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ド」は19世紀前半を代表するモード誌である。

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La mode(ラ・モード)

 [Paris] : [s.n.],1829 −1862

 Hiler p.619−620 Colas 2070−2072 Lipper.4613

 19世紀はモード誌の黄金時代といわれ、数々の優れた雑誌が刊行された。なかでも、「ジュルナ ル・デ・ダーム・エ・デ・モード(Journal des dames et des modes)」(以下、 JDM)と本誌「ラ・モー

ド」は19世紀前半を代表するモード誌である。

 本誌が、モード誌として注目されるのは、この雑誌が1829年にジャーナリストのエミール・ド・

ジラルダン(Emile de Girardin 1806−1869)により創刊されたところにある。

 ジラルダンは19世紀初頭から中期までフランス・ジャーナリズム界で活躍した人物で、新聞等の 編集・発行に様々な近代的手法を取り入れ、ジャーナリズム界を先導したといわれている。ジラル ダンは本誌を創刊する前年の1828年に、「ヴォルール(Le voleur)」を刊行し、成功を収めていた。

この新聞は、当時売れていた大新聞から三面記事や実用記事などを切り抜いて寄せ集めたパッチワ

     ひようせつ 一クのような剰窃新聞であった。そのころ定期刊行物はまだ予約購読制であり、年間購読料を前払 いして購読しなければならず、労働者や新興の中小ブルジョワジーは幾つもの新聞を取ることは経 済的に無理であり、1紙に情報を満載した「ヴォルール」は、創刊号から爆発的に売れた。成功を収 めた彼は、「ヴォルール」の経験を生かし、地方役人の妻や女性読者がモード情報に飢え、渇望して いることに注目し、「ラ・モード」を創刊するに至った。

 帝政期から王政復古期にかけては、ランテ(Louis−Marie Lant6)の描く優雅なモードが誌面を飾る JDM(メザンジェール刊行)がモード誌の王座にあったが、七月革命を迎えるあたりから、さすが に時代の流れとともに、マンネリ化し売行きが鈍化していた。ジラルダンはそこに目をつけた,,

JDMの編集は、おしゃれをした人々が集まる公園や劇場などでそのモードをスケッチし、モードの 記録としての情報を提供していたが、ジラルダンは、単なるモードの観察だけではなく、観察した モードの批評を載せた。これまでのクチュリエや権力のトップにある者から発信されるモードをそ のまま受け入れる受身のモードではなく、自らがモードについて判断できる主体性のある知的な女 性をターゲットに、新しいモード誌を披露した。

 創刊当初の「ラ・モード」誌は、当時の女性文壇をにぎわしていたフェミニズムのエッセーや読 み物、モードの哲学、最新モLド情報と、モード画など34ページほどで、JDMより数倍の情報量が 盛り込まれていた。モード批評やエッセーには、当時まだ新人であったバルザックやジョルジュ・

サンド、フレデリック・スーリエらが名を連ねている。モード誌に新鋭な思想が登載されたのは、

まさにジャーナリストの時代を見る日によるものであった。創刊翌年、ジラルダンは、新人画家ガ ヴァルニ(Gavarni 1804−1866)を発掘、その才能を見抜いて専属モード画家に採用した。

 ガヴァルニのモード原画は鋼版画に版刻された。鋼版画は石版画のような柔らかなttさよりも、

繊細で硬質な魅力があり、時代を先取る生命力あふれる女性を表現し、本誌の名を・層高めた。読 者も地方の女性ばかりでなく、新しもの好きのパリ社交界の貴婦人にも歓迎された。また、ジラル

ダンは景品をつけるなどの販売方法にも新しいアイディアを生み出した。

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1833年 ビロード製の舞踏会のドレス。衿あきが大きくくれ 膨らみを増した袖は、肩の美しさが強調される。羽根と真珠 の髪飾りは当時流行した

よく何度も見ていると、5冊めの合冊のなかに抜き忘れたのであろうか、タイトルページ

revue du monde elegant を発見した。背題とは異なる標題であったが、『Colas』をみると、発行地が所 蔵版のものと同じ Rue de Helder 25 であるので確認がとれた。

 『Colas』によると、本誌は大きく3期に分かれる。

 第1期は、1829年10月「モード:モードの批評、風俗通信、サロンのアルバム」のタイトルのもと に週刊で創刊され、1831年5月(?)まで続く。次にサブタイトルを「優雅な世界の雑誌」「政治と 文芸の雑誌」と変えて1854年9月15日まで続く。第2期は、同年9月25日一12月5日まではサブタイ

トルを「世界的な雑誌、芸術家のジャーナル」にし、出版地も変わる。12月15日から翌年の1月15 日号は「優雅な世界の雑誌」に戻る。最後の第3期は月刊となり、1856年から「新しいモード、文学、

宗教、歴史、美術、科学、詩、評論、演劇、社交界の話題」に変え、1862年10月で終刊する。

 本館は1期後半1832年から2期の半ばの1846年までの29冊を所蔵する。

 1832年から1835年ぐらいまでは紙質もよく、しみも少なく、ガヴァルニが退いたあとを継承した ランテと彫版師ガティーヌによる優れたモード画が展開されている。だが、それ以降は紙の酸化が みられ、図版の鮮明さも落ちる。       (平井紀子)

 だが本誌が軌道に乗りはじめた1831年、ジ ラルダンは七月革命を契機に「ラ・モード」を 手放し、新しい新聞の創刊に傾倒する。

 本誌を通覧すると、ガヴァルニが活躍した 1831年ぐらいまでが最盛期で、ジラルダンやガ ヴァルニが退いてからは特色を失い、ランテを 起用して何度かサブタイトルを変えて一新する が、新たな展開は少なく、後期は平凡なモード 誌になり1862年で終焉する。

 さて、雑誌は生き物といわれる。刊行期間が 長期になると、誌名の一部を変えて生き長らえ るが、その全貌を把握することはまことに難し い。そのうえ、西洋では書物の装丁など所有者 の好みで独自に製本加工することもあり、その 正体は一層つかみにくい。本館所蔵誌はその両 方の条件をもつわかりづらい雑誌である。

 大きさは21.5×13.5cm、赤い表紙にえんじ

の背皮、背文字は金の箔押しの装丁で、

JOURNAL ET GRAVURES DES MODES と記 されているが、標題紙はなく、いきなり本文が 始まる。どの巻も表紙はなく、本誌の所有者は 表紙をはずして製本したものと思われる。根気       Cl

      La Mode,

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