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E.E. ウィッテとウィスコンシン理念

著者 加藤 健

雑誌名 同志社アメリカ研究

号 49

ページ 25‑43

発行年 2013‑03‑19

権利 同志社大学アメリカ研究所

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013168

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アメリカ社会保障制度の成立を支えた思想の展開

− E. E. ウィッテとウィスコンシン理念−

加 藤   健

Ⅰ はじめに

アメリカは、ヨーロッパ諸国に比べて社会保障制度の成立が遅れたと通常見な されているが、その理由は以下の 4 点にあるといえる。まず、①州の権限を尊重 する連邦主義をとっている点である。個人間の利害を確保するための共同体=州 が相互に連帯し合って成り立つ連邦主義は、連邦政府=国家の介入が州の利害を 侵害する可能性を持つ以上、全国的な社会保障制度に関しても同様の不信感を持 つからである。次に、②アメリカ人が持つ社会的な規範意識の違いである。個人 が陥った貧困や格差の原因はその個人の資質に起因するとみなし、そのような個 人的な危機に対する解決にはあくまでも自助努力を尊重するという個人主義的な 志向である。そして、③合憲性の問題である。私的な領域に対する立法(階級立 法)や州権への不当介入を禁止するアメリカ合衆国憲法の規定に対して、社会保 障制度をはじめとする労働立法・社会立法の解釈問題がある。さらに、④移民国 家として発展したアメリカは、各州や地域における利害の対立や意識の差異もあ る。例えば北東部と南部のように、アメリカ各地域のそれぞれの利害や意識の相 違は、全国的な社会保障制度構築の観点からも、統一的なシステムの導入を容易 に受容する環境とはいえなかった。こうした理由から、アメリカ全体を包括する ような社会保障制度が出現するには、ニューディール期まで待たなければならな かったのであるが、そもそも貧困や弱者に対する保障を社会的に与えることが必 要であるという論調が広く認められるためには、19 世紀末以降の州レベルから 連邦レベルに至るまでの重層的な議論の展開を要したのである。

州レベルにおいて、社会問題としての貧困問題の解決のための仕組みは、19 世紀末から 20 世紀初頭においてすでに見られた。南北戦争後には退役軍人のた めの年金があり、1890 年代には地方レベルで警察官・消防官・教師に対する年 金が整備された。また、1919 年時点で 39 の州が導入していた母子年金や、1911 年から 15 年にかけて地方公務員に対する年金、さらに 1920 年に連邦公務員に対 する年金制度も成立していた。そして老齢年金に関しては、少子高齢化に伴う貧

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困の増大のため、1914 年のアリゾナ州を皮切りに成立が見られたが、老齢年金 の適用範囲は郡単位の任意性でありまた違憲判決の可能性もあって、実質的な年 金制度の試みとはいえなかった。このような南北戦争後から 1910 年代にかけて 行われた州レベルでの社会保障制度設計に関する議論が、やがてニューディール 社会立法の下地となっていった。

1935 年 8 月 14 日に成立した社会保障法(SSA)は、老齢年金と失業保険の 2 種類の「社会保険」、また、老齢者生活保護、要扶養児童扶助、視覚障害者扶助 の 3 種類の「公的扶助(生活保護)」、そして「社会福祉サーヴィス」という 3 つ の部門に大別され、計 11 章から構成されている。この法律の成立に深く関与し た人物に、ウィッテ(Edwin  E.  Witte)がいる。このウィッテが活躍した 1930 年代ニューディール期のアメリカでは、大恐慌後の社会の立て直しのために、個 人の自助努力や企業あるいは地域のネットワークの枠を超えた連邦レベルでの社 会保障制度の構築が課題となっていた。その制度設計には、政財界、企業、そし て州レベルでの議論の中心を担ってきた研究者などを含めて組織されたローズ ヴェルト大統領の経済保障委員会(Committee  on  Economic  Security:  CES)が 中心となった。この CES は、1934 年 6 月 29 日に出された「大統領令 6757(Executive  Order No.6757)」により、労働災害や失業といった個人の努力を越えた偶発事に 備え、また国民の福祉を向上させる仕組み―ニューディールにおける連邦レベル での社会保障プログラム―を構想するための組織であった。労働長官のパーキン ズ(F.  Perkins) を 委 員 長 と し て、 労 働 次 官 補 の オ ル ト マ イ ヤ ー(A.  J. 

Altmeyer)1は作業部会の議長を、そして彼らの推薦によってウィッテが事務局 長のポストに就いた2。大統領は、第 1 次ニューディールにおいて知識人による「ブ レーン・トラスト(Brain  Trust)」  3に新たな政策の立案を担わせたが、1934 年

1   1922 年〜 33 年にかけてウィスコンシン産業委員会の事務局長、社会保障法成立後に連邦の社会 保障委員会のチェアを務めた。

2   CES の構成は、政府の閣僚 5 名からなる大統領経済保障委員会をトップに、その下部組織として、

各省の実務官僚からなる作業部会、および、その作業部会の指示に基づいて実際に調査研究を担 当する専門家による事務局(スタッフ組織)が設置された。法案の作成には、この作業部会と事 務局(スタッフ組織)及びその取り仕切り役としての事務局長が主体となった。また民間人から 構成される諮問委員会(Advisory  Council)は、法案に対する助言を行うというこの組織の役割 上 1934 年 11 月中旬に設置された。詳しくは、Edwin  E.  Witte, 

(Madison,  WI:  University  of  Wisconsin Press, 1962), 3-64. を参照のこと。

3   もともとローズヴェルトが 1932 年の大統領選に際して政策の立案を補佐するために集められた 知識人の総称であり、その後ニューディールの顧問団を指した。その代表者の一人はタグウェル

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以降の第 2 次ニューディールではブレーン・トラストのみではなく幅広い分野の 人物を関与させたことからも明らかなように、この CES による法案作成過程は 1930 年代後半以降のアメリカにおける社会保障の在り方を模索するプロセスで もあった。

ウィッテは、連邦レベルでの社会保障制度の構築にあたり、20 世紀初頭から ウィスコンシン州とオハイオ州の 2 州において練り上げられてきた失業保険のア イディアに着目した4。一方の「ウィスコンシン・プラン」は、雇用者責任による 失業予防を法的に整備しようとするプランであり、他方の「オハイオ・プラン」は、

保険数理学・統計学的手法を用いて失業のリスクを労働者全体に分散させるプラ ンである。このウィスコンシンとオハイオという 2 つのアイディアを座標軸とし て 1930 年代初頭の争点を整理するならば、以下のような対立点と共通点が指摘 できる。

【対立点】

(1) 失業というリスクについて

《 オハイオ》「リスク分散・救済」―労働者層全体に広く失業のリスクを分散し、

失業による経済的損失を事後的に「救済」することを重視する。

《  ウィスコンシン》「リスク転嫁・予防」―失業の発生をコントロールできる立場 にある雇用者に労働者のリスクを転嫁し、その経済的損失を直接彼らに負担さ せることによって、リスクの発生自体を「予防」することに力点を置く。

(2) 失業保険の保険料と給付金について

《  オハイオ》「共同準備金」―労使双方が、州の運営する単一の共同準備金に保険 料を拠出し、その準備金を財源に安定的な給付を行う。労働者の失業に伴う経 済的損失が軽減でき、彼らの購買力も維持できる。

《  ウィスコンシン》「個別準備金」―労働者から雇用者へ失業のリスクを転嫁する ため、雇用者のみが失業発生の危険度に応じた可変的な保険料率に従って各自

(Rexford G. Tugwell: 1891-1979)であり、第 1 次ニューディールで大きな役割を演じた。その後、

農務次官(1934 〜 36 年)、ニューヨーク都市計画委員会議長(1938 〜 41 年)、プエルトリコ総 督(1941 〜 46 年)などを歴任した。タグウェルとニューディールとの関係について、詳しくは 西川純子「タグウェルとニューディール」田中敏弘編『アメリカ人の経済思想―その歴史的展開』

(日本経済評論社,1999): 185-217. を参照願いたい。

4   両プランの詳細な思想的背景については、加藤健「アメリカ 1910  年代における失業保険の構想

―コモンズ、アンドリューズ、ルービノウ」『経済学史研究』 50-2(経済学史学会,2009): 38-55. や、

高哲男「コモンズの経済思想とニューディール」田中敏弘編著『アメリカ人の経済思想―その歴 史的展開』(日本経済評論社,1999): 163-183. を参照願いたい。

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の個別準備金に拠出する。雇用者には保険料率を下げようとする強力な金銭的 インセンティブが働くため、失業自体の予防が可能である。

【共通点】

(1) 民間による失業保険の問題点について

   民間保険会社による失業保険では、失業の発生が自発的あるいは非自発的で あるかどうかの判断が困難である点、また企業や労働組合による失業ファンド では、給付金の財源不足といった点に問題があった。オハイオとウィスコンシ ンの双方において、労働者の失業という偶発事に備える枠組みを提供するため には、公的な社会保険としての制度設計が必要であるという認識があった。

(2) 失業保険制度の実施単位について

   仮に、ある州で雇用者に対する負担の増加を求める立法がなされれば、他の 州へ移転してしまう可能性があるため、州間の競争が激化する恐れがある。連 邦レベルでの包括的な制度構築のためにも、オハイオもウィスコンシンも州法 に基づく各州単位での導入には否定的であった5

小論の課題は、CES の事務局長であったウィッテの論稿を直接の手がかりと して、それまでの社会保障に関する議論を受けて、どのような発想からニュー ディール社会立法を実現させようとしたのかを明確にし、1930 年代のアメリカ における失業問題と年金問題に対する処方箋を支えた思想的背景を明らかにする ことにある。以下では、ウィッテのウィスコンシン法案に対する評価を確かめ

(Ⅱ)、次に、CES における社会保障法の制定のプロセスを検討し(Ⅲ)、最後に、

その後のアメリカ社会保障制度に対してウィッテが持っていたヴィジョンを明ら かにする(Ⅳ)。

5   なお、連邦レベルでの導入に関しては、①連邦法に基づく全国単位の制度設計と、②連邦法によっ て州法を整備させ連邦政府と州政府の共同で行うパターンが考えられる。連邦政府と州政府が共 同で行う場合には、その失業給付金の財源として、㋐税相殺方式(tax-offset)と㋑税償還方式

(tax-refund)の 2 つの方式があり得る。㋐は、連邦政府は、雇用者に連邦税を課すが、一定の 条件を満たす州政府による失業保険に加入していれば、その失業保険の拠出額すべてを差し引く ことができる制度である。㋑は、雇用者に対して連邦税が課されるが、州政府が連邦政府の規定 に則った失業保険法を制定している限り、その連邦税が各州の失業手当の利用のために償還され る制度で、結果として連邦政府による助成金としての意味を持つ。

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Ⅱ 「慎重な改良者」としてのウィッテ

1 .ウィッテの思想的背景

1910 年代から 30 年代のアメリカにおいて、産業化の進展により発生した失業 に伴って、労働者とその家族の貧困が大きな社会問題となっていた。公共職業紹 介所の広範な組織化といった社会的対策が試みられたが、あくまでも失業原因を 労働者自身に求める以上、新たな雇用のチャンスを彼ら自身の努力によって獲得 することが要求された。そこで、失業を社会的問題として把握し、労働者であれ ば誰にでも降りかかる可能性がある失業のリスクを「保険」によってカバーし、

実際に発生した所得喪失に対して金銭的補償を実施する対策が検討された。その 中心的な役割を担った組織は、「アメリカ労働立法協会(AALL)」 6であった。代 表的な論者は、失業保険の制度構築の発想の相違から、一方でウィスコンシン大 学を拠点に活躍しウィッテの指導教官でもあった制度経済学者のコモンズ(J.  R. 

Commons)を中心とする「ウィスコンシン・プラン」となり、他方で、オハイ オ失業保険委員会の座長を務めたレイザーソン(W.  M.  Leiserson)、ロシア移民 で保険数理士として活躍したルービノウ(I.  M.  Rubinow)に代表される「オハ イオ・プラン」として分岐していくこととなった。

1910 年代にコモンズらが示したウィスコンシン・プランは、危険予防という 発想すなわち可変的な保険料率による金銭的インセンティブを雇用者に与えるこ とで大量の解雇を思いとどまらせるという発想を基礎に、失業対策としてウィス コンシン州にとどまらず他の州においても制度としての有効な対策として影響力 を持った。しかし、大恐慌がもたらした大量の失業者の存在を解消するには、も はや雇用者責任を軸とする制度では対処不可能という指摘がより広範囲な対策を 求める論者からなされた。その処方箋は、個別の州レベルの対応を超えた連邦レ ベルで提供される「強制加入の社会保険」と考えられ、1930 年代前半にはその プログラムの在り方をめぐってより活発に議論がなされた。その際の中心的な存

6   AALL は、国際労働立法協会のアメリカ支部として、アメリカにおける労働立法の促進やその ための労働環境の調査を行い、社会保障関連法案の作成と可決に大きな影響を及ぼした。その全 般的な活動内容に関しては、J. Dennis Chasse, “The American Association for Labor Legislation: 

An Episode in Institutionalist Policy Analysis”,   25, no.3(September,  1991):  799-828.,  David  A.  Moss, 

(Cambridge, MA: Harvard University Press, 1995).を、ま た AALL メ ン バ ー の 詳 細 な 活 動 に つ い て は Daniel  Nelson, 

(Madison, WI: University of Wisconsin Press, 1969).を参照 願いたい。

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在であり、1910 年代から続く議論を連邦法として決着させた人物こそ、後に「社 会保障の父」と呼ばれたウィッテに他ならない。

ここで、ウィッテの思想形成過程の概略を簡単に確認しておこう7。ウィッテは、

1887 年にウィスコンシン州のジェファーソン郡エベニーザーに、ドイツ系アメ リカ人の第 3 世代として生まれた。祖父母がプロイセンからアメリカに渡ってき たのは 1850 年代のことである。母親は敬虔なプロテスタントのモラヴィア派教 徒であった。1905 年にウィスコンシン大学に入学し、後に労働史家として知ら れるサポス(David  Saposs)に出会った。1910 年にハーヴァード大学に移動し たターナー(Frederick Jackson Turner)8に代わってコモンズから指導を受ける こととなり、このことは彼が経済学を専攻する契機となった。「制度経済学者」

と し て の コ モ ン ズ の 研 究 姿 勢 は、 ウ ィ ッ テ の「 慎 重 な 改 良 主 義(cautious  reformism)」 9という考え方に大きな影響を与えることとなった。ウィッテは 1912 年に博士課程のコースワークを終えたが、その後 1917 年から 22 年までウィ スコンシン産業委員会(Wisconsin Industrial Commission)のメンバーとして労 災補償プログラムを指揮し、1922 年から 33 年までウィスコンシン大学において 労働立法、社会保険、公的扶助に関する講義を担当した。また 1931 年には、カー ネギー基金によって実際にヨーロッパの社会保険システムの視察を行っている。

その他にも労働省の労働統計の委員など、州や連邦政府において、社会保険、労 働保護立法、産業の安全対策、労使関係などに関する多くの規制や立法の立案者 として活躍した。そのため博士号を取得したのは 1927 年であった10。1933 年には、

7   ウィッテの思想形成過程を詳細に論じた著作として Theron  F.  Schlabach, 

(Madison, WI: State Historical Society of Wisconsin, 1969).がある。またウィ スコンシン大学においてウィッテが果たした役割を歴史的に明らかにした研究として Robert  J. 

Lampman,  ed.,  (Madison,  WI:  The  Board  of  Regents  of  the  University  of  Wisconsin  System,  1993),  105-117. や David  B.  Johnson,  “The  "Government  Man": Edwin E. Witte of the University of Wisconsin,”   82,  no.1(Autumn 1998): 32-51. が参考になる。

8   もともとの歴史学を専攻したウィッテの指導教官であったターナーは、アメリカ史における西部 フロンティアの意義をはじめて強調した人物として知られている。ターナーは、経済学部に所属 するコモンズを歴史学分野に近い人物としてウィッテに紹介した。因みにウィッテは「私の思考 に最も影響を与えた経済学者はコモンズである」と述べているが、「コモンズの講義や著作から アイディアを得たのではなく、コモンズが興味を持っていた実際的問題に対する彼の活動から得 た 」 と も 述 べ て い る。Edwin  E.  Witte,  “Institutional  Economics  as  Seen  by  an  Institutional  Economist,”   21, no. 2(Oct 1954), 131.

9   Schlabach,  , 25.

10  博士論文のタイトルは『労働争議における裁判所の役割(

)』であり、これは加筆・修正され 1932 年に唯一の著書として出版された。Edwin  E. 

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退職したコモンズに代わりウィスコンシン大学の経済学の教授職に就任し 1957 年まで在職した。こうして社会保険分野の専門家として知られるようになった ウィッテは、1934 年に CES の事務局長のポストに任命されたのである。

では、この「慎重な改良者」であったウィッテが、州政府や連邦政府の委員会 などでの活動を通して、当時の実際のアメリカ社会の中において「社会保障」を どのように捉えようとしていたのか。この点を、1928 年 3 月 2 日にウィスコン シン州で開催された「ミルウォーキー郡女性投票者連盟の市民権のための公立福 祉学校(the Milwaukee County League of Women Votersʼ Public Welfare School  of  Citizenship)」において報告された「失業保険(Unemployment  Insurance)」

と題する論稿11を直接の手がかりとして明らかにしよう。

2 .ウィスコンシン法案に対する評価

この 1928 年の失業保険に関する論稿では、主に 1921 年のウィスコンシン失業 保険法案と当時の他国のプランを巡る議論が取り上げられている。1920 年代の アメリカ社会の状況について、ウィッテは次のような認識を示していた。

第 1 次世界大戦後のアメリカは、債務国から債権国へとなり、戦場となったイ ギリスなどのヨーロッパ諸国が不況に苦しむ中でいわゆる “繁栄の 20 年代” の好 況にあったといわれている。しかしこの当時の失業者数を見てみると、アメリカ の経済動向を調査している「全米産業審議会(National  Industrial  Conference  Board)」の 1921 年のレポートおよびアメリカ労働統計局や州の労働局の雇用指 数が示しているように、「通常期でも 180 万人が失業し」、「恐慌期には 500 万人 すなわちすべての労働者の 7 分の 1」が失業すると推定していた12。そして「この 国では常に 150 万人が失業しているだろうと推定される」ために、むしろ「失業 は増加している」という事実があった13。また、ハーディング政権下で設置された 失業会議における景気循環・失業委員会の 1923 年のレポートにおいても、「仕事 の先行きが定かでないという気持ちでいることほど、賃金労働者の道徳観を蝕む ものはない」 14と記されており、1920 年代初頭から失業問題が労働者に与える深

Witte,  (New York: McGraw-Hill, 1932).

11  Edwin  E.  Witte,  ,  ed.  R.J.  Lampman(Madison,  WI:  University  of  Wisconsin  Press,  1962),  215-223. なお、ウィッテの論文集であるこの著作には、本稿第Ⅲ節で検 討する “Major Issues in Unemployment Compensation” も収録されている。

12  この時期のアメリカの失業率に関しては、例えば Paul  H.  Douglas, 

(New York: Augustus M. Kelley Publishers, 1966): c.4. を参照願いたい。

13  Witte,  , 216.

14  Ibid., 215.

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刻な影響が懸念されていたといえる。

ウィッテは、失業を個人ではなく産業側の問題と捉え、労働者個人では対処で きない原因から発生するとの認識―コモンズやアンドリューズ、またルービノウ などと同様の認識―を持っていた。そして失業の理由として次の 4 点を挙げてい る。

   失業にはいくつかの個人的な原因―不安定な労働習慣、病気、事故、ストラ イキ、その他などがある。しかしながら、これらの原因は、おそらく全失業 の 10%よりも少ない原因である。90%は、全体として労働者のコントロー ルを超えた原因に関係しており、それは主に 4 つある。①産業に関わる多く の臨時の仕事や短時間の仕事があること、②すべての産業について、季節的 な浮き沈みが実際に発生すること、③ビジネスに関する激しい不況が頻発す る期間があること、④機械化によって人の置き換えが進み生産効率が上昇す ることである。はじめの 3 つは、失業の主要原因と認識されてきたが、しか し最後の原因は、もちろん重要だが、まだあまり理解されていないのだ15

ウィッテが 4 番目の理由を重視するのは、それがアメリカ特有の失業原因であ るからに他ならない。既に 1920 年代には自動車産業や電気機器産業において大 量生産方式が導入されたアメリカでは、とりわけ 1924 年の移民法(Johnson-Reed  Act)がもたらした影響は大きかった16。それは、低賃金労働者として大量生産方 式の労働力を提供した「新移民」の激減であって、彼らの労働力を埋め合わせる ためにより一層の機械化が拡大されたのである。ウィッテは、1920 年代アメリ カにおける失業を、このような 4 つの理由から「広範囲に及ぶ失業」と特徴づけ た。

ウィスコンシン州では、こうした状況下に対処するために、個人や企業の枠を 超えた社会立法による州全体での失業対策が模索されていった。1921 年にウィ スコンシン州議会に提出された「ヒューバー法案(Huber  Bill)」がそれである。

もともとコモンズが持っていた雇用者責任のアイディア、つまり「労働者災害補

15  Ibid., 216.

16  この 1924 年の移民法は、時限立法であった 1921 年の移民法(Immigration Act of 1921)を恒久 立法として改めたものである。1921 年の移民法は、1910 年の国勢調査を基準に、その当時アメ リカに居住する外国出身の人口を出生国別に分類し、その出生国別人口の 3% に該当する人数を 移民の入国割当数としていた。1924 年の移民法では、基準年が 1890 年に改められ、入国割当も 2% に引き下げられた。その目的は、1890 年以降に急増したとりわけ南東欧からの移民の制限と アジア出身者の全面禁止にあった。

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償」や「団体保険」に組み込まれた労使双方にメリットをもたらすというアイディ アを、失業対策に応用した試みである。それは、失業を予防するのは労働者自身 よりも雇用者の方が長けているとの認識から、失業のリスクを労働者全体に分散 させる社会保険が持つ機能よりも、むしろ労働者のリスクを雇用者へ転嫁させる ことで失業を予防しようとする側面が強調され、労働者の失業による経済的損失 を雇用者が補償するプランであった。この法案に対して、ウィッテは次のような 見解を示している。

   このプランの背後にあるアイディアは、失業している労働者に対して少しの 救助を与えるというよりもむしろ、失業を予防することにある。仮に雇用者 が、羽振りが良い時期に労働力を拡大しようとするならば、そうではなくなっ た時期に労働力を再び減少させると失業補償を支払わなければならないとい うリスクを冒すことになるから、雇用者は無鉄砲に労働力を拡大しようとは しないだろう、ということを彼ら雇用者は知っている。これは産業不況の大 きな原因の 1 つとして皆が認識している。・・・最終的に雇用者は失業補償 を支払わなければならない可能性と直面すると、彼らはレイオフされる従業 員のためにあらゆる手段を尽くして仕事を探すだろうし、非常にまじめに失 業問題に取り組むだろう。アメリカの雇用者が実際にこのようにするならば、

多くの他の問題を彼らが解決したように、この最も大きくて最も難しい産業 問題も解決するだろう17

このように「ヒューバー法案」に対する 1928 年時点でのウィッテの評価はむ しろ高かったといえる。ウィッテは、アメリカの一つの州に過ぎないウィスコン シン州のヒューバー法案が、「失業が最重要問題であることを産業に正しく納得 させた」と見なし、このプランが持つ積極的な意義を認めているからだ18。しかし ながら「1 日 1 ドルの失業補償はとても少ない」という指摘や、またそもそも「ア メリカ人の貯蓄額が大きいため必要性が低いのではないか」という見解も示され ており、さらに、まばらな人口密度においてのプランの実行性や州を横断する労 働者に対する対処といった「管理運営の問題」も指摘されている19

だが、ウィッテは、この雇用者責任によるリスク転嫁の失業補償プランが持つ 失業予防という仕組み自体に懐疑的になっていく。なぜなら、大恐慌という大き

17  Witte,  , 218.

18  Ibid., 223.

19  Ibid., 221.

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な社会的変化が起こると、金銭的メリットのために雇用を繋ぎ止めようとする雇 用者の才覚や動機付けに依拠する仕組みでは、もはや大量の失業を解消する有効 な手段とはなり得ないことが明白となったからである。そこで、連邦政府に積極 的な介入を求める新たな仕組みが必要となるが、ウィッテは連邦政府にどのよう な役割を求めたのだろうか。ウィッテは、ウィスコンシン州において社会保障制 度を構築する際にアイディアを提供する立場にあったが、そうした経験や獲得さ れた知見が連邦レベルの制度設計においてどのように活かされていったのか確か めよう。

Ⅲ 失業保険と老齢年金

1 .連邦政府と州政府の共同による失業保険システム

失業保険の制度設計においては、失業リスクを労働者層へ広範に分散させる「保 険」の役割と、失業による経済的損失への「補償」の側面、および失業保険の実 施主体が問題となる。特にニューディール期の失業問題への対策をめぐっては、

州と連邦との在り方に関わる問題として特徴づけることができる。それは大恐慌 を経たアメリカにおいて、単純に州政府によって担われていた領域を連邦政府に 拡大させるという意味だけではなく、アメリカ合衆国憲法との関係において連邦 政府が果たすべき役割とは何か、ということが改めて問われたからである。

このような失業に関する問題点を踏まえて、1935 年 3 月に

誌 上 に 掲 載 さ れ た「 失 業 補 償 に お け る 主 要 問 題(Major  Issues  in  Unemployment  Compensation)」 20を手掛かりに、ウィッテの失業への対策を確 認しよう。まず失業の損失補償と公的な生活保護による救済についての見解をま とめると次のようになる。

ウィッテは、失業による所得喪失という問題が単に失業補償のみで解消できる とは考えなかった。なぜなら、権利として受け取ることができる給付金の額と期 間は、あくまでもその失業当事者がすでに支払った負担金に基づくため、失業し ている当事者が必要とする部分をすべてカバーすることはできないからである。

しかし、他のヨーロッパ諸国の経験からも、補償プログラムと救済プログラムを 併用したとしても、失業のすべてのハザードを解消可能ともみなさなかった。し たがって、次の主張にみられるように、失業補償はあくまでも公的な生活保護に 取って代わるものではなく、その補足に過ぎないということを指摘している。

20  Ibid., 235-256.

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   そして失業保険は、失業のハザードに対する単なる防御の最前線と見なされ るに過ぎない。それは、主として職を失った直後の期間に、たとえ短期間で あったとしても、かつての仕事に復帰するのだ、という無理のない期待を労 働者が持つならば価値があろう。失業者は、自分が期待するような新しい命 令が下される時に、再雇用の直接の考慮から外されてしまうような不慣れな 仕事を当然受け入れるわけにはいかない。レイオフされた労働者の大部分は、

失業補償が支払われる短期間の中で仕事に復帰するが、しかしながら、給付 金の権利を使い果たしてしまっても仕事にありつけない労働者が必然的に存 在し、通常期よりも不況期に彼らは増加するのである。そのような労働者に は、失業補償を超えた何がしかの対策が必要だ。その何がしかは、直接救済 またはワークリリーフであり、契約で保証された権利というよりはむしろ ニードに基づくものであって、両者とも本質的に失業補償ではない21

実際には 1933 年 5 月に失業の救済プログラムを提供する連邦緊急救済法

(Federal  Emergency  Relief  Act)が制定され、連邦政府から州政府に対して緊 急の臨時的措置として補助金が交付された。これによって、救済を実際に担当し ていた州に対して、財政面での連邦政府の責任が確認されたことになる。そして、

連邦緊急救済法により設立された連邦緊急救済局(Federal  Emergency  Relief  Administration:  FERA)22が、連邦政府と州政府による公的な失業救済プログラ ムを実施する役割を担った。FERA による失業者への救済は、直接救済とワー クリリーフの 2 つのパターンで実施されたが、それらは短期の失業者への現金給 付と、長期の失業者に対する雇用保障によって失業問題の解決を意図していた。

因みにワークリリーフは、建設工事作業をはじめとして多様な内容を含んでいた が、実際は労働者を遊ばせておくのを防ぐための「不必要な作業(make-work)」

という側面も指摘されている23

21  Ibid., 237.

22  FERA の長官は、ニューヨーク州の救済事業局にいたハリー・ホプキンズ(Harry  L.  Hopkins)

が務めた。FERA は、1935 年に「公共事業促進局(Works  Progress  Administration)」に引き 継がれ、さらに、1939 年に Work  Projects  Administration と改称し、43 年に終了した。この FERA の救済の受給資格として注目すべき点は、人種、宗教、肌の色、市民権の有無、政治的 党派による差別がないということであり、そのため、人口の 1 割を占める黒人も有資格者となり 救済人口の 6 分の 1 を占めた。詳しくは、秋元英一『世界大恐慌』(講談社,1999):  第 4 章.を 参照願いたい。

23  William W. Bremer, “Along the “American Way”: The New Dealʼs Work Relief Programs for  the Unemployed,”   62, no.3(Dec 1975): 636-652.

(13)

したがってウィッテは、新たな雇用のチャンスに恵まれない、つまり、失業当 事者が自力で所得喪失を回復させることが見込めない状態も含め、失業のリスク を雇用や労働に関係するすべての人間に広く分散し、失業による損失を広範にカ バーできる公的な失業保険の仕組みが必要と考えた24。だが、ウィッテは、農業調 整法(AAA)や全国産業復興法(NIRA)の成立が連邦政府による失業保険シ ステムの成立のための下地にはなるが、まだ「憲法上の基盤がない」という点を 懸念していた25。よって連邦政府主導の全国的なスキームではなく、むしろローズ ヴェルト大統領の意向を踏まえて次のようなシステムを提案した。

   大統領は、失業補償に関して、連邦政府と州政府との望ましい関係を「協力 的な連邦政府と州政府の共同によるシステム(cooperative  federal-state  system)」として特徴づけた―それは連邦政府と州政府のお互いの権利をめ ぐる対立ではなく不安定で厄介な問題を共同で着手する、という統治におけ るニューディールのことだ26

ウィッテは、この連邦政府と州政府の共同によるシステムによって失業保険を 制度化しようとするが、問題はシステムの運用面にあった。1932 年のウィスコ ンシン州失業補償法は、雇用者責任による失業予防を目的とするウィスコンシン・

プランを制度化したものであったが、他の州に同様の法律の制定を促すには困難 が伴った。雇用者責任を回避したいと考える企業を取り込むために、州政府は失 業補償法を敢えて制定しないという選択がありえたからだ。それは、失業補償法 を導入することによって、その州を拠点にする企業とそうではない企業との州間 競争において、コスト面で不利になるからである。ウィッテは、この点を踏まえ て、「連邦政府は、(失業保険を)諸州が実施できるようにするためにも、それを 実施しない州が享受する不公平な有利さから、彼らを保護すべきだ」 27と考えた。

24  因みにウィッテらの CES 側のほかにも外部からの提案もあった。例えば失業者の団体はもちろ んアメリカの共産党や社会党といった左翼グループも支持したランディーン法案(Lundeen  Bill)は、労働者と農民による協議会を運営主体として、連邦政府がすべての失業者に対してそ の地域の平均賃金に相当する手当を支給するという内容であった。ウィッテは、この法案が現に 労働している者のみを対象とするのではなく、すでに失業状態にある者を対象としているため、

「失業保険提案というよりもむしろ本質的に救済である」(Witte, 

236.)とみなしている。

25  Witte,  , 239.

26  Ibid., 241.

27  Ibid., 241.

(14)

この場合、失業保険をめぐって、次の 3 つのシステムが考えられる。

① 国家主体のプラン―連邦政府が賃金税(payroll-tax)という連邦税を徴収 し、労働者に対して均一の補償を提供する。

② 連邦政府による助成金プラン―連邦政府が連邦税を徴収し、失業補償シス テムを国の最低基準に則って運営している州に対して分配する。

③ 連邦政府による税相殺プラン―州政府が直接連邦税を徴収するが、給付金・

受給資格・税金の各州の個々の基準に則って制定された保険システムに対して、

雇用者が必要な分担金を支払っていれば、そのうちの 90%を連邦税から差し引 くことができる。

ウィッテは「すべての州の雇用者に対して均一の税金を課し、失業補償システ ムを実施した州に対して、税の相殺、または、税の償還を用いることによって達 成可能だ」 28と述べたように、実行可能性のあるプランとして指摘したのは、② と③であった。ただし②に該当する税償還方式は、失業補償を目的として助成金 を償還するため、結果として連邦政府が州をコントロールするように見える点に 問題があった。したがってウィッテがより評価したのは、③の税相殺方式であっ た。ウィッテは、各州で実施にバラツキがあるという問題を克服するためにも、

均一の連邦税を連邦政府が徴収するという、連邦政府と州政府の共同による税相 殺方式による失業保険プランを SSA で実現させようとしたのである29

2 .老齢年金に対する評価

次に老齢年金制度に関して、1937 年 2 月に執筆された「社会保障法における 老齢保障(Old-Age Security in the Social Security Act)」 30におけるウィッテの 見解を確かめよう。アメリカの老齢人口は、1870 年の 110 万人(全人口の 3%)

から 1930 年には 670 万人(同 5.4%)へと上昇し、それに伴い老齢者への生活の 保障に対する関心も高まった。ウィッテによれば、SSA 成立当初の連邦議会内 部における主要な関心は、あくまでも失業対策にあったが、実際に実施されると むしろ「老齢保障に関心が移っていった」31

SSA は、労働者に対して連邦政府の運営する老齢年金制度(old-age  pension  system)への加入を義務付け、また各州に対して強制加入の失業保険制度を確

28  Ibid., 241.

29  Ibid., 245.

30  Edwin  E.  Witte,  “Old  Age  Security  in  the  Social  Security  Act,” 

 45, no.1(Feb 1937): 1-44.

31  Ibid., 1.

(15)

立することを要求した。この老齢年金保険制度は、労使双方に対して課される 1%

の連邦税を財源として、1937 年から保険料の徴収がはじまり、1940 年より給付 金の支払いが開始された。SSA は、老齢保障に対して「即時」と「長期」の 2 重のプログラムを提供した。

一方の「即時プログラム」は、「老齢者生活保護プログラム(The  Old-Age  Assistance Program): Title I」として、困窮な老齢者に対して即時に現金を支給 するものであった。これは老齢者の「必要」に基づいてその交付金額が決定され、

一般財源から支払われるという意味において受給者の負担はないが、受給資格は 資産調査によって判定された。運営主体は州単位であり、連邦政府の役割は州に 対して費用の一部を財政的に援助するのみであった。また州は広範な自由裁量を 持ち、SSA の基準に基づく受給の認可の役割を担った。

他方の「長期プログラム」は、「老齢給付金プログラム(The Old-Age Benefits  Program):  Title  II」であり、現役労働者が老齢になった場合に支払いが行われ るように計画された拠出型の老齢年金保険であった。受給者は、特別税を負担す ることでその財源に充てるという意味において拠出型であり、将来的に「権利」

として受給する資格を持つ。運営の主体は、老齢者生活保護と異なり直接連邦政 府が担い、州は運営面と費用面の両方において関与しなかった32

こうした即時と長期の 2 つのプログラムの概要を踏まえた上で、それぞれのプ ログラムから発生する問題点に対するウィッテの見解を明らかにしよう。

老齢扶助の定義は、65 歳以上かついかなる公的施設にも収容されていない「貧 窮の個々人」に施される公的扶助とされる33。扶助の実施に当たっては、①州政府 が定めた老齢扶助のための州法に基づいて実施されること、②州政府は老齢扶助 の費用の少なくとも一部を負担すること、③州政府による連邦法が定めた受給資 格(年齢、居住、市民権)以上の厳格な設定を禁止するという条件が示されてい た。しかしウィッテは、「一般に老齢者生活保護は、『老齢年金』と呼ばれている。

そして、すべての人々は年金を得る権利がある、という広く行き渡った考えがあ るし、資格のあるすべての人々は同額の交付金を受け取るべきだ、というより知 られた考えがある」 34という老齢者への生活保護を支える観念35を示し、実際には

32  Ibid., 2.

33  連邦政府からの援助は、65 歳以上で施設収容者では無い個人に対して 1 カ月 15 ドルを支給した 場合に限定され、州政府がこの条件の範囲外で老齢扶助を施しても補填されない。

34  Witte, “Old Age Security in the Social Security Act,” 10.

35  因みにこの考え方は、1934 年に提出されたタウンゼンド案にも影響を与えた(Ibid.,  10.)。タウ ンゼンド案は、アメリカの改革家であるフランシス・タウンゼンドが提出した年金法案で、60 歳以上の退職者全員に月額 200 ドルを支給する内容であった。タウンゼンド案について詳細は、 

(16)

生活保護を受け取っている 65 歳以上の割合と給付された金額において、各州の 間でバラツキがあることへの懸念を抱いていた。それは「そのような大きな変動 に対する責任の主要因は、老齢者生活保護の性質と目的をめぐって存在し続ける 混乱にある」 36と述べ、SSA 法制化後の 1937 年時点において、成立したすべて の老齢者生活保護法が、公的なサポートに依存している老人への保護を制限し、

また交付金額は個人の「必要」によって決定されるべきだと考えられていたから に他ならない。

次に、連邦政府による老齢給付金プログラムである。これは SSA に基づき、

実際に 1936 年 12 月 31 日以降アメリカにおいて雇用されているすべての人々に 対して支給されている。ただし、農業、家事労働、季節労働、公務員などと、自 営業者も同様にこのプログラムから除外された。給付金を受け取れるのは、1936 年 12 月 31 日以降にこのプログラムの当該の雇用に就いている者、また、その後 に該当しない職業や産業に移動したとしても権利を保有している者(ただし、給 付金は当該の雇用における所得を基礎とする)である。1930 年の CES の推定に よれば、4900 万人が雇用され、そのうち連邦老齢年金プランに含まれるのは 2600 万人であった37

このプログラムの実行に当たっては、次の点が問題となった。第一に、プログ ラムの財源をめぐる問題である。それは賦課方式(pay-as-you-go)または赤字 財政のいずれの方式を選択するかであった38。ウィッテは、当初は現役労働者と老 齢にメリットが高い前者を主張していたが、SSA の原案では赤字財政で委員会 の意見が一致した。だが、実際には将来世代との不公平感の問題から特別税を課 税するという方向となった。第二に、合憲性と運用面の問題である。かつて労働 災害補償法に違憲判断を示した裁判所39も、次第に社会状況の変化の中で立法の 解釈を変更させ、合憲の判断を示していったが、ウィッテは連邦政府に老齢年金

Edwin  Amenta, 

(Princeton, NJ: Princeton University Press, 2006). を参照願いたい。

36  Witte, “Old Age Security in the Social Security Act,” 10.

37  Ibid., 11.

38  Ibid., 29.

39  アメリカでは、メリーランド州(1902 年)を皮切りに、モンタナ州(1910 年)やニューヨーク 州(1910 年)で労働災害補償法が制定されはじめたが、いずれの法律も裁判所において「法の 適正な手続(due process of law)」に拠らずに私有財産を剥奪するとして「違憲」の判断が下さ れた。メリーランド州:  Franklin    United  Railways  and  Electric  Co.  of  Baltimore,  Baltimore  Common  Pleas  Ct.,  April  27(1904),  モンタナ州:  Cunningham    Northwestern  Improvement  Co., 44 Mont. 180, 119 Pac. 554(1911), ニューヨーク州: Ives   South Buffalo R. Co., 201 N.Y. 

271, 94 N. E. 431(1911).

(17)

への加入強制の権限を認めるかどうかまだ判然としないという指摘にとどめてい る。そして運用面では、主にヨーロッパ諸国で政府による運用がなされている実 態と照らして、アメリカでも強制的な老齢保険制度を連邦政府によって実施可能 であるとウィッテは判断していた40

Ⅳ むすび

大恐慌がもたらした経済の破綻や社会的な危機に対処するため、それまでの自 由放任的な政府の役割ではなく、経済のあらゆる分野にまで制度的な規制や統制 を拡大することが求められた。ニューディールの特徴は、労使関係、銀行業務、

証券取引などの分野が顕著なように、新たな社会システムとしての制度的な規制、

統制、監視という政府や行政機能の役割を大きく拡大したことにあったといえる。

実際には、1935 年から 36 年にかけて第 1 次ニューディールにおいて成立した多 くの立法が違憲判決を受け、ローズヴェルト大統領は「裁判所抱き込み計画

(Court  Packing  Plan)」を立案したが、そのことによる混乱が連邦議会内部での 対立をもたらし、民主党に動揺を与えた。このような文脈の中で 1935 年に成立 した社会保障法を捉えた場合、ウィッテをはじめとする CES 内部では実行可能 なプランをいかに構築できるかに最大の関心があったといえる。小論の検討をも とに、この点の特徴をまとめておこう。

ウィッテの SSA に対する評価は決して高いとはいえない。なぜなら、社会保 険制度としては所得の再分配という意味で不十分であり、運営に関しても州や地 方における裁量を認めている点において連邦レベルでの統一的・体系的な社会保 障制度とは呼べなかったからだ。

老齢年金、遺族年金、廃疾給付年金については、完全な拠出型ではなく受給資 格の判定に資産調査が義務付けられた公的扶助(生活保護)による救済も含んだ ヨーロッパ型の影響が強かった。失業保険については、強制加入の失業保険の制 定を義務付けたが、実際に多くの州が採用したのは可変保険料率と共同準備金の 組み合わせであった。これは、オハイオ・プランによる失業の広範なリスク分散 および労働者への安定的な給付による購買力維持という側面と、ウィスコンシン・

プランによる可変保険料率による雇用者へのインセンティブに失業予防を期待す る側面を入り組ませた結果といえる。あくまでも州の自由裁量によって管理運営 を委ねるようにしたのは、連邦政府による所得の再分配機能は実質的に意味をな

40  Witte, “Old Age Security in the Social Security Act,” 36-37.

(18)

さず、結果的に国家による介入に危機感を抱くアメリカ的な理念を支持するため であった。

ウィッテは、現実に運用できる仕組みづくりの中で、大きな枠組みを損なわな い程度の妥協も受け入れる「慎重な改良主義」という態度を示した41。もともとウィ スコンシン・プランの雇用者責任によるリスクの発生自体を予防しようとするア イディアが持つメリットを評価していたが、これをすべての社会保障制度におい て実現できるとは考えず、むしろオハイオ・プランが主張した労働者の偶発時に まつわる損失を広範に分散させる点を高く評価したのである。こうしたウィッテ の態度の背景には、1900 年代初頭のウィスコンシン州における大学と州政府と の 連 携 を デ ザ イ ン し た 社 会 貢 献 プ ロ グ ラ ム で あ る「 ウ ィ ス コ ン シ ン 理 念

(Wisconsin  Idea)」があったと考えられる。だが、「ウィスコンシン理念」の典 型といっても、ウィッテは単に大学と州政府の密接な結びつきのみを重視してい た訳ではない。「ウィスコンシン理念」が 1900 年代のウィスコンシン州市民のウェ ルフェアを増進させるための「その場に応じた程よい立法や規制」を形成する改 革であったことからも、ウィッテはむしろ 1930 年代の文脈の中でその理念を活 かしつつも、現実に実行可能なプランを模索した人物であったといえる。

※本研究は、平成 24 年度 JSPS 科学研究費補助金(研究課題番号:24730188  /  研究課題「アメリカ社会保障制度の起源 : コモンズおよびウィッテの思想的位置 をめぐって」)の助成を受け、その研究成果の一部です。

41  因みにウィッテは、我が国においてとりわけ第二次大戦後に税制使節団長として GHQ に対し

「シャウプ勧告」を行った人物として知られる財政学者のシャウプ(Carl  S.  Shoup,  1902-2000)

に対して、社会保障法の構築に際して経済保障の対策のための財政面の研究を依頼しようとした が失敗に終わった。Edwin E. Witte, 

(Madison,  WI:  University  of  Wisconsin  Press,  1962),  33.  シャウプは、

1938 年 9 月に「アメリカにおける老齢保障プログラムの課税側面(Taxation  Aspects  of  the  Old-Age  Security  Program  in  the  United  States)」と題するメモ(横浜国立大学付属図書館 

“Shoup Collection” 所収)を財務省に提出している。

(19)

The Visions of American Social Security of the 1930s:

Edwin E. Witte and the Wisconsin Idea

Ken Kato

In  the  early  20th  century,  discussions  about  the  welfare  state  program  took  place  mainly  in  European  countries  such  as  Britain,  Germany,  and  Belgium.  It  is  now  recognized  that  the  beginning  of  the  welfare  state  in  the  United  States  was  the  Social  Security  Act  of  1935 (SSA),  but  there  were  actually  various  plans  for  coping  with  the  questions  of  employment  since  the  progressive  era.  The  typical  issue  concerning  social  insurance  was  of  unemployment  insurance  and  old-age  pension  due  to  the  background  of  recession  resulting  from  the  development  of  the  American  industry.  This  paper  aims  to  investigate  how  the  thought  of  John  R.  Commonsʼs  Wisconsin  program  affected  Witteʼs  vision  of  unemployment  insurance  and  the  old-age  pension during the 1930ʼs. Witte was called “the Father of Social Security”.

In the context of the United States during the 1920s, it might be possible  to classify the causes of unemployment into the following two patterns: First,  though the workers had the desire and the ability to work, they were laid off  or dismissed against their will; Second, the workers, namely “new immigrants,” 

had never found nor could find employment up to that point. Concerning the  unemployment insurance plan at that time, there were the following two types: 

First, the “Ohio Plan” that W. M. Leiserson and I. M. Rubinow had developed,  was  based  on  insurance  against  risk  principles;  Second,  the  “Wisconsin  Plan” 

that  Commons  and  J.  B.  Andrews  propounded,  had  put  emphasis  on  the  prevention  of  unemployment  through  each  employersʼ  pay.  What  Witte  intended  was  not  to  solve  all  the  problems  of  the  industry  but  to  give  protection  to  individuals  against  the  many  hazards  of  our  modern  economy. 

That protection for economic security combined unemployment insurance with  other measures such as old-age pensions. Witte intended to realize the plan as  a  cooperative  federal-state  system  of  unemployment  insurance  based  on  tax 

(20)

offset in the SSA.

With regard to the old-age pension in the SSA, there were two programs,  being  the  Old-Age  Assistance  Program  and  the  Old-Age  Benefits  Program. 

Witte believed that the amount of benefits of the “assistance program” should  be based on those who would meet the “need”. Witte pointed out problems of  the “benefits program” from financial and operational aspects, but he sought to  carry out the system of compulsory old-age pension by the federal government.

Witte considered that the SSA was not intended to be called a cooperative  federal-state system of social security, because there was insufficient distribution  of income and the eligibility was based on a means test, which was also left to  the  discretion  of  local  government.  But  on  examining  the  historical  context,  Witte  was  the  very  embodiment  of  the  “Wisconsin  Idea”.  As  a  student  of  Commons  at  the  University  of  Wisconsin  during  the  progressive  era,  Witte  absorbed this idea from him. Therefore, it also has to be admitted that Witte  knew that the only way to execute the social security program in reality was  through compromise within the framework of realization of welfare.

(21)

参照

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