長崎大学教育学部紀要一人文科学‑ N069,43‑57 (2004.6)
寄せては返す海 :絵画 Ⅴ
( ベルどこ ヤン美術学校 ・パ リ美術学校 ′ 9 2 ‑′9 3 ) 井 川 憧 亮
はるか に個展が よ い
作 り手 に とって作 品 を発表す る こ とは,情報化時代 に伴 い ます ます必 要 となって きた。
現代 美術 にお ける作 品発表 は,現 時点 か ら見れ ば, まず その仕方 と して様式 ・形式 は計 り 知 れ ないほ ど多様化 して きた こ とであ る。 私が わ ざわ ざ言 うまで もない こ とだが, これ は 時代 の変化 に,つ ま り人 々の経 済的 なゆ と りや また情報量 の多 さに伴 い,美術 活動上 にお いて も画材用 の メデ ュウムの多様 さや, また ビデ オな どに よるイ ンス タレー シ ョンの普及 に よ り,表現 の 巾が多種 に渡 り複雑化 して きたか らだ。 そ して少 し前 よ く耳 に した
I T
革 命 や,デ ジ タル化 の進化 な ども挙 げ られ,それ らに伴 って表現 にお ける新 たな可能性 が膨 れ上が って きた と言 え よう。私 は元 々油絵 画家 だ ったが,現在 は現代 美術 に携 わる特殊 な, しか も個 人的 な立場 にあ る と思 ってい る。 そ こで私 とい う作 り手 の思 い を述べ てみ よう。 まず作 品発表者 と して問 題 となるのは作 品発表の展示の仕方であろ う。 作 品 を発表す る場合 ,評論家,美術館 ,ギ ャ ラ リーな どに よる企画展 ,あ るいは グループ展 な どにお ける展示 は,作 家が故 人で ない限 り,大方 の作家 は直接 的 に自作 の展示作業 に関わ りなが ら発表 を してい くこ とになる。 と ころが果 た して出品者 同士 の話 し合 いで展示作業 は解決 していただろ うか とい う疑 問点 で あ る。 私 は これ まで何 度 か この種 の企 画展 な どに参加 した ことが あ るが,必ず しも満足 し た とは言 えなか った。 これ は展示 に関す る問題 が大 き く絡 んでい るか らであ る。 ことに作 家個 人 は誰 しも良い場所や 目立つ ところに設営 したいのだ と思 う。 に もかかわ らず これが 美術館側 (学芸員)や出品者 の力 関係 な どで最終 的 に決定 されてい く光景 を私 は幾度 とな
く見 て来 た し経験 して きた。
私 は これ らの問題 に直面 し, うま く主張 出来ず 曲げ られた りして きた。結局 の ところ作 家 と して作 品表現が一番発揮 で きるの は,おそ ら く個展形式 で はないか と思 う。 つ ま り, 自分 の思 いの まま出来 る利点が あ り,先 の グループ展 の ような各 自の展示場所 の取 り合 い を巡 る ことか らお こるその煩 わ しさな どが ないか らいい。 グループ展 となる と, どう して も展示 の場所性 の善 し悪 しが あるので,出品者 の場所 に不公平 さが 出て くる とい う トラブ ルが生 じる。 もっ と分か り易 く言 えば,例 えば よ くある話 では リー ダー格がいる と しよう。
世の しきた りに従 い,その方 を優先 した りして まるで弱 肉強食 の世界 とな り,気弱 な持 ち 主 な どとんだ 目に遭遇 して しまうだろ う。 こうなって しまうと,結局 自己表現 とは別個 の
ところで気 を回す ことになる。
それ故私 は,その ように気 を回 さな くて もよい個 展形式 を好 む。更 に良い こ とには,展 示空 間全体 を視座 に置 き,集 中 して出来 る場 で もあ るか らだ。
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井 川 憧 亮また して も画学生な り
最初 に渡仏 したのが20代 の終 わ りであった。その頃はオイル シ ョックと重 な り日本経済 は景気 の悪 さをもろに被 っていたこともあ り,身分 として私 はフランス政府給費生であっ たが,私 の先輩諸氏 か ら 「これ まで フランス に渡 った給費生で まともな者 はいるの ?」,
「君が フラ ンスへ行 って何 をす るの ?」
,
「その顔 で フラ ンス?」
とか,逆 に 「この不景気 を晴 ら して来い」等 々 と言 われた りもした。 しか し私 に とればこの ような会話 を気 に した ところで プラス にな らないので彼 らに悪 いが聞 き流 していた。そんなことよ りもフランス で本 当に生活が出来 るのだろ うか とい う私 自身の世界 を心配 していた。で も出向 くと新 た な出会いが始 ま り,諸 々の心配 な どが掻 き消 えていった。30歳でマルセイユ美術学校 に編 入学 し再 び学生 となった。本 当に1 7
歳 ぐらい に見 られた し,その上滞在すればす るほ どエトラ ンジェ‑ としての気分の快 さを味 わったことを思 い出 した。
それか ら
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歳近 くにな り文部省在外研究員 として とい うよ りも,む しろまた して も画学 生 同然 の身 として,‑ 9 2
年1 0
月に家族 と共 に渡仏 した。最初 の定住先のベ ル どこ ヤンでは, 美術学校長であるJ e a nLo u i sVI LA
先生がベル どこ ヤン駅 まで迎 えに来 て くだ さった。早速 ,事前 に探 して くれていたアパ ー ト‑連 れてい って くれた。 (写真⑳ ‑㊨ ) ここで さ しあたって問題 となったのは,子供 たちの就学 についてであ ったが,
VI LA
先生 の紹介 によ り,市役所教育課で長女 の小学校 ,長男の幼稚 園が首尾 良 く手続 きが取 れて,それぞ れ行 き先が決 まった。私 はベ ル どこ ヤ ン美術 学校招聴芸術 家 と して迎 え られた。茶 目っ気 のある
VI LA
先生 か ら 「あなたに我校 の次期校長 になって もらいたい」な ど冗談 を言 われなが ら 「いつで も 学校 のア トリエ を使 って もよい権限 を与 えるよ」 と言 われて,彼 か ら学校玄関の特別 な鍵を預 か った。 (写真⑳ )校長用 の特別の ア トリエが2階 にあ りそ こを与 え られた。確 か に ここは願 って もない場所 であ り, また居心地 も良か った。お まけにここか ら階下の 1年生 用 ア トリエで学生 たちがヌー ドを前 に制作 しているのが見える場所 で もあった。 しか しな が らそ こにいる と誰 も尋 ねて来ず私 は孤立 して しまいそ うになった。それで普段 か ら普通
に学生 たち と出会 う学生 ア トリエでの制作 を切望 した。 けれ ども 「あなたは大事 なお客で あ り,教授 だか ら」 と言 われ何度か押 し問答 になったが,や っ と認め られ専 門課程 のア ト
リエで学生 たちに混 じって制作 を始 めることに した。一方でデザ イ ン科の教授 か ら授業 を 頼 まれることもあったが,制作 を何 よ りも優先 させ た。
異国の, どっと押 し寄せ る感触
ア トリエでの制作が どうにか軌道 に乗 り,やがてそ こでの滞在が峠 を越 えた頃,
VI LA
校長 か ら学内であなたの個展 の計画 を しているが,是非実現す るように と伝 え られた。そ れで作 品発表 に集 中す ることに した。作 品発表の会場 は
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つあ り,1
つ は街路地か ら見 え る美術学校 の シ ョーウイン ド式のギ ャラ リー と,あ と1つ は学内玄関入 っての広 間のギ ャ ラリーであ り,主 として教授 たちの発表の場であった。前者 は特 に外 か ら常 に見 えるので, 前 々か らこんな ところで作 品発表 を してみたい とい う憧 れがあった。 このシ ョー ウイン ドをもっ と具体 的 に言 えば,第一 に外観 としての建築物が立派であること。 また シ ョー ウイ ン ドか ら見 える広告的な空 間が広が って見 えて気 に入 っていた場所空 間であったことであ る。 (写真①② )私 は当時,長崎 では野外 に向か って制作活動 を していたが, ここペ ル ビ
寄せ ては返す海 :絵画 V 53
ニ ヤンに来 る と,私である とい う肉体 と精神 は同 じであ りなが らも私の制作思考 は私 の頭 か ら離 れた衛星の ような存在 としてあ った。当然 なが ら全 く違 った環境 であることが もど か しく,私 のただ今 か らの制作へ の展 開について, さて どう しようか とい う気持 ちで一杯 で もあった。果 た して絵 画の展 開が ここでは可能 なのか と不安 に もなっていた。
他方家族 との生活で必要以上の心配 を抱 え込 んだ りしていた。 これは子 どもたちをカル パ ンチエ幼稚 園 (写真⑳ )や ラクロシュ‑ ドール小学校 に通 わせ ,彼 らの気苦労 を気 に し た りしていた ことだった。以前 に も書 いた ことがあるが,例 によって息子が登 園 した くな い と言い出す ことといった ら本当 に困 った ものだ。ある 日,紙飛行機 を折 りなが ら幼稚 園 まで辿 り着 くと友人 たちが どっ と紙飛行機 を持 っている息子‑押 し寄せ て きた。 この現象 は驚 きであ った。 この感触 はかつて 自転車普及セ ンターで 自転車美術展 に参加 した時経験 したの と同 じような ものだった。それは地下 に眠 っていた廃車 となるであろ うサ イクリン グ車 を譲 り受 け,その展 覧会期 間中に着彩 して仕上 げる とい うイベ ン トを行 った。 この 自 転車美術展 を見 に来 たボーイス カウ トの少年 たちが,私が着彩 している ところへ どっと押
し寄せ て きたことを思い出 した。今回のこの折 り紙 にも何 かある と直感 した。それはコ ミュ ニケー シ ョンその ものが端的 にある とい うことだった。 もう一つは,私がベル どこ ヤンに 来て絵画制作 にあた り日本人 としてのアイデ ンテ ィテ ィの葛藤 もあ った とい うことも挙 げ
られるだろ う。
正方形 と距離空間 (幾何学)
折 り紙の経験 は小学校 の低学年 の頃であ ったが,特 に金魚 な どは鉄 を入れるのでその折 り方 はお互 いに教 えあ った り,新 聞紙で兜 な ど作 って頭 にかぶ って遊 んだ り,薬 の行商人 がその包み紙で折 り紙 を折 った りしたことな どを思 い出す。その後遠のいていた折 り紙 を, 留学 してマルセ イユ の 中 ・高校 の
Al a i nHONTANX
先生 か ら依頼 され, 日本 の文化紹 介の一つ と して彼 の ア トリエで折 り紙 を仲 間 と一緒 に したことがあった。た まに汽車旅行 な ど座席向かい合 った旅 人に折 り紙 を披露 した こともあった。ところで今 回の この出来事 は大 きな ものだった。以前 に も述べ た ように私 自身が長崎で は野外制作 であったため,環境 の変化 によ り, ここフランスでは急 に野外 では取 り組めな い。そ こで室内での制作‑ と移行せねばな らない と思 い,あるいは外 国であるが故 に再 び 平面絵 画 に戻 って制作 をとい う思 いの中で,私 はこの折 り紙が何が しかの ヒン トを与 えて
くれた ように思 う。
そ うだ !折 り紙 をヒン トに絵 画制作 を考 えてみ よう。 そこでまず,最初 に したことは
2m
幅のある布 を求めたことだ。その布 の裁断 になるが, ここで素朴 なことであるが折 り紙 の 条件 としては, と りもなお きず正方形であることだ。続 いて実際布で折 ってみた。布の香 りとその しなやか さに包 まれる。 半分 に,また対角線 になどと折 ってみる。 紙の ようにさっ とはいかないが折 ることが出来 る し,布 の持 つ素材感 の感触が伝 わって くる。 早速着彩 を 試み る。 布 に着彩 は もう15年振 りか もしれない し,マルセ イユ時代 の木枠 で張 り込 んだ布に ぐい ぐい と着彩 を していた頃の感触 をも思い出 していた。
家 に戻 ってか ら子 どもたちに折 り紙 の折 り方 を教 えて もらった りした。家内が長崎か ら 折 り紙 の本 を持 って来 ていたのでその本 を読 んだ りしなが ら,エスキース を試みた。 こう して作 品作 りを始めてみる と,折 り紙 は幾何学 だ とい うことに気づいたことだ。かつて私
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はマルセイユ時代 に白い幾何学 を編 み出 し, またこの時マスキ ングの技法で絵 画性 を生み 出 したこともある。 今 回試みていることは, これに近い作業ではないか と思 ったことだ。
それは布 を折 り込 んだ時,表面 に現 れた部分 のみ に着彩 して,それが乾燥 してか ら布 を広 げる と折 り込 んで隠れた部分があたか もマスキ ングの効果の ようであ り,以上 これ ら
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つ の関連性 で制作 に励 みがついた。ベル どこ ヤンでの個展 とイ ンタ ビュー
ここベル どこヤンはスペイン国境 に近 く,朝の市場 に出向 くと言葉のアクセ ン トがカタロ ニヤ風 だ と聞 く。 このベル どこ ヤンを選 んだのは
VI ALLAT
先生の推薦があ ったか らだ。異国の地で子 どもたちの ことを考 える と,父親の私 としては良い場所であ った と思 う。
それ に
VI LA
校長 は じめ教授 陣が とて も親 身 になって くれた こ とも助 か った。VI LA
校 長夫人であ るFr an9 S Oi s e
さんは中 ・高校美術教授 であ り,彼女 か ら 「土 日の休 暇 を利用 して 日本 的なテーマでセ レ‑地域 の子 どもたちに芸術教育 をす るように」
とい う依頼があ り学校 に出向いた りした。 (写真⑬)ところで今 回の個展の展示計画であるが,いつ もの通 り大 まかなめ どは立 てていた。今 回の個展 は, これ までの 日本 にいた時の ように夜 を徹 して までイ ンス タレーシ ョンす るほ どの もので な く,布 を広 げる程度で割 と早 く終了す るだろうと思 っていた。 しか し異 国の 地では慣 れぬ展示作業 と場 であ り,折 り込 んだ布 の素材的 な扱 いで少 々て こず った。 また シ ョー ウイン ド側 には対角線 に折 り込 んで着彩 した作 品 を決めていていたか ら気分的 には 楽 に思 っていたが,予想以上 に時間がかか った。次 に玄関ギ ャラリーでの展示では,やは
り折 り紙 をヒン トに した ものな どを4点並べ た。 (写真③ ‑(釘)
この企画 は美術学校 と市 との共催 だったのでオープニ ングは盛大 な もの となった。 ラ ン デパ ンダン新 聞社 か ら連絡があ り,「イ ンタビュー したいので新 聞社 まで出向いて欲 しい」 と電話が入 った。 (註1)
L A VI GI EAR T CONTEMPORAI N
での個展 と レクチ ャVI ALLAT
先生 の娘 であ るI s abe l l e
さんが , わ ざわ ざニームか らベ ル どこ ヤンまで打 ち合 わせ に来 られた。I s abe l l e
さんは民 間アパ ー トを所有 してお り,そ こを文化 的 な発信 基地 と してギ ャラ リー を設立 された との ことであ った。 この アパ ー トには父親のCl aude
先生の ア トリエが広 々 と構 えてあ った。 (写真⑩⑳ )今 回の彼女が企画 した タイ トルは,Re nc o nt r e s
lで2
で,作 家 たちにそれぞれ各 1階 に2
人づつ割 り当て,計6
名であ る。 た だ し各階 は2
部屋があるが,個別 になってお り,その 1部屋分が 1人づつ与 え られて,各 人が個展 をす る とい うものだった。 (註2
)私 は2
階の入 り口側 の部屋が与 え られた。ここでの発表の経験 は,かつて誰 かが生活 していた跡地 とい う印象か ら, フランス人の 現在生活感 を同時 に表現で きるのではなか ろうか と思 ったことだ。いわゆる通常 のギ ャラ リーでない単 なるアパー トその ものをギャラリーに仕立てたことが私 にとって興味 をそそっ た。 それ に して も予想以上 に小 さな空 間だったが,壁紙 な どその ままニーム人の現在性が 表 れていて, またそ こには流 し台 もあ ったか らこの部屋 は台所兼食堂であ り,奥 まった も う一つの部屋が居 間兼寝室風 で,それで一軒家分 としては物足 りない感 じだった。いずれ にせ よ,
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日間ほ ど展示時間が与 え られていたので会場 を見て じっ くり検討 した。寄せ ては返す海 :絵画 Ⅴ 55
ここで壁紙 に も手 を加 えて もいい とい う許可 を得 ていたので,壁面 に着彩す ることも取 り入 れた。持 ち合 わせ た絵 の具が な く,
VI ALLAT
先生 にプ レゼ ン トした顔彩 を借 りる ことに した。 申 し訳 ない,壁用 のペ ンキで も充分 なのでそれ を買 いに行 くと言 って も, 冒 本人だか ら日本 のそれ を使 え と言 うばか りで聞いて くれない。私 としては この顔彩 は壁 には使 えないデ リケー トな ものだったが, とにか く塗 ってみた。
今 回の狙 いは,1,先述の ように普通 の民家の台所 か一人部屋 かのスペ ース を絵 画作 品 に仕立 てること。
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,折 り紙の手法 を利用 した布作 品 を展示す ることで 日本的なイメージ の演 出 を試 み るこ と。 (写真⑮ ‑⑰ ) この2
つ に絞 って展示作業 をす る。1
で は入 り口 ド アを開 くと ドアの内側 に着彩 した作 品が見 えな くなるが,室内 に入 ってその ドアを閉める と ドアの内側 に着彩 した作 品が見 える仕掛 けだ。 (写真⑬ )更 に室内向かい左側 の壁面 に 小 さな観音扉がついた食器棚 があ り,その内側 には電気の メー ター も設置 していた。その 扉表側 に も ドア と同 じように着彩 した。 (写真⑭ ) ドア と対極 に し,その着彩 した扉 を開くとその ままの壁模様 が見 える。
以上 ここで まとめる と表裏の関係で観客が ドアや扉 を開閉す ることで作 品が見 えた り見 えなか った りす る。 また壁模様 までが作 品の一部 に見 えるようになる。 更 に流 しには三角 に折 り込 んだ着彩 した布作 品 を置 く。 その置 き方 は流 しの手前の コーナーに設営 した。 こ の ことによってあたか も着彩 した色が水 に も見 えて くる。 (写真⑱ )
オープニ ングは夕方
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時 ごろか ら始 まったが,実 に沢 山の来客が入れ代 わ り立 ち代 わ り あった。続 いてその場 でデ ィス カ ッシ ョンも開催 され,出品作家が レクチ ャーを行 い質疑 応答 となった。私 は先 ほ どの狙 い を説明 した。私のはフランス語の奇妙 な言い まわ しであ り, とて も充分 な話ではなかったが,来客は熱心 に聞いて くれ,その結果喝乗 を受けたので,I s abe l l e
さん もとて も喜 んで くれた。もう一つの研修先パ リ
渡仏す る数年前 か ら文部省在外研修 の受 け入れ先 を
VI ALLAT
先生 にお願 い していた。先生が校長 をされているニーム美術学校 を希望 しその準備 を整 えていた。 ところが この在 外研修員 としての決定 に学内の諸問題が眼前 に立 ちはだか り, フランス行 きは難航 し,受 け入 れ先 に大変迷惑 をか けて しまった。一方受 け入れ先 も
VI ALLAT
先生 か ら連絡が あ りニーム美術学校長 をやめ られ,その後ベル どこ ヤン美術学校 に非常勤 で行 くことになっ たので,そ ち らのVI LA
校長 に連絡 をす る ようとの こ とになった。 そ して もう一つの受 け入れ先 をマルセ イユ美術学校 で ご指導 を仰 いだJog lKERMARREC
先生 (写真⑳ )が パ リ美術学校教授 とな られていたので,連絡 をと りその受 け入れ先 として頼 んだ。都合が いい こ とに同 じくマルセ イユ美術学校 で哲学 を担 当 していたYve sMI CHAUD
先生がパ リ美術 学校 長 に, また彫刻 のToniGRAND
先生 もここの教授 にな られていた。偶然 と は続 くもので私 が渡仏 した折 りVI ALLAT
先生がパ リ美術学校教授 に就任 された こ とに なった。かつてのマルセイユ美術学校 の恩師たちが こぞ ってパ リに来 られたことになった。私 に とって も願 って もないパ リ行 きとなった。
ベ ル どこ ヤンでの学校長主催 の私 たちの送別会 は盛大 な もの となった。その後 スペ イン を経 由 してパ リ‑ 向かった。 ところでパ リで生活す るにあた り問題 になったのは,1つは 子 どもの就学 についてである。 教育委員会 に出向 き手続 きを行 うが,長女瑠実のチ トン小
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学校 (写真⑮⑳ )はす ぐ決定 したが,長男彩土の幼稚 園が どこも一杯 であ り思 うように行 かなか った。そ こで2,3の幼稚 園長 とアポイン トメ ン トを取 り面接 を し, ようや くサ ン ベ ルナール幼稚 園 (写真⑳⑪ ) に決定 した。2つ はパ リ美術学校 での教授 の身分では学内 ア トリエの使用が出来 ない ことになっていたことだ。3つ は2の ア トリエ を求めて シテデ ザ ールのア トリエ獲得のため 申請書 を提 出 した。そ この館長 との面接 を受 け, ようや くモ ンマル トルの丘 にあるア トリエで制作 が出来 る ようになった。 (写真⑳ )以上1,
2
,3
を校長 のMI CHAUD
先生 に頼 んで も校長室 には陳情や相談者で一杯 であ り,何 れ も自力 でや らねばな らなか った。地方 とは格段 の差があ りパ リの非情 さ ?を味 わった。 日本 人だ か らとい うわけでない と思 うが,頼 むことだけは頼 み に来て, こち らがお願 いす る となか なか動 いて くれない都会 を見 た。 どこの国で もそ うである ように地方へ行 けば行 くほ どそ の国の本質 と優 しさが味 わえる。パ リ美術学校 で は招碑教授 の身分 で,早速
VI ALLAT
先生 の指導 日で ない 日は ヴイア ラ教室での絵画指導 を任 された。 ここでは建築専攻 の学生 たちや 日本文学 に関心のある学 生 たちが私 を尋 ねて来て, 日本 に関す る質問 を受 けた りした。お まけに学校側か ら 「近代 日本画 について」 の講演会や, また 日本文化事情の紹介 な どをす るように依頼 された りし た。本 当に言葉が うま くいかなか ったので冷や汗 ばか りをかいていた。絵画制作 はベル どこ ヤンでの折 り紙 をヒン トにそれ を展 開 させ ていった。 この折 り紙 を 応用 して新 たな展 開を見せたのは,やっこ形の一方の一面 に全面 に着彩 をする。 そ してそれ を解体 (元 の正方形 まで広 げず,一歩手前 まで)すると菱形模様 が出来 ることを見 出 した ことだ。 この ことを
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先生 に報告す る と 「気 をつけろ!ARNAL
がプ リア‑ジュ の作 品 を作 って しまったか らだ。彼 と会 って論議す る必要があるよ」
と言 って,彼 の連絡 先 のメモ をして くれた。す ぐ電話 を入れボ ンピ ド‑のす ぐ近 くのAndr e‑Pi e r r eARNAL
氏 のア トリエ を訪問 した。彼 はプ リア‑ジュ作 品 に挑戦 している私 に次 か ら次へ と作 品 を 披露 して くれた。現在 は小 説 を専 ら書 いてい る との ことだった。 (写真⑭ )彼 よ り 「あなたの作 品展があれば,直接 見たい。改めて話 を しま しょう」とい うことになった。
パ リ美術学校での個展
VI ALLAT
先生 か ら 「君 の展覧会 を 日本大使館 主催 で依頼 してみた らどうだろ う」
と 助言 されたが,私 は大使館 な どと聞 くと何 とな く苦手 な ところがある。 留学す るにあた り フランス大使館 でいろいろな手続 きを したが,事務官の威圧的な対応 にうん ざ りしていた か らだ。で も今度 は勇気 を出 して 日本大使館へ 出向 く。 私の話 を聞いて 「パ リ在住 であっ て も,超一流の方で さえお断 りしている。 第一展示で きるスペース もあ りませ ん」 とあっ さ りと断 られた。その ことをVI ALLAT
先生 に伝 える と 「ち ょっ とコー ヒーで も飲 もう」 と美術学校近 くの コー ヒー店‑行 き,その店の庭のテーブル椅子 に座 るや,先生 はお好 み のエス プ レッソを注文 された。 「先 日, ボーブルでのマチス展 にボザールの連 中 を誘 った が誰 も来 な くてね,残念 だった よ」 な どと話 されていた。最近の学生気質 を嘆かれてお ら れた。「ところで 日本大使館 に出向いたのですが,
『超一流の方で さえお断 りしている』
と 言 われて断 られ ま した」 と私が言 うと 「君 だって 日本 の国立の教授 であ り,パ リ美術学校 教授 だ。今時その ような身分 の人はいない よ。 それ を しっか りと伝 えな さい」 と言 われた ので,私が 「すみ ませ んが,それ を先生の方か らも伝 えて くだ さい ませ んか」 とお願 い し寄せ ては返す海 :絵画 Ⅴ
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た ら 「よ しわか った」 と言 いなが ら先生 はエ スプ レッソを一気 に飲 み干 された。
私 は再 び大使館 に出向いたが,館 の方 か ら 「申 しわけないのですが, この建物 は文化財 であ るので釘一本 も打 て ませ ん。 それで うちか らのギ ャラ リーの推薦 ですが, シャンゼ リ ゼ通 りにギ ャラ リーがあ ります ので,そ こ と掛 け合 い ま しょう
」
と丸め込 まれ ようとなっ た。 こん なや り取 りを してい る頃,校 長MI CHAUD
先生 か ら校 内のギ ャラ リー を提供 す る との通達が事務長 を通 してあ り,事務長 か ら早速案 内状( DM)
作 りの必 要 な原稿 を提 出す る よう催促 された。私 の個展 開催 は7月で もう夏休 み に入 っていたが,案 内状 は美術 学校 主催 で 日本大使館 が後援 とな った。 (写真⑮ )展示場 は天井 の高 くて広 い空 間であ った。普段 この会場 は学 生 たちが美術展 を定期 的 に行 った り, また卒業期 の試験 会場 ともなった りす る。 私 は個展 準備 のため借 りていたア トリエでの制作 に専念 した。 それで も子 どもを学校 に送 り出 した 級 ,ア トリエに出向 き,昼 には迎 えを,そ して昼食後 また送 り出 し,夕方迎 えに行 くまでア ト
リエで制作 ,夕食後 もア トリエで制作 し,地下鉄の最終電車で帰 宅するという日課 となった。
ところで個展 の展 示設営 であるが ,か な り巨大 な展 示用 のパ ネルが建物 の壁周辺 と会場 真 申に ドー ンと設置 されていて展示す るには作 品数 をあ る程度用意す る必 要が あ った。 こ の会場 で 目に留 まったの は,奥 まった ところに高 さ
8m
もあ る2
本 のエ ンタシスの柱 (写 真⑦(夢)が あ った。作 品発表 ともなる とこれが私 の 目か ら離 れ ない思 いで一杯 となった。その柱 は西洋 の最 も伝統 的 な美術 の根源 を問 う存在 と してあ るのでは ととっ さに思 い, 冒 本 か ら用 意 して きた シコクコ ピー に着彩 した作 品 をこの両柱 に設営 す る こ とに した。 (写 真 )それか らパ ネル壁面 には,折 りのい ろい ろの ヴ ァリエ ー シ ョンで布 を折 り込 んで着彩
した作 品 を並べ る ことに した。 (写真(9‑⑫ )
今 回の個展 で思 い残す こ とが 1つあ った。それ は私が気 に入 ったエ ンタシスの柱 が機能 と して停 止 してい た こ とで あ る。 異 国の人が見 て素 晴 ら しい と言 ってい るの に,彼 らは
「ここは展示場 です か ら」の一点張 りだ った。 それ に この柱 の後 ろは展 示用 の大 きなパ ネ ルはあったが,学年末 とあって薄暗い物置 と化 していた。いずれに して も変 な外 国人が駄々 こねてい るにふ うに過 ぎなか ったのだろ う。 私が再度伝 えて も 「あなたの作 品の方 に関心 が あ る。 糊 で貼 り合 わせ たた こ糸が デ リケー トですね
」
と言 うばか りであ った。それで私 は帰 国 した ら 「日本発 の イ ンス タ レー シ ョンの考察 と提 言」 を文章 にせ ねば と, この時強く思 ったが,あれか ら
1 0
年以上 も経 ったが,ず うっ と怠 けて未 だ に書 き上 げてない。この個展 の条件 は単 なる個展 で な く,教授 と して学生 たち‑ の ワー クシ ョップ も附帯 され ていた。私 の子 ど もた ちに も協 力 して もらい折 り紙 の イベ ン トを した。 (写真㊧㊧⑳ )前
もって
ARNAL
氏 に も電話連絡 を し, この折 り紙 に参加 して もらった。 (写真㊧ ) 彼 か ら私が編 み出 した布作 品の折 り方 と解体 の方法 について を求め られたのだった。註
註 1 lrIndependant 25Janvier1993"UN PEINTREJAPONAISA PERPINGNAN≪L■id6edu pliagem‑estvenueicュ‑≫ ParPhilippeSALUS
註2 Rencontresno2 Du15janvierau28f6vrier1993IJAVIGIEARTCOMTEMPORAIN;Yves Reynier,AnneMichie,SeiryoIkawa,AnnePerrt,W.Dupont,Fr6d6ricDiMartino 尚,
図録 として同ギ ャラ リー よ り"LAVIGIEARTCOMTEMPORAINcarnetdebord92/96"
(DIRECTION ARTISTQUE‑COMMISSARIATIsabelleViallat‑AlanWilliams)が発行 さ れた。