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中林 瑞松

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Academic year: 2021

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(1)

サイラスという男(VII)

一H.E.ベイツのあるヒーロー一

中林 瑞松

IV.サイラスの土(その二)

は じ め に

 サイラスおじは,前回(早稲田人文自然科学研究第43号)でも述べておい たとおり,長いあいだ土との関りをもちつづけてきた。もちろん能動的 にである。そもそもサイラスと土との関りに注意して読みたいと考えた のは〃夕ση616S吻sの序文の …  my Uncle Silas, who… was awonderful gardner…   のところを「庭仕事をさせたら右に出る者 がなく」と解釈し,庭仕事の対象となる植物(庭石などは除外する)は すべて土に根ざしているものだから,これを更に進めて「土をいじらせ たら右に出る者がなく」と考えたいと思ったからである。それで,まず 彼の住まいとその周辺を,次に彼の野良仕事と農作物との関りをみてき た。しかし「サイラス物」には様々な果樹の名や草花の名が出てきて,

主人公と多様な接触の仕方をしている。それで今回は,これらの植物が 如何ような介し方をして両者  サイラスと土  の関りを見せてくれ ているかを読んでみたい。

 その方法としては,作品別にサイラスと植物との関係,あるいはサイ ラスの植物の扱い方を見る方法もあるが,作品という枠を一応はずして,

彼の植物の栽培の仕方というか,あるいは植物との遊び方に視点を置い

(2)

て読んでゆきたい。

 3.サイラスの植物

 「サイラス物」に出てくる植物の数は多い。ざっと見ただけでも林檎 の樹,桜の樹,松の樹,釣鐘草,キバナノクリンザクラ,フサスグリ,

ニワトコ,グーズベリ,フクロソウ,各種のユリ,ナデシコ,ヒエンソ ウ,各種のバラ,ダリア,アスター,勿忘草,スミレ,水仙等々,その 数は40種類に近い。で,すべて名の挙がっている植物との関りを見るわ けにはいかないので,これらのうちでいろいろな意味で特に着りの密な るものと作品から読みとれる植物を取りあげたい。と同時に,サイラス が自分の屋敷内で栽培し育てているものに限りたい。

Betweenμs stood a clothes basket full of cowslips, wilting in the genial

warmth of afternoon. For over an hour we had been de−flowering the golden−fingered heads and laying them out on an ebony coloured tray to dry.(71ゐ6 肋d4ガηg Rz吻, P.126, ll.1−4)

ふたりの間には洗濯物を入れる籠があってキバナノクリンザクラが一杯に 摘んであり,午後の温かさで萎れかけていた。一時間以上も私たちは黄金 色の花を摘みとっては漆黒の盆に並べて乾していたのである。

 引用文中のusはもちろんサイラスと「私」であって,日当りのよい場 所でキバナノクリンザクラを摘んでいる場面である。この花は『野生の

草花ポケット百科事典』丁勉PO恩間Eη(ッoJoραεゴ名α(ゾ曜1ゴ、F10ωθZ∫(以

下『事典』という)には「丈は10センチから30センチ,根元から出てい る葉には雛があり,蕊でおおわれていて,黄色の緻形花序である。花冠 は管状で下を向き,裂片は広がっていて5つのオレンジ色の斑点がある。

英国南部の草原や牧草地ではごく普通に見られるもので,北部にはあま りない。開花期は5月から7月」とある。この花を原料にしたものが「サ イラス物」によく出てくる,すなわち彼が愛飲しているカウスリップ・

 2

(3)

       サイラスという男(VID ワインに外ならない。このほかにもう一種にわとこ酒(後述)というの があって,これらとはサイラスは切っても切れない縁があり,これらの 酒がなければサイラスもなく,サイラスがなければこれらの酒もない,

と言ってもよい。

 それほどの酒の原料となっているものが「草原や牧草地」ではいたる ところに咲いているものだから,いかにもサイラスらしい。しかも引用 文中で二人目居るところは,もちろんサイラスの屋敷の内である。

 この自然のなかに自生する花を原料にして,彼は自分の手でワインを

  セ ラ  

造り地下室に蓄えておいて,他人の言葉ではあるが「一日に一町は空け た」というから,この花を介してのサイラスと土との肖りは深い。これ ほど彼が大事にしていた植物を,サイラス亡きあと,その家を購い住ん だ若い夫婦者がきれいに除去してしまったのだから,彼らに対する「憤 感やる心なき」といった「私」の心情も理解できょうというもの(しか しこれは後の話である)。ちなみに,「サイラス物」で植物の頻出度をみ ると,この草花の名が最も高かった。

...the elderberries would be drooping over the garden hedge in grape

−dark bunches, ripe for wine. What would happen to them if he died?

What could happen?No one else could dig those potatoes or garner those pears or work that wine he did.(ノ吻 ση6」6Sπα∫, p.164, ll.4−7)

…  にわとこは熟れきって,黒ずんだ粒がかたまって庭の生垣に垂れた ままになってしまう。彼が死んだりしたら,にわとこはどうなる。どんな ことがおこるんだ。サイラスがしなければ,誰も彼ほどに馬鈴薯を掘った り,洋梨を蓄えたり,あるいはワインを造ったりはできやしないんだ。

 もちろんelderberriesというものはeldersという植物に成る実のこ とであって,『事典』によると「灌木で葉は不揃いな羽状をなし,平らな 緻形花序に黄色味のある小さな花をつける。その実は黒味がかった紫色。

枝には臼い海綿状の木髄がある。イギリスでは不毛の土地にも成育し,

(4)

もちろん家の庭にも植えられている。開花期は6月目ら7月」とある。

この実をもう少し詳しくいうと「赤,黒または黒紫色の液果様の核果」

(リーダーズ英和辞典研究社〉であって,それを二二させて造ったものが にわとこ酒である。

 これも,もちろん『事典』にあるようにイギリスならばいたる所に,

しかも不毛の地にも成育する植物であって,人家の庭にも植えられてい るわけであるから,サイラスが屋敷のなかにあるにわとこから実を採取 して,それを原料にして酒を造ったことは明白である。彼が死の直前ま で愛飲していたこの二種類のワインは,けっして高級な果実を原料にし て複雑な工程を経て出来た高級なワインではない。どちらもサイラスの 屋敷内に生えているものを原料にして,彼が自分の手で醸造したもので あって,これによっても彼と土との密接な関りが知られる。

 さきのキバナノクリンザクラの花を原料にして造ったワインと,この にわとこの実を原料にして造ったワインを,サイラスは終生の友として いた。このことは「サイラスの酒」(「文学とことば』 1991年3月刊行)のと ころで,医師がくれた水薬の瓶の中味をワインに入れ替えておいたこと,

そして彼が他界したときには,両方の瓶ともきれいに空になっていたこ とを読んでも,充分に知ることができた。

 ここで少し本論から逸れるが,彼はただ単ににわとこ酒を飲んでいた のではない。その肴に焼き馬鈴薯を食べていたことは後で述べるとして

も, Loss of Pride という短篇に「冬には私たちはほとんどにわとこ酒 を飲んでおり,時々,寒さがことのほか厳しい晩などには,少し温めて 飲みました」とある。

 この「少し温めて」というのは物語ではslightly mulledと表現してあ り,mullというのを幾珊かの辞書でみると,ビールやリンゴ酒などに砂 糖を加えて温めるのだそうであるが,われわれ日本人の感覚からすると,

 4

(5)

       サイラスという男(VID リンゴ酒ならばいざ知らず,ビールを温めて飲むなどということは,ま して砂糖を加えるなどということは,とうてい考えられない。砂糖のこ とは措くとして,酒を温めるということは,日本流にいえば燗をするこ       あっかん      ぬ るかん

とであり,聞くところによると,この仕方には熱燗があり微温燗があり

「人肌の温かさ」というのがあったりして,人によって,また気温によ ってもちがう。ところでサイラスと「私」が寒さが殊のほか厳しい夜に,

「少し温めて」飲んだというのは,いったいどの程度の温かさなのか少 し考えてみたい。

 副詞のslightlyを辞書でみるとto a slight degree;abit;ratherある いはin slight wayなどとあるくらいで,どのくらいの温度ということは 勿論のこと,どのくらいの温かさを感じるのかも明瞭ではない。しかし,

酒を飲む(好む)者には感じられることなのではなかろうか。もし寒さ が厳しい夜に冷たい液体を口に含むとする。すると,たとえそれが美味 い酒であったにしても,酒そのものの美味さは舌では感じとれないので はなかろうか。液体の冷たさだけを先に舌の冷点が感じとってしまい,

液体のもつ味を感じ取れないように思われる。しかし酒が「かすかに」

温められてあると,すなわち舌の冷点が冷たさを感じないですむくらい に温められていると,液体そのものがもつ味を味覚が感じとる。

 だとするとこのslightly mulledというのは,舌の味覚がワイン(この 場合はにわとこ酒)の味を適確に感じとれる温度,いいかえれば口にワ

・インを含んだときに味よりも先に熱さや冷たさを感じなくてすむ温度,

これを作家ベイツはslightlyという言葉で表現したのであろう。ただし その温め方については何ら言及がない。

 長々とワインを温める温度について考察をしてきたが,これというの もサイラスのせいである。彼がいつでも同じようにワインを飲んでいれ ば,何も言うことはないのだが。しかしここがサイラスと他との相違で

(6)

あって, Iknow what I m doing (短篇 The Death of Uncle Silas ある)という言葉を此処へもってきても,充分に通用すると思う。自分 の屋敷でしかも自分の手で摘んだにわとこの実を原料にして,自分の手 で醸造したワインだからこそ,可能な限り美味く飲みたいという彼の心 の現われ,良質の我が儘の現われに外ならない。このような表現は彼に は適切でないように思われるが,丹精をこらして作ったものにたいする

いと

愛おしみの心が窺えるように思える。

 Raspberfies(キイチゴ)も,その名が出る頻度こそ低いが,サイラス とは深い関りをもつ植物と考えてよい。 Shandy Lil という短篇に,

  Iremember a July afternoon in my Uncle Silas garden when the raspberries were as big as walnuts and very black.(丁加脆44勿g勘勿,

p.93,II.1−3)

  We were supposed to be gathering raspberries for jam−making, but Iwas eating most of mine as I picked them. He was lying flat on his

back....Now and then he lifted up the rim of the straw hat like a trap

door and dropped a raspberry into his mouth,....(71目皿露吻g∫セ吻,

p.93,ll.7−13)

 キイチゴが胡桃ほども大きくなって,熟れて黒ずんでいた頃,6月のあ る日,サイラス家の庭にいたことを憶えている。

 私たちはジャムにするキイチゴを摘んでいることになっていたが,私は 摘むそばから食べていた。おじはといえば仰向けに寝ころんで…  時々,

麦藁帽子のつばを携ね上げ戸のように持ちあげては,口のなかヘキイチゴ を落としこんでいた。

という場面がある。この植物についても先の『事典』その他から必要と       もく 思われるところを抜きだして総合すると,次のようになる。すなわち「木

ほん

本の茎をもつ小低木で丈は1メートルから2メートル,全体に細い棘が ある。その茎は二年生で一年目は葉だけを出し,二年目に花が咲いて実 を結ぶ。その実は,桑の実のように,球形の複果であって,熟すと黄色 ないし紅色に変色して食べられる。生食のほかにジャムなどにする。林

(7)

       サイラスという男(WD や山野に自生するもので,果実を取るために庭にも植えられる。開花は

6月」とのこと。

 ここでまず問題にしたいのは木が「丈が1メートルから2メートルほ どで,林のなかや荒地に普通に自生している」ということ。これまでに 幾度も指摘してきたことであるが,サイラスの屋敷に植えられている植 物は,特殊な,そして特別に手を掛けなければならないようなものはひ とつもないと言うことである。「林のなかや荒地に普通に生えている」ラ ズベリィが屋敷内にあるということは,とりもなおさず,林のなかや荒 地に近い状態の土地にサイラスの屋敷があるということになる。

 ところが『事典』に記されている内容と短篇から引用した文の内容と で少しばかり相違するところがある。前者には「小さな核果で色は赤,

ときに淡い黄色や不透明」のことがあるというのに,サイラスの屋敷に あるラズベリィは大きくて胡桃ほどもあり,色は黒に近いとある。これ はとりもなおさずサイラス家のラズベリィは並のものと比べると成育が 格段に良いということではないだろうか。林だとか荒地に自生する植物 であるから,もちろん野生の植物である。『事典』にある記述はラズベリ

ィの野生の状態であり,いっぽうサイラスの屋敷にあるものは彼が土と 深く関って,そして丹精をこらして育てあげた状態のものである。上で 述べた比較によっても,サイラスと土との密接な関係は明らかになるの ではないだろうか。

 つぎに引用文の二番目のパラグラフは,ある辞書の「生食」という記 述を証明するものである。Weはもちろんサイラスおじと「私」であっ て,ジャムを作る原料にするためにラズベリィを摘んでいる。いや,引 用文にwere supposed toとあるように「摘んでいることになっていた」

のである。じつは摘んではいるもの・,二人はほとんど食べてしまって いる。サイラスは食べながら昔時の話をしているし,「私」も食べながら

(8)

その話を聞いている。

 ここで重要なことはto be gathering raspberries for lam−makingで ある。すでに「サイラスは自給自足をしている」という意味のことを述 べておいた。この自給自足は大好きなワインやパンばかりではなくて,

ジャムも自分の屋敷から穫れる果実で作っていることがわかる。それも,

引用文の一番目のパラグラフで知ったように,並のものではなくて,「土 をいじらせたら右に出る者がない」ほどの腕前をもったサイラスが丹精 をこめて育てた木が実らせたものであるから,出来上ったジャムそのも のも並のものではないであろう。というわけで,この植物を通しても,

サイラスと土との深い盛りを知ることができる。

Half−way up the garden path he stopped to show me his gooseberries.

They were as large as young green peaches. He gathered a handful,

and the bough, relieved of the weight, swayed up from the earth.(助2

ση6Z6 S蝋型, pユ8。 ll.3−7)

   Idaresay. And then in a flash= But could he grow goosegogs like

that?  (ル〔y ση6」6S銘αs, p.19, IL1−2)

庭を半分くらい行ったときにサイラスはたちどまって,私にグーズベリィ を指差した。まだ熟れていない桃くらいの大きさであった。彼がその実を 一掴み椀ぎ取ると,枝は軽くなって跳ね上がった。

 「いいか」そして間髪を入れずに「奴にはこんなグーズベリィが作れた

んか」

 この引用文はサイラスが馬鈴薯を掘り終えて,庭のなかの小径を母家 へ向って「私」と並んで帰る途中の描写である。そこにグーズベリイの 木がある。しかしここでは木ではなくて実そのものを問題にしたいので,

gooseberryをLongmanの1)ガ漉。ηαη(ゾCoη 6〃zρo駕ηEηg1勅でみ ると Asmall round green sharp−tasting fruit…   とある。日本語の 辞書では「果実は長球形で赤褐色に熟し,食べられる」とある。こちら は「赤褐色」であちらは green であるが,熟すと変色するのであろう。

 8

(9)

       サイラスという男(VID それはよいとして,この果実の大きさがロングマンの辞書にはsmallと あるのに,引用文では「まだ熟れていない桃ほどの大きさ」と形容して いるのだが,辞書でいうsmallはどれくらいの大きさを基準にして smallといっているのか解らない。それで引用文の表現を重くみて,サイ ラス家のグーズベリィが並のものに比べると大きく成長しているものと 読むことにした。

 しかも引用文のなかには,サイラスが「一掴み椀ぎ取ると(撹んでい た)枝は軽くなって跳ね上がった」とあるから,ただし「一掴み」にで きたのは二個や三個ではなくて,おそらく五,六個であったのだろうか ら,びっくりするほどの大きさではなかったろうが,並の大きさではな かったにちがいない。これだけでも植物を介してのサイラスと土との直

りが密であることがわかるというもの。

 これだけではない。ふと「私」がトマス・バーディの名を口に出した。

おじと同年輩くらいだと思ったからである。ところがおじは全く別の,

子供の頃は漬垂れ小僧のトマスを考えていた。話がちぐはぐになったと ころで「私」が小説を書いたトマス・バーディだと言うと,おじはしば らく無言でいたが,「だけど,奴にはこんな(素晴らしい)グーズベリィ が育てられたんか」と言った。この言葉を単なる自慢におわらせてしま

うわけにはいかない。小説を書いたトマス・バーディと同年輩だといわ れて,いかに田舎育ちのサイラスでも,小説家の何たるかを知らぬわけ はない。小説を書くことがどんな仕事かを承知している。そのうえでの 言葉である。だからこれは単なる自慢ではなくて,我が丹精をこらした 作品であるグーズベリィの果実と,彼が丹精をこらした作品である小説

とを比較すること(いかにもサイラスらしい無鉄砲ともみえる比較であ るが)によって,文豪トマス・バーディに対抗して,「土をいじらせたら 右に出る者がない」とまで評されているサイラスおじの,我は彼に劣り

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はしないのだという自負心の現われであると読むのがよいのではなかろ うか。というのは,この言葉を吐いたときには,その声に「痛烈な軽蔑 がこめられており,おじの血管がういている左の眼には怒りと上機嫌の 表情が相半ばしていた」(…  in a voice of devastating scorn, his bloodshot eye half−angry, half−gleeful… . r百合」18頁,28−29行)

と言うことであるから。

 ある辞書によると,古くはこの実を原料にしてワインを造ったそうで あるが,「サイラス物」には彼がこのワインを飲む場面がない。と言うこ

とは,彼はこのワインを醸造しなかった。

 「サイラス物」では先の引用文のほかに二箇所にグーズベリィが出て くる。すなわち,

  We were sitting among the gooseberry bushes at the time, by the bottom of Silas garden, by the wood,...Gooseberries, ripe golden−

green and fat as plums,...and now and then Silas lazily pinched olle with crabbed fingers and split it open and shot its lellied seeds on to his ripe and ruby tongue.(銑θβ66クわ堀∫ぬぎ塑C如η827}p.165,IL19−26)

  He picked another gooseberry and squashed it against his tongue and gave a great sucking sound at the bursting Purse of seeds. (7物6 Bθψわz4∫ぬ〃θC如ηg6ろp.166, ll.19−21)

 私たちはそのときサイラス家の庭のはずれ,林のわきでグーズベリィの 灌木のなかに坐っていた。… グーズベリィは熟れて黄緑色になり,セイ

ヨウスモモほどに大きくなっていた。時々,おじは節榑立った指で摘んで は中身を押しだして,ゼリー状のものに包まった種を鮮紅色のぼってりと した舌に落としていた。

 もう一つ摘んで舌に押しつけて,大きな音をたてて,はち切れそうな袋 を吸った。

である。これら二つの引用文では,すべて彼はグーズベリィを食べてい る。同様に「私」も食べている。たしかにこの植物の実は食べられる。

この植物は土着のもので自生する,また栽培されているものから野生に

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      サイラスという男(VII)

かえったもの(逸出植物)もしばしば見られて,それが生える場所は林 であり,また生垣に用いられているという。いずれにしてもサイラスは グーズベリィをワインの原料にするためでもなく,またラズベリィのよ うにジャムの原料にするためでもなく,もっぱらその果実を食するため に育てていたのである。いずれにしても,この植物を介しても彼と土と の深い縛りが読みとれるのではないだろうか。

 また,サイラスはいろいろな草花を育てていた。それは次の引用文で もわかる。

By the house, under the sun−white wall, the sweet−williams and white pinks flamed softly against亡he hot marigolds and the orange poppies flat opened to drink in the sun.(ル〔y ひ%c16∫歪燃, P.16,11.17−20)

My Uncle Silas also grew flowers. He had always been an ugly little man, and it was as though the littleness and ugliness in him demanded to be expressed in something huge and wonderful.(吻乙碗漉Sゴ娩p.

124,1L5−9)

  His dahlias were like grand velvet cushions of salmon and scarlet,

his asters like ostrich plumes of pink and mauve. He gloried in sprays

of monster golden lilies that were like the brasses in an orchestra. He liked roses into which he could bury his face.(ルリ乙勿61θS吻s, p.124, ll.

10−14)

家の脇,陽のあたる壁の下に,陽の光を吸いこもうと花弁をいっぱいに開 いている燃えるようなキンセンカや,榿色のケシの花の前には,ナデシコ や曰いセキチクがそっと咲いていた。

わがサイラスおじも草花を育てていた。彼は醜くて小柄な男であった。そ のために彼は巨きくて素晴らしいものを求めてやまなかったようである。

 彼が育てたダリアはまるでサーモンピンクや深紅のビロードの大きなク ッションのようであり,シナギクは桃色や藤色のふわふわした駝鳥の羽毛 のようであった。彼は莫迦でかくて黄金色の百合を自慢にしていたが,そ れらはまるで交響楽団のなかの金管楽器群のようであった。また彼はバラ を大切にしていたが,それらは彼の顔がすっぽり埋まってしまうくらいの 大きさであった。

余談になるが,作家のベイツ自身も植物を愛した,いいかえれば土と

(12)

の深い関りを有っていたようである。その証拠に1971年には、4Loθ6σ FJoω6鴬を,そして1974年置は、4 Fo%泓α伽(〜/FJoz〃6zsという園芸に関 する書物を公けにして(植物に関する随筆集は他にある),そのなかでそ れこそ無数の花を,カラー写真や挿絵を入れて扱っている。これらの草 花や樹木は,作家と夫人とが二十歳代にケントのリトル・チャートとい う小さな村で農家の穀倉を購い求め,それを住まいに改造し,そこに住 みながら長い年月をかけて庭を造り,そして植え育てた結果なのである。

この様子は自叙伝の第二巻丁地研OSSO〃珈g防7」4に詳しく述べられ ているのであるが,作家が幼い頃に母方の祖父に連れられてよく田園を 歩いた幼時体験が作用しているのであろう。いずれにしても作家は植物 が好きで詳しかった。その作家自身を植物好きなサイラスおじに投影し ているのかもしれない。

 草花の種類の多さもさることながら,引用文の下のパラグラフでは草 花を修飾している語句に注目したい。彼が育てるダリアはビロードを張 ったgrand「堂々とした」「豪薯な」クッションのようであり,シナギク は1ike ostrich plumes of pink and mauve「桃色や藤色のふわふわした 駝鳥の羽毛のよう」であり,黄金色の百合はmonster「莫迦でかく」

て,バラはinto which he could bury his face「そのなかに彼の顔がす っぽり埋まってしまうくらい」の大きさであった。これらの形容語句は

どれも並外れた大きさや素晴らしさを表わすものである。

 これとは対照的に,彼の長年の友人であるウォルタ・ホーソンという 人物は,体躯は人一倍大きいのに小さいものが好きで,育てているバラ

は鉢植えでイヤリングほどの花しか咲かせないという。バラの種類はま ことに多くて1吻襯鰯%FZo麗7s勿Colo躍というポケット版の植物事 典でさえも13種類を載せているくらいだから,大きな花を咲かせる種類 から小さな花を咲かせる種類まで多々あるだろう。しかし,いかに点き  12

(13)

       サイラスという男(WD な花を咲かせる種類とはいっても,そして表現が少し大袈裟とは思うの だが,人の顔が埋まるくらいの花を咲かせると言うことは,やはりサイ ラスの育て方がすぐれている証拠であろう。ここでもサイラスと土との 密なる関りが知れるのである。

 この,サイラスが大きなものや華美なものを欲する原因を,彼の心の 深いところにまで踏みこんで探っている。それが作品のなかの「サイラ スはその肉体的な綾小さや醜悪さの故に,つねに大きくて華美なものを 求めつづけたようである」(.._it was as though the littleness and ugliness in him demanded to be expressed in something huge and wonderfuL)という記述であって,二番目のパラグラフにある。この記述 によると,彼のないもの強請りの類,あるいは単なる正反対なものに憧 れる欲望の現われでしかない。

 しかし彼の場合にはそれに留まらない。もともと大きなものをその儘 に,また元来華美なものをその儘の状態に保っていたのではなくて,大 きなものをさらに巨きく,華美なものをより美しく育てたのであるから,

「土をいじらせたら右に出る者がない」といわれた彼の手腕はやはり並 みのものではなかったと言ってよい。

 つぎに,サイラスの存命中と死後の屋敷の状況を比較して,彼の土と の関りを見る。その屋敷のとてつもない変化は,短篇詰屈ση616Sゴ伽 の最後に収められた短篇 The Return に描かれている。すなわち,サ イラスの死後一年と少し経った頃に「私」はすでに人手に渡っている家 を訪れた。現在の住人は結婚したばかりの夫婦者で,自分達の好みに合 わせて,特に庭を完全に変えてしまっていた。このことが「私」をひど

く立腹させる。この時の「私」がおじの心を代弁しているとみてよい。

物語の筋に従って引用すると,

13

(14)

Isaw, beyond the fence, the stump of a sawn−down apple tree, and then

another, and then another of a cherry tree, and beyond that a wide empty space where the gooseberry trees had been, and beyond that

another white fence in place of the wild elderberry hedge,...It was the

trees which finished me:Iovely summer apple trees and the black−heart cherry trees and the yellow plums。 Sawn down! Scrapped! God

Almighty!....(ル〔y 乙吻6」〔ヲSが伽,p.178, ll.1−13)

The old sweet pink−and−white double roses that had grown on either side of the door for countless years had been sawn down too. (吻

こノ擁oJεS∫嬬, p。178, ll.21−24)

The place had been ruined:aneat, parsimonious little lawn had been laid down where Silas had grown his potatoes;the old sun−flowers had

gone and the old lilac trees;the place where the loveliest of all lilies had grown was a bed of red geraniums. I could not bear it。(ル〔y乙勿616 S磁ε,

p.182,IL12−17)

私は見た,フェンスの向こうに切り倒された林檎の切株を,さらにもう一 つ,さらにもう一つ桜の切株を,そしてその向う側はがらんとした空地に なっているが,グーズベリィの木があった所だ,そしてその向うがまた臼 いフェンスなのだが,そこは野生のにわとこの垣根だった所だ,… 私を

      ヘ    ヘ    カ   あ

叩きのめしたのは樹木だった。素晴しい林檎の樹や黒桜桃の樹や黄プラム の樹,みな切り倒されて,なんと,捨てられてしまった。

玄関の両側にずいぶん昔から植わっていた臼と桃色まだらの八重のバラも,

切り倒されていた。

屋敷は荒れてしまっていた,おじが馬鈴薯畑にしていた所は,小綺麗でし わんぼうな芝地になっていたし,ヒマワリもなく,リラの木もなくなって いた,あの百合があった所は赤いゼラニュームの花壇になっていた。もう 私は我慢ができなかった。。

となる。これらの引用文を読んでいくと屋敷内(もちろん住まいも変っ ているのだが,今はそれには触れない)が激しく変化している様がよく わかる。ただ単に変化の具合が読みとれるだけではなくて,用いられて いる単語やその置き方から「私」の気持ちが読みとれる。もしサイラス が生きていてその変化を目にすれ,ば同じ怒りを覚えたであろうことが,

読む者に理解できる。

14

(15)

       サイラスという男(Vll)

 最初の引用文の林檎や桜の切株だけが残っている場面でthe stump of asawn−down apple tree, and then another, and then another of a cherry treeと続くところなど,同じ単語を並べて畳み掛けるような表現

は,単純であるだけに,感情の激昂がよく現われていて,強い喜びでな ければ激しい憤りである。

 二番目の引用文から受ける印象は最初の引用文から受けるほどのもの ではない。表に出る激しい感情はしばらくは鎮静しているようにみえる。

が,それは終記したのではない。姿を消してしまったものを偲んで,そ の思いが内に深く沈んでいくようである。

 三番目の引用文になると,憤怒は再び表面に現われてきている。The place had been ruinedがそれであって, ruinを用いなければ納まらな かった気持は,まさにサイラスの気持ちそのもので,最後の文Icould

not bear itの主語をMy Uncle Silasに置きかえても少しもおかしくは ない。これらの引用文で,如何に深くサイラスが土と関ってきたかがわ

かる。

 ただ地面を芝で覆ってしまうことは,彼にとっては土と関ることでは なかった。花壇を作って花を植えておくだけでは,土と関ることではな かった。彼にとっては多くの植物を養い育て,大地という母体から有形

・無形の恵みを得ることが,土との上り方であったはずである。サイラス のこの心を充分に承知している「私」が,今はウェイド=ブラウン家と なっているおじの住まいを去るにあたっての感慨が,今は亡きサイラス おじの心を適確に表明している。すなわち,すっかり変容してしまった 庭をthe desolated garden(190頁,8回目) 「見る影もなく荒れ果て た庭」としか見られなかったのである。そしてこの語句が「私」の憤怒 の総仕上げであったといえるであろう。

15

(16)

 4.サイラスの馬鈴薯

 サイラスが屋敷内の畑で馬鈴薯を栽培していたことは The Lily など        セ ラ  の短篇に描かれている。そして収穫した馬鈴薯を地下室に貯蔵しておい

たことは,たとえば The Revelation の「明りを持って下へ行って,ワ インの壕と薯をもってきてくれ… 」(p32,11.13−14)を読めばわか る。しかしここで読みたいのは馬鈴薯の栽培法ではない。そうではなく てその食べ方,もう少し範囲を狭めると,馬鈴薯の焼き方である。では,

なぜ馬鈴薯の焼き方が「サイラスの土」と関係をもつのか。

 すでに(「サイラスの酒」その一で)述べた通り,サイラスが自宅で「私」

とワインを飲むときには,必ずといってよいほど馬鈴薯を焼いて,日本 流にいえば,酒の肴にしている。もちろんワインの肴にするのは,サイ

ラスが自分の手で育て,そして焼いた馬鈴薯である。彼が飲むワインも 自分の手で造ったものである。馬鈴薯をそのワインの友にしょうとする のであるから,食べるのに心を配るのも当然である。できるだけ美味く 食べられるように焼こうとするのである。

   Git the taters under! he said to me at last. God A mighty,1 ll want summat after this. (1吻ση6」6 S惣s, p.33, IL6−7)

 「薯を下へ入れてくれ」とおじが言った。「これがすんだら,何か食いた いんだ」

 文中のunderはもちろん暖炉で燃えている火の下,すなわち灰の中の ことである。after thisのthisはサイラスが最も嫌っている湯浴みのこ とである。 The Revelation という短篇では,風呂嫌いなサイラスを週に 一度は家政婦が無理にも湯浴みをさせる一部始終が語られていて,彼に とってはこの冷酷無比な作業(that inexorable performance)が終った        やら,焼き馬鈴薯を肴にワインを一杯飲りたいのである。

 この短篇で見逃せないのは,冬のある夕方,金曜日(おじの湯浴みの

(17)

       サイラスという男(Vll)

日)に「私」が訪れると,居間の暖炉の前でおじが盟に入っているので       はしばみ

あるが,そのとき「暖炉の中では榛がさかんに燃えていた」(agreat fire of hazel faggots in the living−room)ことである。

 それで榛とは如何なる植物か,数種の辞書から必要なところだけ取り だして総合すると「幹の多い(many−stemmed)落葉灌木で丈は約3メ ートル,林や灌木密生林にはふつうに生える」とあるから,サイラスの

ように林の中ともいえる所一すでに小論の7頁でも指摘したことであ

り,また Shandy Li1 という短篇で,おじと「私」とがジャムを作るため にラズベリィを摘んでいるのは,おじの家の庭であることはすでに(7 頁)読んだが,あの引用文の直ぐ後に「榛の茂みのはずれ,光と影とが 接するところ」(Where sun and shade met on the edge of the hazel spinney… )という描写をみても,屋敷が榛を暖炉の燃料にするのに 便利な所にあったことがわかる一に住んでいた者にとっては,入手し やすい恰好の暖炉用燃料であったにちがいない。大木を鋸で挽いて斧で 割ってなどという労力が省けるのだから,この榛をサイラス家ではふだ ん暖炉で燃やしていたことがわかる。そしてこの灰に薯を埋めて焼いて いるのである。

 これが,サイラスが自宅でふつうに馬鈴薯を焼くときの方法であるが,

「サイラス物」のなかに Loss of Pride という短篇があって,ここで は特別な,もっと美味い(とサイラスが言う)馬鈴薯の焼き方が紹介さ れている。

  He was always particular, I noticed, about how the potatoes were

cooked.℃ourse they re better in a twitch fire, he often said, when it s died down a bit and you can poke em into that hot ash. (:1物}セ」10ω

θα4s 6ゾノ1qウぬ。げθ4 p.107, ll.8−12)

  But in the absence of twitch fires he did the next best thing. At the

side of his kitchen fireplace there used to be one of those big baking

(18)

ovens, large enough to hold a side of mutton, where in the old days

faggots were lit for baking bread. When the fired faggots had died down the big pink−and−white kidney potatoes, pricked all over with a fork,

went into the bed of ash and soon the little kitchen was sweet and warm with the smell of their cooking.(71勉】南〃。卿〃θα4s(ヅ、4ψ乃0464 p.107,

lL13−21)

 おじは馬鈴薯の調理にかけては一家言もっていた,と思う。「もちろん,

しばむぎで焼いたらもっと美味いんだ」と,よく言っていた。「火が消えて すぐに熱い灰のなかに薯を入れたらな… 」

 しかし,しばむぎがないと,彼は次善の策をとった。サイラスの家の台 所にある暖炉の脇には,羊の肋肉が丸々入るくらいのパン焼き用のオーヴ ンがあり,むかしは榛を燃料にしてパンを焼いたのだ。榛が燃えてしまっ たら,フォークで表面を穴だらけにした大きな卵形種のじゃがいもを入れ てやる,すると台所は薯の焼ける美味そうな匂いでいっぱいになる。

 このしばむぎという植物は『事典』によると「茎の丈が30センチから 120センチ,葉には細い毛が生えていて,耕作地には普通に生えていて,

野原や荒地にも見られる」ものである。しかし,榛の灰としばむぎの灰 とでは馬鈴薯にどのように異った作用をし,そのために馬鈴薯の焼け具 合がどのように異ってくるのか,その説明もなく,またしばむぎの灰で 焼いている場面が「サイラス物」の何処にもないのだが,「わしは自分の やっている事をよく承知している」と豪語するサイラスの言葉を信じる

ことにする。

 この短篇では,この方法(次善の方法)で馬鈴薯を焼いているときに も,サイラスはにわとこ酒を飲みながら昔話をしている。話そのものが 焼き薯を使って気に食わぬ奴を徹底的に痛めつけたことであったので,

馬鈴薯の美味い焼き方から始まったのである。おじが首謀者となってそ の男を痛めつけるのだから,とうぜん自慢話になる。だからといって自 慢話に夢中になるあまり,馬鈴薯を焼いていることを忘れてしまうよう

なことはない。あくまでも酒の肴を自分の手で作っているからには,最  18

(19)

       サイラスという男(田)

良の状態の肴を食いたいのがサイラスという人間である。頃合いを見計 らってオーヴンの扉を開けて,馬鈴薯の焼け具合をたしかめる。そして,

....he....and then pressed first one potato and then another with his

thumb.

   Give em another ten minutes. Git the butter and the salt, boy, then we 11 be ready for em. Plenty o butter. (7劾}セ1 oω〃6σ4s q〆、4∫一

ρぬ04θ41p.109,1.31−p.110,1.4)

…  彼は…  それから最初の馬鈴薯を,つぎに別の馬鈴薯を親指で押 してみた。

 「もう10分待とうや。バターと塩を持ってきてくれ,それで準備完了だ。

バターはたっぷりとな」

 親指で一つ二つを押して見ただけで馬鈴薯の焼け具合がわかるのは,

やはり長年の経験によるものであろうか。それに,塩とバターを揃えて おくように「私」に言いつけている。もちろん焼き馬鈴薯にたっぷりと バターを塗り,塩をつけてたべるわけであるが,ここまで食べ方を記述

してあるのは「サイラス物」では他にない。

 ここで本題から逸れるが,筆者が英国で経験したことをひとつ。ある 友人の家に夕食に招待された。ご馳走はビーフスティキと,それに添え た焼き馬鈴薯:であった。焼き肉は措くとして,馬鈴薯は長径が12センチ ほど短径が7月目チほどのが皮を剥かずに半分に切ったものであった。

どちらも真中を回り貫いて,その穴にバターの塊が入れてあり,馬鈴薯 が熱いのですでに溶けかけていた。ご丁寧に回り貫いた部分も添えてあ った。歓談しながら実をフォークで解してバターと混ぜ合わせて,有難 く頂戴したことはいうまでもないが,添えられていた馬鈴薯が茄でた物 でないことはたしかである。皮がところどころ実から離れて膨らんでい る部分は焦げて褐色になっていたからである。皮を剥いてないので,話 せられたために水分がほとんどなくなった実とバターとを混ぜ合わせる

(20)

のに恰好の器になっていた。ただ残念に思うことは,馬鈴薯の調理法(と いうと少し大袈裟であるが)を聞かないでしまったことである。まさか 台所の暖炉で,灰の中に入れて焼いたのではあるまい。暖炉はあっても,

70年代に薪を燃やしている家庭はほとんど無かろう。オーヴンを用いた のであろうけれど,燃料はガスか電気であって,サイラス家のように木 ではなかったはずである。

 本題にもどる。

   Taters ready yit?Me belly s rollin round. Give em another five

minutes. I like em a bit black outside.... (71肋y2〃。卿ル1θα4s(ゾ

/1亀)ぬodθ4 p.111, II.6−7)

 「もういいかな。腹が鳴つとるよ。もう5分待とう,皮が少し焦げたく らいがいいんだ…  」

 前の引用文の場面から10分後,このときサイラスは親指は使っていな いはずだ。見ただけで焼け具合が判り,さらに5分間待つことにした。

そうすると皮が少しだけ焦げた状態になる。サイラスの判断通り,皮が 少し焦げたくらいが,中の実が最も美味く食べられる状態なのであろう。

筆者が経験したときも皮の焦げ具合がごく僅かであって,焼けすぎて皮 が炭化しているところはなかった。皮まで食べても,炭を口に入れたよ

うな感じではない焼け具合を,サイラスはabit black outsldeと表現し たのだと思われる。

 余計なことであったかもしれないが,筆者の経験をまじえながら,サ イラスの馬鈴薯の美味い焼き方を読んできた。なお,この友人の家で出 された料理は,よく言われる「フランス料理」とか「スペイン料理」と か或は「日本料理」というように国を代表するような大層な料理ではけ っしてない。ごく当り前の料理である。ということは,サイラスはワイ ンを飲むときにだけ(「サイラス物」では)馬鈴薯を焼いて食べている  20

(21)

       サイラスという男(Vll)

が,ワインの肴にするのはサイラスだけかもしれないが,馬鈴薯を焼い てバターと塩をつけて食べるのは昔から行われている,ごく一般的な食 べ方なのであろう。

 サイラスは先の引用文では親指で馬鈴薯の表面を押してみて「10分間 待とう」と言っており,次の引用文では「もう5分間待とう」と言って

いることから判断すると,たかが馬鈴薯であっても,できるだけ美味し く食べられるように気を配っている様子が読みとれる。「たかが馬鈴薯」

といったが,彼にとっては「たかが」などではけっしてない。土に親し み,そこから自分の手で育て産みだしたものであるから,大切な農作物 である。それならば出来る限り上手に調理して美味く食わなければ,作 物にたいして相済まぬ,いや「相済まぬ」という消極的な気持ではなく,

そうするのが当然という積極的な気持であったと読みとることができる。

ここでは,馬鈴薯の焼き方によって,馬鈴薯を媒体としてサイラスと土 の親しい関りをみてきた。

      この項目のおわりに

 前回の「サイラスの家屋とその周辺」「サイラスの畑と農作業」それに 今回の,間接的に彼と土との関りを見た「サイラスの植物」と「サイラ スの馬鈴薯」によって,如何に彼が土と深く関っていたかを知ることが できた。そこで Silas the Good をこの項目を締めくくる材料にしたい。

この短篇はすでに「1.サイラスの酒」と「II.サイラスの女たち(そ の二)」(早稲田人文自然科学研究第41号)で取りあげて,それぞれの項目に 相応しい部分を読んだが,ここでは彼が土と直接に関っているところを 見てみたい。

 サイラスが80歳代に入って,それでもなお月に一度の割合いで墓穴を 掘っていた頃のこと。5月のある日,昼頃までには仕事が可成り捗った

(22)

ので,掘りかけの穴の底に坐って昼食をとった。羊の肉を挟んだパンを 手づかみで食べながら冬季用の冷茶(紅茶に少し多目にウィスキイを混 ぜたものと彼は言うのだが,実際にはウィスキイに紅茶を混ぜたものと いった方がよい代物)を飲んだあと,眠気を催したのでそのま・横にな って眠ってしまったという。

 このとき,サイラスはとうぜん何かを敷いて横になったと考えるのが よいか,あるいは直かに土の上に横になったと読むのがよいか,この二 通りに分れるのだが,彼の場合は後者の方が自然であるように思われる。

これを,サイラスが不精であるからとか,子供のように無頓着だからと いって片付けてしまうわけにはいかない。そうではなくて,彼は土にた いして特に汚い物という意識をもってはいなかった。居間のソファに坐 るのと同じ気持で土に坐り,ベッドに横になるのと同じ気持で土に横た わったのである。だから何かを敷いて横になるなどとは,毛頭考えもし なかった。

 物語では,そこへ女が一人やって来て,いろいろあった後で,土の上 に腰をおろして彼の話を聞くことになる。この時は,サイラスは自分の 上衣を土に敷いて,そこへ坐らせている。この行為はヨーロッパの男性 の女性に対するエチケットであって,彼もそれに従ったまでのこと。こ の二つの行為に,彼の土にたいする気持一土を汚い物と思わない が端的に現われているように思われる。

  The Lily という短篇に,彼が住んでいる家を描写した文があり,そ のなかで「彼の家は…  おじ自身の土の臭い(the earth smell of my Uncle Silas himself)が認った…  匂いが染みこんでいた」とあるが,

この記述も,サイラスの土との直りを読めば成程と首肯けるのではなか

ろうか。

       (未完)

 22

参照

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