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虎口からの脱出 : Joseph NeesimaとCapt. Andrew Bartlettとの交流

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虎口からの脱出 : Joseph NeesimaとCapt. Andrew Bartlettとの交流

著者 布施田 哲也

雑誌名 新島研究

号 104

ページ 32‑50

発行年 2013‑02‑28

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013408

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虎口からの脱出

―Joseph NeesimaとCapt. Andrew Bartlettとの交流

布施田 哲 也

はじめに

 1865年7月ボストンに海の向こうから一人の日本人青年が、アメリカ のこと聖書のことをもっと知りたいと考え、所持金も紹介状も幕府の許 可もなく、ただ運を天にまかせやってきた。ボストン到着後2ヵ月半 にわたる船での留守番役のあと、海員ホームで書いたとされる「Why I

departed from Japan」(以下 脱国の理由)によって心を動かされたハー

ディ家の人々に新島が引き取られるまでの経緯は、新島襄人生最大の出 会いである。

 「脱国の理由」誕生については、ボストン海員ホームの3日間で書き 上げたと考えられているが、もっと時間をかけて書いているという考え もある。またハーディ氏がワイルドローバー(Wild rover)号に来たの は1回、もしくは2回と考える論考もみられる。1.2)ロビンソンクルー ソー原書との対比で「脱国の理由」の成り立ちを論ずる興味深い論考も ある。3)

 2009年、 同 志 社 大 学 グ ロ ー バ ル・ ス タ デ ィ ー ズ 研 究 科Gavin J.

Campbellが“Niijima Jo and America”との題でMBA(Master of Business

Administration)に対する模擬授業をおこなった。その時の使用テキス

トがネットで公開されており、グローバルな視点での新島研究を示して いる。まさに新島が虎口を脱出するまでの優れた研究を見ることができ る。4)

 1865年当時のボストンでは、日本人青年が地元の名士であるハーディ 家の一員となって教育をうけ始めたことは、純真な来国の動機とあわせ

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虎口からの脱出

- 33 - てとても話題になったと思われる。

 宣教師Capt. Andrew BartlettとJoseph Neesimaとの出会いについては、

本井康博の新島襄を語る「ビーコンヒルの小径」の中で新島襄を助けた 三人目の船長として詳細に紹介された。5)これらの先行研究を引き継ぐ 形で、この時期に新島が高い志でボストンに来たという歴史的意義や「脱 国の理由」誕生までの事情も新史料の紹介も加え考察していく。海員宣

教師Capt. Andrew Bartlett(以下バートレッド船長)の存在はハーディ

家に引き取られる経緯に大きな役割を果たしていた。当時の新島が見た であろうボストンの風景を「BOSTON ILLUSTRATED」(1873)から引 用しボストンの紹介もかねていく。6)

1865年のボストン

 南北戦争が終了しリンカーン大統領が暗殺された後のアメリカは、物 価が上がり社会が動揺していた時期でもった。新島自身、ボストン到着 後は、波止場で出会った人たちから、南北戦争以来の物価高で誰も世話 をしてくれる人はいないだろう、「もう一度海に戻ることだな」と脅さ れて不安な毎日を送る。7)

南北戦争が終了しリンカーン大統領が暗殺された後のアメリカは、物価が上がり社会が 動揺していた時期でもった。新島自身、ボストン到着後は、波止場で出会った人たちか ら、南北戦争以来の物価高で誰も世話をしてくれる人はいないだろう、「もう一度海に戻 ることだな」と脅されて不安な毎日を送る。(7)

Tremont Street 1865 (8)

年譜

新島襄全集第八巻(年譜編)では、ボストン到着からハーディ家にひきとられるまで 以下のように記載されている。(9)

1865年7月20日 Wild rover号 ボストン入港

      7月24日 東ボストンよりフェリーボートでボストン市街へ        ロビンソン・クルーソー漂流記1ドル半で購入       7月26日 船長に伴われてボストンで衣服一通り、帽子、足袋購入       8月24日 ベルリン号のセイヴォリー船長が会いにくる

     10月11日 船主 Alpheus Hardy が船にやってきてアメリカに来た理由を問 いただす 下船させ海員ホームに3日間泊めて 

英語で国外に脱出した理由を書かせる      10月12日 英語の祈祷文を筆記する

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Tremont Street 18658)

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年譜

 新島襄全集第八巻(年譜編)では、ボストン到着からハーディ家にひ きとられるまで以下のように記載されている。9)

 1865年7月20日 Wild rover号 ボストン入港

    7月24日 東ボストンよりフェリーボートでボストン市街へ          ロビンソン・クルーソー漂流記1ドル半で購入     7月26日 船長に伴われてボストンで衣服一通り、帽子、足袋          購入

    8月24日 ベルリン号のセイヴォリー船長が会いにくる     10月11日 船主 Alpheus Hardy が船にやってきてアメリカに          来た理由を問いただす

         下船させ海員ホームに3日間泊めて           英語で国外に脱出した理由を書かせる     10月12日 英語の祈祷文を筆記する

    (14日?) ハーディ家に招かれる ジョセフと呼ばれるように          なる

    10月30日 ハーディに伴われてアンドーヴァーへ行き、

         彼が理事をしているフィリップ・アカデミーに入学          することとなる

 新島襄全集では、海員ホームの滞在は3日間としている。

ロビンソンクルーソー漂流記を購入したとされる Old Corner Bookstore(Washington Street)

      (14日?) ハーディ家に招かれる ジョセフと呼ばれるようになる      10月30日 ハーディに伴われてアンドーヴァーへ行き、

彼が理事をしているフィリップ・アカデミーに入学することと なる

 新島襄全集では、海員ホームの滞在は3日間としている

ロ ビ ン ソ ンク ル ー ソー漂流記を購入

し た と さ れ るOld Corner Bookstore ( Washington

Street) 航海日誌

 日本を脱出してか らボストン到着ま

では日記が残されて お り 、 「 航 海 日

記」と「箱楯よりの 略記」に主だった

旅 程 が 記 さ れて い る。(10.11)

1865年7月20日 に新島はボストン

に到着した。東ボス ト ン の グ ラ ン ド

ジャンクションに到 着したと考えられ当

時のグランドジャンクションは以下のような風景であった。

東ボストンよりボストンまでの距離およそ三町半程(約400m)、二個の蒸気船で絶え ず人が行き来していると書かれている。

Grand

Junction Wharves, East Boston

ケープ岬(Cape Cod)よりボストン港に侵入していくと州立議会のドームがみえボス

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航海日誌

 日本を脱出してからボストン到着までは日記が残されており、「航海 日記」と「箱楯よりの略記」に主だった旅程が記されている。10.11)

 1865年7月20日に新島はボストンに到着した。東ボストンのグランド ジャンクションに到着したと考えられ当時のグランドジャンクションは 以下のような風景であった。

 東ボストンよりボストンまでの距離およそ三町半程(約400m)、二個 の蒸気船で絶えず人が行き来していると書かれている。

Grand Junction Wharves, East Boston

 ケープ岬(Cape Cod)よりボストン港に侵入していくと州立議会の ドームがみえボストンの全貌が次第に明らかになる。新島は1887年同志 社チャペルでの記念説教「ハーディ氏ノ生涯ト人物」の冒頭で以下のよ うに語り始めている。12)

 「多クノ旅人カ米国ノ波士頓(ボストン)ニ近寄ルニ、或ハ海上ヨリ 来ルカ又ハ陸地ヨリ来ルニセヨ、大厦高楼ノ上ニ著シク聳エ出テタル黄 金色ノ丸屋根ヲ見ルトキハ、如何ナル遠路ノ旅疲モ一時ニ忘ルル程ニ慰 メヲ得ルト申サレマスガ、予モ毎度波士頓ヲ出テ再ヒ其ノ市ニ帰ルトキ ニ、必ラス多ノ旅人ト同シキ感情ヲ覚エマシタ、扨此ノ黄金色ノ丸屋根 ハ何カト問イマスレハ、即チマサチューセッツ州ノ議事堂デアリマス」

 新島が述べているようにボストンの象徴ともいえる建物は、最古の建 物の一つである州議事堂であり金色のドームで有名である。ただし最初

      (14日?) ハーディ家に招かれる ジョセフと呼ばれるようになる      10月30日 ハーディに伴われてアンドーヴァーへ行き、

彼が理事をしているフィリップ・アカデミーに入学することと なる

 新島襄全集では、海員ホームの滞在は3日間としている

ロ ビ ン ソ ンク ル ー ソー漂流記を購入

し た と さ れ るOld Corner Bookstore ( Washington

Street) 航海日誌

 日本を脱出してか らボストン到着ま

では日記が残されて お り 、 「 航 海 日

記」と「箱楯よりの 略記」に主だった

旅 程 が 記 さ れて い る。(10.11)

1865年7月20日 に新島はボストン

に到着した。東ボス ト ン の グ ラ ン ド

ジャンクションに到 着したと考えられ当

時のグランドジャンクションは以下のような風景であった。

東ボストンよりボストンまでの距離およそ三町半程(約400m)、二個の蒸気船で絶え ず人が行き来していると書かれている。

Grand

Junction Wharves, East Boston

ケープ岬(Cape Cod)よりボストン港に侵入していくと州立議会のドームがみえボス

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から金色であったわけではなく1802年からは雨漏りのため銅色のカバー がなされていた。また現在のように金色のドームに変わったのは1874年 であるため、1865年新島が初めてボストンに着いたときは、銅色であり 金色ではなかった。最初の帰国する1874年末には金色のドームになって おり、上記のような印象を新島はもっていたと考えられる。

Capt. Andrew BartlettとJoseph Neesimaとの関わり

 Capt. Andrew Bartlettは、1859年よりBOSTON SEAMEN'S FRIEND SOCIETY

(以下 ボストン海員の友協会)の海員宣教師となって活躍した。彼は、

船への訪問、船内図書館への関連書籍の配布、礼拝堂での集会、チェル シー病院(Chelsea Marine Hospital)への布教もかねた慰問といった活 動を精力的に行っていた。13)

 バートレット船長と新島襄の関係がボストン到着後比較的早い時期か ら始まっていることを示す史料がある。ボストン到着後ハーディ家の一 員として暮らし始めてまもなくの1865年11月9日のNew York Observer and Chronicleに以下の記事が掲載されている。

A JAPANESE PRAYER

At the weekly prayer meeting of the Park street church, Boston, lately, Captain Bartlett、sailor missionary , spoke of a young Japanese sitting by his side. He had gone to China, found a Chinese Bible, which he could read, and then ran away and worked his passage to this country to learn more of the true God and eternal life. Alpheus Hardy, Esq, in one of whose vessels he came, has kindly undertaken his education. That he promises to be worthy of this effort to make him useful is evident from the following prayer, which he wrote out in a good, clear hand: “O God!

if thou have got eyes, please look upon me. “O God! if thou have got ears,

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虎口からの脱出

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please hear for me. “ I wish heartily to read Bible, and I wish to be civilized with Bible. “JOSEPH Nei Sima “

Is not this “feeling after God?” May not this man be of those who should

“come from the East and the West?” J.W.C14)

 (日本人の祈り

ボストンのパークストリート教会での定例祈祷週会にてバートレット船 長は、一人の日本人青年を脇において話した。この日本の青年はまず中 国に着き漢籍聖書を手に入れ、彼にはその漢書を読むことができた。そ の後船で働きながら航海を続け、真の神と永遠の命についてもっと学び たくこの国に着いた。ハーディ氏は、彼が乗船していた船の船主であり、

親切にもアメリカでの教育を受けられるようにした。流暢に書かれた彼 の次の祈祷文を読めば、彼の努力がよい方向に実を結びつつあることが わかる。「神よ、もし目があるならば、どうか私を見出してください。

耳があるのなら、どうか私の話を聞いてください。私は聖書を読みたい、

聖書の教義を極めたいのです。」Joseph Neesima

 神に対するなんと純粋な感情であろう。洋の東西を問わず出るべくし て出てきた人物ではなかろうか?J.W.C)

(日本人の祈り

ボストンのパークストリート教会での定例祈祷週会にてバートレット船長は、一人の日本 人青年を脇において話した。この日本の青年はまず中国に着き漢籍聖書を手に入れ、彼に はその漢書を読むことができた。その後船で働きながら航海を続け、真の神と永遠の命に ついてもっと学びたくこの国に着いた。ハーディ氏は、彼が乗船していた船の船主であ り、親切にもアメリカでの教育を受けられるようにした。流暢に書かれた彼の次の祈祷文 を読めば、彼の努力がよい方向に実を結びつつあることがわかる。「神よ、もし目がある ならば、どうか私を見出してください。耳があるのなら、どうか私の話を聞いてくださ い。私は聖書を読みたい、聖書の教義を極めたいのです。」Joseph Neesima

神に対するなんと純粋な感情であろう。洋の東西を問わず出るべくして出てきた人物で はなかろうか?J.W.C )

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Park Street Church

ハーディ家に引き取られたのは10月中旬と考えられており、10月30日にはアンドー ヴァーに出発しているためその間の出来事である。ハーディー家に引き取られて1ヶ月も 満たないうちに新聞記事にJoseph Nei-simaとして登場しているのは彼が注目されてい たことを示している。そして新島を紹介しているのはバートレット船長である。この時 点で新島を紹介できるのは、海員ホームで出会っているためと考えられる。

なお、この記事は、1866年1月のBible society record(p.20)にも『THE JAPANESE AND THE BIBLE』の表題記事で引用されており、ここではイザヤ書55-10

“My word shall not return unto me void”(私の言葉はそのまま私の口には戻らな い)を引用しつつ紹介されている。

バートレット船長と新島のつながりを示す2つ目の史料は、1871年4月3日新島襄がミ スヒドンあての手紙の中である。(15)この中では古くからの私の友人としてバートレッ ト船長が登場している。この手紙は本井が解説している。

(私はセイラム通りの海員礼拝堂とチェルシー病院で船員の祈祷集会に参加しました。

病院では私の古くからの友人であるバートレット船長に会い、バートレット夫妻と共に楽 しいひとときを過ごしました。

思うに、この老船長は、多くの船員にとても尊敬されています。というのも、彼の船員へ の愛情といったものが体全体で表現されており、彼が話すことはどれもがポイントをつい ているのです。彼の暖かい共感を持った彼の説教はシンプルなのですがいろんな国籍をも つ人たちから成る集会に受け入れられています。病院にいるその人たちは、いろんな病気 を持ち故郷からも遠く離れており友人もいないのです。

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Park Street Church

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 ハーディ家に引き取られたのは10月中旬と考えられており、10月30日 にはアンドーヴァーに出発しているためその間の出来事である。ハー ディー家に引き取られて1ヶ月も満たないうちに新聞記事にJoseph Nei- simaとして登場しているのは彼が注目されていたことを示している。そ して新島を紹介しているのはバートレット船長である。この時点で新島 を紹介できるのは、海員ホームで出会っているためと考えられる。

 なお、この記事は、1866年1月のBible society record(p.20)にも『THE JAPANESE AND THE BIBLE』の表題記事で引用されており、ここでは イザヤ書55-10 “My word shall not return unto me void”(私の言葉はその まま私の口には戻らない)を引用しつつ紹介されている。

 バートレット船長と新島のつながりを示す2つ目の史料は、1871年4 月3日新島襄がミスヒドンあての手紙の中である。15)この中では古く からの私の友人としてバートレット船長が登場している。この手紙は本 井が解説している。

 (私はセイラム通りの海員礼拝堂とチェルシー病院で船員の祈祷集会 に参加しました。病院では私の古くからの友人であるバートレット船長 に会い、バートレット夫妻と共に楽しいひとときを過ごしました。

 思うに、この老船長は、多くの船員にとても尊敬されています。とい うのも、彼の船員への愛情といったものが体全体で表現されており、彼 が話すことはどれもがポイントをついているのです。彼の暖かい共感を 持った彼の説教はシンプルなのですがいろんな国籍をもつ人たちから成 る集会に受け入れられています。病院にいるその人たちは、いろんな病 気を持ち故郷からも遠く離れており友人もいないのです。

 チェルシーの病院は、傷つき哀れな海員負傷者にとって、身体の苦 しみだけでなく彼らの精神的な病についても対応できる場所でなければ なりません。私は船長の労苦や涙が、最後には硬くて不毛な乾燥した土 を肥すための良い施しとなって、立派な木や豊富な果実の実りになるこ とを信じています。)

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 古くからの友人であるバートレット船長の面倒見のよさと信仰心深い ことが理解できる手紙である。

 3つ目は、The Sailor's magazineの1874年12月号にJoseph Nee Simaの 紹介の中で、最初のボストン到着から、ハーディ氏に連れられて海員ホー ムにくるエピソード、そこでバートレット船長と面識を得たと考えられ る記事である。

 バートレット船長が話す新島のおもしろいエピソードなども描かれて いる。

“Nee Sima enlisted steward on the Boston ship, and during the long voyage made much progress in the knowledge of the English language, and in the reading of the Bible. He gained also the favor of the officers by fidelity and efficiency in the discharge of his duties as steward. The ship happened ―if the term happened can be applied to anything connected with the remarkable history of the man, wherein every want was as providentially directed as in the life of his great namesake, the Hebrew Joseph, or as in the case of Moses and other parallel benefactors of their nation―the ship happened to belong to Alpheus Hardy, that noble and truly Christian merchant of Boston. To him the captain carried the steward, and told him of his history and his efforts to reach America and bring himself under Christian influences and Christian learning. The heart of the good man opened to this stranger from the strangest and most exclusive of nations and perhaps he caught a prophetic glimpse of the great good that might be achieved through him. Becoming warmly interested, he took Nee Sima to the earnest and energetic apostle of the

“Men of the Sea,” Capt. Andrew Bartlett, whom he easily inspired with a similar interest.

Capt. Bartlett tells a most interesting story of the rapidly expanding Christian life of this young man. Taking him through the city of Boston

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and showing him the magnificent warehouses and public buildings, Capt.

Bartlett asked him if they had anything like it in Japan. He replied,”

No,indeed. The Bible gives you all this.” He constantly and correctly ascribed our great national prosperity and the exceptional personal privileges and comforts which we enjoy to the Bible. He realized at once the fact, we too little appreciate, that the Bible and the Christian religion has given us all we have of exceptional good to boast of and to enjoy.“16)

 (ボストンの船に従者として乗船することができた新島は、その長い 航海の間に、英語に関する知識や聖書読解に大きな進歩が見られました。

航海中、彼は自分に与えられた従者としての仕事のほかに、効率のよい きちんとした仕事振りで大いに船長の信頼を得ました。

 乗船した船は、たまたまボストンにおける高貴で真摯なプロテスタン トの商人であるAlpheus Hardy氏所有のものでした。たまたまという言 葉は文字通り全く予期していない場所が偉大な歴史上の人物との出会い になることがあるという意味を持っている。ヘブライヨゼフのヨゼフの 略称であるジョーという青年との出会いは、モーゼとの出会いを思い出 させるものである。テイラー船長はハーディ氏のところに従者であった 青年を連れて行き、彼の生い立ち、ここにくるまでの彼自身の努力と彼 がいかに聖書のことを学びたがっているかを伝えた。もっとも風変わり で閉鎖的な国日本からのやってきた異邦人の存在はハーディ氏の興味を 引き、ハーディ氏を通して望ましい処遇をうけることができるように なった。 新島に親愛の情を感じたハーディ氏は、熱心で情熱的な宣教 師である「海の男」バートレット船長も同様な興味を示すと考え、彼の ところへ連れて行くことになった。

 バートレット船長は、この青年のなかで急速に広がっていった聖教者 としての生活に関して興味深い話をしている。ボストンの街で彼と話し ながら、立派な倉庫や公共の建物を見せ、日本にもこのような建物はあ るのか?と聞いたところ彼は次のように答えた。「全くありません。聖 書があなたがたにこれらすべてのものをおあたえになっています。」

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 我々が聖書に親しむことで大きな国家繁栄と特別な個人の特権をえて いるということを、彼は疑うことなく理解している。さらに、われわれ は実感する事がほとんどないのであるが、聖書とキリスト教がわれわれ に希望しているもの、楽しみを与えるもの、それらすべてを与えてくれ ているという事実を彼は理解していた。)

 ハーディ氏がバートレット船長のところに連れて行ったということ は、すなわち海員ホームに連れて行ったという意味と同じであろう。こ こで、「脱国の理由」を書く前に、バートレット船長と面識を得たと思 われる。バートレット船長の人となりは詳細に後ほど示すが、船長と新 島が海員ホームでただちに仲良くなったことは容易に想像がつく。

 4つ目は、新島襄の没後、Missionary Heraldの1890年3月号に掲載 された新島への弔詞のなかでバートレット船長は登場している。17)

「新島がボストンに到着してからまもない1865年10月に書いた祈りのメ モを入手した。当時の彼の精神的状態と教化の程度とが判明する。その 頃この日本人青年とよく会っていたアンドリュ・バートレット船長が新 島から受け取ったもので、次のようにある。(以下略)」18)最初の祈祷 文を受け取った人物としてバートレット船長が登場している。

ボストン海員の友協会

 ボストン海員の友協会は、アメリカ海員の友協会の1支部として1827 年に海員の福利厚生を主たる目的で作られた協会である。なおハーディ 氏は、1849年から1871年までボストン海員の友協会の4代目会長になっ ている。この協会は、1830年に海員教会を建立し、パーチェス通り99番 地に海員ホーム(Sailor's Home)を建てて運営している。新島は航海日 誌の中で、“ポルチェス街の船子家”と記載し滞在した当時は、5階建て の建物であった。97室の寝室、図書室、喫煙所、ダイニングルームなど、

海の上の生活同様に快適に生活できる設備を備えている。屋上は、ボス トン湾の全景が見渡せる展望台となっている。当時の海員ホームを下図

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でしめしている。なお、1859年よりバートレット船長はここを拠点に海 員宣教師の活動を行っている。19.20)

Sailor’s Home 1867年 High Street Bridge ,over liver

The Sailors' Home and the waters of Boston Harbour can be seen in the background of the picture.(22)

バートレット船長の活動概要について

 バートレット船長が1859年以降ボストン海員の友協会の専任宣教師となってからの精 力的な活動は、Annual reportとして、Sailors magazineに毎年記載が出てきている。

新島がボストンに来た1865年の年報には次のような記載である。

年間約900名が入院しているチェルシー病院では、バートレット船長は26回の葬式をとり おこない、82回祈祷集会に参加した。病院への訪問は実に年間180回にのぼっている。病 院では集会がよく執り行われ、松葉杖のもの、船の同僚に付き添われながら参加する人 は、出身国も様々で14-15カ国の人々が出席する光景は感動をよんでいる。またこの病院 では、年間43名の船員が回心している。

同じ号で、ボストン海員の友協会の活動(37回目の年報)が数ページにわたって掲載され ている。(19) このなかで、新島と関連がありそうなものとしては、船内図書室について の協会の取り組みが紹介されていてこれは注目に値する。

船室に読むに値する興味深い読み物を備え付けるということは、船員また船主両方によ い影響をあたえている。航海の孤独のなかで、船員の心の中に豊穣なる真実を伝えること が、回心をおこさせる芽になることがある。昨年度は87の船に新規で図書館をボストン 海の友協会で贈与し、50の船の図書を入れ替えている。369の船へ図書をボストンと ニューヨークの海の友協会より送っている。こういった図書設置運動によって昨年度は23 名が回心しており、この活動を始めてからのべ247名が回心したと報告している。この活 動の中心がバートレット船長であると報告されている。

パーチェス通り99番地に海員ホーム(Sailor's Home)を建てて運営している。新島は航海 日誌の中で、“ポルチェス街の船子家”と記載し滞在した当時は、5階建ての建物であっ た。97室の寝室、図書室、喫煙所、ダイニングルームなど、海の上の生活同様に快適に生 活できる設備を備えている。屋上は、ボストン湾の全景が見渡せる展望台となっている。

当時の海員ホームを下図でしめしている。なお、1859年よりバートレット船長はここを 拠点に海員宣教師の活動を行っている。(19.20)

バートレット船長(21)

     

ポルチェス街の船子家 

Sailors House. 99 Purchase Street. Boston

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パーチェス通り99番地に海員ホーム(Sailor's Home)を建てて運営している。新島は航海 日誌の中で、“ポルチェス街の船子家”と記載し滞在した当時は、5階建ての建物であっ た。97室の寝室、図書室、喫煙所、ダイニングルームなど、海の上の生活同様に快適に生 活できる設備を備えている。屋上は、ボストン湾の全景が見渡せる展望台となっている。

当時の海員ホームを下図でしめしている。なお、1859年よりバートレット船長はここを 拠点に海員宣教師の活動を行っている。(19.20)

バートレット船長(21)

     

ポルチェス街の船子家 

Sailors House. 99 Purchase Street. Boston

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Sailor’s Home 1867年 High Street Bridge ,over liver

The Sailors' Home and the waters of Boston Harbour can be seen in the background of the picture.22)

バートレット船長21)

ポルチェス街の船子家 

Sailors House. 99 Purchase Street.

Boston

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バートレット船長の活動概要について

 バートレット船長が1859年以降ボストン海員の友協会の専任宣教師と なってからの精力的な活動は、Annual reportとして、Sailors magazine に毎年記載が出てきている。

 新島がボストンに来た1865年の年報には次のような記載である。

 年間約900名が入院しているチェルシー病院では、バートレット船長 は26回の葬式をとりおこない、82回祈祷集会に参加した。病院への訪問 は実に年間180回にのぼっている。病院では集会がよく執り行われ、松 葉杖のもの、船の同僚に付き添われながら参加する人は、出身国も様々 で14-15カ国の人々が出席する光景は感動をよんでいる。またこの病院 では、年間43名の船員が回心している。

 同じ号で、ボストン海員の友協会の活動(37回目の年報)が数ページ にわたって掲載されている。19)このなかで、新島と関連がありそうな ものとしては、船内図書室についての協会の取り組みが紹介されていて これは注目に値する。

 船室に読むに値する興味深い読み物を備え付けるということは、船員 また船主両方によい影響をあたえている。航海の孤独のなかで、船員の 心の中に豊穣なる真実を伝えることが、回心をおこさせる芽になること がある。昨年度は87の船に新規で図書館をボストン海の友協会で贈与し、

50の船の図書を入れ替えている。369の船へ図書をボストンとニューヨー クの海の友協会より送っている。こういった図書設置運動によって昨年 度は23名が回心しており、この活動を始めてからのべ247名が回心した と報告している。この活動の中心がバートレット船長であると報告され ている。

 

ワイルドロー バ ー 号 の 船 内 図 書 室とLoan Library System

 アメリカ海員の友協会(American seamanʼs friend society)の確固た

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る信念のもと、1839年ごろよりボストン・ニューヨークの商用船舶には 船内図書室が設置されていった。実際ハーディ氏の所有船であるワイル ドローバー号には、図書室があった。図書室には長い孤独な航海をいや す良質な読み物とともに宗教書も設置されている。図書室には聖書は通 常置かれていた。

 また1859年より、ニューヨーク、ボストンを中心に相互貸し出しを中 心とした船内図書室の運営が本格化している。図書の運営は、10ドル、

20ドル、25ドルといった寸志をもとに、40冊一組で木製の備え付けの本 箱を設置し、扉を開くと書棚になるというタイプのものであった。個人 からの蔵書提供の場合には、本棚のプレートにその人の名前を刻むとい うこともされていた。23)

バートレット船長、半生を語る

 The Sailor's magazine and seamen's friendの1880年1月号に、ボスト ンからの報告として、長年海員宣教師として活躍してきたバートレット 船長自身がその半生を報告している。以下拙訳である。24)

 「”若かりし頃 ― 海の暮らしへのあこがれ”

 私は、マサチュッセッツー州のプリマス出身で1806年に生まれた。私 の家族は今でもそこで生活している。10歳のときに学校卒業し、繊維工 場に勤めた。海へ行きたいと希望を持っていたが両親が反対していた。

いじいじとした気持ちで2年間工場で働いた後、1818年両親に内緒で船 のコックになった。その事情を知った両親は、もう反対はしなかった。

その後1831年までの13年の間に、特段の教育を受けたわけでもとりたて る人がいたわけでもないが船長になった。この後12年の間に、船を新調 し1843年に回心した。その後数年間は航海中も神に仕えるため、水上礼 拝所を設けているという旗を船に立てて航海した。洋上ですてきな出会 いがあって回心する人がでることを期待していた。

 1849年には船乗りの生活をやめた。振り返れば83回大西洋を航海し、

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東インド諸島や南アフリカへは2回航海したことになる。

”海員のための仕事を継続”

 当時、自分の持分である船舶が数船あったため、プリマス地方の船舶 の火災保険・海洋保険の代理人になっていた。船が港に着くと、船長が 自宅で休んでいる間に、燃料を詰めたり、船の修繕を行う仕事をしてい た。そのためしばしばニューヨークに行く機会がふえることになった。

1858年秋に船の修繕でニューヨークにいる時にアメリカ海員の友協会の 渉外担当理事ワーレン師によばれた。船舶向けの貸し出し図書のシステ ム作りについて意見を求められた。適切な書籍が備えられれば、自分以 外見ることのない宗教書も備えた船内図書室を作りたいという希望を もっているとの意見を述べた。その上で自分の考えを伝え、協会の理事 が認めて現在も船内図書システムが続いている。

 1859年1月プリマスから日帰りの予定でボストンに仕事で来たとき に、海員ホームを訪ね、宗教的な興味が尽きなくなり計10日滞在した。

自宅に戻る前に、ハーディ氏(Alpheus Hardy)やホーム関係者から今 の仕事をやめて、海員ホームと海員の友協会で宣教師として働くように すすめられた。ボストンでの仕事をしてまもなくチェルシーの海員病院 へ訪問した時に、ここは海員をさまざまな世間の誘惑から断ち切る絶好 の場所であると考え、以来週2回の祈祷集会と聖書や福音書の配布活動 を行った。また船舶オハイオ号の船上でも祈祷集会をおこなった。南北 戦争中は何百という人が船上で回心をし、通算すると何千という人が回 心した。ワーレン師が私に現在の図書関係の仕事を斡旋して以来、多く の良書を買い求め、多くの船内図書室を作った。また中古本の図書室も つくり現在もハーネス師のもとで事業が続けられている。

 バートレット船長の手紙は、読者にもおなじみのチェルシーの病院で の最近の活動がつづられている。彼こそ神の従者そのものであり、これ からの人生も同様に真摯な活動で多くの船員を導いていくことであろ う。」

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 今までの史料より明らかなように、バートレット船長が1859年よりボ ストン海員の友協会の専属宣教師の仕事を始めるきっかけは、ハーディ 氏であることがわかった。またワイルドローバー号には船内図書室が設 置してあり、航海中新島は英訳聖書を手に入れることができた。これと 香港での漢訳新約聖書を照らしつつ航海中、英語の勉強を続けたと思わ れる。ボストン上陸後ハーディ氏によって連れて行かれた海員ホームで は、59歳のバートレット船長が23歳の青年新島を手厚く迎え入れた。

1882年バートレット船長なくなる

 1882年2月4日75歳で生涯をおえているが、死亡記事はNew York Times, The Sailors magazineに掲載された。彼の人となりがとてもよ くわかるものであり紹介する。

        (ボストン海員の友協会でバートレット船長は海員の宣教師として長 年活躍してきた。彼とその家族の遺志として、1万ドルをチェルシー地 区の海員病院での宣教活動と伝道の維持に寄付している。また残りの遺 産は、4分の1をアメリカンボードの海外伝道部に、4分の1をニュー ヨークの家庭伝道教会、4分の1をアメリカ伝道教会、8分の1をアメ リカ聖書協会、8分の1をアメリカ伝道冊子協会へとなっている。)25)

 また、The Sailors magazineでは、4ページに渡って死亡記事が掲載 された。記事の中心は1843年の船長自身の回心のエピソードとなってい る。

 記事の最後では、追悼と彼の長年の功績をたたえ彼の人となりが端的 に表現されている。以下原文を引用する。

”He never omitted to plead for seamen. He was a man of natural eloquence, and was received freely into pulpits and conference rooms, where he was uniformly heard with attention. He had a fine voice, distinct

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虎口からの脱出

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enunciation, and used language with simplicity and force. He addressed sailors as ship-mates, and won their esteem. He refused a license to preach, that he might be plain Captain Bartlett. He was patient, tender, and child-like, affectionate and companionable, neat in person, always prompt to the moment in his engagements, a faithful friend, and a devoted servant of the Lord Jesus Christ.”

 (バートレット船長は、救いを求めている海員たちを決して見捨てる ことはなかった。彼こそ、生まれながらの雄弁家であると同時に説教台 や談話室でも自由に話を聞いていたし、どんなときでも細心の注意を 持って海員の話を傾聴していた。彼の声はよく通り発音は明瞭で、わか りやすい言葉を極力使用していた。同僚のような気安さで説教する彼の 評判は高かった。彼は伝道師の資格を取ることを良しとせず、あくまで 海の男バートレット船長であった。彼の人となりは、忍耐強くてやさし く、子供っぽいところも人を惹きつけ、情に篤い一方でさっぱりとした 性格でもあった。約束はきちんと守り、信頼にたる友人でもあり、なに よりもイエスキリストの忠実なしもべであった。)26)

「脱国の理由」誕生と回心について

 「脱国の理由」の誕生は次のようにすすんだのではないかと考える。

 ハーディ氏と共に海員ホームにつれてこられた新島をやさしくうけと めたのはバートレット船長であった。バートレット船長にとっては、異 国で心細く思っている海員たちから、いろんな話を聞き出し、聖書のこ とをはなし共にお祈りをし、回心の手助けをする事は、ほぼ日常のおこ ないであった。

 バートレット船長は、易しい英語で、少しづつ新島の話を聞きだして 彼の緊張をときほぐしていったのであろう。また、ワイルドローバー号 の船内で見た図書は自分たちが設置したものであること、自分の生い立 ちも新島に話したであろう。新島の思いを一番良い形でハーディ氏に届 けるには、文章が一番と新島にアドバイスして、彼の文章作成を要所要

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所でアドバイスしたと思われる。

 こうして新島は海員ホームの3日間で回心し、多少の手直しはうけた ものの新島自身の思いが素直に伝わる名文「脱国の理由」が出来上がっ た。

おわりに

 2011年に初めて新島襄を助けた3人目の船長として本井康博によって

「ビーコンヒルの小径」の中で紹介されたCapt. Andrew Bartlettの情報を 補足紹介した。新島襄がもうすこし長生きをして自分の自伝を執筆した ならば、世話になった船長の3人目としてバートレット船長に大きなス ペースを割いたものと思われる。

 新島七五三太がNeesima JoになりJoseph Neesima になる経緯は、未 知の異文化社会との出会い、日米交流の点から見ても興味が尽きない。

 ハーディ氏の紹介で海員ホームに身を寄せた新島は、ボストン海員の 友協会の宣教師バートレット船長と面識をもち面倒をみてもらったこと は、当時の新聞、手紙、船長の人となりを示す多くの記事より推測され る。「脱国の理由」の執筆の具体的経過は依然不明であるが、バートレッ ト船長が感動的な英文誕生にかかわっていたと考えることは可能で、こ の時期に新島の回心もおこったものと考えられた。

(19)

虎口からの脱出

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1) John E.Van Sant , “ Niijima Jo, Japanese Puritan” in his Pacific Pioneers: Japanese journeys to America and Hawaii, 1850-80,Urbana:University of Illinois Press, 2000, p.65.

2) 太田雄三『新島襄』(ミネルヴァ書房、2005年)pp.86-92.

3) 森永長壹郎、「新島襄の『脱国の理由』と『ロビンソン・クルーソー』」、『新島研究』

98号(2007)、pp.213-237.

4) Escaping the Tigerʼs Mouth by Gavin J. Campbell Aug.2009

(text http://wsw.uga.edu/files/campbell_workshop.pdf 2012.11.20 accessed)

5) 本井康博『ビーコンヒルの小径 新島襄を語る 8』(思文社、2011年)pp.125- 143.

6) Edward Stanwood BOSTON ILLUSTRATED 1873 7) 新島襄全集10「新島襄の生涯と手紙」同朋舎 p.17.

8) The Athenaeum centenary: the influence and history of the Boston Athenaeum from 1807 to 1907, with a record of its officers and benefactors and a complete list of proprietors

9) 新島襄全集8(年譜編)同朋舎 pp.35-36.

10) “航海日記” 新島襄全集5(日記・紀行編)同朋舎 pp.25-68.

11) “箱楯よりの略記” 新島襄全集5 (日記・紀行編)同朋舎 pp.72-79.

12) “ハーディ氏ノ生涯ト人物” 新島襄全集2(宗教編)同朋舎 pp.408-418.

13) “Thirty-Fourth Anniversary of the Boston Seamenʼs Friend Society” The Seamen’s Freiend, 1862. vol.4 ,11:pp.342-345.

14) “A JAPANESE PRAYER” New York Observer and Chronicle, Nov 9,1865;43.

15) Letter to Mary E.Hidden April 3 1871 新島襄全集6(英文手紙)同朋舎 pp.82- 84.

16) “Joseph Nee Sima” The Sailor’s Magazine,1874.vol.46,12:pp366-368.

17) “REV.JOSEPH HARDY NEESIMA, L.L.D” The Missionar y Herald,1890.

vol.86,3:pp91-96.

18) 本井康博『同志社と建学の精神』(同朋舎、2005年) p.37.

19) “Thirty-Seventh Anniversary of the Boston Seamenʼs Friend Society” The Seamen’s

(20)

Freiend, 1865. vol.7 ,12:pp.369-375.

20) Highlighting the history of the Boston Seamenʼs Friend Society

(http://www.naccc.org/CMSUploads/287_History_Highlights_2009.pdf 2012.11.20accessed)

21) 新島遺品庫資料 下2655番

22) Allan Forbes Some Merchants and Sea Captains of Old Boston: Being a Collection of Sketches of Notable Men and Mercantile Houses(State Street Trust Company 1918)

 p.21. 

23) Records of the American Seamen's Friend Society (Coll.158)

(http://library.mysticseaport.org/manuscripts/coll/coll158.cfm 2012.11.20accessed)

24) “Boston, Mass” The Sailor’s Magazine,1880.vol.52,8:pp313-314.

25) “A SEAMENʼS MISSIONARY WILL” New York Times,1882,Apr 12

26) ”Obituar y CAPT. ANDREW BAR TLETT The Sailor’s Magazine,1882.

vol.54,4:pp.118-121.

参照

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