はじめに
フランスの映画批評家アンドレ・バザン(
André Bazin,
1918-
58)にとって、映 画史へのオーソン・ウェルズ(Orson Welles,
1915-
85)の登場は「革命」と呼ぶ にふさわしい出来事であった(OW
15)(1)。バザンは、たしかにウェルズの先駆 者としてジャン・ルノワールの名前を挙げているが、それでもウェルズが「映 画言語の進化」における「新しい時代の始まり」を告げる存在であると認識し ていたのである(QC
144 / 325)。では、「現代の映画研究の異論の余地なき父」(
Elsaesser
3)とまでいわれるバザンは、ウェルズ作品のいったい何にそれほどの衝撃を受けたのか。
この問いに対する従来の解答は、ディープ・フォーカス(2)とロング・テイク と、それらが達成するリアリズムに見出されてきた。とりわけ、画面の深さの探 求が「劇的空間の、またもちろんその時間の、連続性の尊重を前提とする」(Q
C
142 / 322)というバザンの文章は、これらの技法を用いてありのままの現実を カメラで捉えることが彼のいうリアリズムであると後の研究者たちに解させて きた。たとえばジェームズ・ネアモーは、自身のウェルズ論においてディープ・フォーカスを取り上げる際にバザンに言及し、「彼が『現実』[という語]によっ て意味するのは、カメラの前に広がっておりいかなる操作もされずに現象する世 界である」(
Naremore
34)と述べている。また、ウェルズの『市民ケーン』(Citizen
Kane,
1941)をめぐる議論にバザンが「とてつもない影響」(Wollen
249)を与えたと書くピーター・ウォーレンは、その要点が「ディープ・フォーカスとシーク エンス・ショットの使用」にあるといい、何らかの手が加えられることのない
「時空間の均質性」がそのリアリズム概念の鍵であると主張している(250
-
251)。しかし、ここで新たな疑問が生じてくる。ディープ・フォーカスとロング・テ イクさえ採用すれば、あらゆる映画監督はリアリストとなれるのだろうか。この 二つの技法をバザンのリアリズム論のある種の規範とするかぎり、こうした疑念 を払拭することはできないように思われる。実際、バザンの議論はそのような単
スクリーンのさらに奥へのまなざし
――アンドレ・バザンによるオーソン・ウェルズ論――
川 㟢 佳 哉
純なものとして受け入れられてきたのであり、まさにそのために後の映画理論家 たちからの批判を招き寄せる結果となった。1970年代、映画装置論の理論家たち によってバザンはナイーヴなリアリストというレッテルを貼られることになる。
映画の現実感をイデオロギーの効果として認識するものたちにとって、映画を現 実と同一視しているかのようなバザンの議論は、そのイデオロギー的な効果を受 け入れるものとして理解されたのである。
このようなバザンに対する見解は装置論の流行が去った後も長く続いたが、そ れに異議を唱える動きが近年の英語圏を中心に活発化している。本稿は、それら のバザン研究の成果に基づきつつも、そこで十分に論じきれていないバザンによ るウェルズ論を取り上げる。主に対象とするのは、そのなかでもおそらくもっと も参照されることが多い『市民ケーン』と『偉大なるアンバーソン家の人々』(
The
Magnificent Ambersons,
1942)をめぐる文章である。結論を先に述べれば、バザンが称揚したのはディープ・フォーカスやロング・テイクといった技法それ自体で はなく、これらを組み込むことでスクリーン上のイメージとそこには「見えない もの」との間に「緊張」関係を形成するウェルズの演出であった。本稿の最終的 な目的は、こうしたバザンの論点を明らかにした上で、改めてそのリアリズム論 の内実を批判的に検討し、今後のウェルズ研究の進むべき方向性を提示すること である。
1.ナイーヴなリアリストという評価からの転回
2013年の
Paragraph
のバザン特集の序論において、ダグラス・スミスはこれま でバザン研究を妨げてきた要因をいくつか挙げている。その一つがバザンの概念 を単純化して捉える「バザン主義(Bazinism
)」であり、それはたとえば彼の主 張を「メディウムとしての映画は写真による現実の再生産にその基盤をおいてい る」といった考えに還元することである(Smith
1)。スミスによれば、こうした 理解は後のバザンに対する批判を生じさせた。精神分析学やマルクス主義に影響 を受けた1970年代の映画理論が推進したのは、「映画は現実を再生産するのでは なく、幻想やイデオロギーとともに記号やショットからなる構築物や表象のかた ちをとる」という見解だ(2)。リアリズムについて論じるバザンは、この潮流 からの攻撃の的となったのである。トマス・エルセサーは次のように要約してい る。死後すぐに、彼の映画理論は
Positif
において「悪しき存在論」や「カトリッ ク的」として非難された。それから、彼は第2世代の映画理論家たち(フラ ンスではクリスチャン・メッツ、ジャン=
ルイ・コモリ、ジャン=
ルイ・ボードリー、イギリスではピーター・ウォーレン、スティーヴン・ヒース、ロー ラ・マルヴィ)による大規模な攻撃に晒された。[…]その結果、バザンの リアリズムはナイーヴに真実を主張するものであり、スクリーン上のものと 世界にあるものとの対応(
correspondence
)を告げる明らかに誤った、ある いは「イデオロギー的な」立場にあると理解された。(Elsaesser
9)こうした理解は長く続いたが、死後50年以上が経過して新たなバザン論が次々 と出現するにつれて、上記のような批判への反論がなされるようになった。たと えば、ダニエル・モーガンの2006年の論文は、従来のバザン解釈=「標準的な読 み」を批判の俎上にあげていく(
Morgan
“Rethinking Bazin.
”454)。特に問題視 されるのは、エルセサーも言及していた「対応」関係をバザンの議論に見出すこ とである。「写真映像の存在論」がバザンの映画理論の基盤を形成していると考 えるものたちは、写真映像と現実との間に(たとえばインデックスなどの)「対 応」関係を前提としてきた。しかしモーガンによれば、バザンはそのような「対 応」関係を持たない映画をもリアリズム的な観点から評価しており、その議論を「写真映像の存在論」に押し込めるのは無理がある。バザンのリアリズム論は、
「存在論」と映画スタイルをめぐる「美学」との関係において考察されるべきで あるというのがモーガンの主張だ。
モーガンはバザンのリアリズム論をインデックス性に還元する議論を批判して いるが、トム・ガニングもまた、「対応説(
correspondence theory
)」やインデック スという観点からバザンを読解する傾向に対して強い警戒心を示している。ピー ター・ウォーレンのバザン論以降、「写真映像の存在論」をインデックスという 観点から読み解く傾向が普及したが、ガニングによれば、「パースの用語によっ てバザンをこのように読むことは、バザンによるリアリズムについての美学的な 理論が持つ十全たる複雑さを損なうことになる」(Gunning
32-
33)。モーガンと ガニングの双方が問題視するのは、インデックス論が「記号論」的な観点からバ ザンの議論を解釈しているために、「写真は、自然の創造物をそれとは別の創造 物で代用させるのではなく、実際に自然の創造物の中に加わって、その一部とな るのである」(QC
18 / 191)といったバザンの文章が理解できないためである。ここでバザンは「指示対象の代理を果たすという記号の第一の特性を写真に否定 している」のであり、それは記号論的には説明がつかない事態なのだ(
Gunning
33)。モーガンとガニングの議論を概観したが、これらの論考(やその他の多くのバ ザン論)においてもバザンのリアリズム論について何らかの了解があるわけでは なく、未だ様々な読解がその可能性を探っているのが現状である。しかし、バザ
ンのリアリズム論がいかなるものであるかについては多様な見解があるものの、
いかなるものでないかについてはある程度共有された認識があるように思われ る。彼らの多くは、バザンが映画と現実との間に「対応」関係を見出していたと 考えることに対して厳しく批判している。これまでバザンがナイーヴに映画と現 実との「対応」を論じていると理解されてきたのに対して、新たなバザン研究は それとは異なるバザン像を描き出すことを試みているのである。
では、これらの議論のどこにオーソン・ウェルズを位置づけられるだろうか。
ここでバザンによるウェルズ論が重要だと思われるのは、その要諦をディープ・
フォーカスとロング・テイクに見出す従来の言説が、これらの技法を現実の尊重 という観点からしか捉えていない点でまさに映画と現実との「対応」という考え 方に囚われているからだ。バザンの評価がここ数年で大きく変わったとすれば、
彼のウェルズ論もまた新たな視点から論じられるべきである。したがって次節で は、バザンのウェルズ論が現在どのように理解されているかを見てみたい。
2.「見た目」と「見えないもの」
ダニエル・モーガンは、すでに言及した論文に加えて2012年に出版された『バ ザンを開く』(
Oxford UP
)とParagraph
の特集の両方に寄稿しており、後者の論 文「バザンのモダニズム」ではバザンによるウェルズ論の読解が試みられている。したがってまずは、新たなバザン論者としてのモーガンがいかなる議論を展開し ているかを確認したい。
その中心で取り上げられるのは、『市民ケーン』におけるスーザンの自殺未遂 の場面についてバザンが論じた箇所である。この場面では、服薬自殺を試みる スーザンがベッドで寝ており、ケーンと召使いが鍵のかかったドアを開けようと している。画面は、手前にコップ、その向こうにベッドで寝ているスーザン、そ して奥にはケーンたちが外から叩くドアを配しており、それらすべてが深さを 保ったままはっきりと映し出されている。これまで、この画面をリアリズムとい う観点から賞賛してきたバザンに対して多くの批判がなされてきた。その理由 は、ワン・ショットで撮られたかに見えるこの画面が実際にはそうではなく、カ メラ内のマット合成によるものであるからだ(3)。すなわち、ここでは撮影前の 現実の空間と時間の連続性などまったく尊重されておらず、したがってバザンの 議論は破綻している、という批判である。
この批判に対してモーガンは、バザンが問題にしていたのがカメラの前に手つ かずの現実が在ったか否かという点ではなく、この画面が現実の「印象」を観客 に与えていること、そしてその「イメージの見た目」が「現実の存在論的な曖昧 さ」をもたらすことだと主張する(
Morgan
“Bazin ’ s Modernism.
”21)。モーガンによれば、この画面は「写真映像の存在論」に「決定」されているのではなく、
たとえ合成であろうともその「見た目(
appearance
)」の「印象」によってこの存 在論を「承認(acknowledgement
)」しており、映画スタイルによる現実のこうし た「承認」にこそバザンのリアリズム論の核がある。このようにモーガンは、バ ザンの存在論を柔軟に捉えることで、従来の批判からそのリアリズム論を擁護す ることを試みている。しかしここで思い出したいのは、「写真映像の存在論」において見た目が現実 に忠実なだけである=現実の印象を与えるイメージが「偽のリアリズム(
pseudo-
réalisme
)」と呼ばれていたことである(QC
13 / 187)。ダドリー・アンドリューが指摘するように、この「偽のリアリズム」に代えてバザンが繰り返し主張して いるのは、「映画によって獲得される現実がまさにそのイメージのなかには見え ないもの(
not visible
)である」ということだ(Andrew
8)。アンドリューによれば、「痕跡」などについて論じるバザンは「不在(
absence
)についての理論家」(9)でもあり、「長年、バザンのナイーヴなリアリズムは見えるものを現実として捉 えているといわれてきた」(10)が、バザンの映画理論はスクリーン上のイメー ジと同程度(あるいはそれ以上)に「不在」や「見えないもの」を問題にしてき た(4)。この「不在についての理論家」としてのバザンが端的に現れているのは
「マスク」としてのスクリーンという概念だろう。
スクリーンは、視線に現実を見せることだけでなく、視線に現実を隠すこと をも機能とするマスクなのだ。そしてスクリーンは、それが見せているも のの価値を、それが隠しているものから引き出すのである。(
Jean Renoir
80-
81 / 102)こうした観点からなされるアンドリューの議論において、しかしウェルズ作品 における「不在」が問題となることはない。アンドリューのバザン論は、ルノワー ルとウェルズの名前を挙げて、「ルノワールの横方向へのヴィジョンはフレーム の外を求め、オーソン・ウェルズの後方への構図はイメージの最も手前と最も遠 い層を特権化する」と述べている(
Andrew
83)。つまりここでは、バザンがルノ ワールについてはフレームの外=「不在」をそのリアリズムの主要な要素と認め ていたと論じる一方で、ウェルズに関しては「イメージの手前と奥」という「見 えるもの」しか問題にしていなかったと考えられているのである。実際、バザンのウェルズ論に言及する現在の研究は、この「見えるもの」、す なわちウェルズ作品の過剰な可視性がバザンの論点であったと強調する傾向にあ るように思われる。『バザンを開く』の編者の一人であるエルヴェ・ジュベール=
ローランサンは、「バザンがウェルズ独自のスタイルに好んだものは、まさに二 つのものの同時的な出現(
appearance
)である」と述べ、バザンが反応したもの が画面内の要素の過剰であるとまず指摘している(Joubert-Laurencin
204)。その 上で、スーザンの自殺未遂の場面を合成画面とは見抜けなかったバザンについ て、「それでも、このことは彼[ =バザン]のテクストがすべてを見て0 0 0 0 0 0、理解し、感じることを妨げはしなかった」と主張される(強調引用者)。こうした議論は、
現実の尊重という単純な主張を回避する代わりに、過剰に可視的なその画面の内 に「見えるもの」=「見た目」のみをバザンが論じていたと強調している(「見 た目」の話であるならば、撮影前の現実は問題とならない)。
しかし、バザンは本当に画面に「見えるもの」についてのみ論じていたのだろ うか。バザンはルノワールとは異なるかたちでウェルズの映画にも「不在」を 探っており、それこそが彼をしてこの二人の映画作家を同列で語らせていたので はないだろうか。次節では、「不在についての理論家」としてのバザンを念頭に 置きつつ、改めて彼のウェルズ論を追っていきたい。
3.二つのアクションとその序列
まずは、バザンがその革新性を論じた『偉大なるアンバーソン家の人々』の主 人公ジョージ(ティム・ホルト)と叔母のファニー(アグネス・ムーアヘッド)
がキッチンで会話をする場面を見てみたい。この場面では、ユージン・モーガ ン(ジョセフ・コットン)という男に恋するファニーが、その想いを隠したまま 彼の近況をジョージから探り出そうとしており、横に並んで会話をする二人の姿 が正面からロング・テイクで捉えられている。バザンは、カメラがほとんど動 くことなく撮影されたこの場面を「現実のアクション(
l ’ action réelle
)」と「口実 としてのアクション(l ’ action-prétexte
)」に区別する。「現実のアクション」とは、「(ユージン・モーガンをひそかに愛している)叔母ファニーの抑圧された不安」
であり、彼女が「無関心を装いつつジョージと彼の母親がユージンと一緒に旅行 をしたのかどうか探ろうとする」際にみられるものだ。「口実としてのアクショ ン」は苺ケーキを貪り続ける「ジョージの子供っぽい食事」であるが、スクリー ンで目立つこの行為は「重要ではない」と論じられる。バザンは、もしこの場面 が古典的な仕方で演出された場合、ショットが複数に分けられてしまい、「ファ ニーの感情を明かすわずかな語は[彼女の顔の]クロースアップによって強調さ れただろう」と批判的に述べている。(
OW
60-
61)。ここでバザンがクロースアップを批判しているのはなぜなのか。また、なぜ「抑 圧された」ファニーの感情を「現実のアクション」と呼び、これをより目立つ アクションであるジョージの食事(=「口実としてのアクション」)の上位に位
置づけているのか。これらの問いに答えるためにも、バザンがウィリアム・ワイ ラーの諸作品について論じた論考「ウィリアム・ワイラー、または演出のジャン セニスト」を参照したい。なぜなら、そこでは『偉大なるアンバーソン家の人々』
に対する分析と同型の議論がより明白なかたちで展開されているからである。
バザンは、まず『偽りの花園』(
Little Foxes,
1941)を取り上げ、ハーバート・マーシャル演じる夫が心臓発作をおこすクライマックスの場面を分析する。画面 は、発作を起こした夫の薬を取りにいくことを拒否する彼の妻=ベティ・デイ ヴィスを中心に置き、手前にいたマーシャルが薬のある二階へと続く後方の階段 によろめきつつ向かう姿をワン・ショットで映し出す。ここでバザンは、「彼女
[=デイヴィス]の恐るべき不動の姿が完全な明白さを示すのは、マーシャルが まず前景で右手からスクリーンの枠の外に出て、それから後景で左手からふたた びスクリーンの枠の外に出るという、二重の退場のおかげによってなのである」
(Q
C
153 / 332)と述べ、階段へと向かうマーシャルが二度にわたってフレーム の外に出ることに注目している。さらに、彼が画面の奥の階段に上がるときのイ メージが焦点をあわされずにぼやけたものであることが指摘されるが、「その結 果、マーシャルが階段を落ちて死に至るところが、観客の目にははっきりと見分 けられない」(153-
4 / 333)と論じられる(5)。これら「画面の横手における彼の姿の二度にわたる消滅と階段への不完全な焦 点合わせ」(165 / 344)に注目するバザンによれば、ここで「驚くべき極度の緊 張」とともに「劇的スペクトル」を発生させているのは、マーシャルのアクショ ンが見えなくなること、あるいは見えにくいことである。興味深いのは、『偉大 なるアンバーソン家の人々』のアクションを二つ(「現実のアクション」と「口 実としてのアクション」)に分けたときと同様に、バザンがこの画面のアクショ ンを二つの「極(
pôle
)」、すなわち不動のデイヴィスを第一の極に、その周りを 歩いていく(観客にはほとんど見ることのできない)マーシャルを第二の極に区 別している点である。アクションを二極に分けるこの発想は、続く『我等の生涯 の最良の年』(The Best Years of Our Lives,
1946)の分析にも見られる。バザンが取 り上げるある画面において、前景にはピアノを弾く男と彼を見つめるフレデリッ ク・マーチが、後景には電話室で話すダナ・アンドリュースが「二つの劇的な極」として導入される(166 / 345)。そしてバザンは、前景のより目立つピアノの演 奏、彼の言葉で言えば「スクリーン上では特権的な位置と面積とを占めている」
アクションを「二次的(
secondaire
)」なものに分類し、後景で「ほとんど内密に 展開する」アンドリュースの電話を「真のアクション(L ’ action véritable
)」と呼 んでいる。このように、両作品の分析においてバザンはワン・ショット内のアクションを
二つに区別するが、そこではそれらの間に序列が設けられる。そして、フレーム の外に出たりフォーカスが合わされなかったりする身体や、遠くにいるためにほ とんど見ることのできないアクションは、場面の意味を担うより重要なものとし て扱われているのである。先に言及した「真のアクション」は「現実のアクショ ン(
l ’ action réelle
)」とも言い換えられるが(167 / 346)、それはより目立つアク ション=「陽動(diversion
)のアクション」の上位に置かれている。画面に「緊張」が走るのは、これら「重要性の同じでない二つのアクション」が二極を形成する ときである(168 / 347)。
だとすれば、同じくそのアクションが二つに分けられる『偉大なるアンバーソ ン家の人々』におけるキッチンの場面もまた、上位にあるとされる「現実のアク ション」、つまりファニーの抑圧された感情の見えにくさが論点となっているの は明らかである。クロースアップが批判されていたのは、この手法が彼女の秘め られた感情を可視化する、すなわち「見えるもの」にしてしまうからだろう。も ちろん、ここでバザンが論じているのは感情というそれ自体見えないものであ り、見える/見えないという問題は比喩的な意味しか持っていない。しかし、ワ イラー論を参照することで明らかになったのは、比喩的な意味にせよ文字通りに せよ、バザンの映画批評において「見えない」アクションが極めて重要なものと して存在しており、そこにリアリズムを達成するための鍵が発見されていること だ(6)。バザンは、感情を抑圧していたファニーが会話の最中にいきなりそれを 爆発させる瞬間を場面のクライマックスと見ているが、そこに至るまでを「堪え 難い緊張」と名指している(
OW
61)。ワイラー作品における「緊張」が繰り返 し指摘されていたように、バザンはこの場面でも見えないアクション=「現実の アクション」がスクリーン上のイメージと二極を形成することで生じる「緊張」関係を見出しているのである。
4.スクリーンのさらに奥へのまなざし
バザンのこうした議論を踏まえた上で、『市民ケーン』のスーザンの自殺未遂 の場面について論じられた文章を見てみよう。バザンは次のようにいっている。
この私的で寂しい空間の遥か後景にはドアがあり、レンズの歪んだ視覚に よってさらにその距離が増されている。そして、ドアの背後0 0からはノックが している。[…]場面の劇的な構造は二つの音の層の間の区別に設けられて いる。近くではスーザンの息切れの音、ドアの背後からは彼女の夫のノック。
これら二極の間に緊張が確立されており、深い画面によって互いから距離を 保っている。(
OW
68、強調原文)ドアの「背後(
derrière
)」という語に振られた強調はバザン自身によるもので ある。ここでバザンは、ノックの音に注意を向けることによってドアの「背後」、すなわちスクリーンからは「不在」である「見えない」アクションを強調し、そ れが前景のイメージとともに「二極」を形成することで映画に「緊張」をもたら すと論じている。だとすれば、ここで問題となっているのは撮影前の現実が尊重 されているか否かではなく、ワイラー作品や『偉大なるアンバーソン家の人々』
について論じられていたときと同様に、スクリーン上のイメージとそこには映っ ていないものとのこの「緊張」関係を感じ取ることである(7)。
ウェルズ作品の画面の深さについて、バザンはそれが広角レンズを使用してい るために歪んだ=デフォルメされた画面であることを強調し、ある箇所ではそれ を現実が引き延ばされた「ゴムバンド(
bande élastique
)」のようなものにたとえ ている(QC
160 / 339)。この発言はバザンのリアリズム論が撮影前の現実の尊 重などとはまったく異なることを証立てているが、それ以上に興味深いのは、こ のメタファーが彼の文章において繰り返し強調されている二極間の「緊張」関係 を的確に言い表している点である。すなわち、ウェルズのデフォルメされた深い 画面は、ワイラーのように単に二つの極を確立するだけではなく、「ゴムバンド」や「ぴんと張られたパチンコ」のようにこれらの極を異様なかたちで引き延ばし、
その「緊張」状態を極限まで高めているのである。ウェルズの歪んだ画面が後ろ へと「遠ざかってゆくように見える遠近法」を利用していると述べられるように、
ここで重要なのは、限界まで後方に画面を引き延ばすことでまるで糸が切れんば かりに二極を張りつめさせることである。
ここから明らかなのは、バザンのウェルズ論の要点がディープ・フォーカスや ロング・テイクといった個々の技法にあるのではなく、これらの技法を用いてス クリーン上のイメージと「見えないもの」との「緊張」関係を形成すること、そ してそれを劇的に高めること、という監督の演出にあるということだ。バザンは ある論考で、ウェルズの映画美学上の達成として「観客に場面のクライマックス となる出来事を見せない」点を挙げている(“
L ’ apport d ’ Orson Welles.
”192)。バ ザンのウェルズ論に対する従来の解釈に反するようなこの発言は、しかし本稿の 文脈から見た場合には決定的に重要である。バザンはさらに、「ウェルズ[の作 品]においては、映画全体が私たちの手中から部分的に引き離され、アクション は不可侵(inaccessible
)の縁に覆われるようなものとなる」と述べているが、こ うした演出を古典的なデクパージュによる「省略(ellipse
)」の手法と勘違いしな いように注意を促している。バザンの議論においてウェルズの演出は古典的なデ クパージュと繰り返し対比されているが、それは彼にとってデクパージュの特徴 が「よりよく見ることを可能にする」(QC
140 / 319)点にあるのに対して、ウェルズの特徴はこのように観客に出来事を「見せない」ことにあるのであり、それ こそが「ウェルズの芸術の最大の秘密」(“
L ’ apport d ’ Orson Welles.
”192-
193)で あるからだ(8)。本稿がこれまで見てきた『偉大なるアンバーソン家の人々』や『市民ケーン』
に対する彼の分析は、こうした観点からなされたものといえるだろう。また、こ こまで見てきたバザンの議論、とりわけドアの「背後」に対する強調が、「それ が見せているものの価値を、それが隠しているものから引き出す」といわれる
「マスク」としてのスクリーンとまさに合致するものであることは明らかだ。こ れまで頻繁に取り上げられてきたバザンの『市民ケーン』論は、このようにドア の「背後」という「見えないもの」、すなわちスクリーンのさらに奥へのまなざ しに支えられているのである。
結びにかえて
本稿は、これまでバザンのウェルズ論が現実の尊重や画面の「見た目」のリア リズムを主張していると考えられてきたのに対して、「見えないもの」がその議 論において決定的に重要であることを明らかにした(9)。ここでは最後に、こう したバザンの議論を改めて批判的に検討したい。
実は、バザンのウェルズ本において詳細なショットの分析が施されているのは ほとんど上で取り上げた二つの場面のみであり、他にもウェルズが監督したシェ イクスピア作品への賞賛や犯罪映画に対する興味深い指摘などがあるものの、そ れらはわずかな言及にとどまっている。その意味で、後期の作品は初期ほど重要 なものとして扱われていないといわざるをえないだろう。その理由はリアリズム という問題にあると思われる。バザンの議論は現実の尊重という単純な主張では ないとしても、それがリアリズムを中心にするかぎり、そうした観点と断片化し たモンタージュが前景化するウェルズの後の作品群は明らかに齟齬を来してい る。『アーカディン氏』(
Mr. Arkadin,
1955)を取り上げた文章に至ってはその大 部分がエリック・ロメールの批評からの引用となっているが、ここにバザンの ウェルズ論の破綻の兆しを見出すことは可能だろう。バザンは、画面から看取し難いアクションに「現実」の語を与え、スーザンの 自殺未遂の場面には「現実の存在論的な曖昧さ」を見出していた(
OW
69)。し かし、問題はまさに「不在」のものに「現実」を探るバザンのこのような態度に あるのではないだろうか。バザンの「マスク」という概念を参照するジルベルト・ペレスは、「アンドレ・バザン以上にイメージの境界を超える映画空間の拡張を 的確に捉えたものはいない」と賞賛しているが、他方で彼がそうした画面外の空 間を「現実の空間と本質的には同じものと捉えていた」点を厳しく批判してい
る(
Perez
26)。バザンは映画と現実との「対応」を主張していたわけではないが、それでもスクリーンの外に「現実」を希求していたのである。しかし、映画にお ける「不在」は「映画的表象の慣習なのである」と述べるペレスによれば、「オフ・
スクリーンの空間は慣習、フィクション、そして演劇の舞台と同程度に構築され たもの」だ。フレームの外は、そこに行けば現実が広がっているような時空間で はなく、観客がその「慣習(
convention
)」に同意する限りで存在し得る表象の空 間なのである(映画を見る際の私たちは、フレームの外にたとえば機材やスタッ フなどの存在を意識せず、そこもまた物語空間の延長=「表象」として「慣習的」に了解するのであり、そうでなければ物語映画など成立しないだろう)。
スーザンの自殺未遂の場面をめぐるバザンの議論が批判されるべきは、そこで 彼が撮影前の現実の尊重を主張していたからではなく(モーガンも述べていたよ うにバザンの論点はそこにない)、そこもまた「表象」としてあるはずのドアの
「背後」に「現実」を求めているからである。言い換えるならば、彼の過失は合 成画面を見抜けなかったことではなく、合成画面を作り出してまでウェルズが探 求したものへの問いをリアリズムに還元してしまう=閉ざしてしまう点にある。
この場面は、その徹底的にツギハギ的な性格によって、数々の視覚的トリックを 多用した『市民ケーン』全体をある意味で象徴している。では、この画面をはじ めとするそれらの歪んだ視覚は、観客の知覚的な経験に何をもたらすのか。また、
この作品で演劇やラジオから映画へと舞台を変えたウェルズは、ハリウッドの慣 習を破るようなそれらの実践をもって何を達成したかったのか。バザンの議論か らは、『市民ケーン』というフィルムが提起しているはずのこれらの問い、すな わちウェルズによる映画というメディウムの探求がリアリズムの名のもとに消去 されてしまい、残るは「現実の存在論的な曖昧さ」というそれ自体曖昧な結論の みである。
古典的なデクパージュとの対比からウェルズ作品に新たな美学を見出したバザ ンの功績は忘れられてはならないだろう。また、すべてを見せるわけではない ウェルズの演出を指摘したのも極めて重要である(そうした演出の一例として、
画面外から時限爆弾の音が聴こえる『黒い罠』(
Touch of Evil,
1958)の冒頭が挙 げられる)。しかし、これらの実践をリアリズムに還元するべきではない。なぜ なら、そのように現実が優先されるとき、メディウムに対するウェルズの意識が 視界から一掃されてしまうからだ。映画における現前と不在を表象の「慣習」の 問題として捉えるペレスは、映画の性質を「可変的でさまざまに構築され得るも の、つまり映画製作の具体的な作業とそれがオーディエンスと交わるなかで発展 する慣習を通して定義されるもの」と述べている。すなわち、映画というメディ ウムは現実ではなく表象芸術として存在するが、だからこそその可能性は、監督などが映画製作の「慣習」を更新する結果として、個々の作品のなかで押し広げ られる余地が常に存在しているのである。
そこでは言及されないが、映画美学を常に革新してきたといわれるオーソン・
ウェルズは、既存の映画的「慣習」を刷新することで、まさにメディウムの可能 性を探求してきた映画作家といえるだろう。初監督作品の『市民ケーン』におい て早くも独自のスタイルをハリウッドに持ち込んだウェルズは、その慣習を次々 に更新していくことで、映画をいかなるメディウムへと変貌させたのか。今後の ウェルズ論は、「表象」を棚上げにして「現実」に飛び込むのではなく、ウェル ズのそのような実践とメディウムとの関係を徹底して問うべきであるように思わ れる。
注
(1) 以下、未邦訳の文献に関しては筆者の訳による。邦訳がある場合は参照したが、い くつか訳語を変更した箇所もある。なお、原書と邦訳を参照する際は原書/邦訳の 順で頁数を記す。
(2) パン・フォーカスと呼ばれることもあるが、本稿ではディープ・フォーカスを用語 として採用する。また、ディープ・フォーカスという「鮮明さ」の問題と「画面の
深さ(profondeur de champ)」という空間の演出に関わる問題を混同しないよう注意
されたい。議論を先取りするならば、本稿は後者=演出の問題にバザンのリアリズ ム論の核を見出す。この「画面の深さ」という概念については以下を参照(岩城)。
(3) この画面の合成技術に対する解説については以下を参照(キャリンジャー、133)。
(4) バザンの議論における「不在」に注目する近年の研究については、カール・スクー ノヴァーが簡潔にまとめている(Schoonover, 57-62)。バザンのウェルズ論における
「見えないもの」に注目する本稿は、これらの系列に連なるものであり、その意味で バザンの映画論全体のなかでのウェルズの位置を明確にするものでもある。ただし
「結びにかえて」では、ウェルズの実践からそのようなバザンの議論を逆照射するこ とで、「不在」とリアリズムを結びつけるその映画論全体の危うさの指摘も試みる。
(5) 正確にいうと、一度目のフレームアウトに関してはこの画面に切り替わる際にマー シャルはすでに画面外に出ている。
(6) しかし、ここには確かにある種の危うさもある。感情という絶対的に「見えないも の」と、遠くにいるために相対的に見えづらいものを同じ「現実のアクション(l’action
réelle)」と名指すことは、知覚的な厳密さを欠く記述だといえるだろう。この問題に
ついては、注の(9)と合わせてバザンの議論における「不在」というテーマに関 するさらなる考察を要するものである。
(7) バザンの議論において「音」が重要な要素を持っていることは、フレームの問題と ともに見逃されるべきではないだろう。また、バザンがこの場面の音に注目してい ることについてはこれまでにも言及されてきたが(たとえば、岩城100)、それが「不
在」や「見えないもの」というバザンの問題設定と関係していることは指摘されて こなかった。
(8) マーク・グラハムは、バザンのこの議論に着想を得て『上海から来た女』(The Lady
from Shanghai, 1947)を「不可侵性(Inaccessibility)」という観点から分析している。
ただしグラハムの論考は物語の「捉え難さ(ungraspability)」(Graham 146)について 論じたものであり、画面内の出来事を「見せない」というバザンが論じている問題 とは異なる観点からなされている。
(9) 今後の課題となるが、バザンの議論における「不在」を本稿が論じてきたようなス クリーンには「見えないもの」にあてはめるだけでよいのか、という「不在」の位 相についての考察は展開されるべきだろう。しかし紙幅の都合もあり今回は、バザ ンにおける「不在」という問題系の一ヴァージョンとしてスクリーンには「見えな いもの」を取り上げた。
引用文献
アンドレ・バザンの著作・論文
Bazin, André. Qu’est-ce que le Cinema?: I Ontologie et Langage. Éditions du Cerf, 1958(アンドレ・. バザン『小海永二翻訳撰集 映画とは何か』小海永二訳、丸善、2008年)(QCと略記)
---. Jean Renoir. Éditions Champ Libre, 1971.(『ジャン・ルノワール』奥村昭夫訳、フィルム アート社、1980年)
---. Orson Welles. Éditions du Cerf, 1972.(OWと略記。翻訳に際しては以下の英訳を参考に し た。Orson Welles: A Critical View. Jonathan Rosenbaum trans, Los Angeles: Acrobat books, 1991.)
---. “ L’apport d’Orson Welles.” Maurice Bessy. Orson Welles. Éditions Seghers, 1963, 191-195. その他の引用文献
Andrew, Dudley. What Cinema Is!: Bazin’s Quest and its Charge. Wiley-Blackwell. 2010.
キャリンジャー、ロバート・L『『市民ケーン』、すべて真実』藤原敏史訳、筑摩書房、1995年。
Elsaesser, Thomas.“A Bazinian Half-Century.”Dudley Andrew and Hervé Joubert-Laurencin eds.
Opening Bazin: Postwar Film Theory and its Afterlife. New York: Oxford UP, 2011, 3-12. Graham, Mark.“The Inaccessibility of The Lady From Shanghai.”Morris Beja ed. Perspectives on
Orson Welles. New York: G. K. Hall & Co., 1995, 146-163.
Gunning, Tom.“Moving Away from the Index: Cinema and the impression of reality,”differences 18.1(2007): 29-52.
岩城覚久「ディープ・フォーカスとイメージの深さ : ドゥルーズ『シネマ』の奥行き論へ の一考察」人文論究、56(3)、89-105頁。
Joubert-Laurencin, Hervé.“Rewriting the Image: Two Effects of the Future-Perfect in André Bazin.”Dudley Andrew and Hervé Joubert-Laurencin eds. Opening Bazin: Postwar Film Theory and its Afterlife. New York: Oxford UP, 2011, 200-212.
Morgan, Daniel.“Rethinking Bazin: Ontology and Realist aesthetics.”Critical Inquiry 32(2006):
443-481
---. “Bazin’s Modernism.”Paragraph. 36.1(2013): 10-30.
Naremore, James. The Magic World of Orson Welles. Revised ed. Dallas: Southern Methodist UP, 1989. Perez, Gilberto. The Material Ghost: Films and Their Medium. Baltimore: The Johns Hopkins UP, 1998. Schoonover, Karl. Brutal Vision: The Neorealist Body in Postwar Italian Cinema. Minneapolis:
University of Minnesota Press, 2012.
Smith, Douglas.“Introduction: Revisiting André Bazin.”Paragraph. 36.1(2013): 1-9.
Wollen, Peter.“Citizen Kane.”James Naremore ed. Orson Welles’s Citizen Kane: A Case Book. New York: Oxford UP, 2004, 249-262.