1.はじめに
戦後,日本が抱えていた大きな外交問題の1 つである中国(1)との関係について,日中国交正 常化前夜の日本における対中国認識を考察す る。特に,中国のプロレタリア文化大革命(以 降,文化大革命)の時期に関係が悪化した中国 と北朝鮮が1970年の関係改善時に発表した,日 本への批判が盛り込まれた中朝共同声明に対す る日本における反応や認識をみていく。
近年,緊迫する朝鮮半島情勢において,国際 社会から非難を受ける北朝鮮に対し,中国は一 定の理解を示している。朝鮮戦争後の中国と北 朝鮮の関係は,「唇歯の関係」「伝統的友誼」な どと表現され,中国と北朝鮮は特殊な絆で結ば れているとされてきた。
しかし,五味[2010
:
116]によると中国と北 朝鮮の両国間には,大きく分けて3つの関係冷 却時期が存在するという。「中国における文化 大革命の時期」,「中国と韓国が国交を正常化さ せた時期」,そして「北朝鮮による核実験実施 以降の時期」である(2)。特に,中国とソ連の対立が始まり,また,中 国における文化大革命の時期は,中国と北朝鮮
の関係が緊密から冷却へと大きく揺れ動いた時 期である。中朝両国が駐在大使を引き上げる状 態にまで発展した関係の悪化は,平岩[2010
:
113]によると「中朝両国の建国以来最悪の状 態であった」とされる。しかし,1969年の中国 建国20周年祝賀行事にあわせるように,途絶え ていた首脳間の往来が復活し,急速に関係改善 が図られることになる。そして,1970年4月に 中国の周恩来が北朝鮮を訪問し,両国の関係悪 化の時期に明確な終止符が打たれた。この時発 表された中朝共同声明において,日本政府は強 い非難を受けることになった。この論文では,中国と北朝鮮の関係が冷却か ら改善へ向かう過程をみていく。そして,中朝 共同声明において中国と北朝鮮で共有されるこ とになった日本に対する批判的な認識に対し て,日本側における関係各者の反応を日中国交 正常化へ向けての流れの中で分析し外交政策に 与えた影響を考察する。
2.研究仮説
1970年4月の周恩来訪朝とそれにともなう日 本を批判した中朝共同声明を受け,日本の野党 政治家や報道関係者の一部は,政府の態度を追
*早稲田大学大学院社会科学研究科 2013年3月修士課程修了(指導教員 劉 傑)
論 文
1970年の日本政府・外務省による中国認識
― 中朝関係改善と中朝共同声明に関して ―
蜂 谷 暁
*求する構えを見せた。
しかし,先行研究等における中朝関係の取り 扱われ方から推測すると,外務省を中心とする 日本政府は,中朝の関係改善及び中朝共同声明 を,あまり重要視していなかったとみられる。
実際,中朝共同声明に対し,日本政府から激し い反対の発言等は控えられている。これらが意 味することは何であろうか。
仮説としては,この時期,西側諸国の趨勢が 中国承認へと流れており(3),日本もその流れを 意識し,むしろ,中国の隣国として率先して,
中国との関係改善へ向けてアプローチし,中国 に対する過度な刺激を控えたのではないかとい う前向きな視点を挙げることができる。あるい は反対に,対中国問題を長期的な視点で捉え,
中国の自発的な変化に期待し,過度な反対意見 の表明は意味をなさないと,やや後ろ向きの認 識であったということも考えることができる。
これらの仮説に基づき,公にされている日本 側の史料をもとに,中朝関係改善と中朝共同声 明に対する関係各者の受け止め方について,実 証的な分析を試みる。
3.中朝関係改善と日本の認識
北東アジアに関する外交や安全保障に関して 1960年代後半に日本が中国や北朝鮮に大きな影 響を与えたと考えられるのが,1965年の「日韓 基本条約」締結であり,1969年のいわゆる「グ アム・ドクトリン」を経て発表された「日米共 同声明」であったといえる。ここでは,中国の 文化大革命を経て中朝関係が冷却から和解へと 向かう過程と,その中で共通認識として発せら れた,日本に対する批判について詳しくみてい く。
(1)文化大革命期の中朝関係
1966年夏頃から中国で文化大革命が始まる と,北朝鮮の労働新聞は同年8月11日に「自主 性を擁護しよう」(4)という論説を発表した。北 朝鮮の社会主義は「修正主義」でもなければ
「教条主義」でもなく,社会主義各国は互いに 自立しており,「自らの「主体」を強調し,社 会主義陣営内の大国主義的姿勢を非難した」
[平岩
2010
:
108]ということになる。これに対し中国は,北朝鮮のイデオロギーに おける「自主性」とは,すなわち,「マルクス・
レーニン主義ではないもの=修正主義」である と批判している。
こうして,中国の文化大革命と,北朝鮮によ る自主性の主張により,中朝関係は60年代後 半,一気に冷めていった。
(2)中朝関係冷却期間の出来事
文化大革命の発動以降,中国と北朝鮮の間で は儀礼的・記念的行事もままならなくなり,北 京と平壌に駐在する両国の大使が引き上げる状 態にまで陥ってしまった。
また,中国では紅衛兵による壁新聞を通じた 金日成批判や,それに対する,北朝鮮の朝鮮中 央通信社による声明等,非公式な場での批判合 戦が繰り返された。しかし,平岩[2010
:
114]よると,相手を名指しするような直接的な「公 式な形での批判は避けられて」おり,「対立が 公然化しなかったことによって中朝関係の修復 は比較的容易であった」とされる。
(3)関係改善のきっかけ
①米朝の衝突
1968年1月23日に北朝鮮の元山港沖でアメリ
カの武装情報船プエブロ号が北朝鮮の海軍艦艇 に拿捕され,80人余りの乗組員が逮捕され,取 調べを受けるという事件が発生した。いわゆる
「プエブロ号事件」である。中国政府は「朝鮮 政府と朝鮮人民の正義の立場を断固支持する」
[李
2010
:
52]と北朝鮮支持を表明した。また,1969年4月15日には北朝鮮によって米軍偵察 機
EC-
121機が撃墜されるという軍事衝突事件 も起きた。この撃墜事件については,米軍偵察 機の乗組員救助にあたり,アメリカはソ連に協 力を求め,ソ連もそれを受け入れる姿勢を示し た。その結果,北朝鮮はソ連に対して猜疑心を 抱くことになった。②中ソ対立の激化
中国とソ連の対立は1969年に国境軍事紛争と いう形で武力衝突にまで発展していた。このよ うな時期に,北朝鮮との関係が悪化したまま で,むしろ,北朝鮮がソ連と接近するような事 態を嫌った中国が,北朝鮮との関係改善を求め たと考えることができる。
③ヴェトナム戦争を巡る北朝鮮の安全保障に関 する問題
北朝鮮が中国との関係を悪化させた問題点の 1つとして,ソ連が提案したヴェトナム戦争に 対する「統一戦線」の形成を中国が拒否したこ とが挙げられる。北朝鮮は,ヴェトナム問題に 自国の安全保障を重ね合わせ,アメリカの軍事 力を依然として脅威と捉えていたからである。
ヴェトナム戦争後の北東アジアにおける軍事 力のパワーバランスを考慮すると,安全保障 上,北朝鮮にとっても中国との関係改善は必要 不可欠なことであったと捉えることができる。
(4)関係改善への道筋
①中国建国20周年記念式典
1969年9月,ヴェトナムでのホー・チ・ミン の葬儀の後,北京を訪れた北朝鮮の崔庸建は中 国の周恩来と関係改善に向けての非公式会談を 行っている。その中で,崔庸建は「金日成が両 国関係を改善することを望んでいる」(5)と伝え ている。この会談の結果,同年10月に行われた 中国建国20周年記念式典に北朝鮮は崔庸建を代 表とする代表団を送ることとなり,中国と北朝 鮮の関係改善が図られることになった。
②周恩来の北朝鮮訪問
1970年4月5日から7日にかけて,前年の崔 庸建訪問の答礼という形で周恩来が北朝鮮を訪 問した。その中で中朝両国は「伝統的友好協力 関係をいちだんと強化し,発展させること」(6)
や,「戦闘友誼と友好的団結をいちだんと強固 にすること」(7)を確認した。
(5)日本に対する批判
周恩来訪朝時に発表された中朝共同声明の中 では,日本に対する共通認識が述べられてい る。それは,日米共同声明と,その中の特に
「韓国・台湾条項」の内容を踏まえ,日本を対 米追従として激しく非難している。特に「日本4 4 軍国主義はすでに復活し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4アジアの危険な侵略勢 力となっている」(8)(傍点は筆者)と表現された 部分が目を引く。
朱[1994
:
307]によると,中国からは「「日 本軍国主義復活」に関する批判は絶えず行われ ていたが,特に三回にわたる批判のピークが あった」とされる。一度目は中国の建国直後の 時期から朝鮮戦争やサンフランシスコ講和条約など吉田内閣全盛の時代であり,二度目は新安 保条約が結ばれた岸内閣の時代である。しか し,いずれの場合も日本の軍国主義は「復活し つつある」という現在進行形の表現を用いてお り,この三度目の「軍国主義批判」の中朝共同 声明における「すでに復活した」という表現 は,これまでの批判を一段強めた表現になって いる(9)。
(6)まとめ
中国で文化大革命が発動されると,北朝鮮は
「自主性」の精神を掲げることになる。アメリ カとソ連の接近を踏まえて,1970年の時点にお いて北朝鮮は,最終的に中国との間で双方の主 義・主張・思想を確認し合い,特に中国の文化 大革命と北朝鮮の千里馬運動(10)や自主路線を 相互に認め合い,結果,両国の関係を改善させ ることになった。
その中で,共通の認識,共通の敵として用い られたのが,アメリカであり,それに追随する 日本であった。特に中朝共同声明の文面上,中 国はそれまでの日本批判を一段強めることに なった。
中国と北朝鮮の関係改善の中で発せられた強 烈な日本に対する非難に対して,日本政府は比 較的冷静に対処した。冷静な対処というより,
ほとんど意識をしていなかったのではないだろ うか。それは何故なのか,引き続き,日本にお ける関係各者の反応を詳しくみていくことにす る。
4.日本における報道機関の反応 中国と北朝鮮の関係改善と同時に発せられ た,日本に対するこれまで以上の激しい批判に
対して,日本の報道機関,特に新聞や雑誌はど のように受け止め報じたのであろうか。
(1)新聞の反応
①『朝日新聞』
朝日新聞は,1969年10月に北朝鮮の崔庸健が 中国の国慶節にあわせて訪中したことなど,中 朝間の要人の往来や出来事,事実関係を他の通 信社等の報道や発表をもとに,ほぼ即時的に,
そして事細かに報道している。あわせて,それ らの事実関係に対し,価値判断や評価,分析を 加えている。
周恩来が訪朝した1970年4月7日の朝刊では
「中朝両国との関係を再検討せよ」との表題で 社説を記し,「(中朝)両国のわが国に対するき びしさが,ことのほかわれわれの注目をひく」
(括弧内は筆者)とし「改めて両国の態度が明 示されてみれば,中国や北朝鮮に対する関係改 善の必要が痛感されるわけである」と論じてい る。これは,日本と中国・北朝鮮の関係改善を 通じて,日本と中国・北朝鮮の間に存在する,
互いに誤った認識を改めることができると読み 解くことができる。また,中国の対外政策につ いて,中国共産党第九回全国代表大会における 平和共存五原則の言及以来「非常に強い線が打 出されている」ものの「実際には現実的で柔軟 な政策が実行されている」と記している。中国 の外交姿勢は,表向き理念や理想,建前をはっ きりと表明しているものの,それと同時に現状 を冷静に認識し,事態に即した外交政策を展開 しているとの分析を加えていると言える。そし て,周恩来の訪朝により「中朝両国がわが国に 対する態度をいよいよ硬化させていることが はっきりした。このままの状態が続けば極東の
緊張状態緩和は望めない」とし,周恩来の訪朝 を日本と中国・北朝鮮の関係を考え直すきっか けとするべきであると表している(11)。中朝関 係改善で明らかとなった中国と北朝鮮の対日姿 勢を受けて,日本政府に対し中国と北朝鮮との 関係の見直しを要求している。
朝日新聞は,中朝関係が日本やアジアに与え る影響と,その反対に,日本が中朝関係や社会 主義諸国に与える影響の結果の発露として,国 際情勢でどのような事態が起きているのか,中 朝関係は詳細に注目し報道する価値があると判 断していることを,記事からは読み解くことが できる。
②『読売新聞』
読売新聞は,中朝関係について朝日新聞ほど 細かくは報道をしていない。しかし,中国と北 朝鮮の関係を,ヴェトナムやソ連との関係など 国際情勢の中に位置づけ読み解き,報道してい る。
周恩来の訪朝にあたっては,1970年4月6日 の朝刊で「中国外交の新しい動き」と題して社 説を発表している。これによると,文化大革命 の収束以降,建て直しを図っている中国の外交 については「新しい外交的展開を意味するもの ではない」としながら,中朝関係の改善につい ては,それまでの冷却期間と中国の関係改善に 向けての積極性を論じ,周恩来の訪朝を「単な る儀礼的なものではなく,中国外交の新展開」
と述べ「単なる国家関係の正常化を超えて両党 関係の改善をねらいとするものがみられる」と 記している。北朝鮮にしても「中国との党関係 の改善を希望することは当然といえる」と表 し「中朝関係の改善は,日中関係の打開をます
ます困難にするものといえよう」と論じてい る(12)。
一方,同年4月15日の朝刊では読者欄で,
『“日本帝国主義”にあ然』『なぜこうも露骨な のか-きらわれる理由も考えてみよう』という 読者の意見を載せている(13)。
いずれにしても,読売新聞は,読者の意見も あわせて,中朝関係改善の成り行きに関心を持 ち,朝日新聞ほどではないが,それに対する分 析を試みている。
(2)雑誌の反応
①『中央公論』
『中央公論』では,1970年6月号にて「“軍国 主義復活”は曲解か」と題し,共同通信の内田 健三氏と朝日新聞の波多野宏一氏の対談形式の 特集を組んでいる。その中で目を引いたのが
「中朝共同声明が,日中コミュニケ(14)にも響い たという見方は間違いだ」(内田),「中朝最高 首脳会談から日本の覚書貿易会談が影響を受け たというのは転倒した見方であって,むしろ日 本軍国主義復活という共通の認識があって,そ こに周恩来・金日成会談が久しぶりにおこなわ れた。そうした共通した基本的認識の重みを評 価しておかないと,こんどの会談の特徴はつ かみきれない」(波多野)(15)という見解である。
中朝共同声明があった後で,日中覚書貿易に関 する共同コミュニケが発表されたという時間の 流れから捉えるのではなく,そもそも,日本軍 国主義復活が日中外交上の前提として先に存在 しているという見方である。それを踏まえて,
共同コミュニケの具体的かつ本質的な問題を日 本の台湾への過度な関わりであるとし,その抑 止的な狙いとして日本軍国主義復活を抽象的に
取り上げたとしている。「原則を強く貫いてゆ くと同時に,その原則を貫徹するため,やわら かい面で動いてゆくことは,中国外交の一つの 特色で,コミュニケで強く日本の軍国主義に対 決する原則があるゆえに,硬軟両面の外交が展 開できるのだ」(波多野)(16)と中国の外交政策 を評価的に分析している。
②『朝日ジャーナル』
『朝日ジャーナル』の1970年4月19日号では
「中・朝・ソの微妙な三角関係」という記事に おいて,中国の周恩来が北朝鮮を訪問した経緯 を,中朝間の過去の関係と関係改善への流れと ともに報じている。特に北朝鮮サイドの外交政 策に視点を置き,中朝共同声明の目的を対日関 係における警告としての意味と捉え,一方,中 ソ間の不安要素が大きい中で,北朝鮮がソ連か ら離反することを意味するものではないと,北 朝鮮の自主路線を評価している(17)。また,同 じ号の「北朝鮮の対応論理」と表する記事にお いても,「よど号ハイジャック事件」に対する 速やかな対応から伺える,北朝鮮の自主路線を 高く評価している(18)。
(3)まとめ
中朝の関係改善に対する報道機関による分析 をみてみたが,朝日新聞における報道の分量が 飛び抜けて多いことが目立った。中朝要人の移 動について逐次報道しており,それだけ中国と 北朝鮮の動向に注目を払っていたことを伺い知 ることができる。
また,ソ連との関係にも着目し,北東アジア における共産圏の動きを各社分析しており,そ の点からも,中国と北朝鮮の関係改善は北東ア
ジアの国際情勢に大きな影響を与えるもので あったと認識できる。
いずれの社についても,中朝が日本に対して 以前にも増してより強硬な線を打ち出したこと について危機感を示しており,北東アジアにお ける国際情勢がどのように変化するにしても,
日本政府に対して,何かしらの外交政策の転換 を求める声を強めたと言うことができる。
次項では,このような状況について,日本の 政治家や政府がどのような認識を有していたの かを詳しくみていくことにする。
5.政治家・外務省の認識と反応 中朝関係改善と日本批判を盛り込まれた中朝 共同声明に対して,日本の政治家はどのように 認識したのか。また,政府・外務省はどのよう に理解したのか。何故,外務省は中朝共同声明 に対して反駁等の措置をとらず冷静な対応に終 始したのか。以下に詳しく考察していく。
(1)政治家(野党)の反応
国会では,日本社会党をはじめとする野党 の一部政治家たちが,中朝共同声明について,
「(1969年の)日米共同声明というものに対する 対抗措置のようにも受け取れる発言」(19)(括弧 内は筆者)と述べており,政府の日米共同声明 に対する解釈と日本の軍備費の増大に対する姿 勢等について,政府の対応を追求した。
しかし,中朝共同声明そのものに対する直接 的な国会での質問や断固たる「賛同」あるい は「反対」と言った発言は数が少なく,同時に 進行していた「日米共同声明における安全保障 体制への危惧」や「よど号ハイジャック事件」,
「ヴェトナム問題」,「中国問題」,「沖縄返還」
など,北東アジア全般の安全保障問題に注目が 集まり,その一連の発言の中で,中朝問題に触 れられている印象を受ける。つまり,野党の政 治家たちにとって,中国や北朝鮮という国家単 位の個別具体的事例に対する関心は大きいもの の,中朝という第三国間の動きや声明に対して は,外交問題の中の一問題として包括する形で 捉えており,それに基づいた政府への質問が目 立つ。
一方,日本共産党の宮本顕治書記長は,中朝 共同声明における「日本軍国主義はすでに復活 し」たかについて,記者会見で「(軍国主義の)
復活傾向は否定しない。(中略)わが党は日本 に軍国主義が全面的に復活したとはみていな い。たとえば憲法によって,徴兵制はないし,
当然海外派兵も禁止されている」(20)(括弧内は 筆者)と述べ,中朝共同声明における「軍国主 義復活」について,真っ向から否定している。
(2)政府(与党)の対応
中朝共同声明に関する,政府への野党からの 質問に対する回答や,政府の資料を紐解くと,
内閣総理大臣であった佐藤栄作をはじめとする 政府は,従来の姿勢を貫き,原則論に終始し,
中国自らの変化に期待する受け身的な態度で 捉えていた。例えば,「日本の軍国主義は復活 しておらず」(21),中国問題は台湾との「国際信 義」(22)によるものであり,「中国が現実的な態 度で国際社会に臨むことを強く希望する」(23)と 発言している。
中国の日本に対する「軍国主義批判」は,
1970年の中朝共同声明で始まったものではな く,政府内においても「またか」といった感 覚があったことは否定できない事実であろう。
加えて,当時の外務大臣であった愛知揆一が,
1970年のインド・パキスタン訪問を前に,駐日 インド大使である,
V. H.
コエルホと会見した 際には,「中共との関係は政治的に何らの変化 はなく,むしろ,若干悪化している。(中略)日本は中共を挑発していないにもかかわらず,
周恩来は日本に対して強硬な態度を示してい る。(中略)周恩来は心中,対日関係を改善し たいのではないかと思われるが,表向き強硬な 態度を持している」(24)と述べている。また,実 際にインド・パキスタンを訪問した際の史料に は,「北京政府は,(中略)米国およびわが国に 対し強硬な態度を示していますが,わが政府と しては北京政府が,その対外関係においてより 協調的かつ建設的な態度をとるよう期待してお ります」(25)とも記されている。
つまり,政府の立場としては,中朝共同声明 をはじめ,同時期の強硬な中国の外交姿勢につ いては,あくまでも,日本の外交政策に変化が あるのではなく,従来通りの外交政策の延長線 上にあるものであって,中国との関わりについ ては,中国側の態度の変化に期待する以外に方 法がないといった,受動的な姿勢であったと言 うことができる。
(3)外務省の認識
池田[2004
:
293-
294]によると,中朝共同声 明について,「中共の「軍国主義復活」非難に 対する日本政府・外務省の反応は冷静なもので あった」と述べている。そして,その根拠とし て,周恩来訪朝時の中朝共同声明や同時期の日 本批判を受けて作成したと推測される,1970年 4月18日付け外務省アジア局中国課の「毛沢東 没後の中共(将来の予測)45.
4.
18中国課」(26)と題した文書を示している。
そもそも,外務省は,日本に対する「軍国 主義の復活」等の批判がなされた時点におい て「独裁者」としての毛沢東の「没後」のこと を詳細に考察している点で,逆に考えると,毛 沢東が政権を握っている間における中国政府に 対する反駁等は,有効な結果を導かないであろ うと考えていたと推測できる。いわば「毛沢東 の次」に期待し現状は「悟り」に近い認識に到 達していた状況であったと理解することができ る。その上で,「毛沢東に,もしものことがあ れば,誰が後継者になるかが極めて重大な問題 となる」(27)とし「全党は一致して,毛の後継者 が林彪であることを承認したのである」(28)と示 している。しかし,「独裁者が依然として現在 なお,権力の座にあるときに,後継者をあらか じめ指名あるいは決定しておくことは,きわめ て異例のこと」(29)であるとし「現在の独裁者に とつては,その分だけ自分の権力が削減され弱 体化することになる」(30)と分析し「毛沢東の次」
である「後継者」として林彪を指名することに 対し危惧を示している。しかし,「ソ連共産党 の歴史において,(中略)独裁権力が移つてい つた際の,血で血を洗う骨肉の争いをみて」毛 沢東流の判断で「後継者」(31)を指名したとも推 測している。その「後継者」としての林彪につ いて,「政治家としての手腕力量からみて,林 彪は周恩来に,はるかに劣るし,軍人としても,
林彪より先輩の将軍は少なくないし,また党に 対する貢献度からいつても,林彪には特筆大 書すべき功績があつたとは考えられない」(32)な ど,林彪の力不足を毛沢東との比較を含め,あ らゆる角度から指摘している。
結論としては,林彪,もしくは,「毛沢東の
次」が誰になろうと,毛沢東の「カリスマ性」
に及ぶ人物は到底考えられず,中国共産党が政 権の正統性を保ち政権を維持するためには「民 衆の生活水準向上」(33)が必要となってくると示 している。そして,そのためには中国の経済発 展が不可欠であり,「経済の体質改善をはかる ためには,資本と技術を外国に求めるほかない であろう。(中略)その場合,日本は地理的に4 4 4 4 4 4 4 近接しているうえに,経済的には相互補完関係4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 に入りうる条件があるから,将来の中共経済と4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 結びつく可能性は,4 4 4 4 4 4 4 4 4(中略)はるかに大きいと4 4 4 4 4 4 4 4 みるべきであろう4 4 4 4 4 4 4 4」(34)(傍点は筆者)と,当時 の中国の外交関係と地理的条件を考えると,経 済面を中心として結果的に日本を頼りにせざる をえなくなると外務省は認識していた。加え て,いずれは,諸外国との外交関係において,
中華思想による強硬な姿勢から,協調路線へと 切り替えなければならないと指摘している。い ずれにしても,当時の外務省は,中朝からの批 判を受けて,このような文書を記し,現状では 中国側における外交姿勢の変化に期待する以 外,いかなる反論をしても,大きな意味を持つ ものではないと推測していたと言うことができ る。
前述の池田[2004
:
297-
298]によると,この 文書から当時の外務省は,「対米協調の最優先 という外交的配慮と制約が存在したことに加 え,中共政権が近い将来,自らその外交姿勢4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 の変化を余儀なくされる情勢4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4を見通していた」(傍点は筆者)としている。つまり,そう遠く はない時期に中国側から西側諸国に接近せざる をえなくなると外務省は予測していたというこ とである。そのため「(日本が)対中政策につ いて自ら性急な行動を起こす必要性は乏しいと
判断していた形跡が濃厚」(括弧内は筆者)で あり,「キッシンジャーの極秘訪中,及びニク ソン大統領の訪中発表は,日本政府のかような 判断(性急な行動を起こす必要性は乏しいとの 判断)の裏をかく形になったのであり,(中略)
日本政府にとっては,最大の衝撃だったのであ る」(括弧内は筆者)との分析を行なっている。
歴史上,池田が述べるように,西側諸国から の積極的な接近によって,中国を国際社会に引 きずり出すことになったことは結果的に否定で きない。しかし,それが,この外交文書が記さ れてから2年以内に起きうるということについ て予測することは,困難であったとも言える。
上記の外交文書において,外務省の予測・態 度がはっきりと示されていない点がある。表題 にあることから当たり前のことであるが,この 文書は毛沢東の「没後」について予測している のだが,ここに書かれているような転換が「い つ」起きるのか,明確に記されていない。毛沢 東の「没後」という時間軸上不確定な要素を 前提に書かれている。現に,毛沢東はその後,
1976年まで存命し権力の中枢に居続けた。その 点,外務省としては,対中国政策としては,か なりの「長期戦」として,かつ,中国側の態度 の変化に期待する「待ちの姿勢」で立ち向かう ことを前提としていたことが,以下の文書から も推測することができる。
外務省は,1970年5月の時点で「もし極東の 緊張緩和と日中関係改善のため,北京政府が応4 4 4 4 4 4 ずるなら4 4 4 4ば,(中略)政府間接触の道を開きた いと考えている。かかる考え方は,わが国外交 の7・0年代の課題4 4 4 4 4として,北京政府との間に真摯 な対話が持てるような雰囲気を醸成したいとい う長期的な考え方4 4 4 4 4 4 4に立脚するものであり,北京4 4
政府においても,現在のような問答無用という4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 態度を棄て,平和的な話し合いによって,相互4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 理解と関係改善をはかるという方針をとるよう4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 期待したい4 4 4 4 4」(35)(傍点は筆者)という文書を記 しており,中国問題に対する日本の姿勢として は,長期的な視点で,中国の出方が自ら変化す ることを期待すると,明確に述べている。
また,1970年8月には,中国の「日本軍国主 義復活」論に対して,「中共は北京を中核とし,
平壌とハノイを両翼としてアジア諸国の左翼勢 力を糾合する新しい「統一戦線」結成のため,
「米帝国主義反対」とならんで,「日本軍国主義 反対」を利用している」(36)と示している。つま り,アメリカや日本に対抗する意志の表れとし て,左翼勢力が「統一戦線」をつくっていると 分析しているのである。
さらに,中国問題は,国際情勢の変化を見据 えながらも「70年代の長期的な外交課題」(37)と して,ここでも捉え,これらの考え方に立脚し て,日本側からの急速な歩み寄りは望んでいな いという傾向を伺い知ることができる。
加えて「従来のわが国の中国政策は常に受身 であり,(中略)中国をめぐる国際情勢の動き のなかで,消極的にわが国の国益を守るという 方針が受け継がれてきた。今後(中略)明確な 長期基本政策をもち,かつこれを積極的に推進 して行かなければ,アジアの主役たり得ないで あろう」(38)と記されている。
なお,上記の様な外務省による考察は,1969 年の日米共同声明が発表された時点で,一部な されており,そこでは,「わが国と中国大陸と の関係がこのように「不自然な状態」になつて いるのはもちろん日本政府の責任でもなければ いわんや日本国民の罪でもない。端的に云つ
て,それは中国が内戦の結果,二つに分裂し,
相互にきびしい敵対関係にあるためである。
(中略)今後長期的に見て,毛沢東の死亡や中4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 共政権の変質あるいは内外政策の柔軟化や現実4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 主義化がもたらされれば4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4,中共も対米関係改善 に乗り出す可能性があろう。(中略)当面,政 府は(中略)中共を不必要に刺激せざるよう配 慮するとともに,国会答弁,記者会見等におい ては,政府としては,長期的,基本的には中共 との関係改善を十分考慮している旨の態度を示 唆する」(39)(傍点は筆者)と記録しており,外 務省は日米共同声明の発表時点で,中国に対す る今後の考え方についての基礎を固めていたと 推測することができる。
いずれにしても,日本の外務省における対中 国問題についての考え方は,過度な刺激は避け つつ,当時の,その時点における国益を最優先 に考える原則的な政策を中心に据え,中国から の出方や中国自身の変化に期待する,長期的な 検討課題として身構えていたことが,これらの 文書から受け止めることが可能である。
なお,「ニクソン・ショック」に代表される ような短期間で劇的な変化を,当時の日本の外 務省で予測することは,対米関係や米中関係,
日中間における険悪な関係を考えると現実的な こととして想定することは難しかったと言うこ とができるであろう。
(4)まとめ
1970年の中朝接近と中朝共同声明,それを受 けた,日本における政治家の反応,及び,外務 省の認識をここではみてきた。
日本の野党においては,そもそも中朝共同声 明そのものに対する国会での質問は多くはな
かったが,中国と北朝鮮という第三国間の態度 については,その他の外交問題の中の1つの問 題として包括する形で捉え,政府への質問を行 なっていた。
日本共産党は,中朝共同声明における「日本 軍国主義復活」論について,記者会見で,軍国 主義復活の傾向は認めたものの,日本における
「軍国主義の復活」については否定している。
日本の政府の反応,及び,外務省における 中国問題に対する認識は,「毛沢東没後の中共
(将来の予測)」(40)につきると言えよう。当時の 外務省は,「ポスト毛沢東」に大きな期待をし ていたという点が,表題からでさえ明らかなよ うに,はっきりと認識できる。しかし,それが いつ訪れるのかは分からない。その主旨に立脚 するならば,対中国政策においては,短絡的な 思考により挑発的な反発を含む反応を図るより も,長期的な視野の中で,中国自身の国際社会 における対話へ参加する態度に変化する期待を 抱きながら,中国に対して大きな刺激を与える ことは控えつつ,国際情勢の変化に対応できる ように,日中間における最低限の繋がりを維持 しようと試みていたと総括することができる。
6.結 論
本論文では,主に1970年の周恩来の北朝鮮訪 問にともない発表された中朝共同声明を受けた 日本の関係各者の反応を中心に,日本政府・外 務省における当時の中国に対する認識・姿勢を 考察してきた。
政府・外務省の外交活動を記した,『わが外 交の近況』(外交青書)においては,その第14 号(1969年~1970年 ) 及 び 第15号(1970年~
1971年)で,中国や北朝鮮の動向について,詳
細に記載されている。また,内閣官房内閣調査 室が発行する『調査月報』においても,1969年 以降,逐次特集が組まれ,中国や北朝鮮の動 向や対日政策について,詳しく述べられてい る(41)。
政府は,日米共同声明が発表された1969年以 降,中国や北朝鮮の動向に関心を持っているこ とを,各種刊行物を通してはっきりと意志を 持って国内に示しはじめたことは事実であろ う。日本国内の報道関係についてみてみると,
報道各社とも,中国と北朝鮮,及びソ連の影響 力に注目し,共産圏全体として認識している。
加えて,どの社も,中国と北朝鮮が強硬路線を 示したことに危機意識を抱きつつ,日本政府に 対して外交政策の見直しを求めていった。
しかし,日本政府・外務省は,中国と北朝鮮 が関係を改善し中朝共同声明において名指しで 非難されたにも関わらず,全体の流れとして は,終始,原則論の立場を強調し,受け身的な 態度を示しつつ,直接,相手国に対して反駁す ることはほとんどなかった。
外務省は,中朝から日本に対する批判,及び,
報道各社の北東アジアを巡る共産圏各国の結び つきに対する危険性の指摘について,かなり冷 静に対応した。外務省の総論としての認識は,
「毛沢東没後の中共(将来の予測)」(42)における 分析がかなりの部分に反映されていると推測す ることができるであろう。日本の外務省では,
総論として「ポスト毛沢東」時代に視点がシフ トしていたと言える。当時の外交政策において は,中国に対して反駁し無理に刺激を与えるこ とは控え,いずれ必ず到来する,中国の国際社 会へ参加する態度への自発的な変化について,
長期的にそして受け身的に期待していたのであ
る。
言い換えると,外務省はカナダやイタリア等 の西側諸国が中国承認へ傾いていることや,国 連における中国代表権問題も徐々に中国有利な 情勢になっていることを前提に,中国の隣国と して積極的に接近し,中国に対する過度な刺激 を与えることを,前向きな意味で控えたという ことではない,と言うことができる。
1969年以降,アメリカの中国に対する接近姿 勢が明らかとなり,日本においても「対中関係 改善の“バス”に乗り遅れるな」という議論が 一時,表に出てきた時がある。それについて,
1969年7月に外務省で開催された,「アジア・
太平洋地域大使会議」において,安川壮フィリ ピン大使は「国内には,いわゆる「バス乗り遅 れ論」がある。しかし,国益から考えると,日 本は,むしろ乗り遅れるべきではないか。(中 略)単純な乗り遅れ論はとるべきではない」(43)
と発言している。また,1971年9月に開催され た,同じく「アジア・太平洋地域大使会議」で は卜部敏男フィリピン大使が,いわゆる「ニ クソン・ショック」について「ニクソン訪中 が(日本の)頭越しに行われたのはむしろ歓迎 すべきであり,もし相談されたら日本は困った であろう」(44)(括弧内は筆者)と発言している。
これらの発言内容から明らかなように,対中国 問題について,外務省の認識は決して前向きで はなかったと推測することができる。
つまり,外務省の判断を総括すると,中国や 北朝鮮がいかに日本を批判しようとも,現実的 な対中改善を視野に入れて冷静な対応をとった という訳ではなく,「ポスト毛沢東」時代を考 慮しながら過度な反応をとっても意味をなさな いと判断した結果,反駁することをしなかった
と言うことができる。
しかし,このような中国に対して表向き反対 の意思表示を明確に行わないという政府・外務 省の認識や対応が,幸運にも,結果的には,2 年後に控えていた日中間の関係に対する潮目が 変わった際において,日中国交正常化を短期間 で劇的になしえる土台を最低限維持することに 繋がったと結論付けることができるであろう。
〔投稿受理日2013. 5. 25 /掲載決定日2013. 6. 27〕
注
⑴ 本論文では,特に示さない限り,中華人民共和 国(大陸における政権)を「中国」,中華民国(台 湾における政権)を「台湾」,朝鮮民主主義人民共 和国を「北朝鮮」,大韓民国を「韓国」,ソビエト 社会主義共和国連邦を「ソ連」と記す。また,引 用箇所においては「中共」「北京政府」等といった 表現をそのまま用いた。
⑵ もっとも,中朝間の関係冷却時期の数え方には 様々な見解が存在する。
⑶ 例えば,朝日新聞は1969年1月26日の朝刊社説 において「西欧の中国承認への新潮流」と題し,
1964年にはフランスが中国を承認しており,カナ ダとイタリアは1969年に入り中国承認に向けての 接触を開始した旨,記載している(『朝日新聞』
1969年1月26日,朝刊5頁(社説))。また,外務 省の『わが外交の近況』(外交青書)(昭和44年度 版第14号)では,国連における,中国代表権問題 について,1969年の国連総会で重要問題確認決議 案が賛成71,反対48,棄権4で可決され,アルバ ニア型決議案についても,賛成48,反対56,棄権 21で否決されてはいるものの,前年と比べて「や や中共側に有利な結果に終った」と述べている
(外務省『わが外交の近況』(昭和44年度版第14号,
241頁))。
⑷ 日本朝鮮研究所編『朝鮮の国際路線-国際共産 主義運動と朝鮮労働党』日本朝鮮研究所,1966年 10月,6頁。
⑸ 中共中央文献研究室編『周恩来年譜(1949-
1976)下巻』中央文献出版社,1997年5月,320頁。
⑹ 森下修一編訳『周恩来・中国の内外政策(下巻)』
中国経済新聞社,1973年4月,91頁。
⑺ 同上。
⑻ 「中華人民共和国政府 朝鮮民主主義人民共和国 政府 共同声明 1970年4月7日」『北京週報(日 本語版)』北京週報社,1970年15号(4月14日号),
3-5頁。
⑼ 一説によると,「軍国主義が復活した」という表 現は北朝鮮側の試案に入っており,当時,文化大 革命の最中で日本研究者が少なかった中国は北朝 鮮の表現を採用したとのことであり,後に周恩来 の提案により「復活した」という表現は使われな くなったとのことである[高 2010: 36]。
⑽ 「朝鮮民主主義共和国が朝鮮戦争後,復興・建設 事業を進めるために行なった運動。物質的刺激策 だけでなく,階級的政治教育の強化によって経済 建設の促進がめざされた。」(『スーパー大辞林 3.0
(電子版)』三省堂,2009年10月。)
⑾ 『朝日新聞』1970年4月7日,朝刊5頁(社説)。
⑿ 『読売新聞』1970年4月6日,朝刊5頁(社説)。
⒀ 『読売新聞』1970年4月15日,朝刊19頁。
⒁ 日本は1952年に台湾との間で「日華平和条約」
を締結し,大陸の中国とは国家間関係が絶たれる ことになった。民間貿易協定に基づき民間による 交流は維持・継続されたが,これも,親台湾路線 を取り日米新安保条約を結んだ岸内閣の時代には 途絶えることになる。
この民間交流・貿易を準政府間の取り決めとし て復活させたのが,日本の高碕達之助と中国の廖 承志の間で成立した「日中長期総合貿易に関する 覚書」に基づく貿易(いわゆるLT貿易)である。
しかし,これも,当初の期限である5年をむか える1968年,佐藤内閣の否定的な対中姿勢と中国 国内の文化大革命による対日強硬政策の影響を受 けて,1年更新の「日中覚書貿易」(いわゆるMT 貿易)へと替わることになる。1970年4月の延長 交渉においては,同時期に発表された中朝共同声 明の事実上の具体的な政策を中国側が日中覚書貿 易の政治会議の場で示したと理解することもでき,
日中覚書貿易そのものの継続が困難な状況に一時 陥る。
この日中覚書貿易の存続を巡り繰り広げられた 政治交渉の結果を受けて1970年4月19日に発表さ れたのが「日中政治会談共同コミュニケ(日中コ ミュニケ)」である。
共(将来の予測)」。
� 例えば,内閣官房内閣調査室『調査月報第170号』
では,「中共の内外情勢と日中関係」及び「北朝鮮 の内外情勢と日朝関係」として特集が組まれてい る(内閣官房内閣調査室『調査月報第170号』1970 年2月)。
� 前掲,外務省アジア局中国課「毛沢東没後の中 共(将来の予測)」。
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