ーの日本訪問 1960年
著者 爲政 雅代
雑誌名 社会科学
巻 43
号 1
ページ 77‑96
発行年 2013‑05‑31
権利 同志社大学人文科学研究所
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013165
新たな日独関係の模索?
─ 西ドイツ首相アデナウアーの日本訪問 1960 年 ─
爲 政 雅 代
西ドイツ首相コンラート・アデナウアーは 1960 年 3 月に日本を表敬訪問し,岸信介 首相との会談や日独共同声明において今後の日独関係の発展を約束した。当初,日本 ではこの訪問をあくまでも「表敬訪問」としていたが,訪日で彼がおこなった演説は 日本の内外に大きな影響を与えた。アデナウアーは,日独が共に反共産主義の砦とな るために協力する必要性をアジアの砦となる日本で訴え,緊張緩和という国際環境に 反して反共産主義を全面的に押し出した。その結果,日米安保改定に揺れる日本では 左派が反発し,ソ連はベルリン=東京枢軸の復活,あるいは,日独防共協定の復活と 批判した。同時に,日本は経済関係の強化を求めていたのに対して,西ドイツはあく までも政治的なレベルでの協力関係を求めており,日独関係の方向性について両者の 間にすれ違いも生じていた。本稿ではこのような一連のプロセスについて,西ドイツ 側からの視点で解明するために,ドイツ連邦文書館,およびドイツ外務省史料館の一 次資料を使用する。
は じ め に
「あなた方は日本で,私たちはドイツで,この対決の最前線に立たなければなりません1)」。 1960 年に日本を訪問した西ドイツ首相コンラート・アデナウアーKonrad Adenauerは,
こう訴えた。「この対決」とは,「共産主義の脅威」に対する対決であった。彼の発言は 日本の内外に大きな波紋を呼び起こした。
訪日当初,彼の訪問はあくまでも表敬訪問とみなされ,実際に観光や会談に多くの時間 が割かれていた。このために,この訪日は日本と西ドイツの友好関係を強化するためにす ぎない「形式的な訪問」と受け取られがちであった。にもかかわらず,日程を終える頃に は彼の発言をめぐる反応が日本の内外から伝えられ始める。これは彼の発言が表敬訪問 の枠組みをはるかに超えたものと理解された結果,大きな波紋を呼び起こしたと言える。
特に,日程上で組み込まれた彼の演説やこれに対する周囲の反応を分析すると,訪問先 の日本で外交上における一定の影響力を行使しようとするアデナウアーの意図や姿勢が
見られる。アデナウアーは日本の内外をめぐる情勢を「共産主義の脅威」が差し迫った 危機的状況であるとみなし,アジアにおける「反共産主義の砦」である日本を戦略的に 強固なものにすることを必至ととらえていた。訪日はこの見解をふまえた上で,政治的 な影響力を行使する機会となった。また,プロイセンとの修好通商条約締結以降,日本 はそれまでの約 100 年にわたる日独関係で蓄積されたドイツ・ソフト・パワー2)が定着 した場所であり,彼にとって影響力を行使しやすい場所でもあった。このために,訪日 そのものが日独関係の強化以上に彼の外交政策を積極的にアピールする好機となったの である。つまり,アデナウアーは日本に浸透したドイツ・ソフト・パワーを利用し,そ の日本でドイツ・ハード・パワーを展開したと言える。
本稿ではアデナウアーの訪日について,西ドイツ側の視点からその訪問の目的や実態 について詳細に分析をおこない,この訪日が持つ意義について考察する。この見解を得る ために,本稿ではドイツ外務省史料館(das Politische Archiv des Auswärtigen Amtes, PAAA),および,コブレンツ連邦文書館(Bundesarchiv Koblenz, BArch)でのアデナ ウアーの訪日関連の史料を主に利用する。日独関係史はそもそも第二次世界大戦までを 対象としたものが圧倒的に多い。さらに,戦後史についてはほとんど蓄積がなく,経済 史の分野でいくつかの先行研究がある程度である3)。同時に,戦後初期段階における日 独関係についての言及はなく,とりわけアデナウアーの訪日に関してまとめられた研究 はない。ただし,日独関係の歴史を包括的にまとめたゲルハルト・クレープスGerhard
Krebsは,アデナウアーが中国やソ連への対抗勢力としての日本に強い関心を示していた
と指摘している4)。この点については,アデナウアー研究の第一人者であるハンス=ペー ター・シュヴァルツHans-Peter Schwarzがアデナウアー外交をグローバルな視点からと らえた論考5)においても同様に指摘している。彼はアデナウアーの訪日における演説を 取り上げた上で,アデナウアーが共産主義の脅威にさらされる日本に大きな懸念を抱い ていたことを強調している。本稿はこれらの研究をふまえた上で,これまでの研究で具 体的に言及されることがなかったアデナウアーの訪日を取り上げることによって,西ド イツが戦後の日独関係をどのように位置づけていたかを明確にする。
1 アデナウアーの日本訪問 1960 年
1.1 旅程
アデナウアーは,1960 年 3 月 12 日〜 3 月 24 日までのアメリカ訪問(ニューヨーク,
ワシントン,ロサンジェルス,サンフランシスコ,ホノルル)の帰途で日本を訪問した。
アデナウアーの回顧録ではこの訪米と訪日の双方を「世界旅行」と表現しているが6),実 際に西ドイツから大西洋を渡ってアメリカを訪問し,その帰途に太平洋を渡って日本を 訪問し,その後に帰国するというまさに世界一周の旅行であった。また,その日程は 3 月 25 日〜 4 月 1 日の 8 日間にわたる長期間に及び,先に行われた吉田茂首相の西ドイツ訪 問が 1954 年 10 月 12 日〜 14 日,岸信介首相の西ドイツ訪問が 1959 年 7 月 16 日〜 17 日 であったことと比較すれば,破格の長期滞在であった。
では,この 8 日間の長期滞在がどのようなスケジュールで組まれていたのか見てみよ う。これについては,以下の「表 1 アデナウアー首相の日本滞在予定」を参照された い。そしてこの表に基づいてアデナウアーの訪日時の行動を分類すれば,大きくは「観 光」,「会談」,「演説」の 3 つに分類することができる。「観光」が日程の大きな割合を占 めていることは否めない。特に,関西訪問は観光に終始して家族との時間を満喫してお り,27 日〜 30 日までの日程において日独関係の強化などの具体的な方策がとられた形跡 は見られない。また「会談」については,岸首相,藤山外相,天皇などとの会談があり,
これについてもとりわけ多くの時間を割かれているわけではなく,表敬訪問と日独親善 の強化がその主たる目的といえよう。そして,歓迎式典,晩餐会,国会,大学でおこなわ れた「演説」についてであるが,観光によって実働時間としてみなすことができない 27 日〜 30 日を除外して残された 3 日間に 6 か所でおこなっており,これは決して少ないも のではない。しかも演説におけるテーマは日独関係を超え,外交的な内容を軸としてお り,アデナウアーの演説の目的には特定の傾向が見られるのである。
表 1 アデナウアー首相の日本滞在予定
日時 日程
1960 年 3 月 25 日(金) 夜,東京に到着,歓迎式典
1960 年 3 月 26 日(土) 岸首相・藤山外相との会談,天皇・皇后拝謁,首相官邸訪問 記者会見,岸首相主催晩餐会
1960 年 3 月 27 日(日) 聖イグナチウス教会での礼拝,ドイツ博物学・民俗学協会
空路にて関西へ移動,奈良観光(飛火野,東大寺,奈良ホテルなど)
1960 年 3 月 28 日(月) 京都観光(京都御所,竜安寺,二条城,平安神宮など)
1960 年 3 月 29 日(火) 列車で帰京,西ドイツ大使館主催晩餐会 1960 年 3 月 30 日(水) 吉田前首相との会談(大磯),箱根観光
1960 年 3 月 31 日(木) 上智大学,東京都知事との会談,日独協会,早稲田大学,国会,藤山外相主催晩餐会 1960 年 4 月 1 日(金) 慶應義塾大学,西ドイツ大使館,歌舞伎座,共同声明発表
帰国の途へ
*下線を施した部分は,訪問時にアデナウアーが演説をおこなった場所
(出典:“Programm für den Staatsbesuch des Herrn Bundeskanzlers in Japan vom 25. März bis 1. April 1960,”
BArch B 136/2051にもとづいて作成)
では,この訪問について西ドイツ側ではどのように総括されているのであろうか。これ については,駐日・西ドイツ大使ヴィルヘルム・ハースWilhelm Haas7)による 1960 年 4 月 19 日付の報告書8)を通して客観的に分析できる。まず,報告書の冒頭では日本側の 大きな歓迎と世論の高い関心が言及され,ほぼ 100 年にわたる日独関係の長い歴史がそ の背景にあることが指摘された上で,それぞれの日程に関してのコメントが付け加えら れている。ここで注目に値するコメントを列記すると,25 日の日本到着については,日 本側の歓迎ぶりが強調され,両首相による歓迎の言葉に言及している。26 日については,
天皇謁見の様子,岸首相との 1 時間半にわたる会談などが詳細に書かれている。特に,岸 首相との会談は「首相訪問の政治的な中核9)」と表現され,その重要性を示している。さ らに,同日おこなわれた記者会見における日本のマスコミの過熱ぶりも言及されている。
しかし 27 日〜 29 日の関西訪問については短い言及に終わっており,天候に恵まれたため に,法隆寺や清水寺などの予定になかった場所も訪問したと記された程度である。また,
30 日の吉田元首相との会談や箱根滞在についても短い言及に終わっており,岸首相や藤 山外相が同行したことが付け加えられているにすぎない。
ハースによるこの段階までのコメントが比較的に短いものであったのに対し,31 日の コメントは非常に長い。そこでは上智大学における名誉校友の授与とその際におこなわ れた演説の内容,特に明治時代より続く日独交流の歴史に敬意を示した点が述べられて いる。また,日独協会の訪問の際には,東京在住のドイツ人たちが招待されていたことも 記録されている。午後には国会に出席し,これはアデナウアーがヨーロッパの政治家と しては初めてであるとハースは記している。そしてこの部分で注目すべきは,日本側の 社会党左派の政治家たちの反応について,詳細な言及がなされていることである。まず,
「首相の演説の間,社会党左派の議員たちはきわめて稀であるが規律ある行動をとり,拍 手を送った10)」が,他方で「その後,彼らは首相の『激しい反共産主義的な主張』に反 対する態度を示した。また,アデナウアー訪問団の帰国日に声明を出し,日独両政府は共 同コミュニケの内容を遵守するようにと要求した11)」ことに触れている。さらに,早稲 田大学から名誉博士号を授与されたことに対して,「早稲田大学は有名な日本の社会主義 者を多く輩出しており,つねに左派の影響のもとにあるが,ドイツの政治家に対する名 誉博士号授与という事実が大学内の潮流における勢力関係の転換点を表していると,ア デナウアーに確信させたのであった12)」とも書いており,日本における左派の動きにつ いて西ドイツ側が敏感に反応している点が浮き彫りとなっている。
そして,訪問最終日の 4 月 1 日についての記録では,まず,横浜のドイツ人学校の生
徒,ケルンで 20 年代に知り合いとなっている高松宮妃,その他の皇族,政財界の関係者 などが西ドイツ大使館に招待された,とある。また,サミット直前に日本政府がドイツ再 統一とベルリンの自由の維持について支持すると確認したことが,この訪問の重要な成 果であるとの見解が示されている。そして,10 頁にわたるこの報告書は,アデナウアー の別れの挨拶の言葉を紹介して終えられている。公式日程の内容やハースの報告書から,
日独の友好関係を確立するためというアデナウアーの訪日目的は明確であるが,他方で は,とりわけハースの報告書に見られるように,日本の左派の動向について過敏ともとれ る言及をしていることが,顕著な傾向としてあげられる。それはすなわち,表敬訪問とさ れたアデナウアーの訪日が,政治的な色彩を帯びたものであることをも明確にしている。
この点をより精査するために,本稿ではさらにアデナウアーの発言,つまり,彼による 演説に注目し,この内容を検討・解明する。
1.2 滞在中のアデナウアーの演説
アデナウアーは日本滞在中に計 6 回にわたって演説をおこなった。その場は様々であ り,挨拶,大学,国会と多岐にわたっているが,その内容を詳細に分析する。
到着日である 3 月 25 日に,羽田空港でおこなわれたアデナウアーの短い声明13)は,主 に日独の友好関係を軸としたものである。冒頭では招待への感謝,日本の古い文化や戦後 の経済成長への敬意を述べ,その後に,これまでの両国の伝統的な友好関係,日独におけ る戦後復興の達成などに言及している。特に,「両国は厳しい運命の苦しみを受け,熱心 に働き,勤勉に励むことで,そして,我々共通した友人たちの手助けによって,瓦礫と なった国家を再び復興しました14)」と表現することで,両国が抱えた歴史の共通性を強 調している。その上で,「両国民とも世界平和の確立と自由の維持を最大の政治目標とし ています15)」とし,「私は我々の会談が両国民の良好な関係を深化させるだけでなく,世 界平和を強固なものとすることに貢献すると,確信しております16)」と述べて,日独関 係の強化とその意義を主張している。続いて翌 26 日の岸首相主催の晩餐会では,招待へ の御礼や戦後日本の復興を高く評価すると述べた上で,日本政府によるドイツ再統一へ の支持表明に対する感謝を示している。さらには,日独関係については,「戦後の日独関 係に新たな血を注いできたことに大変満足しております17)」とし,そして,「日独間の友 好関係がさらに深まり,我々が心から望むような自由と平等を基盤とした世界平和の確 立に貢献できるのが,私の切なる願いであります18)」と述べ,この場においても日独の 友好関係の必要性とその意義について言及している。これら双方の演説からは,アデナ
ウアーの訪日の目的は,日独関係を強化し,ドイツ再統一への支持を獲得することにあ るという方向性が見られる。
しかし,3 月 31 日に国会でおこなわれた演説は,上記 2 つの演説とはまったく異なる 方向性が示されている。ここで,この演説内容については,事前に用意されていた草稿19)
と当日に使用された原稿20)の双方を比較した上で,当日に変更したことでより強調され た部分を明確にする。まず,草稿の内容についてであるが,議会制民主主義に立脚する 両国の立場,ドイツ再統一問題とベルリン問題の現状が述べられ,これをふまえた上で 民族自決権を持たない東ドイツの実態を指摘している。さらには,ソ連のフルシチョフ 書記長が 1960 年 3 月 5 日の演説でアフガニスタンとパキスタンの国境地域に住むパシュ トゥン人の民族自決権を強く支持したことを引き合いに出して,東ドイツの民族自決権 の正当性を主張している。また,欧州経済共同体は日本経済の脅威にならない,と明言 し,日本側のEECへの懸念を払拭している。以上が内容であるが,この草稿は主として ドイツ再統一への支持を訴えることが軸となっている。
これに対して,当日実際に使用した原稿は日独関係による歴史的な成果,両国における 戦後復興の達成に言及した上で,「その(経済的な−著者注)発展は,しかしながら我々 を新たな大きな課題に直面させました。日本とドイツは共産主義イデオロギーを拒絶し ております。日本とドイツは平和と自由のもとで,そして個人の自由のもとで暮らした いと思っているのです。(中略)我々両国は戦争ではなく,平和を望んでいます。我々は このために,人類の生命を脅かす兵器を制御して削減することを望んでいます21)」と切 り出し,「しかし,それだけでは平和は確立されないでしょう。共産主義は誤ったイデオ ロギーの類ですが,イデオロギーに変わりはありません。そのために,共産主義は精神的 な武器を用いても撲滅しなければなりません22)」と,共産主義の脅威に話を進めている。
そして,アデナウアーは日独双方がともに共産主義の脅威にさらされ,これとの対決は不 可避であるとして,その見解を次のように述べている。「攻撃を防御するために,我々が 武装する,ということだけで満足してはいけません。共産主義との精神的な対決は非常に 大きな意味があります。我々はその対決にあらゆる精神的な力を注ぎ込まなければなり ません。あなた方は日本で,私たちはドイツで,この対決の最前線に立たなければなりま せん。それは,あなた方が東で,私たちが西で,共産主義による直接的な脅威を受けて いるからであり,共産主義諸国で何が教えられ,何が起こっているかに対して,最も注 意深く監視しなければならないからです23)」。そして,克服されるべき課題に取り組むた めに,これまでのような両国の交流や協力関係が必要とされるとアデナウアーは訴えた。
つまり,国会におけるアデナウアーの演説は,草稿と当日原稿とではまったく異なり,
大胆な変更がなされている。そして,その内容は,アデナウアーの持論である共産主義の 脅威を全面的に押し出したものであった。日本到着日の声明や晩餐会での演説は,日独 関係の強化とその意義を世界平和という枠組みで語っているのに対して,国会の演説で は世界平和を守るために,共産主義の脅威に立ち向かうことを日独に求め,そのために こそ日独関係が重要であると具体的に述べた形となっている。すなわちこの演説は,ア デナウアーの外交政策の真骨頂が展開された場であったと言える。
では,その他の場での演説はどのようなものであったか。アデナウアーは東京で 3 つの 大学を精力的に訪問しており,大学生に向けた演説をおこなっている。まず,3 月 31 日 の上智大学における演説であるが,名誉校友に対する御礼に始まり,日本と西洋の出会 い,そして,日本における西洋思想の受容について言及している。また,来るサミット における軍縮問題の解決について,日本が被爆国であることを指摘しつつ,その必要性 を訴えた。また,サミットにおいてドイツ再統一問題やベルリン問題の解決を求めるな かで,「ベルリン市民は,現在のベルリンの法的地位がドイツ再統一まで継続されること を望んでいます。フルシチョフ氏はベルリン市民のこの権利とこの意思を尊重した時に,
彼自身が自分の発言に正直であり続けるのです24)」と述べ,フルシチョフに対して牽制 をするような発言をおこなっている。サミットにおけるテーマを演説の軸にしてはいる が,この演説でもソ連,すなわち,共産主義陣営を意識した内容となっているのが特徴 であると言える。
また,同 31 日には早稲田大学も訪問し,演説をおこなっている。この大学においても アデナウアーに対して名誉博士号が贈られたことを受け,演説はその御礼から始まる。こ ちらでも 5 月のサミット開催に言及しているが,そこで再びフルシチョフに対して次の ような牽制をおこなっている。アデナウアーは「フルシチョフがフランス訪問(1960 年 3 月 15 日にパリを訪問−著者注)の際に至る所でドイツへの不信感を表明したという事 実に目をつぶるべきではないと思います。これをサミットのための良好な雰囲気作りに はふさわしくない事前行為だと,私は思っています。フルシチョフ氏がドイツについて おこなっている言及はまた,すべて誤りなのです。西ドイツは民主国家です。我々があ たかも復讐のことばかり考えているかのように語るのは,馬鹿げたことです25)」と述べ,
フルシチョフへの辛辣な発言をおこなっている。また,ドイツ再統一問題やベルリン問題 に触れ,東ドイツやベルリンにおいて国際法の原則が尊重されていないと指摘している。
そして演説の最後には,早稲田大学の教員が西ドイツで研究をおこなうための支援の提
供を約束して終わっている。つまり,この演説についても,上智大学と同様の傾向が散 見されると言える。
そして,日本滞在最終日である 4 月 1 日には慶應義塾大学を訪問し,やはり演説をお こなっている。慶應義塾大学における演説26)は,上智大学や早稲田大学のものと比べて やや短いものとなっている。その演説はまず,名誉博士号の授与に対する御礼に始まり,
5 月のサミットにおける軍縮問題,さらにドイツ再統一問題やベルリン問題の解決の必要 性を訴えている。演説の最後には,慶應義塾大学の教員が西ドイツで研究をおこなうため の支援の提供を約束している。他の 2 つの大学での演説とは異なり,この演説では,直 接的にフルシチョフを批判している言及は残されていない。
さらに,アデナウアーの帰国前に日独共同声明が発表されたのであるが,その内容は次 のようなものであった。まず日独関係の意義について,「両国首相は,両国の政策が,自 由と正義の基礎の上に恒久的平和を実現することを共通の目的としていることを再確認 し,また,国際間の諸問題は話し合いによってのみ解決されるべきことを強調し,真の 緊張緩和を招来するための東西間のあらゆる努力を歓迎するとともに,管理された核並 びに通常兵器の軍縮が来るべき国際会議における最も重要な課題であることを確認した
27)」と述べている。また,アデナウアー側の希望であったドイツ再統一問題とベルリン問 題の解決への日本政府の支持も盛り込まれ,その他に日本側の希望であった経済関係の 強化,発展途上国への共同支援,文化交流の発展などについて言及している。
ただし,この共同声明について西ドイツ側が提示している草案があり,これを検討す ると最終的に発表された声明のなかで削除された部分があることがわかる。例えば,「両 国首相は全般的に制御された世界規模での軍縮について話し合った。これについて合意 することが,世界の大国の間にある誤解を克服し,全世界の個別問題の解決を容易にす る最良の手段であるとした28)」という部分はすべて削除されている。つまり,発表され た共同声明において,アデナウアーの演説に見られるような「反共産主義的」と誤解さ れうる表現は影を潜めた形となっている。結果として,反共産主義的なアデナウアーの 演説と共同声明の間には温度差が生じているのである。
2 アデナウアーの外交政策と日本
2.1 アデナウアーが見た日本
では,アデナウアーがなぜ共産主義の脅威を声高に訴えたのかを解明するために,彼
が日本の政治や社会状況をどのようにとらえていたかを分析する。アデナウアーの訪日 以降,西ドイツ外務省は「情報ファイル 日本 Informationsmappe Japan29)」を作成し,
アデナウアー政権下で日本の情報が包括的にまとめられた。報告書は 50 ページ以上にの ぼるものであり,13 章から構成され,その内容は日独関係史,日本におけるドイツ人,日 独比較,日本の歴史,宗教,政治制度,皇室,政党と労働組合,内閣リスト,内政状況,
外交政策での日本の立場,経済,人口と保健問題など多岐にわたっている。この報告書 の記述内容を通じて,アデナウアー政権が日本について何を重視していたかがわかる。
まず,この報告書では日本におけるドイツ文化の受容が詳細に分析され,「ドイツは日 本において一般的には非常に好まれている30)」と言及し,日本においてドイツ・ソフト・
パワーが浸透していることを自負している。実際に,大学での第 2 外国語でドイツ語がど の程度導入されているかなどのデータも収集しており,これまでの日独間の文化交流の 成果を強調した内容となっている。他方で,アデナウアーが訪日時より関心を寄せてい た共産主義の脅威に関して西ドイツ側からの視点でまとめている。ここではまず最初に 日本の民主主義が脆弱であることを指摘し,戦後日本は「1918 年以降のドイツに似てい る31)」と表現している。また,その原因としては,北京やモスクワの影響下にあって大 きな勢力として残る労働組合,社会党や共産党,学生たちの共産化,マルクス主義的な知 識人集団,自民党の派閥問題などを挙げ,安定した民主主義が確立されていない状態にあ るとの見解に至っている。さらに,外交的なレベルについては,アメリカとの密接な関 係性を指摘した上で,「共産主義諸国に対して敵対関係を持つのではなく,平和的共存の 道を模索しようとしている32)」と分析している。そして,日米関係については安保条約 の改定によって新たな段階に突入したが,他方で日ソ関係は極めて悪化したというのが,
この報告書の判断であった。
また,アデナウアー個人の日本に対する見解については,シュヴァルツの研究にも見 られる。彼は,アデナウアーが当時の日本に政治的,経済的に大きな意味を見出してい なかったと指摘した上で,帰国後のアデナウアーの対日観を紹介している33)。まず,「日 本。状況は厳しい。共産主義の中国との関係を支持する社会主義者たち34)」といったア デナウアーの表現を用いて,彼は日本国内における共産主義勢力の大きさやさらには日 中関係に関心を寄せていたと言及している。また,「共産主義の日本はアメリカだけでは なく,我々にとっても決定的な痛手となる35)」との見解も引き合いに出しており,これ に基づけば,アデナウアーがアジアにおける日本の役割を「反共産主義の砦」と位置付 けていたのは明らかである。つまり,反共の姿勢をとるアデナウアーは,日本が共産主
義の危機にさらされていると認識し,この状態を非常に憂慮していたことがここでも明 確になっている。
これに加えて,西ドイツ側が日本における共産主義勢力の動きに対して敏感に反応し ていた事例をもう一つ挙げておく。1960 年 1 月,東ドイツの自由ドイツ労働組合同盟
(FDGB)代表であるヘルベルト・ヴァルンケHerbert Warnkeが総評設立 10 周年記念式 典に招待されたが,このことについてハースは 5 月 1 日にボンに報告し,6 月にはヴァル ンケの入国許可についてハルシュタイン原則や日独共同声明に反する行為として日本外 務省に強く抗議をおこなっている。日本側はこの際にヴァルンケの入国を拒否すれば安 保闘争をより過激化させると危惧したためであると弁明し,西ドイツ側に今後の彼の入 国拒否を約束した。クリスティアン・オーバーレンダーChristian Oberländerはこの事 例について,共産主義諸国が当時の安保闘争を展開する共産主義勢力に対しておこなっ た支援策のひとつと指摘しているが36),アデナウアー政権下の西ドイツが東西ドイツ関 係のみならず,共産主義勢力のひとつとして総評の動きについて注視していた点は否め ない。
さらに,アデナウアーの訪日前より日本国内は安保改定問題に揺れており,西ドイツ側 は日米関係や日ソ関係への関心から,この動きについても情報を収集していた。西ドイ ツ外務省はこの点についても非常に細かく分析しているが,これを主には 2 つの方向性 からアプローチしている。それは,安保改定をめぐる日本国内そのものの動きと,この 安保改定に非常に敏感に反応していたソ連政府の動きであった。つまり西ドイツは,反 共産主義の砦である日本において,安保改定がもたらす国内的な影響と対外的な影響を 把握していたことになる。では,この点についてさらに検討してみよう。
日本国内の動きについては,主に在日西ドイツ大使館からの報告が中心となる。1959 年 12 月 21 日付の東京からの報告書「日米安全保障条約改正をめぐる内政レベルでの闘 争37)」(西ドイツ大使ハース作成)は,安保改定反対派がその主張の理由とするのは主に は,緊張緩和や軍縮などの世界的な潮流に逆行する動きであること,または中国やソ連 との交渉を破綻させるといったものだ,と記している。そして,衆議院で過半数を占め る自民党勢力によって安保改定を阻止できないことから,反対派である社会党や共産党,
総評や全労などの労働組合,全学連が「安保改正阻止国民会議」を結集して大規模なデ モをおこない,警察との衝突で流血事件を起こしていることも報告されている。さらに,
全学連の動きが非常に急進化している点にも言及が及んでおり,詳細な報告がなされて いる。1960 年 1 月 26 日付の東京からの電報38)(西ドイツ大使ハース打電)は安保改定問
題で訪米していた岸首相の帰国後にまとめられており,そこでは主に日米合意の位置づ けとその影響が述べられている。この電報はまず,岸首相が安保改定を「自由と平和のた めの防波堤39)」と表現した点に触れており,岸が 1 月 25 日の記者会見において,「ソ連 と中国が,軍事的な潜在性を絶え間なく増幅させている,と非難した40)」と伝えている。
他方で,帰国した岸首相を反対勢力は安保改正反対キャンペーンで出迎えたことについ ても言及している。そして,同年 1 月 27 日付の東京からの報告書「日米安全保障条約の 調印41)」(西ドイツ大使ハース作成)では日米合意の内容が詳細にまとめられており,そ の主な目的は日本の国家主権のさらなる確保と日米間の経済関係の強化にあると論じて いる。しかしながら,これらに対して日本の反対派は,安保改定が日本を永遠にアメリカ に従属させ,近隣諸国との関係改善も遠のかせ,東アジアにおける平和に危機をもたら すとの従来の主張を展開していると述べている。また,この報告書の主たる部分は安保 条約の改定内容についてであり,これらを細かく整理している。つまり,このような報 告書や電報を通じて,西ドイツ側は安保改定で左派勢力による反対運動が日本国内を混 乱させていることを十分に把握していたことがわかる。他方で,1960 年 2 月 11 日付のワ シントンからの報告書「新米日安保条約の調印」(駐米・西ドイツ大使ヴィルヘルム・グ
レーベWilhelm Grewe作成)は,西側諸国における日本の位置づけを明確にしている。
この報告書の主な内容は新安保条約調印の意義であり,安保改定が日本の完全な主権回 復となり,アメリカは自らにとって日本がかつての敵国から同盟国になると解釈してい る,というものである。また,アイゼンハワー大統領は岸首相との会談のなかで,「日本 が西側の政治共同体で十分に価値のあるメンバーとなるだろうという印象42)」を持って いるという言葉を引用し,日本が西側の同盟国に組み込まれたことを確認している。
そして,安保改定に敏感に反応していたソ連政府の動向については,モスクワの西ドイ ツ大使館から西ドイツ外務省に電報で報告されている。また,この電報は西ドイツ外務 省を経由して,東京の西ドイツ大使館にも転送されており,モスクワ=ボン=東京のルー トで回覧され,緊密な連携で情報を共有していた。1959 年 11 月 4 日付のモスクワからの 電報43)は,プラウダ紙の報道についての報告である。そこでは,安保改定が日本占領の 延長を意味し,外国軍の基地として日本が利用されることであり,日本の軍国主義を強化 する,と述べていることが伝えられている。加えて,浅沼稲次郎(社会党)の主張を大き く取り上げ,反対運動の拡大にも言及されている,としている。このために,この記事 は「西側の防衛共同体から日本を引き離すことがソ連の希望である44)」ことを示してい る,と指摘している。また,1960 年 1 月 8 日付のモスクワからの電報45)は,「日本の報
復主義者による危険な遊び」と題したプラウダ紙の記事を紹介している。この記事は日 本がアメリカ側に統合され,戦争の危険性が高まり,日本はアメリカの核兵器庫となる と述べている,というものである。これは安保改定交渉のために訪米する岸首相を牽制 することを狙ったものであり,ソ連政府がこの時期に再度にわたって安保改定の反対を 主張していたと言える。岸首相の訪米と日米合意後の 1960 年 1 月 22 日付でボンから東 京に送られた電報46)があるが,これは 1 月 20 日にモスクワから打電された電報(駐ソ・
西ドイツ大使ハンス・クロールHans Kroll作成)が基になっている。この電報はプラウ ダ紙の記事「日本はどこに行くのか?」から,安保改定をめぐるソ連政府側の見解を読み 取っている。記事のなかでモスクワ大使館は日本の軍備拡張,アメリカに管理された核兵 器の拠点への移行の加速化,日独伊防共協定の記憶が鮮明であることなどを指摘してい る。また,この電報の最後は次のような文章で締めくくられている。「このような状況を 鑑みれば,日米安保条約の締結の数週間後に予定されている首相の訪日は,ソ連のプロ パガンダによって,日独 2 国の新たな防共政策による意図的な示威行為と解釈されると,
想定されなければならない47)」と。この指摘は,安保改定が進められている日本を訪問 するアデナウアーの外交が,アジアの平和に大きな危機をもたらしうると,西ドイツ外 務省内ですでに認識されていた証左である。
さらに,これ以降も安保改定へのソ連側の反発は収まることはなく,日ソ共同宣言
(1956 年)をめぐる日ソ間の応酬を引き起こすことにもなった。ソ連側が安保改定に反対 するなかで歯舞・色丹島の返還を撤回したことに対し,日本側は「1956 年の共同声明を 完全に根拠なく一方的に破棄するものであり,一国の内政への違法な介入である48)」と 反論し,日ソ間の関係性は冷却した。西ドイツ大使館はこの動きについてもつぶさに観察 しており,モスクワからの電報でその動向の把握に努めている。特に 1960 年 2 月 25 日 付のモスクワからの電報49)は,駐ソ・日本大使がソ連外務副大臣プシューキンに手渡さ れたソ連の覚書の内容を駐ソ・西ドイツ大使に知らせてきたことを伝えている。そして,
そのなかで安保改定を「戦争条約」と表現し,防衛的だけではなく,攻撃的な防共協定で あるとして日本側の主張を退けたことが述べられている。また,1960 年 3 月 4 日付のモ スクワからの電報50)では,ソ連から受け取った覚書への日本側の回答が,歯舞・色丹島 の返還撤回に関するソ連側の姿勢を日ソ共同宣言の一方的な破棄として拒否したことが 述べられている。また,ソ連側が安保改定を攻撃的なものであると主張することに対し て,日本は国連憲章第 51 条を根拠に反論した,と報告している。加えて,ソ連は日本が 核武装を計画していると批判したことがまとめられている。これら一連の動きから明確
なことは,安保改定問題を抱える日本はソ連と非常に緊迫した状況にあると,西ドイツ側 が完全に理解していた点である。つまり,アデナウアーの反共産主義的な発言が,やや もすればこの状況をより悪化させる可能性も秘めていることを承知していたのである。
2.2 ボン=東京枢軸?
アデナウアー訪日前の日本は,彼にとっては理解しがたいほど左派勢力が大きな力を 占めており,しかも安保改定をめぐってその共産主義勢力が反対デモを大々的に展開し,
さらには国外からもソ連によって揺さぶりをかけられていた状態であった。当時,岸政 権が大きな苦難に立ち向かっている最中にアデナウアーは訪日し,「共産主義の脅威」に ついて語り,「共に反共産主義の砦となろう」と訴えた。このタイミングでのこの発言が どのような波紋を呼んだのかは,火を見るより明らかなことであった。
まずは,アデナウアー訪日への日本国内の反応であるが,1960 年 4 月 6 日付の東京か らの電報51)(西ドイツ大使ハース作成)で詳細にまとめられている。そこでは,アデナウ アーの訪日が,従来の親独的なグループを超えて西ドイツへの関心を高めた点が指摘さ れている。その上で,日本の報道陣は「これが表敬訪問であると殊更に取り上げ,ベルリ ン=東京枢軸の復活のいかなる兆しにも極力目を向けないようにしていた52)」と言及し ている。特に,一部の報道が「首相の反共産主義的な姿勢は『困難を極める日本の外交状 況』を何ら慮ることなく,ソ連と中国を挑発しうる,という懸念を述べている53)」と指 摘もしている。さらに,ハースの見解は,「共産主義とのイデオロギー上の格闘に関する 首相の演説は,様々に解釈された。日本はソ連や中国から輸出されたイデオロギーを押し 付けられているわけではなく,独自の秩序を維持しているという意見が支配的である限 りにおいて,アデナウアーの表現は原則的には賛同を得られた。しかしながら,将来の密 接な日独協力については,それが経済的,文化的なものだけではなく,政治的なもので あることには,自由民主党内にいたるまでも異議が唱えられていた。予想されていた通 り,ソ連のプロパガンダはすでに首相訪問以前に,西ドイツが新たな『防共協定』と新 たな『ボン=東京枢軸』を目指すと主張した。こういったことから多くの政治家たちは,
両国によって共同の反共産主義的な行動を強調することを不都合に思っている54)」とい うものであり,これはアデナウアーの発言が日本側に与えた動揺を伝えている。この見 解に加えて社会党左派の動向にも言及しており,国会におけるアデナウアーの演説に対 して「激しい反共産主義的な発言」への反対が表明されたことを打電している。そして,
この電報の最後には,「首相の訪問は,ますます緊密に一体化する世界における独日共通
の問題を日本の世論に詳らかにするものであった。しかしながら多くの日本人にとって,
現実だと考えられている『世界的な緊張緩和』に適さないものは全て,不快なものであっ た55)」と結んでいる。
さらに,1960 年 5 月 7 日付でハースがまとめた報告書「首相の訪日と日本の報道56)」 でも,アデナウアーの訪日が日本に与えた影響を詳細に分析している。これはまず,アデ ナウアーの訪日に対する日本のメディアの関心の高さに触れ,2000 〜 3000 の記事が書か れたと述べている57)。さらにはNHKなどがドイツ特集を組んだことにも言及されてお り,アデナウアーの訪日によって西ドイツへの関心が高まったことを伝えている58)。そ のなかで,ハースは日本のメディアによる報道の傾向を 2 つ挙げている。それは,アデナ ウアーを「新しいドイツの代表として59)」,あるいは,「岸首相や吉田首相に対する当て こすりとして60)」描こうとしたものと,戦犯である岸に対して,ファシズムへの抵抗者 であったアデナウアーを比較し,強情な吉田には共通性を見出すといった内容のもので あった。さらに,メディアが到着当初,アデナウアーの訪日を表敬訪問や観光などと全面 的に強調していたが,共産主義勢力からは「ベルリン=東京枢軸の復活」とプロパガン ダされた,とハースは述べている。特に,国会におけるアデナウアーの演説については,
左派寄りではない論評においても軍事的と批判され,日本側では「日本と西ドイツが経済 的,文化的な領域を超えた緊密な協力を求めるという発言を左派以外でも不快感を持っ て受け止めていた者もいた61)」と言及している。そして,この報告書におけるハースの 総括は次のようなものとなっている。「各紙は文化や学問の分野での日独関係の形成に向 けたあらゆる努力を歓迎している。政治的な関係の強化に関しては,これに対して大部分 の論評が何ら問いを発していない。つまり,日本の報道はドイツ国民のあらゆる日常的な 問題には非常に理解を示したが,世界の共産主義に抵抗する政治上,イデオロギー上の共 同戦線を形成する努力が可能かどうかについては,否定的な姿勢を示した62)」というも のであった。つまり,この総括をふまえれば,アデナウアーの反共産主義的な姿勢が緊 張緩和を尊重する日本においてあまり歓迎されていなかったことは明白である。さらに,
日本側が日独関係に求めていたニーズとアデナウアーが求めていたニーズが完全にすれ 違ったものであったと,ハース大使自らも認めている。
また,アデナウアーの反共産主義的な発言については,1960 年 4 月 1 日におこなわれ た衆議院の日米安全保障条約等特別委員会でも取り上げられている。社会党の黒田寿男 議員は岸首相に対してアデナウアーとの会談について「私どもの記憶から消し去ること のできない暗黒な歴史的事実であります日独防共協定,その発展といたしましての日独
伊三国同盟条約の締結国の一当事国でありましたそのドイツの現在の総理大臣が,岸首 相の話し相手であるからであります63)」と述べて切り出している。ちなみにこの際に黒 田は,岸首相についても「日独伊三国同盟条約の政策の線に沿うて大東亜戦争の無謀な 挙をあえてした責任者のひとり64)」と表現することも忘れてはいない。そして,「昨日の 演説を聞いてみましても,アデナウアー首相の演説のなかには,相当反共の思想が現れ ておったと思います65)」,あるいは,「昨日の国会でのアデナウアー首相の演説を私も注 意して聞いておりましたが,これは新聞も批評しておりますように,相当露骨な反共精 神で,しかも単に反共精神であるというだけでなくて,その精神の押しつけのような感 じを私ども抱かざるを得なかった66)」などの発言によって,岸首相側の意見を問いただ している。岸は日本と西ドイツの間で話し合った内容は共同声明にあると答えるにとど めているが,ここで重要なのはアデナウアーの演説がその後に国会の場においても話題 とされた点である。
これらに対して,国外の反応であるが,主にはソ連の反応を中心的に取り扱いたい。安 保改定をめぐって日ソ間が冷却しているなかで,ソ連側の動向は注目に値する。ソ連側 は 1960 年 4 月 2 日,すなわち,国会におけるアデナウアーの演説の直後に反応を示して いる。当日付のモスクワからの電報67)は,次のように伝えている。「首相の東京訪問は,
日本の報復主義者の画策が,西洋の報復主義者−名誉なく破綻した独日枢軸のかつての 同盟国−の陰謀と一致したと主張することに利用されるであろう。西ドイツ政府と日本 政府の政治方針は,アデナウアーの東京訪問が平和の模索に何ひとつよい影響をもたら さないと推測させるに十分であると,報道している」といったものである。事前に西ド イツ外務省はアデナウアーの訪日や彼の姿勢が「防共政策による意図的な示威行為と解 釈される68)」と予測していたが,その予測は正鵠を射たものであったことがわかる。ソ 連は,まさに「ベルリン=東京枢軸の復活」かのようにアデナウアーの訪日を受け止め ていたと言える。
以上のように,アデナウアーの反共産主義的な発言をめぐる内外の反応は概して批判 的なものであった。国内世論は彼の発言に冷ややかな態度を示し,社会党左派はアデナ ウアー演説をきっかけに国会内で岸首相を糾弾した。また,ソ連は防共協定の復活と批 判し,結果的にすでに冷え切っていた日ソ関係はより悪化した。つまり,アデナウアー の日本での発言は大きな支持を得ることもできず,混乱を引き起こしたと言える。
お わ り に
1959 年。ジュネーヴで米英仏ソ外相会議が開催されるなか,東西ドイツも参加して「子 供用の脇テーブル」に着き69),ドイツ再統一問題やベルリン問題が話し合われた。他方 で,フルシチョフが訪米し,東西陣営間には緊張緩和の兆しが見えていた。しかし,西 側統合政策と表裏一体のものとして反共産主義を唱えてきたアデナウアーは,アメリカ における外交政策の変動にいら立ちを隠しきれず70),とりわけ緊張緩和という新しい時 代の幕開けに対応する術を持ち合わせていなかった71)。1960 年。国際的に緊張緩和の動 きが尊重されるなかでのアデナウアーの訪日は,まさに時代に呼応しようとしないアデ ナウアー外交の限界を露呈させた瞬間であった。彼の西側統合政策のスタンスのなかで,
アジアにおける日本の立場を理解していない発言が引き起こしたものは,国内外におけ る混乱そのものであった。旧態依然としたアデナウアーの見解が,日本という場で独り 歩きしていた。
しかし,アデナウアーの訪日外交は失敗でもなかった。日本側の大きな歓迎はまさにそ の象徴であり,伝統的に親独的な日本,つまり,これまでのドイツ・ソフト・パワーが 浸透した日本において西ドイツの存在をより大きなものとし,日独関係の強化を図るこ とができた点について異論はないであろう。ただし,この「日独関係」の方向性には日 本側と西ドイツ側では大きなすれ違いがあった。日本側は主には経済的,文化的なレベ ルでの関係強化を模索していたが,アデナウアーは政治的なレベルで「反共産主義の砦」
となるための協力を欲していた。例えば,1958 年に経済大臣ルートヴィヒ・エアハルト
Ludwig Erhardが来日した際に,日本側は西ドイツ経済を復興させた立役者である彼を
大いに歓待し,日本経済再生のための助言を求め,日独間における経済関係の強化を願っ た72)。実際に,発展途上国を共同で支援し,最終的にはこの地域を市場とするといった 方向性を模索したのである。しかし,アデナウアーは日本との経済関係を重視すること なく,1960 年の訪日団にはエアハルトではなく,外務大臣ハインリヒ・フォン・ブレン ターノHeinrich von Brentanoを同行させた。つまり,アデナウアーは訪日で経済関係 を取り上げる心積もりはなく,日独共同声明に日本側の主張として組み込まれるにとど まった。ここには両者の大きなすれ違いが生じており,このアデナウアーの訪日によっ て将来的な日独関係の方向性は調整されることができなかったと言わざるを得ない。つ まり,1960 年のアデナウアーの訪日という機会において,「新たな日独関係」の方向性が 定まることはなかったのである。
本稿は 2011 年 11 月 4 〜 5 日におこなわれた国際会議「Die Wahrnehmung Deutschlands und Europas in Nordostasien」( 於: 大 韓 民 国・ ソ ウ ル / 韓 国 外 国 語 大 学 ) で の 報 告
「Die Suche nach einer „neuen“ deutsch-japanischen Beziehung? –Konrad Adenauers Japanreise 1960」をもとに大幅に加筆・修正をおこなったものである。
注
1 )“Telegramm. Auswärtig Bonn Nr. 139 vom 31.3,” Reise des Bundeskanzlers nach Japan.
Bd. 2, PAAA 6780.
2 )この言葉の定義については,以下の文献を参照されたい。ジョセフ・S・ナイ(山岡洋一 訳)(2004)『ソフト・パワー 21 世紀国際政治を制する見えざる力』日本経済新聞出版社,
26 頁。
3 )竹中亨(1991)『ジーメンスと明治日本』東海大学出版会,三宅正樹(1996)『日独政治外 交史研究』河出書房新社,工藤章・田嶋信雄編(2008)『日独関係史 1890-1945 1-3 巻』東京 大学出版会,Christian W. Spang, Rolf-Harald Wippich(eds.)(2006)Japanese-German relations, 1895-1945 : war, diplomacy and public opinion, Routledgeなど。経済史につい ては工藤章(2011)『日独経済関係史序説』桜井書店。
4 ) Gerhard Krebs(1997)“Japan and Germany – From Wartime Alliance to Postwar Relations,” in : Gerhard Krebs, Christian Oberländer(eds.)1945 in Europe and Asia.
Reconsidering the End of World War II and the Change of the World Order, Iudicium, p.
157.
5 ) Hans-Peter Schwarz(2010)“Die Welt des Bundeskanzlers. Weltwahrnehmung und globale Ordnungsvorstellungen Konrad Adenauers,” in : Eckart Conze(Hrsg.)Die Herausforderung des Globalen in der Ära Adenauer, Bouvier, S. 31.
6 ) Konrad Adenauer(1968)Erinnerungen 1959-1963, Deutsche Verlags-Anstalt, S. 31.
7 )ハースについては,以下のような略歴になる。彼は西ドイツ外務省設立のキーパーソンで あり,1956 〜 58 年まで初代駐ソ・西ドイツ大使としてソ連との国交正常化以降の西ドイ ツとソ連の関係強化,および,ソ連の情報収集に努め,その後,駐日・西ドイツ大使とし て着任している。そもそも彼は 1934 〜 37 年に東京のドイツ大使館に駐在した経験もあ り,1937 年に強制免職された後はIGファルベン社中国支店の経済顧問として勤務してい た。しかし,ナチスとの関係性を指摘され,問題視された経験もある。彼の個人的なデー タについては,以下の文献にあたった。Dr. Haas Wilhelm, Bd. 1, PAAA 49198 / Bd. 2,
PAAA 49199.また,外務官僚とナチスの過去との関係性について扱った以下の文献につ
いても,参照されたい。Eckart Conze, Norbert Frei, Peter Hayes, Moshe Zimmermann
(2010)Das Amt und die Vergangenheit. Deutsche Diplomaten im Dritten Reich und in der Bundesrepublik,Karl Blessing Verlag.
8 )“Staatsbesuch des Bundeskanzlers in Japan,” Reise des Bundeskanzlers nach Japan.
Bd. 2, PAAA 6780.
9 )Ebenda.
10)Ebenda.
11)Ebenda.
12)Ebenda.
13)“Erklärung des Herrn Bundeskanzlers bei der Ankunft auf dem Flugplatz in Tokyo,”
BArch B 136/2052.
14)Ebenda.
15)Ebenda.
16)Ebenda.
17)“Rede des Herrn Bundeskanzlers beim Abendessen auf Einladung von Ministerpräsident Kishi,” Staatsbesuch Bundeskanzler Adenauer 25.3-1.4.1960. Bd. 1, PAAA 6783.
18)Ebenda.
19)“Entwurf. Ansprache des Herrn Bundeskanzlers vor dem Plenum beider Häuser des japanisches Reichstags 31.3.60,” BArch B 136/2052.
20)“Telegramm. Auswärtig Bonn Nr. 139 vom 31.3,” Reise des Bundeskanzlers nach Japan.
Bd. 2, PAAA 6780.
21)Ebenda.
22)Ebenda.
23)Ebenda.
24)“Address of Dr. Konrad Adenauer, Chancellor of Federal Republic of Germany, at Sophia University, Tokyo March 31. 1960,” Staatsbesuch Bundeskanzler Adenauer 25.3- 1.4.1960. Bd. 1, PAAA 6783.
25)“Address given at Waseda University, Thursday, March 31, 1960,”Staatsbesuch Bundeskanzler Adenauer 25.3-1.4.1960. Bd. 1, PAAA 6783.
26)“Address of the Federal German Chancellor, Dr. Konrad Adenauer, on the occasion of the bestowal of the honorary doctorate by Keio University in Tokyo, Friday, April 1st, 1960,”
Staatsbesuch Bundeskanzler Adenauer 25.3-1.4.1960. Bd. 1, PAAA 6783.
27)“Gemeinsames Kommuniqué zum Abschluß des Besuchs von Bundeskanzler Dr. Adenauer in Tokio,” BArch B 136/2051.
28)“Entwurf des Kommuniqué anlässlich des Besuches des deutschen Bundeskanzlers Dr.
Adenauer in Japan,” BArch B 136/2051.
29)“Informationsmappe Japan,” Staatsbesuch Bundeskanzler Adenauer 25.3-1.4.1960. Bd.
2, PAAA 6782.
30)Ebenda.
31)Ebenda.
32)Ebenda.
33) Hans-Peter Schwarz(1991)Adenauer. Staatsmann : 1952-1967, Deutsche Verlags-
Anstalt, S. 546f.
34)Ebenda, S. 547.
35)Ebenda.
36) Christian Oberländer(2008)“Japans Deutschlandpolitik in the Postwar Period.
The Case of Travel Restrictions between East Germany and Japan,” in : Hans Dieter Ölschleger(ed.)Theories and Methods in Japanese Studies : Current State and Future Developments, V&R unipress, p. 306.
37)“Innenpolitischer Kampf um die Revision des japanisch-amerikanischen Sicherheitsabkommens, Tokyo, den 21. Dezember 1959,” Japanisch-Amerikanische Sicherheitsvertrag. Bd.1, PAAA 6808.
38)“Telegramm, Tokyo, den 26. Januar 1960,” Japanisch-Amerikanische Sicherheitsvertrag.
Bd.2, PAAA 6809.
39)Ebenda.
40)Ebenda.
41)“Unterzeichnung des japanisch-amerikanischen Sicherheitsvertrages, Tokyo, den 27.
Januar 1960”, Japanisch-Amerikanische Sicherheitsvertrag. Bd.2, PAAA 6809.
42)Ebenda.
43)“Fernschreiben aus Moskau, Nr. 1064 vom 4.11.1959,” Japanisch-Amerikanische Sicherheitsvertrag. Bd.1, PAAA 6808.
44)Ebenda.
45)“Fernschreiben aus Moskau, Nr. 33 vom 8.1.1960,” Japanisch-Amerikanische Sicherheitsvertrag. Bd.2, PAAA 6809.
46)“Telegramm von Bonn, 22.1.1960,” Japanisch-Amerikanische Sicherheitsvertrag. Bd.2, PAAA 6809.
47)Ebenda.
48)“Telegramm, Tokyo, den 6. Februar 1960,” Japanisch-Amerikanische Sicherheitsvertrag.
Bd.2, PAAA 6809.
49)“Fernschreiben aus Moskau, Nr. 352 vom 25. Februar 1960,” Japanisch-Amerikanische Sicherheitsvertrag. Bd.2, PAAA 6809.
50)“Fernschreiben aus Moskau, Nr. 387 vom 4. März 1960,” Japanisch-Amerikanische Sicherheitsvertrag. Bd.2, PAAA 6809.
51)“Fernschreiben an Auswärtige Bonn Nr. 149 vom 6. April 1960,” Reise des Bundeskanzlers nach Japan. Bd. 2, PAAA 6780.
52)Ebenda.
53)Ebenda.
54)Ebenda.
55)Ebenda.
56)“Der Staatsbesuch des Herrn Bundeskanzlers und die japanische Presse. Tokyo, den 7.
Mai 1960,” BArch B136/2050.
57)ドイツ外務省史料館には日本の各新聞記事の切り抜きが多数保存されており,アデナウ アーの動向を追う内容の記事が地方紙レベルでも報じられている。
58)日本のマスコミで大きな効果がもたらされた背景には,ハースのこの報告書のなかでも指 摘されているが,訪日前に主要メディアを西ドイツへ招待,ジャーナリストへのドイツ講 座の開催,プレスキットの配布など積極的な広報活動をしていた西ドイツ外務省の努力の 成果があったことも否めない。
59)Ebenda.
60)Ebenda.
61)Ebenda.
62)Ebenda.
63)『第 34 回国会衆議院 日米安全保障条約等特別委員会議録』第 11 号,昭和 35 年 4 月 1 日,
2 頁。
64)前掲書,同頁。
65)前掲書,3 頁。
66)前掲書,4 頁。
67)“Fernschreiben aus Moskau Nr 526 vom 2. April 1960,” Japanisch-Amerikanische Sicherheitsvertrag. Bd.2, PAAA 6809.
68)“Fernschreiben aus Moskau, Nr. 387 vom 4. März 1960,” Japanisch-Amerikanische Sicherheitsvertrag. Bd.2, PAAA 6809.
69) H・A・ヴィンクラー(後藤俊明,奥田隆男,中谷毅,野田昌吾訳)(2008)『自由と統一へ
の長い道II ドイツ近現代史 1933-1990 年』昭和堂,192 頁。
70) Eckart Conze(2009)Die Suche nach Sicherheit. Eine Geschichte der Bundesrepublik von 1949 bis in die Gegenwart, Siedler Verlag, S. 300.
71) Konrad Jarausch(2004)Die Umkehr. Deutsche Wandlungen 1945-1995, Deutsche Verlags-Anstalt, S. 157.
72)“Besuch des Herrn Bundesminisiters für Wirtschaft Prof. Dr. Erhard in Japan, Tokyo, den 10. November 1958,” BArch B 136/3632.