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ジョンソンの『人間の願望の空しさ』におけるジャ ンルの問題

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(1)

ジョンソンの『人間の願望の空しさ』におけるジャ ンルの問題

著者 圓月 勝博

雑誌名 主流

号 50

ページ 29‑42

発行年 1989‑03‑20

権利 同志社大学英文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014997

(2)

ジョンソンの『人間の願望の空しさ j における ジャンルの問題

園 月 勝

1

29 

サミュエル・ジョンソンの『人間の願望の空しさ j(1749)は,その副題 が明示するように,ユウェナーリス作「風刺詩第十番」の模倣である 模 倣というジャンルは,ジョンソンの『辞書j に拠ると, ドライデンが確立し た翻訳の三区分一一一逐語訳,意訳,模倣一一ーの最後のものを指す 2 いわば,

翻訳の一種である.芸術の本質は独創性にある,という通俗的ロマン主義や,

あるいは,個々の文学作品は独立した有機的統ーを持つ,という新批評的教 条が支配的であった現代批評において,このジャンルが十分な検討を加えら れてきたとは言いがたい. しかし,ロマン主義のより厳密な再評価と脱新批 評の動向がようやく定着しつつある今,模倣というジャンルについて再考し てみることは興味深い問題点を提起してくれるであろう.

本稿の前半において,まず,このジャンルの生成と衰退の原因を探りなが ら,古典原作者の権威と模倣作者の自己表現という相互排他的な二つの概念 の葛藤がジョンソンの模倣観にあることを確認する.さらに,模倣と他のジャ

ンル一一風刺詩,地誌詩,旅行文学一一ーとの接点を考察した上で,後半にお いては,

r

人聞の願望の空しさjの語りの仕掛けを歴史地図上での人間風俗 の観察として捕らえ,原作者の背後に隠蔽された観察者としての模倣作者の 主観性がどのように主題化されているかを分析する.最後に,この作品に見

られる古典の権威と近代詩人の自己表現の確執を歴史的に位置づける.

(3)

30  ジョンソンの『人間の願望の空しさ』におけるジャンルの問題

模倣というジャンルは十七世紀後半から十八世紀中葉にかけて流行した.

このジャンルの発生をドライデンはデナムとカウリーに

(WJD

1

, 

1 1 6 )

,ジョ ンソンはオウルダムとロチェスター伯に帰しているが 創始者の一人とさ れるオウルダムも示唆するように 4 古典作品の翻案というだけなら決して 先例がないわけではない.問題の所在は,王政復古期に古典作品の翻案が模 倣という名で一つのジャンルとして認められ,スウイフト,ポープ,ジョン ソン等当代一流の詩人によって盛んに実践された後,急速に衰退したのはな ぜか,という点にある.

まず,このジャンルの成立現場を検証するために,創始者の一人として名 前の出たカウリーの「ピンダロス風オード

J ( 1 6 5 6 )

を見てみよう.

r

異郷の 作家をこんなに自由に訳したものを翻訳と呼ぶことを文法学者たちは多分認 めようとしないのではないか

J

という懸念を彼は表明し,自分の作品を「翻 訳」ではなく「模倣

J

と呼ぶ.そして,自分は「翻訳者

J

という「名前」に は執着しないが,それに代わる「名前はまだ無いj と告白する 自分の作 品を仮に「模倣

J

と呼んでみたものの,その作者である自分をどのように位 置づけるべきか解らないのである.

この困惑を引き起こしたものが「文法学者たち」であったことは示唆的で ある.カウリーの盟友スプラ7トを中心にして王政復古を機に「王立協会

J

を結成し,言語整備運動を旗印に 6 英国における近代合理主義を推進する ことになる学者たちを念頭に置いた発言であることは想像に難くない.これ までは漫然と詩作の一手法として認められてきた翻案がより微細な批評基準 によって弁別されて,より細分化された分類項目の中に位置づけられること が要求され始めたのである.

「まだ、その名前を失っていないとしたら

J

,模倣作者も「翻訳者」である,

1 6 8 0

年にドライデンは明言し,先にも触れた翻訳の三区分に模倣を位置づ

(4)

ジョンソンの『人間の願望の空しさ』におけるジャンルの問題 31  ける

(WJD

1

, 

1 1 4 ) .

カウリーの上記の発言を踏まえた上で,新たに弁別さ れた実践を正式に命名し,体系の中に分類するという作業をドライデンは 行ったのである.模倣というジャンルの成立をこのあたりに求めることは決

して的外れではなかろう.

模倣というジャンルの特質を説明するにあたって, ドライデンは二つの示 唆的な比聡を導入する.庭園と肖像画である.まず,文学における模倣が「無 駄な枝を刈り取ること」と呼ばれる

(WJD

1

, 

1 1 8 ) .

根底にある図式は,野 生の樹木(自然)に喰えられた古典原典と手入れをされた樹木(庭園)に喰 えられた模倣作品というこ項対立である.古典原典と模倣作品のこの関係は,

絵画における「実物j と「肖像画

J

の関係に置き換えられて展開される

(WJD

,  ,1

1 1 8 ‑ 9 ) .

翻訳における古典原典と模倣作品の関係が,明らかに,

新古典主義を特徴づける「自然」と「美しき自然jの相関関係としで捕らえ られているのである 7

「自然とホメロスは同一物」と名文句を吐いて

u

批評論J, 1. 135),ポー

プが翻訳や模倣に腕を振るうのも上記の翻訳観があればこその話であろうO

彼は「自然を写すということは古代の規則を写すということ

J

(1. 140)とも 言うが,

r

写す

J

ぺき「自然」及ぴ「古代の規則」とは具体的に何を意味す るのか.

さらに明確な解答を得るために,

r

シェイクスピアは自然の詩人j という 命題を引き出そうとするジョンソンが披露した古代文学論を見てみよう 8

「近代人の欠点」をあげつらい,やみくもに「古代人の美」を賞揚する輩に は彼は与しない.かわりに,

r

観察と経験

J

に基づく検証を彼は提唱する.

なぜ、なら,山のような「自然の作品」を見てその高低を論ずることができる のは他の山との比較が念頭にあるからであり,同じように,文学作品のよう な「精神的能力の産物

J

を評価する時も「一般的かつ集合的な人間j によっ て蓄積された経験的批評基準が不可欠なのである.ここで注目しなければな らない点は,

r

自然」と「精神的能力jが同一レヴェルで捕らえられている

(5)

32  ジョンソンの『人間の願望の空しさ

1

におけるジャンルの問題

ことである.山が神によって創造された「自然」であるように,人間の精神 も神によって創造された「自然」なのである.文学が「写す」ものは精神と いう「自然」なのである.

古典作品に現れるこの「自然」をさらに吟味して,ジョンソンは「風俗j や「恋意的な着想

J

という「不規則な

J

部分と「一般的な自然の正確な再表 象j という万人に喜び、を与える部分を識別する.

r

観察と経験j によって識 別されたこの「一般的自然

J

こそ詩人が「写す

J

べき「自然」なのであり,

そこに内在するはずの規則性こそ詩人が「写すjべき「古代の規則jだとい うことになる.

ここには古代・近代優劣論争に対する絶妙の解答がある.文学作品の優劣 は書かれた時期によって決定されるべきものではない.確かに,古代の作品 は長い年月の聞に淘汰されているので,優れたものが残っている確率は高い.

しかし,近代詩人の中にも,

r

一般的な自然」をよく「観察

J

し,

r

人類共通 の人間性」を再表象することに成功したシェイクスピアのような優れた詩人 もいる (WSJ,

V I I

, 

6 2 ) .   r

風俗」のような「自然

J

の変動部分の背後には「観 察と経験」をとおして知覚し得る「人類共通の人間性」があるはずだ,とい うこの前提は新古典主義特有の人性普遍論である 9 このように人性普遍論 に立脚した上で,歴史上のすべての文学作品を同一平面上に並べることによ り,ジョンソンは古代と近代の対立を揚棄するのである.

彼は模倣というジャンルを「近代の事例及び例証か古代のものに代わって,

あるいは,園内の事例及び例証が異国のものに代わって用いられた翻訳方法

J

と定義する

c r

辞書

j )

.ここでもやはり,

r

近代」と「古代」及び「国内」と

「異国

J

が相互互換的なものとされ,その時間的差異と空間的差異が捨象さ れている.古典作家の原典に近代作家の意識を重ね合わせることにより見え てくるはずの「一般的な自然」を再表象することが模倣というジャンルの主 眼なのである.

では,模倣というジャンルが再表象すべき「一般的な自然」とは具体的に

(6)

ジョンソンの『人間の願望の空しさjにおけるジャンルの問題 33  何なのか.

r

模倣

J

とは「古代人の感情を近代の主題に適用することにより 古代人を身近なものにする」文学形式だ¥ともジョンソンは言う (Lives,III, 

1 7 6 ) .

模倣というジャンルが再表象すべき「一般的な自然」とは「古代人の 感情」なのである.

r

感受性の時代」とも呼ばれる十八世紀中葉には,アダム・

スミスの『道徳感情論

J ( 1 7 5 9 )

にも論述されているように,感情というも のは一定の観念により特定の法則に従って形成される自然的な,故に,道徳 的な「人類共通の人間性」として重要な意義を与えられていたのである.

「一般的な自然

J

としての「感情」というものは客観的な事物ではなくむ しろ主観的な判断に存在論的基盤を持つ.もし詩というものが「現実の模倣」

であるならば,

r

それは時に私たちが期待するものを示すべきである jとジョ ンソンは言いp 再表象すべき「一般的な自然」は外界にではなく「期待

J

と いう読者の精神活動にあることを示唆する(Lives,

I I

, 

1 3 5 ) .   r

リア王』を大 団円にしたテイトの翻案

( 1 6 8 1 )

に対するジョンソンの賛同の理由もここに ある.原作のコーデリアの死が「正義という自然の観念に反する」というこ とは「一般的合意」なのでありP ジョンソンの「感じたこと」もその「一般 的合意

J

に合致するので,改訂は妥当なのである

(WSJ

V I I

, 704).実際の 自然=テクストの中に「正義」などというものが完全に発現することはない.

しかし,まさにその欠落の中に私たちは「正義

J

を知覚し,

r

期待」という 形で主体的にそれを再構築してしまう.コーデリアの死を見た時,欠落した 正義を感じなければならないわけである.ここには価値判断に関する社会的 強制力がある.この点で,模倣と風刺というごつのジャンルは交錯する.風 刺の本質も人間の精神に理念として内在する自然のあるべき姿を伝えて10

「公衆の好み

J

を洗練すること (Lives,III, 242)にあるからである.

同じ古代の模倣でも,牧歌に対するジョンソンの評価が低い理由の一つは,

時間と空間を超越した視点からの「観察」によって生ずるこのような「感情 の高揚と洗練」が牧歌には適さない,という点にある

(WSJ

,III, 203).し かし,牧歌における「自然」の「効果

J

の画一性に対する批判は(WST,III, 

(7)

3 4  

ジョンソンの f人間の願望の空しさ』におけるジャンルの問題

1 9 7 )

,模倣全般にも適用し得るものであろう.なぜなら,先にも見たように,

模倣というジャンルは古典原典に再表象された「古代人の感情

J

と近代受容 者への「効果jとして生ずる「感情jの画一性を措定するものだからである.

事実,模倣に対するジョンソンの評価は低い.

r

ランプラー

J 1 2 1

号では,

模倣を「ウェルギリウスでさえ免れることのできなかったj衝動に基づく行 為として消極的な立場から再考し,

I

新たな発見と独創的な感情」を追い求 める同時代に対して共感を示している.さらに

1 3 7

号では,

I

知的世界の新た な領域を発見し征服することにより知の境界を拡大することは文学の英雄に ふさわしい野望だ」と言い切る.模倣というジャンルが直面する袋小路を突 破するためには"

I

古代人の感情」の再表象では認識し得ない「知的世界の 新たな領域jを近代受容者の精神の中に「発見」するしか道は無いのである.

ボープの『ホラティウス模倣~

( 1 7 3 3 )

に対するジョンソンの痛烈な批判は,

模倣というジャンルが車面する問題を総括する.

I

昔の作家の感情を最近の 事実や身近な心象に適合させる」ためには,受容者の側に「原典の知識」が 要求され,

I

学識ある人々」ならいざ知らず,

I

一般読者」には「喜びを与え ない

J .

与えたとしても,古代ローマと近代英国の閣には「融和し難い相異」

があり,その作品は「創作でもなければ翻訳でもなく,古代でもなければ近 代でもない

J .

要するに,

r

ホラテイウス模倣』には『髪の強奪jに見られる

「発見」が無いのである .

( L i v e s

, 

I I I

, 

2 4 7 )  

上の評言には三つの重要な点がある.一つは十八世紀における読者層の拡 大に伴う古典権威の失墜である.文学作品が想定する「一般読者」は古典の

「原典の知識」を持たないことが常識になり,古典権威に名を借りる模倣と いうジャンルがその特質である社会的強制力を行使できなくなったのであ る.二番目は近代合理主義の分類的思考の徹底である.創作は創作,翻訳は 翻訳,あるいは,古代は古代,近代は近代なのであり,その中間形態である 模倣というジャンルは否定され,分類体系の両極に二極分解される.三番目 は古代と近代の関にある「融和し難い相異jの認識である.

r

感情」を生み

(8)

ジョンソンの『人間の願望の空しさjにおけるジャンルの問題 35  出す母体が異なれば,それが生み出す「感情

J

も異なるはずである.ここに は,

r

感情」そのものから「感情

J

を生み出す主体への関心の移行がある.

摸倣というジャンルで再表象されるものは,純然たる原作者の「感情

J

では なく,それを主体的に再構築した模倣作者の「感情」でもある.

以上のように,原作者の権威の低下,混然一体となっていた原作者と模倣 作者の分離,模倣作者の原作者の地位への上昇,という三つの要因によって,

模倣というジャンルは衰退していく.そして,死に瀕したこのジャンルが生 み出した最後の名作こそ『人間の願望の空しさ

J

なのである.

Let Observation withxtensiveView,  Survey Mankind, from China to Peru; 

官頭の濃密な対句がこの詩の語りの仕掛けを明らかにする.

r

中国からベ ルーまで

J

とされた領域設定は,原典では「ガデスから曙の女神とガンジス 川まで」となっている.確かに, ドライデンが訳したように,古代ローマに おいては,ジブラタル海峡からガンジス川までが「居住可能世界」であった.

しかし,今では,西洋列強諸国が食指を伸ばすべルーや東方貿易の中で脚光 を浴び、る中国という古代世界には知られていなかった遠隔の地に関する見聞 がジョンソンのもとにも届き 11 彼の日の前には新たな世界が聞けている のだ.

r

拡大じた視野」に入ってくる「知的世界の新たな領域

J

を「観察

J

という経験的視覚認識をとおして精査し,個々の人間ではなく「人間という 種

J

の中に何かを「発見

J

しようとする詩人の「烏搬する」視線が圧倒的だ¥

模倣というジャンルにとっては死刑宣告にも等しい「知的世界の新たな領 域

J

の「発見」という同時代の文学的需要に応えるため,ジョンソンは十八 世紀に最もよくこの要求を満たした二つのジャンルを語りの仕掛けに混入し ている.一つは地誌詩である.二行日の「烏搬する

J

という動詞をジョンソ

(9)

36  ジョンソンの『人間の願望の空しき』におけるジャンルの問題

ンの『辞書

J

で引くと,デナムの「クーパーの丘

J ( 1 6 6 8 )

がミルトンと共 に用例として挙がっている.模倣というジャンルの創始者の一人と目されて いたデナムこそ,同時に,地誌詩の創始者として十八世紀に高く評価されて いた人物なのである 12 地誌詩とは,

r

デナム伝」におけるジョンソンの定 義に拠ると,

r

歴史的な回顧及び付随的な黙想、によって与えられるような装 飾を伴って詩的に描かれるべき風景」を主題とする詩を指す

( L i v e s

1

, 

7 7 ) .  

模倣というジャンル同様,地誌詩においても,

r

歴史的な回顧

J

という時間 的遠近法と「風景」という空間的遠近法の交錯がその主題を形成する.

r

クー パーの丘」からワーズワースの「テインターン僧院

J ( 1 7 9 8 )

に至るあの時 空の彼方から「烏搬するj詩人の超越的な視線が『人間の願望の空しさ』に

も導入されているのである.

この詩に見られるもう一つのジャンルは旅行文学である 13 ポープは「精 神の働きについての観察」をよく行い,

r

この好奇心jが披の中に「旅行に 対する欲望j を生み出していた,とジョンソンは洞察する

( L i v e s

I I I

, 

2 1 6 ) .  

「旅行

J

をとおして様々な風俗に殺しみ自分の個人的な粋組みを超えて「人 間という種」を「観察」したいという「欲望jは現代にまで引き継がれてい るが,グランド・ツアーの大流行に見られるように,十八世紀が初めて制度 化した「欲望」である.

r

スコットランド西方諸島への旅

J ( 1 7 7 5 )

でジョン ソンも後に手を染めることになるこのジャンルの十八世紀英文学における人 気には日を見張るものがある.スウィフトの『ガリヴァー旅行記

J ( 1 7 2 6 )  

はあらゆる階層の人々に読まれた,というジョンソンの評言には羨望にも近 いものがある

( L i v e s

I I I

, 

3 8 ) .

原典では付随的な旅人のエピソードを(11.

19‑22)

ジョンソンが『人間の願望の空しさ』の中で独立したパラグラフに 発展させ(11.

37‑44)

, 

r

旅行」を前景化していることは注目に値する.

r

知 的世界の新たな領域」の「発見」を渇望する「一般読者」の需要に応えるた めに,

r

中国からペルーまでjを彊い文句に,ジョンソンは読者を知の「旅行j に誘っているのである.

(10)

ジョンソンの『人間の願望の空しさ』におけるジャンルの問題 37 

「烏服する

J

主体が擬人化された「観察」という経験的視覚認識行為その ものであることはこの作品の語りの仕掛けを特概づける.語り手は人称、性を 帯ぴた形では決してテクストの中に現れず,

r

一般的な自然」を知覚する読 者の心理作用を代行し方向づけるだけである. しかし,

r

観察」という行為 が経験的なものである以上,

r

烏慨する

J

ベき具体的な対象と「烏搬する」

特定の視点が無ければその行為は成立しない.隠蔽された作者の視点を析出 する作業に取り掛かろう.

「中国からベルーまで」という当時決して珍しくなかった言葉遣いに示唆 されるように,

i r

鳥献する

J

べき対象は右側(東)に中国を,そして,左側(西) にペル」を描き込んだ世界地図である 14 ジョンソンと同じくユウェナー リスの「風刺詩第十番

J

を原典にしたオウルダムの未完の模倣においても,

「ロンドンから日本まで,そこからまわってベルーまで

J

(11.  1‑2)と同ー の視野が提示されている.オウルダムが明示するように,知覚行為の始点と

して世界地図の中心にあるのはロンドンである. w人間の願望の空しさ』は 視点としてのロンドンを隠蔽し,模倣というジャンル特有の一般性を誇示し てはいる.にもかかわらず,この世界地図を「烏撤する」詩人の視点が地理 的に位置づけられ得る個別的なものであることを読者は感知せざるを得ない のである.

「歴史に語らせよ,どこで競い合う王が支配しているかを

J

(1. 29)と擬人 化された「歴史」を詩人は語り手として次に導入してくる.地図という平面 の上に,空間的視野だけではなく,時間的視野までが凝縮され,この作品は 百科全書的な様相を帯びてくる.模倣,風刺詩,地誌詩,旅行文学という十 八世紀特有のジャンルを混合し,各ジャンルに通底する人性普遍論を豪快に 展開するこの語りの仕掛けは圧巻だ

γ

しかし,いかに「歴史」が擬人化され 一般的なものとして提示されようとも,

r

歴史」を知覚する主体が存在しな ければ,

r

歴史」も存在しない.

r

歴史」というものは「歴史」によって規定 された個人が主体的に再構築した虚構だからである.

(11)

38  ジョンソンの f人間の願望の空しさiにおけるジャンルの問題

例えば,この歴史地図の上に,ウエストミンスター寺院に建てられた(1737 年)ミルトンの胸像が示される(1.162).観光旅行に付き物の名所見物である.

しかし,ロード大主教の姿が続いて提示されると (11.167‑74),話は単なる 名所見物では済まなくなってくる.ピューリタン革命において反高位聖職者 運動の急先鋒となったミルトンとその標的となり断頭台の露と消えたロード 大主教が並置され,十七世紀英国政治史が総括されているからである.語り 手はこの二人の人物から「命取りの学問

J

(1. 172)という非政治的要素だけ

を抽出して,見事にピューリタン革命を脱イデオロギー化してしまう.十九 世紀のホイッグ史家マコーレーが『ブリタニカ百科辞典j(1857)の「ジョ

ンソン」の項目で批判するように,ロード大主教の没落の原因を「命取りの 学問

J

に求めることには無理がある.脱イデオロギー化されたミルトンとロー ド大主教が歴史地図という一枚の平面上に仲よく並んでいる歴史的光景は,

国教会体制を擁護して社会の安定を希求する一人の十八世紀詩人の視棋に よって創出されたものにほかならない.

このように,

r

人間の願望の空しさ

J

で展開される「観察」の視点は十八 世紀のロンドンにある.その局限された視点から,

I

希望と畏れ,欲望と憎悪」

(1. 5)という情念が覆い尽くす空間と時間を凝縮する幻想の歴史地図の上を

「よろめく人間

J

が「案内j もなく進んで行く光景(11.7‑8)を語り手が「烏 搬」しているのである.その「よろめく人間」は個人の集積として知覚され る「集合的人間

J

(1. 361)である.そこに語り手は「ほとんど観察されなかっ た

J

(1. 21)ものを「観察j し,その「知的世界の新たな領域j に読者を「案 内」するのである.

この「集合的人間

J

の中に,官頭の二行に内包されていた人間精神の二つ の衝動が知覚される.一つは「拡大」への願望である.権力を握り「威厳を 目一杯膨らませて

J

(1.  99)勢力拡張を計る者もいれば,学問によって自分の 業績を「拡げる

J

(1.  139)ことを夢見る者もおり,領地を「拡大する

J

(1.  195)ために武勇を頼りに東奔西走する者がいるかと思えば,

I

我が生涯を拡

(12)

ジョンソンの f人間の願望の空しさ

J

におけるジャンルの問題 39  張し給え

J

(1. 

2 5 5 )

と長寿を祈る連中も見受けられ,

r

光を発散する目

J

(l 

3 2 3 )

をして色恋にうつつを抜かす娘たちもいる.権力,学問,武勇,長寿,

美貌という世間で持てはやされているものは,

r

集合的人間」を突き動かす 自己拡大の願望の多様で個別的な,故に,不完全な現れでしかないのである.

1 7 5 5

年版の

1 3 8

行目の

B u r n s "

1 7 4 9

年版では

S p r e a d s "

であった.ボズ ウェルに拠ると 15 次の

1 3 9

行目にも同じ動詞が繰り返されることに気付い た彼の示唆をジョンソンが受け入れてなされた改訂である.確かに,同語反 復は技巧的に拙劣かもしれない.しかし,それならば,

2 4 5

行目からのこつ の対句で同じ

s p r e a d s "

という動詞が再ぴ繰り返されるのはなぜか.

r

拡が るjという運動に対する強迫観念が詩人の中にあったとしか言いようがない.

古典原典と近代社会の中に詩人が共通項として知覚したという自己拡大の願 望は,とりもなおさず,

r

知の境界を拡大する

J

ために「拡大した視野」で 世界を再構築しようとする詩人自身の願望の投影に他ならない.

満たされることのない自己拡大の願望の果てに,人間を待ち受けるものは 転落である.

r

知識ある者も勇気ある者も黄金による一般的な皆殺しの中で 転落していく.

(11. 

2 1 ‑ 2 2 )   r

黄金」とは黄金時代の神話に内包された幸福 という理想の物象化にすぎない.人聞を自己拡大に駆り立てる最も根源的な 動機は一一啓蒙主義の精華とも言うべき『アメリカ独立宣言j の言葉を借り れば一一「幸福の追求」であるはずである. しかし,幸福というものを物象 化された形態の中に追い求める限り,幸福を志向する人間の情念は「その対 象」を見いだすことはない(1.

2 4 3 ) .

誰もが躍起になって幸福を追い求めな がら,誰もが追い求めるべき真の「対象

J

を見いだしえないところに「黄金 による一般的な皆殺し」という語句の意味があり,

r

対象

J

のこの欠落こそ 人間の「空しさ

J

なのである.そこに語り手は「集合的人間jの「転落

J

を 見てしまう.

r

拡大する」という歴史地図上での水平運動が「転落する j 左 いう垂直運動に変換され,

r

烏搬する j視線では知覚できるはずのないもの が語られている.

r

知的世界の新たな領域jの「発見」という主題が極度に

(13)

40  ジョンソンの f人聞の願望の空しさjにおけるジャンルの問題 内面化されていることが明らかになる.

「人間の願望」の真の「対象」とは何かヲという間いに対する答えは最後 のパラグラフで与えられる.原、典に対する改変が最も顕著な箇所だが,重要 な点は精神というものの強調である.わずか26行(11.343‑68)の中で mind"という名調が三度も押韻語として用いられ, しかも,そのうち二度 までが find"という動詞と韻を踏み対勾を形成している.その他の押韻語 i土一切繰り返されない中で,

I

昆いだす」という視覚的認識行為に密接に結 び付けられた「精神」という人間の内面的領域が見事に前景化されている.

さらに特徴的なのは,原典では「健全な肉体における健全な精神

J

(11.  356)  となっていた箇所が,

r

人間の願望の空しさ

J

では,

I

肉体j は言及されず,

単に「健全な精神

J

(1. 359)となっている点である 「願望jの物象化を徹底 的に拒否し,その真の「対象」を「精神」の中に追い求める語り手の志向性 が如実に示される.

「天の英知は精神を静め,後女[精神]16が見いださない幸福を作り出す.

(11.  367‑8)追い求めるべき究極の「幸福」とは人照の精神が知覚し得る領 域には無いということが最終的に開示されるa しかし,この知覚し得ない「幸 福

J

の存在を認識している語り手は何者なのか.

I

集合的人間」がおしなべ て「転落」していく中で,ただ一人「鳥服する」視線を保っていた語り手の 超越的な主観性が明らかになる.知覚し得ないという存在様式においてしか 表現し得ない領域に主題を投企することにより,作者は人間の超越的な主観 性を表現する可能性を「発見」したのである.

以上見てきたように,模倣というジャンルは近代合理主義を特徴づける分 類的思考が文学ジャンル体系にも波及して生じたジャンルであった.そし て,地理上の発見に伴う世界の拡大によって引き起こされた近代人の新たな 意識の確立や,あるいは,中流階級の勃興による吉典教育を受けていなしミー

(14)

ジョンソンの『人間の願望の空しさJにおけるジャンルの問題 41  般読者層の形成という社会的変動の中で,その実践と理論に修正を迫られな がら衰退していった.文学ジャンルというものが純粋に美学的な観点から片 付けられる問題では決しでなく,非文学的領域にある歴史的要因によって規 定されるものである,ということを再認識させてくれる点で興味深い.

r

人 間の願望の空しさ』はこのような問題を内包しながら,古典原作者の権威を 借りて近代作者の独創性をいかに表現するかという綱渡りを見事に演じた作 品である.この作品を読んで次のような聞いを発することは正しい一一一近代 作者の独創性を表現するために,なぜ古典原作者の権威を借りなければなら

ないのか.

確かに,上の疑問が模倣というジャンルを急速な衰退に導いたのである.

ただし,それは近代詩人が,どれだけ過去の作品に依拠しでも,自分の作品 に「模倣」というジャンル規定をする必要を感じなくなったというだけの話 である.ロマン主義詩人ほど過去の文学の存在を強く意識した者はいないし,

いわゆるモダニストほど模倣というジャンルに内在する引験の力に頼った者 もいない.模倣というジャンルが興味深いもう一つの点は,読むという行為 が書くという行為に一体化していることである.読むという行為は新たな意 味を創造することではないのか.書くという行為は既に認識されたものを再 表象することではないのか.模倣というジャンルが提起するこの問題は,ポ スト・モダニズムとよばれる現代の創作と批評が今も格闘している問題でも ある.

1本稿では DavidNichol Smith and Edward L. McAdam (eds.), The Poems 

0 /  

Samuel Johnson (2nd ed; Oxford: The Clarendon Press, 1974)を定本とする.

2 H. T. Swedenberg, ]r (generaled.), The Works 

0 /  

John Drッden, 15 vols.  (Ber  keley: UnivofCalifornia Press, 1956ー),1,114‑9.以下WJDと略す.

3 George Birkbeck HiIl  (ed.), Lives 

0 /  

the  English Poets, 3 voIs.  (Oxford:  Th

Clarendon Press, 1905), II!,  176以下Livesと略す.

4 Harold F. Brooks. and Roman Selden (eds.), The Poems 

0 /  

John Oldham (Oxford  The Clarendon Press, 1987), p.  88. 

(15)

42  ジョンソンの f人間の願望の空しさ』におけるヅャンルの問題

5 Alexander B. Grosart (ed.), The Complete Works Verseand Prose of Abraham  Coω句(1881;rpt. New York: AMS Press, 1967), II, 4. 

6 J. E. Spingarn (ed.), Critical Essays of the Seventeenth Ctury,3 vols. (1907; rpt.  Bloomington: lndiana UnivPress, 1967), II, 112‑9

7 Cf拙論「不在の英雄一一『マック・フレックノウjにおけるドライデンのレトリッ クー‑J,

r

主流』第47号(1986),18‑34. 

8 John H. Middendori (general ed.), The Works of Samuel Johnson, 11 vols(New Haven: Yale Univ. Press, 1958ー),VII, 58‑62以下 WSJと略す.

9 Cf.拙論「ポープの『ある婦人への手紙jにおける黄金時代の神話とマリア崇敬

J .

f同志社大学英語英文学研究j第41号(1986),1‑30 

10  Cf前掲二拙論.

11  The Works of Samz.Johnson (1825; rpt. New York: AMS, 1970), VI, 20‑31 and  117. 

12  Robert  Arnold  Aubin, TopogllphicalPoetη in  XVIIl‑Century England (1936;  Millwood: Kraus Reprint, 1980). Cf.  William Kupersmith, ,More Like an Orator  Than a Philosopher'; Rhetorical Structure in The Vanity of Human Wishes," SP,72  (1975), 455‑6 

13  Cf. Thomas M. Curley, Samuel Johnson and the Age of Travel (Athens: The Univ  of Georgia Press, 1976) 

14  例えば,チャールズ・ブリッカー『世界古地図』矢守一彦訳(東京:日本ブリタ ニカ, 1981), pp. 111‑2. Cf. Donald Greene (ed.), Samuel Johnson (Oxford: Oxford  Univ. Press, 1984), p.  794 

15  George Birkbeck Hill (ed.), Boswell's Life of Johnson, 6 vols (Revised ed.;  Ox‑ ford: The Clarendon Press, 1934), III, 357‑8. 

16  Cf. John E. Sitter,To The Vanity of Human Wishes Through the 1740's," SP,  74 (1977), 462‑3. 

参照

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