印度學佛 教學 研究 第
64
巻 第1
号 平成27
年12
月 (67
)ヴ
ィ ヨ
ーマ
シ
ヴ
ァ
と
シ
ュリ
ーダ
ラ
の
刹
那
滅論
証
批
判
一そ
の批
判
の対 象
と
批 判
の論点
一酒 井 真 道
1
.問題
の所在
と
本稿
の目
的
仏 教の
刹
那滅
説は13
世 紀 初頭にイン ド仏 教 が 衰亡 を迎 える まで仏教 徒 と非 仏教徒
との間
の論争
の 一大 トピ ッ クで あ り続けた.仏 教 側で はジュ ニ ャ ーナ シュ リー ミ トラ ← Jfi)や ラ トナ キ ール テ ィ (=RK )が ,非
仏教
側で は ウ ダ ヤ ナ が , その論
争の最 終 局面 を伝 えるが ,刹 那滅 説の証 明方 法が確立 さ れ , ある程 度 固定 化 され る ダル マ キール テ ィ (=DhK
)以 降, 彼 らの 時 代 に至 る までの 問の 論争
史に は不 明 な点
も少
な くない .特
に9
世紀
か らll
世紀前半
まで の約 2
世紀
問は,刹
那 滅説
を 巡 る論争
史研 究の 空白
期 間と なっ てい る .DhK
の刹 那滅論 証に対し体 系 的な批判を展 開した最初のバ ラモ ン教系
思想 家は ニ ヤ ー ヤ学 派の シ ャ ンカ ラス ヴァー ミン (=SS
) (ca .7201730−78017gO) と見 なさ れ る が 1) , 彼の著作 は現 存 しない 2).舘 以 降で,最 初に思 想 史に登場 する反刹 那滅 論 者で , その 著作
が現存す
る思 想家
は , ヴ ァ イシェ ーシ カ学派
の ヴ ィヨ ーマ シ ヴァ ← vS ) (900 年 頃)3)であろう
.年
代 的に重 要 な位 置にある にも
か か わ らず
,彼
の刹
那 滅 論 批 判は,筆
者の 知る 限 り, これ まで十 分に取 り上 げ られて こなかっ た .こ の よう
な状 況に鑑み, 本稿
で は, 刹那滅説
を巡 る論争史
研 究の 空 白期間を埋める 目的で ,V
自
の刹 那 滅 論批 判 を考 察 する .特 に本 稿は ,論 証 因を存在性
(sattVa )と する ,sattvdnumdina (−SA
) と呼 ばれ る ,刹那滅 説の 推理形 式に対 する彼の論 理 学 上の批判 に焦 点を合わ せ ,彼の対 論 者 説を吟 味 し, そ して,対 論者 説を論 駁 する 彼の 論 点 を考察 する. これに よ り,V
自の 時代 にお ける論 争の 具体 的 な状 況を明 らか にする のが本 稿の 目的で ある . ま た更
に本稿
で は,論争
の 状況 をよ り詳細 に 把 握 する目的で,VS
に後 続 する シュ リー ダ ラ( −SDh
)(10
世紀後半頃)のNyayakandali
に おけ
る議論
も,彼
の対論者説
の内容分
析を中心に, 併せ て検 討 したい .(
68
) ヴィ ヨーマ シヴァ とシュ リーダラの刹 那滅論証批判 (酒 井)2
.V
台
の対 論者説
の吟味
vS
が紹介す
る仏教説
で特徴 的
なの は, い わ ゆ る v伽 ワ の θδδ励蜘
脚 〃吻 α (所 証 属性の矛盾概 念の領域に論証因 が起こることを否 定する正 しい 認識 ≡ VBP >の 使用方 法 である.彼の対 論 者は,非 瞬 間的 な ものが ,継 時 的 な仕 方で も瞬 時 的 な仕 方で も 目的実 現 を為 しえない こ とを証 明 した後に,以 下の ようにそのSA
を結 論 付 ける. [対論 者 ;]それ ゆえ,この よ うに,非瞬間的 な諸々の ものに起らない 目的実現は,[目 的実現 それ] 自身に よっ て遍 充 されて い る存 在 性を把捉して , [非 瞬 間 的な諸々 の もの に]起 らない .とい うわけで,非 瞬 間的 な諸々 の もの は非存在で ある. それゆえに,こ の よ うな仕 方で,否 定する もの (需VBP )が知 ら れる こ とを根拠に, 他な らぬ主題 に おい て (pakSa eva ),非 瞬間 的で は ない の かとい う疑い の排 除が実現する場合 ,存在性こそ が 瞬 間的で あるもの を証 明する もの である 4). 対 論 者は,他 ならぬ主題におい て,VBP
に よ り, その 主題が非 瞬 間的で は ない のか という
疑惑の排 除5>が 実現す
る場
合 , 存 在性 が 瞬 間性 を証 明す
る論証 因とな る, と述べ る . こ こで主張 され る,VBP
の , 主題 へ の 直接的 な使用 6)は , 後代 モ ー ク シャ ー カラグ プ タ (=MK
)が ,「内遍 充の立場 」(antarvydiptipakSa )と して説 示 する もの 7)と内
容 的に等
しい . こ の見解 に対 しvS
は ,以 下に見
るSA
批 判の 中で , 主題に対 しVBP
を適 用す
るの は不 適切
だ と論駁す
る .3
.vS
のSA
批 判
SA
に対 するV
$
の論 理学 上の批 判 は三つ の 論 点 か らな される.第一の 論 点 は因 の 第三相,第二 は因の 第一相, そ して第三 は因の 第二相お よび第三相,である. その 三点の 何れ も,VBP
を主題 に用い る という
主 張に ,直接 的 あるい は間接 的に 関わっ て い る .3
.L
因の
第
三相 (
否定
的随伴)
に関してまず,
V
自
は ,非 瞬 間的 な もの で も共働 因に依存 して継 時 的 或い は瞬時 的に 目 的実 現を為 すことが 可能であ る と し,存
在性が否定
的随伴 を欠 くこ と を指
摘 する.次
に,彼
はVBP
を主 題に用い るこ との 不適
切さ を指
摘 する . こ こで の 主題 と は, 論 証 因で ある存 在 性 が存在 する もの で あ り, それ につ い て瞬 間性が肯 定 的に 証 明され なければな らない もの で ある.一方
,VBP
は非瞬
間的
な もの につ い て そ れ が非存在
であ
るこ と を, つ まり否 定的随伴
を証明す
るも
の であ
る.す
なわち,非瞬
間的
な もの に用い られ るべ きこのVBP
を, 主題に用い るこ とは不適
切であ
る. 一457
一 一ヴィ ヨーマ シ ヴァ とシュ リーダ ラの刹 那滅論 証批 判 (酒 井) (
69
)こ の
指摘
に対
し仏教徒
は,「非瞬間性」
と, 目的実現
に関す
る 「継 時性 ・瞬
時 性 」との矛盾 を根 拠にVBP
が ,主題 につ い て,非
瞬 間的で はない の かとい う疑 惑 を排 除する場 合,VBP
が瞬 間性 を証 明する, と主張 するか もしれない が これ も棄却
さ れ る ,矛盾
の 理解
は, 矛盾す
る二 つ の もの の存 在 を前提 とするが ,こ の論
証の 場 合,仏教 徒はその 一方
である非瞬
間 的なも
の の存在
を認
めて い ない か らで ある, そ して , もし矛盾が理 解 される とする ならば ,非 瞬 問的な もの は, 矛盾
に つ い て の 理 解 を 人に 生 ぜ しめ る こ とに なる. この ことは,非瞬
間的
なも
の が認識
を生 ぜ しめ るという
目的 実現
能 力 を もっ てい るこ とに他 な らない . よっ て,非瞬
間的な もの で も, 目 的実
現を為 す
の で ある か ら, 否 定 的 随 伴は成 り立 た ない 8). この 批 判の論 法は 舘 の説を継 承 した もの と理解
で き る9),3
.2
。論証
因の第
一相 (
主 題所 属 性)
に関して次
にV
白は論証
因そ れ自体
の ス テ ー タ ス につ い て批 判 する .仏 教 徒か らの直前
の主張
にあっ た よう
に ,VBP
こそ が主題 に おい て瞬間性 を証 明 する もの であるな らば, 一体 , 存在 性 とい う論 証 因の役 割は何か .存在
性 という論
証 因 は無 意 味であ
る . こ れ に対
し仏教徒
は, 根 本にある (mau !ya
)存在
性, す なわち主題にある, つ ま り主 題に限定
さ れ た存在性
独 自相 とも言 うべ きか一 によっ て, 主 題の 瞬間 性 が 証 明 さ れ る, と主 張 するか もしれ ない . その場 合,その 瞬 間性は ,共 通相
では な く独 自相
レヴェ ル の もの であ
る か ら, その瞬 間性は推 理に よっ て決定 さ れ るべ きもの である とは言 え ない 1°).3
.3
. 因の 第二相 および三相に関 して最 後にt 肯 定 的随 伴 ・否
定
的随伴
双方
の観点
か ら存 在性 とい う論 証 因の 過失
を 指摘 し,V
忌
はSA
批 判 を締め く くる. [VS :]そ して, 「存在性の ゆえに」とい う論証因 に とっ て, [所証属 性 を]理 解させ るも の であ る とい う性 質は, 諸同類 ・諸 異類 との肯 定 的随伴 ・否 定 的随伴な し に は, 規則に 沿わない . なぜ な ら ば, [さ も なけれ ば,ユ不共 [の 属性 ]さえ も [所証 属性を]理解さ せ るものである とい う性 質 を もつ とい う不都 合 な帰結が あるか ら. 実に一切の ものが主 題の 中に含められ るの だか ら, 同類 ・異類 が まっ たく存在しない. 主題な どの分 立は概 念 構想に よっ て虚構さ れ た もの である のだ か ら, 概念構 想に よっ て虚構さ れ た同類 に お い て肯 定 的随伴が あ り,そ れ (二 概 念構想)に よっ て 虚構され た もの に他な ら ない 異類 に おい て否定 的随伴がある,と考 えて, [「存在 性の ゆえに」とい う論 証 因 に所証属性 を] 理解させ る もので ある とい う性 質がある な ら ば, 然ら ば, この ように して,推 理は,概 念構 想に よっ て虚構さ れた,主題などの分立に依存 して い る [のだ か ら]で っ ち あ げら れ た もの で あ る.従っ て,他 なら ぬ瞬 間性は 虚偽に違い ない 11〕.(70) ヴィヨ ーマ シヴァ とシュ リーダラ の刹 那滅 論証批 判 (酒 井)
V
忌は,SA
では 一 切が主 題に含
め られるか ら同類 も異類 も全 く存在
せず
,それ ゆ え ,論 証 因は不 共 不定
の過失
を犯してい る と言う
. こ れに対 して仏教 徒は ,事
実と して は「
全て」
が主 題であるが ,概 念構
想に よっ て ,主題
同類
異
類が虚構
さ れ るこ とで , 不共
不定
の過失
は回避される, と主張
するか もし れない , しか し, その よう
な虚構
に基づ く推 理 は, で っ ち あげ られ た もの に過 ぎず
, でっ ち あ げられ た推理 に よっ て証 明 さ れ た瞬
間性 は 虚偽に他な ら ない . こ こで批 判さ れ る ,SA
の 主題が 「一切 」である とい う見 解は ,ア ル チ ャ タ (= Ar ) に トレース で きる.更に また, その 説に対 し, この 論証
因が不共
不定
である と指摘 したの は, 論争史
の 上で は恐
らくvS
が最初
であろう
12).Ar
はHetUbindutika
に おい て,1
)存在
性という
論証 因を用い て一切の もの に瞬 間 性が行き渡っ てい るこ と を証 明 し よ うとする者に は同類は存 在 し ない ,2
)知 覚 に よっ て瞬
間性
は知
られ ない か ら喩 例 とな りう
る瞬 間 的 な もの を提 出するこ とは で きない , という
二 つ の 理 由か ら,因
の第
二相
は構想
上の もの であ り
,実在
の力
(vastubaia )に由来 する もの では ない , と述べ て い る13).つ まりAr
は ,実在の 力と いう観点
か ら見
れ ば ,因の第
二 相は虚構
で あ り,あ くまで形 式上保 持 され るべ き もの に過 ぎない と理 解 して い る 14).V
忌
は , こ の点
を踏
ま え た上で批判
を加
え, 因の 三相 説 が 虚構で ある な らば,SA
で論 証 さ れ る所
証属 性その もの が虚構
であ る と批判して い る と考
えられ る.また ,
SA
におい て は 「一切」
が主題に含 まれ , 同類 も異 類 も存 在 しない , と いう
記述か ら,V
自の対 論者が,VBP
を 主題 に直接 用い る という
立場に立っ てい る理由が理 解で きる.対 論 者にはすべ てが主題だか らであ る ,3
.4
. 小結以 上の
考察
か らvS
は,後代
の 仏教徒 MK
よっ て「内
遍 充」
と名
づ け られる立 場を取る仏 教徒 を相 手に, その論 理の種 々 の 過 失を因の 三相 説
の観点
か ら指摘
し てい ることが分
か る .4
.SDh
のSA
批 判
Nyayakandalr
におい てSDh
が対峙 する対 論 者説は,大 枠で はVS
が対 峙 した そ れ と軌
を一 に してい る.そして, それ を論 駁 するSDh
の 批 判の 論 点 もまた, 基本
的にはV
白
の そ れに準
じてい る .ただ し,論争 中
にSDh
が「
iti
cetl節
によっ て適
宜挿
入す
る 仏教徒
か らの反 論は 豊富で あ り,それ ゆえSDh
の 批判
はV3
の そ れ よ りも広 範 囲にわ た り, また意 を尽 くし た もの となっ てい る .就 中, 以 下 に 見 る , 一455
一 一ヴィ ヨーマ シ ヴァ とシュ リーダラの刹 那 滅 論証批 判 (酒 井) (
71
) 対 論者 に よっ て ,1)
SA
の 論 証 式が提 示 さ れる点,2)
論 証 因が無意 味で あると いう指
摘を 回避 する た め に,種
々 の 説が提 示 されて い る点, こ の 二 点が ,当時の論争
状 況を知
る上で 重 要である .4
.1
.SA
の論 証式SDh
の 対 論 者は, 主題 を十二処と し,喩 例 を もたない 特 徴 的 な論証 式 を提 出する. [対論者 :]そ れ ゆ え に,この ように,能遍で ある継 時性と瞬 時性 とが [非 瞬間的 な もの におい て]知覚さ れ ない こ とに基づい て, 非瞬 間的 な もの に起 こ ら ない 存 在 性 は瞬間 的 な もの に落 ち着 く.そ し て,その ようであるなら,瞬間性の推理 は容 易に得 ら れ る.「お よ そ存 在す る もの ,そ れ は瞬間 的で あ る.そ して,十二処 は存 在す る.」と15).註釈者
ナ ラ チ ャ ン ドラ ス ー リ は こ の論
証式
に以下の よう
な註釈
を施
し,論
証式
が喩例 をもた ない こ との 理由を説 明 してい る . 五つ の感官t 声等を 始 め とする 五つ の対象 意 法 処 [が あ る ].そ して , これ ら が 十二 処で あ る,[こ の 「存在性」とい う論証 因は]内遍充をもつ ものだ か ら, 喩例は ない 16).筆
者の知る限 り,SA
の論 証 式で主 題 を 十二 処とする ものは ,こ のNy5yakandali
の もの の み であるが ,こ の論 証 式が喩 例 を もたない こ とは注 目に値 する.4
.2
.論証因
の無
意味性
に対す
る仏教徒
の諸見解
VBP
に より主題 の瞬
問性
が証 明さ れ る な ら ば論
証 因は無
意味
だ という vS
の指
摘
は ,Nyayakandali
では よ り詳
細に追 究さ れ てい る. その 際,論 証 因の有益性, つ ま り因の 第一相の必 要性 を主張 する対論 者 説 と して以 下のか ら
の立場が順 番に挙 げ られる 17).
主題におい て遍 充の 普遍 的 な一 個 物 を考慮 しない
把 握がある,個 物に
おい て
存在性
は論
証因性
を もつ .VBP
に基
づい ては ,非瞬
間性の排 除と非存
在性の排 除との 間の遍 充が把握
され る.他
方
,存在
性 に基づい て は,実在
を本
性 とす
る瞬 間性の理 解が ある.ダル モ ー ッ タラ (−
DhU
)に よっ て ,「
喩
例 で あ る壺に おい てVBP
に よっ て 遍 充 を証 明 した 上で , 主題である音声におい て,存 在 性に基づい て,瞬 間性が証 明 される.従っ て,双 方 ともに有 意 義である.対象が異 なるの だ か ら.」と言わ れてい る.この
う
ちに お け る遍 充 把 握の 立場は, ジャ ヤ ン タバ ッ タが
Ny
百yama 旬
頒 の中 で, その理論
を仏教徒
に帰す
とこ ろ の「内
遍充」
(襯 例 吻 の と呼
ぶ もの 18)に内 容 的に相 当する .につ い ては,
筆者
は現時点
で は仏教側
の文献
に同
じ説
を見
出(
72
) ヴィ ヨーマ シヴァ と シュ リーダラ の刹那 滅 論証批 判 (酒 井) せてい ない .につ い て は ,内 容か ら判 断 する限 り,
DhU
の説 と完 全に 同定
する の は難 しい よう
に思わ れる.筆
者 が 知る限 り,DhU
は主 題に対 しても
,喩
例 に対
しても
,VBP
を用い てその瞬
間 性 を証 明 す る という
立場 を取っ て い るか らで あ る .ただ し,DhU
は,遍充
の把握
と主 題所 属性
の確定
は別
々 の異
なっ た正 しい認
識一 前 者はVBP
,後者は直接 知覚一 に よる とい う立場を取っ て い る 19)の で , その点
で は ,「
対象
が異
な るの だか ら」という
SDh
の 言 及は,DhU
説に合 致 する.内容
的にの 立場に
完
全 に一致す
るの は,RK
がCitradvaitaprakbSavada
に おい て 「外 遍 充の立場」
(励 尠 @’脚 細 )とするもの 2°)であ る .これ ら
か ら
まで の説 すべ てを斥 けて
SDh
はSA
に対 する論理 学上 の批 判 を締
め くくるが ,対論者
説の最後
の オル タナテ ィ ヴ と して一転して 「外
遍充」
の理 論が持 ち出さ れてい る点
が当時
の論争状
況 を考
える 上で重要
で ある と思われ る.5
.考
察
一 一結
論
に代 え
て一以上か ら
分
か るの は,10
世紀
に属す
るV
畠
もSDh
も,後代
の 仏教徒
MK
が「
内遍 充」
と呼
ぶ立場
一一一他
ならぬ主題
にVBP
を用い て遍充
を把握す
る, つ まり所証
属性
を証 明 する一 を取
る対論者
に対
し, その 立場
と因の 三相説
とが相 容れ ない という
ことを批 判 して い るという
こ とである。そ して,それに対
し,対論者
側も
幾つ かの 見解 を出 して い た21).そ して ,Vyomavati
,Ny5yakandalT
両 著作での 議 論 の展 開 を追う
限 り,SA
という
推理 に おい て仏教 徒 に は内遍充 と外 遍 充の立場が あ り,内
遍充が支 配 的で,外遍充は 主 流 で は な かっ た よう
に見 え る .本稿で考察 した対
論
は, ラ トナーカ ラシャ ーン ティ (ca.970 −1030)がAntarvy5pti
− samarthana を著す
に至る までの 思 想 史の 流れ と状 況 とを良 く物語 っ てい る.思 想史
的に はAntarvyaptisamarthana
は,V 忌
とSDh
の 対 論 者が行っ てい た内遍 充の 擁 護 ・正 当化 (samarthana )の営み (但 し,VBP
を喩例と して の基体に 用い るとい う点で上 記の の立場は除か れ る)の 延 長線
上 に位 置づ けられ るべ き作 品
で ある .1)
Cf
・Steinkellner
1977 , 2)HBTA やKBhA , KBhS 等に引用 される彼の所説 断片はSteinkellner 1963 を参 照. Steinkenner 1977 は,
6S
の説は 以降の ニ ヤーヤ学 派の諸 論師に よ る,DhK の刹那 滅論 証批 判の 出発 点に なっ た とする.本 稿で取 り上げる V3 の刹那 滅 論証批 判の 中にも, 彼に帰さ れる説が見 出さ れる.Schmithausen 1965:248 ,254 は,錯 誤 知を め ぐ る議論に関し,V
忠が依 拠する 人物が 舘 である 可能性につ い て示唆する が, 刹 那滅説批判の 文脈でV
白は 船 に依拠して い る.3)V 忌の 年 代は, Slaje 1986 に従 う.
4
)VYomG
140
,23
−25
(VyomM
・
88b8
−88b9
;Vyom
(th396
,20 −22 ),G
互40,24:paraρakSa eva °;Ch 396,21:
pakSa
ρakSa evdD をMs 88b9;pakSa
eva °とする.一
453
一5)推 理の疑 惑排 除
ヴィヨーマ シヴァ とシュ リーダ ラの刹那滅論 証批判 (酒 井) (73 ) 機能につ い ては Kellner
2004
を参照 ,6
)VBP
の , 主題へ の直接 的な使用はバ ーサ ル ヴァ ジ ュ ニ ャ の 対 論者によっ て も主 張さ れ る.Cf
. NBhU $511
,16− 18.7)
Cf
. TBh47
,1
−6
,9
−13
.・MK
に よ れ ば,喩例 基体におい て帰謬 と帰謬 還 元 とい う二 つ の 正 しい認識 に よっ て遍 充を把握 する立場 (Kajiyama 1998:111−]12で は JfiとRK
に帰さ れ る)が外遍充 論で あ り,他ならぬ 主題におい て,VBP
に よっ て遍充を把握する立場 (Kajiyama
1998
: 111− ll2で はラ トナーカラ シャ ーンテ ィに帰さ れ る)が内遍充論であ る,8
)VyomG
l42,25 − 143,5 (VyomMs 90a5 − 8;VYomch 398 ,15 −
22
) 取 意 .G
143
,2
(Ch
398
,18
−19
):bhavatkapaksa eva を Ms 90a6:ba
’
dhakam pakSa eva とする . G 143,3:
badhakO
;Ch
3g8
,1g
:施 融 盈α 〃7;Ms 90a7:
badhanam
を語 融α η翩 に修正する.9
)Cf
.HBTA
370
,17
−19
(cf.Steinkellner 1963;7− 8);KBhA 87,1−4 (cf. Steinkellner l
963
:8
)(:
KBhS
87
,II− 13).こ の 論 法はバ ーサル ヴァ ジュ ニ ャ に も引 き継 が れ る.
Cf
.NBhUS
511
,20
−25
.10
)VyomG
l43
,5−8
(VyomMs
90a8
−9
;Vyomch
398
,
22
−
26
)取意.G
143
,7
(Ch
398
,24
):maulena をMs
90a8
:mcutlyeua とする.
G
143
,7
(Ch
398
,25
):°lakSapadibhinnam
をMs
90a8
:°lakSa
”ad abhi {m }nnaipとする.
11)
V
シomGl43
,
9
−
13
(VyomMs
90a9
−90b3
;Vyomc
“ 398・26−399’1)’G143 ’9 (Ch398,26 − 27):anv の
yaio
,atireko−
bhy
δm antarepa ;Ms
90a9
−90bl
:anvayaip ,atirekan amtare4a をanvayavyatireka −v antarena に修正する.
12
)Kyuma
2007
はSA
の主 題 を 「一切の 事物」と し た最初の仏教徒を Jfiと し,
SA
の論 証 因が不共不 定で あ る と 批 判 し た 最初の 思 想家として Nyayasara の註釈 者 ヴァ ース デーヴァ を挙 げる.これに対 し筆 者は,Ar
はSA
の主題とし て一切の事 物を想 定し てい たので はない か と 理解 してい る (c£Sakai
2015). ま た,不共不定の過失の指摘 は,少 なくと もV6 までは遡れ ると思 わ れ る.13
)Ar
の議 論につ い て はSakai
2015
を参照.14
)遍 充 は 実 在の力 に 拠 るの で あ り主題 ・ 同 類 の区 別 と は 無関係で あ る とい う主 張はVipaficitfirtha
に も見 ら れ る (cf.Bhattacharya
1986
:99
),この 「実在の 力」が, 存在論的事実を意 味する なら ば, 事実と して は,世界 は,所 証属性 を もつ もの の 集合 と, もたない もの の集 合とに 二 分さ れる の で,所 証属性 を もつ もの の集合を, 主題 と 同類 と に区分 して考 える こ とは概 念構 想に よ る業 となる.Ar
はこれ ゆ え因の第二 相を 虚構と理解する が,彼以外の論 師たちが,これ を虚構とまで 考 えてい た か どうか は不 明.主題 と同類の峻別を め ぐる, 認識 論的視点と存在論的視 点 にっ い て は桂 2003:23 −26 を参照.15)NK l 87,5−7 .
16)
NKT
187
,3
−5
. 17) NK ユ92,3−4 ; NK ・192 ,6−7 ; NK l 93,3−4 (NK l93
,3:坦 ぬ殉 の翩 をyadapyuktam に修正する),18
)Cf
・NM
I
102
,23
−24
.Bhattacharya
1991
:1
(with n,3
)はこ の 部 分 を内遍充の定義と見な し注意 を喚起 してい る.19
)Cf
. 酒 井2013
,Sakai
,forthcoming
.20)Cf. CAPV I 30 ,27 −29 (cf 御牧 1984:220).
21
)主題 に お け る瞬 間性の証 明に VBP を用い つ つ もt 因の 三相の 意 義 を確保 す るとい う取 り組みは DhU に顕著に見る こ と が で き る.C
£Sakai
,fonhcoming
. <文献と略号>CAPV =
Citrfidvaitaprak
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.KB
血A
=K
爭apabhafigEdhy巨ya .Ed
.A
.(
74
) ヴィヨーマ シ ヴァ と シュ リーダラ の刹 那滅論証 批判 (酒 井)21987
:
1
−159
.KBhS
=KSaOabha
血gasiddhi
.Ed
.A
.Thakur
.In
Ratnakirtinibandh
δvali (Buddhistハヶのo MorkS of Ratnakirtij. Patna,
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〃吻 o and 砌 か吻 ノo inDh a虹ni’s 鮹 伽 祕 ‘(to be
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Sa
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互min ,”Miener
Zeitschrift
.17ir
die
K珈 靤Sdidasiens
21
:213
−218
.〈キーワー ド> sattvdnumana ,吻o理 の θ廊 励α勿ρ厂σ〃吻 α,内遍充,外遍充 因の 三相
(関 西 大 学 准 教 授,Dr .
phil
.)一