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阮朝フエ王宮・勤成殿における髹飾技術の復原的考察

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阮朝フエ王宮・勤成殿における髹飾技術の復原的考察

Reconstruction Study for Decorative Painting at the 'Can Chanh Dien' , Main Palace of the Nguyen Dynasty

2013 年 2 月

齋藤 潮美

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阮朝フエ王宮・勤成殿における髹飾技術の復原的考察

Reconstruction Study for Decorative Painting at the 'Can Chanh Dien' , Main Palace of the Nguyen Dynasty

2013 年 2 月

早稲田大学大学院 創造理工学研究科

齋藤 潮美

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目次

Ⅰ . 序論

第 1 章 研究の背景と目的

 第 1 節 研究背景・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3  第 2 節 フエの宮殿建築の特質と柱の髹飾技術・・・・・・・・・・・・・・4  第 3 節 研究目的・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4 第 2 章 既往研究

 第 1 節 阮朝王宮の建築髹飾技術に関する研究・・・・・・・・・・・・・・5  第 2 節 従来の研究概要・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10  第 3 章 研究方法と論文構成・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22

Ⅱ . 本論

第 1 章 文献史料等からみるフエ王宮建築の髹飾技術

 第 1 節 髹飾用語の抽出・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・29  第 2 節 髹飾用語の分類・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・34  第 3 節 漢喃史料にみる髹飾語句の特徴と考察・・・・・・・・・・・・・・36  小 結・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・42 第 2 章 太和殿における柱髹飾技術の復原的考察

 第 1 節 文献史料にみる髹飾技術に関する記述・・・・・・・・・・・・・・45  第 2 節 髹飾技法と配置・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・49  第 3 節 髹飾文様の種類,形態と構成・・・・・・・・・・・・・・・・・・53  第 4 節 龍文形式の分析・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・53  第 5 節 古写真からみる髹飾文様・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・56  第 6 節 太和殿における柱髹飾技術の復原的考察・・・・・・・・・・・・・56  小 結・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・58 第 3 章 現存遺構における柱髹飾技術の比較

 第 1 節 阮朝宮殿建築の髹飾文様・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・61  第 2 節 崇恩殿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・69  第 3 節 凝禧殿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・73  第 4 節 午門・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・77

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 第 5 節 現存遺構における柱髹飾技術の特徴と考察・・・・・・・・・・・・81  小 結・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・83 第 4 章 勤成殿における柱髹飾技術の復原的考察

 第 1 節 文献資料と基壇調査からみる勤成殿・・・・・・・・・・・・・・・87  第 2 節 古写真からみる勤成殿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・94  第 3 節 髹飾技法,材料・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・94  第 4 節 髹飾文様・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・100  小 結 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・100   

Ⅲ . 結論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・105 

Ⅳ . 資料編  1. 参考文献

 2. 参考工程手板制作記録 3. 論文概要・研究業績書

(7)

凡例

1. 本稿では,早稲田大学中川武研究室(以下早大中川研)による一連の研究報告に倣い「ヴィエト ナム」,「阮朝」と表記する.阮朝歴代皇帝名は,「嘉隆帝」のように王号で表記する.年号を記載す る際は,嘉隆 2 年 [1984] のように,原則として西暦を併記する.

2. 注は,文中に上付きのローマ字数字をつけて,各章末に記載する.表・図・写真の注は,表・図・

写真の下欄に適宜記載する.表・図・写真の典拠は,各章末に記載する.

3. 研究文献の典拠は,[ 六角 1932:245] のように,著者名,出版年,引用ページの順で表示し,

本論文巻末に対応する参考文献一覧を記載する.参考文献一覧は,早大中川研による一連の関係す る研究報告,漢喃史料,参考文献に分類する.[ 石井(監修)1993] と [ 桃木ほか(編 )2008] にお いては,[ 八尾・石井(監修)1993:332] や [ 新江・桃木ほか(編 )2008:375] のように,執筆者 名が記載されている箇所は,執筆者名を表示する.早大中川研による研究報告において,連番記載 がある発表は,齋藤ほか 9 名(その 39) 2000] のように,筆頭発表者名・連名者の人数・(連番)・

発表年の順で表示する.また早稲田大学の学位論文は,[ レ(博論)2009:19] のように,著者名・(学 位論文の種別略記)・発表年・引用ページの順で表示する.

4. 漢喃史料は,原文中の下線,略記の「…」,訳文中の [] は,筆者による補足を示す.引用箇所は,

書名・巻数・当該条項名(年月)または葉数の順で表記する.『大南寔録』,『欽定大南會典事例正編』,『欽 定大南會典事例續編』,『大南一統志』は,『寔録』,『事例』,『事例續編』,『一統志』と適宜略記して 記載する.漢喃文献の解釈に際しては,[諸橋 1986] を用い,[諸橋 1986:12-638;12-644] のように,

著者名 参照した版の出版年:巻数 - 頁数の順で,引用順に記述する.

5. ヴィエトナム人名は,ホー・チ・ミン【Hồ Chí Minh】のように,各音節の間に「・」を表記し,

初出の際はヴィエトナム語表記を併記する.西洋の研究者名などはカタカナで表記し,原則として 初出箇所に原語表記を併記する.

6. 遺構名は,勤成殿【Cần Chánh Điện】のように,ヴィエトナム語表記を初出の際に併記する.文 様名は,漢字で表記し,ティン【Tinh】(直訳:星文)のように,初出の際はヴィエトナム語表記と 直訳を併記する.髹飾技法名は,ヴィエトナム語の音読みをカタカナで表記し,ソンソンテップヴァ ン【Sơn son thếp vàng】(上に金箔をかけた赤色漆塗の意)のように,初出の際はヴィエトナム語表 記と訳文を併記する.

7. 皇城中心軸は,実際には南北軸に対して反時計回りに 36 度振れているが,解釈の上で方位を介 して場所の位置を示す際は,皇城前後を南北,皇城左右を東西と記載する.

(8)
(9)

Ⅰ . 序論 

(10)

序論

第 1 章 研究の背景と目的  第 1 節 研究背景

 第 2 節 フエの宮殿建築の特質と柱の髹飾技術  第 3 節 研究目的

第 2 章 既往研究

 第 1 節 阮朝王宮の建築髹飾技術に関する研究  第 2 節 従来の研究概要

第 3 章 研究方法と論文構成

(11)

第1章 研究の背景と目的

第1節  研究背景

 ヴィエトナム社会主義共和国の中部に位置す るフエは,ヴィエトナム最後の統一王朝,阮朝

(1802-1945)の都が置かれ,現存する阮朝王宮 を中心としたフエの歴史的建造物群(以下歴建 群)には,建築装飾,祭祀用具,美術工芸品等 に多くの髹飾技術1をみることができる.歴建 群は,「フエの建造物群」として 1993 年にヴィ エトナムで初めてのユネスコ世界文化遺産に登 録された.また阮朝の伝統雅楽,伝統舞踊は 2003 年にユネスコ無形文化遺産に登録された.

 東・東南アジアの各地で産出する漆は,先史 時代より用い,高度に発達したこの地域独自の 文化を形成した.ヴィエトナムに残る漆の記録 で最も古いものは,後期黎朝期に遡る.第三代 皇帝・仁宗(在位 1443-59)は,ヴィエトナム 漆工芸技術振興のために,当時の明・河南省か ら髹飾技術者を招聘したとする記録である2.技 術者の招聘は継続的に行われ,ヴィエトナムの 髹飾技術は中国の強い影響を受けたと考える.

 阮朝末期,仏領期の 1924 年,仏印総督府に よって美術工芸振興のため,ハノイ大学にイン ドシナ美術(工芸)学校が設立され,日本人技 術者が髹飾指導のために招聘された3. また当時 のハノイには,ハノイ在住の日本人経営の漆器 製造業も出現し,ヴィエトナム人見習徒弟が日 本式の髹飾技術を体得したとされる4.このよう な場では,日越仏間の実際的な髹飾技術交流を 行ったことが予測できる.

 阮朝王朝期以降のヴィエトナムでは,王制の 廃止や戦争などの社会情勢の変化と化学合成塗 料の登場に伴い,伝統技術を伝える髹飾工匠は,

最高度の技術を発揮する場を失うとともに,そ の数を減少させた.その一方で現代工芸家等が 漆に注目し,髹飾技術を応用した現代工芸作品 が盛んに創作された5

 阮朝宮殿建築は,戦禍や社会情勢の変化の影 響を受け,建物を失い,基壇のみをのこすものや,

図面資料が残存しない例がある.阮朝宮殿建築 は,多くが木造であるため高温多湿で降水量が

多く,雨季には洪水も起こる過酷な自然環境に よる影響に加え,生物被害により木材の腐朽が 起こり,自然環境と生物被害によって木造架構 に重大な損傷をもたらす劣化が著しく進行する 状況にある.

 阮朝王宮の伝統的建築髹飾技術に関する設計 技術書は,現時点では確認できない.現在歴建 群で確認できる塗膜の一部は,阮朝王期とその 後にも髹飾修理(以下修理)を行ったと推測で きるが,その具体的な状況についての資料が乏 しく,近年を除き,修理年代,技法,用材など が不明である.

 勤政殿【Cần Chánh Dien】は,1804 年に阮朝 紫禁城内,乾成宮に創建された.勤成殿は,阮 朝の歴代皇帝及び官吏が朝政を行い,ヴィエト ナム・フエの歴建群を代表する建築である.勤 成殿は,阮朝宮殿建築における最高水準の伝統 的髹飾技術を研究する上でも,重要な遺構であ るが,1947 年に屋根と木造架構が戦禍を被り,

架構の髹飾部材は現存しない.

 早稲田大学の阮朝王宮に関する研究は, 1991 年ユネスコ文化遺産保存日本信託基金による,

王宮の正門である午門の修復において,中川武 教授がユネスコ・コンサルタントとして,文化 財保存関係者への講義や,彩色保存方法の協議 のための技術協力を行ったことが端緒となり,

現在に至るまで古都フエ遺跡保存センター6(以 下 HMCC) と協同し,勤政殿の復原研究を目的と した国際学術研究を継続している.

 HMCC は,歴建群保護の観点より修理を行う 一方で,太和殿7などの限定された宮殿建築で,

近年修理以前の髹飾文様(以下古式文様)が残 る建物内部古材柱を部材損傷状況に応じて,保 存展示活用している.過酷な自然環境下で塗膜 の劣化が著しく進行する困難な状況において,

HMCC による古材保存の取り組みは,阮朝王宮 の伝統的建築髹飾技術に関する学術的な研究資 料の保存と勤政殿の髹飾技術の復原的考察に際 して重要な意義を持つ.

 なかでも勤成殿と同様に皇城内の中心軸上に 建立され,皇城内で唯一古式文様が確認できる 遺構は,太和殿のみである.太和殿は,古材,

(12)

修理材,古写真,文献資料が現存し,阮朝王朝 期の最高水準の伝統的建築髹飾技術を復原的に 考察するための基礎的な資料価値を備えるとい えよう.勤成殿柱における髹飾技術の復原的研 究を遂行する上で,最も重要な阮朝宮殿建築髹 飾遺構は,太和殿である.

第 2 節  フエの宮殿建築の特質と柱の髹飾技術

 フエの宮殿建築は,各建物の機能と,建物の 敷地内での配置,建築形式,架構形式は,密接 に関連し,各建物の機能に応じた一定の配置規 則にもとづいて,各区域内において,建物が位 置する8

 皇城の配置計画は,陰陽思想の影響を受けた と考えられている9.皇城では,皇帝,皇后の居 住区である紫禁城,延壽宮区では,それぞれが 居住する建物が正殿とされ,太廟区や世廟区な どでは祖先を祀る建物が主殿として重要な建物 となる.皇帝陵における宮区では,皇帝を祀る 建物が主殿とされ,敷地内で最も重要な建物と なる.これらの建物は平入りの建物を前後に連 結していることから,連棟式建築と称する.

 二連棟式建築の梁行架構は,正殿・前殿・承 霤10・裳階から構成されている(図 1-1).正殿 には,基本的に天井が付き,天井裏に棟木下の 架構を設け,板壁で裳階部分が区分されている

11.前殿の架構は,天井が付かないため,棟木下 の架構は束梁や板材で母屋桁を受け,化粧とし て豪華な彫刻が施されている.承霤では,湾曲 した天井が付加され,梁上では,彫刻された板 材が直接身舎桁を支える.連棟式はフエの宮殿 建築の代表的な特徴の 1 つである12

 連棟式建築に対して,棟が 1 つの建物は,単 棟式建築と称する13

 宮殿建築は,柱と梁を用いた軸組構法が用い られている.登梁を用いる架構と,梁上に部材 を組み合わせて母屋桁を支える架構の 2 つに大 別されている14.宮殿建築部材への彫刻による 装飾は,人目に触れる場所か触れない場所かに よって,装飾量の多少による区別が行われてい ることから,天井板に収まる登梁式架構は,高

い装飾性を必要としない性格をもつことが推論 されている15.登梁式架構は,北部の伝統木造 架構には見られず,ヴィエトナム中南部に広く 分布することが指摘されている16. 

 宮殿建築では,胴張をもつ形状の円柱を用い る.宮殿建築は,身舎に庇・裳階を付加するこ とや,棟を連ねることなどによって規模が拡大 し,「長大な梁を用いて柱の省略などもなく,小 屋組を形成して別途内部架構を形成することも ない.それゆえに身舎・庇・裳階という木造建 築のきわめて原理的な空間構成が保持されてい る」17ことが指摘されている.阮朝宮殿建築に おける柱は,屋根荷重を直接的に受ける構造材 であるとともに,柱の上部まで,人目に触れる 面積が多い部材として連立することから,強度 と高い装飾性が求められる重要な部材の 1 つで あると考える.宮殿建築における柱の装飾法は,

彫刻ではなく,髹飾技術を用いる.宮殿建築では,

木造建築の原理的な空間構成が保持され,柱が 連立する架構はほとんどかわらないと推測でき ることから,柱の装飾における髹飾技法,髹飾 文様がどういうものであり,室内空間とどのよ うな関連性を有していったかという観点からの 髹飾技術に関する復原的考察が,重要であると 考える.

第 3 節  研究目的

 宮殿建築を髹飾する方法は,塗装と装飾の2 つであると考える.現存する連棟式建築の髹飾 文様は,太和殿の扉,凝禧殿【Ngưng Hy Điện】

の柱間装置にみられるが,それ以外は柱にしか 確認できない.宮殿建築の髹飾技術における装 飾の中心が柱にあり,柱にどのような髹飾技術 を用いて装飾するのかということが,宮殿建築 の室内空間を規定する要素を持ち,柱の髹飾技 術を自立的に取り扱えると考える.すなわち柱 の装飾と宮殿建築の機能及び性格との関係が,

柱の髹飾技術に表現されていると想定され,宮 殿建築の柱における装飾の意味を考えることに よって,宮殿建築の室内空間と髹飾技術との関 係が明らかになることが期待される.

(13)

 本論文は,阮朝紫禁城の勤政殿内部柱を対象 とし,髹飾技術に関する文献記述の分析や変遷,

髹飾技法,髹飾文様の種類・形態・構成と配置 の特徴について,同早稲田大学中川武研究室(以 下中川研)と HMCC との国際共同学術ヴィエト ナム現地調査(以下現地調査)の成果を基に復 原的に考察を試みる.

 勤政殿柱における髹飾技術を復原的に考察す ることにより,阮朝フエ王宮の伝統的宮殿建築 髹飾技術の設計方法や空間構成の理念の特徴を 明らかにし,保全の一助となるための基盤的な 研究となることをめざした.

 髹飾技術の復原案の作成,それを背景として,

歴建群の伝統的木造建築髹飾技術に関する基礎 的な復原研究資料作成,以上を総括して,歴建 群の伝統的木造建築髹飾技術の復原的考察を通 じて,歴建群の室内空間の特質を解明すること を目的とする.

第2章 既往研究

第1節 阮朝王宮の建築髹飾技術に関連する研 究

1・1 阮朝宮殿建築髹飾技術調査の概要  中川研の阮朝王宮に関する研究は,HMCC と 協同し,勤成殿の復原研究を目的とした国際学 術研究を継続し,一連の成果は,早稲田大学の 学位論文,日本建築学会での論文発表,早稲田 大学と HMCC がヴィエトナム・フエ王宮内の閲 是堂で共同開催した勤成殿復原のための国際シ ンポジウム報告書,文部省科学研究費成果報告 書等で多数刊行し,その学術成果は広く公開さ れている.これまでのヴィエトナムでは,建築 史学が学問的に体系化されなかった性質を持つ なかで,早稲田大学中川武教授の建築史学的観 点に基づいた一連の現地調査や HMCC 技術職員 招へいなど,その成果は学術交流や人材育成に までおよび,学問領域が大きく発展した.以下,

中川研の一連の研究のうち,ヴィエトナム現地 髹飾技術調査に関する調査年と調査内容の概要 を以下に時系列で記す.

 同中川研のヴィエトナム・フエ王宮の建築髹 飾技術の研究は,1999 年の現地調査を端緒とし,

最新の現地調査は 2012 年となる.

図1-1 宮殿建築・二連棟式の梁行断面構成部の説明図

(14)

 平成 11 年度~平成 13 年度,文部省科学研究 費(基盤研究及び特別研究員奨励費)「勤成殿の 復原的研究 - ヴィエトナム・フエ・グエン朝王 朝の復原保存方法に関する基礎的研究」(研究代 表者:中川武及び中沢信一郎),平成 12 年~ 13 年度,「勤成殿の復原設計に関する基礎的研究 - ヴィエトナム・フエ・阮朝王宮の復原的研究」(特 別研究員奨励費 研究代表者:坂本忠規)の一 連の研究が遂行された.1999 年調査では,阮 朝王宮建築の髹飾修復現場(思陵・崇恩殿,明 樓)での髹飾技術に関する用語や道具の採取を おこなった18.2000 年調査では,王宮建築の髹 飾修理を手掛けるドー・キー・ホアン【Đô Kỳ

Hoàng】氏の工房にて髹飾工程の聞き取り調査お よび,髹飾基本手板の一部工程作業を行った19. また,日本で髹飾工程手板を作成し,今日のフ エ阮朝宮殿建築の髹飾修理技術と日本の技術と を比較を通じて,阮朝宮殿建築の髹飾技術に関 する考察を行った20

 平成 14 年度・日本学術振興会科学研究費(基 盤研究 A)「乾成宮の復原的研究 - ユネスコ世界 遺産・フエの歴史的建造物群の保全計画 -」(研 究代表者・中川武)および同省補助事業・私立 大学学術研究高度化推進事業(学術フロンティ ア推進事業)「ユネスコ世界遺産・フエ遺跡群と その環境の保全計画(開発途上国に対する歴史 的文化的遺産保護に資する国際協力と技術移転 の確立)」(研究代表者・中川武)の一連の研究 が遂行された.2002 年現地調査では,表徳殿柱 と対象とした髹飾状況調査を行った21

 平成 18 ~ 19 年度・日本学術振興会科学研究 費(基盤研究 S)「乾成宮の復原的研究 - ユネス コ世界遺産・フエの歴史的建造物群の保全計画 -」(研究代表者・中川武),文部科学省補助事業・

私立大学学術研究高度化推進事業(学術フロン ティア推進事業)「ユネスコ世界遺産・フエ遺跡 群とその保全計画(発展途上国に対する歴史的 文化遺産保護に資する国際協力と技術移転の確 立)」(研究代表者・中川武),理工学研究所プロ ジェクト研究「東南アジア世界のユネスコ世界 遺産に関するディジタルアーカイヴの構築」の 一連の研究が遂行された.2006 年現地調査では,

表徳殿の解体修理現場にて,髹飾下地工程手板 を採取し,日本の技術との比較を行い,その特 徴を考察した22.2007 年現地調査では,表徳殿 解体修理現場での,柱髹飾状況と修理状況につ いて記録を行った23.また生漆生産地での採取 状況に関する調査も行った.

 平成 19 年度・日本学術振興会科学研究費・

基盤研究(S)「阮朝王宮の歴史的環境の復原 -CG 技術を活用した再現と GIS 構築 -」(研究代表者・

中川武),文部科学省補助事業・私立大学学術研 究高度化推進事業・学術フロンティア推進事業・

「ユネスコ世界遺産・フエの建造物群とその環境 の保全及び宮廷音楽等無形文化遺産の保護・振 興」(研究代表者・中川武),日本学術振興会科 学研究費・若手研究 A・「フエの伝統家屋の設計 方法と建築技法 - 失われつつある伝統的技術の 記録 -」(研究代表者・林英昭),早稲田大学理工 学研究所プロジェクト研究「東南アジア世界の ユネスコ世界遺産に関するディジタルアーカイ ヴの構築」,早稲田大学総合研究機構ユネスコ世 界遺産研究所の一連の研究が遂行された.2007 年現地調査では,阮朝紫禁城内・長廊の髹飾修 理現場にて,髹飾工程手板の採取を行った24. また安定宮修理現場においては,ドイツ壁画修 復家へのアクリル修理技法の視察,手板制作を 行った.2008 年現地調査では,考陵・顕徳門の 髹飾状況について調査を行った [ 齋藤ほか 3 名

(その 140)2008].

 平成 20 年度・日本学術振興会科学研究費(基 盤研究 S)「乾成宮の復原的研究 - ユネスコ世界 遺産・フエの歴史的建造物群の保全計画 -」(研 究代表者・中川武),文部科学省補助事業・私立 大学学術研究高度化推進事業(学術フロンティ ア推進事業)「ユネスコ世界遺産・フエ遺跡群と その保全計画(発展途上国に対する歴史的文化 遺産保護に資する国際協力と技術移転の確立)」

(研究代表者・中川武),理工学研究所プロジェ クト研究「東南アジア世界のユネスコ世界遺産 に関するディジタルアーカイヴの構築」の一連 の研究が遂行された.2008 年現地調査では思陵 宮門の髹飾状況に関する調査を行った25.

 平成 21 年度・日本学術振興会科学研究費・

(15)

基盤研究(S)「阮朝王宮の歴史的環境の復原 -CG 技術を活用した再現と GIS 構築 -」(研究代表者・

中川武),文部科学省補助事業・私立大学学術研 究高度化推進事業・学術フロンティア推進事業・

「ユネスコ世界遺産・フエの建造物群とその環境 の保全及び宮廷音楽等無形文化遺産の保護・振 興」(研究代表者・中川武)の一連の研究が遂行 された.2009 年現地調査では,太和殿,崇恩殿,

凝禧殿の柱髹飾状況と文様に関する調査を行っ た.また太和殿古材と修理材の文様調査記録図 を作成した26

 平成 22 年度・日本学術振興会科学研究費・

基盤研究(S)「阮朝王宮の歴史的環境の復原 -CG 技術を活用した再現と GIS 構築 -」(研究代表者・

中川武),早稲田大学理工学研究所プロジェクト

「ユネスコ世界遺産「フエの建造物群」の学術情 報の保存・管理と ICT 基盤の構築支援」の一連 の研究が遂行された.2010 年現地調査では,思 陵・凝禧殿,孝陵・崇恩殿の柱髹飾文様調査と 文様記録図を作成した27

 2012 年現地調査では,太和殿髹飾文様の確認 調査を行った28

1・2 ヴィエトナム漆に関する研究

 ヴィエトナム漆を取り扱った研究は,植栽や 採取方法に関する研究29,産業資源に関する研 究30, 漆液の化学分析に関する研究31,漆工芸に 関する美術史的研究32,漆工技術に関する研究33 などが行われている.以下,先行研究を参照し,

関連する研究の概要の整理を試みる.

 

(1)ヴィエトナム産漆

 ヴィエトナム産漆34は,ヴィエトナム北部 地域に多く生育分布しているアンナンウルシか ら採取される.これは,日本の九州や四国の 愛媛地方で木蝋を採るために植えられている R.Succedanea L. の 変 種 var.dumoutieri Kudo et Matsuura であるとされ,この学名はヴィエトナ ム産漆の植物学研究がヴィエトナムで行われる 以前にヴィエトナムからこの木を台湾に移植し た,当時の台湾林業試験所の工藤氏,松浦氏に より植物形態学見地から研究され,ハゼノキの

一種であることを確認してつけられたことが由 来となった35

 ヴィエトナム産漆の採り方や傷つけの順序・

方法は中国の湖北地方の方法が導入され,ヴィ エトナム地方に適するように暫時改善され,現 行の方法となったと考察されている36

 ヴィエトナム産漆の漆膜は,淡色で透明度が 高いなど,中国や日本産漆にない特徴を有する と指摘されている37.ヴィエトナム産漆の成分 は,はラッコールを主成分とし,ラッコールと 水のエマルジョン構造をとり,これに 10 パーセ ント前後のゴム質や含窒素化合物と,微量の酵 素が含まれている38.ヴィエトナム産漆は,乾 燥性がよくないが,着色度が小さく,透明性の 良好な膜の特性は,他の産地の漆には認められ ない長所であるとされる39

 ヴィエトナムでは採取した漆の酸化を防ぐた めに,チュンチェ【Trúng tre】と称されている竹 製の笊に目止めをした中に,漆を貯蔵し,表面 には,漆液と油の混合で塗った紙で覆い,張竹 を施して暗所に静置し,貯蔵する40

 静置された漆液は,比重により分離して,沈 殿した後に層に分けて用いられる.分離,沈殿 した漆液は,上層部ほど主成分のラッコールの 含有量が多く,90 パーセント以上にも及ぶとさ れるが,酸化重合に必要なラッカーゼが水分,

ゴム質とともに沈降し,残存しないことが多い ため,上層部に至るほど油分が多く,乾燥度が 悪く,下層部に至るほど水分が多いため,乾燥 度は良好であるが,主成分の含有量が少なく,

被膜は脆弱となることが指摘されている41.沈 殿層は,最上層から①ソンマットゾウ【Sơn mật dầu】,②ソンゾイ【Sơn giọi】,③ソンティッ【Sơn thịt】,④ヌォックティエック【Nước thiếc】と称し,

②のソンゾイは,上層をソンゾイニャット【Sơn giọi nhất】,下層をソンゾイニ【Sơn giọi nhì】とさ らに分類されている42

(2) ヴィエトナム髹飾技術

 東・東南アジアの各地で産出する漆は,先史 時代より用いられた43.ヴィエトナム古代以降 の髹飾技術は,中国,日本,フランスの影響を

(16)

受けて発達したと考えられる.ヴィエトナムに 残る漆の記録で最も古いものは,後期黎朝期 1428-1793)に遡り,第 3 代皇帝・仁宗(在位 1443-59)の時代に,チャン・トゥオン・コン【Trần Trượng Công】という人物が,当時の明・河南 省から髹飾技術者を招聘し,中国の工芸技術を 輸入し,漆工技術を隆盛にしたとされている44. チャン・トゥオン・コンは,漆産業の始祖として,

トゥンフォントーソン【từng phường thợ sơn】(髹 飾職人技術者集団の意)を結成し,髹飾技術を 伝授し,ヴィエトナム国内にその技術をひろめ たとされている45.腕利きの技術者たちは,当 時の王家の造営に服務したほか,さまざまな髹 飾職人技術者集団となり,組織化された集団は,

宮殿や寺社に御用聞きに伺っては,祭祀用具の 漆塗りや金箔を押しに訪ねたほか,豊かな家に 行き,扁額や対聯などの御用聞きをしたとされ ている46.そのようにして髹飾職人技術者の人 数は増えていき,さまざまな地域で技術革新を 行い,独特の技術を誇ったとされるが,その技 術は秘伝とされたため,傑作について語るとき は,バクニン【Bắc Ninh】省,ディンバン【Đình Bảng】村の黒漆などと地名で称されたとされて いる47

  阮朝末期の 1941 年に,当時の商工省技師兼 工芸指導者技師の谷内治橘がヴィエトナムに赴 き,ヴィエトナム漆に関する現地視察,調査,

文献を収録した際に,当時フエ王宮に訪れた際 の記述もなされ,1943 年に刊行されている48. 谷内治橘は,ヴィエトナム漆の歴史,漆樹の種 類と栽培採集方法,漆液の化学成分分析と輸出,

インドシナ美術工芸学校,漆工材料等を取り扱 い,当時のヴィエトナム漆の状況を知ることの できる大変貴重な文献となっている.

 フランス極東学院49のフランス人研究者によ るヴィエトナム漆に関連する名称,漆工美術史 研究,漆工芸品制作風景等を紹介する一連の研 究は,阮朝期の髹飾工芸技術を知ることのでき る大変貴重な研究資料となっている50

 ヴィエトナム漆工美術史研究は,宮里正子,

高橋隆博による研究に詳しい.宮里正子による 研究では,1992 年のヴィエトナム漆工芸現地

調査を経て,調査当時のヴィエトナム漆工芸の 状況や,琉球の漆工芸意匠との関連について研 究考察を行っている51.高橋隆博による研究で は,1993 年と 1996 年のヴィエトナム現地調査 を経て,漆液採取と漆工芸の状況,各地の博物 館での古漆器の諸作例より,技法と意匠を分析 し,中国や琉球の漆芸と極めて類似しているこ と,阮朝期は < 黒漆塗 >< 朱漆塗 >< 箔絵 >< 描金

>< 木地螺鈿 >< 黒漆地螺鈿 >< タイマイ地螺鈿 >

の技法名があげられ,文様は < 日輪双龍文 >< 日 輪双鳳文 >< 雷文 >< 花菱亀甲文 >< 卍文字 > など の中国文様系譜に関連するものが多いという重 要な指摘がなされている52

 ヴィエトナム漆工技術に関する研究は,ファ ム・ドゥク・クオン【Phạm Đức Cường】,グエン・

ダン・クアン【Nguyen Dang Quang】などによっ て,髹飾工芸技法が紹介されている53

1・3 阮朝宮殿建築髹飾技術

 阮朝宮殿建築の髹飾技術に関する研究は,同 中川研と HMCC による現地調査成果に基づいて 行われた.それらの一連の研究は,主に筆者が 担当した.

(1)髹飾修理工程手板の採取研究

 阮朝宮殿建築の髹飾修理現場にて,工程手板 の制作および髹飾技術に関する用語や道具の採 取を行った54

 漆は,漆の木から採取された生漆と,生漆を 精製した精製漆に大別できる.HMCC による阮 朝宮殿建築の髹飾修理には,ヴィエトナム北部 で産出する漆液を使用し,フエでは上層から 1)

ソンマットゾウ【Sơn mật dầu】,2)ソンゾイニャッ ト【Sơn giọi nhất】,3) ソ ン ゾ イ ニ【Sơn giọi nhì】,4)ソンティッ【Sơn thịt】と分類されてい たことが,聞き取り調査から明らかになった55.  ソンソンテップヴァン【sơn son thếp vàng】技 法と称される髹飾技法については,宮殿建築の 修理を手掛けたドー・キー・ホアン氏の工房に おいて,工程手板の作成と,制作過程の見学,

記録と聞き取り調査を行いとともに,実際の制 作工程に参加することによって,日本の髹飾工

(17)

程との比較を試み56.ソンソンテップヴァン技 法とは,赤色の漆が塗られた面に,龍や雲等の 文様を漆で描き,金銀箔や砂子を乾燥と同時に 定着させ,その上に透明度が高い漆を塗り重ね て仕上げる技法であり,日本でいう白檀塗57と 箔絵58の技法に類似する.この技法は工程数が 多く,太和殿,孝陵・崇恩殿などの主殿各遺構 に限定して多用される最も格式が高く,最高水 準の技法となる.

 

(2)現存遺構の髹飾状況に関する研究

 現存遺構の髹飾状況に関する研究については,

同中川研の一連の研究発表の中で取り扱った59. 以下関連する研究の整理を試みる.なお,現存 遺構の柱髹飾技術の比較は,本論文の第 2 章~

第 3 章にて詳論する.

 昌陵・表徳殿の内部柱の髹飾技法の分類と劣 化状況,修理状況については,現地調査の成果 に基づき整理を試みた60

 太和殿と孝陵・崇恩殿の内部柱における,髹 飾技法と主要な文様構成について概要の整理を 試み,柱の装飾文様構成と建物平面とが相対的 な配置システムとの関係をもつ可能性を示唆し た61

 思陵・凝禧殿の柱にみられる髹飾文様の配置,

修理状況を整理した62.凝禧殿柱髹飾文様の図 像的な特徴については,龍文頭部の復原白描図

(D6 柱)を通じて,装飾表現の特徴を据えるこ とができた.特に龍文頭頂部が,漢字の「王」

の字に類似する形状と,鱗の形状から文様が構 成されていた.日本ではこのような「王」の字 に類似した形状が,額の中央位置に入った龍は,

管見の限り,見受けられないことを指摘した.

 阮朝期に編纂された漢喃史料のうち,主要な 建築の造営と修理時における髹飾技術に関する 用語を抽出整理し,中国,日本の技法との比較 を試み,漢喃史料等ではフエ阮朝王宮の伝統的 髹飾技術の特徴をどのように考え記述している のかに関して復原的に明らかにした63.各史料 では,建築装飾の様式規定や髹飾修理,保存に 関する記述がみられた.赤色系統と金銀を用い て龍文などを描く,髹飾材料・髹飾表現に関す

る細やかな記述は,漢喃史料にみる建築髹飾技 術の特徴である.特に髹飾修理や保存行為を重 視する姿勢がうかがわれることは,建築の保存,

維持,管理を王朝が主体となっておこなってい たこと,そして全般的に王朝管理下で,組織化 された高い技法をもつ髹飾生産組織が阮朝期の 建築髹飾技術に大きく貢献していた可能性を指 摘した.この研究内容は,第 1 章にて詳論する.

 太和殿における柱髹飾技術について,技法と 文様の種類・形態・構成の特徴に加え,文献記 述の分析や変遷について明らかにし,髹飾技術 について復原的に考察を試みた64.特徴の抽出 にあたり,太和殿内に保存される古材を選定し,

文様記録図の作成を行った.髹飾文様は龍文が 主体に描かれる.龍文の目線の向きと方向,龍 文の腹部と尾部の回転方向などを分析すると,

いずれも文様配置に軸線が,正中間の建物中心 軸に相対的に配置されるシステムを確認した.

髹飾技法,色彩,文様構成がいずれも正中間を 重視することが明らかになった.先行研究では,

阮朝期の儀礼にみる空間秩序は,寶座,正中以 下の順で形成されることが指摘されている65. 太和殿では,柱髹飾技術が空間秩序を形成する 上での相関性をもつ可能性が考えられる.龍文 頭部の中心に「王」または「壬」に類似する形 状がみられること,龍文による荘厳は皇帝の権 威を象徴することなどを考察した.この研究内 容は,第 2 章にて詳論する.

1・4 フエ装飾文様に関する研究

ヴィエトナムの龍と龍文に関する研究は,歴史 学,民族学,美術史等の研究領域において,歴 史資料の記述,祭祀儀礼,彫刻等にみられる図 像と意義の面から形態的特徴に関する研究が確 認できる66

 龍は実在しないが,ヴィエトナムの多数民族 である越族の建国神話では,龍が始祖とされて おり,中国の龍の概念が受容されるとともに,

その背景に越族の基層文化による龍の概念も存 在する可能性が指摘されている67

 ヴィエトナムでは,海難除けとして龍を入墨 に用いたほか,降雨,雷,風水思想や蛇との関

(18)

連や,龍は時空を超えた超越的な力を持つこと,

李朝期(1011-1225)には,黄龍が出現した土 地を吉祥の地として,建築物の修築が行われる など,龍が王権と結びつき,重要建築物の聖化 を意図された可能性や,皇帝を象徴する図像と して用いられたこと等が指摘されている68.  フエ装飾文様研究の中でも龍文が取り扱わ れている.フエの文様研究は阮朝末期の仏領 期(1887-1945),『フエの芸術』(原題:L'Art a Hué)が刊行され,中国,西洋の研究を参照し,

充実した図版とともに文様を分類考察した研究

69,文様の意義や概念について更に考察を深めた 重要な研究70が行われている.阮朝期の磁器に 関する美術史的研究71,宮殿内に安置される九 鼎の意匠研究72の中でも,龍文など髹飾文様と 関連する文様について考察される. 

1・5 中国髹飾技術書『髤飾録』に関する研 究

 ヴィエトナム漆工技術は,中国,日本,フラ ンス等の影響を受容しながら発達したと考えら れるが,ヴィエトナムの髹飾技術に大きな影響 を与えたのは,中国である.中国・明の時代に 黄成により著された現存する唯一の漆工専門書 は,『髤飾録』である.本文が黄成(明代の隆慶 年間(1567-72)),序と注が楊明(序は明代の 天啓五年(1625))により記され,『髤飾録』は,

乾・坤の二集,計十八章,百八十条から構成さ れている.「乾集」は製作法,原料,道具や漆工 の禁忌等,「坤集」は漆器の分類と各種形態につ いて記されている.

 黄成が『髤飾録』を著した目的は,古今の髹 飾技術を総合し髹飾技法を伝授することにある ため,漆芸技法を漆器の制作と形態に基づき分 類したのではないかと王世襄により分析がなさ れている73

 『髤飾録』の各種技法については,王世襄によ る研究を踏まえ,東洋漆工研究会において,文 献研究,材料と技術的な内容の検証と,田川真 千子により試作された試料を科学分析した結果 を田川真千子が考察した研究などがある74.『髤 飾録』などの文献資料の記述などから「金漆」

の技法や材料に関する復原的研究は,増田昌弘 により行われた75

第2節 従来の研究概要

2・1 ヴィエトナム研究の概要

 ヴィエトナム研究は,歴史学,民俗学,考古 学,美術史などの分野でも研究が蓄積されてい る.以下,先行研究を参照し,関連する研究の 概要の整理を試みる.

(1) ヴィエトナムの地理

 ヴィエトナム社会主義共和国(Nước Cộng hòa Xã hội chủ nghĩa Việt Nam/ Socialist Republic of Vietnam)は,インドシナ半島の東部に位置し,

南北約 1650 kmに及ぶ細長い本土,大陸部(北 緯 23 度 22 分~ 8 度 30 分の間)と南シナ海に 浮かぶホアンサー,チュオンサー両群島などの 島嶼部からなる76(図 1-2).ヴィエトナム本土 の面積は,約 33 万㎡,東側を南シナ海,西側 はチュオンソン山脈に挟まれ,北は中華人民共 和国,西をラオス人民共和国,カンボジア王国 との国境を接し,国土の 73%が山地で平地が少 ない77.ヴィエトナムの国土は,伝統的に北部,

中部,南部に分けて理解する .南部ではメコン 川,北部では紅河が北西から南東に向かって流 れ,その下流域に広大なデルタを形成する.北 部は温帯季節風気候区,中部から南部にかけて は,熱帯季節風気候区となる.

 ヴィエトナム社会主義共和国の人口は,約 8203 万人(2004) 78,少数民族を含む.ヴィエ トナム国家公認の分類では,54 民族が居住し,

総人口の約 83%キン族(ベト族ともよばれる)

が占める79.王朝時代には公的な文書は漢字・

漢文で記述し,詩歌などではヴィエトナム語独 自の語を表記するチューノムを 14 世紀前後か ら盛んに用いた80.現在ヴィエトナムでは,ロー マ字表記の正書法,クオックグーを用いる.少 数民族はそれぞれの言語も用いる.

 フエはヴィエトナム中部に位置する.フエの 人 口 は, 約 30 万 5000 人(2005)81. フ エ は 標高 15 m,南シナ海海岸から約 16 km内陸の

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海岸平野に位置し,市の中央をフオン川(香江),

北側をボー川が流れる82 .フエの市街は,フオ ン川の河畔を境にして,北岸には旧都城を中心 とする旧市街,南岸にはフランス植民地時代の 建物などが並ぶ新市街が広がる .阮朝歴代の皇 帝陵や寺院は,市街から南方の丘陵地帯,フオ ン川上流沿いに位置する 83( 図 1-3).

(2)ヴィエトナムの歴史

① 阮朝成立以前

 ヴィエトナム北部の金属器・稲作文化の発展 は,紀元前にさかのぼる.紀元前以前の諸文化 は,ドンダウ文化 - ゴームン文化 - ドンソン文化 が連続的に継起し,ドンソン文化(前 4 世紀~

後 1 世紀)段階で青銅器文化は最盛期を迎えた

84.ドンソン文化と同時期には,中部ベトナム一 帯(海岸から内陸山地まで)ではサーフィン文 化と呼ばれる,別の鉄器文化が展開した.甕棺 ( かめかん ) 墓が特徴的で,甕棺の中に独特な耳 飾りを出土し,それらはフィリピンなどに運ば れた 85.南部でも,前 1 千年紀後半にドンナイ 丘陵で青銅器が製作された.

 前 2 世紀末,中国の漢が中部ヴィエトナム

(フエ付近)に日南郡を置いた.日南郡は「海 のシルクロード」の交易地として,海上交易が 行われた 86. ヴィエトナム北部は,BC111 から AD905 まで,約 1000 年にわたり中国歴代の王 朝に服し(北属期),唐は 679 年に安南都護府(現 在のハノイ)を置いた.この時期,ヴィエトナ ム南部と中部は,インド的な文化の影響を受け た扶南やチャンパが割拠していた.

  中 国 の 支 配 に 抵 抗 し た 呉 権 は,938 年 に ヴィエトナム北部に初めて独立した王朝,呉朝

(939-965)を築いた.その後ヴィエトナム北部 は,丁朝(966-980),前黎朝(980-1009),李 朝(1010-1225), 陳 朝(1225-1400), 胡 朝

(1400-1407)の歴代王朝が続いたが,1407 年 に再び中国の明が支配した.1428 年に中国から 独立し,後黎朝(1428-1527),莫朝(1527-1667)

が成立したが,内政は安定していなかった.鄭 氏は北部に政権を構え,江南阮氏は中部に半独

図1-2 ヴィエトナム社会主義共和国 地図

図1-3 フエ建造物群の配置図

(20)

立政権を構え,政権は南北に分裂していた.

 1771 年の西山阮氏による反乱(西山党の乱)

がおこると,それに乗じた鄭氏は 1774 年に江 南阮氏を破り,フエを占拠した.西山阮氏はそ の後,鄭氏を破り,南北統一するが,一族内の 不和がおきた.江南阮氏の王族である阮福暎(グ エン・フオック・アィン【Nguyễn Phước Anh】)

は,タイ,フランス人司教ピニョー・ド・ヴェー ヌ,華僑などの支援を得て西山阮氏に反撃を行 い,1801 年にフエ,1802 年にハノイを陥落し,

ヴィエトナム全土の統一を果たした.

② 阮朝期

 阮福暎は 1802 年に年号を嘉隆と定め,阮朝 の初代皇帝・嘉隆帝(在位 1802-1820)に即位し,

阮朝(1802-1945)をひらいた(図 1-4 ~ 1-5,

表 1-1).

 嘉隆帝は 1804 年に清朝から冊封を受け,国 号を越南(ヴィエトナム)とした.嘉隆帝はフ エを国都に定め,都城を造営し,中国の諸制度 を移入した集権的官僚制国家を樹立した87.嘉 隆帝は旧城を修築したが,嘉隆 2 年 [1803] に 大規模な都城(史料では京城と称する)の増築 をおこなった.阮朝の京城はアンナン山脈から 源を発し,フエ中央を流れるフオン河中流域に 立地し,一辺およそ 2.3km の囲繞壁に囲まれ,

坊により区画された.京城内には,皇城と呼ば れる王宮が南側中央に立地する.阮朝都城の計 画に際しては,先行研究によると中国の影響を 受けた一方,囲繞壁および鎭平臺と呼ばれる防 衛施設である小城が付随する構成は,フランス のヴォーバン式築城法に則ったともとされる88. 阮朝を成立するためにフランス人の協力を得た ことが,後にフランスがヴィエトナムに介入す るきっかけともなった.

 阮朝第 2 代皇帝,明命帝(在位 1820-1841)

は,中央集権化を推進し,内閣と機密院が設置 され,皇帝中心の統治体制を整備した 89(図 1-6

~ 1-7).明命帝の時代には,国史館を建て,文 芸を盛んにし,武臣優先の体制から科挙官僚を 中心とする文臣優位の体制に移行した.明命帝 期には宮殿建築が最も多く造営された.王室貿

易と情報収集のために,中国やシンガポールな どに官船を派遣した 90.1838 年は,冊封された 国号とは別に,大越と称した.明命帝はキリス ト教を排斥し,フランスからの通商条約の締結 と宣教師の保護申し入れを拒んだため,対仏関 係が悪化した91

 阮朝第 3 代紹治帝(在位 1841-1847)から第 4 代嗣徳帝(在位 1847-1883)の時代には,西 欧列強の侵攻が進み,1858 年にフランス・スペ イ連合軍がダナンを攻撃し,翌年はサイゴン一 帯が占領された.フランスのヴィエトナム保護 国化に反発した清の介入と嗣徳帝の崩御で,政 局は混迷し,短期間に 3 人の皇帝,第 5 代育徳 帝(在位 1883)は在位 3 日後に廃立,第 6 代 協和帝(在位 1883)は4ヶ月後に廃立,第 7 代建福帝(在位 1883-1884)が擁廃立した.そ の後もフランスの侵略は進んだ.1883 年には 第一次フエ条約,1884 年には第二次フエ条約 を締結し,阮朝は,フランスの保護国となった.

1884 年~ 1885 年には,ヴィエトナムの植民地 化を目指すフランスと,ヴィエトナムを藩属国 として宗主権を主張する清との間に清仏戦争が おこった結果,清はヴィエトナムの宗主権を放 棄した.

 早世した建福帝ののちに,第 8 代咸宜帝(在 位 1884-1885)が即位した後,フランスの植民 地支配に抵抗した.しかし咸宜帝は,1885 にフ エを出奔した.フランスは,咸宣帝の出奔後に,

第 9 代同慶帝(在位 1885-1888)を擁立した.

フランスは反仏抵抗運動を行った咸宜帝を 1888 年にアフリカのアルジェリアに流謫した 92.  これ以降も阮朝は存続するが,実権はフラン スが握り,植民地となった.フランスは,ロー マ字表記の正書法,クオックグーを普及し,フ ランス語による教育などを通して文化的な同化 を図った.1887 年には,ヴィエトナム,カンボ ジアから成るフランス領インドシナ連邦が成立 した.1893 年には,ラオスもフランス領インド シナ連邦に編入した.

 第 10 代成泰帝(在位 1889-1907),第 11 代 維新帝(在位 1907-1916)はフランスに反乱を 企てた 93.フランスは,第一次大戦(1914-1918)

(21)

図1-4 『大南一統志』所収の皇城図

図1-6 明命帝期のヴィエトナム

表1-1 阮朝歴代皇帝と在位期間

廟号・王号 本名(諱) 在位年 元号 西暦

世祖(嘉隆帝)

Thế Tổ Gia Long

阮福映 Nguyễn phước Ánh

1802-1820 嘉隆 1-181802-1819

聖祖(明命帝)

Thánh Tổ (Minh Mạng)

阮福胶 Nguyễn phước Đảm

1820-1841 明命 1-211820-1840

憲祖(紹治帝)

Hiến Tổ (Thiệu Trị)

阮福 Nguyễn phước Dung

1841-1847 紹治 1-7 1841-1847

翼宗(嗣徳帝)

Dực Tông Tự Đức

阮福王時 Nguyễn phước Thì

1847-1883 嗣徳 1-361847-1883

恭恵皇(育徳帝)

Cung Huệ Hoàng (Dực Đức)

阮膺禛 Nguyễn Ưng Chân

1883 育徳 1 1883

廃帝(協和帝)

Phế đế Hiệp Hòa

阮福昇 Nguyễn phước Thăng

1883 協和 1 1883

簡宗(建福帝)

Giản Tông Kiến Phúc 阮福昊 Nguyễn phước Hạo

1883-1884 建福 1 1884

出帝(咸宜帝)

Xuất đế (Hàm Nghi)

阮福明 Nguyễn phước Minh

1884-1885 咸宜 1 1885

景宗(同慶帝)

Cảnh Tông Đồng Khánh 阮福昪 Nguyễn phước Biện

1885-1889 同慶 1-3 1886-1888

成泰帝 Thành Thái

阮福昭 Nguyễn phước Chiêu

1889-1907 成泰 1-191889-1907

維新帝 Duy Tân

阮福晃 Nguyễn phước Hoảng

1907-1916 維新 1-10 1907-1916

啓定帝 Khải Định

阮福晙 Nguyễn phước Tuấn

1916-1925 啓定 1-10 1916-1925

保大帝 Bảo Đại

阮福晪 Nguyễn phước Thiển

1926-1945 保大 1-20 1926-1945

表 1-1 注:[ 石井(監修) 1999:378] の掲載表では,本名(諱)欄は,「阮福映 Nguyễn phước( phúc)Anh」のように,以下phước( phúc)と 該当箇所が記載されているが,本名(諱)欄の「phước( phúc)」の記載は,本表では「phước」で統一した.

図1-5 阮朝世譜

               初代 嘉隆帝       (1802 ~ 1820)

             第 2 代 明命帝        (1820 ~ 1841)

             第 3 代 紹治帝       (1841 ~ 1847)

第 6 代 協和帝   堅太王   瑞太王   第 4 代 嗣徳帝   洪保   (1883)      (1847 ~ 1883)

第 8 代 咸宣帝  第7代 建福帝  第 9 代 同慶帝   第 5 代 育徳帝 (1884 ~ 1885) (1883 ~ 1884) (1885 ~ 1889)   (1883)

       

         第 12 代 啓定帝  第 10 代 成泰帝        (1916 ~ 1925)   (1889 ~ 1907)

       

       第 13 代 保大帝  第 11 代 維新帝          (1926 ~ 1945)   (1907 ~ 1916)

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中の 1916 年に成泰帝と維新帝をレユニオン島 に流謫した.

 その後,第 12 代啓定帝(在位 1916-1925)(写 真 1),第 13 代保大帝(1926-1945)が即位した.

 1930 年にヴィエトナム共産党が成立した.

1939 年に第二次世界大戦が開戦すると,1940 年にインドシナ総督府は日本軍の北部インドシ ナ進駐を承認した.1941 年にはインドシナ総 督府はインドシナ全域に日本軍の駐留を承認す る共同防衛協定を締結した.しかしヴィエトナ ムはフランスと日本の二重の支配下にあった.

1941 年にはヴィエトナム独立同盟(ベトミン)

を結成した.1945 年,日本のクーデターによっ てフランスは保護国条約を放棄したが,その後 ベトミンが勢力を拡大した.ベトミンは日本軍 から政権を奪取し,保大帝が退位して阮朝は幕 を閉じた.

③ヴィエトナム民主共和国~現在

 1945 年,ヴィエトナム民主共和国が樹立し た94.フランスは再植民地化を目指し,第 1 次

インドシナ戦争(1946-1954)が開戦されたが,

1954 年にフランスが撤退した.この戦争の停戦 を定めたジュネーブ協定により,南北に分断し た国家が成立した.北部は社会主義政権,南部 は民族解放勢力と政府側の対立がおこった.内 乱にアメリカも介入したため,第 2 次インドシ ナ戦争(ヴィエトナム戦争)に発展し,1975 年 に終結した.1976 年には,ヴィエトナム社会主 義共和国が樹立した.

 ヴィエトナム戦争終結後,ヴィエトナムとカ ンボジアおよび中国の対立が顕在化した. 1978 年ヴィエトナムはカンボジアに侵攻した.1979 年中越戦争がおこったが,1989 年にヴィエトナ ムが撤退した.カンボジア侵攻や難民の大量流 出は国際的な非難を浴び,欧米諸国からの援助 が停止した.1986 年にはドイモイ政策を提起し,

市場経済の導入や社会主義だけではなく開放す る政策などをとった.1990 年代にはドイモイ政 策が本格化し,1991 年には中国との関係修復,

1995 年には ASEAN 加盟,アメリカとの国交正 常化を果たした.

図1-7 明命帝 肖像 写真1-1 啓定帝 肖像

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世朝区 奉先宮区 延壽宮区

長寧宮区 紫禁城

乾成宮

外朝区 太廟区

内務府区 幾暇園区

午門 太和殿

肇祖廟 太祖廟 閲是堂

右廡  左廡勤成殿 乾成殿 坤泰殿 建中楼

延壽宮正殿

奉先殿

興祖廟

世祖廟

写真1-2 北側から撮影した紫禁城航空写真 [1913-1921 撮影 ]

写真1-3 南側から撮影した紫禁城航空写真 [1921 年以降撮影 ] 図1-8 皇城図

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2・2 阮朝京城・皇城 の造営配置

 フエの歴史的建造物群は,京城,京城内に位 置する皇城 ,歴代皇帝陵などから構成される.

阮朝の造営過程・配置は,中沢信一郎,坂本忠 規,柳下敦彦による研究,皇城・京城に関しては,

大塚健司による研究,乾成宮に関しては,中村 泰一による研究,午門に関しては,佐野記士に よる研究,漢喃史料の記述からみた阮朝王宮及 び皇帝陵の造営過程に関しては,富澤明,木谷 建太による研究などに詳しい95.以下関連する 研究を整理する.

 阮朝初代皇帝嘉隆帝は,即位後,嘉隆 2 年 [1803] から都城の大規模な増築をはじめ,香河 の北岸にほぼ正方形の京城を計画した96.中国 の伝統的な都市計画を踏襲する一方で,京城に はヴォーバン式築城法による城郭を採用した.

京城は,香河からひかれた濠がめぐり,河の埋 め立てなど土木工事も行われた造営は,明命帝 期には完成する.

 歴代皇帝が鎮座した王宮は,京城の南辺中央 に位置し,皇城(あるいは大内)と称される . 敷 地は磚(焼成煉瓦)の城壁で囲まれる.

 皇城の外は濠がめぐり,東西南北に門が置か れ,南は午門,東は顕仁門,西を彰徳門,北を 和平門が位置する.

 京城と皇城は縦横の街路により区画される.

皇城の南半中央は,午門,太和殿を中心とした 行政区,北半中央は,皇帝の居住区である紫禁 城などと区分される(図 1-8, 写真 1-2 ~ 1-3).

勤成殿は,紫禁城内に位置する97

 先行研究によると,ヴィエトナムの歴代王朝 は,儒教や陰陽思想の影響を受け,「太和殿(公 的=前)⇄ 紫禁城(私的)などの,阮朝皇城 の配置計画にもその影響があるとされる98.  陵寝建築は,基本的な計画と儀礼が陰陽思想 と礼制に基づく一方で,離宮としての機能や亜 熱帯の風土的要素が付加され,独自の発展を遂 げたことが指摘される99

 「表面的な古代性の裏で,阮朝はその起源から 近代的な要素をはらんでいた.嘉隆帝は建国に フランスの宣教師と義勇軍の助力を得るが,そ れを起因として次第にフランスの干渉が強くな

り,1884 年までにベトナムは完全に植民地化し 皇帝は傀儡となる.そしてフランス文化の洗礼 を受けた皇帝たちは陵墓の設計にさらに西洋建 築の様式を折衷させていく.」100

2・3 阮朝の建築形式

 阮朝宮殿建築の建築架構・建築形式に関して は,坂本忠規,山口亜由美,レ・ヴィン・アン【Lê Vĩnh An】,金山恵美子による研究,漢喃史料の 記述にみる装飾形式については,斉藤由佳里の 研究などに詳しい101.以下関連する研究を整理 する.

 『大南會典事例正編』では,機能によって宮 殿建築を分類する102.以下に分類の一部を示す

103

「宮殿」

 京城と皇城にある内政を執り行う重要な建物

「壇廟」

 宗教と先祖崇拝のための建物

「城臺」

 防衛上の建物

「陵寝」

 皇帝陵と親族の陵墓

 各建物は,「殿」・「廟」・「堂」・「楼」・「門」な どの重要度によって,さらに階層化され,区分 される104

住居・官僚施設など105

「殿」・「院」,「堂」,「廡」

 「殿」と「廟」は重要な宮殿区域の主殿の殿舎 が示され,勤成殿(紫禁城・乾成宮),太和殿(外 朝区)などである.「堂」は,「殿」と似た役割だが,

京城や皇城内にも設けられる場合は,閲是堂(紫 禁城・乾成宮)などのように特化した区域の正 堂を示す106.「廡」・「院」は,主殿の左右配殿と する殿舎を示し,二次的で従属的な建築に用い られ,左右廡(紫禁城・乾成宮)などがある107

祭祀建築

「廟」,「祀」,「寺」,「庵」

(25)

 「廟」は世祖廟など,主要な建築,「祀」は土 公祠など脇殿に用いられる.儒教・道教・地位・

仏を祀る祠,寺院を指す場合もある108

門・楼閣

「門」,「樓」,「閣」

 「門」は扉のない坊門や,三つの門口を持つ三 関門などがある.「樓」は書斎の意にも用いる

109

園池に臨む建築

「榭」,「亭」

(1)架構形式による分類

 木造架構形式により 4 つに大別される(図

1-9).

①連棟式建築

 各建築区域の主殿を複数の棟を並べ,規模を 確保する建築を連棟式建築と称する.連棟式建 築は,フエ宮殿建築の代表的な形式であり,二 連棟式と三連棟式の二種類がある.二連棟式は,

前殿・正殿の二棟,三連棟式は,前殿・正殿・

後殿の三棟から構成される110

桁行規模

正殿が 3 ~ 11 間に左右両廂,前殿を五 ~ 一三 間と左右両一廂.全体では 8~14 柱筋111. 梁行規模

7間,8 柱筋(軒を除く)112

図1-9 阮朝宮殿建築の架構類型

『大南曾典事例』「工部」二百七巻,六葉〉

世祖廟 / 基高三尺六寸 / 正脊九間前脊十一間 / 東西兩廂 / 重梁・重簷 / 龍吻・頂安琺 藍天壺・覆黄瑠璃瓦 / 前製廊門 門 / 朱丹漆金銀湘飭 / 石階 / 陛南三陛・東西各一陛 / 毎陛 五級 / 間陛三出餘各一出皆龍虬

表1-2

 『大南會典事例』世祖廟の形式記述と表記項目解釈 分類 漢喃

表記項目

表記内容 解釈

構造形式

正脊 ○間 正楹に架ける棟木の柱間数 前脊 ○間 前楹に架ける棟木の柱間数 後脊 ○間 後楹に架ける棟木の柱間数 東西両廂 有無

重梁 有無 横架材を重ねる架構

重簷 有無 裳階

承榮 有無 軒の腕木

飛簷 有無 付庇

前簷 有無 前面裳階

基高 ○尺○寸 基壇の高さ

○陛 階段の出る数

○級 階段段数

○出 階段が耳石に分けられる数 装飾様式 龍吻 有無 龍の棟飾り

寶珠 有無 宝珠風の棟飾り 天壺 有無 壺型の棟飾り 黄琉璃瓦 有無 黄色の瓦 青琉璃瓦 有無 青緑色の瓦 陰陽瓦 有無 土色の瓦 窗(牕) 有無

 『大南會典事例』世祖廟の形式表記

写真1-4 世祖廟 ( 二連棟式建築・立面)

(26)

写真1-5 太和殿 ( 二連棟式建築・立面) 写真1-6 太和殿 ( 二連棟式建築・側面)

写真1-7 左廡 ( 単棟式建築・立面)

写真1-9 顯臨閣 ( 楼閣建築)

写真1-11 午門 ( 門楼建築・立面)

写真1-10 宮門 ( 門楼建築)

写真1-8 左廡 ( 単棟式建築・側面)

写真1-12 午門 ( 門楼建築・側面)

表 1-1 注:[ 石井(監修) 1999:378] の掲載表では,本名(諱)欄は,「阮福映 Nguyễn phước( phúc)Anh」のように,以下 phước( phúc)と 該当箇所が記載されているが,本名(諱)欄の「phước( phúc)」の記載は,本表では「phước」で統一した. 図1-5 阮朝世譜               初代 嘉隆帝              (1802 ~ 1820)                              第 2 代 明命帝  
表 2-18 注:
図 2-54 注:青枠はソンソンテップヴァン,赤枠はソンソン,茶枠はソンデンを示す.

参照

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