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界 ﹄ 第 四 三 番 草 稿 に お け る 本 能 の 自 我

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(1)

フ ッ サ ー

ル ﹃ 生 世

界 ﹄ 第 四 三 番 草 稿 に お け る 本 能 の 自 我

中 村 拓 也

流 れは アプ リオ リに エゴ によ って 時間 客観 化さ れて いる

︒こ の時 間化 する はた らき はそ れ自 身流 れる 時間 客観 化 す る は た ら き で あ る︒ つ ま り︑ 流 れ る こ と が た え ず 先 ん じ て あ る︒ し か し 自 我 も ま た 先 ん じ て あ

る︵XXXIV

181

︒ この

自我 のあ り方 を巡 る謎 めい たフ ッサ ール の言 明は

︑ヘ ルト が︑ 現象 学的 自我 論・ 時間 論の 古典 的研 究﹃ 生け る 現 在

││ 時間 の 問 題構 制 を 手引 き に 展 開さ れ た︑ エ トム ン ト・ フ ッ サー ル に おけ る 超 越論 的 自 我 の 存 在 仕 方 へ の 問 い

にお い て︑ き わめ て 印 象的 な 仕 方 で︑ 当時 未 公 刊で あ っ たフ ッ サ ー ルの 後 期 の時 間 草 稿︑ いわ ゆ る C草 稿 か ら 引 用す るこ とに よっ て︑ 研究 者の 間で は非 常に よく 知ら れる こと にな り︑ これ まで すで に数 多く の思 索を 誘発 して き た

︒ 流れ と自 我に つい ての この 言明 が示 して いる のは

︑フ ッサ ール 自身 が最 後期 に至 って 突き 当た るこ とに なっ た超 越 論 的主 観性 の最 深層 で生 起し てい る謎

︑す なわ ち︑ いわ く言 い表 し難 い超 越論 的自 我の 存在 の仕 方が

︑現 象学 をそ の 限 界に 直面 させ る謎 にほ かな らな いと いう こと であ る︒ そし て︑ 別の 角度 から

︑す なわ ち︑ 本能 とい う現 象を 超越 論

― 123 ―

(2)

的 主観 性の 最深 層で 生起 する 謎︑ すな わ ち︑ 発生 的 根 源 とし て の 始原

︵Anfang

︶の 問 題 とし て 捉 える こ と に よっ て

︑ 同 じ事 態に 照明 を当 てた のが

︑ナ ミ ン・ リ ーの

﹃エ ト ム ント

・フ ッ サ ー ルの 本 能 の現 象 学﹄

︵ 以下

﹃本 能 の 現 象学

﹄︶ に ほか なら ない

︒ 本能 が︑ フッ サー ル現 象学 にお いて 重要 な問 題で ある こと は︑ リー の﹃ 本能 の現 象学

﹄以 来︑ 研究 者に とっ て基 本 的 な共 通理 解と なっ た︒ なる ほど

︑フ ッサ ール は︑ その 後期 に当 たる 一九 三〇 年代 に︑ 繰り 返し 本能 の問 題を 分析 の 主 題と して 取り 上げ てい る︒ その こと から も︑ とり わけ 発生 の問 題へ の問 いを 倦ま ずに 問い 進め てい た後 期フ ッサ ー ル にと って の本 能の 問題 の重 要性 は明 らか だろ う︒ 本能 と自 我と いう リー が開 いた 問題 の地 平を

︑フ ッサ ール 自身 のテ クス トに 拠り つつ さら に推 し進 める こと が本 論 考 の課 題で ある

︒な るほ どフ ッサ ール の本 能論 につ いて は︑ 二〇 一四 年に 公刊 され たフ ッサ ール 全集 第四 二巻

﹃現 象 学 の限 界問 題│

│無 意識 と本 能 の 分析

︒形 而 上 学︒ 後期 倫 理 学│

│遺 稿

︵一 九

〇八−

一 九 三 七︶ に基 づ く テ クス ト

︵以 下﹃ 限界 問題

﹄︶ の第 二部 とし て関 連草 稿が 収録 され てい る︒ しか し﹃ 限界 問題

﹄の 編者 ソー ヴァ によ れば

︑フ ッ サ ー ル の本 能 論 につ い て の 資料 は こ れだ け で はな く

︑フ ッ サ ール 資 料 集第 八 巻﹃ 時 間構 成 に つ いて の 後 期 テ ク ス ト

︵一 九 二九−

一 九 三 四︶

│C 草 稿﹄

︵以 下

﹃C 草稿

﹄︶ と フ ッサ ー ル 全集 第 三 九 巻﹃ 生世 界

││ あ ら か じ め 与 え ら れ る 世界 とそ の構 成と の解 示│

│草 稿 に 基づ く テ クス ト

︵一 九 一 六− 一九 三 七︶

﹄︵ 以 下

﹃生 世 界﹄

︶に も 重 要な 研 究 草 稿 が収 めら れて いる

︒ 編者 によ って 本能 論と して 収録 され ては いて も︑ もと もと 研究 草稿 であ ると いう 資料 の性 格上

︑そ れら はど うし て も ぬぐ いが たく 断片 的な 性格 をも つこ とに なる

︒し かし

︑本 論で は︑ 従来 しば しば 行わ れる よう に︑ 一九 三〇 年代 の 草 稿を 一括 して フッ サー ルの 後期 思想 の成 果と して 捉え

︑そ こか ら縦 横無 尽に テク スト を引 用す るこ とに よっ て︑ あ

フッサール『生世界』第四三番草稿における本能の自我 ― 124 ―

(3)

る べ き フッ サ ー ルの 分 析 を 導き 出 す とい う 仕 方に よ っ て 研究 草 稿 の断 片 的 性格 を 積 極 的に 活 用 する と い う手 法 を 避 け

︑資 料と して はご くわ ずか なも のに すぎ ない けれ ども

︑フ ッサ ール 自身 が一 九三

〇年 代の ある 時期

︑一 端は ひと ま と まり の思 索の 成果 とし て書 き付 けた 研究 草稿 に︑ すな わち

︑本 能と 触発 につ いて 自我 との 連関 で極 めて 密度 の高 い 分 析を 展開 して いる

﹃生 世界

﹄の 第四 三番 草稿 にも っぱ ら定 位し て︑ フッ サー ルの 本能 と自 我に つい ての 膨大 な思 索 の 成果 のう ちの 一端 を照 明す るこ とに した い︒ した がっ て︑ 本論 考が 果た すべ き具 体的 な課 題は

︑本 能と 触発 につ い て のフ ッサ ール の後 期の 分析 を通 して

︑﹁ 流 れる こ と﹂ と﹁ 自 我﹂ の先 後 関 係が ど の よ うな も の であ る の かを 明 ら か に する こと

︑こ れで ある

︒ 本論 考の 構成 は以 下の とお りで ある

︒第 一に

︑本 能が

︑心 理学 的研 究の 対象 では なく

︑超 越論 的− 現象 学的 分析 を 必 要と する 超越 論的 機能 であ り︑ 超越 論哲 学と して の現 象学 にと って 欠く こと がで きな い重 要な 超越 論的 概念 であ る こ とを

︑リ ーの

﹃本 能の 現象 学﹄ に拠 りつ つ明 らか にす る︒ それ は同 時に カン ト的 な超 越論 哲学 に対 する フッ サー ル に よる 超越 論哲 学の 変貌 をも 意味 する こと にな る︒ 第二 に﹃ 生世 界﹄ 第四 三番 草稿 での フッ サー ルの 主観 性の 始原 へ の 問い がい かな るも ので ある のか を明 らか にす る︒ 第四 三番 草稿 が問 うて いる のは

︑冒 頭に 掲げ たC 草稿 から の引 用 箇 所が 主題 化し てい る自 我と 流れ るこ との 先後 関係 にほ かな らず

︑そ れこ そが 始原 を巡 る循 環的 窮境 をな して いる こ と が明 らか にさ れる

︒第 三に

︑始 原へ の問 いの 果て にフ ッサ ール が逢 着し たも のが 何で ある かを 明ら かに する

︒そ の 際

︑ま ず始 原へ の問 いを 遂行 する ため に︑ フッ サー ルが 導入 した 構築 とい う方 法が いか なる もの であ るか が検 討さ れ る

︒そ う し て構 築 に よっ て 獲 得 され た 原 始原 の 自 我こ そ が 本 能の 自 我 であ る と いう こ と が 明ら か に な る︒ 最 終 的 に は

︑そ うし た考 察を 踏ま えて

︑触 発と 本能 の混 淆体 とし ての 主観 性の 始原 は︑ 果た して フッ サー ルに そこ で休 らう こ と を許 すよ うな 事象 であ りえ たの かが 問題 にさ れる

︒む しろ 発生 の分 析の 果て に主 観性 の始 原と して 見出 され た触 発

― 125 ― フッサール『生世界』第四三番草稿における本能の自我

(4)

と 本能 の混 淆体 は︑ 現象 学的 分析 の終 着点 など では なく

︑さ らな る問 いを 現象 学に 課す る出 発点 にほ かな らな いこ と が 明ら かに され るこ とに なる

︒ 一

超 越 論的 概 念 とし て の 本能 フッ

サー ルの 超越 論的 現象 学に おい て︑ とり わけ 発生 的現 象学 にお いて

︑い まや 本能 は︑ 少な くと も研 究者 の間 で は

︑欠 くこ とが でき ない 重要 な概 念と みな され てい る︒ しか しな がら

︑超 越論 哲学 をカ ント 的な 意味 での みと らえ る な らば

︑本 能を 超越 論的 な概 念と みな すこ とは

︑必 ずし も自 明な こと であ ると は言 えな い︒ それ どこ ろか

﹁超 越論 哲 学 の創 始者 で あ るカ ン ト に従 う な らば

︑超 越 論 的 理論 と し ての 本 能 の現 象 学 な どは ば か げた も の だろ う

と す ら 言 う こと がで きる

︒と いう のは

︑カ ント 的な 意味 での 超越 論哲 学か らす れば

︑本 能は けっ して 超越 論的 概念 とみ なさ れ る こと など なく

︑あ くま で心 理学 的概 念に すぎ ず︑ 超越 論的 意識 にで はな く︑ 経験 的意 識に 属す るに すぎ ない から で あ る︒ した がっ て︑ 経験 的意 識に 属す る概 念と して の本 能な ど︑ そも そも それ 自体 超越 論哲 学に 組み 込ま れる こと な ど あり えな いだ ろう

︒ なる ほど

︑カ ント の場 合に は超 越論 的の 対概 念は 経験 的で ある

︒し かし なが ら︑ フィ ンク の指 摘に よっ て知 られ て い るよ うに

︑フ ッサ ール の場 合に は超 越論 的の 対概 念は 経験 的で はな く︑

﹁ 内世 界的

︵mundan

︶﹂ で ある

︒し た が っ て

︑フ ッサ ール の超 越論 哲学 では

︑カ ント の場 合の よう に︑ 超越 論的 と経 験的 とい う概 念は

︑截 然と 区別 され るこ と は ない

︒そ れは

︑フ ッサ ール が﹃ ヨー ロッ パ諸 学の 危機 と超 越論 的現 象学

﹄に おい て﹁ 超越 論的 経験

﹂と いう 術語 を 導 入 す るこ と に よっ て

︑経 験 概 念を 拡 大 して い る こと か ら も 明ら か で あろ う

︒先 の フィ ン ク に よる 指 摘 を 踏 ま え つ

フッサール『生世界』第四三番草稿における本能の自我 ― 126 ―

(5)

︑リ ーは こう 述べ てい る︒

﹁ カン トに よれ ば︑ 経験 的 と 規定 さ れ る意 識 は

︑フ ッ サー ル に よれ ば

︑そ れ ぞれ の 態 度 次 第で 内世 界 的 意 識と し て だけ で は なく

︑超 越 論 的 意識 と し ても 示 さ れる こ と が ある

︒こ の 意味 に お いて フ ッ サ ー ルは

︑と りわ け︑ 超越 論的 意識 の発 生を その 主題 と する 発 生 的現 象 学 にお い て

︑本 能 を超 越 論 的概 念 と し て捉 え

︑ そ の超 越論 的機 能の 分析 とし ての 本能 の現 象学 をそ の根 底に ある 部分 とみ なし てお り︑ さら には 超越 論的 現象 学の 体 系 全体 に対 して 欠く こと がで きな い意 義を 認め てい るの であ る

︒ カン ト的 な 超 越 論哲 学 か らす れ ば︑ 本 能を 超 越 論 的 なも のと みな すこ とが どれ ほど 不合 理に 見え よう とも

︑そ れは

﹁た だカ ント の超 越論 哲学 とフ ッサ ール の超 越論 的 現 象学 の 間 に類 似 性 と親 近 性 があ る に も かか わ ら ず︑

⁝⁝ 架橋 す る こと が で き ない 区 別 があ る

と い う こと を 示 し て いる にす ぎな い︒ カン トの 超越 論哲 学の みを

︑正 統的 な超 越論 哲学 とし

︑そ のほ かに 超越 論的 と自 らの 哲学 をよ ぶ 哲 学者 たち の思 索を

︑異 端的 であ ると 断罪 する こと は︑ むし ろ超 越論 哲学 をあ まり にも 狭隘 なも のと して しま うだ ろ う

カ ︒ ント と フ ッサ ー ル の超 越 論 哲 学の 対 比 とい う 哲 学 史的 な 脈 絡に お い ての み な ら ず︑ フッ サ ー ル研 究 史 の な か で も

︑残 念な がら

︑本 能の 現象 学は 適切 に位 置づ けら れて きた とは 言い 難い

︒そ もそ もリ ーに よる

﹃本 能の 現象 学﹄ 以 前 には

︑本 能と いう 概念 自体 が取 り上 げら れる こと が稀 であ った

︒ま た︑ リー が指 摘す る通 り︑ 取り 上げ られ たと し て も

︑そ れ は正 鵠 を 逸し た も の であ っ た り

︑ 本来 指 摘 され る べ き 近 接 概 念 と の 連 関 に 注 意 を 払 わ な い も の で あ っ た

︒リ ーに よっ て﹁ エト ムン ト・ フッ サー ルの

﹃現 象学 的哲 学の 体系

﹄に つ いて の 構 想﹂

︵XVXXXVI-XL

︶に 占 め る 本能 の現 象学 の重 要性 が明 らか にさ れる こと によ って

︑よ うや く本 能現 象は

︑フ ッサ ール 研究 にお いて 論題 とし て 共 有さ れる こと にな った

︒そ の第 二部 に後 期フ ッサ ール の本 能論 を集 成 し て いる

﹃限 界 問 題﹄ が二

〇 一 四年 に フ ッ サ ール 全集 第四 二巻 とし て公 刊さ れた こと によ って

︑今 後さ らに 様々 な思 索 を 誘 発す る こ とに な る だろ

︒こ れ ま

― 127 ― フッサール『生世界』第四三番草稿における本能の自我

(6)

で リ ー の研 究 に 拠り つ つ︑ 本 能 が現 象 学 にお い て もつ 位 置 と 従来 の 研 究の 流 れ を概 観 し た︒ そ こ で 以 下 で は﹃ 生 世 界

﹄草 稿で のフ ッサ ール 自身 の本 能と 自我 につ いて の分 析を 取り 上げ るこ とに した い︒ 二

主 観 性の 始 原 への 問 い

││ 流 れ るこ と と 自我 の 循 環的 窮 境

﹁︵ 原 初 的︶ 主 観性 の 始 原の 問 題︒ 本 能 的触 発 と して の 始 原と な る

︵anfangend

︶ 触発

︒再 構 築 と い う 方 法︵ 超 越 論 的 感性 的解 示の 方法 につ いて

︶﹂ と いう 表題 をも つ﹃ 生世 界﹄ の第 四三 番草 稿︵XXXIX466-482

︶は

︑編 者 に よれ ば

︑ お そら く一 九三 一年 一月 に起 草さ れて いる

︵XXXIX466,Anm.1

︶︒ 以下 では

︑後 期の 草稿 とし ては 珍し くあ る程 度 ま と まっ た仕 方で 本能 を論 じて いる とい う意 味で

︑極 めて 貴重 な第 四三 番草 稿の 集中 的読 解を 試み るこ とに した い︒ 本 論 考 の 冒頭 に 掲 げた フ ッ サ ール 全 集 第三 四 巻﹃ 現 象学 的 還 元 につ い て│

│遺 稿 に よる テ ク ス ト︵ 一 九 二 六− 一 九 三 五

︶﹄

︵ 以下

﹃現 象学 的還 元﹄

︶ の第 一〇 番草 稿﹁ 生け る現 在 に つい て

︒作 用 の時 間 客 観 化に 対 す る体 験 流 の受 動 的 時 間 化︒ 先時 間化 と本 来 的時 間 化﹂

︵XXXIV179-184

︶ が一 九 三

〇年 夏 に 執筆 さ れ

︑冒 頭 の引 用 箇 所そ の も のを 含 む そ の 草 稿 に対 す る 付記

︵XXXIV184

︶ が一 九 三 二年 に 起 草 とさ れ て いる こ と から

﹃生 世 界﹄ 第 四 三 番 草 稿 の 執 筆 時 期 は

︑﹃ 現 象学 的還 元﹄ 第一

〇番 草稿 全体 の中 間に 位置 づけ ら れ る︒ この 意 味 でま さ に 両 研究 草 稿 は一 九 三

〇年 代 の 後 期 のな かで もほ ぼ同 じ時 期に 属す る資 料で ある こと がわ かる

︒こ こで のフ ッサ ール の課 題設 定は 明確 であ り︑ 冒頭 の 引 用箇 所で の問 題と の明 確な 類似 性を 認め るこ とが でき る︒ 個

体的

︵そ の際

︑流 れる 全体 的構 成に おい て統 一的 に捉 えら れた

︶世 界の 諸局 面に おい て﹃ 他者

﹄を 捨象 する な

フッサール『生世界』第四三番草稿における本能の自我 ― 128 ―

(7)

ら ば︑ した がっ て︑ 原初 的な もの へと 還 元す る な らば

︑原 初 的 エゴ に お け る﹃ 世界

﹄と い う 原初 的 現 象 に至 る

︒ つ まり

︑固 有の 主観 的に 構成 され た身 体と 人間 的主 観を 具え た主 観的 世界 時間 性と

︑始 原の 問題 とに 至る

︒つ ま り

︑も し構 成を 主題 的に する なら ば︑ 目覚 めた 超越 論的 エゴ の始 原の 問題

︑そ の︹ エゴ の︺ 流れ るこ との

︑流 れ る こ と のな か で の﹁ 内的

﹂時 間 と﹁ 与 件﹂ の 時間 的 存 在と を 構 成す る は た らき の 超 越論 的 時 間 性 の 始 原 の 問 題

︿に 至る

﹀︵XXXIX466f.

︶︒ 後

半部 は 錯 綜し て お り︑ 慎重 に 吟 味 する 必 要 があ る

︒し か し︑ い ずれ に せ よ﹁ 目覚 め た 超 越 論 的 エ ゴ﹂ の 始 原 と

﹁目 覚め た超 越論 的エ ゴ﹂ の﹁ 流れ るこ と

﹂の

﹁超 越 論的 時 間 性﹂ の始 原 こ そ が問 題 な ので あ る︒ さ らに

﹁目 覚 め た 超 越論 的エ ゴ﹂ の﹁ 流れ るこ と﹂ が︑ いっ そう 具体 的に

﹁流 れる こと のな かで の﹃ 内的

﹄時 間と

﹃与 件﹄ の時 間的 存 在 とを 構成 する はた らき

﹂と 言い 換え られ て い る︒

﹁目 覚 め た超 越 論 的 エゴ

﹂﹁ 流 れ るこ と

﹂﹁ 流 れる こ と のな か で の

﹃内 的﹄ 時間 と﹃ 与件

﹄の 時間 的存 在と を構 成 する は た らき

﹂︑ こ の 三者 の

﹁超 越 論 的時 間 性 の始 原

﹂が 問 題 であ る

︑ と

︒﹁ 目 覚め た超 越論 的エ ゴ﹂ は﹁ 構成 する はた らき

﹂に ほか なら ない

︒し かし

︑﹁ 超越 論的 エゴ

﹂も

﹁構 成す るは た ら き﹂ もそ れ自 体﹁ 流れ るこ と﹂ のな かに あり

︑そ の意 味で

﹁流 れる こと

﹂の 成素 とし て︑ 流れ るこ との 具体 態を 形 成 す る もの に ほ かな ら な い︒

﹁ 構成 す る はた ら き﹂ と して の

﹁超 越 論 的 エ ゴ﹂ が エ ゴ 固 有 の 時 間 で あ る

﹁﹃ 内 的﹄ 時 間

﹂と エゴ 以外 のあ らゆ るも の︑ すな わ ち﹁

﹃与 件

﹄の 時 間的 存 在﹂ と を構 成 す る︒ エ ゴも エ ゴ 以外 の あ らゆ る も の も 超越 論的 エゴ の構 成す るは たら きに よっ て時 間位 置を 与え られ る︑ すな わち

﹁時 間客 観化

﹂さ れる

︒こ のよ うに 超 越 論的 エゴ の構 成す るは たら きに よる 時間 客観 化が 流れ を構 成し てい る︒ こう した 一連 の事 態が 流れ るこ との 具体 態 に ほか なら ない

︒し かし

︑超 越論 的エ ゴの 構成 する はた らき は︑ その 構成 する はた らき その もの をも やは り構 成す る

― 129 ― フッサール『生世界』第四三番草稿における本能の自我

(8)

こ とで 自己 を時 間客 観化 して しま う︒ した がっ て︑ 超越 論的 エゴ は︑ 流れ るこ との なか で流 れを 生み 出し つつ

︑自 己 自 身を 流れ させ る︑ すな わち

︑時 間客 観化 する こと にな る︒ そこ で︑ フッ サー ルは 問う

︒こ うし た流 れる こと

︑す な わ ち﹁ 超越 論的 時間 性﹂ は︑ いか にし て始 まる のか

︑と

︒こ れこ そが

﹁超 越論 的時 間性 の始 原の 問題

﹂に ほか なら な い

︒こ こで 注意 して おく べき こと は︑ フッ サー ルは 慎重 に﹁ 超越 論的 エゴ

﹂を

﹁目 覚め た超 越論 的エ ゴ﹂ と呼 んで い る とい うこ とで ある

︒こ の﹁ 目覚 めた

﹂と は︑ 非自 我的 なも のに よっ て触 発さ れる こと によ って

︑そ の当 の触 発す る も のに 対し て関 心を もち

︑対 向し てい ると いう こと を意 味す る︒ した がっ て︑ この

﹁目 覚め た超 越論 的エ ゴ﹂ は︑ す で に何 らか の触 発を 被り

︑そ れに 対し て能 動的 に対 向し 始め てし まっ てい る︒ そう であ るな らば

︑構 成す るは たら き︑ 時間 客観 化す るは たら きで ある

﹁目 覚め た超 越論 的エ ゴ﹂ には

︑触 発す る な にか が︑ 構成 され る以 前の なに かが

︑時 間客 観化 され る 以前 の な にか が 先 行し て い な けれ ば な らな い こ と にな る

︒ し かも

﹁目 覚め た超 越論 的エ ゴ﹂ を触 発す るも のは

︑通 常の 意味 での 構成 が問 題と なる 位相

︑す なわ ち︑ 内世 界的 な 超 越の 統一 の構 成が 問題 とな る位 相に はな い︒ した がっ て︑ この 触発 する もの への 問い を立 てる ため に︑ フッ サー ル は 問い の位 相を 深化 させ る︒

﹁ しか し︑ いま や原 触発 を︑ 先客 観 的 段階 の 原 触発 を い っ そう 詳 し く考 察 す るこ と に し よ う

﹂︵XXXIX469

︶︒ ここ で は っ きり と フ ッサ ー ル は﹁ 先客 観 的 段 階の 原 触 発﹂ とい う 客 観化 に 先 立 つ 段 階 へ と 問 い を向 ける こと を言 明し てい る︒ した がっ て︑ ここ で問 題と され る﹁ 原触 発﹂ こそ が︑ あく まで 世界 内的 超越 の統 一 の 構成

︑す なわ ち︑ 一般 的な 意味 での 構成 が問 題と なる 際に 取り 上げ られ るこ とに なる 触発 とは 異な り︑ 構成 の最 下 層 にあ る時 間客 観化 を含 めた

︑あ らゆ る客 観化 に先 立つ 事象 にほ かな らな いの であ る︒ そう して

︑客 観化 に先 立つ 事 象 へ と 問い の 位 相が 深 化 し たこ と に よっ て

﹁流 れ るこ と

﹂と

﹁エ ゴ

﹂の 先 後 関 係 の 問 題 が︑ 今 度 は﹁ 私 は あ る﹂ と

﹁私 は考 える

﹂の 先後 関係 とし て前 景に 現れ るこ とに なる

フッサール『生世界』第四三番草稿における本能の自我 ― 130 ―

(9)

私 はあ ると 私が 考え るこ とに よっ て︑ 私が なん らか の﹁ 私は 考え る﹂ を遂 行す るこ とに よっ て︑ 私が 必当 然的 に

﹁私 はあ る﹂ と言 うな らば

︑そ こに は︑ やは り ま た必 当 然 的に

﹁私 は 考 え る﹂ が触 発 を 前提 し て おり

︑私 は 触 発 さ れる

︿こ とが ある

﹀た めに

︑そ して

︿も し私 が﹀ 何か を把 握す るこ とが でき るは ずで ある なら ば︑ 私は 存在 し な けれ ばな らな いと いう こと が存 する

︵XXXIX470

︶︒ 一

見す る と﹁ 私 が考 え る﹂ が﹁ 私 があ る

﹂を 可 能 にし て い るか の よ う に 見 え る

︒し か し な が ら︑ こ の﹁ 私 は 考 え る

﹂は

︑正 確に は﹁ 私が ある と私 が考 える

﹂と いう こと を意 味す るの であ る︒ した がっ て︑

﹁﹃ 私 は考 える

﹄が 触発 を 前 提﹂ して いる とは

﹁私 があ る﹂ が﹁ 私を 触発

﹂す るこ とに よっ て﹁ 私は 考え る﹂ を可 能に して いる とい うこ とで あ る よう に見 える

︒触 発を 被っ たり

︑何 かを 能動 的に 把 握す る こ とが で き るた め に は﹁ 私 は存 在 し なけ れ ば な らな い

﹂ と

︒そ うで ある なら ば︑

﹁ 私は ある

﹂と

﹁私 は考 える

﹂の 先 後 関係 は

︑解 き がた い 循 環 関係 に ほ かな ら な いよ う に 思 え る︒ そう して

︑こ の箇 所に は︑ 問題 の在 処を 明確 にす る以 下の 部分 が続 いて いる

︒ し

かし

︑そ のな かで は﹁ 生成 する こと

﹂が

︑時 間が すで に先 行し て時 間化 され てし まっ てい るか のよ うに

︑で っ ち 上 げ られ て は いな い か︒ 時 間 化は

︑も し そ れ︹ 原現 象 的 な流 れ る こ と

︺が 進 行 す る な ら ば︑ そ れ︹ 流 れ る こ と

︺と 共に すで に現 にあ る時 間を まさ にす でに 時間 化し てい る原 現象 的流 れる こと を前 提す る︒ しか し︑ いか に し て無 限の 流れ るこ とが

﹁際 立ち

﹂や 触発 なし に構 成さ れて いる べき なの か︒ やは り︑ ほか なら ぬ時 間構 成の 始 原 が 問 題で あ り︑ し かも

︑始 原 と な り︵anfangend

︶は す るけ れ ど も︑ や は り︑ す で に あ る 時 間 の 内 に

││ し た が っ て︑ 通 常の 意 味 にお い て 始 原と な る とい う こ とを 意 味 す るこ と は ない

︑始 原 と なる 時 間 化 に お け る﹁ 主 観

― 131 ― フッサール『生世界』第四三番草稿における本能の自我

(10)

﹂時 間の 始原 が問 題な ので ある

︵XXXIX470

︶︒ この

箇所 では

﹁私 は考 える

﹂が

﹁時 間化

﹂も っと 正確 に言 えば

︑そ の前 提と して の﹁ 時間 化す る流 れる こと

﹂と み な され てい る︒ そし て︑

﹁ 時間 化す る流 れる こと

﹂こ そが 時間 化 を 可能 に す ると い う 意 味に お い てい わ ば 原前 提 で あ る かの よう に思 える

︒し かし

︑す ぐに 原前 提 とし て の﹁ 時 間化 す る 流れ る こ と﹂ の 始原 の 問 題が 生 起 す る︒

﹁時 間 化 す る流 れる こと

﹂を 触発 する もの

︑先 ほど の脈 絡で 言え ば﹁ 私は ある

﹂が

﹁無 限の 流れ るこ と﹂ その もの の前 提と な る

︑と

︒そ うし てや はり この 始原 を巡 る循 環的 窮境 こそ が︑ ここ で問 われ るべ き究 極的 な問 題で ある こと が顕 わに さ れ る︒ すな わち

﹁始 原と なる 時間 化に おけ る﹃ 主観 的﹄ 時間 の始 原が 問題 なの であ る﹂ と︒ こう して 問題 とな るべ き事 態が 明確 化さ れる こと にな った

︒自 我と 流れ るこ との 先後 関係 の問 題は

﹁目 覚め た超 越 論 的エ ゴ﹂ と﹁ 先客 観的 段階 の原 触 発﹂

︑さ ら に は﹁ 私が 考 え る﹂ と﹁ 私が あ る

﹂と の 先後 関 係 とい う よ うに 変 奏 さ れ る︒ こう した 先後 関係 こそ が︑ 始原 を巡 る循 環的 窮境 なの であ る︒ しか も︑ この 始原 を巡 る循 環的 窮境 が問 題と な っ てい る次 元は

︑通 常の 意味 での 時間 化す るも のと され るも のと が問 題と なる 時間 内で の始 原と は異 なる

﹁始 原と な る 時間 化に おけ る﹃ 主観 的﹄ 時間 の始 原﹂ にほ かな ら ない

︒フ ッ サ ール は こ うし て 問 題 の在 処 を 明ら か に し た上 で

︑ こ の﹁ 始原 とな る時 間化 にお ける

﹃主 観的

﹄時 間の 始原

﹂に 迫る ため の方 法に 徹底 的な 反省 を加 える こと にな る︒ 三

原 始 原と し て の本 能

触発 フ

ッサ ー ル は﹁

﹃主 観 的﹄ 時 間の 始 原 の 問題

﹂を 解 明 する た め に︑ その 問 題 が 生じ る 構 造 を 改 め て 整 理 し た 上 で

フッサール『生世界』第四三番草稿における本能の自我 ― 132 ―

(11)

そ れに 取り 組む ため の方 法を 徹底 的に 吟味 し てい る

︒そ し て︑ その 際 に 注目 す べ き であ る の は︑ 構築 と い う 契機 が

︑ 始 原へ と迫 りゆ くた めに 重要 な概 念と して 前景 に現 れる こと にな ると いう こと であ る︒ 現

実に 私に 対し て時 間的 に存 在し つつ

︵あ るい は︑ 同じ こと であ るが

︑存 在し てい ると して

︶構 成さ れて いる の は

︑私 の構 成す る能 動性 から 構成 され てき たも ので あり

︑結 局統 覚的 転用 によ って その 時間 意味 をも つも ので あ る

︒し かし

︑構 成す る能 動性 は受 動的 時間 構成 を前 提し てお り︑ われ われ は︑ 先時 間的 に先 存在 しつ つす でに 時 間 性を おの れの 内に 担っ てい るそ うし た受 動的 構成 へと 連れ 戻さ れる

︒し かし

︑本 質上

︑わ れわ れは

︑現 実的 時 間 性に おけ る存 在者 をす でに 所有 した 後で

︑反 省し つつ 遡り ゆく こと がで きる ので あり

︑再 想起 に基 づい て︑ そ の 反復 にお いて 後か ら時 間的 構成 を遂 行す るの であ り︑ した がっ て︑ 時間 的存 在を 後か らの 現在 とい う過 去と し て 構 築 する こ と がで き る︒ し か し︑ それ は

︑明 証 にお い て は﹁ 忘れ ら れ た﹂

︑ 現 勢 的 に は 遂 行 さ れ な か っ た が

︑ 現 実的 な過 去と して であ る︒ それ は実 際︑ それ どこ ろか 大部 分は 現象 学的 作業 を通 して はじ めて

﹁顕 在的

﹂時 間 化 に至 る匿 名的 な全 意識 領分 に該 当す るが

︑そ の一 方で

︑そ れ︹ 匿名 的な 全意 識領 分︺ には 現実 に自 我に 対し て

︿存 在 する

﹀時 間 的 存在 が 欠 け てい る

︒そ う して し か し︑ それ は 明 証 をも っ て 次 の こ と を 意 味 す る︒ す な わ ち

︑ そ れが 私に とっ ても あっ たし

︑私 がそ れに

﹁注 意し ない

﹂場 合で も引 き続 いて 私に 対し て共 にあ り︑ それ は隠 在 的 に私 に対 して 存在 しつ つ あっ た

︒そ し て︑

﹁存 在 し つつ

﹂と は

︑い ま や 私に と っ てお よ そ︑ 私 の自 由 な

﹁私 は で きる

﹂と

﹁繰 り返 しで きる

﹂に おい て︑ 顕在 的に 構成 され た存 在︿ から

﹀遡 り向 けら れて 時間 化に もた らす こ と がで きる もの を意 味す る︵XXXIX470f.

︶︒

― 133 ― フッサール『生世界』第四三番草稿における本能の自我

(12)

なる ほど

︑現 象学 的分 析は

︑反 省に よっ て特 徴づ けら れる

︒し かし なが ら︑ ここ では 現象 学的 反省 とし て一 括さ れ て きた 現象 学的 分析 が︑ 非常 に詳 細に その 過程 を追 って 整理 され てい る︒ 現象 学的 分析 はま ず﹁ 私の 構成 する 能動 性 か ら構 成さ れて きた もの

﹂で ある

﹁現 実的 時間 性に おけ る存 在者

﹂を 所有 する こと から 始ま る︒ 次い でそ れに 対し て 反 省を 加え るこ とに よっ て︑ 能動 的構 成の 前提 であ る﹁ 先時 間的 に先 存在 しつ つす でに 時間 性を おの れの 内に 担っ て い るそ うし た受 動的 構成

﹂へ と遡 るこ と にな る

︒そ の 意味 で は︑ 受 動的 能 動 性 が先 行 し てい る

︒し か し︑ 現 実に は

﹁現 実 的時 間 性 にお け る 存 在者

﹂を 所 有 し︑ それ に 基 づい て は じ めて

﹁反 省 的 に遡 り ゆ く こ と が で き る﹂

︒ し た が っ て

︑こ の意 味で は能 動的 構成 とそ の成 果と が受 動的 構成 に先 行し てい る︒ この 反省 的遡 行の 遂行 によ って 明ら かに され る時 間的 構成 を︑ フッ サー ルは 驚く べき こと に︑ 構成 では なく

︑構 築 と 呼ん でい る︒

﹁ 再想 起に 基づ いて

︑そ の反 復に おい て 後 から 時 間 的構 成 を 遂 行す る の であ り

︑し た がっ て

︑時 間 的 存 在を 後か らの 現在 とい う過 去と して 構築 する こと がで きる

﹂と

︒そ して

︑こ の一 連の 時間 構成 の過 程が

﹁現 象学 的 作 業﹂ と呼 ばれ てい る︒ これ によ って

︑現 実に は︑ 自我 によ る注 意が 向け られ てい ない ため に︑ 自我 に対 して 匿名 的 で あっ た意 識領 分が

︑そ れで もや はり

﹁隠 在的 に私 に対 して 存在 しつ つあ った

﹂と され

︑自 我の 能動 によ って

﹁顕 在 的 に構 成さ れた 存在

︿か ら﹀ 遡り 向け られ て時 間化

﹂さ れる

︑す なわ ち︑ 構築 され るに 至る

︒し かし

︑こ こで の現 象 学 的作 業と して の構 築は

︑あ くま で︑ 広義 での 現在 に関 わっ てい る︒ とい うの は︑ ここ での 構築 とは

︑主 観の 能動 性 に よっ て構 成さ れた

︑す なわ ち︑ 私が 注意 を向 けて いた 狭義 での 現在 であ る顕 在的 意識 領分 から

︑私 が注 意を 向け て い なか った が︑ それ でも やは り広 義で の現 在で ある 隠在 的意 識領 分を

︑す なわ ち﹁ 後か らの 現在 とい う過 去と して 構 築 す る﹂ こ とで あ る から で あ る︒ し たが っ て︑ 構 築と い う 現象 学 的 方 法に よ る﹁ 後 から の 現 在と い う 過 去 と し て 構 築

﹂は

︑顕 在性 と隠 在性 とい う時 間的 現在 の様 態の 移行 を意 味し てい るに すぎ ない

︒し かし

︑本 来こ こで 問わ れる べ

フッサール『生世界』第四三番草稿における本能の自我 ― 134 ―

(13)

﹁﹃ 主 観的

﹄時 間の 始原 の問 題﹂ とは

︑そ もそ も顕 在的 に 構 成さ れ る ので あ れ

︑隠 在 的な も の が構 築 に よっ て 顕 在 的 にさ れる ので あれ

︑あ くま で時 間的 構成 に関 わる ので はな く︑ こう した 時間 的構 成の 前の 始原 の問 題で はな かっ た だ ろう か︒ それ にも かか わら ず︑ フッ サー ルは この 方法 を始 原の 問題 へと 適用 しよ うと する

︒ さ

て︑ どの 程度

︵そ して もし 現実 にで きる なら ば︑ しな けれ ばな らな いが

︶こ の︹ 注意 して いな いも のも 後か ら 時 間化 にも たら す︺ 方法 をわ れわ れの 始原

││ やは りま た現 実に は自 然的 意味 での 始原 では ない が│

│の 時間 化 に

︑実 際︑ 一定 の仕 方で それ どこ ろか

︑始 原の 自我 の時 間化 に︑ そし て︑ 本来 の 意 味 での

﹁の 前

︵vor

︶﹂ に つ い て 語る こと がで きる 場合 には

︑始 原﹁ の前

﹂に 適用 する こと がで きる のか

︵XXXIX471

︶︒ 現象

学的 分析 を可 能に して いる 現象 学的 作業 は﹁ 顕在 的に 構成 され た存 在︿ から

﹀遡 り向 けら れて 時間 化﹂ する こ と によ って

︑匿 名的 な意 識領 分を 顕在 化す る︑ すな わち

︑時 間化 する こと によ って 自我 に対 して 時間 的存 在を 与え る の であ った

︒し かし

︑現 在問 題と なっ て いる

﹁﹃ 主 観 的﹄ 時間 の 始 原の 問 題

﹂と は︑ そ もそ も 顕 在的 に 構 成さ れ た 存 在 の発 生の 前の 始原 の問 題で ある

︒フ ッサ ール は︑ 時間 的存 在に 対し て︑ すな わち

﹁自 然的 意味 での 始原

﹂に 対し て 用 いら れる この 方法 を︑ なぜ 時間 化と い う﹁ 自然 的 意 味で の 始 原﹂

﹁の 前

﹂に 適 用 しよ う と する の だ ろう か

︒自 然 的 意 味で の始 原と して の時 間的 始原 の前 の始 原は

︑時 間的 存在 では ない とい う意 味で

︑け っし て自 然的 では なく

︑時 間 的 存在 との 間に 断絶 があ る︒ この 意味 で︑ あく まで 時間 的存 在の 顕在 性か ら隠 在性 へと 遡り ゆく 構築 とい う方 法を そ の ま ま 適用 す る こと は で き ない

︒し か し︑ こ の構 築 と いう 方 法 に は︑ 狭義 の 意 味で の 現 在か ら︑ 広 義 の 意 味 で の 現 在

︑す なわ ち︑ 本来 の意 味で の現 在で はな いも のへ と遡 りゆ くと いう 意味 では

︑始 原へ の問 いの ため に要 求さ れる 時

― 135 ― フッサール『生世界』第四三番草稿における本能の自我

(14)

間 的 存 在か ら 先 時間 的 先 存 在へ と 遡 りゆ く こ とと の 類 似 性を 認 め るこ と が でき る

︒し た が って

︑構 築 と い う 方 法 を

﹁始 原の 自我 の時 間化

﹂﹁ 始原

﹃の 前﹄

﹂ に少 なく とも 適 用 する 可 能 性ま で は 失 われ る こ とは な い︒ し たが っ て

︑こ の 場 合︑ 構築 とい う方 法は

︑時 間的 に構 成さ れた 存在 から 時間 的存 在を 欠く 先存 在へ の遡 行的 構成 の方 法と して 適用 さ れ るこ とに なる

︒フ ッサ ール は次 のよ うに 述べ てい る︒ そ

して

︑こ うし て︑ 遡り 掴み つつ

︵rückgreifend

︶明 証 的な 時 間 構成 は

︑︵ 構 成 され た 存 在の

︶す で に 構成 さ れ た 時 間性 の区 間や 位置 から

︑こ の最 初の 流れ るこ とと その

︹流 れる こと の︺ 始原

︑前 提さ れる 触発 の自 我へ と時 間 化 と 存 在と を 持 ち 込 み︑ し た が っ て︑ 先 存 在 す る も の も ま た 存 在 す る も の と し て 要 求︿ し な け れ ば な ら な い

│︵ 先 所与 性の

︶自 然的 意味 に対 して 対応 して 変化 した 意味 にお いて

︵XXXIX471

︶︒ 始

原へ の 問 いを た て るた め の 方 法と し て の構 築 は︑ 遡 り 掴む と い う言 い 方 によ っ て 象 徴的 に 示 され て い る よ う に

﹁す でに 構成 され た時 間性

﹂か ら出 発し

︑あ たか も顕 在的 意 識 領分 か ら 隠在 的 意 識 領分 に 遡 った の と 同じ よ う に﹁ 先 存 在す るも の﹂ すな わち

﹁最 初の 流れ る こと と そ の︹ 流れ る こ との

︺始 原

︑前 提 さ れる 触 発 の自 我

﹂へ と 遡 りゆ く

︒ さ らに

﹁現 実に 自我 に対 して

︿存 在す る﹀ 時間 的存 在が 欠け てい る﹂ もの を﹁ 顕在 的に 構成 され た存 在︿ から

﹀遡 り 向 けら れて 時間 化﹂ にも たら した のと 類比 的 に︑ 先存 在 す るも の に﹁ 時 間化 と 存 在 とを 持 ち 込み

﹂﹁ 存 在 する も の と し て要 求﹂ する に至 る︒ こう して この 構築 とい う方 法に よっ て﹁ 最初 の流 れる こと とそ の︹ 流れ るこ との

︺始 原︑ 前 提 され る触 発の 自我

﹂と いう

﹁先 存在 する もの

﹂が 遡り 掴ま れる こと にな る︒ それ では

︑こ うし てよ うや く掴 み出 さ れ た究 極的 な意 味で の始 原と はい った いい かな るも のな ので あろ うか

フッサール『生世界』第四三番草稿における本能の自我 ― 136 ―

(15)

触 発さ れる 自我 は︑ 始原 触発 にお いて

︵あ るい は多 くの 触発

︶に おい てな お自 我生 と︑ その 上で それ

︹自 我︺ が 生 きる 何か とを もつ

︒│

│そ れ︹ 触発 され る自 我︺ は生 に目 覚め るが

︑ま だ生 きて おら ず︑ 流れ る受 動的 構成 と 能 動的 構成 がそ の活 動を

︑具 体的 自我 の活 動で さえ ある 活動 をな した 時に はじ めて 生き るの であ る︒ いっ そう 厳 密 には

︑自 我は つね にす でに 能力 の自 我︑ つね にす でに

︑キ ネス テー ゼの 自我 であ るが

︑非 自我 的な もの

︑ヒ ュ レ ー的 なも のを もつ 自我 でも ある

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︵XXXIX472

︶︒ 構築

とい う方 法を 先存 在に まで 拡大 転用 する こと によ って つい に獲 得さ れる に至 った

︑時 間化 の始 まり とし ての 始 原 より 前の 始原 であ る﹁ 始原 触発

﹂︑ い わば 原始 原で も︑ やは り 自 我と 非 自 我的 な も の と先 後 関 係が 問 題 にな っ て い る か の よう に 見 える

︒こ こ に い たっ て な お﹁ 自我 生

﹂と

﹁そ の 上で そ れ

︹自 我

︺が 生 き る 何 か﹂ と が 区 別 さ れ て お り

︑後 者こ そが 自我 生を 可能 にし てい る︑ と︒ しか し︑ 事態 は︑ 時間 化さ れた 次元 で論 じら れて いた よう な先 後関 係 と して 捉え るこ とが でき るほ ど単 純な もの では ない

︒構 築に よっ て時 間化 と存 在と が持 ち込 まれ たこ とに よっ ては じ め て主 題化 され るこ とに なっ たこ の原 始原 は︑ 本来 非時 間的 であ るは ずで ある

︒そ うで ある なら ば︑ こと ここ にい た っ て︑ 時間 的関 係に ほか なら ない 先後 関係 を持 ち込 むこ とが そも そも 可能 であ ろう か︒ フッ サー ルは この 事態 を的 確 に 捉え てい る︒ 連

合は 機能 しな い︒

﹁ 始原 とな る自 我﹂ は過 去 地 盤を も た ない

︒そ れ

︹始 原 と なる 自 我︺ は あら ゆ る 時間 化 な し に あ る︒ そ して

︑触 発 の 最初 の も の︑ 最 初の 与 件 は︑ 自然 的 に 目覚 め る 自 我を

︑そ の 統 握 を 目 覚 め さ せ る 等 々 し

︑同 時に 生の 連関 が睡 眠の 欠如 を超 えて 綜合 的に 連携 する 感覚 与件 に基 づい て触 発す る事 物の 先所 与性 とい う

― 137 ― フッサール『生世界』第四三番草稿における本能の自我

(16)

あ り方 をし てい るな んら かの 存在 者と して は統 覚可 能で はな い︵XXXIX472f.

︶︒ 原始

原で は︑ 受動 的構 成の 際に はた らく 根本 的な 機能 であ る連 合は

︑時 間化 以前 にあ る﹁ 始原 とな る自 我﹂ が﹁ 過 去 地盤

﹂を 欠い てい るが ゆえ に︑ 機能 す るこ と は ない

︒そ れ に 対し て

﹁触 発 の 最初 の も の﹂

︑原 触 発 も︑ もは や 時 間 化 の始 原を 示す

﹁先 所与 性﹂ とい う特 異な あり 方を 設定 して 存在 者と して 捉え よう とし ても

︑原 触発 その もの が時 間 化 以前 の原 始原 で生 起し てい るが ゆえ に﹁ 存在 者 とし て は 統覚 可 能 では な い

﹂︒ し たが っ て︑ 時 間性 を 欠 く原 始 原 で は もは や自 我と 非自 我と の先 後関 係そ のも のが 成立 し な い︒ そう し て

︑こ の 原始 原 の 自我 の 非 時間

︵Unzeit

︶ が︑ 問 題 とさ れる に至 る︒ 原始 原と なる 自我 につ いて はす でに こう 言 われ て い た︒

﹁自 我 は つね に す で に能 力 の 自我

︑つ ね に すで に

︑キ ネ ス テ ーゼ の自 我で ある が︑ 非自 我的 なも の︑ ヒュ レー 的な もの をも つ自 我で もあ る﹂ と︒ この 自我 と非 自我 の先 後関 係 な き混 淆体 とし ての 原始 原の 自我 を︑ フッ サー ルは 自我 の発 生根 源に 位置 づけ るこ とに なる

︒ 構

成 的 始原 の 自 我は 空 虚 な 自我 極 で はな く

︑触 発 の始 原 は 完 全に 未 規 定的 で は なく

︑そ れ は す で に 本 能− 触 発

︵Instinkt-Affektion

︶で あ る︒

﹁ 自我

﹂志 向

︵対 向

︶と 充 実の 最 初 のも の は︑ 母 によ る 生 の 被護 性

︵mütterlicheLe-

bensgeborgenheit

︶ にお け る そ れで あ り︑ お よそ 突 発 的炸 裂

︵Knall

︶ その も の など で は な い︒ そ し て︑ こ う し て そ れに よっ て最 初の 周囲 世界 の構 成も また そこ から 規則 づけ られ てい る︵XXXIX474f.

︶︒ 原始

原に ある

﹁構 成始 原の 自我

﹂も

﹁触 発の 始原

﹂も

︑そ れぞ れ独 立し たも のと して 捉え るこ とも

︑そ の先 後関 係

フッサール『生世界』第四三番草稿における本能の自我 ― 138 ―

(17)

を 語る こと もで きな い︒ 両者 は︑ 区別 する こと こそ 可能 であ るが

︑分 離す るこ とが でき ない

﹁本 能− 触発

﹂と いう 自 我 的な もの と非 自我 的な もの との 混淆 体に ほ かな ら な い︒

﹁構 成 的 始原 の 自 我﹂ は︑ 混 沌た る 無 秩序 の な かを 漂 う 空 虚 なの だろ うか

︒否 であ る︒ ある いは

︑突 如と し て世 界 を 開闢 す る よう な

︑混 沌 か らの 閃 光 のよ う な﹁ 突 発 的炸 裂

﹂ な のだ ろう か︒ やは り否 であ る︒

﹁ 本能−

触 発﹂ とい う混 淆 体 とし て の 原始 原 の 自 我を

︑フ ッ サ ール は 発 生根 源 と し て の﹁ 母に よる 生の 被護 性﹂ に認 めて いる

︒﹁

︵ 原誕 生と いう

︶原 始原 にお ける エ ゴ は すで に 方 向づ け ら れた 本 能 の 自 我で ある

﹂︵XXXIX477

︶︒ こう して つい にフ ッサ ール は始 原へ の問 いの 果て に﹁ 本能−

触 発﹂ とい う構 成始 原と 触発 始原 の混 淆体 に突 き当 た っ てい る︒ 発生 根源 とし て原 始原 の自 我は

︑個 体の 成立 であ ると 共に

︑他 なる もの との 関係 の始 まり でも ある

︒と い う のは

﹁︵ 原 誕生 とい う︶ 原始 原に おけ るエ ゴ﹂ は︑ 根源 的 に は他 者 で ある に も か かわ ら ず︑ 自 分と の 明 確な 境 界 を 画 する こと がで きな い母 の許 にあ ると いう ある 意味 で非 常に 矛盾 した 事態 が成 立し てい る﹁ 母に よる 生の 被護 性に お け る﹂

﹁ 本能 の自 我﹂ すな わち

︑母 胎に おけ る胎 児に ほか なら ない から であ る︒ む

﹃ 生世 界﹄ 第四 三番 草稿 で展 開さ れる フッ サー ル の 原始 原 へ の問 い の 読 解を 試 み るこ と に よっ て

﹁本 能− 触 発﹂ と い う自 我と 非自 我の 混淆 体に 突き 当た るこ とに なっ た︒ しか し︑ 本能 と触 発の 混淆 体と して の主 観性 の始 原は

︑果 た し てフ ッサ ール にそ こで 休ら うこ とを 許す よう な事 象で あり えた のだ ろう か︒ 否︑ であ る︒ それ は︑ フッ サー ル現 象 学 の終 着点 など では なく

︑む しろ そこ から 解き 明か すべ き課 題を 新た にフ ッサ ール に課 す出 発点 にほ かな らな い︒

― 139 ― フッサール『生世界』第四三番草稿における本能の自我

(18)

構築 を始 原の 問題 に取 り組 むた めの 方法 とし て積 極的 に導 入し たこ とが

︑も とも と直 観的 に与 えら れる もの に忠 実 で ある こと を方 法的 格率 とし てき た現 象学 にと っ て破 綻 を 意味 す る のか

︑そ れ と も 深化 を 意 味す る の か︒ さ らに は

﹁︵ 原誕 生と いう

︶原 始原 にお ける エゴ

﹂で ある

﹁本 能の 自我

﹂が

︑他 なる もの への 関係

︑周 囲世 界と の関 係を どの よ う に展 開し てい くこ とが でき るの か︒ 当然 なが ら︑ こう した 問い は︑ 膨大 なフ ッサ ール の草 稿の 整合 的解 釈と いう 途 方 もな く巨 大な 課題 の果 てに 最終 的に 答え られ ねば なら ない だろ う︒ この 意味 でフ ッサ ール が逢 着し た原 始原 は︑ 同 時 に現 象学 的な 問い の原 始原 にほ かな らな いの であ る︒ 註 引 用 に 際 し て

︑ フ ッ サ ー ル の テ ク ス ト は フ ッ サ ー ル 全 集

Husserliana

︶ に 拠 り 文 中 に 直 接 全 集 の 巻 数 を ロ ー マ 数 字 で

︑ 頁 数 を ア ラ ビ ア 数 字 で 挿 入 し た

︒ 引 用 文 中 の

︿

﹀ は 編 者 に よ る 補 足

︑︹

︺ は 引 用 者 に よ る 補 足 で あ る

︒ ゲ シ ュ ペ ル ト な ど に よ る 強 調 は 引 用 に よ っ て 脈 絡 か ら 切 り 離 さ れ て い る こ と に 鑑 み て す べ て 無 視 さ れ て い る

⑴ 当 時 未 公 刊 だ っ た C 草 稿 か ら ヘ ル ト に よ る 引 用 は

︑ 以 下 の 通 り

︒eweeinsSrdechnageraFDiHeld,t.nwargeGegendibeLe.,Kise

destranszendentalenIchbeiEdmundHusserl,entwickeltamLeitfadenderZeitproblematik,MartinusNijhoff,1966,S.110f.

⑵ ヘ ル ト の

﹃ 生 け る 現 在

│ 時 間 の 問 題 構 制 を 手 引 き に 展 開 さ れ た

︑ エ ト ム ン ト

・ フ ッ サ ー ル に お け る 超 越 論 的 自 我 の 存 在 仕 方 へ の 問 い

﹄ は

︑ し ば し ば 単 純 に フ ッ サ ー ル の 時 間 論 と み な さ れ て き た が

︑ あ ま り 言 及 さ れ る こ と が な い そ の 副 題 か ら 明 ら か な よ う に

︑ む し ろ そ の 主 題 は 自 我 で あ る

︒ こ れ は

︑ 時 間 と の か か わ り で の 自 我 の 存 在 の 仕 方 と い う

︑ と り わ け C 草 稿 に 特 徴 的 な フ ッ サ ー ル の 問 題 構 制 を ヘ ル ト が 正 し く と ら え て い た こ と の 証 左 で あ る

Lee,N.-I.,EdmundHusserlsPhänomenologiederInstinkte,KluwerAcademicPublishers,1993.

そ の ま え が き で

︑ リ ー 自 身 が 述 べ て い る よ う に

︑ リ ー の 本 能 論 を 可 能 に し た の は

︑ ヘ ル ト が 主 催 し て い た ヴ ッ パ タ ー ル 大 学 で の 現 象 学 コ ロ ク ィ ウ ム で あ る

︵ibid.,S.1f.

︶︒ ヘ ル ト が

﹃ 生 け る 現 在

﹄ で 展 開 し た フ ッ サ ー ル の 自 我 論 に 端 を 発 す る

︑ こ の 学 統 か ら の 現 象 学 的 自 我 論 へ の 寄 与 は 注 目 す べ き も の が あ る

フッサール『生世界』第四三番草稿における本能の自我 ― 140 ―

(19)

ま ず ほ か な ら ぬ リ ー に よ る 自 我 論 へ の 寄 与 を 挙 げ な け れ ば な ら な い

︒﹃ エ ト ム ン ト

・ フ ッ サ ー ル の 本 能 の 現 象 学

﹄ に よ っ て

︑ リ ー は そ れ ま で ほ と ん ど 言 及 さ れ て こ な か っ た

︑ 先 自 我

︵Vor-ich

︶ を 発 生 根 源 に あ る 自 我 と し て 明 ら か に し て い る

︒ さ ら に

︑ リ ー と 同 時 期 に ヴ ッ パ タ ー ル 大 学 の 現 象 学 コ ロ ク ィ ウ ム に 参 加 し て い た 工 藤 和 男 は

︑ 現 象 学 研 究 者 か ら も

︑ 現 象 学 に 敵 対 的 な 論 者 か ら も

︑ 一 様 に 批 判 の 的 と な る フ ッ サ ー ル の

﹃ デ カ ル ト 的 省 察

﹄ で の 議 論 を

︑ そ う し た 批 判 者 た ち が ほ と ん ど 見 過 ご し て し ま っ て い る

︑ エ ゴ

︑ 自 我

︑ 他 な る エ ゴ

︑ 他 者

︑ 異 他 的 と い っ た 概 念 に 対 す る フ ッ サ ー ル の 周 到 な 用 法 の 区 別 に 着 目 す る こ と に よ っ て

︑ 整 合 的 な 試 み と し て 擁 護 し て い る

︵﹃ フ ッ サ ー ル 現 象 学 の 理 路

│﹃ デ カ ル ト 的 省 察

﹄ 研 究

﹄ 晃 洋 書 房

︑ 二

〇 一 年

︶︒ ま た

︑ ヘ ル ト の 許 で 著 し た 博 士 論 文 に お い て 田 口 茂 は

︑ フ ッ サ ー ル の 原 自 我 概 念 を 主 題 と し て と り あ げ

︑ フ ッ サ ー ル 自 我 論 全 体 の 体 系 的 解 釈 を 試 み て い る 2006`stverständlichen`NähedesesSelbst,Springer,lb ︵naEProblemdes‘Ur-Ich’beidmundDasHusserl.DieFragerdech

/﹃ フ ッ サ ー ル に お け る

︿ 原 自 我

﹀ の 問 題

│ 自 己 の 自 明 な

︿ 近 さ

﹀ へ の 問 い

﹄ 法 政 大 学 出 版 局

︑ 二

〇 一

〇 年

︶︒

Sowa,R.,Einleigung,in:Husserl,E.,GrenzproblemederPhänomenologie.AnalysendesUnbewusstseinsundderInstinkte.Meta-

physik.StäteEthik.TexteausdemNachlass

︵1908-1937

︶,S.XLV,Anm.2.

ソ ー ヴ ァ は 本 能 と 衝 動 の 問 題 構 制 に つ い て の 重 要 な 研 究 草 稿 と し て

﹃ C 草 稿

﹄ の 一 七

︑ 四 六

︑ 五 七

︑ 六

︑ 六 三

︑ 六 四

︑ 六 八

︑ 六 九

︑ 七

︑ 七 一 番 の 草 稿 と

︑ 全 集 四 二 巻

﹃ 現 象 学 の 限 界 問 題

﹄ と 同 じ く ソ ー ヴ ァ 自 身 が 編 集 し た

﹃ 生 世 界

﹄ の 四 三

︑ 五 一 番 草 稿 お よ び 附 論 二 三

︑ 六 九 を 挙 げ て い る

Lee,N.-I.,op.cit.,S.3.

Fink,E.,DiePhänoemnologieEdmundHusserlsindergegenwärtigenKritik,in:Ders.,StudienzurPhänomenologie1930-1939,

MartinusNijhoff,1966,S.147.

Lee,N.-I.,op.cit.,S.220.

⑻ フ ッ サ ー ル 全 集 第 一 五 巻

﹃ 相 互 主 観 性 の 現 象 学

│ 遺 稿 に よ る テ ク ス ト

│ 第 三 部: 一 九 二 九− 一 九 三 三

﹄ の 編 者 の 序 論 の な か で

︑ フ ィ ン ク が 書 き 留 め た 一 九 三

〇 年 当 時 の フ ッ サ ー ル の

﹁ エ ト ム ン ト

・ フ ッ サ ー ル の

﹃ 現 象 学 的 哲 学 の 体 系

﹄ に つ い て の 構 想

﹂ が 収 録 さ れ て い る

︵XVXXXVI-XL

︶︒ そ こ で

﹁ 原 志 向 性 の 現 象 学

︵ 本 能 の 現 象 学

︶﹂

︵XVXXXIX

︶ が そ の 構 想 に と っ て 枢 要 な 位 置 に あ る こ と を 認 め る こ と が で き る

Lee,N.-I.,op.cit.,S.4.

リ ー は

︑ さ ら に

︑ 先 の フ ィ ン ク の 指 摘 を 踏 ま え た う え で

︑ カ ン ト と フ ッ サ ー ル の 不 一 致

︑ 正 確 に 言 え ば

︑ 静 態 的 現 象 学 に お け る フ ッ サ ー ル と カ ン ト の 一 致 と

︑ 発 生 的 現 象 学 に お け る フ ッ サ ー ル と カ ン ト の 不 一 致 を 指 摘 し

― 141 ― フッサール『生世界』第四三番草稿における本能の自我

(20)

︵ibid.,S.221

︶︑ さ ら に

︑ フ ッ サ ー ル の ラ イ プ ニ ッ ツ へ の 接 近 と

︑ さ ら に は

﹁ 真 正 の 意 味 で の 普 遍 的 哲 学 と し て の 超 越 論 的 現 象 学 を フ ッ サ ー ル は 後 期 哲 学 に お い て ラ イ プ ニ ッ ツ に 依 拠 し て 超 越 論 的 モ ナ ド 論 と 名 づ け る

﹂︵ibid.,S.246

︶ に 至 っ て い る こ と を 指 摘 し て い る

︒ 同 じ く

︑ フ ィ ン ク の 指 摘 を 踏 ま え て

︑ な お フ ッ サ ー ル と カ ン ト の 差 異 よ り も そ の

﹁ 類 似 性 と 親 近 性

﹂︵ibid.,S.4

︶ を

︑ フ ッ サ ー ル が

﹁ 世 界 内 部 的 実 在 論 を 含 む あ ら ゆ る 経 験 の 諸 相 を 理 解 可 能 に す る も の

﹂ と し て 自 身 の 現 象 学 を 超 越 論 的 観 念 論 と 捉 え て い る こ と に 認 め る こ と に よ っ て

︑ カ ン ト と の 連 続 性 を 指 摘 す る の は

︑ 工 藤 和 男 で あ る

︵ 工 藤 和 男

﹁ フ ッ サ ー ル に お け る 経 験 的 実 在 論

﹂ 同 志 社 大 学 人 文 学 会

﹃ 人 文 学

﹄ 第 一 三 八 号

︑ 一 九 八 三 年

︑ 三 六− 七 頁

︶︒

⑽ こ う し た カ ン ト 以 降 の 超 越 論 哲 学 の 動 向 を 非 常 に 広 範 に 哲 学 史 を 踏 ま え た う え で

︑ 広 い 射 程 か ら 主 題 と す る 研 究 と し て 以 下 の も の を 挙 げ る こ と が で き る

︒Gardner,S.andGrist,M.

︵eds.

︶ors,esPrtyrsiveUnidOxf,n,TuralntndeceransTThe2015.

こ こ で は

︑ 様 々 な 研 究 者 に よ っ て

︑ カ ン ト

︑ フ ィ ヒ テ

︑ ヘ ー ゲ ル

︑ ニ ー チ ェ

︑ フ ッ サ ー ル

︑ ハ イ デ ガ ー

︑ メ ル ロ

ポ ン テ ィ

︑ ウ ィ リ ア ム ズ

︑ ス ト ア 派 が 超 越 論 哲 学 と の 関 係 で 取 り 上 げ ら れ て い る

⑾ フ ッ サ ー ル 研 究 の 初 期 段 階 で

︑ フ ッ サ ー ル 現 象 学 を 体 系 的 に 描 き 出 そ う と し た デ ィ ー マ ー に よ る 浩 瀚 な 研 究 に お い て も

︑ 本 能 の 現 象 学 は 静 態 的 現 象 学 に 組 み 入 れ ら れ る こ と に よ っ て 本 来 の 意 義 を 拭 い 去 ら れ て し ま っ て い る

︵Lee,N.-I.,op.cit.,S.9

︶︒

Diemer,A.,EdmundHusserl.VersucheinersystematischenDarstellungseinerPhänomenologie,2.verb.Auflage,Haim,1965,S.98ff.

⑿ ホ ー レ ン シ ュ タ イ ン は

︑ 連 合 と い う ま さ に 触 発 や 本 能 と い う 主 題 と 密 接 に 連 関 す る 事 象 を 主 題 に 据 え た

﹃ 連 合 の 現 象 学

﹄ に お い て

︑﹁ 本 能 現 象 と 連 合 現 象 の 不 可 分 の 連 関 を 立 ち 入 っ て 分 析 し た り は し な い

﹂︵Lee,N.-I.,op.cit.,S.10

︶︒Holenstein,E.,

DiePhänomenologiederAssoziation,MartinusNijhoff,S.37,Anm.15.

⒀ 例 え ば

︑ フ ッ サ ー ル 現 象 学 の 本 能 や 衝 動 を 主 題 と す る 最 近 の 研 究 と し て

︑ 以 下 の も の を 挙 げ る こ と が で き る

︒Pugliese,A.,

TriebsphäreundUrkindheitdesIch,in:HusserlStudies25,2009,S.141-157.

こ れ は

︑ 現 在

﹃ 限 界 問 題

﹄ に 収 録 さ れ て い る 本 能 論

︑ い わ ゆ る E 草 稿 に 定 位 し た 論 文 で あ り

︑ と り わ け

﹁ 幼 児 的 形 式 で の 主 観 性

﹂︵ibid.,S.145

︶ に 特 別 の 超 越 論 的 機 能 を 見 出 そ う と し て い る

lin:TheJournaofAffectiotheBritishSocietyfon,ofBroeower,M.,Husserl’sThryryofInstinctsasaTheor

Phenomenology,45,2014,pp.133-147.

ブ ラ ウ ワ ー は

︑ フ ッ サ ー ル が 客 観 化 と 非 客 観 化 に よ っ て 本 能 を 区 別 し て い る わ け で は な い こ と を 指 摘 し

︵ibid.,p.140

︶︑ フ ッ サ ー ル が 初 期 に 触 発 と 呼 ん で い た も の が

︑ 後 期 に は 好 奇 心 と 呼 ば れ る こ と を 指 摘 し て い る

フッサール『生世界』第四三番草稿における本能の自我 ― 142 ―

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