パーリ聖典協会弓目白①曽曾g①q︶は一八八一年にトーマス・ウイリァム・リズ・デーヴィッッ角g目色の乏旨四日 困耳の□画く己の︶によって設立された。彼は一八四三年五月十二日に生まれ、英国イングランドの南海岸にあるブラィ トン田国警geで学んだ。高等学校を卒業したとき、彼は法律家になるためのよい就職口を捨てて、ブレスラゥ大学 己己ぐ閏里qg印①め冨巳に進んだ。ブレスラウ大学で彼はステンッラー命蔚口旦①ユ教授に師事して、サンスクリット 語を学び、博士号令戸口・︶を取得した。一八六四年、彼はセイロン文官局︵○の己OpQ皇の閏a。①︶に入り、そこで言 語学的訓練を受け、間もなくシンハリー語やタミル語の研究知識を得た。彼はセイロンの歴史や文化に大いに興味 をもつようになり、上座部仏教︵弓馬国ぐ且四国ロ&宮のgの古代語であるパーリ語を学んだ・彼は一八七二年に英国に 戻り、法律家としての資格を得て、法廷弁護士として開業したが、セイロンとシンハリーズのすべてのことについ てずっと関心をもち続けていた。次第に彼は法律の仕事を放棄し、仏教について書くようになり、講義するように もなった。一八八一年五月、﹁インド仏教の歴史におけるいくつかの出来事によって例証されている宗教の起源と展 開﹂に関する一連のヒシ、ハート講演︵雷g①Hこの目目①の︶の第二回目の終わりで、リズ・デーヴィッッは、未だに編集
K・R・ノーマン
パーリ聖典協会の業績と目的
山 崎守一訳注
パ ー リ 聖 典 協 会 の 業 績 と 目 的 されておらず、実際に使用されていない初期の仏教文献の豊富な物語を、学生にも近づき易いようにするため、協 会を設立したい旨を宣言した。そしてそのためには、ヨーロッパあるいはアジアに未だに写本のまま保管されてい るパーリ文献を、パーリ語に編集したり、もしできることなら、英語に翻訳したいとも宣言した。 彼は、パーリ語のすべての聖典や註釈のテキストを編集するという広大な仕事を始めるに当たって、かなり精力 的に学者のグループを募った。そして同時に、彼らの労力の成果に対して金銭的に支えてくれる世界中の購読者を 登録した。新しい協会はパーリ聖典協会亀農弓①営留g四三と呼ばれ、毎年その年報の中で彼は学者たちの業績を 祝福し、またそのすぐれた価値をもつ業績を手にしている購読者を祝福することができた。というのは、編集者は 驚くべき早さで仕事を始め、パーリ聖典協会の最初の版本は、協会設立一年以内の一八八二年に世に出始めた。こ のように協会の出版計画は成功し、十九世紀の終わりに、パーリ聖典協会の雑誌︵一八九七’一九○二において、リ ズ・デーヴィッッは、二十年間で総計一五、○○○.ヘージに及ぶ五十一巻四十二冊のテキストを購読者に与えること ができたことを誇りに思うと発表した。
︵1︶︵2︶
この期間に購読者が受け取った出版物は、中部経典︵旨且盲目甲昌圃冒︶、相応部経典⑦四日冒茸印昌圃旨︶、増支部︵3︶︵4︶
経典夢侭具国国︲己圃冨︶の全巻と、長部経典e侭冨︲己圃冨︶の第一巻を含んでいた。小部経典負盲目農甲己圃冨︶の︵5︶︵6︶
うち、ラーッデーサ﹂︵目&①囲義釈︶、﹃パティサンビダーマッガ﹂令昌耐臼号言箇日侭隠無碍解道︶と﹃アパダー ︵7︶ ナ﹂伝冒3国四書職︶を除くすべてのテキストが出版された︹ファウスベル弓騨屋号Sこの編集になる﹁ジャータヵッ ︵8︶ タヴァンナナー﹂︵両国富舜冨ぐ眉目目本生経意義解説︶の版本は、トリュプナー︵旨のの閏、弓昌9国陣○p︶にょっ ︵Q︺︶ てすでに出版されていた︺。論蔵夢冨己冨日日四︲且冨穴四︶のうち、﹁ダンマサンガ一二e富日日四のg隠昌法集論︶、﹃ヵ︵⑩︶︵u︶
ターヴァッと負翼園ぐ呉昏匡論事︶、﹁プッガラパンニャッティ﹂弔巨脂堅眉目冒昌人施設論︶、﹁ダーッヵター﹂そのような妨げにもかかわらず、協会は着実に活動し、種々の問題の原因となる金銭の不足にもめげず、全パー リ聖典とすべての主な註釈作品を出版するという目標に向かって前進した。実際に協会は設立当時から資金不足と いう問題をかかえていた。そしてその財団設立の宣言後、わずか二年しかたっていない早くも一八八三年、会長は 年報の中で購読料の支払いの遅れは、作品の印刷・出版の遅れとなることを指摘していた。しかしながら、資金間 ︵、︶ e罰日冨号画界説論︶が出版された。加えて﹁テーリーガーター﹂︵弓冨吋侭騨園長老尼偶︶、﹁ダンマサンガこ e富日日四mg隠昌法集論︶、﹃・ヘータヴァッと弓①国ぐ異牙巨餓鬼事︶、﹃ヴィマーナヴァシシ﹂言目習画く胃号匡天 ︵咽︶ ︵M︶ 宮事︶に対する註釈の版本が出版され、また、長部経典に対する註釈の第一巻も出版された。聖典外のテキストのう ︵鳩︶ ︵略︶ ち、﹁ボーディヴァンサ﹂田呂冨ぐ騨日の煙菩提史︶、﹁サーサナヴァンサ﹂︵断の画ご画く四目闇教史︶、﹁ネッティパカラナ﹂ ︵Ⅳ︶ 三①昌息菌田口四指導論︶の版本が出版された。﹁アビダンマッタサンガハ﹂多冨己冨日日胃昏“︲の§隠冨摂阿毘達 ︵肥︶ ︵四︶ 磨義論︶と﹁ガンダヴァンサ﹂︵の四目菌ぐ四日忠書史︶を含む比較的短かいテキストの多くも協会の雑誌に発表された。 ︵洲︶ 新しく設立された協会の仕事が、全て成功したわけではない。例えば、ブッダ田且号巴とジナ言口巴が同時代に互 いに大いに影響し合ったという理由で、発刊目録に白衣派ジャイナ聖典テキストである﹁アーャーランガ・スッタ﹂ ︵皿︶ s乱国億四︲の具国︶の版本を含めようと試みられた。しかしながら、購読者から抗議の声が上がった。その試みは繰り 返されなかったし、そのテキストの註記である第二巻も計画されていたが、公けにすることはできなかった。また、 散文テキストにおけるきまり典句の頻発する繰り返しIこればョ︲.シ︿人の耳に健冗長であるがIを、増支 部経典の版本の第一巻に略記法を導入することによって縮めようとした試みもまた、抗議にあった。このようにこ の巻は購読者の感情を害したため、回収せざるを得なかったし、もっと綿密に伝統的形態で集成した他のものにとつ て代わらねばならなか−Fた。
的 目るようになったエ と 塞なことであった。
のパーリ聖典協八
合云 蝿品でさえ、再版﹂ 樫デンベルク︵○丘の パアッタヴァンナ. 題は二つの世界大戦の時が最も大変であった。内容のひどいものもあり,出版されるのに随分長く年月を要したも のもあった。それらの作品がようやく日の目を見た時に、それらは望ましいとされた大き目の単行本よりむしろ二 巻、あるいはそれ以上の不規則な大きさの巻︵資金が特に不足している時には、大変薄っ・へらであった︶でしばしば出 しかしながら、このような困難な時代でさえ、協会の評議会は、初期の頃、公けになった出版物のいくつかは満 足のいくものでないため、それらに代わってすぐれた版本が大いに必要であることを知っていた。結果的に編集者 が新しく改善して、版本を出版した時に、それらは喜んで購読者に受け入れられた。例えば、ファースベル弓呂号e三 ︵塊︶ による初版本にとって代わって、ディネス・アンデルセンe旨舟少且閏開口︶とヘルマー・スミス畠堅日角野昌昏︶に ︵羽︶ よる﹁スッタニパータ﹂命昌国昌9国経集︶の第二版本が一九一三年に出版された。また、H・C・ノーマン︵zo尉目目︶ ︵別︶ による初版本にとって代わって、ヘルマー・スミスによる﹃ダンマパダ・アッタヵター﹄eg日日§四目︲農嘗鳥目園 ︵鱒︶ 法句経註︶の第一巻の最初の部分の新しい版本が、一九二五年に出版された。しかしながら、一九二四年より.。ヘン ︵妬︶ ハーゲン︵○82冨帰ロ︶で出版され始めた﹃批判的パーリ語辞典﹂︵○昌甘巴弔農冒目○口閏己にスミスが大きく携わ るようになったため、﹁ダンマパダ・アッタカター﹂の次の部分の新しい版本が公けにされなくなったことは、残念 版された︾ パーリ聖典協会の出版物の数が増えるにつれて、その評判も高まり、もともと協会によって出版されていない作 ︵”︶ でさえ、再版する仕事を依頼された。例えば、﹃パーリ固有名詞辞典﹂e目ざ口四昌旦弔昌印8円z四日①里オル ︵躯︶ ンベルク︵○丘①号①侭︶の﹁ヴィナャ・ピタカ﹄言冒画冨︲宮冨冨律蔵︶、ファースベル自画匡吾色一︶の﹃ジャータヵ。 ︵鯛︶ ツタヴァンナナー﹂︷両国富︲鼻g画くg93本生経意義解説︶、トレンクナー弓吊月冒①ユの﹁ミリンダパンこ︵鋤︶︵皿︶
壱巨旨目も鼠冨ミリンダ王の問とのそれぞれ版本、そして﹁ジャータカ﹄︵両国冨本生経︶の翻訳、﹁ダンマパダ﹄︵蛇︶︵鋤︶
の註釈の翻訳、﹁ダンマサンガ皇e盲目目画のg隠昌法集論︶の翻訳のような作品が協会の名のもとに再版された。 同じように、一八九五年マックス・ミューラー︵旨回〆冒昌①ユによって始められた仏教聖書シリーズ窃四Rgm○○爾 ○陣胃国目鼻陣牌風船︶も、日を待たずして協会の名のもとに出版された。 一九一三年十二月、設立者であるリズ・デーヴィッッが七十九歳で亡くなったため、彼の妻キャロライン台目○︲ 言①︶が代わって会長となった。彼女はパーリ学者としてかなり高名で、パーリ作品の版本や翻訳の仕事をしていた。 彼女は阿毘達磨︵シg丘冨日日四︶に特別の興味をもっていた。そして彼女は多くの阿毘達磨テキストに対する註釈の︵別︶︵弱︶︵調︶
版本と同様に、﹃ヴィバンガ﹂︵冨冨自彊分別論︶、﹃ヤマヵ﹄角四日四冨隻論︶、﹁パッターナ﹂竜鼻吾習四発趣論︶ ︵師︶ の版本を出したばかりでなく、﹁ダンマサンガこの翻訳をも出していた。他の仕事では、﹁ヴィスッディマツガ﹂ ︵錦︶ ︵ぐ酎巨目三日、隠四清浄道論︶の版本と、﹁テーラーガーター﹄︵弓馬国噛習冨長老偶︶と﹁テーリーガーター﹄︵弓胃国︲︵釣︶︵㈹︶
ぬ騨圃長老尼渇︶の翻訳と長部経典と相応部経典の部分訳をしている。彼女が会長に在任中、彼女は﹁ダンマパダ﹂ ︵似︶ e冨昌昌眉四目法句経︶と﹁クッダヵパータ﹄負冒&四百︲目替四小謂︶の版本と翻訳を出版している。 リズ・デーヴィッッ夫人は、一九四二年に会長の地位をW・H.D・ラウス角○房①︶に譲った。彼はずっと以前に︵蛇︶︵燭︶
﹁ジャータヵ﹂の翻訳に多大の貢献をし、また、﹁ジナチャリタ﹂言邑四8昌画勝者所行讃︶を編集し翻訳していた。 彼はケンブリッジ︵○画目耳匙帰︶の男子校の校長をしており、そこでラテン語やギリシャ語の得意な生徒にサンスク リット語やパーリ語を手ほどきしていた。この変則的な教育法で最も成果が上がったのは、たぶんラルフ・ターナー 卿命胃両巴昌弓巨目gであった。ターナーの﹁インド・アリァン語比較辞典﹂合○日g﹃目ぐ①冒昌○国煙ggg① ︵“︶ 冒号︲シご閏︾F四眉巨樹①の︶は印度学の分野を研究している学者にとって知らない人はない辞典である。一九五○年にパ ー リ 聖 典 協 会 の 業 績 と 目 的 ︵妬︶ ラウスは会長をW・ステード︵聾且①︶に譲った。ステードは﹁チュッラニッデーサ﹂︵○昌四︲己&①の四小義釈︶と長部 ︵妬︶ 経典に対する註釈の二巻を編集した。また彼は、協会の﹁パ英辞典﹄の初めの分冊の出版で、初代会長リズ・デー ︵岬︶ ヴィッッに協力し、彼の死後は独力でそれを完成させた。 一九五八年ステードの死後、一九五八年I.B・ホーナー田○目g女史が会長に選ばれた。ホーナー女史は一九 四二年にリズ・デーヴィッッ夫人が亡くなって以来、協会の秘書をしていた。彼女はケンブリッジで仏教における ︵網︶ 婦人についての一冊の本の研究を成し就げている期間に、パーリ語に興味をもつようになった。また、ケンブリッ ︵⑲︶ ジ大学で彼女の良き指導者であったロード・チャルマーズPoaog旨①gによる一九二○年代の翻訳に代わって、
︵鉛︶︵副︶
中部経典︵巨星冒日四︲己圃冨︶の三巻の翻訳と同様、一九五九年までには中部経典に対する註釈の最後の三巻の版本 ︵舵︶ をすでに出版していたし、﹁ブッダヴァンサ﹂︵国巨呂冨ぐ四日の四仏種姓︶に対する註釈の版本も出版していた。彼女は ︵認︶ また、律蔵言言い旨︲宮同穴巴の一記念的翻訳の初めの五巻を完成し、﹃戒律の本﹂の表題をつけて出版していた。彼女は 就任後すぐに、七○年以上も前の東方聖書シリーズ命煙Q8m○○冨○寓胃向、里の①国①の︶のリズ。デーヴィッッの翻︵別︶︵弱︶
訳に代わって、﹃ミリンダパン皇︵冒曽目眉目富ミリンダ王の問い︶の新しい翻訳を出版した。そして律蔵のテキ ︵妬︶ ストに対する非常に難解な補巻である﹃パリヴァーラ﹂弓画風3国付随︶の訳文を伴う律蔵の翻訳を完成した。 このように、ホーナー女史が会長に在任中、パーリ聖典協会の出版物は、古いものに新しく改善したものを加え るという方針をとった。つまり、これまであまり問題にされなかった作品や、最近になって発見された作品の版本 と翻訳が完成し、発行目録の空欄を埋められるように学者に催促する一方、再版するに値するすべての出版物を再 版し、水準に達していないものはどんなものでも、新しい版本や翻訳ができればとって代わられるという方針を、 協会の評議会がとることを推進した。また、資金繰りの苦しい時には、以前数冊に分かれて出版された。ヘー・マゥ︵師﹀ ン・ティン宅①冒四匡侭弓旦の﹁ヴィスッディマツガ﹂︵劃⑩巨邑三日凋盟清浄道論︶の翻訳のような作品は、一冊の 本として新しい体裁で再版され、索引や平行文節のリストが以前欠けていた本には付け加えて再版された・ホーナー 女史はこれらの出版の指揮をとり、彼女自身はヘルマン・コップ田閏日閏冒︻○g︶博士によく助けられた。コップは、 彼の先生であるマックス・ワレーザーラ厨〆司邑①の閏︶の死後、彼が完成した版本である増支部の註釈に対する模範 ︵詔︶ 的な索引を出版したばかりでなく、﹃テーラガーター﹂百房R凋騨園長老渇︶、﹃ヴィナャピタカ﹂︵くヨ囚冨︲宮国富 律蔵︶、﹁イティヴッタヵ﹂︵冒言旨農四如是語︶や﹁チャリャーピタカ﹂合画蝕薗︲且国冨所行蔵︶の註釈に対する同 ︵弱︶ 様な索引を作り続けた。一方、L・S・カジンズ合○巨の言の︶は亨ツタサーリニー﹄伝茸冨の昌昌法集論註︶が一九七 ︵帥︶ 九年に再版されるとき、その索引を作成した。 間違いの多くは、再版された時に暗黙のうちに訂正された。そのため、初期の出版物の水準は、パーリ研究の初 期の草分け的な水準から期待に答えられるだけの学問的水準に引き上げられていた。多くの不満足な版本はとって ︵田︶ 代わられた。そしてN・A・ジャャヴィックラヌ菅冒昌鼻3日巴教授は、律蔵の註釈の序言の部分と、﹁トゥーパヴァ ︵他︶ ンサ﹂角目冒ぐ画日囲舎利塔史︶の新しい版本が、その翻訳を付して出版されたと同じように、﹁仏種姓経と所行蔵﹂
︵“︶︵“︶
田巨邑冨ぐ四日の蝕色目○四国乱宮曾冨︶、﹃天宮事と餓鬼事﹂︵ぐ自習煙ぐ呉牙巨四己宅①画く呉昏巳、そして﹃カターヴァッ ︵妬︶ シ﹂︵︻呉園ぐ翼昏匡論事︶の註釈書の新しい版本を出版したが、これはこの分野では特別に行動的な仕事であった。 ︵師︶ また、すでに私が述べた作品の他に、ホーナー女史は﹃ブッダヴァンサ﹂田巨邑冨ぐ四日忠仏種姓経︶、﹃チャリャー︵髄︶︵師︶
ピタヵ﹂合四国乱冒国冨所行蔵︶、﹁ヴィマーナヴァッッ﹂︵ぐ目習四ぐ画茸冒天宮事︶の新しい翻訳を、初訳に代わっピタカ﹂︵○四 て出版した。 ホ⋮ナio女史の会長の任期峰西洋世界における仏教に対する関心の増大と一致した録仏教書の販売は伸び.ま 10パ ー リ 聖 典 協 会 の 業 績 と 目 的 た.上座部仏教言胃国乱8国巨邑宮の旦の基本的テキストについてもっと知りたいと望む人たちばもっと詳しし情 報をパーリ聖典協会の出版物に求めた。協会の出版物の販売部数が延びるにつれて、それ相応に協会の収入も増大 したし、また、それは出版物の範囲を広げることを可能にした。聖典と大多数の註釈のテキストを編集するという 基本的目的が事実上完成し、協会は翻訳と補助的な作品の出版に重きを置き始めた。一九五五年、協会はA・P・ ︵鮒︶ ブッダダッタ田邑目且胃邑によって編纂された﹃英パ辞典﹄田国警号も農貝昌○邑胃sを出版したが、すでに一九 ︵的︶ 五二年に﹁パーリ三蔵用語索引﹂竜農弓冒冨百日9口8a四月①︶の出版を始めていた。この用語索引はクルーデン ︵Q目①己編の用語索引が聖書研究に果したと同様に、パーリ学で同様の目的に役立つように意図されていた。その編 ︵加︶ 集者はE・M・ヘア−国胃①︶であり、彼はすでに頁ツタニパータ﹂命具国︲己3国経集︶と﹁アングッタラ・ニヵー ︵丸︶ ャ﹂多局員国風︲己圃冨増支部経典︶の数巻を翻訳していた。目録に掲載する用語索引に関することの大部分はF, ︵”︶ L・ウッドワード︵言Ca君閏巳の業績によるものであった。彼は増支部の残りの巻を翻訳し、同様に、﹁ゥダーナ﹂
︵門︶︵利︶
as口四自説︶、﹃イティヴッタカ﹄︵冒ぐ呉国富如是語︶、﹁サンュッタ・ニヵーャ﹄⑦“骨冒詳四︲己鼠冨相応部経︵布︶︵祁︶︵”︶
典︶のいくつかの巻を翻訳した。また、﹃サンュッタ・ニカーャ﹂、﹃ウダーナ﹄、﹃テーラガーター﹂官房尉侭図園長 ︵沼︶ 老偶︶の註釈をも編集した。用語索引の第一巻と第二巻の三分冊を出版した後、一九五八年にヘァーが亡くなると、 K・R・ノーマン︵zo尉日画己が第二巻を完結する仕事を引き継いだ。彼は一九六三年から一九七三年の間、残り六分︵羽︶︵帥︶︵別︶
冊を出版し、同じく﹁テーラガーター﹄と﹁テーリーガーター﹂弓馬吋伺騨冨長老尼偶︶の新訳を作成し、韻律の分 析の重要性を強調した膨大な註記と長い序文を一記した。 用語索引の第三巻はA・K・ウォーダー︵言四a①ユが受け継いだ。H・サッダティッサ⑦且号農のの“︶とイヴォ・ブイ ︵極︶ ザー︵写。固の①ユの援助を得て、一九七二年までに五分冊が出版された。ウォーダーはまた、﹃ハーリ語入門﹂を出版』〆黒朴や。〈一二、Wg如朴も担当<Q担母且哩個釦市●程。饗卸饗ィ。,キノ異竺。〈−=WgQ1卜+i<圭兵四mK参穏葉釦伽へと (認> や二岬Qや〆。〈−=肥やく塊SFくにドノ侭岬廷兵与や饗へ/′脂畏旦琴饗?程eや侭岬。心柄一慾一埜榔程′「。〈一=、昭紐』 』J岬"・±4p異程。〈一=昭吐Q庵駅当J′ご・四・'1、訟慾慾試々、(Buddhadatta)』J判<且「申一〈fに、や訟卜H一睡''一」 〈葛) (MohavicchedanI)Q墨骨細ヨヨ墨当呉。キ、試慾'卜詩試中、浄細呉"『仁、。〈−牛、R翁キトー'1、ハ,R−1I、」(Upasaka (島) janalankara)Q墨特JJ『、キ、鴫−1卜詩キ、訟一心訟。〈獄'卜詩R悪一』(Dasabodhisattuppattikatha)Q騒馬『+<Q州ロ (場) 世Q隠甜尋間目」御幸,」投皇特伽玉里ョ呉。 ご蒋馴冊Ⅲヘー一参K(SacredBooksoftheBuddhistSeries)Q異辿や′・〈一=WgQ琴Qや饗へ/トノ琴′・〈一二、酬罫題 4M袋〃己蒋庵駕旦当JoI−ノ株柾里洲脇や掲蝿骨細玉呈乍j<3典」当J塙や柚倶。窪“堂飼叶′岬Q八=、一Kg雛|抑旦部● (畠) トノ珪化p異担蝦軍一「翁辛一蝿,R・ヤー'1、一」(Jatakam且lョ特丑l綱樵)Q騒瑞一旦輯●トノ"八=、一‘KQ仔且〃『F (男) 〈−おト↑くち、」(Mahavastu+<冊)当J「Kfに、トミト’〈一ラ、試悪iγ・K−−二W、』(Suvamabh且sottama-sntra略装頓 (男) 釆圏型)如伽やごQキ、ハK,産、訟一'卜舟iくこ-e騒吊′『Fli1卜叶一蕊ト#に、卜、一+、』(Manicndavadana冊&IⅡ鋤Ⅱ蝉)Q (宗) 墨畏JJ騒艦′岬当Y『お詩F'1、汁一ミ'卜詩'1ミ1トー八午」(VimalakIrtinirde§a縮蝶蝶緯塑′禦掛把塑)QH1卜・マH (息) 丹p〈・'1、中詠÷(EtienneLamotte)G1、'1、>、i<Wg負⑮Q淵掃如伽母裡。岬Qふ=一K埜細智彦・田・語△−(Boll§e) (認) Q「、トー11、・八キー思侭」(Kunala-jataka)Q墨畏当J罷癌〆『ハト−11、丹,R−lI、」(Jinalaflkara謹抑棋握)Q翁H− (駅) くK・、ユャ(JamesGray)Q至特』J騒滞Q陣婆Q吊心響〆1卜十K÷』J騒吊Qに偶押仙ねと口目釦玉里ヤice且崖姻ーノ 侭。棋墳〆’卜排K一八否一K当J騒脂八=、一聯KQbJ4DtQ典型べこ、姫士蝿里竺掴園ノ逆饗員o程。 窪4NQ騒鴨ノ>、臣、−傷KQ吾Pl−Fミ1<○叶負心1−Fミ<○叶拙やQ糎恩ゴ'二Q騒掃墳隅偶異担。幻訟、.’│キー十、申一 (夢) =(BhikkhuNanamoli)且吊岬『、訟慾.R・〈一砥』(Khuddakapatha令嬬)JJAr'Q相脂々『,時訟'卜詩。〈,R'い卜」
パ ー リ 聖 典 協 会 の 業 績 と 目 的
︵妬︶︵%︶
三①昌弓四百国pm導論︶、﹁・ヘータコーパデーサ﹂宅①国冒9号の四蔵釈︶の翻訳、ジャャヴィックラマ︵旨冒昌︲ ︵W︶ 鳥3日巴による翻訳﹃ジナカーラマーリー﹄言ロ煙圃冨日目︶の翻訳であり、そして三つの阿毘達磨テキストの翻訳で ︵兇︶ ある。すなわち、U・ナラダ︵z閏且巴による﹁ダーッカター﹄e圃冒百号凶界説論︶、U・ティッティラ角冨昌芭︵的︶︵川︶
による﹁ヴィやハンガ妄言g目鴨分別論︶、また、ナラダによる﹃パッターナ﹄令鼻替習四発趣論︶の第一巻である。 西洋社会において阿毘達磨への関心は大きくなっているが、しかしそれは極めて困難な主題であり、特に指導者な しに独学しようとする人たちにとってはなお困難である。このような事実を踏まえて、独学する学生の便宜をはか ︵Ⅲ︶ るため、﹁パッターナ﹂の翻訳に対する姉妹編として﹃発趣論入門﹂の第一巻がナラダによって書かれ、出版された。 協会のテキストシリーズの中で、すでに述べられた版本の他に、主要でしかも新しい出版が同様の期間中に公けに されている。画圃と呼ばれる補註を出版するという仕事が着手された。そしてリリー・デ・シルヴァPご号望ぐ巴 ︵Ⅲ︶ の﹁デーガニヵーャ﹂の註釈e侭冨己圃怠︲農9画百号巴に対する補註の版本が一九七○年に出た。 評議会は、一九八一年に協会の百年祭を迎えるにあたって、まだ英訳されていないこれら聖典テキストの註釈害 の翻訳を出版し始めることを決定したが、そのシリーズにおいて最初に出される作品が、ホーナー女史の﹃ブッダ︵Ⅲ︶︵Ⅲ︶
ヴァンサ﹂註の翻訳であったことは大変適切であった。しかもこの註釈害の版本はホーナー女史自身のものであっ た。このシリーズにおける第二の作品は、、︿・キャウ己由mご画急︶によって翻訳され、P・マゼフィールド冒画の農の亘 ︵順︶ によって編集された﹁・ヘータヴァッッ﹂竜①国く胃昏巳の註釈圭三の翻訳︶であった。 財政的に大変困難な時代であった第二次世界大戦後、パーリ聖典協会が古い出版物を印刷し続けながら、一方で は多くの新しい出版物を出版し続けたことは、ホーナー女史の経営方針によるものであった。というのも、専門家 のアドバイスを受けて、出版計画に融資するのに十分な貯えを築き上げるために、協会の資本金を注意深く投資し 1 q ▲ L Jた。女史はまた気前よく寄付をした蔭さらに彼女の気前よさがどんなに広いものかは決して知られないだろう︽が 彼女の情熱は、他の人たちの気前よさを刺激した。また金額に差はあるが、たくさんの寄付金が殺到するようにな り、それは協会の一般的な活動に融資するか、あるいは指定された作品の出版費用に充てられるかした。 しかしながら、パーリ語の作品の編集や翻訳することと、協会の運営事務以外にもホーナー女史の業績はたくさ ︵鵬︶ んある。彼女は仏教のすべての面に関して書いており、処女作﹃原始仏教における婦人﹂は一九三○年に出版され ︵川︶ ているし、この分野での彼女の第二作﹃完全なる人の初期仏教理論﹂は一九三四年に出版されている。長編の作品 に加えて、パーリ語や仏教の研究に関わる定期刊行物に手広く書いたし、世界中の学者の誰かが一記念論文集を出版 すると聞けば、喜んで特別に寄稿した。彼らとの間で、彼女は数多く文通し続け、彼らがイギリスにやって来た時 には必ずロンドンにある自宅に彼らを招待した。彼女の出版物の最後の一つは一九八一年一月に出版された。その 年彼女は、協会の他の評議員たちと会合したり、協会の学術誌の特別号に寄稿する他の学者の選ばれたグループと ︵伽︶ 会合した。この学術誌は長い間休刊していて、今回百年祭を記念して復活したものである。 百年祭の数ヶ月前の一九八○年の夏、ホーナー女史はひどく転んだ。そのため彼女は外科の手術を受けるはめに なり、しばらくベッドで休んでいなければならなくなった。そしてそれ以来、クッションをいくつも重ねて、ひじ かけ椅子に寄りかからなければ坐っていられなかった。そこでの彼女は以前の姿とは全く別人であった。にもかか わらず、彼女は何としても百年祭を見ようと決めていた。衰弱していくにもかかわらず、彼女は少しでも長く生き ようとした。しかし、ついに八十五歳の誕生日の数週間後の一九八一年四月二十五日彼女は亡くなった。 概してパーリと仏教研究に対して、また、パーリ聖典協会に対するホーナー女史の貢献ははかり難く、彼女の出 版物の単なる羅列によっては言い尽くせない。しかし、彼女が率先してこれらの研究の分野で仕事をしている人た 14
パーリ聖典協会の業績と目的 ち、特に若い研究者たちに援助と激励を与えたことは、高く評価されなければならない。彼らの多くは一九七四年、 ︵Ⅷ︶ ホーナー女史の栄誉をかけた仏教研究における論文集に喜んで寄稿した。 生前、彼女が協会に対して行なったおびただしい数の仕事が、一九八○年の新年の叙勲名簿において、英帝国の 勲位の裁定で認められたことは、協会のすべてのメンバーにとってたいへん慰められることであった。彼女が亡く なったことで、協会の設立者︵T・W・リズ・デーヴィッッ︶とのつながりをもつ人がいなくなってしまった。という のも彼女がまだ少女の頃、設立者と一度会ったことがあったからである。 百年祭の年にパーリ聖典協会の年次一般会合で、私はホーナー女史の後任として会長に選ばれた。すでに私は長 年にわたって協会の秘書をしていた。協会が設立されて二世紀に入って五年になる現在、会長は何を報告すべきで あろうか。まず第一に、協会が設立されて以来の仕事は続けているということである。パーリ語原典の新しい版本 や翻訳は出版されているし、古い版本と翻訳は必要性が起こると再版されている。U・ナラダ︵z閏且巴の﹁バッター ︵川︶ ナ﹄弔翼昏習巴の翻訳の第二巻は一九八一年に出版された。また、まだ翻訳されずに残っている大変数少ない聖典の 一つである﹁パティサンビダーマッガ﹂竜四は閏日冨己倒日樹鴨無碍解道︶の翻訳が、ニャーナモーリa三房目 ︵Ⅲ︶ z圏四日○三によってなされ、﹁識別の道﹂と題され、一九八二年に出版された。数年間絶版であったE・M・ヘァー ︵皿︶ 国閏里の初期の訳に代わって、会長︵ノーマン︶の﹃スッタニパータ﹂⑦具国己3国︶の新訳は、一九八四年に出版され ︵川︶ た。また、﹃サマンタクータヴァンナナー﹂命四ョ、ロ国冒画く眉息目︶の翻訳﹁サマンタ山称讃﹂もAoA・ヘーゾル ︵M︶ ゥツド畠自席言8s夫人によって今年二九八六︶の春に出版された。 聖典テキストの諸註釈書画詳冨冨牙肝︶の翻訳の準備もまた進められている。﹁ヴィマーナヴァシシ﹂ ︵Ⅲ︶ 言自習四ぐ胃昏巨天宮事︶の註釈害の翻訳は、すでに私が述べた﹁・ヘータヴァッッ・アッタヵター﹂亀里曽胃牙巨︲ EJ 14
︽川︶ 鼻9m冨昏巴の翻訳﹁餓鬼物語﹄に対する類似として、P・マゼフィールド言四の島の巨によって成された。一九六○ 年にビック・ニャーナモーリ田冨穴与匡Z目四目○sが死んで彼の論文集の中に見つけられた作品の中には、私が以前 ︵Ⅳ︶ に述べたことのある﹃パテイサンビダー・マッガ﹄の訳ばかりでなく、﹃ヴィヴァンガ﹂言ご冨信四分別論︶の註釈 ︵川︶ 書で彼が﹃幻想を追いちらす人﹂と題した﹁サンモーハヴィノーダニー﹂命四日目○富ぐ冒○烏邑の翻訳があった。こ れが発見されたとき出版する予定は全くなかったが、スリランカとイングランドの編集者によって多くの仕事がな された後、その作品の最初の半分を含んでいる第一部が現在印刷中である。この註釈害のこれら翻訳の両方とも一 九八六年か一九八七年の早い時期に出版されるであろうと思われる。 以前私が言ったように、書物が再版されるときには、可能な限りミスプリントを正したり、索引が欠けていたり、 不十分な版本には索引を与えるのが、協会としての慣例であった。一九八二年に出版された﹁・ヘータコーパデーサ﹂ ︵川︶ 弓①冨冒冒号悶蔵論釈︶の再版にはヘルマン・コップ田閏日閏日嗣89によって索引が与えられた。彼は私がすで に述べたパーリ聖典協会の他の書物にも索引をつけている。﹃カターヴァッこ民g扇ぐ胃牙匡論事︶の単独の索引も ︵伽︶ また$日本人の学者グループによって成され、一九八二年に出ている。 協会の出版物の中で、東南アジアからのパーリ原典は過去において、目立って出版されなかった。しかし最近の 五年間に改められ、H・ベッヘルト田①、冨己とH・ブラウン田圃匡巳によって編集された﹃ビルマのパーリ処世書﹂ ︵皿︶ が一九八一年に出版された。P.S・ジャイーニ旨目︶の﹁パンニャーサ・ジャータカ﹂弓鼠薗困︲菌国富五十本生︶ ︵腿︶ の版本の二巻は、一九八一年と一九八三年に出版された。ホーナー女史が死ぬ直前、彼女はその第一巻の英訳二経 典外の誕生物語﹂と題された︶の作成に従事していた。そしてこれはP。S・ジャイニによって完成され、一九八五 ︵鯛︶ 年に遅れて出版された。第二巻はP.S・ジャイニ一人によって完成され、今年二九八六年︶の初めに出版された。 16
パ ー リ 聖 典 協 会 の 業 績 と 目 的 協会はその設立初期の時ゞ期に.毎年学術誌色○昌尉邑○寓冨宅農目①鷲野︶Q2己を出版した。しかし協会か資金的 困難に陥った第一次世界大戦後の時代に、ほとんど出版されなくなり、一九二四’一九二七年の学術誌出版の後、 ︵剛︶ 消減してしまった。百年祭の祝賀の一部として、過去全二十三巻発行の学術誌は八巻にまとめられて再版された。 一九八一年一月に出版された特別百周年記念号についてはすでに話したが、これは世界中からパーリ語や仏教研究 ︵脚︶ の分野における著名な研究者からの寄稿から成り立っている。このことによって起こった関心は大変なものだった ので、毎年の出版ではないにしても、一つ一つにおいて、発行できる水準に達した原稿が整った時点で、学術誌を ︵棚︶ 復活させるということを、協会の評議会は同意した。一九八五年の学術誌の一巻は出版され、一九八六年の巻は今 年︲二九八六年︶の後期、もしくは一九八七年の前期に出る予定である。 仏教研究を取り扱った学術誌はたくさん現存しているので、休刊されていた学術誌を再刊するにあたっては領域 を制限すべきである、と協会の評議会は決定した。それは、パーリ研究の学術誌に限るということであり、協会の 刊かおこりそうである。 十年間以上休刊であったラハーリ三蔵用語索誘﹂は再び出版されることになり譜主にイヴォ・フィザー言○浬開﹃.︶ ︵脇︶ とE・ストラントベルヒ︵聾国且胃侭︶女史によってなされた第三巻の第六分冊は一九八四年に出版された。しかしな がら、用語索引を作成するのに、電子手段によるのが最善の方法であるということがここ数年で明らかになった。 そして今、随意に文字を認識することのできる機械︵いわゆる光学映像走査機︶が利用でき、そのような装置を使用す ることの可能性が評価されている。それ故、この評価の結果が知られるようになるまで、他の用語索引の製作に体 東南アジアからの他の手Iリ原典のジァイニの版本健一ローカネ⋮ャ・バカラ・こP93月ご甲弓農閏曽邑であり ︵剛︶ これもまた今年の初めに出た。 17
歴史において、初期の頃に出した学術誌の号の様式に密接に従うということであった。それらは短編のパーリ原典 の版本と翻訳、パーリ語章の言語学的研究、写本集成の詳述等である。従って一九八五年のパーリ聖典協会の学術 誌は、﹃パラマッタヴィニッチャャ﹂竜閏四日四詳冨く目R冨冒︶の版本、﹃アングッタラ・ニヵーャ崖シ侭具国国︲冒詩母巴 の詳細な索引、タイからの﹁ジャータヵ﹂︵両国菌︶写本の一記述、そしていくつかのむづかしいパーリ語黄の検討を含 んでいる。一九八六年の学術誌は、一八八四年の学術誌に出たテキストである﹃パンチャ・ガティ・デーパニー﹄ 弔昌8︲恩威︲gggの翻訳、上座部聖典の言語の名としての語黄﹁パーリ﹂の初期の使用に関する論文、そして種々 のパーリ語章の検討を含む予定である。 ホーナー女史のパーリ聖典協会への寛容さは死んでも止まることばなかった。というのも彼女の遺言によって遺 産が協会に寄贈された。協会の評議会はパーリ研究の促進のために、彼女の遺産をどのように利用するか方策を考 えた。パーリ聖典協会の書物は、少数しか印刷されないため、安価ではなく、学生のために出版されているにもか かわらず、学生の資力をある程度超えているという事実を、協会はここ数年間いたく気づいていた。それ故、協会 はこれらの新しく利用できる基金の最初の責務は、ある基本的なパーリ聖典協会の書物に補助金を与えるべきであ るということを決定した。﹁パ英辞典﹂弔農︲国ロ警吾目8○口自己と﹃英パ辞典﹂同国怪普も農目目○国亀︶の価格が 下げられた。そして当分の間、価格を安く据え置くことが決定された。 第二に、ある書物の廉価な・ヘーパーバック版を出版することが同意された。﹃パーリ語入門﹂は一九八四年に.へI ︵期︶ パーバック版で出版された。期待されたことだが、新しい体裁で本が手に入るようになって、数ヶ月で本の販売部 数が増大したことは、今まで本を買いたくとも値段が高くて買えないでいた人が多くいたことを示している。﹁教説 集﹂の表題の下ですでに述べられた﹃スヅタニパータ﹄の新しい翻訳の。ヘーパー寺ハック版は、﹃サイの角と初期の他 18
パ ー リ 聖 典 協 会 の 業 績 と 目 的 第三に評議会は一︽英辞典﹂の改訂版が出るのを促進することに同意した三︾その辞典の初版は一九二一年から 一九二五年の間に分冊で出版された。それ以来、多くのテキストが出版され、それより以前に出たテキストの解釈 は大いに改善された。長年の問辞典の初版本は改一訂されるべきであると、はっきりわかっていた。というのも、利 用可能になったすべての新しい資料を考慮するためである。しかし会長︵ノーマン︶によって余暇に改一訂版を出すと いう試みは、限られた成果しか得られなかったし、進むのも遅かった。 常勤の助手が必要であることがはっきりしたので、ケンブリッジ大学との交渉の結果、パーリ聖典協会基金によっ て支えられたパーリ辞典編集職が、ケンブリッジ大学の東洋学部弓胃昌ご具○国の昌巴陣巨臼8口己ぐ閏巴ごg o四日耳己帰︶に設立され、それに対する官職が作られた。それ以来大いに進展し、次の十年の早い時期に、新版を出 すことを考えることが、今や現実となっている。第二版が改一訂されると、多分新版より一・五倍の長さになり、価 格も高くなりそうなので、新版を買うことのできない学生のためには、割り引き料金で初版本の印刷を続け、販売 することにしている。しかしながら、協会はこの辞典改一訂で、ワードプロセッサーを使うことによって得られる利 益を見積っているのである。というのも、今、手に入り得る膨大な量の辞典編集の資料の取り扱いを容易にするた めばかりでなく、印刷費用を切り詰めるのに写真複写をするためである。 第四に、評議会は、パーリの学術研究を促進することに同意し、そのためには、パーリ学を主題として博士号を 目指している学生が、学位論文を終えることのできるように、協会は補助金制度を設けた。近い将来にも、同様な 補助金を設けることが可能であって欲しいし、また、本人には何のおちどもなく、研究のコースを終えることので ブ Q O ︵則︶ の仏教徒の詩﹂の副題のもとに一九八五年に出版された。 これも同様に熱狂的な反応か出るだろうと期待されてし 19
︽一年1賑ソ聖典協会に現在のところ﹄資金的に満足しく状態にあるが企画された事業を実現する費用I!⋮例え峰 書物に補助金を与えたり、・ヘーパーバック版の出版、辞典を改訂するのに必要な常勤の助手の準備、パーリ研究に 満ける学術研究に対する補助金を設け愚ことなどIは協会設立以来、書物を出版するという通常の活動のた鍵に 協会を支えてきたと同じ出所、すなわち購読料、本の販売、寄付からの収入によっていることを意味している。購 読者からの収入が増えるようにと、購読料金が最近改正された。普通の会員は年に六ポンドの費用がかかる︵五年間 まとめて払えば二十五ポンド︶。また資格ある会員にはパーリ聖典協会の出版物を買うとき、一割引となる。後援会 員は年に十五ポンドを払う︵五年間まとめて払えば六十五ポンド︶。また、購入するときの割引きの他に、年に一冊の 本を選んで受け取れる。これらの新しい制度に対する反応は大きいものがあるが、しかしわれわれが、われわれの 仕事を続けようとするなら、もっと購読者を必要とするのである。 しかしながら、協会の収入の大部分は書物の販売から得られているのだが、その収入が最近落ちていることを報 告しなければならないのは極めて残念である。そしてこれは関心をもって考慮しなければならない問題である。と いうのも、協会は書物を出版し、売らないことには存在し得ないのである。協会は他の機能をもたないし、もし書 物を売ることができないならば、協会はその目的を果たすことができない。さらに販売から十分な収入を受け取る ことができなければ、その時は、協会の出版計画は削減せざるをえない。協会の評議会は、心底協会に利害をもつ すべての人に、販売を増大できるように最大限の努力をしてほしいと申し入れた。 販売からの収入減は、寛大な遺贈や寄付によってある程度補われた。協会は何年もの間、大小を問わず、寄付を きなし学生が:補助金の援助を願︵︾て・彼らの環境と研究主題に︵一いての情報を記した願書を協会に申請してく れることを願一↓ている︾ 20
パ ー リ 聖 典 協 会 の 業 績 と 目 的 して下さった個人や団体に対して、大変ゞ感謝している。そのような援助かなければ、苧IF聖典協会の多くの書物 は、多分何年もの間、出版の資金が手に入るようになるまで、全く出版されなかったか、かたわらに置かれたまま であったろう。一般の目的であろうと、特定の出版のためであろうと、寄付はいつも最も感謝して受け入れられる。 協会は現在ケンブリッジに建てられている協会の図書館をパーリ学の分野で仕事をしている人たちのために、便 利な研究施設に改築しようとしている。図書館は、協会の出版物のほとんど完全な一式の他に、現在、多くのパー リ原典のビルマ版、シンハリーズ版、タイ版を蔵している。売買、交換、寄付により、蒐集の欠損を補い、蔵書の 範囲を広げるための努力がなされている。そうすることで、パーリ研究を遂行するためにケンブリッジにやってく る研究者たちが、協会のために本を出版する見解があるかないかを問わず、彼らの研究の手助けとなるであろう。 しかし残念ながら、その図書館は貸し出し図書館ではないし、書籍はケンブリッジにおいて閲覧できるだけである ことを記さなければならない。私は、パーリ研究の分野で論文や一記事を書く人たちに、図書館の施設を充実するた めに協会の図書館に彼らの出版物の抜刷を寄贈してくれることを訴える。協会はまた、進行中の作品の索引を持続 しようとしている。そうすれば情報を、問い合わせてきた人に提供することができるし、せっかくの努力が重複し たりすることがなくなるからである。それ故、会長は本が書かれていることや、学位論文や、それが準備されてい るということを聞くことを大変うれしく思う。 将来は何をするのか?もちろん協会はパーリ原典の版本と翻訳を印刷し、再版し続けるであろう。そして協会 の評議会は、世界の種々の地域において進行中の仕事が、﹁アビダンマーヴァターラ﹄︵シg己冨ヨョ習呉胃巴の翻訳、 ﹁ヴィ籍ハンガ・アッタヵター﹂︵くぎ冨局四,黒替農具園分別論註︶の翻訳の第二部、ごツジマニヵーャ・アッタヵ ター﹂三厘言自画己圃冨︲鼻吾四百昏巴の副註含圃︶の一部分の版本、﹃テーリーガーター賃弓篇吋伺騨冨長老尼偶︶の 21
協会はまた、発行目録にある欠損を満たすための方法を捜している。特に協会は、副註言圃︶の版本をもっと見た いと思っている。註釈含寓冨冨昏巴の翻訳をもっと見たいと思っている。また、この仕事を進んで企画できる研究者 を捜したいと思っている。満足のいくものでなかった初期の作品にとって代わって、何年もかけて生み出された新 版と新訳について私はすでに語った。しかしながら、評議会は発行目録の中に、協会の歴史の中で初期に出版され、 現代の水準では不十分であり、今やとって代わられるべき必要のある原典と翻訳が依然として存在することによく 気づいている。私はこの点ですでになされた作品について記したが、しかしさらに多くのものがまだなされないま まになっている。パーリ原典の版本や翻訳をした研究者が、協会の会長宛に彼らの原稿を送り、協会の判定者たち がその提供された作品を十分に高く学術水準に達していると報告すれば、その時、協会は資金が手に入るなら、そ れを出版する準備をする霊︾ 学で、教科書として使えるように、パーリ原典の翻訳の集成から成っている。索引は種々のパーリ原典になされて うことを聞いて大変喜んでいる。﹁仏教徒の教え﹂に関する書物もまた、編纂されている。これは単科大学や総合大 註釈書の翻訳を伴った新版:そして一ラサヴァーヒニー﹂角四囲乱言昌真味運載︶の一部分の版本を含んでいるとい ︵皿︶ いる。パーリ朗読のカセットテープは準備中であり、﹃パーリ語入門﹂と関連して作られている。そうすることによっ て、その本を使用する人たちは、パーリ語の発音と朗読についての指導を受けることができるであろう。﹁パーリ語 入門﹂を通して独学で研究している学生を援助するために、その本における練習問題の解答書を出版する計画もあ る。一九八七年に出版される予定の学術誌の巻に対する原稿は集められている。それは一八八七年の学術誌の中で、 ほとんど正確に一○○年前に出たテキストである﹃サッダンモーパーャナ﹂︵蟹&菌ヨョOB冒口囚妙法方便︶の翻訳 を含んでいる一・ 22
パ ー リ 聖 典 協 会 の 業 績 と 目 的 来日にあたって、先生は七編の講演資料を用意され、東京大学、国際仏教学研究所、竜谷大学霜.京都大学&東北 大学︵講演順︶で、計九回の特別講演をされた。その講演資料は以下の通りである。 弓ゴ①而堅一弓の〆庁の○口①ご酔いの三①ぐ①日田︺房回国・巴日の 目画吋①①勺堅]ロ旨画○口四国①の シロシロ四ウご画口跡四一くの計留日︺旦年昂元凶口国、弄日ど 以上の講演内容からも知られるように、先生の研究領域は広く、アショーカ碑文に始まり、パーリ、仏教混渚覚 語、プラークリット、アパブランシャに至るまで中期インド・アリァン語全体を覆い尽くすものといえよう。 これら七編のうち、訳者は特に弓篇む農、房曽ggg胃胃三g四.ロg厨四目目易を選んで、先生から邦訳する 許可をいただいた。なぜなら、弓篇両目目①営留Q①qにはこれまでのパーリ聖典協会の事業、現状、さらに今後 の方針などが洩れなく述べられていて、読者の便宜を計れると思ったからである。もう一つ弓胃開も豊冒95弓 われ、交流を深められた“ カ王碑文にみられる破増伽の一記述の問題点について意見を交換されたり、京都や名古屋でも多くの著名な学者に会 リ聖典協会に寄付され、﹁水野出版基金﹂が設立されることになった。また、東北大学では塚本啓祥教授とアショー められ、多忙な毎日を送られた。その間、東京では●原教授と森祖道教授の立ち合いのもと.,水野弘元先生がパー 弓画吋①①勺堅]ロ旨画○口四国 弓ゴの勺堅一臼四国mロ四m①のヘ ロ圃庁9国日●目の冒勺叫壷 シg戸田︺聾巨忌隅唖冒●冊 シg穴埋め食の。ロ尉日ご両旦 U計ロロ︺①の唖口H●①①の口許 ︽︽の。ロ耐ロ︺ご両昌目 回国・ m○国己計得肖①の の言四芹④命匡庁匡尽●①庁四の穴の 31
胃話?も邦訳の許可をいただしているが&残念ながら紙面の都合で掲載できなかった¥次の機会を待ちたし癖なお§錐