『1月号のコンテン
ツ』
月刊サティ!
2015年3月号
瞑想には、心を変える力があります。
心が変われば、新しい世界が開けてきます!
Monthly Sati !
March 2015
1
ブッダの瞑想と日々の修行
~理解と実践のためのアドバイス~
今月のテーマ:慈悲の瞑想(1)2
グリーンヒルWeb会だより
「呪縛から解放された瞑想」(1)3
今月のダンマ写真
4
テーラワーダ仏教翻訳シリーズⅠ
今生での悟りを目指して ウ・パンディタ サヤドゥNo.555
サティのひとこと
読んでみました
『それでも、私は憎まない』 『雨上がりに咲く向日葵のように』7
~今月のダンマ写真~
(おことわり) 編集の関係で、(1)(2)・・・は必ずしも月を連ねてはおりません 戒を受け入れて守っていくことは、決して仏教の前座ではな く、解脱が完成した状態の表現といっても良いほど重要です。 ダンマトークでも度々強調しておりますが、今回は特にそれに 関連する内容でまとめましたので、ぜひご修行に役立てて欲し いと思います。 (慈悲の瞑想のやりかた) Aさん:慈悲の瞑想はいつどのようなかたちでするのが良いで しょうか。またそのポイントはどこにありますか。 アドバイス:慈悲の瞑想は集中して実感を込めてするのが理 想です。それも涙が出るくらいに心から。これがポイントです。 これはサマタ瞑想のやり方と同じと言えます。 まず定番通りにやりまして、その後に誰か特定の人の名前 を主語にして、「〇〇さんが幸せでありますように」「〇〇さん の悩み苦しみがなくなりますように」とやってもよろしいですし、 「私と親しい人々が・・・」というようにしてもかまいません。 また、慈悲の瞑想は普段の生活の中にもぜひ取り入れて欲 しいと思います。ブッダの瞑想と日々の修行
-理解と実験のためのアドバイス-
今月のテーマ:慈悲の瞑想(1)
3月号のコンテンツ
6
1
テーラワーダ仏教翻訳シリーズⅡ
瞑想は綱渡りのように 28タイ バンコクのワットポー(涅槃寺)の、涅槃
仏の傍らに安置されていた仏像
目立ってはいませんでしたが、何か惹か
れるものを感じ 写真におさめました。
(M.M.さん提供)
私の場合には、バスに乗った時、電車に乗った時には必ず すぐにやるようにしています。例えば、「このバスに乗ってい るすべての人が幸せでありますように。悩み苦しみがなくな りますように。願う事がかなえられますように・・・」というふう にです。このように心の中で唱えるには一分もかかりません。 どなたにでも中途半端な時間というのはけっこうあるはず です。電車が来るのを待っている間とか列に並んでいる時、 サティが入らない時などには慈悲の瞑想だけでもやると良い のです。何もしなければ、ただもの思いをしたりイライラしたり、 煩悩的な反応に流されていることが多いのではないでしょう か。 ただ、そのような時の慈悲の瞑想は、やはり実感は込めに くいでしょう。たとえ言葉だけになってもかまいません。慈悲 の意味を持つ言葉が頭のなかを通っていくだけでも一瞬にし て心は変わるものです。善なる言葉が意識されればそのよう に心の反応は始まります。逆にネガティブで不善なる言葉が 通過すればそのようになっていきます。結局、心は言葉によ って大きな影響を受けるということです。 この慈悲の瞑想というのはどなたにとっても取り入れやすく、 また、やればやるほど心は確実にきれいになっていきます。 ですから、瞑想会などでは修行の一環として行なっています が、やれる時にはいつでも慈悲の瞑想を心がけてください。 (慈悲の瞑想のはたらき) Bさん:何年もお付き合いのある人なのにある時なぜかすご くぶっきらぼうで、「何だこいつ」と思ったんです。それで、次 に会う前に一所懸命慈悲の瞑想をしたら全然違っていました。 アドバイス:相手が不機嫌だったり苛ついている時、その場 で心の中で慈悲の瞑想をするとガラッと奇跡のように変わる という報告は本当に多いです。これは誰がやっても同じ結果 が出ます。家族に対しても職場の人に対しても同様で、日常 的にいろいろな場面で実践できます。 もちろんなかには、とことん論議を尽くした上で互いに痛み を伴いながらも改めていくべきというケースもあるでしょう。し かし、そこまで行かずに、ただちょっとした感情的なこと、表 面的なことでもつれていることもけっこう多いのではないでし ょうか。そのような時には、慈悲の瞑想でこちらのモードを変 換してしまう方が、かえって速く問題の解消に向かうことがで きます。ぜひ続けてやってください。 Cさん:仲が良かった友人が突然疎遠になった時、自分では まったく理由が分からず先生から慈悲の瞑想を勧められて 毎日やっていました。そうしたら、あるきっかけから彼女が急 に「何か顔つき変わったねー」「あんた変わったよなあー」と いう言葉をかけてきて、その時、それまで満載していた<嫌 ってるオーラ>が消えていきました。今は、前と同じではあり ませんが、いい距離感を保ちながら友だち付き合いは復活 できています。そんな言葉も嬉しくて、やっぱり変わるもんな んだなあって思いました。 アドバイス:そうですか、良い話ですね。怒りは壊すエネルギ ーですが、慈悲の瞑想をする人からは調和させる、和合させ る、まとめるというエネルギーが出ています。バラバラのもの をくっつけてまとめていくことを慈悲と呼ぶこともありますので、 実にそのままの話ですね。 一度壊れてしまったものは、普通はなかなか元には戻らな いことが多いのですが、こちらからそういう調和的なまとめる エネルギーを出していると、結果的にはやはり仲直り出来る ようなムードになってくるのです。また慈悲の瞑想を普段やっ ている方は、やはり和やかで穏やかな優しい波動が必ず出 ていますので、やはり雰囲気が変わるんですね。逆に、常に 怒りを抱えている人はやはりそういうオーラをメラメラ出して いますから、当然ながら人は近づき難くなります。そういう相 関関係はハッキリしています。 一人で小さなお店を開いている30代の女性にこのあいだ 聞いたことですが、マンションの下にゴミ集積所があって、そ こをもう14年くらいずっとゴミの後片付けを続けている年配の 女性がいるそうです。それもいい加減ではなく、ものすごく丁 寧にやるのだそうです。それで、「なんかいいオバチャンだ な」と思って、「お疲れ様」とか「いつもありがとうございます」 とか、よく挨拶していたそうです。 そうしたら、先日ちょっと立ち話をした時に、その方から「い つもあなたがお出かけになる時、心の中でどうぞご無事でお 帰りください。あなただけは無事に帰ってきて欲しいですって 祈ってたんです」みたいに言われてちょっと感動しました、そ んな話でした。 家族でも、「行ってらっしゃい、気をつけてね」という言葉は 言いますけれど、決まり文句みたいなもので、なかなかそこ までの気持ちは入らないというのが普通でしょう。ところが、 そのゴミ集積所をただ掃除している方に、無事にお帰りに
なってくださいと心から毎日祈っていましたみたいに言われた ということで、私も「すごいね!その話は」と感動して聞きまし た。 でもその先にも話があって、その30代の女性の方はお客さ んが来ると、ちょっとイヤなお客でも、また、買っても買わなく ても、必ずお店を出て行く時に「本当にありがとうございました。 どうぞご無事でお帰りください」みたいなことをルールとして心 に決めて祈っていたというのです。 この場合、同じような出力をしたからそのような結果を得たと いう解釈が妥当かなとは思ったのですが、ただ、ことさら縁の 深い訳でもない人との間にこのような心温まる関係が生まれ たということを考えると、やはり常々慈悲の瞑想を熱心にやっ ている方だったので、根本はそこだと思われます。 この世界は基本的に同じものが響き合う世界ですから、トラ ブルがあって壊れた関係になればお互いに喧嘩の波動にな って壊れてしまいますし、逆に慈悲の瞑想は和合させる素晴 らしい効果があるということです。 「優しいオーラが出てる」って言われたんですね。何よりじゃ ないですか。最高ですよ。頑張ってやってくさい。 Dさん:最近は焦りや怒りに対してはかなりサティが入るよう になってきました。ところが、慈悲の瞑想をしてもひとりよがり で慈悲の心がなくなってくる時は、決まってそのあと仕事上の 問題が起きてきます。 アドバイス:慈悲の瞑想は基本的には上書き効果ですから、 心のベクトルがどうであろうと上書きしていくことで煩悩による 現象を抑える効果があります。 ですが、パソコンの世界とは違って、心の場合は上書きが効 くものと効かないものとがあります。あまり根深くない問題はこ れで怒りなどを減少させることが出来ますが、しっかり原因が あって何度も再生産されるようなものは、慈悲の瞑想やサティ によって一時的には抑えられたとしてもまた浮上してくるので す。やはり上書きというのは一時的に目を逸らしている対症 療法的なものであって、その下にある情報は完全に消えてい るわけではありません。慈悲の瞑想は驚くほどの効果はあり ますけれども、心の奥底の根深い問題まで解消させるという わけにはいかないのです。 そのような場合には、慈悲の瞑想一本槍ではやはり根本的 な解決には至りませんから、自分の心の正体を観ていく覚悟 をして、きちんと心を随観する必要があります。自分で因果関 係がきちんと理解でき、心の底から得心がいけばそこでよう やく終了に向かって踏み出せるのです。 (慈悲の瞑想と自己肯定感) Dさん:慈悲の瞑想で、「自分が幸せでありますように」という 「自分の幸せ」というのが言葉だけで実感が伴いません。「自 分の幸せ」の本当の中身を知らないからこうして仏教を習って いると思うと、その時は一時的に実感が生まれますが長続き しません。自分のことは興味が無いと言うような感覚です。そ れでも良いのでしょうか。 アドバイス:仏教には「自ら浄められてから他を浄めよ」とい う明確な方向性があります。どんなにきれいごとを言っても、 人は自分が一番可愛いのです。それが生命のありのままの 姿です。自分が真から幸せでないにもかかわらず、100パー セント心から他人の幸せを祈ることは、聖者でない限り出来ま せん。もし「私は自分のことは全く顧みず100パーセント他人 の幸せだけを祈っています」と言う人がいたら、その人はどこ か勘違いしているに違いありません。順番として「私が幸せで あれ」が最初なのです。 では、自分の幸せ感はどこから生まれてくるかと言うと、そ れは自己肯定感から生まれてきます。エゴから生まれる慢に よる自己満足とは違う、あるがままの自己を受け容れる肯定 感です。 そうすると、「自分の幸せ」を実感するためには、自己肯定 感を持ちましょうということになります。もし、ある人が自己肯 定感が乏しいと感じているのであれば、その人は自分を受け 容れるより自己を否定する感覚が勝っているからそうなのだ と言えます。 一般的に言って、自己を否定する感覚の因ってくるところは 親子関係に求められます。例えば、親が褒め上手で良い意味 での自尊感情を持てるような育て方をしていれば良いのです が、いつもお前はダメだみたいな叱り方をしたり、励ますにし てもネガティブな側面ばかりに焦点を当てたりすることもあり ます。例えば、何らかの理由で親が学力ばかりに執らわれて、 テストで頑張って90点を取ったのに、100点に届かなかったこ とを叱責されたら、自尊感情、自己肯定感を持てなくなるだけ でなく、心の奥では反発する感情も積もっていくでしょう。 自己肯定感が乏しいケースで、親子関係が過去も素晴らし かったし今も素晴らしいということは恐らくありません。
(承前) 不善業は無知と渇愛の影響の下でしか生じません。無知と 渇愛がある程度消えると、良くない結果、とくに悪趣への再 生の可能性がなくなります。自我という邪見と、聖なる道と業 に対する疑い―そうした煩悩の無慈悲な攻撃にさらされ続け ている人々は、際限なく悪行為をなし続けることでしょう。そ の非道の数々は間違いなく彼らを下層世界へと導きます。 預流果の悟りを得た者はこうした煩悩が無くなっているため、 もはや下層世界への再生の因となるような悪行をなすことは ありません。加えて、聖なる道の意識が現れた瞬間に、好ま しくない再生へと導く過去の業も断ち切られます。預流者は もはや、とてつもない苦しみに見舞われることを恐れる必要 はないのです。 誰も奪うことができない聖者の特質 預流果の悟りを得た者はさらに、聖者の七つの特質を自ら のものとします。聖者とは、清められた心と気高い人格を持 ち、悟りの四段階の一つに到達した者を言います。そして、 「信」、「持戒」、「慚(hiri)」、「愧(ottappa)」、「習熟」、「布施」、 「智慧」という七つの特質を持ちます。 「信」とはブッダ、ダンマ、サンガに対する変わらぬ揺るぎな い確信です。揺らぐことがないのは、直接の経験と理解に基 づいているためです。聖者に金を積んでも、ブッダ、ダンマ、 サンガを捨てさせることはできません。甘いことばで巧妙に惑 わそうとしても、凄んで脅してみせても、聖者が智慧を捨て去 るように仕向けることはできません。 「持戒」とは、五戒に照らしてその行動に汚れがないという ことです。預流果を得ると意図的に五戒を破ることができなく なると言います。悲惨な生存世界への転生につながるような 誤った行動が不可能になるのです。三つの誤った身体の行 為を犯すことはありませんし、誤った口の行為(ことば)からも ほぼ離れており、誤った生業にも就きません。そして、誤った 修行の道を歩むという、誤った努力からも離れています。 三番目と四番目、「慚(ヒリ)」と「愧(オッタッパ)」という特質 については既に説明しました。預流果の悟りを得た者は、こ の二つの意識が非常に強くなっているため、悪行為をなすこ とができないのです。 五番目の「習熟」とは、瞑想の理論および実際の瞑想修行 の方法についての理解を指しています。預流者とはまさに、 聖なる八正道を涅槃に向かって歩く方法に習熟している者の ことだと言えるでしょう。 パーリ語のチャーガ(cāga)は通常「布施」と訳されますが、 実際には放棄することを意味しています。預流果の聖者は下 層世界への再生という結果をもたらす煩悩をきれいさっぱり 放棄しています。また惜しむことなく布施(dāna:ダーナ)をし ます。それは本物の、持続的な寛大さのあらわれです。
テーラワーダ仏教翻訳シリーズⅠ
In this very life
今生での悟りを目指して-55-
~ブッダが説かれた解脱への道~
ウ・パンディタ サヤドゥ
つまり、原因があって結果が生じる、いま自己肯定感を持て ないのは過去にそのようにプログラミングされたから、それに 最も深くかかわっているのが親子関係なのです。 顧みて私たちは父や母のことを心から尊敬してきたでしょう か。親子関係に問題は無かったでしょうか。今は大人になった わけですし、表面的にはうまくいっているように見えても、心に 無意識の傷としてそれが治らないまま残っていることも多いの です。 (Dさんへのアドバイスは次号に続きます) (文責:井上雅也 協力:内田智子) 編 集 部 : 慈 悲 の 瞑 想 は < 『 月 刊 サ テ ィ 』2005.6/7 、 2007.10/11/12>のダンマトークに詳しく掲載されています。 可能でしたらそちらもご参照ください。最後は「智慧」です。これはヴィパッサナーの洞察と智慧を 指しています。預流者の修行には誤った気づき(邪念)や誤 った集中(邪定)はありません。抑え切れずわき上がり、身口 意を通じて現れる爆発的な煩悩からも、悪趣への転生に対 する恐怖からも離れています。 各々の心の平穏こそが何よりも重要です。それは恐怖から 解放されることで達成されます。たくさんの人々がそのような 平穏の存在に気づき――それを自分自身の内に持つことが できるようになったら――世界平和に対してどれだけ貢献す ることでしょうか。世界の平和は、一人一人の心に平和がな ければ始まらないのです。 ブッダの真の子 預流果の利益はまだあります。それは真の意味でブッダの “子”になれることです。“信者”はたくさんいます。しかし、ブッ ダ、ダンマ、サンガの三宝を深く信じて毎日お供えをしている 人でも、様々な事情で信を捨ててしまう可能性は常にありま す。あるいは転生の際に信を失うかもしれません。今生では 気高く善意にあふれていても、来世ではならず者になること だってあります。悟りの第一段階に到達して、真の意味での ブッダの“娘”“息子”にならない限り保証はないのです。 清浄道論の中ではオラサ・プッタ(orasa putta)というパーリ 語が使われています。「本当の、一人前の、血を分けた子」と いう意味です。puttaはしばしば「息子」と訳されますが、本来 は「子ども、子孫」を表すことばであり「娘」も含まれます。 (つづく) 翻訳:影山幸雄+翻訳部
テーラワーダ仏教翻訳シリーズⅡ
瞑想は綱渡りのように―28
『ペーマスィリ長老と語る瞑想修行』
ディヴィッド・ヤング
(承前) 「尊師よ、私たちは仲良く暮らし、互いに感謝し、言い争うこと なく、水と乳のように融和し、親愛の情をもって互いを見つめ ます。」 ア ヌ ル ッ ダ 尊 者 : チ ュ ー ラ ゴ ー ス ィ ン ガ ス ッ タ (cūlagosinga sutta:小牛角経) 7.正しい努力 ペーマスィリ長老:八正道の六番目は正しい努力、サンマー・ ヴァーヤーマ(sammā-vāyāma:正精進)です。苦しみからの 解放を目指して奮闘努力するという意味です。正しい努力に ついてブッダが説かれた内容は広範囲にわたり、聞き手の 理解度、熱意、目標により異なっていました。ある人たちは俗 世間的な生活の中で苦しみを減らし、人間界や天界の恵ま れた境遇に再生することを目指していました。ブッダは、この ような人たちに対しては、それに合ったレベルの苦しみから の解放を得るのにふさわしい努力の仕方を教えられました。 一 方 で 、 全て の苦し み を 完全 に克 服し て 、 ニ ッ バー ナ (nibbāna:涅槃)を目指す人たちもいました。その場合、ブッ ダは努力を尽くしてアラハット(arahat:阿羅漢・・・最終的な悟 りを得て、煩悩を滅尽し、輪廻からの解脱を果たした聖者)に なるという難しい目標を達成するために、努力を最大限に生 かす方法を指導されました。 このように正しい努力はあらゆる範囲をカバーします。俗世 間的な日常生活での自制から始まり、邪見という煩悩が破壊 されて預流果の聖者になり、官能的な快楽を渇望するという 煩悩が破壊されて不還果の聖者になり、そして最後に、永遠 の生存を渇望するという煩悩と無明という煩悩が破壊されて、 アラハットになるところまで含まれます。 心と身体の努力 他の多くの事柄と同様に、正しい努力においても心と身体 は相互に結びついています。ですから、健全な行いを為し、 苦しみを減らすためには心と身体の努力を細かく調整しなけ ればなりません。正しい心と身体の努力により、煩悩は抑制 され、やがて破壊されます。そして心の修養の道を先へと進 みます。 心の努力であるヴィリヤ(viriya:精進)は何かをしようという 意図を持つことです。あなたは瞑想実践したいと願います。 サマタであれヴィパッサナーであれ、自分の瞑想方法を振り 返り、もっと良い瞑想をしようと意図することは心の努力を要 します。ヴィパッサナー瞑想の場合は、様々な感受、音、対 象に気づきたいと意図します。一方、サマタ瞑想の場合は心 を一点に集中させたいと意図します。 正しい努力とは、不健全な行為を慎み、捨て去り、また健全 な行為を育み、維持しようと意図することを意味します。私た ちはまず心の努力を重ねなければなりません。そして、その 心のエネルギーを内に蓄え、健全な言葉による行為、身体に よる行為が生じるようにしなければなりません。健全に行動 するためには、まず健全に行動しようと意図する必要がありあります。健全な思考が健全な行為へとつながっていきます。 ヴァーヤーマ(vāyāma:精進)という言葉を使う時には、主 に身体で努力することを指します。身体を使った瞑想実践が 身体の努力を要することは明らかです。坐っていても歩いて いても、それを瞑想として行っている場合は身体で努力して いることになります。 アーラバティ(ārabhati:励む)は努力するという意味です。 心と身体の努力を重ねながら、私たちは正しい努力を試みま す。例えば、この瞑想センターで床を拭き、落ち葉を掃き、食 事の手伝いをする時には心と身体の努力を前面に出してい ます。 こうした行為を、何かを得ようと期待することなく、名声や称 賛を望むことなく、ただ必要な行動として行う場合、あなたは 正 し い 努 力 で そ の 行 為 を 行 っ て い ま す 。 ア ー ラ ッ バ (ārabbha:関心)で行っています。地域社会で生活する人々 は、自分を慎み、住居をきれいにし、病人を助け、公共の仕 事をこなす時、正しい努力をしていることになります。 デイヴィッド:初期の仏教の物語で、馬が正しい努力の象徴 として使われていたようですが? ペーマスィリ長老:その通りです。良い馬は常に正しく行動し ます。排尿する時にもしかるべきところにいって行います。尿 意をもよおしたら所構わずすぐに出してしまうようなことはし ません。良い馬は正しい努力を前面に出します。 ア ー タ ー ピ ー (ātāpī : 熱 意 ) と サ ン パ ジ ャ ン ニ ャ ー (sampajañña:正知)という重要なパーリ用語があります。こ の二つはしばしば組み合わせて使われます。アーターピーは 心と身体が熱意にあふれ生き生きとしているという意味です。 一方、サンパジャンニャーは自分自身を知る、はっきりと理解 する、智慧を持つ、という意味です。二つを組み合わせたア ーターピー・サンパジャンニャー(ātāpī-sampajañña:熱意あ る正知)は自分の行為の全てに気づくように熱意を持って努 力するという意味です。サティパッターナ スッタ(satipaṭṭhāna sutta:念住経)の中で、ブッダは現象の本質をはっきりと理解 するために必要な努力の質を表現するために、アーターピ ー・サンパジャンニャーという言葉を使われています。 アーターピー・サンパジャンニャーは智慧のある努力です。 正しい理解と正しい思考に基づいた努力こそが正しい気づき を生じさせることになるのです。サマーディ(samādhi:三昧) を得るためにはアーターピー・サンパジャンニャーが必要で す。 私たちが日常生活の営みにおいて努力する時には、それ はアーターピー・サンパジャンニャーとともに行っているとは 言 い ま せ ん 。 し か し な が ら 、 も し 私 た ち が サ ン サ ー ラ (saṃsāra:輪廻)からの解脱を目指し、 完璧に健全なやり方で全ての心と身体の努力を注いだとした ら、アーターピー・サンパジャンニャーを伴ってその行為を行 っていることなります。 私たちは誕生、病気、老化、死に苦しみ、そしてそれを繰り 返します。私たちは存在の不満足性に果てしなく苦しんでい ます。アーターピー・サンパジャンニャーは私たちの全てのエ ネルギーと努力をこのサンサーラの世界から離れることに向 けるということを意味します。あらん限りの力を振り絞って奮 闘努力するのです。 この奮闘努力は、まず四つの心と身体の努力を続けるよう に意図することから始まります。 1 . 不 健 全 な 行 為 を 慎 む : サ ン ヴ ァ ラ ッ パ ダ ー ナ (saṃvarappadhāna:律儀勤) 2 . 不 健 全 な 行 為 を 捨 て 去 る : パ ハ ー ナ ッ パ ダ ー ナ (pahānappadhāna:断勤) 3 . 健 全 な 行 為 を 育 む : バ ー ヴ ァ ナ ッ パ ダ ー ナ (bhāvanāppadhāna:修勤) 4 . 健 全 な 行 為 を 維 持 す る : ア ヌ ラ ッ カ ナ ッ パ ダ ー ナ (anurakkhanappadhāna:防護勤) この4つの努力を理解するためには、まず不健全、すなわ ちアクサラ(akusala:不善)と健全、すなわちクサラ(kusala: 善)という言葉の意味を理解する必要があります。(つづく) 翻訳:影山幸雄+翻訳部
グリーンヒルWeb会だより
「呪縛から解放された
瞑想」(1)
(匿名希望)
仕事や人間関係がどうにもうまくいかなくなって仕事を辞め、無職だったころに美容院で読んだ雑誌に
『ブッタの瞑想法』が紹介されているのを見つけたのが、ヴィパッサナー瞑想との出会いでした。
他人が怖く、何もする気になれない毎日でした。家事と通っていた英会話教室の宿題は効率が悪い
ながらなんとか続けていました。外出の前に戸締りと火の元の点検を始めると何度やっても安心できず、
家を出るまでに数十分要することも珍しくありませんでした。
住む家があり、家族がいて、毎日食事を摂れることのありがたさを頭では理解していましたが、心でそ
れを感じることができませんでした。生きていることをやめたいというのが本音でしたが、自ら命を絶てばこ
んな自分と付き合ってくれている家族、親戚、友人たちを苦しみに陥れることになってしまうと思い、でき
ませんでした。自然に死ぬ日をこのまま何年も待つのかなと思っていました。
図書館で地橋先生の本を探したところ、『瞑想クイックマニュアル』が見つかりました。読んで心に光
が差し込んだ気がしました。それまでにも心に響く本に何冊か出会いましたが、本に書いてある素晴らし
いことに少しでも近づくために自分がどんなことをすればよいのかわかりませんでした。でも『瞑想クイック
マニュアル』にはそれが具体的に書いてありました。購入して何度も繰り返し読みました。
地橋先生の本を読み始める前から、自分の心と今自分が実際に向き合っているものがズレているこ
とに気付いていました。例えばキッチンでサツマイモを切っていても、頭の中では過去に起きたつらい出
来事がエンドレスで回り続けるというような具合です。頭と行動がシンクロしていないところが問題だと思
っていました。でも、自分一人でそれを直す方法を見つけることができませんでした。
5か月後に朝日カルチャーの講座に通い始めました。先生のお話はどれも心にしみました。でも歩く瞑
想も坐る瞑想も、自分一人で毎日実践するに至りませんでした。「ゆっくり歩いたりお腹の感覚に集中す
ることで何が変わるんだろう」と思うこともありました。
数か月経ったころ、朝カルのレポートの時に先生から内観に行くことを勧められました。そのあとの食事
会で先輩たちが詳しく内観についてお話してくださり、資料を送って下さいました。毎日がつらくて藁にも
すがる思いでしたので、すぐに佐賀の池上先生に電話して内観の予約を取りました。内観では私のた
めに両親や祖母がしてくれたこと、それに対し自分はどれだけ恩知らずでいたかに気付くのと同時に、
他の家族の内観をしているときにいつも母の影が私の前に立ちふさがるような感じを受けました。
父は3年8か月前に他界しましたが、おそらく軽度の発達障害であったと思います。私がそれに気付
いたのは父が亡くなる1年くらい前でした。父は他意なくいわゆる「常識」とは異なる行動や言動をとる
ことが多い人でした。姉と私にへんてこりんなあだ名をつけ、歌までつくって毎朝毎晩歌いました。私たち
姉妹は泣きながらやめてほしいと父に頼みましたが、耳を傾けるどころか、ますます大きな声でその変な
歌を歌うありさまでした。その反面、東大卒のエリートで、仕事もよくできたと聞きます。父は好ましくない有
名人や知人のことをよく批判していました。逆に自分から見て立派な人は褒めちぎりました。
こんな父との関係では、母にすがるしかありませんでした。結婚するまでは母は私を守ってくれる唯一の
親だと思っていました。結婚後、主人の実家と付き合ううちに、母が時に都合よく私を支配していることに
気が付きました。思い返してみれば子供の時は激しく叱責されたり、叩かれたり、家から閉め出されること
がよくありました。母のシナリオ通りに行動しないで失敗すると、母は「だから言ったでしょう。ママの言うと
おりにしないからこうなるのよ」と言いました。社会人になってからも洋服の趣味や休日の過ごし方まで口
をはさんできました。自分はまるで母が造った池で飼われている魚みたいだと思いました。池を飛び出し
て川から海に泳いで行きたいと心から願いました。
でも、どうやって池を出たらよいかわかりませんでした。池を出た後、どんなふうに泳いだらよいのかもわ
かりませんでした。池を飛び出した後、うまく川に入れなくて息も絶え絶えになったら、また母に池に連れ
戻され、それみたことかとあざ笑われてしまうだろう。そんなことを恐れていました。
とりあえず経済的に自立することを目指しました。結婚と同時に専業主婦になって仕事からしばらく離
れていたので、簡単なアルバイトをしながら資格試験の勉強に励みました。資格を取ると仕事を変え、
収入も少しずつ上がっていきました。心の中は不安だらけでしたが、弱い部分を見せると仕事の面接を
突破できないので、空元気を振り回しました。自信のないことを正直に言うと門前払いをくらうので、さも
自信があるように振る舞いました。社会人として前進しかつ階段を1段ずつ上っているつもりでしたが、傲
慢さの階段もどんどん上っていました。
正社員として勤務していた会社が破綻し、再就職した会社でひどいパワハラを受けて仕事を辞めまし
た。前の会社が破綻する前から、私の心の崩壊は始まっていたと思います。何を見ても聞いても心にし
みこまないし、そこからは何も湧いてこないようになりました。でも、社員だから、責任があるから、給料をも
らっているから、弱音は吐けない。義務感だけで仕事を続けていました。仕事をしていればもちろんたくさ
んの困りごとに出会いますが、どう対処してよいかわからないことは心を凍らせて、一番効率の良い方
法を選択しました。その結果、人の心をたくさん踏みにじりましたが、その当時それは「仕方のないこと」で
した。(つづく)
『それでも、私は憎まない』 イゼルディン・アブェライシュ著(亜紀書房 2014年) 筆者はガザ地区のジャバリア難民キャンプで生まれ 育ったパレスチナ人の医師。キャリアの大部分の期間、 ガザに住みながらイスラエルで働いてきた。2009年1月 16日、イスラエル軍による砲撃により三人の娘と姪を 失う。 「しかし彼は報復を求めもしなければ、憎しみに駆ら れることもなかった。代わりに、『わたしの娘たちが最後 の犠牲者になりますように』と言い、同地域の人々に対 話を始め、行動を起こすよう訴えたのだ」(カバーコピー より) 報復を求める声が止まないなか、彼は「たとえイスラ エル人全員に復讐できたとして、それで娘たちは帰って くるのだろうか?憎しみは病だ。それは治癒と平和を妨 げる」「憎しみや暴力より、優しい言葉や知恵の方が強 いのです」「報復と憎しみを追求すれば、分別を追い払 い、悲しみを増幅させ、争いを長引かせるだけだ」と言 い、「壁ではなく、架け橋が必要なんだ」と訴える。 自らの口から語られる筆者のライフストーリー、想像 すら許されない悲劇には言葉もない。しかし、崇高の志 はその後の氏の人道的活動に結実している。彼のこれ ほどの固い決意を見る時、省みて自分の修行や五戒 への決意はどうであっ たか、衝撃は少なくなかった。(雅) 『雨上がりに咲く向日葵のように』山下弘子著 (宝島社 2014年) 「エゴの存在の承認」これが彼女を楽にしたと言う。 2年あまり前、18歳で肝臓癌のために余命半年という 宣告を受けた山下さん。テレビのインタビューでの明る さに驚き、早速著書を読んでみた。 家族の会話から余命宣告を知り、手術を受けて甦っ た希望、そして再発という現実、縁あって講演をするよ うになった今日までの記録と生き方の変化が綴られて いる。 なぜ明るく生きられるのか?彼女はその核に「ま、い っか」精神があったと言う。それでもなお、癌になったか らこそ「今生きているこの瞬間を大切に生きようと思うよ うになったし、些細なことにも感謝し、幸せを感じるよう になった。そう考えれば、癌は私の味方でもある」と考 えられるようになった。今はどのような治療も受けてい ない。 講演も「社会の役に立ちたい」だけでは続かないと気 づく。そのような承認欲求、「私は、『誰かに認められた いと思うこの欲求こそ、自分のエゴ!』と直視しました。 『誰か、私を必要として!誰か私を認めて!』というエゴ の存在を認めてみました」。 日々の行動も講演も、あるがままを観ることで、心が 折れることもなく幸せな毎日を送れるようになったと言う。 すべては受け取り方によって心の解放に繋がる、改め て印象に残った。(雅)