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伊達市中学生広島平和記念式典派遣事業H29報告書(本文)

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Academic year: 2018

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(1)

『原爆は、多くの人の命を奪った。そして、そればかりではなく、人間の尊厳をも奪った。』 これは、ある被爆者の手記に記された言葉です。

原子爆弾が投下された広島は、言葉に表すことができない地獄のような世界でした。かろう じて生き残った人たちを次に襲ったのは、被爆による原爆症でした。そして、被爆者を長くに 苦しめてきただけでなく、差別・偏見をも生みました。

たった一発の原子爆弾が、多くの人の命を一瞬にして奪い、そして、72 年経った今でも、 残された人たちを肉体的・精神的に苦しめ続けているのです。

伊達市は、未来を担う世代にも戦争が引き起こす多くの悲劇や平和を維持することの尊さを 語り継ぎ、すべての核兵器の廃絶と人類共通の悲願である恒久平和の実現をめざし、平成 24 年6月 28 日、『非核平和都市』であることを宣言しました。

今年も非核平和推進に向けた取り組みの一環として、市内の中学生 12 名を広島平和記念式 典に派遣しました。

8月5日から7日までの3日間の研修では、広島平和記念式典への出席をはじめ、原爆ドー ムや広島平和記念資料館の見学をしました。また、被爆者の話しを語り継ぐ被爆体験伝承講話、 中高生ボランティアによる原爆被害の概要説明と慰霊碑ガイドでは、地元の方々の話を直接聞 き、交流することができました。

参加した 12 名の中学生は、広島で見たこと、聞いたこと、感じたことを各学校の報告会で 発表し全校生徒に伝えてくれることになっております。次代を担う若い人たちが、戦争、核兵 器、安全保障の問題などを多面的に捉え、平和の意義を考える機会にしてほしいと考えており ます。

そして、戦争の記憶が私たちの社会から失われつつあると言われていますが、多くの人々を 苦しめた戦争の悲惨さと平和の尊さを語り継いでほしいと、切に願うものであります。

  平成 29 年 10 月1日

      伊達市長 

仁志田 昇 司

(2)

中学生の広島平和記念式典派遣事業に参加した生徒の感想文(研修レポート)からその生徒 が大きく成長していることを感じます。その感想文から私自身がはっとさせられ、また考える ことがありました。

感想文の中で派遣の中学生が平和資料記念館のぼろぼろになった服、真っ黒に焦げた弁当箱、 ゆがんだ三輪車等の遺品に大変に心を痛め、それらを使っていた人、家族に思いをはせている ことを読み、私は感銘を受けました。

焦げた弁当箱をもっていた人はどんな人なのだろうか。職場に急いでいたのではないだろう か。朝、その人を見送った家族は原爆投下の瞬間に、出勤途上のその家族の身をどんなに案じ ただろうか、また家族の作ってくれた弁当を持ち「行ってきます」と家を出た人も、家族の身 を心配し家に戻りたかったに違いないなど、72 年前の昭和 20 年 8 月 6 日 8 時 15 分に思いを 馳せていることに感銘を受けました。

ふと、私はこの中学生は自分の家族の遺品を持っているのではないか、もしくは心から大切 にしている物と重ね合わせたのではないかと感じました。

近年は三世代家族も少なく、人の亡くなる場面に出会うことは極めて少ないと伺っています。 亡くなる場面に出会わないことは良いことと思いますが、亡くなった家族を想う温かで優しい 心は大切にしたいものです。遠い以前の思い出を大切にしている人は豊かな感受性、豊かな心 を持っていると私は確信しています。

派遣された中学生の感受性が豊かであることが感想文からわかります。

また 2 泊 3 日の短い期間であっても同じ伊達市の中学生がお互いに親睦や友情や深めること ができたこと、広島に行き同世代の人との交流が図られたことなど思い出深い研修視察になっ たことに感謝の心をつづっています。

この感謝の心がまた嬉しいことです。実業界では「感謝の心ある者が大成する」とさえ言い ます。これからこの派遣された中学生はさらに大きく成長し社会で有意な人材となることで しょう。

派遣された伊達市の若者が成長し社会で活躍すると思うと私は嬉しく、明るい気持ちになっ てきます。 『 フレー! フレー! 伊達! 』

伊達市教育委員会 教育長 

湯 田 健 一

(3)

かつて、日本の 4 名の若者が「遣欧少年使節」として南ヨーロッパに派遣されたのは、天正 10(1582) 年のことでした。その当時と時代は大きく違いますが、原爆が投下された広島市に「非 核平和都市宣言」をした伊達市の中学生の代表が派遣され、平和記念式典に参加する意義は決 して小さくありません。現地で多くの若者と交流し、語り部の伝承者である甲斐晶子さんの話 を聞き、また記念式典で広島市長の「平和宣言」に耳を傾けたことは、派遣された皆さんの将 来にとって大きな収穫であったと思います。

広島の松井一実市長は、原爆は「絶対悪」であり、一発の威力がかつての数千倍にもなった 今、敵対国のみならず自国をも含む全世界の人々を地獄へと突き落とす行為であり、核兵器の 使用は、人類として決して許されるものではないのだということを今年の宣言でも力説してい ましたが、この根本の考えは忘れてはならないことです。

「忘れてはならない」ことで思い出すのは、原爆投下後の長崎で、亡くなった幼子を背負う 「焼き場に立つ少年」を撮影した米国の従軍カメラマンであった故ジョー・オダネル氏の言葉 です。幼子を火葬にする少年の様子を「炎を食い入るように見つめて少年の唇に血がにじんで いる。……少年があまりきつくかみ締めているため、血は流れることもなくただ少年の下唇に 赤くにじんできました」と記し、さらに彼は、核廃絶へのメッセージとして「ただ『忘れない』 ということが大切と思う」という言葉を残しています。地獄のような悲惨な出来事が広島・長 崎で相次いで起こったという事実を風化させてはならないと言っているのです。

一方、南相馬市在住のある詩人は、焼き場に立つ少年の写真を見つめながら「死んでしまっ たおれに」というタイトルの作品の中で、次のように書いています(一部抜粋)。

  おれだ/おれが写っている/と/写真を眼にした瞬間/国民学校初等科四年のおれだ/と ………これは<礼>の姿勢だ/<礼>の姿勢の背中に弟/少年は弟を背負っている/背 負い帯でしっかりと背負っている………死んだ弟を背負った少年のまなざしを見たか/ かなしみに耐えている少年のまなざしを見たか/かなしみに耐えつつ視線は前方に据え られている/かなしみに耐えつつ視線はなにに向けられているのか/なにに対しての< 礼>なのか……… (詩集『越境する霧』若松丈太郎 2004 による)

広島市長の「平和宣言」、あるいは、一枚の写真にまつわる写真家と詩人の二人の言葉など を通してどのようなことを感じ、現地で学んだことや自らの考えを今後いかに深めていくのか は、12 名の「平和使節」に課された大事なテーマです。これからの活躍に期待しています。

伊達市教育委員会 教育委員長 

髙 野 保 夫

12 名の伊達市の「平和使節」の役割

(4)

1 経緯と目的

平成 24 年6月 28 日、伊達市は「非核三原則」を遵守し、すべての核兵器の廃絶と恒久平 和の実現をめざし、『非核平和都市』であることを宣言しました。

この宣言を契機として、核兵器の怖さや平和の尊さを次代に継承し、平和維持の重要性を広 く市民に啓発することとしています。

その一環として実施する「中学生広島平和記念式典派遣事業」は、次代を担う中学生が、戦 争、核兵器、安全保障の問題などを多面的に捉え、実際に見て、聞いて、感じることで、平和 の意義を考え、知見を広めてもらうことを目的とします。

2 主 催 伊達市・伊達市教育委員会

3 参加者 市内中学校生徒 計 12 名(各中学校男女1名ずつ)

4 引 率 市職員、養護教諭の各1名 計2名

伊達市中学生広島平和記念式典派遣事業実施要項

平成29年度

中学校名 学年 生 徒 氏 名 性別

伊達中学校 3 塩澤 紘明 男

伊達中学校 3 関川真佑子 女

梁川中学校 3 森  大翔 男

梁川中学校 3 岡﨑 夕那 女

松陽中学校 3 永井 拓真 男

松陽中学校 3 大槻 京香 女

桃陵中学校 2 小川 慧渉 男

桃陵中学校 2 遠藤 羅瑠

霊山中学校 2 菅野  隼 男

霊山中学校 2 橘内 南美 女

月舘中学校 3 齋藤 宇浩

月舘中学校 3 加藤 愛美 女

所属・職名 氏  名

桃陵中学校 養護教諭 冨田 千代

(5)

6 内容(行程)

広島平和記念式典への出席、原爆ドームや広島平和記念資料館の見学、平和記念日行事 に参加し、戦争の悲惨さと平和の尊さを学習する。

【1日目】 8月5日(土)

  伊達市役所(出発 5:50) ~ 仙台空港 ~ 広島空港 ~ 「被爆体験講話」 参加~「ヒロシマ青少年平和の集い」参加 ~ 宿泊ホテル

【2日目】 8月6日(日)

  「広島平和記念式典」出席 ~ グループ研修(平和記念公園・原爆ドーム) ~ 宿泊ホテル(前日に同じ)

 【3日目】 8月7日(月)

  グループ研修(広島平和記念資料館) ~ 広島駅 ~ 東京駅 ~ 福島駅  ~ 保原駅(解散 19:40)

7 参加費 無料(交通費、宿泊費、食費は市が負担します。)

8 研修・報告等

 (1) 各自、事前学習に取り組むこと。

   自己紹介、参加の動機等で 400 字程度のレポートを提出してもらいます。(6/26 まで)  (2) 事前研修に参加すること。

   7月1日(土)に実施します。

 (3) 参加後、感想文を提出すること。(8/25 まで)

   感想文は、800 字程度とし、広報紙・伊達市HP・記録集に使用します。  (4) 研修報告を実施すること。

   各中学校において、研修報告・発表等を実施してください。

9 服 装

 「広島市平和記念式典」への出席は、各中学校の制服とします。移動、ワークショップ、見  学等は、私服で構いませんが、中学生らしい服装を心掛けてください。

10 持参品(参考)

(6)

11 その他の注意事項

 ・研修の目的を忘れずに、伊達市から派遣された中学生としての自覚を持って行動すること。  ・急病、けが、事件・事故、その他トラブルがあったときは、公衆電話等から引率者の携帯

電話に連絡すること。

 ・夜間等の外出、ゲームセンター等への入場は禁止です。

12 担 当 

  総務部総務課行政管理係 (TEL 575-1111)

(7)

塩澤 紘明

伊達中学校

P 8

関川真佑子

伊達中学校

P 9

森  大翔

梁川中学校

P 10

岡﨑 夕那

梁川中学校

P 11

永井 拓真

松陽中学校

P 12

大槻 京香

松陽中学校

P 13

小川 慧渉

桃陵中学校

P 14

遠藤 羅瑠

桃陵中学校

P 15

菅野  隼

霊山中学校

P 16

橘内 南美

霊山中学校

P 17

齋藤 宇浩

月舘中学校

P 18

加藤 愛美

月舘中学校

P 19

冨田 千代

引率者

P 20

寺島  彰

引率者

P 20

(8)

僕は、今回の貴重な体験を通して、たくさ んのことを学び、たくさんのことを感じまし た。自分自身、「平和」に対する関心を深め たいと思い、この事業に参加したわけですが、 そのためにはまず「戦争」について知ること が大切だと気づきました。それによって、こ れまで戦争に対して目を背けてきた自分を変 えることができました。そして、当時の残酷 な現実と少しでも向き合い、さらに深く具体 的な平和のかたちについて考えられるように なりました。それも全て、有志と共に平和を 考えるこの事業があったからできたことだと 思います。

この 3 日間、僕にとってどの体験も新鮮且 つ貴重なものでしたが、特に印象的だったの は、1 日目の「被爆体験伝承講座」です。被 爆の実態や投下直後の様子について、実際に 体験された方から聞くことで、言葉に表せな い怒りや悲しみが伝わってきました。また、 当時の写真やその様子を描いた絵から、その 悲惨さをより強く感じました。

2 日目は、「広島平和記念式典」に参加して、 原爆によって亡くなられた方々に哀悼の意を 表しました。原爆が投下された 8 時 15 分に は黙とうが行われ、核兵器の廃絶と世界の平

和を祈りました。

3 日目は、「広島平和記念資料館」を見学 して、原爆の脅威を肌で感じました。当時、 実際に被爆を受けた数々の遺品が展示されて いて、その威力を痛感させられるものばかり でした。

僕たち中学生にできることは、これらの貴 重な体験で学んだこと、得た知識を、より多 くの人に発信し、平和に対する理解や関心を 深めてもらうことだと思います。そして、二 度と過ちを繰り返さないために、日本から世 界に向けて訴えていくことが必要だと思いま した。

伊達中学校 

塩澤 紘明

(9)

今まで毎年テレビで、なんとなく聞きなが していた、70 年前の「地獄」。今回派遣事業 に参加して、初めて、それが本当に私の暮ら している国でおこった出来事なのだと実感し ました。

1 日目、ワークショップに参加して、広島 の私たちと同年代の人たちから、話を聞きま した。8 月 6 日に広島に落とされた原爆の、 実物大ポスターを見て、これだけで何万人も の命を奪えてしまうのかと思うと、背筋が ゾッとしました。そして 2 日目、原爆資料館 で見た被爆資料は、とても悲惨なものでした。

焼けてボロボロになった制服、三輪車、8 時 15 分で止まって今も動かない懐中時計。 あの瞬間にも、広島には日常があったのかと 思うと、ひどく心が痛みました。

中でも印象に残ったのは、被爆者の方々が 残していった、たくさんの絵です。

広島の原爆投下直後の写真は、あまり多く 残っていません。しかし、何十年もたった後、 被爆者の方々は自分の辛い経験を思い起こ し、絵を残して下さいました。その絵を見て、 もう二度と戦争を起こしてはいけないという 強く固い意思や、被爆者の方の平和への願い が叫びとなって、耳に響くようでした。

ヒロシマは今、式典の平和への誓いで話さ れていたように、「みどりいっぱいの街」に なっていました。私たちが今、こうやって何 不自由なく暮らせているのは、平和を願う、 たくさんの方の意思があったからだと思いま す。そして、「世界から戦争を無くす」ため には、そういった、たくさんの「意思」が必 要なのだと思いました。

この 3 日間で、私たちは日常に感謝し、そ して、尊い命と平和を未来につないでいかね ばならないと、強く、感じました。そのため に、自分の見てきたもの、聞いてきたこと、 感じたことを、伝えていきたいと思います。

このような貴重な機会をいただき、本当に ありがとうございました。

伊達中学校 

関川 真佑子

(10)

 僕は、今回広島平和記念式典派遣事業に参 加して平和についてより多くのことを学ぶこ とができました。

 被爆体験伝承講話では、爆心地から 2.8 キ ロメートル離れた尾長町で被爆した方の話 や、当時のことを伝承者を通して聞くことが できました。やはり社会の授業と生の話を聞 くとでは雲泥の差がありました。広島に落と された原子爆弾は爆風、熱線、放射線を瞬間 的に生みだし広島の街を一瞬で破壊したと聞 き驚きを隠せませんでした。そして生き残っ た人の中にも、疎開による原爆孤児や放射線 による後遺症に悩まされる人など原子爆弾が もたらした悲劇は長く人々を苦しめてきたこ とを知り、胸が苦しくなりました。終戦から 72 年がたち被爆者の高齢化に伴い、当時の 話はだんだん聞けなくなってくると思い、こ れからは、僕たちが広島の真実を語り継いで いかなければいけないと思いました。  2 日目は平和記念式典に参列しました。式 典には広島はもちろん他県の人や外国人など 多くの人が参列していました。式典では平和 宣言を聞き黙とうをしました。平和とはどの ようなものか考えることができました。  その後、資料館を見学しました。中に入る

と初めに被爆した当時の広島の街の写真が壁 一面にありました。想像していたよりも町の 損害が激しかったことを知りました。展示品 の中には被爆した中学生が着ていた服や三輪 車 8 時 16 分で止まった時計などがありそれ らを見ているうちに戦争や核兵器をなくさな いといけないと、より強く思いました。  この三日間の研修を通して平和とは何かを 深く考えることができました。世界から戦争 や核兵器がなくなるために僕たち一人一人に できることがあると思いました。この研修で 学んだ平和の大切さや原爆の恐ろしさを伝え ていきたいと思います。

梁川中学校 

森 大翔

(11)

 この派遣事業の 3 日間で、本当にたくさん のことを学ぶことができました。

 私は広島の原爆やその被害について、深く 考えたり、学んだりすることは、今まであり ませんでした。戦争などに、あまり興味がな かったからです。しかし、1 日目の被爆体験 伝承講話を聞いてから、原爆の恐ろしさを知 って、どんどん戦争や原爆について知りたい と思いました。

 8 月 6 日に広島に原爆が投下されたとき、 周りにいた人たちは、その放射線や熱線、爆 風で肌に大やけどを負ったり、爆風で飛んで きたガラスが体中に突きささったりしたとい うこと、放射線の後障害で白血病、ガン、ケ ロイドになってしまった人たちがたくさんい ることを聞きました。信じられないような話 で、想像するだけでぞっとするようなことで した。その被害を受けた人たちはとても痛く て辛かっただろうなと思うと、苦しかったで す。平和記念式典には広島県以外にも、県外 からも外国からもたくさんの人が訪れていて こんなにたくさんの人が平和を祈っているん だと分かりました。

 それから、3 日間の間にこんなにみんなと 仲を深められると思っていなかったです。1

日目から、先生に「こんなに打ち解けられた のは初めてだよ。」と言われて、すごく嬉し かったです。移動中でもホテルでも宮島でも たくさんの思い出を作れたと思います。だか ら、3 日間で離れるのはさびしかったです。 引率の先生方とも仲良く話せるようになって 良かったです。

 今回の派遣事業は私にとって、本当に意味 のあるものになったと思います。学んだこと や感じたことをこれからの生活に生かしてい きたいです。平和の大切さもみんなに伝えた いと思います。短い期間でしたが、少しだけ 自分の成長を感じることができ、良かったで す。

梁川中学校 

岡﨑 夕那

(12)

 今回参加させて頂いた広島への派遣事業 は、見るもの触れるものの多くが、初めての もので、自分に鮮烈な印象を与えました。  その中でも特に印象に残ったものは、初日 の「被爆体験伝承講話」です。原子爆弾は一 瞬の内にして広島の街を廃墟にしてしまいま した。ガラスの破片を一身に受けた人、皮膚 がただれて腕からカーテンのように垂れ下が っている人、想像してみると、言葉に表せら れない程のむごさでしたが、実際に体験した 人は、もっと恐ろしかったのだと思います。 また、平和記念資料館では、焼け焦げた服や、 ボロボロになった三輪車を見ました。さらに 戦後も病気や差別に苦しめられている人が今 もいるという話を聞きました。原爆は、沢山 の人々の命、日常、人権までもを奪ってしま う、本当に悲惨極まりないものだということ を、強く実感しました。

 日本は、第二次世界大戦で、壊滅的な被害 を受けました。しかし、甚大な数の民間人、 兵士が日本軍によって殺されてしまったこと も事実です。今世界に求められているのは、 どっちが良いどっちが悪いから謝罪しろとい うのではなく、双方が過ちを認め、理解し合 うことだと思います。それでも、現在も反目

し合っている国は沢山あり、紛争も絶えず行 われています。

 この体験を通し、僕は平和の実現の難しさ と核兵器の恐ろしさをよく知ってもらう必要 性があると感じました。今もなお核開発は進 められ、世界には広島より威力が百倍にもな った原爆が約一万五千発も残っていると言い ます。また、国際関係もニュースを見ると厳 しくなっています。その中で、僕たちにでき ることは、身近な周りの人へ今回学んだこと を伝え、広めていくことだと思います、世界 に、脅威のない、人々が心豊かに暮らせる平 和を実現できるよう、少しでも貢献できたら 嬉しいです。

松陽中学校 

永井 拓真

(13)

 私は広島平和記念式典派遣事業に参加す る前に、実際に広島に行って学びたい、感 じたいと思うことがありました。それは、 広島に原爆が投下されたときの広島の方々 の思いと状況です。

 1945 年 8 月 6 日午前 8 時 15 分。このと き広島に原爆が投下されました。その日は 雲一つない青空だったそうです。人類史上 初の原爆は上空 600 mで炸裂し一瞬にして 広島の人々を暗闇に包み込みました。ある 人はおっしゃいました。「体の皮膚がはが れ、カーテンのようにたれ下がっていて、 白い骨まで見えていた。だけど、そのよう な人かどうかも確認できないものを見て、 涙が出てこなかった。広島への原爆投下 は、人々の命だけでなく、人々の感情でさ えも奪ったのです。」これが、当時の広島の 方々の思いです。人が歩く道もないくらい にいろいろな物が床に広がっていたそうで す。そんな中でも広島の人々は復興のため にすぐ動きだし、原爆が投下された 3 日後 には市内電車は動き出し、水道は一度も止 まらなかったのです。また、男性は皆戦争 に行っているため、それらを行ったのは女 性の方々なのです。私はとても驚きました。

女性の方は本当に強かったのだと思いまし た。

 広島の平和式典は、広島に投下された原 子爆弾による死没者の慰霊と世界の恒久平 和の祈念のために行われます。安倍内閣総 理大臣をはじめ、世界中のたくさんの来賓 の方々や被爆者、ご遺族の方々が参列され ていました。改めて日本が唯一の原爆被爆 国であるということを感じました。

 私はこの 3 日間でうまく言葉には表せな いような悲しい気持ちになりました。また 今まで初めて平和について深く考えたと思 います。平和の尊さ、戦争の悲惨を多くの 人に伝えていきたいと強く思いました。

松陽中学校 

大槻 京香

(14)

 僕はこの伊達市中学生広島平和記念式典派 遣事業に参加し、広島にあるたくさんの慰霊 碑や資料館を見学しました。そこで僕が感じ たことは「原爆は人災」ということです。そ こでそう思った経緯を三つ紹介します。  一つ目は、原爆ドームを見学したことです。 今まで教科書やテレビでしか見たことがなく 生で見るのは初めてでした。爆風で大きく壊 れたコンクリートの壁や天井、熱線で元の形 が分からないほど変形した鉄の柱など、原爆 の破壊力の大きさに驚きました。

 二つ目は、平和記念資料館の展示物を見た ことです。資料館には、激しく燃え、ボロボ ロになった衣服や、真っ黒に焦げたお弁当箱 が展示してありました。この服とお弁当箱は 使っていた人がいたはず…その人のことを想 像すると、背筋が凍ってしまいそうになるほ ど、怖くなりました。

 三つ目は、伝承講話で聞いた核兵器の話で す。現在この地球上には一万五千三百発もの 核兵器が存在し、そのどれもが広島に投下さ れた原爆の百倍以上の威力があるということ です。僕はこの話を聞いたとき、驚いたと同 時に不思議に思いました。なぜなら、こんな 悲惨なことを人類がまた繰り返すのではない

かと思ったからです。そう考えると、いても 立ってもいられない程、悲しく悔しい気持ち になりました。

 原爆は人が作り、人が使用し、その結果、 多くの人が亡くなりました。もしかすると、 本当に怖いのは、原爆ではなく、人なのかも しれません。僕は、この広島を経験し、世界 中の人が幸せになって欲しいと強く思うよう になりました。そのためには、僕たち一人ひ とりが「平和を創っていく」という意思を持 つことが重要です。そこでその第一歩として まずは僕が広島で経験し、感じたことを僕な りの言葉で他の人に伝えていこうと思いま す。

桃陵中学校 

小川 慧渉

(15)

 私は、2 泊 3 日という貴重な体験を広島で 過ごすことができました。

 なかでも特に印象深かったことは、原爆資 料館で見たものと、実際に被爆をした女性の 体験を聞いたときです。

 原爆資料館でみたものは、とても心が痛み ました。その中でも 1 番印象深かったのは、 原爆がおとされた当日のことが描かれている 絵です。絵は、当日の様子なども分かります が、どのような思いでこの絵をかいたのか、 実際に被爆した人々の思いが、色づかいや人 の表情などからとても伝わりました。実際に 被爆をした女性の体験を聞いたときは、言葉 であらわせない感情がこみあげてきました。 8 歳というまだ幼いころに被爆をし、現在で は考えられない、とても悲惨な体験をなさっ たと思います。一瞬の出来事で広島は火の海 になりました。約 35 万人という、たくさん の人々が亡くなりました。戦争がはじまった せいで、罪のない、たくさんの人々が亡くな りました。当日の様子を話している女性の目 は、怒りと悲しみにつつまれていました。  この 3 日間を通して、改めて、平和につい て学ぶことができました。私たちが過ごして いる、当たり前の日常が、どれだけ平和なの

かを知ることができました。戦争がなく、平 和な今だからこそ、72 年前に広島でおこっ たことを忘れてしまうのだと思います。今、 私たちに出来ることは、核兵器の恐ろしさや、 平和の大切さ、広島で実際におきた出来事を たくさんの人々に伝えることだと思います。 1 人でも多くの人々に伝えて、核兵器を少し ずつなくしていきたいと思います。

 最後に、この広島平和記念式典派遣事業に 参加できたのは、伊達市の方々と、両親のお かげだと思うので、感謝の気持ちを忘れずに 生活していきたいです。

桃陵中学校 

遠藤 羅瑠

(16)

 今回参加させていただいた、伊達市中学 生広島平和記念式典派遣事業で感じたこと が 2 つあります。

 1 つ目は原爆のおそろしさについてです。 広島に落とされた原子爆弾「リトルボーイ」 の熱線は爆心地周辺からさらにその先の3 ~ 5km のところまで届いたそうです。資料 館には、その熱線の影響でケロイドが残っ てしまった人の写真がありました。ケロイ ドだけではなく、もう顔が溶けてしまって いるという状態の写真もありました。とて も胸が痛みました。本当に悲しく、どれほ ど痛かったかを思うと、さらに僕は苦しく なりました。

 2 つ目は広島平和記念式典に参列した 人々の気持ちについてです。今年で原爆投 下から 72 年になるのに前も見えないぐらい の人であふれているというのは、本当に驚 きました。72 年たった今でも、遺族の方が 胸を痛めているのだという事に改めて気付 きました。また平和公園には原爆の子の像 がありました。その周りには数え切れない ほどの古い物から新しいものまでの折り鶴 があり、たくさんの思いが折り鶴に込めら れているんだなぁと思いました。

 現在、世界には約 1 万 5300 発もの核兵器 があると式典の中で聞きました。これから も二度と広島や長崎のような悲劇が起きて はいけないと深く感じました。

 そして、全世界の一人一人が平和の意味 を理解して核兵器廃絶に向かって努力して いかなければならないと思います。

 また平和記念式典で見た、あの参列者の 多さは単に胸を痛めているという事だけで はなく、原爆投下を風化させたくないとい う広島の強い願いだとも思います。平和の 尊さを忘れず広島の人々の強い思いを友人 や家族に伝えていきたいです。

霊山中学校 

菅野  隼

(17)

 広島平和記念式典派遣事業に参加した 3 日間、原子爆弾の恐ろしさや平和の大切さ について学ぶことができました。

 被爆体験伝承講話では、証言者の岡田さ んの被爆体験を伝承者である甲斐晶子さん からお聞きしました。岡田さんは 6 人家族 で、次女として尾長町に生まれました。生 まれた年の 1937 年は日中戦争が起きてい ます。学校では命をささげることが正しい ことだと教えられたそうです。また当時は、 「ぜいたくは敵だ。欲しがりません、勝つま

では。」というスローガンもあったといいま す。でも、ぜいたくは敵でしょうか。食べ るものが少なくてお腹が減っているのに、 食べ物を欲しがってはいけないのでしょう か。疑問と共に今はとても平和であること も分かりました。

 日本はとても平和です。ですが、世界に 目を向けて見ると、今も戦争はおきていま す。原子爆弾もなくなっていません。地球 上には約 1 万 5300 発もの原子爆弾があり、 4000 発以上の原子爆弾が今すぐにでも発射 できる状態にあります。広島に落とされた リトルボーイの何倍もの破壊力があるもの です。

 3 日間、広島で学び、「平和」であること の大切さを知りました。そして、原子爆弾 をなくすために何をしたらいいかを改めて 考えてみました。私はまず、当時のことを 知ることが大事だと思いました。友人や後 輩のほとんどは原子爆弾について詳しく知 らないはずです。何も知らないのに平和に するために何ができるのでしょうか。私が 今回、広島で学んだことを一人でも多くの 人に伝え、世界中を争いのない「平和」な ものにできるよう、貢献していきたいと思 います。そして、知った上で何ができるか を考え、実行できるようにしていきたいで す。

霊山中学校 

橘内 南美

(18)

 私達はこの 2 泊 3 日という短い間で広島 について深く感じ、学び、考えてきました。  この 3 日間で一番印象に残ったことは、 あの一発で広島があんなにも変わってしま ったこと、そして広島人の力でした。  あの広島、長崎の二発があったから今の 日本がある。今の世界があるのだと、二日 目の広島平和記念式典で感じたことがあり ました。それは日本に平和が感じられると いうこと、そして核に対する考えが世界に 根付いてきているということです。戦後 72 年がたった今では、かつての爪痕も分から ないほど平和な日本が築かれています。し かし、これは広島と長崎の悲劇がったから こそだと思います。あの原爆の投下により 命の大切さが分かることができた、核の恐 ろしさを分かることができたからこそだと 思うのです。原爆というものは多くの人々 の命だけでなく、夢も希望も失わせたので す。放射能という見えない脅威は、かろう じて命が救われた人々の身体をむしばんで いきました。原爆投下後、身内や家族を心 配したり探すために街に戻ってきた人々も 残留放射線に被爆、その後は後遺症に苦し められたそうです。私はこのような数々の

悲劇を体験したことはありません。しかし、 このような体験を後世に伝えることはでき ます。私は悲しみや苦難を乗り越え、復興 した広島の街を見てきました。また、平和 記念都市として原爆の恐ろしさを訴えつづ ける街を見てきました。

 私は広島の人々の力に感動しました。世 界を動かし、苦難を乗り越え、街を復興さ せました。これからの世代に原爆が投下さ れ多くの人々が死んだ、そういう事実を伝 えることも大切です。しかし、広島の力も 伝えていかなければないのでしょうか。  苦しみを越え復興し、世界をも動かした、 その伝承も大切だと今、考えます。

月舘中学校 

齋藤 宇浩

(19)

 2 泊 3 日という短い期間で私達は、広島 について多くのことを学びました。

 私が広島に行って一番印象に残っている ことは、原子爆弾の威力と、心と体に深く 一生消えない傷をつけられたのにも関わら ず、今の広島は、その傷跡が分からないぐ らいにまで回復させた、人々の力はすごい と思いました。

 私達は、平和記念式典に参加しました。 その中で、平和への誓いでとても共感した 言葉がありました。「未来の人に、戦争の 体験は不要です。しかし、戦争の事実を正 しく学ぶことは必要です」という言葉です。 今の世界をみわたして下さい。いつ戦争が 起こっても、おかしくありません。この言 葉は、世界中に広めさせるべきと思いまし た。そして、資料館に行って、その思いは ますます大きくなっていきました。私の目 にうつったのは、とても驚くものばかりで した。影だけを残して消えた人や、放射線 をあびて亡くなっていった人などと、目を そらしたくなるようなものでした。これが、 原子爆弾の威力と感じると共に、戦争はし ていけないと強く思いました。平和記念式 典で聞いたあの言葉は、今の世界に伝える

べきです。

 私達は、戦争を体験したことがありませ ん。しかし、人の命の尊さ、原子爆弾の威 力。人々の力は今後伝えていくべきでしょ う。私達には、次の世代に伝えていく義務 があると思います。

月舘中学校 

加藤 愛美

(20)

「未来を考えるスタートの場所、広島」

今年の平和への誓いの一節ですが、広島を福島に置き換えることはできないでしょうか。 福島も、大震災で、原発事故で、人々があきらめていたら、復興への強い思いや願いを捨て ていたら、苦しい中必死で生きてきた人がいなければ、これからの福島はありません。

福島の子供たちが、勇気を出して、心と心をつなぐ架け橋を築いてほしいと願っています。 面倒くさがりで人間嫌いといわれがちな若者ですが、各校の代表が三日間、ともに語り学べ たことは、生徒たちの大きな糧となるでしょう。各家庭で、各学校で、この広島で感じたこと や考えたことをしっかり伝えてほしい。小さな力も積み上げれば、大きな力となることを信じ て進んでほしいです。

最後になりましたが、 お世話になりました関係機関の皆様に心より感謝申し上げます。

伊達市役所 総務部総務課行政管理係長 

寺島  彰

2017 年8月6日午前8時 15 分、私たちは爆心地から 300 mほど離れた場所で祈りを捧げて きました。72 年前のあの日と同じように、朝から晴れ渡り、とてもとても暑い日でした。

かつて、米国のオバマ前大統領が目指した「対話」による外交。そして、今年発足した新政 権では外交政策が大きく変わり、東アジアの緊張が高まっています。マスコミによる報道も過 熱し、私たちの身近な場所で「核」「戦争」という言葉が多く使われております。

私たちは、このような世界情勢の中で平和記念式典の日を迎えることとなりました。今年の 参加者 12 人は、過去の参加者以上に「核」「戦争」という言葉を敏感にとらえ、「平和」を強 く願いました。

さて、本報告書に使われた写真をご覧ください。出発時はよそよそしかった 12 人が、笑顔 で肩を組むまでに仲良くなりました。その理由の一つは、研修の中で自分たちの意見を話し合 い、相手を理解する「対話」ができたからだと思います。「平和」の実現方法は、身近なとこ ろにある、そんなことを教えてくれた 12 人の生徒に深く感謝します。

「平和を考える場所、広島」

「平和を誓う場所、広島」

「未来を考えるスタートの場所、広島」

(21)

1.広島平和宣言

P 22

2.2017 平和への誓い

P 24

3.新聞記事

P 25

4.スナップ写真

P 26

5.伊達市非核平和都市宣言

P 27

(22)

 皆さん、72 年前の今日、8 月 6 日 8 時 15 分、広島の空に「絶対悪」が放たれ、立ち昇ったきの こ雲の下で何が起こったかを思い浮かべてみませんか。鋭い閃光がピカーッと走り、凄まじい放射 線と熱線。ドーンという地響きと爆風。真っ暗闇の後に現れた景色のそこかしこには、男女の区別 もつかないほど黒く焼け焦げて散らばる多数の屍しかばね。その間をぬって、髪は縮れ真っ黒い顔をした人々 が、焼けただれ裸同然で剝はがれた皮膚を垂らし、燃え広がる炎の中を水を求めてさまよう。目の前 の川は死体で覆われ、河原は火や け ど傷した半裸の人で足の踏み場もない。正に地獄です。「絶対悪」で ある原子爆弾は、きのこ雲の下で罪のない多くの人々に惨むごたらしい死をもたらしただけでなく、放射 線障害や健康不安など心身に深い傷を残し、社会的な差別や偏見を生じさせ、辛うじて生き延びた 人々の人生をも大きく歪めてしまいました。

 このような地獄は、決して過去のものではありません。核兵器が存在し、その使用を仄ほのめか す為政者がいる限り、いつ何時、遭遇するかもしれないものであり、惨むごたらしい目に遭あうの は、あなたかもしれません。

 それ故、皆さんには是非とも、被爆者の声を聞いてもらいたいと思います。15 歳だった被 爆者は、「地獄図の中で亡くなっていった知人、友人のことを偲しのぶと、今でも耐えられない気 持ちになります。」と言います。そして、「一人一人が生かされていることの有難さを感じ、慈 愛の心、尊敬の念を抱いて周りに接していくことが世界平和実現への一歩ではないでしょう か。」と私たちに問い掛けます。

 また、17 歳だった被爆者は、「地球が破滅しないよう、核保有国の指導者たちは、核抑止と いう概念にとらわれず、一刻も早く原水爆を廃絶し、後世の人たちにかけがえのない地球を残 すよう誠心誠意努力してほしい。」と語っています。

 皆さん、このような被爆者の体験に根差した「良心」への問い掛けと為政者に対する「誠実」 な対応への要請を我々のものとし、世界の人々に広げ、そして次の世代に受け渡していこうで はありませんか。

 為政者の皆さんには、特に、互いに相違点を認め合い、その相違点を克服するための努力を「誠 実」に行っていただきたい。また、そのためには、核兵器の非人道性についての認識を深めた 上で、自国のことのみに専念して他国を無視することなく、共に生きるための世界をつくる責 務があるということを自覚しておくことが重要です。

 市民社会は、既に核兵器というものが自国の安全保障にとって何の役にも立たないというこ とを知り尽くし、核を管理することの危うさに気付いてもいます。核兵器の使用は、一発の威

(23)

突き落とす行為であり、人類として決して許されない行為です。そのような核兵器を保有する ことは、人類全体に危険を及ぼすための巨額な費用投入にすぎないと言って差し支えありませ ん。

 今や世界中からの訪問者が年間 170 万人を超える平和記念公園ですが、これからもできる だけ多くの人々が訪れ、被爆の実相を見て、被爆者の証言を聴いていただきたい。そして、き のこ雲の下で何が起こったかを知り、被爆者の核兵器廃絶への願いを受け止めた上で、世界中 に「共感」の輪を広げていただきたい。特に、若い人たちには、広島を訪れ、非核大使として 友情の輪を広げていただきたい。広島は、世界の人々がそのための交流をし、行動を始める場 であり続けます。

 その広島が会長都市となって世界の 7,400 を超える都市で構成する平和首長会議は、市民社 会において世界中の為政者が、核兵器廃絶に向け、「良心」に基づき国家の枠を超えた「誠実」 な対応を行えるような環境づくりを後押ししていきます。

 今年 7 月、国連では、核保有国や核の傘の下にある国々を除く 122 か国の賛同を得て、核 兵器禁止条約を採択し、核兵器廃絶に向かう明確な決意が示されました。こうした中、各国政 府は、「核兵器のない世界」に向けた取組を更に前進させなければなりません。

 特に、日本政府には、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目 的を達成することを誓う。」と明記している日本国憲法が掲げる平和主義を体現するためにも、 核兵器禁止条約の締結促進を目指して核保有国と非核保有国との橋渡しに本気で取り組んでい ただきたい。また、平均年齢が 81 歳を超えた被爆者をはじめ、放射線の影響により心身に苦 しみを抱える多くの人々に寄り添い、その支援策を一層充実するとともに、「黒い雨降雨地域」 を拡大するよう強く求めます。

 私たちは、原爆犠牲者の御霊に心からの哀悼の誠を捧げ、世界の人々と共に、「絶対悪」で ある核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現に向けて力を尽くすことを誓います。

  平成 29 年(2017 年)8月6日

(24)

原子爆弾が投下される前の広島には、美しい自然がありました。 大好きな人の優しい笑顔、温もりがありました。

一緒に創るはずだった未来がありました。 広島には、当たり前の日常があったのです。

昭和 20 年(1945 年)8 月 6 日 午前 8 時 15 分、広島の街は、焼け野原となりました。 広島の街を失ったのです。

多くの命、多くの夢を失ったのです。

当時小学生だった語り部の方は、「亡くなった母と姉を見ても、涙が出なかった」と語ります。 感情までも奪われた人がいたのです。

大切なものを奪われ、心の中に深い傷を負った広島の人々。

しかし、今、広島は人々の笑顔が自然にあふれる街になりました。 草や木であふれ、緑いっぱいの街になりました。

平和都市として、世界中の人に関心をもたれる街となりました。

あのまま、人々があきらめてしまっていたら、 復興への強い思いや願いを捨てていたら、

苦しい中、必死で生きてきた人々がいなければ、今の広島はありません。

平和を考える場所、広島。 平和を誓う場所、広島。

未来を考えるスタートの場所、広島。

未来の人に、戦争の体験は不要です。

しかし、戦争の事実を正しく学ぶことは必要です。

一人一人の命の重みを知ること、互いを認め合うこと、まっすぐ、世界の人々に届く言葉で、  あきらめず、粘り強く伝えていきます。

広島の子どもの私たちが勇気を出し、心と心をつなぐ架け橋を築いていきます。

  平成 29 年(2017 年)8 月 6 日

広島市立大芝小学校6年 

竹舛 直柔

こども代表

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福島民報 2017.8.14

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参照

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