研究ノート
もう一つの教育行政制度原理
〜英国中産階級のための教育行政制度構想〜
大田直子
はじめに
階級社会であるイギリスの教育制度は,19世紀後半から整備されてくる。同 時期,国家的見地から中央集権的に全国画一的な教育制度が整備されてきた日 本とは異なり,イギリスでは,政治的権力を掌握し始あていた中産階級によっ
て,階級別に教育制度が整備されてきた。本稿は,19世紀後半に見られた中産 階級による中産階級の子弟のための教育制度の制度化過程と,労働者階級に対 する基礎教育制度およびそのための教育行政制度との比較を通じて,基礎教育 制度とは異なる教育行政制度の制度原理構想の存在を明らかにするための予備 的考察である。なお,19世紀を通じて,中産階級以上を対象とする学校は私立 学校のみであり,1860年代までに,これらの学校は大学(専門職養成機関)に 進学することを目的とするグラマースクール(文法学校),中でもオックスフォー
ド大学とケンブリッジ大学(二つを一緒にしてオックスブリッジと呼ぶ)への 進学路であるパブリックスクールを頂点とした独自のハイアラキカルな学校制 度を形成していた。また多くのグラマースクールには,今でいうところの小学 校にあたる予科部門が付設されていた。基本的に11歳以上を対象とする私立学 校を後世の研究者はsecondary educationまたはsecondary schoolsと呼んで いるが,当時,1899年に至るまではそのような呼び方は正式にはなく,educa−
tion for the middle classesか,あるいは労働者階級のための基礎教育(ele−
menatary education)と区別されるために, education other than elementary educationと呼ばれていた。したがって,これらの学校教育を現在使われてい る意味での中等教育の原語であるsecondaryと呼ぶことは正しくない。また,
大学に準ずるという意味での予備教育として,第二段教育と訳出するという説
(成田克矢)もあるが,この種の学校全てが大学準備教育を与えたわけではな いので,この説も納得しがたい。もともとはマシュー・アーノルドがフランス の例にならってこの用語を使用したDといわれている。本来の意味での中等教 育学校の出現は,法的には1944年教育法の成立まで待たねばならなかったし,
実質的には,1970年代のコンプリヘンシブスクールの普及までかかった。本稿 ではこのsecondary educationを現在の問題と関連させるために,あくまでも 便宜的に中等教育と訳出する。
第一章 パブリックスクール批判と1830年代トマス・アーノルドの改革 1 1816年庶民院セレクト・コミッティーの設置
現在,公的な資料無しには,我々は,個別学校史を除いて,ほとんどパブリッ クスクールの歴史的実態を知ることが出来ない。なぜならば,パブリックスクー ルは公的な資金援助も受けず,国家の介入をできるだけ排除して出来てきた制 度であるからである。もちろん,国王の勅許状,チャリティ・ステータス(公 益法人格)を持ち,基金を運用する規定であるトラスト・ディード(信託証書)
というものが存在する限り,公的な介入から全く自由というわけにはいかない が,世論の圧力ぐらいではその実態というものは明らかにされなかった。
パブリックスクールが貴族階級のものであり,そういった意味で不平等の根 源であり,公的な筈の寄金の有効利用を考えていた中産階級ラディカルズにとっ ては,その実態を明らかにすることが第一歩であった。そしてそれはブルーム によって成された。1816年,彼は庶民院に「庶民の教育(Education of the Lower Order)」調査のための委員会を設置することに成功したのである。イ ギリスでは19世紀初頭から,調査委員会を設けて,政府の対応を引き出すとい う戦略が多く見られる。この委員会は,教育の分野でまさにこの戦略が採用さ れた初めての委員会かもしれない。
1816年に設置された委員会はブルームを委員長とし,まず都市部の貧民の教 育実態を調査することをもともとの目的としていた。さらに1817年の調査では,
前年の調査の結果明らかになってきた「公益法人基金(charitable fund)の 悪用」についてと,大学,パブリックスクール,特別な公益法人は調査の対象
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外ではあると断ってはいるものの,個々の事例を調べた結果,ウィンチェスター 校とイートン校で,基金の流用が行われていることがわかったと指摘してい
る2)。いくら調査の対象外であったとはいえ,偶然にこの問題に委員会が関わっ たとは考え難い。そして我々は同委員会のお陰で初めて公式な場でパブリック スクールの実態を知ることができたのである。ブルームはこの調査委員会での 結果をもとに,パブリックスクールのみならず大学などのチャリティに関して 国が規制できるよう,法案を準備するのであるが,エルドン卿の反対にあって 挫折する。これが1818年の状況であった。同報告の内容にっいては,年代的に
は逆になるが,1860年代のイートン校批判のところで検討する3)。
2 トマス・アーノルドのラグビー校改革
中世にその起源を持つパブリックスクールは,もともとオックスフォード大 学とケンブリッジ大学への進学を準備するためのラテン語,ギリシャ語を教え るグラマースクールであった。19世紀初頭,台頭しつつあった中産階級は,両 大学のカリキュラムの古さとならんで,1820年代のパブリックスクールの状態
に対して,とくにイートン校の状況に対しては『ウエストミンスター・レビュー』
を中心に,批判が相次いでいた。その内容は,いじめ,不道徳性,ファギング,
教師の怠慢,不適切なカリキュラムなどその生活全体に渡るものであった4)。
こういった現状に対して改革を行ったのは,イートン校ではなく,ラグビー校 のアーノルドである。
ラグビー校は,後出のクラレンドン委員会の調査対象にも選ばれたグレート スクールの一校ではあるが,イートン校と比べれば,格下に序列化されていた。
イートン校はとくに英国教会及びオックスフォード大学と密接な関係を持ち,
附属予科学校の様相を呈していたからである。そのたあオックスフォード大学 の近代化が遅れた分,イートン校のカリキュラムも旧態依然としていたのであ る。イートン校への批判は1860年代に再燃する。
アーノルドがラグビー校に着任したのは,オックスフォード大学を卒業して 数年後の1828年のことであった。 アーノルドは1795年生まれ。親は関税官で
あった。8歳のときウォーミンスターにある学校に入学し,1807年にウインチェ
スター校に進学した。1811年16歳という早い年齢でオックスフォード大学コー パス・クリスティ・カレッジに進学し,そこでキーブル,コールリッジと出会
う。ここではッキジデスとアリストテレスを研究した。1814年に古典の第一級 学位を取得,翌年キーブルとともにオリールのフェロウとなり,そこで「ノー
ティックス」という有名なサークルに所属した。1818年にレーラムで地区教会 執事(deacon)となり,同時に私塾を開設。1820年結婚。1827年ラグビー校
に招聰され,1828年より死ぬ1842年までラグビー校にとどまった5)。なおアー ノルドの長男がマシュー・アーノルドであり,娘婿は1870年法の起草者である フォスターであり,教育一家であった。
通常,パブリックスクールで教鞭を取るものは,関係者のコネによって職を 得るらしかったが,アーノルドの場合は,私塾で数人の家庭教師をしていた他
は,学校教育には全く経験もなくラグビー校に着任した。アーノルドの改革は,
主に1)宗教教育の重視,2)古典教育の重視,3)ハウス方式の採用,4)プ リフェクト制度と生徒の自治,5)スポーッの振興の5点を内容とするものと して紹介されることが多い。
ニューザムによれば,アーノルドらが信奉した理論はコールリッジのそれで あり,コールリッジ理論を通じて,当時隆盛しだしていたベンサムの功利主義
(ニューザムによれば「物質主義」)理論を批判し,クリスチャニティを教育の 根幹におく「神への信仰と良き学習」をモットーにしたのである。つまり,台 頭する新興中産階級(産業資本家層)およびそれを支えるベンサム主義を批判 するために,旧来の支配階級の再生産制度であり,腐敗してしまっていたパブ リックスクールを,新しいが本質的には保守的な精神を再生産する場として改 革することが,彼らの目的であったといえる。保守派のリニューアルであった。
アーノルド時代のラグビー校のカリキュラムは以下のようなものであった6)。
月,水,金は午前7時から8時,9時15分から11時までと,午後2時15分から 5時までの間にやはり2コマ授業があった。火,木には午前中2コマと,11時 から午後1時まで2時間の作文の授業があり,火,木,土は半日で終了した。
土曜の午前中は作文がなかった。都合一週間に,1時間から2時間のコマが20 コマあり,うち2コマはそれぞれ数学と現代語,残りの16コマが古典,聖書と
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歴史に当てられていた。古典,聖書と歴史の勉強は,半年毎にアーノルドが呼 ぶ「語学の時問」と「歴史の時問」に均等に分けられていた。歴史の時間とは いっても実際にはそのテキストはクセノフォンやタキトゥスなどの作品であり,
古典重視であったことに違いはなかった。古典文学,数学とフランス語は「今 でいうところのセット」というような分類で行われていた。
シラバスは,第一フォームではラテン語文法と表現(Delectus),ギリシァ 語は第三フォームから教えられている。様々な古典が読まれ,第六フォームで はアリストテレスの倫理学なども読まれた。数学では四則計算から始まり,ユー クリッドの第4巻まで,一次方程式,簡単な三角法,円錐曲線であった。フラ ンス語では文法と練習から始まり,モリエールの芝居,パスカルのパンセ,最 上級になるとギゾーやミネの著作を扱った。聖書では,ギリシア語の新約聖書,
その他関連した歴史などが教えられた。アーノルドは第六フォームを教えてい たが,その授業ではマーカムの『イングランドの歴史』,ラッセルの『現代ヨー
ロッパ』等のほかに,ギリシア史,イタリーとドイッの地理,ヨーロッパ全体 の地理,クセノフォン,ヘロドトス,トゥキジデス,タキトスらの著作が扱わ
れた。
ニューザムによれば,「1864年のクラレンドン委員会では,とくにイートン 校などのようなより保守的な学校に対して,このアーノルドとラグビー校のカ
リキュラムが何度も推薦されていた」7)のである。イートン校では数学は講師 以下の教師によってわずかに教えられているだけであり,フランス語は特別授 業でしかなかったからである。かといって,ラグビー校のカリキュラムは古典 と現代的教科をバランス良く配列したのもではないことは強調しておく必要が
ある。
アーノルドが改革の内容として再編したものの中にプリフェクト制度がある。
これは第六フォームの生徒達を自らの下士官にして,権力と特権を与えっっ学 年の下の生徒達を管理するシステムであった。特権と権力のお返しに彼らはアー ノルドに忠誠と従順を誓う。アーノルドはこの制度によって生徒たちのモラル を高めたのである。アーノルドは軍隊のメタファーを使っている。またハウス 方式も生徒の自主性とモラルを高める重要な方策であった。これは,数十人の
生徒達が住む寮が一件の家を構成し,そこでの自治を重んじっっ,ハウスマス ターである教師の指導を全生活時間を通じて受けるものである8)。
こういった内容から,アーノルドが求めたパブリックスクール及びそこで養 成されるエリートたちは,古典的教養があり,信仰心も篤く,観察力に富み,
上のものには忠誠を示し,下のものを統率する力のあるもので,自主性を持っ たエリートであった。
なぜラグビー校でのアーノルドの実践が,これほどまでに高く評価されてき たのかにっいては,これまでの研究では明確にされてこなかった。ニューザム によれば,当時パブリックスクールを改革したのはアーノルドだけではない。
彼と大学時代の友人であり,後にハロウ校の校長となるクリストファー・ワー ズワースやウィンチェスター校の校長となるチャールズ・ワーズワースの存在 も無視できない。彼らはアーノルドとともに当時オックスフォード大学で論議 されていた大学改革を推進する側にたっていたのである。しかしこういった人々 はアーノルドほど名を残していない。また,ニューザムは,アーノルドの時代 にラグビー校に在職していた教師,あるいは在学した生徒たちが,その後,そ の他の私立学校に散らばっていき,その教えを実践に移していったことを指摘 している。たとえば,のちにバーミンガムのキング・エドワーズ校の校長となっ たジェームス・プリンス・リーのほか,ウエリントン・カレッジの校長になっ たベンソンは,中等教育の在り方にっいての著作などもあり,積極的な活動を 行なっている。また視学官を経てカンタベリー大司教となったフレデリック・
テンプルは,中央の教育政策に関わった人物である9)。そういった影響力ある 人物たちがアーノルドの薫陶をうけていたことは軽視できない。しかしアーノ
ルドのラグビー校を最も有名にしたものは,ラグビー校の生徒であったファー ラーの『エリック」(1858)とトマス・ヒューズの『トム・ブラウンの学校生 活』(1857)であった。ニューザムによれば,これら2冊の小説は全く対照的 であった。ニューザムにとっては前者にこそアーノルドの真のラグビー校が書 かれてあり,後者はヒューズら当時の「クリスチャン・マスクリニティ」派の 影響を受けたものであり,逸脱したラグビー校像であった。『トム・ブラウン の学校生活』は主人公トムのパブリックスクールでの生活を生き生きと描き出
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したもので,最初は『フォートナイト・レビュー』誌に連載されたものである。
読者は小説の舞台はラグビー校で,そこに登場してくるドクターはアーノルド であると考えた。ニューザムはこのヒューズと『ウォーター・ベイビーズ』を 書いたチャールズ・キングズリーらの「クリスチャン・マスクリニティ」の主 張が,アーノルド改革の第5点,スポーッマンシップとして付け加えられてし
まったのであると批判している。ニューザムによればアーノルドが強調したの は「神への信仰心と良き学習」であり,スポーッはあくまでも二義的であった。
そのため,ヒューズたちの主張は,アーノルドの理想からの逸脱であり,スポー ッ或いは団体精神のみを全面に押し出す誤った理想をアーノルドの改革の内容 として流布させてしまったと批判するのである。このニューザムの指摘は,18 50年代以降のイギリスの社会的状態,っまり,帝国主義と重ね合わせて考える
と興味深い。帝国主義の時代に求められたエリート像は,ようやく我々が知っ ている「(何も学問的には知っていないが)戦いのときには率先して戦うフェ アプレイ精神を持つジェントルマン」像と,ここで切り結ぶことになる。当時 一世を風靡した『トム・ブラウンの学校生活』はむしろこういった質的転換が あったたあに,人気があったと考えるべきであろう。そしてそれによって,逸 脱した「アーノルドの改革」が現在我々が知っている形で残ったのかも知れな い。しかしながらその一方で,軍隊のメタファーをアーノルドが使っているこ とを軽視してはならない。この問題は,帝国主義時代のエリート像として改あ て取り扱いたい。
ニューザム流真の「アーノルドの改革」,とくにアカデミックな学習を重視 した教師達は,地方のグラマースクールの校長に収まり,アーノルド流の改革 に着手している。しかしながら,古典中心のカリキュラムは,台頭してきた中 産階級,とくに功利主義者と呼ばれる急進派の人々からは,時代遅れとして,
一貫して非難の目で見られ続けたのである。この批判はオックスフォード大学 やケンブリッジ大学のカリキュラムにも向けられた。っまり,アーノルドの提 唱したパブリックスクール改革は極めて保守的な改革であったため,もうひと っの改革が新興中産階級から求められたのである。彼らが注目したのはパブリッ
クスクールに代表される基金立学校の基金の有効利用であった。彼らの改革が
進められるのは1860年代のことであった。
第二章 1860年代の改革 1 イートン校批判
1860年代になると,再び相次いでパブリックスクールの人気が落ち,それへ の批判が激しくなった。サイモンによれば,ウィンチェスター校はひどい状態 にあり,ウエストミンスター校とチャーターハウス校は壊滅的で,生徒数が18 25年の300人から120人に,480人から140人までそれぞれ減少した。イートン校
は多くの攻撃にもかかわらず,ステーッマンの養成場としての地位を保持し,
850人生徒がいた1°)。イートン校が英国教会と保守党系の学校と色分けされる ときには,ハロウ校は自由党貴族階級の学校と見なされていたが,このハロウ 校もこの当時で500人生徒数を誇っている。もうひとつ生き残っているのがラ グビー校であった。サイモンは,アーノルドの改革を全て支持していたわけで はないが,当時のラグビー校を「ヴィクトリア時代の上層中産階級のモデル校 であった」と評価している。さらに続けて,「しかし,もしラグビー校が改革 のモデルであったとしたら,これはたんに旧秩序に対するチャレンジだっただ けではなかった。それは1840年代に出現した企業的寄宿制学校でもあった。っ まり,多くの点において,『パブリック』スクール型で組織されていたが,ビ ジネスライクの線で経営され,ビジネス界さえ含む専門職への養成のための比 較的効率的な教育を供給したのである」と指摘している11)。サイモンは,それ は19世紀初頭から中産階級が「役立っ教育」を求めてきたからだとし,さらに 軍隊入隊や公務員採用の公開試験の導入が教育水準というものに新しい意味を 与えたとしている。そしてその成功例として,僧侶のみならず,サンドハース ト校やウーリッチ校といった士官学校,公務員,植民地省,ビジネス界といっ たところに向けて生徒を教育するチェルトナム校,マルボロ校,ロッソール校,
ウエリントン校などが満杯であったと指摘している12)。
同様の指摘は,1860年5月の『コーンヒル・マガジン』に寄せられた「ピー ターファミリアスから編集長への手紙」でもなされている。投稿者は,当時の パブリックスクールの状態を以下のように述べている。
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30年或いは40年前は,そのような制度が支配階級には機能していた。良く 教育を受けたにせよ,受けなかったにせよ,両院,軍隊,公務員は有力者や 金持ちの子どもを自由に受け入れていた。オックスブリッジで授業料を収め るコモンナー紳士として,2年ぐらい無駄に過ごした後,長男は,議会に登 場し,彼らの政党に投票するだけ。何故ならば,彼らは承認された直しよう のない劣等生であるからだ。一方,次男坊以下は,軍隊の任にありつくか,
大蔵省か外務省の椅子に座るかし,自らのメリットや努力というよりは寧ろ 父親が行使し得る議会や金の力で昇進していったのだ。そのような原因によ り,そしてそのような理由により,イングランドの上流階級の学校のほとん どが(カリキュラムの近代化を行わないハーチェスター・カレッジのような 学校の)後を追っているのだ。
しかし現代では,(状況が変わった)。……イングランドの教育はここ数年 改善されてきたが,最初に改善されたのは貧民の教育であった。しかもそれ
らは急速に良くなっている。もしパブリックスクールが今の地位を保持して,
いたいのならば,速やかに政府の視察を導入すべきだ。ロンドンやリバプー ル,チェルトナム校13)やブラッドリー校,マルボロ校,ブラッドフィール ド校などの中産階級の学校は,……,時代の要請にすでに自らを対応させて
いる。(略)。
政府の試験官による試験14)において,自分の親が自分のための良き教育に お金をかけたことのみならず,自分が受けた教育から利益を得たこともまた 証明しない限り,今や誰も軍人や官僚になることはできなくなったのだ15)。
彼は続けて最も経費のかかっているイートン校の実情にっいて批判している。
この学校は大体800人から900人の生徒を収容している。そこでは数学とフ ランス語を除く全ての科目が,21人の教師によって教えられている。しかし そのうちの一人,校長は生徒を一人も受け持っていない。もうひとりのアシ スタントマスターもそうだ。800人もの生徒が,19人の教師によって教えら れていることになる。大規模で男子を教えることによって効率がよいという
ことは疑いもない。しかし私はイートン校の場合にはむしろ浪費的であると 思う。全ての教授は学校外のチューター達の家庭で行われ,生徒達は私的に
チューターから学んだことをただ学校で繰り返し,すでにチューターによっ て試験され,間違いを正されたものを学校で披露しているに過ぎないからだ。
だから学校では一人の教師がわずかの生徒を教えることで済み,何人かの教 師は自分でも70人もの生徒のチューターをするといったサイドビジネスをし
ているのだ16)。
イートン校のイラストを見ると,大教室で多くの生徒が一斉授業を受けいて いるものが有名である。しかしながら,これがそのままイートン校の現実を意 味しているわけではない。結局,イートン校で行われた授業は,それを支える 多くのチューターによる私塾的な教育が存在して初めて意味があるものであっ
た。
チューター制度はイギリス教育の特色ともいわれるものである。一般に知ら れているチューターとはオックスフォード大学やケンブリッジ大学に存在する もので,普通,大学のフェローが行い,学生の個人指導にあたる職である。自 分達の給料をこの個人レッスンから得るたあ,人気のあるチューターになると 高所得が約束される。オックスフォード大学やケンブリッジ大学は基本的にカ レッジ方式をとっており,大学当局は試験を行い認定を与えるためにのみ存在 しているといってよい。従って,チューターにとっても学生をこの試験に合格 させることが目的となり,学生と利害が一致するのである。果たしてイートン 校の場合のチューターが,大学と提携したフェロウのような立場であったかど
うかは明らかにしなければならないが,ある程度大学と同様の関係が結ばれ,
学校の授業形態も似ていたのではないかと推測される。
1861年の『エジンバラ・レビュー』誌に掲載された「イートン・カレッジ」
(無署名)17)は,前掲のコーンヒル・マガジン誌への投書を援用し,イートン 校批判をさらに繰り広げたものである。
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教師一人あたり平均45人の生徒であり,数人のチューターは70人もの生徒 を持っていた。一人の教師は,学校での公的なチューターの職務を完全には 履行せず,40人から70人の私塾生を受け入れていたが,彼が売るほど「余暇」
があるとは考えづらい。そして,そのような状況下では,もし彼が彼の10ギ ニー18)授業料を支払う生徒のうちの半分が,もう10ギニー特別授業のために 支払ってくれるとするならば,彼は余暇を潰すことに一生懸命だったと装う
ことで自分を正当化するか,あるいは10ギニーしか払わない生徒をないがし ろにして,年20ギニー支払う生徒を大事にしてもっと彼らに熱心になかどち
らかのおそれがある。
イートン校が批判されたのはカリキュラムの古さだけではなかった。そのあ まりにも常識をはずれた給料の良さ,授業料の高さ,資産の豊かさも金銭感覚 もまた批判の対象となっている。例えば先の『エジンバラ・レビュー』誌では,
1818年時点という古い数字19)ではあるが,イートン校の年間収入は14,000ポン ドあったものの,教職員の給与は法律上1625年の規定が残されていた。それに よると,カレッジ長(プロボスト)の給与が279ポンド,フェロウは10ポンド,
校長の給与は56ポンドであった。実質的な給料の支払いは,学校財産のリース 代金などからなされた。実際上支払われた給与は,カレッジ長で2,500ポンド,
フェロウでも1,000ポンド,校長は4,000ポンドであった2°)。
また1817年のブルーム委員会の記録では,ブルーム委員長の質問に答えて,
「貧しい無償生」からですら年に6ギニー徴収していたことが明らかにされて
いる。
イートン校の教員の構成などはまだ良く分かっていない。『エディンバラ・
レビュー』誌の記事によれば,校長,副校長の下にロゥアー・マスター,アシ スタント・マスターという呼び方も表れている。イートンの「オッビダン」は 1860年の段階で750人在学していた。彼らは70人のカレッジャーたちとは離れ て暮らしており,イートン校のキャンパス近くにある公認の民間の下宿生活を
していた。学校ではカレッジャーとともに勉強する。820人の生徒は2っ(アッ パーとロゥアー)のグループに分けられる。後者は100人ぐらいの年少者から
なり,ロゥアー・マスターと4人のアシスタント・マスターによって教育され る。720人の生徒は校長と15人のアシスタント・マスターによって教育される。
その他に非常勤が授業料を追加徴収する科目用にいた。1860年の段階では7人 の数学教師,1人のフランス語教師(のちさらにアシスタント・マスターが一 人増やされた),1人のドイッ語教師,1人のイタリー語,1人の図画教師,
1人のフェンシング教師,1人の軍事教練用教師(ドリル・サージャント)が いた。こういった特別授業は正規授業以外の時間対にセットされていたため,
休憩時間や遊ぶ時間などが当てられていたし,こういった非常勤の教師の格も 低く見られていた。
古典科目にっいては以下のようであった。全ての古典科目担当教師は,校長 を除いて,プライベート・チューターであり,全ての生徒は誰かを選んで雇い,
授業料を支払うこととされていた。全てのプライベート・チューターは学校で 正規の授業を行うが,そこに自分の私的な生徒はいないのが普通である。生徒 に課せられた全ての課題はこのプライベート・チューターにまず添削されてか ら,学校の正規の教師に提出され,チェックされる。全ての授業は暗記以外は 全て教室で行われる。プライベート・チューターは私的な生徒の生活及び勉強 すべてを面倒見なければならない。親との連絡もまた彼の仕事である。
『エジンバラ・レビュー』誌の著者は,こういったダブルシステムが教師に 過重負担を強いていると指摘しているが,これが,720名もの大人数の教育を 行う秘訣のようなものであったことが分かる。また,正規の授業は,結局,宿 題あるいは課題のチェックするだけであったこともわかる。教師は一人あたり 10ギニーの私的な授業料を取って,私塾生を抱え込み,正規の教師(評価する 教師)を「出し抜く」。生徒は,科目一つに対して,年間4ポンド18シリング の授業料のほかに10ギニー支払うことになる。さらに数学を特に習いたいと思 えば,また追加的に授業料を支払うことになるのである。1860年代労働者階級 を対象とする基礎教育学校の授業料は年約7シリングであったし,普通労働者 階級の年収は数十ポンドという時代に,こうして,イートン校はイギリスでもっ
とも高価な学校となる。
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その他にもイートン校に対する批判は見られたが,イートン校からの改革へ の対応は不明である。が,こういったスキャンダルは,世論の目を引き,さら に,こういった特権に対する攻撃を繰り広げていたラディカルズは,格好の題 材として国会で取り上げたのである。その結果,国会内に調査のために設けら
れたのが,クラレンドン委員会とトーントン委員会の二っの委員会であった。
2 クラレンドン委員会とトーントン委員会
1867年当時,中産階級以上の子弟を教育するための学校は,その財源によっ て,782校あった基金立学校,1000校あった私営学校(private school),少数 の株式学校(proprietary school)に分類されていた。その主要な形態であ る基金立学校は,財団法人組織によって設立・維持・運営されていた。したがっ て,国家が関与するのは,基金財産の運用・使途内容の変更,すなわち信託証 書の内容の変更を認可するかどうかという点だけであり,そのために1853年に チャリティー・コミッションが設置された。しかしこのチャリティー・コミッ ションは,実質的な権限を信託寄付金に関わるものに限定されており,積極的
に制度化をはかるものではなかった21)。
保守党政権下の1861年にクラレンドン卿を長とし,イートン,ウインチェス ター,ハロウ,ラグビー,チャーターハウス,ウエストミンスター,セント・
ボウル,マーチャント・テイラー,シュロウスベリ,以上9校のパブリック スクールに関する調査を行なう王立の委員会が設置された。これが通称クラレ
ンドン委員会であり,選ばれた学校はグレートスクールあるいはクラレンドン・
スクールと呼ばれる。この委員会はもともと全ての基金立学校を対象とするこ とが,強力なロビイスト,ダブによって期待されていたのであるが,この要求 は認あられず,以上の代表的な9校に限られて行なわれたものである22)。同委 員会の報告書は,1864年に公刊された。結局この委員会が勧告した内容は,ラ
テン語,ギリシア語といった古典中心のカリキュラムを固持し,その枠内での カリキュラム改革を提言するにとどまっていた23)。
前出の9校のパブリックスクールを除く全基金立学校を対象とした調査のた めに,自由党政権下で設置されたのが,1864−1867年のトーントン卿za)を長
とする委員会である。
トーントン委員会報告書は,労働者階級のための基礎教育学校よりも,下層 中産階級の学校の質が低かったこと,そして1862年の改正教育令によって,基 礎教育学校で3Rsが徹底化されたたあ,それに対する人気が下層中産階級の 間で高まったことを明らかにした。っまり,下層中産階級が,もともとは労働 者階級のたあのものであり,そのために国庫補助金が支出されていた安価な基 礎教育学校を利用する現象が,恒常化していたのである。
トーントン委員会は,まずすでに現実に存在していた基金立学校を,目的,
離学年齢,授業料の三っを基準として分類し,これを固定化した。すなわち,
第一級学校は,18歳から19歳で離学し,将来,聖職者,法律家,文学者をめざ す者のための大学進学準備または専門職養成を目的とするものであり,上流階 級の子弟のための学校。他のクラスの学校と明確に区別される最大のものは,
大学進学のためのラテン語,ギリシア語の教授であり「一般的に古典中心の学 校」であること。また,これらの語学の初歩的知識をこのクラスの学校の入学 試験に際して要求するものであった。この学校の授業料は,寄宿制学校の場合 には年60ポンドから120ポンド,昼間学校で年12ポンドから25ポンドであるべ きとされた。第二級学校は,16歳ぐらいで離学し,古典を重視せず,大学教育 は望まないもの,商業など中間的な職業にっくものを対象とする中産階級中層 部の子弟のたあの学校で,ほとんどのグラマースクールがこれにあたる。授業 料は寄宿制学校の場合で年25ポンドから40ポンド,昼間制で年6ポンドから12
ポンドとされた。第三級学校は殆どが昼間学校で,14歳で離学し,中産階級の その他の職業,例えば初級公務員,事務職員,小売商などにつくものを対象と し,実学中心。授業料は年2ポンドから4ポンドとすべきである。そしてこれ らの中等学校は,別個に独立・並存するものとされた。これに加えて,「無償 生」制度は廃止されるが,その代わりに特に優秀な子供に対する競争試験によ
る奨学金制度の導入を勧告した。
教育行政に関しては,中央と地方学区にそれぞれ当局を置くこと。中央当局 は,チャリティー・コミッションの権限を強化・拡大したものが想定されてい るが,信託証書の内容の変更の許認可,視学官の任命,会計監査,基金の使途
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のチェックなどを行なう。構成メンバーは,文部大臣職がない現在,委員会が 政党から相対的に独立しているという長所をいかし,経験と知識の豊富なもの を委員長として重みをもたせ,あと最低一人は学校教育に造詣の深いものを加 える。必要ならば委員をさらに増やす。これに加えて議会から国会議員がひと
り委員となる。これは国会での代弁者であり,文部大臣職の代わりである。地 方には戸籍用行政区を学区とし,国家公務員の学区コミッショナーを設置する。
コミッショナーは該当学区のすべての中等教育学校の基金に対する視学官であ り,視察を3年に一度行い,報告書を作成する。その外に無給の6〜人のコミッ ショナーが国によって任命される。彼らは当該地域の事情に精通した紳士であ ることが条件であるとされた。学区当局は当該学区の学校管理計画を作成する ことができ,それを中央当局に提出する。また人口10万人以上の都市部には必 ず地方当局を設置することが勧告された。また地方当局は各種の試験制度を管 理し,学区コミッショナーは視察のときに試験を行なうこととされた。また学 校においては年に一度の試験が必要とされ,学区コミッショナーが大学又は同 様の独立機関によって任命される試験委員会の助けをかり,これを行なう。そ のたあ同報告書では,オックスフォード大学,ケンブリッジ大学,ロンドン大 学のスタッフ各2名,国による任命6名,計12名からなる試験委員会の設置を 勧告した。この試験は競争試験ではなく,平均的な学力の生徒が合格できるよ
うなものである。教師や理事者は,前もって試験問題を入手し,準備すること ができる。一度に三分の一の生徒が試験を受ける。試験結果は級別にされ,公 表される。この級は中央当局か大学が設定する。試験官は教師でよいが,当該 地域で教鞭に立っものはこれから除く。また,この中央に設置される試験委員 会は生徒に対する試験と教師,試験官に対する試験全てに責任を持っものとさ
れた。これは教師の資格制度と登録制度というもうひとっの勧告を実現させる 手段である。また地方税による援助も勧告されていた。そして私立学校も地方 当局によって認定されたところは,同様の扱いをうけることが認められた。
1870年基礎教育法による基礎教育行政制度と比較すると,この勧告内容には,
いくっかの興味深い点が見受けられる。まず基礎教育では教育内容がスタンダー ドとして中央によって決定されており,試験成績によって補助金が支払われる
しくみであった。そういった教育内容と国との関わりに関しては,ここでは大 学関係者が半数を占める中央の試験委員会による試験制度が勧告されている点 で大きく異なっているし,これに対する補助金支出は考えられていない。第二 に,教師の国家資格が基礎教育では与えられていたが,ここでは中央試験委員 会による試験と教師の登録制というアイデアが導入されている。これは教師の 専門性を高めるという理由から勧告されたもので,中等学校の教師が上はオッ クスブリッジ出身の教師で占められるパブリックスクールから,下は様々な経 歴の持ち主まで多様であったという現実と,教員養成制度が存在せず,基礎教 育学校教師の養成機関である師範学校はこの種の学校教師の養成には相応しく ないが,養成機関を設立するのはあまりにもコストがかかるし,公費でこれを 供給するべきではないという認識から考えだされたものである。そして管理者 は登録されている校長を,校長は登録されている教師を任命すべきことが勧告 されている。第三に,地方当局として一人の国家公務員を中心に,政府任命に よる委員として地域の事情に通じた紳士が多数派を占める委員会が想定されて おり,これは1870年基礎教育法立案者フォスターのオリジナルな意見が反映し ていると思われる。以上のような点を考えると,トーントン委員会勧告は明確 に国家的制度としてこれら基金立学校を制度化することを打ち出し,1870年基 礎教育法と目的は共通のものであったと思われる。しかしながら中産階級の教 育の制度化は,基礎教育行政制度とは異なる行政制度を要求したのである。そ れは徹底的に国家介入を否定するグループが一方で存在していたからであり,
過度の国家介入を避ける形で考案された。
これら二っの委員会報告を受けた形で,1868年にパブリック・スクール法
(The Public Schools Ac)が,1869年には基金立学校法(The Endowed School Act)が制定された。これらは,前述の三種類の中等教育学校の階層化を固定 するものであったが,基金立学校のための中央当局として基金立学校委員会
(Endowments Schools Commission)が設置されたほかは,地方当局の設置,
試験委員会の設置,有資格教師の登録制といった勧告の内容は実現しなかった。
さらにこの中央当局も1874年,保守党政権によって廃止される25)。結局,1860 年代の制度化の試みは,この時点では挫折するのである。
もう一つの教育行政制度原理 55
3 中等教育学校の組織についての論争一ロウとミルー
中産階級以上の学校を如何に組織するべきかという問題は,先に挙げたよう に,寄金の有効利用という観点からも,中産階級を対象とする教育制度の整備 という問題からも重要視された。とくに基礎教育学校の制度化にその敏腕をふ るったロウは,貧困によって子どもに教育を与えられない一般大衆の公教育自 体には反対をせず,国家介入を認あていたけれども,そこに教育内容における
スタンダードの設置と補助金支出方法としての出来高払い制度という市場原理 を導入した。これは,資本主義的賃金形態で最も劣悪なものといわれるものだ が,ロウの導入理由には,単に経済学的といって済ませられないものがある。
それは教師あるいは教職の持つマンネリズムを打開することであった。ロウの 教職に対するこの考えは,自分の大学チューター経験から出されたものであり,
この教職観は一貫している。そのロウが,中産階級の子ども達の学校の主たる 形態である基金立学校の改革を主張したトーントン委員会報告に関連して,パ
ンフレットを公刊している。そこではまず一般的に,多くの基金立学校は基金 を有利に使って基金立ではない学校と不当な競争を行なっていると攻撃した。
そして,「基金立学校の教師は,安定した収入が保障されているがゆえに,堕 落している。現在有名となった基金立ではない私立学校は,校長がビジネス感 覚に長けており,自分の思うような教育を基金に縛られずに自由にやったお蔭 で,あんなに人気もあり,学力の水準が上がったのだ」26)と指摘している。こ
こでロウの主張するビジネス感覚とは,何がいい教育か,従って需要があるは ずの教育かを自分で考え,それを自由にやってみるということを指している。
さてロウは,このように教職のマンネリズム,保守的性格を見た上で,一部 の優秀な校長の存在は極めて例外的であるが,彼らを動かした動機をビジネス 感覚に求め,これを制度化することで,全体に波及させようと考えた。そこで,
基金という過去の遺産に安住してはいけない,もっと市場原理で行なうべきで あると主張する。彼の論文は『基金かそれとも自由貿易か』というタイトルだっ たが,これに宿敵J.S.ミルが反論した。ミルは,競争は前提としつっも,教え られるべき知識については法または国家が規定すべきであることを指摘した上
で,「教育におけるこの不可欠な自由市場は,基金によって助けられている教 育(すなわち基金立学校の教育一大田)によって,刺激を得たり,モデルを 得たり,ヒントを得たりすることなしに,必要な教育を与え,改善していくこ
とができるのだろうか」と問う。親の,つまり消費者の判断が信頼できるのは,
(1)彼らが購入費を十分持っているとき,(2)商品に対して十分情報をもっている とき,(3)商品に対して正しい判断が下せるときであるとした。この3条件が満 たされていない場合には,市場原理は機能しない。実際ミルはイギリスの中産 階級の親達は,子供の教育に関しては,目先の金銭的な利害にとらわれて判断 しやすいし,良き教育の習慣が成立していない場合は何が将来の利益となるか 判断できないとみた。ミルはさらに生徒の数と教師の給与とを関連付けようと するロウを批判して,出来高払い制度は基礎教育には適用出来ても,親と学校 の間で特別な同意が出来なければ,私学教育には応用出来ないし,これもまた 良い教育を受けることが流行となっていない今では不可能なことであるとした。
そして唯一基金立学校の教師は,学問に一生をかけた人間であることを高く評 価し,中産階級の教育内容は市場原理でチェックするよりも,この安定した収 入のある専門家にまかせることを主張した27)。ミルは自らの理論を「基金と自
由貿易」とした。結局ミルの理論は,何が良い教育か判断できないという(ミ ルが想定する)親に対する不信と,専門家への信頼に根差している。勿論この 場合の親とは,選挙権も持ち,授業料も払っている中産階級の親のことである。
一方ロウは,中産階級の親を,一人前の判断主体として看倣している。中産階 級における「親」の学校選択における位置づけが両者の間で明確に異なったの である(この問題は現代の学校選択を巡る教育学者の主張との対比で興味深い
ものがあるが,ここではこれ以上触れない)。
しかしながら,これら二っの組織原理は,前述のとおり,国家的制度化への 道が塞がれてしまったために,明確な形で対立するような事態にはならなかっ
た。
4 全国校長会議(Head Master Conference)の設立
以上のように,国会を中心に自由党からパブリックスクール及びオックスフォー
もう一っの教育行政制度原理 57
ド大学,ケンブリッジ大学など「古い体制」の学校制度を自らの利益に改組し ようという意味での「近代化」を進めようとする試みが,新興中産階級を中心 になされていったわけであるが,こういった動きに対して危機感を深めていっ た人物がいる。彼の名はE.スリング,アッピンガム校の校長であった。スリ
ングは,当時の主だった37校の私立学校校長宛に,直面している問題にっいて 話し合うため,年に一度の会合を開くことを提案した。時はまさに基金立学校 法案が国会で論議されている真っ最中であった。1869年12月21日に第一回の会 合がアッピンガム校で開かれた。全国校長会(HMC)の誕生となる初会合で
あった。
第一回報告書によれば,呼びかけられた37校のうち参加したのは12校
(Bromsgrove, Bury St.Edmunds, Callterbury, Felsted, Lancing, Liverpool College, Norwich, Oakham, Repton, Richmond(York), Sherborne, Ton−
bridge)で,不参加を知らせてきたのが5校(Highgate, Dulwich College,
Ipswich, City of London, York),遅れて参加すると答えた4校(Marlborough,
Magdalen College School, Durham, Chirist s Hospital)であった。また,
残り16校のうちスリングの提案に賛成したものが7校,6校が反対,3校から 返事がなかったとの報告がなされている。席上イートン校等いわゆるグレート
スクールからの参加がないことが不安であるという発言が出たのに対し,スリ ングは,我々はそういった学校とは「世の中の発展にふさわしい仕事をする」
という点で立場を異にすると答えている。結局,スリングは自分達の直面して いる問題に対して意見交換をすること,私立学校が世間から孤立している点を 是正することをこの会合の目的として訴え,年に一度の会合を持つことが合意
された。会合は2日間に渡り,初日はオープンディとして校長以外の教師にも 開放し,2日目はクロウズドディとして校長だけが参加することが確認されて
いるzz)。
第一回の会合で現実に話し合われた内容は,参加を呼びかける学校66校のリ ストを作成,次回の開催校をシャーボーンのキングス校にすることの他に,第 一の議題として,基金の使途としては第一に建物の維持・修繕を考えること,
第二に校長に対する固定給制度の導入,第三に奨学金試験制度というように順
位をっけることがまず確認された。第二の議題としては学校理事会の問題が取 り上げられ,1)学校全体がビジネスとして組織されること,2)学校理事会に 校長が理事として参加すべきこと,3)理事,教師双方からの簡単で安い費用 で済むような訴訟手続きを保障すべきことなどが確認された。第三の議題は基 金立学校法案の検討で,第11条(登録教師によるカウンシル委員の選挙)削除 および第13条,第14条の文言の修正が求められた。さらに法案に盛り込まれた 学校に対する試験制度と視学制度について意見が出された。多くの意見では学 校に対して序列をっけるような形での国の試験制度および視学制度は阻止すべ きであり,一般的な資格認定書を与えるように変更すべきであるというもので あった。その他に,「校長は反論の機会を与えられずに解任されるべきではな い」という決議が出されている。また大学と関連している学校の校長は生徒を 退学させる権利を有すべきであるという決議も通っている。その他にはラテン 語の発音を「現代化」する提案が出されたがこれは来年度の議題とされること が確認され,初めての会合は無事閉会している。
このスリングの対応は,パブリックスクールを頂点とする私立学校全体が世 の中の批判を受け,そのため,このまま「孤立」した状態を保っていたら国家 介入を招来するという危険性があるという現状認識をもとに,自分達自身によ る改革を検討することと組織化をして圧力団体を作るという一石二鳥の方策で あったと思われる。現にここでの決議をもとに,基金立学校法案への修正を働
きかけている。
また,この会合にグレートスクールが参加していないという事実は,ここに 集まった学校は,歴史的には古いものもあったであろうが,グレートスクール とちがって,このままでは生き残ることができないと認識し,新しい市場を獲 得し,新しい科目も積極的に導入した学校であることを予測させる。現在では 最も強力な圧力団体であるHMCがアッピンガム校というところから出発した
という事実は,注記すべきであろう。したがって,その後の会議の内容もこう いった性格が表れるものとなっている。
第二回の会合は,1870年12月28,29日に予定通りシャーボーンで行われた。
33校が参加している。その中にはグレートスクールとされたシュロウスベリ校
もう一っの教育行政制度原理 59
もあった。さらにハロウ,マルバラ,チャーターハウスなど14校が団体への参 加意志を表明する手紙を寄せていた。但しイートン,ラグビーは参加もしてな
ければ返事も寄越していない。
第二回の議題は集まった校長達の組織化と,前回出されたラテン語の発音問 題であった。うち,第一の議題については,当時進んでいた教育改革と教育法 の推移を見ることとされ,参加校のなかから6校を選出し,その校長達が執行 部となることが確認されている。また第二の問題にっいては,オックスブリッ
ジからラテン語の教授を招いてどちらがいいのか検討することが決まった。ま た,学校での教授と大学の入学試験との関係にっいては,大学が私立学校での 新しい科目にっいて無頓着であり,大学入試制度に生かされていないこと,そ のため私立学校の近代的科目を含む離学認定試験を導入し,同時に入学試験に 採用したらどうかという提案がペレイヴァル氏から出された。そうすれば,大 学進学を予定していない生徒たちも勉強してくれるのではないかというのがそ
の理由であった。この提案に対しては賛否両論出されたものの,まずは大学入 学試験はカレッジや私人によって行われるのではなく,大学独自の試験か,あ るいは公的な試験によって行われるべきであることが確認された。これは,オッ クスブリッジが特定の学校と強力な関係を歴史的に有しており,参加校に取っ ては不利な状態に入学試験制度があったこと,参加校には大学進学予定者以外 の生徒を抱えている学校が多かったことを意味している。したがって,そこか ら大学入試制度は1)古典あるいは言語学的なもの,2)自然科学と数学と二 種類用意されるべきことが決議された。試験制度に関わって,ウエスト博士か
ら,政府による離学試験制度の導入の提案がなされた。それに対してスリング は国家介入に反対することを表明し,国が試験をやるにせよ,学校の教育の自 由を確保する保障が必要であると訴えた。最終的に会議は,政府に離学試験制 度の必要性を訴え,数多くある試験制度の弊害を取り除くべく試験委員会と交 渉し,中等教育に関する問題にっいて政府と協力していくことを決あた。
その他に会議で話し合われたことは,自然科学を教えるこどめ効果,英語教 育,代数などの教科実践の経験交流や,私立学校進学のための小学校との関係 が私立学校入学試験とどうあるべきか,或いは当時分類された中等学校の間で
の生徒の移動にっいて,またギリシア語を教えるのは第一級校だけにしたらど うか(但しロンドン大学入試で必要とされているため撤回),休日の設定など であった。最後に第三回の議長をウインチェスター校校長が担当すること,執 行部担当校として9校(ウインチェスター,イートン,ハロウ,レプトン,チェ
ルトナム,クリフトン,アッピンガム,シティ・オブ・ロンドン,シャーボー
ン)が指名された29)。
第三回からはいわゆるグレートスクールからの参加も得て,名実共に校長会 の様相を呈し始めるのである。第三回はしかしながら予定と異なり,ハイゲー トで行われ,ハイゲート校校長が議長を勤めている。参加校は50校にも増加し,
病気などの理由から参加できなかった4校の名も挙げられている。そのほかに も大学関係者として,オックスフォード大学のユニバーシティ・カレッジやロ ンドン大学のキングス・カレッジからもゲストを招待している。
この会合で漸く会の性格や組織などにっいてスリングから最終的な提案がな された。まず,「最も高い地位のある学校の校長たちが学校と教育に関わる全 ての問題を論じるために年に一度開かれる会合」という目的が明確にされた。
また会議は参加校で開催されるが同一地域内では3年間行わない。開催校は選 挙によって選出される。第一級校の校長は,職権としてメンバーとなる。その 他の重要な学校長は執行部委員会の推薦を得て,選挙によってメンバーとなる。
執行部委員会はHMC代表として任命され,9人から構成され,毎年3人が改 選されるが,再選を妨げない。最初の2年間は委員会が改選者を決定し,その 後は年長が3人改選対象となる。一般教師は一日目午前の会合を除き参加でき
る。この提案は,最後の一般教師の取扱い(継続)を除いて受け入れられた。
第三回の会合の議題としては大学による試験制度(離学試験)の提案,奨学 金試験制度の在り方などにっいて検討されている3°)。
第四回はバーミンガムで開催され75校が参加している31)。
以上,HMCの最初の数年間の活動を報告書を中心に見てきたわけであるが,
4年後には中心的な学校の校長がすべて組織され,その圧力団体としての地位 を確固としたと判断できる。しかしながら,常にリーダーシップをとっていた のは,スリングであり,グレートスクール以外の学校の校長達であった。彼ら
もう一っの教育行政制度原理 61
はこの組織を通じて,第一級とされた中等学校全体の利害を調整し,大学や政 府との交渉を行い,イートン校らの特権的な学校を牽制して,自らが採用して
いるカリキュラムを大学入試制度に反映させる一方で,当時の中産階級の教育 要求とも折り合いをつけていったのである。もし,彼らが自分達でこのような 努力を払わなかったならば,カリキュラムや学校制度の近代化を主張する勢力 は遅かれ早かれ国家を使って近代化を導入させただろう。現に,二っの調査の ための委員会が設置され,国家のメスが学校にはいったわけであるし,それら の勧告を受けてパブリックスクール法や基金立学校法が準備されていたのであっ た。しかしHMCの設置により,効果的に政府に働きかけることが可能となり,
法案の修正も行わせた。第一級中等学校は,自らの教育の成果を大学が行う視 察と離学試験・入学試験制度によって証明することにより,国家介入を回避iし
たということができる。
おわりに
19世紀後半,時代は『福祉国家』段階に進もうとしていた。イギリスでは,
国家が教育を保障するのは,自分達では教育を供給できない社会の最下層と犯 罪者だけであったが,徐々に,様々な理由から労働者階級に対する基礎教育の 制度化が進み,公教育制度がつくられつつあった。実はそれに先立って中産階 級のための教育制度の整備も政治問題化していたのである。しかしながら,教 育の必要性を認めながらも,トーントン委員会に見られたような一部の制度化 を推進するグループを除いて,多くの貴族階級と中産階級にとっては,国家介 入は回避すべきものとして考えられていた。教育行政組織でいえば,中央当局 の設置も最小限に押さえられ,地方当局は設置されなかった。全国的標準化を 求めるための教師の登録制はおろか,国家による教育内容の共通基準の設定も 拒否された。こうして,19世紀に見られた国家による中等教育行政の制度化の 試みは,基礎教育行政制度と比べれば自由度があったものが提案されたものの,
結局は失敗する。
しかしながら国家介入を否定していたグループの中には,このまま放置され たままではすまないことを深く認識していたものがいた。もし国家介入を阻止