幻のごとき世界
──インド後期中観派における比喩解釈──
佐藤 晃
1.はじめに──後期大乗仏教における比喩
「この世界は幻のようなものだ」─仏教において、初期の文献以来、屡々目に する表現で、この世界は不確かなものだという思想(例えば、無常説、空説等)
を含意している。比喩表現を用いることは、何も古い仏教文献に限られたことで はない。ではどういう時に我々は比喩を用いているだろうか。例えば、他者に とって或る未知の事柄を説明したいとき、その相手にとって既知の事柄を比喩と して用いて説明するならば効果的に説明を達することができるようにも思われ る。その相手にとって比喩は、既知の事柄を通して、未知の事柄へと導いてくれ る媒介として機能しているとも言えそうである。「この世界は空である」と言わ れるよりは、「この世界は幻のようなものだ」と言われた方が、仏教徒が言おう としていることは分かるような気もする。一方で、その比喩として持ち出された 事柄が、双方において異なる意味で使用されている場合には、比喩が含意する事 柄が上手く伝わらないという事態を惹き起こしてしまう。時として比喩の使用は 誤解を招き、双方の物の捉え方に相違があることを暴き出すこともある。
本稿では、特にインドの後期大乗仏教と言われる時代の仏教文献での比喩を取 り上げることになる。その時代は仏教のみならず広く知識人の間で論理学的議論 が盛んになった時代であり、その中で比喩についても精緻な議論が展開された。
当時の諸学派は自らの主張を示す際に論理学を用いて論争を繰り広げたが、そこ で示される論証式の不備は敗北を齎した。その論証式における比喩は、自らの主 張を導くための論理的根拠と同様に重要な要素とされ、不適切な比喩の提示はや はり敗北の原因となったのである(1)。仏教論理学を大成したダルマキールティ
(
Dharmak
īrti, ca.
600-
660)は、次のように述べる。資料1
NBṬ ad NB II. 7 (DhPr 97, 4): kaḥ sapakṣaḥ.
sādhyadharmasāmānyena samāno rthaḥ sapakṣaḥ
一八八
同類例とは如何なるものか。
同類例とは、証明されるべき属性(所証特性)を共通して有することによって、[主題と]
等しい事柄である。
仏教論理学における論証式において最も重要なものは論理的根拠(能証特性。
s
ādhanadharma
あるいはhetu
)に他ならない。比喩は、その能証特性とそれに基づき証明される属性(所証特性。
s
ādhyadharma
)との論理的関係(vy
āpti
)の妥 当性(能証特性が必ず所証特性を導出するという両者の関係性)を外的に担保す る要素として、論証式の中で機能する。論争中では、自ら立論すると同時に、論 敵の立論の妥当性及び不備を分析して受容あるいは論破を行うわけだが、それら の妥当性は能証特性が妥当か否かによって判断される。つまり、能証特性が妥当 なものかそうでないものかが判断され、それに準じて自らの論証を立て、また、他者の論証の妥当性を判断するのである。このような問題意識から、仏教論理学 では能証特性を妥当なものと非妥当なものに分け、またそれぞれの下位分類も提 示する。上述の通り、比喩は能証特性を担保するものなので、それも、能証特性 の分類に応じて、妥当なものとそうでないものに分けられることになる。そし て、最も妥当な比喩としては、その論証式での能証特性と所証特性の双方の性質 を備えているものが想定されることになる。例えば、仏教では諸事物の無常性を 主張するが、所作性(作られたものであること)は代表的な論拠である。すなわ ち、諸事物が諸因縁に基づく所作性を有することを論拠に、その諸事物の無常性 を論証するのである。こうした論証で度々登場する比喩に「壺」がある(【主張 命題】諸事物は無常である。【論拠】なぜならば所作性を有するからである。【喩 例】例えば「壺」のように)。この場合の「壺」には、「所作性」という能証特性 も、「無常性」という所証特性も認められるので、妥当な比喩ということになる。
このように、後期大乗仏教では、特に仏教論理学という文脈において、厳密な 規定に基づく比喩の使用が窺われる。同時に比喩は、それを使用する個人乃至集 団の思想・主張・論理を帯びたものとも言える。しばしば論争の中では、論敵が 提示した比喩は妥当でない、といった応酬が繰り広げられる。冒頭に挙げた「こ の世界は幻のようなものだ」という言明を巡っても種々の立場が仏教内外に見ら れる。比喩を如何に解釈するか。この問題は、その個人乃至集団が如何なる思 想・主張・論理を保っているかによることになるわけである。
本稿では、8世紀後半に活躍した、インド後期大乗仏教・後期中観派に属するカ マラシーラ(
Kamala
śīla, ca.
740-
795)が、*Avikalpaprave
śadh ra
ṇ ṭk
(APrDh
Ṭ)(2)において、或る一群の比喩に与えた解釈を取り上げ、その解釈内容及びその解釈 過程を思想史的に考察する。そして、それを踏まえ、仏教内での比喩解釈に如何な る思想上の展開が見て取れるのかについても考察したい。本稿で考察の中心に置く
APrDh
Ṭは、Avikalpaprave
śadh ra
ṇ(APrDh
)(3)という大乗仏教の経典に対する註釈一八七
書である(4)。今回検討する一群の比喩とは、
APrDh
内の「後得清浄世間知」(後得 知。p
ṛṣṭhalabdha
śuddhalaukikajñ
āna
)に関する議論で使用される8種の比喩を指す。後得知とは、瞑想中に仏教的な(この場合は、仏教内の中観派的な)真理を直観す る無分別知(
nirvikalpajñ
āna
)を獲得した菩薩が、瞑想を終えた後(出定後)に有 情救済を目的に更なる修行(方便行)に邁進する際、その基盤として獲得される知 であり(5)、この後得知に基づく対象認識を説明する際に8種の比喩が使用される。2.後得清浄世間知に関する8種の比喩解釈
2. 1.APrDhṬにおける2通りの解釈
APrDh
は、菩薩が修行の結果として獲得する2つの知、すなわち無分別知と後得知を論じる経典である。この
APrDh
は、初期瑜伽行唯識派以来、それらの 知に関する議論の重要な典拠の1つとして受容された大乗仏教経典だとも指摘さ れる(6)。後期中観派、特に瑜伽行中観派のカマラシーラが本経典に言及し、註 釈書を残した事実は、彼及び彼が属した学派で如何なる経典が保持されたのか等 を考える上でも興味深い。本稿で検討するAPrDh
に示される比喩を確認しよう。資料2
APrDh 96, 6-9: avikalpadhātupratiṣṭhito hi bodhisattvo mahāsattvo jñeyanirviśiṣṭena nirvikalpena jñānenākāśasamatalān sarvadharmān paśyati.(*1tatpṛṣṭhalabdhena jñānena māyāmarīcisvapnapratibhāsapratiśrutkāpratibimbodakacandranirmitasamān*1) sarvadharmān paśyati.
<note> (*1 . . . *1) Cf. 松田[1996] fn. 36.
実に、無分別界に住する菩薩・摩訶薩は、認識対象と区別されない無分別知によって、
あらゆる事物を、虚空と同様のものと見る。それ(無分別知)の後に獲得される知(後 得知)によって、あらゆる事物を幻、陽炎、夢、影、谺、鏡像、水に映った月、化作と 同様のものと見る。(7)
ここでは、菩薩は修行の結果として獲得する2種の知(無分別知と後得知)が 示され、またそれら2種の知に基づくあらゆる事物を対象とする認識の在り方が 端的に示される。それぞれの知は以下のように理解される。菩薩は、これら2 つの知の獲得に先立って、あらゆる概念的構想(分別、
vikalpa
)を排除した者と なっている(8)。大乗仏教において、この概念的構想及び概念化という心的作用 は諸煩悩の根源として位置づけられ、排除されるべきものとされる(9)。無分別 知とは、その概念的構想を伴わない(nir-
)知という意味である。つまり、それ による対象認識において、概念を介さずに対象を直観する知となる。一方で、後 得知とは、無分別知の後に獲得される知であるので「後得」と言われ、先の無分 別知に対して、概念が介在する対象認識を行う分別知である。真実を既に証得し一八六
た菩薩は、それゆえに如何なる世俗的な事物にも捕らわれることがなく、一切の 執着を断ち得る。しかし菩薩の修行には、その基盤として、他者に対する慈悲心 がある。それゆえに彼らは、真実を獲得したとしても、その慈悲心から世俗と全 く断絶することはなく、むしろあらゆる事物を「幻」等と見做しつつ語り、一層 方便行に邁進すべきとされ(10)、また後得知を獲得しているがゆえに断見(一切 の事物を断滅するものと見る)の過失が回避される(11)。では、菩薩はその2つ の知それぞれに基づき諸事物(
sarvadharma
)を如何に見ている(pa
śyati
)のか。資料2 では、その両者の差異が、異なる比喩の提示をもって示される。菩薩は 諸事物を、まず、無分別知によって「虚空(ā
k
āśa
)と同様に見る」とされ(12)、 一方で、後得知によっては「幻(m
āy
ā)等と同様に見る」とされる。後得知に基づく対象認識は、①幻(
m
āy
ā)、②陽炎(mar
īci
)、③夢(svapna
)、④影(
pratibh
āsa
)、⑤谺(prati
śrutk
ā)、⑥鏡像(pratibimba
)、⑦水月(udakacandra
)、⑧変化(
nirmita
)という8種の比喩を用いて説明される。菩薩は諸事物をそれらの比喩と同様のものと見るということだが、「あらゆる事物を幻等と同様に見る」
とは如何なる意味なのか。カマラシーラは
APrDh
Ṭにおいて、それら8種の比喩 は何らかの具体的事物を示している、という理解を示す。つまり彼は、あらゆる 事物が「幻」のようであり、且つ「陽炎」のようでもある、と理解するのではな く、或る事物は「幻」と同様に見做され、別の或る事物は「陽炎」と同様に見做 される、と理解している。次の 資料3 と 資料4 に、そうした理解に基づく比 喩解釈が示される。これらは一連の文章だが、上記の比喩に対する2通りの解釈 を示している(原文太字、翻訳下線箇所はAPrDh
の語である)。資料3 : APrDhṬ解釈A
APrDhṬ D 139b2-139b7, P 166b8-167a8: ①de i rjes las thob pa zhes bya ba ni jig rten las das pa rnam par mi rtog pa i ye shes kyi rjes las thob pas*1 ni sems can gyi jig rten du bsdus pa rnams sgyu ma dang mtshungs par mthong ste / sems can gyi gzugs su snang ba ni sgyu ma byas pa i glang po che la sogs pa lta bu i phyir ro // ②snod kyi jig rten bsdus pa rnams ni smig rgyu dang mtshungs par te / smig rgyu bzhin du phyi rol gyi dmigs pa phal che bas brdzun pa nyid du snang ba i phyir ro // ③yul dang longs spyod kyi ngo bo rnams ni rmi lam dang mtshungs par te / rmi lam lta bur brdzun pa de la*2 dod pa skye ba i phyir ro // ④lus kyi las kyi ngo bo nyid rnams ni mig yor dang mtshungs par te / chos thams cad byed pa med kyang mig yor bzhin du lus kyi byed pa snang ba i phyir ro // ⑤ngag gi las kyi ngo bo nyid ni brag ca dang mtshungs par te / brag ca bzhin du brdzun pa yin yang thos pa i lam du jug pa i phyir ro // ⑥ dod pa na spyod pa rnams ni gzugs brnyan dang mtshungs par te / sngon gyi las kyi rnam par smin pa i bras bur bsdus pa rnams sngon ji ltar byas pa i las dang mthun par byung ba i phyir ro // ⑦gzugs dang gzugs med pa na spyod pa i ting nge dzin du bsdus pa i las kyi rnam par smin pa i bras bur bsdus pa rnams ni chu zla dang mtshungs par te / ting nge dzin ni chu dang dra ba i phyir ro //
⑧sangs rgyas kyi zhing yongs su dag pa la sogs pas bsdus pa rnams ni sprul pa dang mtshungs par te / de dag rang gi sems yongs su dag pas sprul pa i phyir ro //
<note> *1 pa P. *2 lta P.
一八五
①その後に得られる[知]とは、[すなわち]世間を超えた無分別なる知の後に得ら れる[知(後得知)という意味であり、菩薩はその後得知]によって、有情世間に収 められる諸々のものを、幻と同様のものと見る。なぜならば、有情を在り方として顕 現するものは、幻による象等のようなものであるからである。②[菩薩は後得知によ り]諸々の器世間に収められるものを、陽炎と同様のものと[見る]。なぜならば、陽 炎のごとく、外界の認識対象は、通常、虚偽なるものとしてのみ顕現するからである。
③[菩薩は後得知により]対象や所受用を本性とする諸々のものを、夢[の中でのも の]と同様のものと[見る]。なぜならば、夢[の中で]のごとく、その虚偽なる[対 象や所受用]に対して欲望が生じるからである。④[菩薩は後得知により]身業を本 質とする諸々のものを、影と同様のものと[見る]。なぜならば、あらゆる事物を為す ものが存在しなくとも、影のごとくに、身体の作用は顕われるからである。⑤[菩薩 は後得知により]語業を本質とするものを、谺と同様のものと[見る]。なぜならば、
[語業を本質とするものは、]谺と同様に、虚偽なるものであっても、[それにより]声 聞の道に入るからである。⑥[菩薩は後得知により]欲望を領域とする諸[天]を鏡 像と同様のものと[見る]。なぜならば、過去の行為の異熟たる果報に収められる者達
(諸天)は、以前に為された行為に従って生起するからである。⑦[菩薩は後得知によ り]色と無色を領域とする三昧に収められる行為の異熟たる果報に収められる諸々の ものを、水[に映る]月と同様のものと[見る]。なぜならば、三昧は水のようなもの であるからである。⑧[菩薩は後得知により]清浄なる仏国土等に収められる諸々の ものを、化作と同様のものと[見る]。なぜならば、それらは、自らの清浄なる心が化 作したものであるからである。
資料4 : APrDhṬ解釈B
APrDhṬ D 139b7-140a5, P 167a8-167b6: yang na ①nang gi khams drug ni sgyu ma dang mtshungs par te / sems can med kyang sems can la sogs pa i ngo bor snang ba i phyir ro // ② rnam par shes pa i khams drug dang ses las byung ba thams cad ni smig rgyu dang mtshungs par te // de dag smig rgyu bzhin du brdzun pa i rnam par snang ba i phyir ro // ③phyi i khams rnams ni rmi lam dang mtshungs par te / rmi lam bzhin du gzugs rnams brdzun pa yin yang yul du snang ba i phyir ro // ④skyes bu chen po i mtshan la sogs pas brgyan pa i sangs rgyas kyi gzugs kyi skur bsdus pa rnams ni mig yor dang mtshungs par*1 te / yongs su dag pa i chos kyi sku i dbang gis de ltar snang ba i phyir ro // ⑤bstan pa i chos rnams su bsdus pa dag ni brag ca dang mtshungs par te / brag ca bzhin du bcom ldan das kyi dbang gis thob pa i phyir ro // ⑥ sngon gyi las kyi bras bur bsdus pa rnams ni gzugs brnyan dang mtshungs par te / chos thams cad ni las ji lta ba bzhin du skyes pa i phyir ro // ⑦sangs rgyas kyi zhing yongs su dag par bsdus pa rnams ni chu zla dang mtshungs par te / sgrib pa i dri ma rnams dang bral ba i sems kyi chu la zla ba bzhin du snang bar gyur pa i phyir ro // ⑧ dus byas kyi chos thams cad ni sprul pa dang mtshungs par te / de dag brdzun pa yin yang ji ltar rang gi rgyu dang rkyen tshogs pas sprul pa snang ba i phyir ro //
<note> *1 pa P.
①さらに[8種の比喩の別解を以下に示すと]、[菩薩は後得知により]内的な六界を、
幻と同様のものと[見る]。なぜならば、[それら内的な六界は、]有情が存在せずとも、
有情等の自性を持つものとして顕現するからである。②[菩薩は後得知により]六識界 と心より生じたあらゆる事物を、陽炎と同様のものと[見る]。なぜならば、それらは、
陽炎のように、虚偽なる形相として顕現するからである。③[菩薩は後得知により]諸 外界を、夢と同様のものと[見る]。なぜならば、夢[の中で]のように、[それら外界 の]諸色は虚偽なるものであるが、対象として顕現するからである。④[菩薩は後得知 により]偉大なる人の特徴等によって荘厳された仏の色身に属する諸々のものを、影と 同様のものと[見る]。なぜならば、[それらは]清浄なる法身に基づいて、そのように
一八四
顕現するからである。⑤[菩薩は後得知により、仏が]説示された諸法に収められる 諸々のものを、谺と同様のものと[見る]。なぜならば、谺と同様に、[それらは]世尊 を拠り所として獲得されるからである。⑥[菩薩は後得知により]過去の行為の果報に 収められる諸々のものを鏡像と同様のものと[見る]。なぜならば、[過去の行為の果報 としての]あらゆる事物は、[過去の]業に従って生起するからである。⑦[菩薩は後 得知により]清浄なる仏国土に収められる諸々のものを、水[に映る]月と同様のもの と[見る]。なぜならば、諸々の障礙という垢を離れた心という水[に映る]月のよう に、[清浄なる仏国土に収められる諸々のものは障礙の垢を離れた心の上に]顕現する からである。⑧[菩薩は後得知により]あらゆる有為法を、変化と同様のものと[見 る]。なぜならば、それら(有為法)は、虚偽なるものであっても、自らの因縁の集合 に従って顕現するからである。
資料3 と 資料4 で確認できる【解釈
A
】と【解釈B
】は、既に真実を対象 とする無分別知を獲得した菩薩が、出定後に見るであろう「あらゆる事物」を異 なる視点で整理したものだと言える。経文中の①「幻」について、【解釈A
】で は「有情世間に収められるもの」(例えば、人間等)の比喩だとし、【解釈B
】で は「内的な六界」(眼、耳、鼻、舌、身、意という感覚器官)の比喩だとする。菩薩は後得知によって、人間等の有情を幻と同様のものと見る、あるいは、眼等 の感覚器官を幻と同様のものと見る、ということである。②「陽炎」以下につい ても、同様に、2通りの解釈が
示される( 表1 参照)。 さらに、各一連の解釈におい て、必ずしも十分とは言えない が、複数の比喩に関する解釈内 容が一定の枠組みの提示を意図 していると指摘できると考える。
後に改めて検討するが、この点
は
APrDh
Ṭにおける比喩解釈方法の特徴の1つとして捉えるこ とができ、その思想史的背景を 探る糸口の1つになると考える。
【解釈
A
】について言えば、[①・②]、[③]、[④・⑤・⑦]、[⑥・
⑦]、[⑧]というように整理す ることが可能である(⑦につい ては重複が認められよう)。まず
①「幻」と②「陽炎」の解釈は、
人間等の有情(有情世間)とそ
表1 APrDhṬにおける8種の比喩の解釈 比喩 解釈 A 解釈 B
① 幻 有情世間所収
(友 情)
内的な六界
(眼耳鼻舌身意の 感官)
② 陽炎 器世間所収
(外界対象) 六識界と心所成
(形 相)
③ 夢 対象・所受用を本 性とするもの
(欲望の対象)
外 界
(対象として顕現)
④ 影 身業を自性 とするもの
(身体作用)
仏の色身所収
(清浄な法身から の顕現)
⑤ 谺 語業を自性 とするもの
(声聞道)
仏所説の諸教説
(世尊を拠り所と する)
⑥ 鏡像 欲 界
(宿業の異熱) 過去の業の果所収
(宿業から生起)
⑦ 水月 色・無色界の三昧 所収の業の異熟で
ある果報
清浄仏国土所収
(無垢な心:水)
⑧ 化作 清浄仏国土等所収
(清浄な心の化作) あらゆる有為法
(因縁集合所成)
一八三
の有情が存在の拠り所とする山・川・大地等の外的世界(器世界)からなる二世 間という枠組みを示している。また④「影」、⑤「谺」、⑦「水月」は、三業(身 業、語業、意業)という我々の行為に関する枠組みを示し、⑥「鏡像」と⑦「水 月」は三界(欲界、色界、無色界)という有情が住する領域に関する枠組みを示 していると解し得る。一方【解釈
B
】は、[①・②・③]、[④・⑤・⑦]がそれ ぞれ、一定の枠組みを提示していると見做し得る。前者はそれぞれに内的六界(6種の感官、六根)、六識(6種の認識)と心所成、外界対象を示すが、物質的 な要素(色:感官、外的対象)と精神的な要素(心:六識と心所成)を示し、ま た六根と六境(外界対象)と六識(六根と六境の接触より生じる)つまり十八界 という或る対象認識が成立するための原因を説明する枠組みをも示していると解 し得る。後者[④・⑤・⑦]はいずれも仏に関する領域の事柄を示している。
2. 2.カマラシーラの他の著作における用例
ところで、カマラシーラの他の著作群においても、資料2 に示される比喩の 用例は多く確認できる。特に「幻」(
m
āy
ā,sgyu ma
)、「夢」(svapna
,rmi lam
)、「化作」(
nirmita
,sprul pa
)の使用例は多い。以下に主著*Madhyamak loka
(M
āl
) から幾つか用例を挙げるが、ここでは特に、これらの比喩が使用される文脈及び そこで語られる思想内容について確認をしておきたい。資料5
Māl D 171b1-2, P 187a3-4: rmi lam la sogs pa dag ni*1 don dam pa pa i ngo bo nyid dang bral ba yang tha snyad sna tshogs jug pa yang*2 snang ste / de i phyir tha snyad di thams cad kyang sprul pa dang / rmi lam la sogs pa dang dra bas gal ba med do //
<note> *1 na P. *2 yang om. P.
夢等は、勝義的自性を欠いているが、種々の言語的慣習が働くことは顕れる。したがっ て、このすべての言語的慣習は、化作や夢等と等しいので、[勝義的自性を欠くことと 言語的慣習が働くことの両者に]矛盾は無いのである。(13)
資料6
Māl D 170a1-3, P 185a7-185b1: di ltar dngos po thams cad don dam par skye ba med par ro gcig pa i phyir tha dad pa med pa yin*1 mod kyi / on kyang byis pa rnams la rmi lam la sogs pa i gnas skabs bzhin du phan tshun tha dad par snang ngo // de i phyir de la grags pa i ngo bor de dag la don gzhan gyis dben pa i dngos po dzin pa i sgo nas gcig gis gcig stong pa nyid di rnam par gzhag gi / don dam par ma yin te / yang dag par na rmi lam dang / sgyu ma lta bu i dngos po rnams la ngo bo nyid phan tshun tha dad pa med do //
<note> *1yin conj. [Cf. Keira [2004]228, fn. 13] ma yin D, P.
すなわち、あらゆる事物は勝義としては生起しないものとして一味であるがゆえに無区 別であるが、しかし、愚者達においては、夢等の状態のように、[あらゆる事物は]相 互に区別して顕現するのである。したがって、その場合、世間周知の在り方として、彼 ら[愚者達]においては、[それ自身]以外のもの(A)を欠いた事物(B)を把持する ことによって、この相互空性(*itaretaraśūnyatā)は確立するのだが、勝義として[確立
一八二
するの]ではない。真実としては、夢や幻のごとき[世俗の]諸事物における自性は相 互に区別されないのである。
これらの用例からは、「幻」や「夢」等の比喩は、次のようなものに対して使用 されていることがわかる。すなわち、「幻」等の比喩は、勝義的自性を有さず、た だ世俗の言語的慣習として、あるいは世間で周知されている事柄(
*prasiddha
)と の整合性を有するもの(*avisa
ṃv
ādi
)としてのみ成立するようなもの(14)( 資料5 )、勝義としては本来一味・無区別ではあるが、愚者達にとっては相互に区別されるよ うな世間周知の在り方をもって増益されて(
*sam
āropita
)顕れる諸事物( 資料6 ) に対して使用される(15)。またそうした比喩によって示されるものは、「兎の角」(
*
śa
śavi
ṣāṇa
)のような、単なる言葉上のもので、因果関係を離れたような、全く の非存在からは区別される(16)。具体例を挙げるならば、次のように説明し得よう。例えば、我々が「瓶」と呼ぶものがあるとする。それは、それ以外のもの(例え ば、「コップ」と呼ばれ得るもの)から区別されることで、「瓶」として言語的に成 立し、その限りで「瓶」としての存在が認められる。そうした言語的慣習や概念 化に基づく在り方は、我々が「瓶」と呼び習わしている当のものにとっては真実 の在り方ではなく、世俗的な在り方に過ぎない。「瓶」には、勝義的自性、つまり、
その「瓶」と呼ばれるもの固有の特質(<瓶性>)は本来備わっておらず、<瓶 性>が付与されているに過ぎない。しかし「瓶」は、「兎の角」のように全くの想 像の産物とは異なる。それは、<水を入れる>といった一定の効力を果たし、さら に、それは因果関係の結果生じたものであること(縁起性)が認められる。その 限りにおいて、「瓶」と呼ばれるものはその「瓶」としての世俗的な意味での存在 が認められるのである。そして、そのような世俗的な事物に対して、「幻」や「夢」
等の比喩が用いられるのである。 資料3 と 資料4 の文中にも「虚偽なるものと して顕現する」(
brdzun pa nyid du snang ba
)といった表現が度々出てくるが、これ は 資料5 や 資料6 の用例の背景にある理解と同様の理解に基づいている。上記のような諸事物の存在レヴェルの設定に関する議論は、中観派では二諦説
(勝義諦と世俗諦という2種の真理)と呼ばれるが、先の 資料2 に見られるよ うな一群の比喩は、その二諦説中の世俗諦を語る際に頻繁に使用されていること が確認できるわけである。ところで、本稿の主題である後得知は世間知である。
よって、その後得知の対象に対して使用される比喩が、世俗諦を論じる際に使用 される比喩と共通すること自体は或る意味では当然である。ただし注意しなけれ ばいけないのは、後得知を得た菩薩は既に一切法無自性性(勝義諦)という真実 を証得しているがゆえに、上述のように世俗的なレヴェルの事物を語る際に使用 される比喩が、仏が住する「清浄仏国土所収の事物」や「仏所説の教説」( 表1
【解釈
A
】⑧や【解釈B
】④、⑤、⑦)といった、およそ日常的レヴェルの事物一八一
とは言い難いものに対しても使用されている点である。
ここまで、カマラシーラが
APrDh
Ṭで示す8種の比喩に対する解釈内容を確認、整理し( 表1 )、またそれら8種の比喩が世俗諦に関する文脈で使用されるこ とを確認してきた( 資料5 、 資料6 )。また、後得知の対象となるために仏に 関する事物も含まれるという特徴も確認し、注意が払われるべきだと指摘した。
これらの点については、本稿4.において改めて検討することにする。
3.APrDh Ṭ の解釈の思想史的背景とその位置づけ
さて、管見の限り、 表1 で示したような「幻は有情世間所収のものの比喩で ある」等の解釈は、カマラシーラの他の著作の中では確認できない。また、【解 釈
A
】と【解釈B
】それぞれでは、一定の基準で(部分的には不十分と思われる 部分も含まれるが)「あらゆる事物」を整理しようとする意図が窺われ、そうした理解が
APrDh
Ṭでの比喩解釈の特徴であるとも指摘した。よって、APrDh
Ṭに確認される比喩解釈は、一先ずカマラシーラ自身の諸著作の中においては特徴的 なものであると指摘し得る。では、そうした解釈は彼独自のものであるのか、あ るいは影響関係が確認できるものを見出し得るであろうか。本節では
APrDh
Ṭに 至るまでの思想史的背景を少しく探ることとする。3. 1.中観派関連文献
前節において
APrDh
に見られる8種の比喩が世俗諦に関する議論の文脈で使 用される点を確認した。ところでカマラシーラが世俗諦に関する文脈で使用する 比喩については、先の8種以外にも「旋火輪」(松明を旋回させると生じる火の 輪)や「蜃気楼」等がある(17)。先の8種も含め、そうした比喩は、彼に先立つ 中観派の文献においてもその使用例を確認することができ、広く同種の比喩が使 用される伝統があったと言える。そこで今回は、「幻」等の8種の比喩のみがま とまって提示される文献という観点で調査を行った。その結果、中観派に属すと される人物の論書の中で完全に一致する文献は、管見の限り、見出されない。近 いものを時代を遡って概観してみよう。まず中観派の祖ナーガールジュナ(
N
āg
ārjuna,
2世紀頃)に帰せられる『大智 度論』(鳩摩羅什訳)初品十喩釈論第十一冒頭には、次のような記述がある。資料7 T 25, 101c8-10
【経】解了諸法、如幻、如焔、如水中月、如虚空、如響、如犍闥婆城、如夢、如影、如鏡中像、
如化。【論】是十喩為解空法故。
一八〇
『大智度論』は大品系に属する般若経の註釈とされ、まず経文を引用し、そ れに対して註釈(【論】)を付けるという形式を取る。『大智度論』の註釈対象 は大品系であるが、そこに属する
Pañcavi
ṃśatis hasrik Prajñ p ramit
(PVSPr
,『二万五千頌般若』)は、鳩摩羅什訳と玄奘訳共に上掲『大智度論』の内容と合致 し、10種の比喩を列挙する(18)。また、そのチベット語訳もこれに合致する(19)。
しかし、
PVSPr
の現行サンスクリット本では、「虚空」(*
āk
āśa
、虚空、空花、nam mkha dang
)と「蜃気楼」(*gandharvanagara
、犍闥婆城、尋香城、dri za i gron khyer
)に相当する語は無く、APrDh
の8種の比喩と一致している(20)。さて 資料7 であるが、ここでは空の教説を解説するために10種の比喩が提 示される。これらの比喩は「十喩」と称され、般若経典のみならず確認され(21)、 中国仏教さらに日本仏教でも種々に解釈された。その10種の中には、
APrDh
で 示される8種の比喩全てが確認できるが、それらに加え、「虚空」と「犍闥婆城」(ガンダルヴァ城、蜃気楼)も挙げられる。
APrDh
との比較で注目される点は、APrDh
において無分別知の対象を示すために使用される「虚空」が、「幻」等と同列に使用されている点である。
PVSPr
において上記8種乃至10種の比喩を含む 複合語は、仏と共に座す菩薩達を説明する文脈で現れる。その菩薩達は既に空性 という真実を証得し、その境地に安住する者達とされ(22)、その意味で、APrDh
の後得知を獲得するに先立ち無分別知を獲得している菩薩達と同レヴェルであ ると見做し得る。しかし、PVSPr
及び『大智度論』とAPrDh
及びAPrDh
Ṭでは、「虚空」の扱いに関する差異がある点は指摘できよう。さらに『大智度論』での 比喩解釈の内容が、カマラシーラのそれと異なる点も付言しておく(23)。
また、初期中観派では、アールヤデーヴァ(Ā
ryadeva,
3世紀)のCatu
ḥśataka
(
C
Ś)XIII, v.
25を内容の近いものとして挙げることができる。資料8 CŚ119, 1-2
alātacakranirmāṇasvapnamāyāmbucandrakaiḥ /
dhūmikāntaḥpratiśrutkāmarīcyabhraiḥ samo bhavaḥ // CŚ XIII. 25 //
[諸事物の]存在は、旋火輪、化作、夢、幻、水に[映った]月と、蒸気、谺、陽炎、
雲と同様のものである。
C
ŚXIII
は感官とその対象の実在性の否定を論じる章であり、上掲C
ŚXIII, v.
25はこの章の最後に示され、それらの非実在性を知悉した賢者にとって諸事物が 如何なるあり方で存在するのかを示すために9種の比喩を提示する。
APrDh
と 比較すると、共通するものとして6種の比喩が確認できるが、APrDh
には無い「旋火輪」(
al
ātacakra
)、「蒸気」(dh
ūmika
)、「雲」(abhra
)の3種が含まれる。一方で、
APrDh
にある「影」と「鏡像」の2種は欠ける(24)。C
Ś全16章に対しては、唯識派のダルマパーラ(Dharmap
āla, ca.
530-
561)が一七九
後半8章に対する註釈書『大乗広百論釈論』を著わし(25)、中期中観派に属する チャンドラキールティ(
Candrak
īrti, ca.
600-
650or
530-
600)はCatu
ḥśatakav
ṛtti
(
C
ŚV
)を残した(26)。またチャンドラキールティはPrasannapad VII
とXXVI
にもC
ŚXIII, v.
25をそのまま引用している(27)。具には両者の註釈内容に差異は確認さ れるが、いずれもこれらの比喩が本来的な実在性を認め得ない事物のあり方を示 すものであることを論じるのみで、APrDh
Ṭのように、各比喩が何か具体的な事 物の比喩であるとは解釈しない。3. 2.瑜伽行唯識派関連文献
前節で見てきた通り、中観派に属すとされる人物の著作の中に、カマラシーラ
が
APrDh
Ṭで示すような比喩解釈の淵源を見出すことは困難である。一方で、幾つかの瑜伽行唯識派文献には、資料2 と全く同じ8種の比喩のみがまとまって示 されるものがある。それらは、カマラシーラの
APrDh
Ṭでの比喩解釈の背景を知 る手掛かりになると考えられる。本節では、いずれも初期瑜伽行派の基本的典籍 である、Mah y nas tr la
ṃk ra
(MSA
)XI, v.
30、及び、*Mah y nasa
ṃgraha
(MS
)II,
§26-
27(28)を取り上げ、それらにおける比喩解釈とカマラシーラのAPrDh
Ṭで の解釈( 表1 )との比較を試みる(29)。まずMSA XI, v.
30を確認しよう。資料9 MSA 62, 6-9:
māyāsvapnamarīcibimbasadṛśāḥ*1 prodbhāsaśrutkopamā vijñeyodakacandrabimbasadṛśā nirmāṇatulyāḥ punaḥ /
ṣaṣṣaṭ dvau ca punaś ca ṣaṣ dvayamatā ekaikaśaś ca trayaḥ saṃskārāḥ khalu tatra tatra kathitā buddhair vibuddhottamaiḥ // MSA XI, v. 30 //
<note> *10gzugs brnyan0 Tib. for 0bimba0.
最上なる覚られた諸仏により、あらゆる場面で、諸々の作られたものは、Ⓐ幻、Ⓑ夢、
Ⓒ陽炎、Ⓓ鏡像のようであり、Ⓔ影、Ⓕ谺と同様のもので、Ⓖ水[に映る]月の像のよ うで、またⒽ化作と等しいと知られるべきであり、[上記8種の比喩はそれぞれ、Ⓐ幻は]
6つ[の内的な処(根)を](30)、[Ⓑ夢は]6つ[の外的な処(境)を](31)、そして、[Ⓒ
陽炎は心と心所の]2つ[を](32)、そして、[Ⓓ鏡像とⒺ影はそれぞれ、]再び2種の6 つ[を、つまりⒹ鏡像は六内処(33)を、Ⓔ影は六外処(34)]を、そして、[残りのⒻ谺と
Ⓖ水に映る月の像とⒽ化作の3つは、]個々に[、谺は仏所説の法を(35)、水に映る月の 像は三昧と結びついた法を(36)、化作は仏の身体を示す(37)]と説かれたのである。(38)
上記の箇所は、諸仏が「作られたもの」(
sa
ṃsk
āra-
)を「幻」等の8種の比喩 のようなものであると説示したことを示している。偈それ自体は、前半部分で8 種の比喩を列挙し、後半部分で8種の比喩それぞれが具体的に何を示しているの かを述べている。現代語訳中の[ ]の部分は、ヴァスバンドゥ(Vasubandhu,
4−5世紀)の註釈(Mah y nas tr la
ṃk rabh
ṣya, MSABh
)に基づき補っている。彼は偈それ自体が「6つ」等と言った時に意図される具体的内容を補ってい
一七八
る。例えば、偈それ自体はⒶ「幻」につ いて「6つ」と述べているが、ヴァスバ ンドゥはその「6つ」が眼等の6種の感 官であると述べている。彼の解釈内容を 整理すると 表2 のようになる。
MSA XI, v.
30での比喩の提示順はAPrDh
と一部異なる。MSA
での比喩は、その 解釈内容から[Ⓐ・Ⓑ]、[Ⓒ]、[Ⓓ・Ⓔ]、[Ⓕ・Ⓖ・Ⓗ]とまとめ直すことも でき、ここでの提示順はその解釈内容に 対応したものと解し得る。
さて、 表2 の
MSA
及びMSABh
の解 釈には、カマラシーラのAPrDh
Ṭでの解釈( 表1 )と通じるものが含まれ、注目に値する。例えば、
APrDh
Ṭの【解釈B
】では①「幻」は内的な六界(6種の感官)を、②「陽炎」は六識界と心所成 を、③「夢」は外界(外的対象)を示すと解釈されたが、それらは 表2 のⒶからⒸの解釈内容と並行関係にあると言える。両者の比較・検討は、節を改めて 行う。次に
MSg II,
§26の一節を確認しよう。資料10
MSg 86, 5-9 : gzhan gyi dbang gi ngo bo nyid ji ltar rig par bya zhe na / sgyu ma dang / smig rgyu dang / rmi lam dang / mig yor dang / gzugs brnyan dang / brag ca dang / chu zla dang / sprul*1 pa lta bur rig par bya o //
<note>*1 sdul pa D.
依他起性は如何に理解されるべきか、と言うならば、ⓐ幻、ⓑ陽炎、ⓒ夢、ⓓ影、ⓔ鏡 像、ⓕ谺、ⓖ水[に映る]月、ⓗ化作と同様に理解されるべきである。(39)
この一節を含む
MSg II,
§26は、あらゆる経典が三性説(事物に認められる3 種の在り方。遍化所執性、依他起性、円成実性)を意趣することを論ずる(MSg II,
§28)に先立つ箇所であり、 資料10 では諸事物の依他起性(諸因縁に基づき 生起するというあり方)を説明するために8種の比喩を列挙している。ここでの 比喩の提示順もAPrDh
と一部異なっている。MSg
自体は、続く§27でこれらの比喩について解説しているが(40)、そこでは、「もし事物が存在しないならば」(
don med na
)と述べて諸事物の実在性を否定す ることに伴う諸々の危惧を抱く人々に対して、諸事物が依他起のものとして比喩 の如くにあるのだと説明される(41)。その内容を整理したのが、表3 である。この
MSg II,
§27では、「幻」以下の8種の比喩が、諸事物の依他起性を説明するために説かれたこと、そして、事物の実在性の否定に伴って想定される種々の 表2 MASBh における8種の比喩の解釈
比喩 解釈
Ⓐ 幻 六内処
(6種の感官)
Ⓑ 夢 六外所
(6種の対象)
Ⓒ 陽炎 心と心所
Ⓓ 鏡影 六内処
(6種の感官)
Ⓔ 影 六外所
(6種の対象)
Ⓕ 谺 仏所説の法
Ⓖ 水月 三味に結び付いた法
Ⓗ 化作 意志を持ち再び生存の世界に 生まれること
一七七
疑いを除去するために説かれたことが示 される。ⓓ「影」(
mig yor
)とⓔ「鏡像」(
gzugs brnyan
)の順序が入れ替わってい るが、これはⓒ「夢」(rmi lam
)の解釈 との連続性を意図してのことであろう。さて
MSg
にはヴァスバンドゥの註釈 書(-bh
ṣya, MSgBh
)、アスヴァバーヴァ(
Asvabh
āva
)の註釈書(-upanibandha- na
)(42)、さらに筆者不明の註釈書(*Viv
ṛ-taguhy rthapi
ṇḍavy khy
)があるが、先にMSA
のヴァスバンドゥ註を確認したの で、ここでも彼の註を確認する。既に長尾[1982]が指摘しているよ
うに、
MSgBh
には8種の比喩に関して、2通りの解釈が提示されている(43)。そ の第1解釈は 表3 の内容を直接説明す るものである。一方で、第2解釈の方は、
表4 に示した通り、
MSg
自体の記述か ら離れた理解が示される(44)。3. 3.APrDhṬの解釈とヴァスバンドゥの解釈との比較
以下、カマラシーラの
APrDh
Ṭが提示する8種の比喩に対する2通りの解釈(【解釈
A
】【解釈B
】、 表1 )とヴァスバンドゥによる解釈との比較を試みる。まず
APrDh
Ṭの【解釈A
】( 表1−1 として抜き出した)については、MSg
II,
§27に対するMSgBh
の第2解釈( 表4 )と同傾向にあると指摘できると考 える。両者を比較すると、☆を付けた箇所は、比喩とその解釈内容が一致する。また△を付けた箇所については、 表4 のⓓ「影」とⓔ「鏡像」の解釈内容を入 れ替えると、 表1 の④「影」と⑥「鏡像」の解釈内容と対応が取れると言えよ う。破線( )を付した箇所は、文言上は一致しないが、その内容の一致は十分 に指摘できよう。( 表4 については、比喩の順を 表1−1 に合わせた。)
一方で、
APrDh
Ṭの【解釈B
】( 表1−2 として抜き出した)は、MSA XI,
v.
30に対するMSABh
の解釈( 表2 )と同傾向であると指摘できよう。次頁の 対照表中、◎を付けた箇所が、両者に一致して見られる解釈内容である。この 両者の一致は、先のAPrDh
Ṭの【解釈A
】とMSgBh
の第2解釈よりも一層高い 相関性を示している。なお、 表2 のⒼ「水に映った月」の解釈内容「三昧に表3 3MSgⅡ, §. 27における解釈
比喩 解釈
ⓐ 幻 対象領域
ⓑ 陽炎 心と心所
ⓒ 夢 愛あるいは非愛の受用
ⓔ 鏡像 善・不善業による愛あるいは 非愛なる結果
ⓓ 影 諸認識
ⓕ 谺 諸言語活動
ⓖ 水月 三味の対象
ⓗ 化作 意志に基づく菩薩の再生起 表4 MSgBh における第2解釈
比喩 解釈
ⓐ 幻 六内処
(6種の感官)
ⓑ 陽炎 器世界(外界世界)
ⓒ 夢 [非存在の]色等[に対する愛・
非愛]の受用
ⓔ 鏡像 身 業
ⓕ 谺 語 業
ⓓ 影 入定していない者(欲界のも の)の意業
ⓖ 水月 入定した者の意業
ⓗ 化作 聞き随う者の意業
一七六
表1-1 APrDhṬにおける【解釈 A】
比喩 解釈 A
① 幻 有情世間所収
(友 情)
② 陽炎 ☆器世間所収
(外界対象)
③ 夢 ☆対象・所受用を本性とするも の(欲望の対象)
④ 影 △身業を自性とするもの
(身体作用)
⑤ 谺 ☆語業を自性とするもの
(声聞道)
⑥ 鏡像 △欲 界
(宿業の異熟)
⑦ 水月 色・無色界の三味所収の 業の異熟である果報
⑧ 化作 清浄仏国土等所収
(清浄な心の化作)
表4 MSgBh における第2解釈
比喩 解釈
ⓐ 幻 六内処
(6種の感官)
ⓑ 陽炎 ☆器世間
(外界世界)
ⓒ 夢 ☆[非存在の]色等[に対する 愛・非愛]の受用
ⓓ 影 △入定していない者(欲界の者)
の意業
ⓕ 谺 ☆語 業
ⓔ 鏡像 △身 業
ⓖ 水月 入定した者の意業
ⓗ 化作 聞き随う者の意業 (上掲表中の で囲んだものは、各解釈独自のものと見なせるものである)
表1-2 APrDhṬにおける【解釈 B】
比喩 解釈 A
① 幻 ◎内的な六界
(眼耳鼻舌身意の感官)
② 陽炎 ◎六識界と心所成
(形 相)
③ 夢 ◎外 界
(対象として顕現)
④ 影 仏の色身所収
(清浄な法身からの顕現)
⑤ 谺 ◎仏所説の諸教説
(世尊を拠り所とする)
⑥ 鏡像 ◎過去の業の果所収
(宿業から生起)
⑦ 水月 清浄仏国土等所収
(無垢な心:水)
⑧ 化作 あらゆる有為法
(因縁集合所成)
表2 MASBh における解釈
比喩 解釈 A
Ⓐ 幻 ◎六内処
(6種の感官)
Ⓒ 陽炎 ◎心と心所
Ⓑ 夢 ◎六外処
(6種の対象)
Ⓔ 影 六外処
(6種の対象)
Ⓕ 谺 ◎仏所説の法
Ⓓ 鏡像 ◎六内処
(過去の業の果)
Ⓖ 水月 三味に結び付いた法
Ⓗ 化作 意志を持ち再び生存の 世界に生まれること (上掲表中の で囲んだものは、各解釈独自のものと見なせるものである)
一七五
結びついた法」は、
APrDh
Ṭの【解釈A
】( 表1−1 )及びMSgBh
の第2解釈( 表4 )と近い。( 表2 については、比喩の順を 表1−2 に合わせた。)
カマラシーラの
APrDh
Ṭに見られる、後得知の説明に使用される8種の比喩解 釈の内容及びその解釈方法は、彼自身の他の著作には確認されず、また、中観派 に属するとされる諸論師の著作の中にも確認できなかったが、瑜伽行唯識派に属 するヴァスバンドゥのMSgBh
及びMSABh
のそれと高い相関関係にあると指摘 できる。ただし現段階において、カマラシーラがヴァスバンドゥの比喩解釈内容 及びその方法を直接的に参照したか否かの断定はできない。しかし、その特定を 進める上での重要な示唆になり得ると考える。3. 4.比喩解釈の相関性から見る思想的背景
さて、前節までに比喩解釈内容とその方法に関する相関性を確認してきたが、
両者の思想的立場にも注意する必要があろう。それぞれの論書において、8種の 比喩が使用される文脈に注目するならば、注意すべき点は明らかである。まずカ マラシーラについて言えば、二諦のうちの世俗諦それ自体、あるいは世俗のレ ヴェルの事物に言及する文脈での使用が確認できる。一方、ヴァスバンドゥの方 は、三性説のうち、依他起性を論じる文脈で使用されている。この中観派の二諦 説と瑜伽行唯識派の三性説は、各学派においてそれぞれ中心的な教理である。両 学派は、互いのその教理に対して、屡々批判的な見解を示している。
では仮にカマラシーラが
APrDh
Ṭにおいて8種の比喩解釈を行う際、ヴァスバ ンドゥのそれを参照したとするならば、どのように反応したであろうか。以下に 2つの言明を引用し、少しく検討を加えたいと思う。 資料11 は、瑜伽行唯識派 が自らの三性説の典拠とする『解深密経』(Sandhinirmocanas tra
)の解釈を巡り、カマラシーラが自らの見解を示す箇所である。
資料11
Māl D 150a3-4, P 162b5-7 : dbu ma pa rnams kyang ngo bo nyid gsum rnam par gzhag*1 pa khas mi len pa ni ma yin te / gzhan du na mthong ba la sogs pa dang gal ba ji ltar spongs par gyur / de la ngos po ma brtags na grags ji ltar snang ba sgyu ma bzhin du brten nas byung ba gang yin pa de ni gzhag gyi dbang gi ngo bo nyid yin no //
<note>*1 bzhag P.
中観派も三性の設定を認めないということはない。もしそうでなければ(三性の設定を 認めないならば)、直接知覚等[の妥当な認識根拠]と矛盾するものを、どうして捨て 去れようか。それら[三性]のうち、およそ考察されない限りで承認されていて、顕現 するままのもので、幻のごとく、[諸因縁に]依拠して生起する事物がある場合、それ が依他起性である。(45)
ここは、中観派が一切法無自性を説くことに対して、瑜伽行唯識派が『解深密 経』を典拠に批判を行い、さらにカマラシーラが反駁する箇所となる。瑜伽行唯
一七四
識派からの批判は、次の通りである。『解深密経』が示す三性(事物に認められ る3種の在り方)それぞれが無自性であること(三無自性)こそが一切法無自性 であり、中観派の説く一切法無自性の典拠となる経典は無い、ゆえに中観派の説 は教説と合致しない、というものである。それに対してカマラシーラは、上記箇 所で、三性説に対する一定の評価を示し、回答している。すなわち、三性説は世 俗の事物に対して実在性や常住性を付託して捉えてしまう愚かな人々を導く上で は確かに有効であり、その限りで三性説を述べること自体を否定はしないが(46)、 もしそれら三性に実在性を認めるならば過ちである(47)、と答えている。
カマラシーラは瑜伽行唯識派の三性説及び三無自性説に一定の理解を示してい ることになるが、この箇所で注目したい点は、後半部分で示される依他起性を規 定する文言である。次の 資料12 は、カマラシーラの師シャーンタラクシタの 言葉だが、彼ら後期中観派に特徴的な世俗諦の規定が示される箇所である。
資料12 MA 202, 7-10:
ma brtags gcig bu i nyams dga zhing // skye dang jig pa i chos can pa //
don byed pa dag nus rnams kyis // rang bzhin kun rdzob pa yin rtogs // MAK v. 64 //
考察されない限り好ましく、生起し消滅するという性質を有し、効果的作用の能力を自 性とするものが、世俗的なものであると理解される。
先の 資料11 と比較すると、両者に共通した用語や理解が確認されるであろ う。特に注意されるべきは、「考察されない限りで承認される」(
ma brtags na grags
)あるいは「考察されない限り好ましい」(ma brtags gcig bu i nyams dga
)と いう語である。彼ら後期中観派の二諦説は、世俗諦を正世俗(*tathyasa
ṃv
ṛtti
)と 邪世俗(*mithy
āsa
ṃv
ṛtti,
単なる言語上のもの(48))とに分類する点で特徴的であ るが、先の語は、特に正世俗を定義する際に決まって使用される。ここで言われる「考察」(
brtags, *vic
āra
)とは、真実に関する考察を意味する。中観派にとっての真実とは、諸事物の空性や無自性性となるが、それらは勝義的 観点から考察した場合に認識される事柄となる。よって、先の語は、勝義的観点 からの空性等という真理に関する考察をしない限りで認められるということであ り、換言すれば、世俗的なレヴェルにおいてはその存在が認められることを含意 する。ではその存在の在り方とは何かと言えば、因果的存在(生起と消滅が認め られる)であり、効果的作用の能力を有することとなる。後期中観派は、そうし た事物を正世俗と呼んだのである(49)。
以上を踏まえると、上記 資料11 においてカマラシーラが、瑜伽行唯識派の 三性説を一定程度認めると言った場合、それを自らの二諦説という教理の中に収 めようとし、さらに依他起性を自らの正世俗に相当すると理解した、あるいは依 他起性を正世俗と言い換えたと考えることができる。
一七三
4.まとめ
本稿では、まず、後期中観派のカマラシーラが
APrDh
に対する註釈書APrDh
Ṭ において提示した後得知の説明に使用される8種の比喩に対する解釈の整理を行 い、その解釈内容及び解釈方法の思想史的背景を検討した。現段階において、そ の特徴的な解釈の淵源については、彼自身の著作を含め、中観派内の文献に見出 すことは難しい。一方で、インド大乗仏教において中観派と双璧を為す瑜伽行唯 識派に属するヴァスバンドゥのMSABh
及びMSgBh
には、カマラシーラの解釈 と高い相関性を示す見解が確認された。そうした解釈方法・内容に関する相関性の確認を踏まえ、両者の解釈が提示さ れる文脈で論じられる思想面に着目した場合、中観派の二諦説と瑜伽行唯識派の 三性説という両学派を代表する教理解釈の問題が、比喩解釈の相関性の背景にあ ると指摘できると考える。本稿では、後期中観派に属し二諦説を主張するカマラ シーラが瑜伽行唯識派と対峙した際に、彼らの三性説に一定の評価を示しつつ も、それを自らの体系(二諦説)に収めようとした点を確認し、そして、今回 扱った比喩に関連しては、特に依他起性について、それを正世俗と言い換えて論 じている点について、それを規定する文言に注意を払い確認した。
本稿で扱った比喩解釈における相関性には、こうした中観派と瑜伽行唯識派双 方の二諦説と三性説という教理をめぐる思想的交流の一端が現われていると考え られる(50)。ただし、ヴァスバンドゥとカマラシーラの比喩解釈は完全に一致し ているわけではない。両者の間に見られる差異がどこから生じているのか、その 淵源について、両者の間に位置づけられる論書群についても、その内的な思想面 での差異に注意を払いつつ、一層調査を進めていきたい。
本稿は2018年度早稲田大学特定課題(基礎助成)・2018K-059の成果の一部である。
略号・参考文献 APrDh Avikalpaprave
śadh
āra
ṇī. See
松田[1996]APrDh
C1Chinese version
1of APrDh.
『入無分別法門経』施護訳. T no.
654. APrDh
C2Chinese version
2of APrDh.
『入無分別総持経』訳者不明.敦煌写本.(
Cf. Ueyama, Eastman and Broughton
[1983].
漢文テキストは,上山[1990](増補版[2012])に再録.上山[2012]を参照)
APrDh
TTibetan version of APrDh. Phags pa rnam par mi rtog par jug pa zhes bya ba i gzungs. D no.
142, P no.
810.
一七二
APrDh
Ṭ*Avikalpaprave
śadh
āra
ṇīṭīk
ā(Kamala
śīla
). D no.
4000, P no.
5501. BBh Bodhisattvabh
ūmi.
BBh
TBodhisattvabh
ūmi. See
高橋[2005].
BBh
WBodhisattvabh
ūmi. Bodhisattvabh mi: A Statement of whole Course of the Bodhisattva
(Being fifteenth section of Yog c rabh mi
). Ed. Unrai Wogihara.
Tokyo: Sankibo Buddhist Book Store,
1971.
BhKr I Bh
āvan
ākrama I
(Kamala
śīla
). Minor Buddhist Texts, Part II, First Bh van krama of Kamala
śla, Sanskrit and Tibetan Texts with Introdu- ction and English Summary. Ed. Giuseppe Tucci. Serie Orientale Roma IX,
2. Roma: Istituto Italiano per il Medio ed Estremo Oriente,
1958. BhKr III Bh
āvan
ākrama III
(Kamala
śīla
). Minor Buddhist Texts, Part III, Third
Bh van krama. Ed. Giuseppe Tucci. Serie Orientale Roma XLIII.
Roma: Istituto Italiano per il Medio ed Estremo Oriente,
1971. C
ŚCatu
ḥśataka
(Āryadeva
). See Tillemans
[2008].
C
ŚV Catu
ḥśatakav
ṛtti
(Candrak
īrti
). See Tillemans
[2008]. D sDe dge edition.
DhPr Dharmottaraprad
īpa
(Durvekami
śra
). Pa
ṇḍita Durveka Mi
śra s Dha- rmottaraprad pa.
[Being a sub-commentary on Dharmottara s Ny ya- bindu
ṭk , a commentary on Dharmak rti s Ny yabindu
]. Ed. Pa
ṇḍita Dalsukhbhai Malvania. Tibetan Sanskrit Works Series Vol.
2. Patna:
Kashiprasad Jayaswal Research Institute,
1955.
MA *Madhyamak
āla
ṃk
āra
(Śāntarak
ṣita
). Madhyamak la
ṃk ra of
Ś- ntarak
ṣita with his own commentary or V
ṛtti and with the subcommentary or Pañjik of Kamala
śla. Ed. Masamichi Ichigo. Kyoto: Buneido
1985. MAV *Madhyamak
āla
ṃk
ārav
ṛtti
(Śāntarak
ṣita
). See MA.
MAP *Madhyamak
āla
ṃk
ārapañjik
ā(Kamala
śīla
). See MA.
M
āl *Madhyamak
āloka
(Kamala
śīla
). D no.
3888, P no.
5288.
MMK M
ūlamadhyamakak
ārik
ā(N
āg
ārjuna
)『中论颂. :
梵藏汉合校・导读・译注』.
Ed.
叶少勇.
梵藏汉佛典丛书(段晴、释了意主编)1.上 海:中西書局,2011.MSg *Mah
āy
ānasa
ṃgraha
(Maitreya or Asa
ṅga
). See
長尾[1982].
MSgU *Mah
āy
ānasa
ṃgrahopanibandhana
(Asvabh
āva
). D no.
4051, P no.
5552
.
MSgBh *Mah
āy
ānasa
ṃgrahabh
āṣya
(Vasubandhu
). D no.
4050, P no.
5551. MSgBh
C1Chinese version
1of MSBh.
『摂大乗論釈』(真諦訳). T no.
1595.
一七一