安 定化とミクロ的側面における構造調整が試みられてきた。 一般的に、マクロ安定化はミクロ的な側面での構造調整の前提条件であるとされる。マクロ 的不安定、とくにインフレーションは、価格の高進と変動をもたらすことによって、価格が市 場の正しいシグナルとなることを妨げ、資源配分を誤らせるからである。インフレーションに よって非効率的セクターへの資源配分、金融仲介機能の低下、実物投資から財テク投資へのシ フトなどが深刻となれば、経済のダイナミズムが失われる。また、対外不均衡の悪化は、為替 制度の崩壊と資本逃避をもたらし、保護貿易政策を復活させるなどの問題を有しており、構造 調整の進展を妨げる。したがって、安定化から構造調整へという順序が望ましいと示唆される。 インフレーションが抑制され価格メカニズムが機能する条件が整えば、自由化、規制緩和、 民営化など、政策的ディストーションの排除によってミクロ的な構造調整が可能となる。構造 調整は、①自由化が資源配分の誤りによる静学的な非効率性を減少させる、②学習効果、技術 変化を可能とし、経済成長を促進する、③自由化されたシステムは対外的ショックの克服に有 利である、④資源配分を歪めるレントシーキングの余地を少なくする、などを実現すると期待 され(Rodrik[1995],p.2927)、本書の課題である経済開発にとって極めて重要な役割を果たす。 この意味で、構造調整の前提条件であるマクロ安定化は経済開発にとっても重要な要素である といえる。 以下では、まず第2節で途上国で典型的にみられるマクロ的不均衡とインフレーションの発 生メカニズムを説明し、第3節では安定化政策の諸類型を検討する。さらに、第4節で安定化 政策を実施する上で考慮されなければならない様々な問題点について議論する。 第 2 節 マ ク ロ 不 均 衡 と イ ン フ レ ー シ ョ ン分析のための基本モデルとして、自国財需給均衡(国内均衡)と経常収支均衡(対外均衡) の2つの政策目標をもち、実質為替レートと財政赤字という2つの政策手段1をもつ経済を想 定しよう(Dornbusch[1986])。実質為替レート(名目為替レート×ドル建外国財価格/自国通 貨建自国財価格)は輸出、輸入を通じて国内需要と貿易収支に影響し、財政赤字は主として投 資需要を通じて国内需要と輸入需要に影響する。図□−1上段の縦軸と横軸にはそれぞれ実質 為替レート(θ)と財政赤字/GDP比率(d)がとられている。 まず、国内均衡を実現するθとdの組合わせを示すI曲線について説明しよう。実質為替レ ートの切下げ(図では上方向への変化)は、自国財が外国財に比べて相対的に安価となること を意味するので、自国財への需要が増加する。このとき、実質為替レートが切り下げられたも とで、一定の供給能力(完全雇用水準)に対応する国内均衡を維持するには、自国財への需要 を低下させるために財政赤字の縮小が必要となる。したがって、国内均衡を示すI曲線は右下 がりとなる。I曲線の右側では超過需要(ブーム)となり、逆に左側では超過供給(失業)と なる。一方、経常収支均衡を実現するθとdの組合わせはF曲線で示されている。財政赤字の 拡大は輸入の増加をもたらすため、貿易収支赤字が増加する。このとき、経常収支の均衡を維 持するためには、実質為替レートの切下げによって輸出の拡大もしくは輸入の減少が必要であ り、したがってF曲線は右上がりとなる。F曲線の右側は経常収支赤字、左側は黒字の領域と なる。このような経済では、よく知られているように政策割当の原則から、政策目標と政策手 段の数が一致しているので、政策手段を変化させることによって2つの政策目標を同時に達成 する均衡点Aを実現することができる。 ところで、多くの発展途上諸国では構造的な財政赤字に直面している場合が多い。深刻な貧 困問題や所得分配問題から政治的・社会的不安定に直面している政府は、政権維持のために再 分配政策や社会関連分野での多額の政府支出を強いられている。また、高成長を目指して政府 主導型の開発政策を強力に推し進める場合、政府投資、公共投資が過大となる。他方で、租税 体系が不備で、特別の政府収入源を持たないため、財政赤字が硬直的となる。いま、単純化の ために、これらの財政赤字の水準(d1)が実質為替レートとは独立であるとすると、こうした 財政赤字の水準は垂直なD線として表現される(西島[1993],p.145)。したがって、D曲線の 左側は政治的不安定もしくは低成長、右側は政治的安定もしくは高成長の領域となる。 ところで、政府がこの政治的安定化のために財政赤字を優先的に使うとすると、いまや政策 的に実行可能なのは線分BC上の領域だけである。政策割当の問題でいうと、政策目標が1つ
増え、しかもこの目的のために政策手段の一つが使われてしまうので、残る2つの目標を1つ の手段で実現しなければならないことを意味する。B点では超過需要が、C点では経常収支赤 字が存在し、2つの目標を同時に達成することはできない。 いま、政府が失業を回避するために国内均衡を維持し、D線に対応する財政赤字が存在する とすれば、C点のみが選択可能な点となり、経常収支赤字が発生する。いうまでもなく、海外 資金の流入によってこの経常収支赤字のファイナンスが可能であれば、何らの経済調整を必要 とすることなくC点を維持することができる。したがって、政治的・社会的安定性の観点から は、調整コストなしで高成長と国内均衡を実現できるC点がもっとも容易な選択となる。ただ し、C点を続ければ対外債務が累積していく。 以上のフレーム・ワークにおけるマクロ不均衡とインフレーションの関係は図の下段のイン フレ曲線(P曲線)で示されている。いま財政赤字がすべて貨幣発行によって補填されると仮 定しよう。ここで重要な点は、インフレ税と呼ばれる概念である。政府が財政赤字を補填する ために貨幣を発行するとインフレーションが高進し、民間が保有する貨幣の実質価値は低下す る。この貨幣の実質価値の低下は、民間から貨幣の発行主体である政府への一種の所得移転と なることを意味する。したがって、インフレーションは貨幣保有に対する一種の課税であり、 しばしばインフレ税と呼ばれる。なお、インフレーションの高進によって貨幣の実質価値が低 下すれば民間は実質貨幣需要2を低下させるので、インフレ税の課税ベースが低下することに 注意しておこう。 こうした状況下で、財政赤字の増加を貨幣の発行(すなわちインフレ税)でファイナンスす れば、貨幣発行によるインフレ上昇とともに民間の実質貨幣需要が低下するため、財政赤字の 増加にみあったインフレ税収入の増加を確保するためには、いっそうインフレ率を高めなけれ ばならない。このため、図においてインフレ率(π)と財政赤字(d)の関係を示すインフレ 曲線は右上がりの曲線として描かれている。しかも、一般的にインフレーションの高進ととも に民間の実質貨幣需要が加速的に低下するため、財政赤字に必要なインフレ税を確保するため には、インフレ率も加速的に上昇しなければならず、インフレ曲線は非線形となっている。 図において、d0の財政赤字の水準では、A′点で必要なインフレ税が確保されており、イン フレ率はこれに対応するπ0となっている。ここで、財政赤字がd1の水準まで拡大し、実物的 な側面がC点で実現されたとすると、貨幣的側面はC′点で表現され、インフレ率はπ1となる。 したがって、財政赤字の拡大は経常収支不均衡とインフレ率の上昇をもたらすことが理解でき
る。こうした状況は、1970 年代から 80 年代にかけて多くの発展途上諸国で大規模な政府プロ ジェクトに基づく開発政策が推進され、財政赤字の拡大とともに対外債務の累積とインフレー ションの高進がもたらされたことの図的な表現である。さらに、対外債務の返済負担が財政赤 字を拡大し、インフレ高進を深刻としたことも重要である。 ところで、P曲線はπとdの次元で描かれているので、財政赤字の拡大がインフレ曲線上に 沿ってインフレ率の上昇をもたらすことを示しているが、財政赤字以外のインフレ加速要因は インフレ曲線の上方シフトとして表現される。図においては、d1に対し、新しいインフレ曲線 P′ではインフレ率はπ2まで上昇する。インフレ加速要因としての典型例は、自国通貨への信 頼(クレディビリティー)の喪失、すなわち外貨(とくにドル資産)へのシフトである。この ため、ドルの保有が高まることによって、インフレ率とは独立に実質貨幣需要が低下すれば、 それだけインフレ税の課税ベースが低下し、より高いインフレ率が必要となる。1980 年代にラ テンアメリカ諸国が経験したハイパー・インフレの一つの解釈である。 第 3 節 イ ン フ レ 安 定 化 政 策 の 諸 類 型 いうまでもなく、C点のような状況は長期的には続けられないため、何らかの調整政策が必 要となる。オ ー ソ ド ッ ク ス ・ タ イ プ の安定化政策は、財政赤字の縮小と為替レート切下げを基 本とする。図においてはC点からA点への調整と表現される。しかし、このような安定化は一 般的に困難である。図より明らかなように、A点は一定の政治的・社会的安定を保証するD曲 線から左の領域にあり、政治的・社会的不安定化というコストを支払って経済調整を可能とさ せる政策に他ならない。しかも、価格の調整速度が遅い場合、需要抑制の効果がもっぱら産出 量の低下に反映され、長期間にわたり高インフレと低成長が引き続く。すなわち、価格の調整 速度が遅い場合とは、人々がインフレ率が高まることには疑いを持たないのに対しインフレ率 が低下することには懐疑的である、いわゆる下方に硬直的なインフレ期待が存在する場合や、 インフレ率に応じて制度的に諸価格が調整されるインデクセーションが存在し、インフレーシ ョンが慣性(イナーシ)を持つ場合である。したがって、従来から貧困問題をかかえる諸国に とっては、このようなオーソドックス・タイプの安定化政策は社会的、政治的に容認されがた く、その実施と放棄(ストップ・アンド・ゴー)を繰り返すことになる。 このため、調整コストを伴わないインフレ抑制策として試みられたのが、アルゼンチンのア
ウストラル計画(1985 年 6 月実施)や、ブラジルのクルザード計画(1986 年 2 月実施)、メキ シコの経済連帯協定(1987 年 12 月実施)など、ヘ テ ロ ド ッ ク ス ・ タ イ プ と呼ばれる安定化政 策である。このタイプの安定化政策は、賃金、物価などの凍結による所得政策によって、長期 間にわたり高いレベルで硬直的となっているインフレ期待を急激かつ短期間に鎮静化させ、実 物面のコストを伴わない形でインフレーションを抑制することを目的としている。 しかし、このタイプの安定化政策は恣意的な時点で諸価格を凍結するため、相対価格の不均 衡も固定され、ヤミ市場や抑圧インフレが出現し、凍結解除への要求が時間とともに強まる。 しかも、財政緊縮を伴わないのが一般的であったため、市場でのインフレ圧力が高まり、当初 沈静化していたインフレ期待も再燃し、いずれ凍結解除が不可避となる。価格凍結が解除され ればその反動としていっそうインフレ率が高まることとなる。しかし、政治的要因から他に有 効なインフレ抑制策を持たないため、同じヘテロドックス・タイプの安定化政策の実施と失敗 が繰り返され、最終的には安定化政策の失敗とともに政府へのクレディビリティーが失われ、 自国通貨からドル資産への急激な転換が生じ、ついにはハイパー・インフレの出現となる。図 においては、同じ財政赤字の水準d1であっても、インフレ曲線がクレディビリティーの喪失と ともに際限なく上方にシフトしていくことで説明される。 しかしながら、1990 年代に入ると、多くの諸国でインフレーションは急速に沈静化すること となった。この 90 年代のインフレ抑制策の一つの特徴はノ ミ ナ ル ・ ア ン カ ー 政 策 である。具体 的には、為替レートを固定化することによって諸価格のアンカー(碇)とし、急激なインフレ 抑制を実現しようとするものである3。為替レートを固定化すれば、十分に対外的に開放され た小国の場合、貿易財(国境を越えて取り引き可能な財)のインフレ率は世界の貿易財のイン フレ率にまで低下する。一方、非貿易財(サービスなど国際取引が不可能な財)に関しては依 然としてインフレ圧力が継続しているため、貿易財と非貿易財の相対価格の変化(非貿易財価 格の相対的上昇)が生じる。このため、非貿易財に対する需要が低下するのに対しその生産は 増加するので、非貿易財は超過供給となり、非貿易財価格は低下し始める。かかる調整が進め ば、非貿易財価格もいずれ世界インフレ率と等しくなり、インフレ抑制が達成される。 しかし、為替レート・アンカーに期待される役割はこれだけではない。長期間にわたり高イ ンフレを経験し、過去の度重なる安定化政策の失敗を経験してきた国においては、安定化政策 へのクレディビリティーが失われており、インフレーションにともなう実質所得の損失を防ぐ ための様々な行動が支配的となっているが、これらの行動に対してアンカーが直接的に影響す
ると期待されることである。様々な行動とは、インフレ期待の調整が下方に硬直的となること、 ブラック・マーケットの為替レートをインフレ予想の指標とすること、インデクセーションを導 入すること、ドル資産を保有することなどである。これらの行動自体が、いっそうインフレ率 を高めるかインフレーションを継続させる基本的要因であった。したがって、為替レート・ア ンカーは、価格の基準値を設定することによって民間のクレディビリティーに直接的に働きか け、インフレーションを瞬時に終息させると期待されるのである(西島[1996])。図において は、クレディビリティーの回復とともに実質貨幣需要が拡大し、インフレ曲線Pを下方にシフ トさせることで表現される。 第 4 節 マ ク ロ 安 定 化 の 課 題 しかし、一時的にアンカー政策によってクレディビリティーを回復させても、長期的な安定 化は保証されない。世界価格と整合的な財政・金融政策が実施されなければ、いずれ国内価格 と世界価格の乖離によって為替レートの過大評価が生じ、このため対外不均衡が深刻となれば 為替アンカー政策を維持できなくなるからである。しかも、アンカー政策によってもマクロ的 不均衡が解消される訳ではない。為替レート・アンカーが機能している間に、財政健全化と同 時にミクロ面での構造調整を実現しなければならない。 こうした状況を図で表現すれば、財政赤字の縮小によってd曲線を左にシフトさせると同時 に、I曲線とF曲線の右方向へのシフトによってマクロ的不均衡を解消することで示される。 すなわち、政府の市場介入を改め、市場メカニズムに立脚したミクロ面での構造調整によって、 国内の生産能力を拡大し(I曲線の右方向シフト)、輸出競争力を強化すること(F曲線の右 方向シフト)に他ならない。したがって、マクロ安定化とマクロ不均衡の解消には、財政改革 などマクロ面での課題のみならずミクロ面での改革も有効であるといえる。同時に、両曲線の 右方シフトによって財政赤字の縮少に伴う社会面への影響を緩和することが期待されるのであ る。こうした認識は、1990 年代に入り多くの発展途上諸国で「新自由主義(ネオリベラリズム)」 に基づく抜本的な政策改革が実施されたことの一つの背景であった。 しかし、このような抜本的な政策改革を持続させ、最終的にマクロ安定化という目的を達成 するためには、解決すべき多くの課題が存在することも事実である(西島[1997])。以下では、 いくつかの重要な問題を議論しておこう。
( 1 ) 政 策 間 の 整 合 性 の 問 題 まず問題とすべきは、政策間の整合性である。非整合的な政策が実施されれば、安定化や政 策改革の持続が困難となる。典型的な例として、既に見た財政改革を伴わないヘテロドックス・ タイプの安定化政策がある。さらに、今日、為替レート・アンカーを採用している諸国の問題 として重要なのが、貿易自由化と安定化の関係である。一般的に、貿易自由化は関税などの貿 易障壁を低下させ、輸入価格を低下させると同時に、輸入財産業の競争を促進させ、一般物価 を低下させる要因となる。また、国内市場での規制の排除や競争促進政策は、独占企業の市場 支配を弱めるため、インフレ抑制に有効である。この意味で、自由化は安定化と補完的である。 しかし、自由化すれば輸入が拡大するのに対し、競争力が速やかには改善しないため輸出の拡 大が遅れることから、貿易収支が悪化する。このため、為替レートの切下げが不可欠となる。 だが、為替レートの切下げは、為替レートをアンカーとしてインフレ抑制に機能させている 場合には問題となる。インフレ抑制の途中での為替レートの切り下げはアンカー政策の放棄と みなされ、安定化政策のクレディビリティーが失われる。このため、安定化の初期には為替レ ートの切り下げがなされず、過大評価が維持されるのが一般的である。しかし、過大評価が極 めて深刻となるか、外国資金流入が何らかの理由で滞れば、市場はこれ以上アンカー政策を維 持し得ないと判断するため激しい資本逃避が発生し、安定化政策は深刻な危機に直面すること となる。1994 年末のメキシコの金融危機が典型的な事例である。 安定化政策や政策改革の実施においては、アンカー政策と自由化の問題のみならず、種々の 政策間で整合性が保たれることが要求される。すなわち、インフレ目標、貨幣供給成長率、為 替レート切下げ率、財政赤字の水準、経済成長率、貿易収支などの間の整合性を保つことであ り、そのためには、それぞれの分野における改革のスピードやその程度が適切でなければなら ない。しかし、現実には、複雑な改革プロセスのなかで整合的な政策の組み合わせを見つけ出 し、それを実施することは極めて困難であり、発展途上諸国で現在試みられている多くの政策 改革においても重要な課題となっている。 ( 2 ) ク レ デ ィ ビ リ テ ィ ー の 問 題 政策改革が成功するか否かは、民間の政府もしくは政策改革自体への信頼(クレディビリテ ィー)に決定的に依存している。クレディビリティーが欠如すれば、民間は改革にそった調整 へのインセンティブを持たず、改革の持続を困難とする。例えば、人々が自由化が一時的でい ずれ挫折すると予想すれば、インフレ期待を変更しないであろう。また、改革へのクレディビ
なされなければ、ミクロ的な調整が進展せず改革が成功する確率を低める。さらに、このこと 自体がクレディビリティーを低下させるという悪循環が生じる。 ところで、政策改革へのクレディビリティーが喪失するのは、様々な理由に基づく。既に述 べた政策に非整合的が存在する場合が重要であるが、この他にもいくつかの理由が存在する。 まず、政策改革が持つグループ間での分配効果である。そもそも所得分配が不平等で社会的・ 政治的不安定性を内包する諸国にあっては、この分配効果によって政治的対立が深刻化する状 況となれば、民間はいずれ改革が放棄されると予想するであろう。また、重要な政策項目が途 中で変更もしくは中断される場合にも、深刻なクレディビリティーの低下が生じる(いわゆる ダイナミック・インコンシステンシーと呼ばれる問題である)。すなわち、民間が改革に反応 した(例えば、投資をおこなった)後で、改革開始時点での政策が政策当局にとって最適では なくなり、当初に意図された政策が変更されるケースである。具体的な事例としては、改革で 設定した財政支出のシーリングを破る場合、自由化実施後に輸入競争産業などの苦境にある産 業を救済するためにいったん引き下げた関税を再び引き上げる場合などである。このような場 合、民間が政策項目の変更を改革自体の重要な変更であると見なせば、政策改革へのクレディ ビリティーは失われる。 結局、政策改革のクレディビリティーを高めるためには、政策的整合性の維持がなにより必 要であり、さらに政府が一貫した政策を堅持する規律と能力を有することが必要である。同時 に、経済閣僚の頻繁な交代や汚職などの不正を防ぎ、政府の規律を高め、政策に対する支持を 強めるべきである。 ( 3 ) セ ク タ ー 間 の 対 立 安定化政策や政策改革は、いかに経済全体として有益であっても、必ずや調整コストと所得 再配分の効果を持っている。しかも、改革のコストが比較的すばやく現れるのに対し、改革の 成果が現実のものとなるにはタイム・ラグが存在する。また、より重要な問題は、コストが均等 に各セクター間に配分されないため、深刻なセクター間、階級間の対立を生み出すことである。 多くの発展途上国では、セクター間、階級間の対立は激しく、政治的に安定しているとは言え ない。しかも、現在多くの諸国が民主的政治体制の確立期もしくは移行期にあり、このような 時期においては、政治的にも経済的にも不安定化しやすい傾向にある。 政策改革が各グループに異なるコスト配分をもたらし、政治的抵抗を激化させる場合、安定 化や改革の遂行は困難となる。改革への抵抗は、単にロビー活動、投票行動、ストライキのみ ならず、資本逃避、争乱など、通常の政治的チャネル以外の方法にも訴え、自らのグループの
対抗しなければならないが、長期的にはいかに反対勢力との政治的連帯と協調を作り上げるか が重要となる。このためには、勝者(winner)からの政治的支持を高めると同時に、敗者( loser) のウエイトを小さくするか補償を行うことが要求される。 以上のような問題を考慮すれば、画一的な安定化や政策改革ではなく、各国の社会的・政治 的背景をも十分に考慮したうえで、改革の速度・順序・範囲などに関して適切な政策デザイン がなされなければならないこと、また改革の追求とともに社会的公正を維持し階級対立を緩和 することが、結局は成長を保証する政策改革を実現すると結論しうる。この点において、安定 化政策もしくは経済改革の遂行をより確実なものとするためにも、社会的公正と社会的安定化 を実現する政府と制度の役割が重要となってくるのである。 第 4 節 お わ り に こうした課題を達成するためには政府の能力と制度の機能が高められなければならない。 最近の東アジア諸国に関する考え方によれば、東アジア諸国の成功はたんに市場メカニズムだ けに帰するのではなく、一定の政府や制度の役割があったことが認められている。しかし、問 題は、ラテンアメリカ諸国やアフリカ諸国に東アジアで機能したような政府と制度が存在する かということである。なぜ他の諸国では、政府の介入は失敗してきたのであろうか。東アジア 諸国ではミクロ的な政策介入が失敗しなかった理由として、「政策立案者に民間部門と官僚機 構に規律をもたせる特別の能力があった」(Rodrik [1996,p.19])ことは明らかである。 しかし、ラテンアメリカ諸国やアフリカ諸国は東アジア諸国と比較して以下の理由で政府、 官僚機構に問題があるといえる。 ①所得分配が不平等な社会では、各グループが自らの分け前を大きくするためにレントシー キングへのインセンティブが強く、民間、政府、官僚機構の規律を失わせる。 ②階級・グループ間の対立は、各グループからのロビー活動や政治的圧力によって経済政策 を偏向させ、整合性を失わせる。 ③社会的安定のために再分配政策に迫られ、財政赤字によるマクロ不安定を結果すると同時 に、資源が蓄積に向けられないため成長を低める。 したがって、ラテンアメリカやアフリカに関しては市場を補完する政府の介入と制度的枠組 みがいかなるものであるかについて十分な議論が必要である。少なくとも、東アジアとまった く同様の政府介入の方法が他の発展途上地域でも有効であるとはいえないであろう。様々な領
アフリカにおける政府の役割、制度の役割とは何かについて明らかにすることは、今後の極め て重要な研究課題である。
参 考 文 献
・Corbo, V., and S. Fischer, “Structural Adjustment, Stabilization and Policy Reform: Domestic and International Finance, “ in J. Behrman and T. N. Srinivasan, eds., Handbook of
Development Economics, Volume IIIB, Elsevier, 1995.
・Dornbusch, R., Dollars, Debts, and Deficits, The MIT Press, Cambridge, 1986 (『現代国際 金融 ドル危機、債務危機、財政赤字』翁邦雄、奥村隆平、河合正弘訳、HBJ出版局、1988 年))
・Rodrik, D., “Trade and Industrial Policy Reform,” in J. Behrman and T. N. Srinivasan, eds.,
Handbook of Development Economics, Volume IIIB, Elsevier, 1995.
・Rodrik, D., “Understanding Economic Policy Reform,” Journal of Economic Literature, Vol.34, March 1996.
・Sachs, J and P. Larrain, Macroeconomics: In the Global Economy, Prentice-Hall, New Jersey, 1993. ・西島章次「安定化・為替レートアンカー・クレディビリティー」『国民経済雑誌』 第 173 卷 第 3 号、1996 年 3 月 ・西島章次「新自由主義の課題−政策改革の持続性について−」(小池洋一・西島章次共編『市 場と政府−ラテンアメリカの新たな開発枠組み−』アジア経済研究所)1997 年 ・西島章次『現代ラテンアメリカ経済論−インフレーションと安定化政策』有斐閣、1993 年
第 章 囲み記事 1980 年代のハイパー・インフレ アルゼンチン ボリビア ブラジル ニカラグア ポーランド ユーゴスラビア 期間 89.5∼90.3 84.4∼85.9 91.4∼94.6 87.4∼91.3 89.10∼90.1 89.9∼89.12 指数 664.6 1028.5 1052.2 5.53(105) 3.69 5.18 平均月率 65.95 48.1 26.98 46.45 41.2 50.9 最高月率 196.6 182.8 48.2 261.15 77.3 59.7 注 :(1)指数はインフレ終了月の価格指数を開始月の指数で割ったもの (2)ブラジルに関しては FGV, Conjutura Economica 各号より筆者作成 出所:Sachs and Larrain[1993], p.730 より作成
1980 年代には世界各地でハイパー・インフレが生じたが、その原因は様々である。アルゼンチ ン、ブラジル、ボリビアで共通しているのは、従来からの構造的な財政政策に加えて対外債務 返済の深刻化が政府財政赤字を急激に悪化したことである。ニカラグアの場合は、内戦が直接 的な原因である。ポーランド、ユーゴスラビアは、計画経済から市場経済への移行過程におけ る混乱に起因している。しかし、いずれの場合もハイパー・インフレに一般的に見うけれられ る、①インフレ税による財政赤字のファイナンス、②ドル経済化、③インフレ・イナーシャの 消滅、④急速なインフレ沈静化、などの特徴を有している。
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1 現実に操作可能な政策手段は、名目為替レートと財政支出であろう。しかし、ここでは、固 定相場制が想定されており、名目為替レートを変更することによって外国財と自国財の相対価 格(実質為替レート)を変化させ輸出、輸入に影響することができると考えている。また、政 府の通常の租税収入を一定とすると、財政支出で議論しても財政赤字で議論しても変わりはなされているのである。 2 厳密には、実質貨幣需要はインフレ期待の関数として議論しなければならないが、ここでは 単純化のために現実のインフレ率と期待インフレ率が一致する長期均衡で議論する。 3 ノミナル・アンカーとして、貨幣供給成長率より為替レートが採用されるのは、①実質貨幣 残高は眼に見えないが、為替レートであれば中央銀行が何をなすべきか正確に理解できる、② 民間はノミナル・アンカーが維持されている限り、中央銀行が安定化政策を続けていることを 確認できる、③為替レートは直接的に輸入財価格に影響する、などの理由による(Corbo and Fischer[1995],p.2847)。