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南アジア研究 第28号 029学会近況・田口 陽子「英語テーマ別セッションIII」

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Academic year: 2021

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(1)南アジア研究第28号( 2016年). 学・会・近・況. 英語テーマ別セッション III. Theorizing the New Middle Class in India 田口陽子. 1. 1990 年代以降急増したインドの中間層は、新しいタイプの映画や小説 を生み出し、都市空間の変容に影響を与えている。さらに新中間層の政 治は、企業主義や個人主義の言説と合わさって、統治のあり方を変えよ うとしている。とはいえ、これらの運動の成果は両義的である。一方で は、宗教やカーストなどに徴づけられていない抽象的な市民の概念が呼 び起こされ、新しい政治的主体が作られつつある。しかし他方で、イン ドのヘテロジニアスな都市空間では、抽象的な市民の形成が妨げられて もいる。こうしたなか、中間層の躍進という包括的な語りからは見えて こない、人々が経験している変化とはどのようなものなのだろうか? 本セッションは、文学、映画、民族誌的な事例研究に基づいて、 「新. 中間層」という概念を検討した。田口陽子、Jonathan Anjaria、中空萌. は、人類学の視点から、普遍的な市民主体の希求と、その政治的な具体. 化の間の緊張関係を論じた。Eli Park Sorensen と Ulka Anjaria は、小説. と映画を素材として、新中間層の不安や希望を分析した。以上を通して、 本セッションは、政治経済的な説明では捉えきれない新中間層の主体性 に焦点を当てた議論を深めた。. The Quest for Integrity: Middle-Class Values and Corruption. in Mumbai. Yoko Taguchi(田口陽子). 本発表は、 腐敗と新中間層の価値の緊張関係を論じる。2011年のイン ドにおける反腐敗運動は、都市中間層の利害に基づき下層を排除するも のと批判されてきた。パルタ・チャタジーは、反腐敗を反政治と批判し たうえで、 「腐敗」を糾弾しながら実際に腐敗の利益を一番受けている のが中間層であると、 その二面性を指摘した。これを受けてアルジュン・ アパドゥライは、インドの中間層には「二つの自己」――近代的で市民. 248.

(2) 学会近況 英語テーマ別セッション III Theorizing the New Middle Class in India. 的な自己と、カーストや親族関係に埋め込まれた自己――があるとし、 反腐敗運動は二つの自己の緊張が噴出したものだと論じた。本発表は、 この「二つの自己」という枠組みを援用しながら、 事例に基づいて、 人々 が「二つの自己」を分節化している方法を検討する。 第一の事例は、 「市民候補者」を支援するムンバイの市議会選挙運動 である。そこでは、腐敗した政治家の対立軸として「インテグリティ」 と非政治性に価値が置かれ、インテグリティを測るために企業による心 理テストが用いられた。ここでは、インテグリティの追求という点で、反 腐敗と企業家的な価値が結びついた。対して、第二の事例は、同じ企業 における心理テストの講座から、関係性の中で腐敗せざるをえない自己 と、それを認められない自己の間をつなげるために用いられる「個人的 価値」という語り口を分析する。第三の事例では、作家チェータン・バ ガトの作品を検討する。バガトは、ノンフィクションでは、経済成長を 阻む腐敗を批判し、インテグリティや企業家精神などの価値を称揚す る。しかし小説においては、腐敗と愛着のつながりに埋め込まれている 主人公を共感的に描いている。 反腐敗運動は、既存の社会関係とは切り離された「インテグリティ」 を希求した。これは、自己責任に基づく市場経済の効率化を求める新自 由主義的な価値と共鳴しつつも、そこに限定されるものではない。反腐 敗運動の焦点は、政治家への批判から、活動家自身が埋め込まれている 腐敗とそこからの離脱へと変化していった。三つの事例は、腐敗と相反 する価値のあいだで、その都度切り離されたりつなげられたりしている の「二つの自己」の運動を示している。. Estranged Citizens: Messy Streets and the Middle Class Subject in Mumbai. Jonathan Anjaria. 1990 年代以降のインドの都市部では、市民団体が主張を強めている。. 住民福祉協会(residentsʼ welfare associations) 、NGO、先進的地域管. 理(Advanced Locality Management)などの団体は、 露天商の侵入、 大. 気汚染や騒音、行政の透明化などの問題に、ますます声を上げるように. なってきた。先行研究においては、この新しい市民活動は、新自由主義 的な都市の変容に伴い、政治のトーンが変わりつつあるという問題と広 く関連づけて論じられてきた。すなわち、新しい市民団体は、労働者階. 249.

(3) 南アジア研究第28号( 2016年). 級の政治の衰退、エリートによる支配の強化、新中間層によるアイデン ティティの主張を表象していると指摘されてきた。 これに対して本発表では、中間層がストリートのインフォーマルな日. 常に関与するなかで、 「疎遠化された市民(estranged citizen) 」の感性. (sensibility)と呼びうるものが生み出されているさまを描きだす。この 感性は、伝統的な権力の回路から遠ざけられているという感覚に特徴づ. けられる。ここでいう疎遠は、国家は腐敗しているという感覚のみなら ず、国家は自分たちとは異なる価値に基づいて動いているという感覚に 由来している。その感覚は、合法か違法かは絶対的なものではなくスペ クトラムに位置し、法は融通無碍で、権利は普遍的ではなく不透明でア ドホックな論理によって付与されること、そして市民とは抽象的で法的 なカテゴリーではなく、交渉されるプロセスであることに裏づけられて いる。 本発表は、疎遠化された市民の主体性は、感性として捉えられるもの であり、単一の政治的立場や政治経済的プロセスに還元できないと論じ る。この曖昧な主体性は、都市空間から貧者を締め出し占有するための 努力のみには留まらない、オープンエンドな政治への可能性を有してい る。. Dividual Personhood of New Regional Elites: Engaging in Environment/ Place in Uttarakhand. Moe Nakazora(中空萌). 本発表は、ウッタラーカンド州の「地方都市の中間層」の主体性につ いて、自己と関係的な人格の間の揺れという観点から考察する。 「新中間層」についての近年の民族誌的研究は、彼らが二重の自己、 グ ローバルで脱文脈化された自己と、ローカルな社会関係に埋め込まれた 自己を有すると主張している。一方で、地方都市の中間層については、 新自由主義と地方分権化によりエンパワーされていることが指摘され つつも、民族誌的な研究は少ない。本発表においては、ウッタラーカン ド州のそうした不可視のアクターに焦点を当て、彼らが単に二重である のみならず、グローバル/ナショナル/リージョナル/ローカルな価値 を同時に有していることを主張する。とりわけ新州設立後の「薬草州」 運動にかかわる人々を対象とする。 第一に、ライフヒストリーの聞き取りの結果から、彼らの多くがガル. 250.

(4) 学会近況 英語テーマ別セッション III Theorizing the New Middle Class in India. ワールあるいはクマーウーンの山岳部農村出身であり、州内の大学で学 位を取得した後、州都デーヘラードゥーンに基盤をおいていることを示 した。このことに関連して、彼らのナラティヴは、グローバルな市民と して目覚めていること、ソーシャルワーク、さらには彼らの出身村(場 所と人々)に対する具体的で文脈化された奉仕(seva)や義務(kartavya) のすべての要素を強調している。言い換えれば、彼らのアイデンティテ ィは(抽象的な)ヒマーラヤの「環境」のために働く「自己」と、 「場 所」との間のサブスタンスの具体的なやりとりの中にある「人格」の間 を行き来している。 第二に、このことを踏まえ、特定のプロジェクトにおいて彼らの有す る多元的価値がいかに相互に矛盾し、また調整されるのかを分析した。 彼らは「 (有用な)伝統的な知恵」と「迷信」を「科学」と通約可能か 否かによって区分し、また知的所有権という新自由主義的なイデオロギ ーと民俗医療にかかわる奉仕という価値を創造的に翻訳していた。 上記の分析をとおし、本発表はウッタラーカンドの地域型エリートの. 多層的な主体性を理解すると同時に、分人(dividual)やサブスタンス. =コードという南アジア人類学の古典的な概念を新たな文脈で再評価 することを目指す。. Bourgeoisie and the Form of the Novel: Rohinton Mistry’s Family Matters . Eli Park Sorensen. 本発表は、ロヒントン・ミストリーの三作目の小説、Family Matters. (2002)について論じる。ミストリーの小説は、形式的にもテーマ的にも、 ヨーロッパの古典小説との共通点が多い。ルカーチ・ジェルジによると、 この小説ジャンルはブルジョア革命による新しい階級の形成と緊密な つながりがあった。しかし、19 世紀後半にブルジョアが地位と権力を確 立するにつれ、小説の形式も変化し始める。その帰結の一つは、新しい 文学様式である自然主義の台頭である。自然主義文学は、ブルジョア的 な主体に備わっていた革命の可能性を物象化し、 脱歴史化した。 「物語か記述 か(Narrate or Describe) 」 (1936)において、ルカーチは、リアリズムの語. り(すなわち1848年以前の小説)では物語の別々の部分が包括的な意味の構 造を支えていたのに対して、 自然主義文学ではテクストの別々の部分がフェ ティッシュ化され全体性の感覚が損なわれたと論じた。つまり、ルカー. 251.

(5) 南アジア研究第28号( 2016年). チは、自然主義文学は出来事の全体的な因果関係を描くことを放棄して いるとし、19 世紀の(バルザック的な)古い美学的技法を再び採用すべ きだと述べる――ベルトルト・ブレヒトが論じるように、このことが本 質的に時代錯誤だとしても。しかし、このように時代錯誤であることが、 現代社会で〈いまだ解消されていない〉政治的緊張を見極め、 分節化す ることを可能にする。 本発表は、Family Mattersにおいて、ミストリーもまた時代錯誤の物語 的な原動力を用いることで、他の物語の様式では隠されてしまう緊張を 捉えていると論じる。著者の以前の二作の小説とは異なり、 Family Matter は歴史が過ぎ去ったあとの時間に位置づけられている。一作目では1971 年の第三次印パ戦争における個人の運命が、二作目では1975 年の非常 事態を受けた暴力的な事件が描写されたが、Family Matter は約 20 年後の 1990 年代に設定されている。そこで描かれる世界は、 最初の二作品が扱 った1970 年代の政治的闘争の影に生き続けている。Family Matter で強調 されるのはあとの時間であり、蓄積された過去の滞りが現在において噴 出するさまである。無数の小さな物語が増殖し断片化した現在において は、大きな歴史の軌跡が終焉を迎えたことが示唆されているようにみえ る。しかし、これは同時に、自然主義的で断片化したまなざしを超越す る大きな視点を表現するという、この小説の重要な美学的プロジェクト なのである。. Hindi Film and the Making of the New Middle Class Ulka Anjaria 現代のボリウッド映画、なかでも「マルチプレックス映画」と呼ばれ るものは、 1950 年代の社会主義的な映画や1970 年代の「怒れる若者」タ イプの映画とは異なり、社会的なコミットメントを失ったと批判されて いる。旧世代における「スラムの視点からの政治」とは対照的に、今日 の映画は都市中間層を主なオーディエンスとして想定し、社会的な利害 を表立って扱うことはなくなった。映画のプロットは消費者主義や資本 主義を礼賛し、貧者や周辺的な人々をフレームから排除している。 しかし本発表では、社会的コミットメントが消えたのではなく、今日 の映画は、新しい社会的な主体――スラムではなく中間層向けのアパー トに住まう主体――の形成に関わっていると論じる。この新しい「社会. 的」映画は、重層決定的な(overdetermined)形式的技法を用いるこ. 252.

(6) 学会近況 英語テーマ別セッション III Theorizing the New Middle Class in India. とで、 「よき統治」 、反腐敗、抽象的な市民といった特定の政治的価値を 共有する中間層のみならず、多様なオーディエンスを標的にしている。 そこでは、より基礎的で形式的な意味で、政治的利害と美学的視点を共 有した統一的な主体が呼びかけられているのである。Yuva(2004) 、 Viruddh(2005) 、Lage Raho Munna Bhai(2006) 、Rang De Basanti(2006)の ような映画は、なじみ深い社会正義のイディオムを使って新中間層の主 体を表現した。例えば、中間層のアパシーという昔ながらの批判を引き 合いに出したり、大衆とブルジョアの政治的懸念を混ぜ合わせたりとい う手法が用いられた。他方、より近年の A Wednesday(2008)や No One Killed Jessica(2011)のような映画では、反復的で重層決定的な映画技法 により、 「皆のための正義」が「我々のための正義」に、ほぼ完全に、置 き換えられている。これらの手法は、観客に、単なる観客としてではな く参加者として(我々の一員として)映画の社会的リアリティの中に住 まうよう呼びかける。さらには、別の立場から見るという可能性を締め 出すことで、ヘテロジニアスな意味を排除する。そうすることで、これ らの映画はインドの都市部における新しい社会的主体の構築に参与し ている。その主体とは、映画における支配的な政治を共有するように強 いられた、同じように関係づけられた個々人である。本発表は、新しい 社会的主体の形成は、その成員が共有する特定の政治と同様に、あるい はそれ以上に、重要な問題であると論じる。 註 1. 本セッションは、 田口陽子とJonathan Anjaria が共同で組織した。 口頭発表はすべて英語で. 行われた。 Jonathan Anjaria、 Eli Park Sorensen、 Ulka Anjaria の報告については、 本稿のために. 各自が執筆した英語の要約に基づき、 田口が邦訳・編集した。 田口と中空萌の報告は、 各自が 日本語で執筆した。 たぐち ようこ ●一橋大学. 253.

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