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こぺる No.085(2000)

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日(毎月1回25日発行)ISSN凹194剖3

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2000

乙べる刊行会

NO. 85

部落のいまを考える⑩

インタビュ

ムラの外から来た

嫁」さん

聞き手

構 成 吉 田 智 弥

ひろば⑬

橋竹山

『津軽

味線ひとり旅

灘 本昌久

ヒロの楽

書き

多田ヒロミ

(2)
(3)

部落のいまを考え る ⑩

﹁ 嫁

インタビュー

ムラの外から来た

今は気楽にさしてもらってる

I

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l

i

− − − ﹂ でも何べん別れよと思ったか j

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さん︵

N

支部・五

O

歳 ︶

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もとは王寺ですねん。知合いのお店に手伝いに行った ときに、そこへ飲みにきたんがいまのウチの人で、最初 は部落ゃなんて全然知らんかった。妹のひとりがムラの 人と結婚してて、それで家の中がもめたことがあるから、 私は言いましてん。あんたがどんなにエエ人でも部落や ったら結婚でけへんねて。ほんだら、﹁ワシは名古屋や﹂ ていうから。ああ、ほんだらよかったと思て、それ以来、 だ ま 私は名古屋て信じこんで、言うたらずっと踊されつづけ た ん で す わ 。 好きとか嫌いとか違いますねん。私、奈良の田舎でず っと引っ込んでるのがイヤでイヤでしょうがなかったん やけど、ほんだら東京へ連れったる、いうもんやさかい

かけお に、自動車に乗せてもろて、駆落ちみたいに家出したん ですけど、岐阜まで行ったところで﹁免許証ない﹂言い 出して。結局、帰ってきて。 そやけど自分は実家がここやてよう言わんもんで、私 の家にミシンひとつ持ってころがりこんで、グローブの 仕事するようになったんですわ。自分の親がグローブの 親方でしたし、エエとこのブランドものぽっかりさして もらってましたから、職人としてのウデはあったんやと 思いますけど。そのうち、ネ

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ム の 糊 づ け か ら は じ め て 、 ひとつひとつ手伝わさせられて、しまいには私も一通り 下手間の仕事はぜんぶ覚えてしまいましたけど。 そのうち、親方の奥さんが病気ゃからいうて、なんや かやあって、こっちへ引っ越して来たんですけど、最初 は、その親方いうのが自分の父親やということもょう言 わんで。つまりは、自分の母親が病気になったというこ とですけど。死にはったときのお葬式に、私の父は来ま せんでした。でも当時はそれが当り前やと思てましたか こベる 1

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ら、差別とか何とかは考えへんかった。 一緒に暮らしてみたら、ウチのは全然働きよりません ね。毎朝、弁当もって家を出るんですけど、どこへ行つ ル ﹄ − フ てるんやら、お義父さんに電話して聞いたら︵グローブ の︶工場にも来てへんでて。そやから子どものミルク代 も入れてくれへんことがあって、それにケンカしたら私 を蹴りますねん。手で叩いたら手が痛いいうて。私は、 そのたびにもうアカン思て子どもつれて家出しますねん けど、晩になったら寂しいなって家に電話して迎えにき てくれいうたりするから。ほんだら、怒りもせんと、理 由もきかんと迎えにきてくれて、またもとに戻る、そん な繰り返し。私も、いきなり飛び出して家の中がメチヤ メチャになってたら、ヨソに対しても恥ずかしいし、洗 濯もして、掃除もして、片付けもして、それから家出し ようとしてたら、そのうち気持ちも納まってきたりして。 何べんも離婚届の紙もろてきたこともありますけど、 ウチのが全然ハンコ押してくれませんね。しゃーないか ら、私が王寺の実家へ帰ってしもたら、親戚や近所の人 が 一

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人くらいも押し掛けて来て、連れに帰るんですわ。 それが部落のしきたりやゅうんですけど、結局、私も連 れ て 帰 ら れ て 。 そんなこと繰り返すもんやから、私の実家のほうも、 これはキッチリ話つけてから別れんとあかん、というこ とで、家まで来て、ウチのんに︵離婚屈に︶ハンコ押し てくれるようにだいぶ言うたんですけど、その時はふと んにもぐり込んで二時間たっても三時間たっても頭も出 さへんままで。返事しゃへん。 グローブの仕事は調子のエエときには五

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万くらいす ぐ儲かることもあったんやけど、傾きかけてからはもう 全然ですわ。その後は、しょっちゅう仕事変わって、私 が掃除婦したりしているときは、警備員の仕事なんかも してましたけど。昔はずうっと働くのが嫌いやったみた いで。それに比べたら、いまはもう自分の好きな仕事 ︵水道工事︶してくれてますから安心で、私も楽さして もろてます。いまは遊んでますもん。まあ働きたいいう ても、五

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になったらもうパ

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トでも働く場所もあらへ ん か ら 。 退屈しのぎにデモに出た ほんまに私は部落のことは何も知らんと結婚したんで すけど、結婚して最初に住んでた所が山の斜面になって の ぞ いて、そこから解放会館が覗けるもんで。ほしたら、な

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んやゴザぶ/らさげて棒もって歩いてる人らが見えて、何 ーを言、つでるんかは分からんのやけど、退屈しのぎにその 人らを何べんも見に行ってた。私は、いうたら﹁外﹂の モンゃからという気安さもあって、とにかく面白がって 見てたんやと思いますわ。あの時分は、三日にいっぺん か五日にいっぺんかくらい、ゃっ,てはったんやないかな。 それから、少しずつ解放運動の集まりに誘われていく ようになり、行ったら行ったで、晩ごはんの時に家族の モンに、今日はあんなことあった、こんなことあった言 うて話をしてきましたから、ウチのんは最初は解放同盟 に反発もあったらしいですけど、だんだん話も開いてく れて、運動への参加には別に反対もされへんかった。そ の代わり、集会いったり出かけるときは、いつも前もっ てオカズを作ったり、みんなの着替えも用意したりして、 それから行きますねん。息子もちっちゃい時からお母ち ゃんがこんな運動してる話を聞いてますから、自分が ﹃部落民﹂いうことは早ょう知ってたと思いますよ。 でも、息子は解放運動はしてません。小学校の時から 少年野球のチ

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ムに入って、ずっと野球ばっかり。野球 するようになってから食ベモンの好き嫌いもなくなりま したし、ヨソの子とも遊べるようになって、それは喜ん でますねん。中学、高校も野球で、いまは消防の仕事を じてるんですが、そこでのチ

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ムと、地域のフリッパ

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ズという草野球でもがんばってるんですわ。たしか中三 のときに、いっぺんだけ狭山のデモに連れていったこと があって、青年部のジグザグデモでワッシヨイワッシヨ ィゃったんです。帰ってきて﹁どうやった?﹂て聞いた ら﹁おもろかった﹂と言うてましたけど。そのときは、 野球を本格的にやるかどうかの進路のことで悩んでたん ですが、それも吹っ切れたみたいで。 その息子は、いまもう二六か七になってるんですけど、 ちょっと前に女の子をつれてきて、このコと結婚するん やいうので、﹁お前、あのコには、きっちりここが部落 やて言うたるんか﹂て聞いたら、﹁言うた﹂て。私はず っと前から、女のコと付きあうんやったら、早い目に部 落やて言、っときょ、そうでなかったら、あとで分かって 別れるようになったらどっちも辛いで、て言うてました か ら 。 うちの子は高卒で、相手のコが大卒ゃから、そのこと も心配なんですけど、その娘さんに会うたときも、親が 反対してもウチへ来てくれる気イがあるんか、て聞いた ら﹁ある﹂言うてましたから、それやったら安心や思て。 こぺる 3

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息子の方は、ごはん食べてるときに、半分は私の話を耳 たてて聞いてたんでしょうなあ。﹁部落問題は、いろい ろ僕が教えたってん﹂て言うのを聞いて、こっちが、びっ くりしてるんですけど。 このあいだ、相手の家へ行ってきましたんやわ。こっ ちが部落やけど承知してくれはんねんな、て言いに。そ したら、むこうのお父さんは、最初はびっくりしました けど、いろいろ勉強させてもらいましたて。身内との話 はまだ済んでない言うてましたけど、いまは一応、来年 の春に結婚するということになってますので。一安心と い う か 。 今でも忘れへんこと でも、このムラも解放運動も、昔と比べたらだいぶ変 わりましたわ。私がここへ来た当時は、八百屋は大根で も細こう切って売ってくれましたし、カヨイ︵通帳︶で モノが買えた。いまそんなんありませんもん。 解放運動もいまは昔の面白さがなくなりました。町と の 交 渉 で も 、 私 ら 一 言 口 う こ と で け へ ん よ う に な っ た み た い で。何か言おうと思たら、まあまあまあまあ言うて抑え られる感じがするもんで、最近はあんまり行ってもハリ が の う な っ た 。 私の場合は、婦人部の全国集会があやめ池であったと きに初めて家を出してもろて、それから、子どもが小学 の六年と中学の三年間は、毎年つれて行ってもらいまし たけど、高校へ行くようになってからは弁当つくらなア カンので、︵泊まりがけの集会は︶行けんようになった。 最近でいえば、一級ヘルパ!の講習会へ行かせてもろ たのがいちばん面白かったかなあ。全部で二十数名の参 加者なんやけど、最初は五、六名、それがだんだん増え て し ま い に は 一

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人くらいの仲良しグループでお昼ごは んを食べるようになって。そこで部落の言葉使うたらパ レるから﹁一言葉気イつけや﹂て言われたんやけど、でも、 言葉て出ますわなあ。私なんかパレてもエエゃんいうて。 運動のなかでショックを受けたのは、やっぱり

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さ ん に﹁あんたらはなんぼ言うても在所や、部落とは違うね んから﹂と言われたことやね。これは忘れられへん。な んでそんなこと言われたのか、いまでもょう分からへん の や け ど 。 ム ラ は こ れ か ら ど う 変 わ る か つ て ? で も 、 何 が変わったて、最近のムラの人はあんまりお互い喋らん ようになった感じで。

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団地におった頃は年に三回でも さ あ 、

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草引きでもしよう言、って集まりましたけど、ここの住宅 で は 、 入 っ て も う 一

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年になるのに、集まったんは風目 場の面格子つけてもらうことの相談でやった一回だけで すわ。あとにも先にもその一回だけ。ゴミ当番があって も誰もせえへん。ここの住宅は部落解放同盟の要求で建 っ た ん で す け ど 、 な ん ・ か 周 り は 知 ら ん 人 ぽ っ か り み た い で。同盟員も何人かいはるんやけどねェ。 − 食 べ 物 や 言 葉 も 違 っ て た り し た け ど | | | ﹂ 一 ム ラ の 中 の 付 き 合 い の 多 さ に は び っ く り 一

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− − | D − A さ ん ︵ 西 田 中 支 部 ・ 三 二 歳 ︶

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ぁ、もう寝た?あ、ほんま。ほんならそこへ寝かし といて。タオルはここにあるんやけど。エっ、それで ︵質問は︶何でした?結婚してですか、ちょうど三年 半になります。あの︵いま寝た︶子が二人目。上の子は 二歳で、いまは保育園に行っているので。主人との出会 いは、まあ出会いといわれでも、友達の友達ということ で、ごはんを一緒に食べにいって意気投合したんですけ ど。そうですね、付き合いだしたときにはもう彼が﹁西 田中﹂ということは知ってました。私自身はそれには別 にこだわらなかったんやけど、でも家族は反対でしたね。一 実家がニの近くで、隣接してるところやから、父親の方一 は商売のつきあいもあって、部落のことについては色々一 聞いてたのかなあ。ムラのつきあいは派手らしいから一 ﹁やっていけるかなあ、大変やでエ﹄とか。とにかく父一 親には﹁反対﹂というよりも﹁よお考えなあかんでエ﹂一 みたいなことはだいぶ言われました。私がどこまで本気!一 かも探るみたいに。母もあんまり私の味方ではなかった一 ですね。母方の親戚が京都の北の方で、そういうことに一 あまりいい顔しないというか、気にする人が多いみたい一 で。まあ日頃から母は父につかえてる感じのタイプです一 う な づ 一 から、横でお父さんの言うことには額いてた。親たち一 としては、そういう親戚関係の目を気にしたり、それに一 私は九人兄弟で、下にも妹も何人もいたからその縁談も一 気になってたみたいで。だけど、私の気持ちは変わりま一 せんでしたから、結局はしばらくしてこの家に入ること一 に な っ た わ け で 。 一 そうですね。この家での親戚へのお披露めにはうちの 家族は出席してないんですけど、でもいまはもう世間並 みに行き来してますから。子どもが生まれた時にも祝い はしてくれましたし。それで部落へのこだわりがなくな こぺる 5

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ったかなあ、と言われたら、さあそれは本人たちの気持 ちの問題ゃから確かなことは分かりませんけど、でもと にかく今は普通に接してくれてますので。妹たちにはあ えて︵結婚相手が部落の人ゃなんて︶言、ったこともない し、意見も聞いたこともないんですけど、別に大丈夫や と思いますけど。近ごろは親が反対したからいうてそれ で自分の決めた人との結婚をやめるなんてあんまり誰も しないでしょ。考えてみたら、結婚するときは相手が部 落かどうかよりも、ン、人間性のもんやから、私として はいまの主人と結婚して本当によかった。最初は同居で はなくて別の所に住むことも考えたんですけど、赤ちゃ んのことがありますから、結果としては同居してこれも よかったと思てます。家も広いし、お義父さんやお義母 さんの方が逆に気兼ねしてくれたりして、ヨォしてくれ はるので、主人の弟をいれて全部で七人家族になります けど、私は何の遠慮もせんと暮らせてますので。子ども のためにも賑やかな方がええでしょ。見てもらえたりも す る か ら 。 びっくりしたこと この家に入って困ったこと?別に困つてはいないけ ど、びっくりしたのはやっぱり付き合いの多さかな。近 所つきあいが濃いというか、親戚が近くに固まっている せいもあるんやろうけど、本当に多い。実家の方でもも ちろん親戚つきあいはありましたけど、ここはもうお祖 父ちゃん・お祖母ちゃんの代の従兄弟の何とかとか、嫁 さんの弟とか、血がつながってたり・つながってなかっ たり、そんなことにお構いなく、とにかく冠婚葬祭ごと にそうした親戚の人らと行ったり来たり。ぇ、こんなと こも行くのんという感じで、 J この人とウチとはどういう 関係いうて聞かんと分からへんし、聞いても全部は覚え られへん。そやから、この子が生まれたときも次から次 へ来てくれはって、お祝いだけでも五

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軒くらいから貰 たかな。それはそれで嬉しいし有難いのやけど、カエシ も大変ゃから、最近はカエシはタオル一本にしようとい う呼びかけもあるみたいで。正直いうて、しんどいなぁ と思うこともありますけど、そのかわり、子どもが病気 したときも﹁何や何ゃ、どうしたんや﹂て、心配して来 てくれたりする。最初は、あそこまで派手に︵つきあい を︶やらなあかんのかて思たりしましたけど、 ζ の 頃 は だんだん慣れて苦にもならんようになってきた。二歳の 娘の方も、近所で遊んでたらアッチコッチがら声かけて

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もろて、私の方は、顔はなんとなく覚えてでもとっさに 分からへんままやのに、その度に娘は﹁あ、おばちゃ ん﹂いうて誰にでも走りよっていったり。そうゃねえ。 ここではそんな気軽な関係が当り前というか。 それから、もうひとつコッチへ来て、ぁ、違うなぁと 感じたのは食生活、食べるもんですね。まあ食べ物はど この家にも﹁その家の味﹂というもんがありますから、 おかずの作り方いうてもここの家だけのことなのか、部 落ゃから、と r いうことなんかは分からへんのやけど、サ イボシ、ア︵ブ︶ラカスはよお使いますねェ。それから 大根を炊くときにスジなんかも。どっちかというと油つ ?こいものが好きみたいで、常備品みたいな扱いにしてる。 ネタが切れたら、そういうもんを出しとくと誰もいやが りはらへん。お弁当にも、サイボシをご飯の上に乗せた り 、 ヘ ェ

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こんな使い方があるんかあ、という感じ。最 初は、食卓にスーパーでも見いひんもんが出てくると中 には食べ‘にくいもんもあったけど、でもニコゴリなんか は﹁あ、こんなんオイシ

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﹂とか。アラカスなんかもお 好み焼きやうどんに入れるとおいしいのが分かってきた から、最近は私の晴好も変わってきたみたいで。キンピ ラにイカを入れるのもこの家に来て初めて食べた。 小さいごろのムラの印象というのは 考えてみたら、私は生まれた大阪で、部落のことは奈 良へ来るまでは何も知らなかったんですよ。小学校の時 に郡山へ越してきで、それから中学の時まで道徳の時間 に教えてもろたんやけど、生まれがソコ︵部落︶ゃから 言うて、今の時代になって何が違うんか、あんまり理解 できひんかった。ただ、同じクラスの子が地域ごとに分 かれて隣保館で勉強か何かしてたでしょう。なんであの 子らだけ呼ばれるのかなあ、変ゃなぁと、ずっとそう思 てた。先生からも説明はなかったし。今になったら聞い たら教えてくれたかもしれんと思うけど、あの頃はなん か聞きづらかったような。部落の子の友達は︵私が︶知 らんだけで、いてたのかもしれんけど、ウワサとしては、 やっぱり﹁ちょっと違うトコや﹂みたいな。悪いコ、と いうか、非行に走るコも含めて、とにかく目だつ子ォが 多い地域というのかな。話をしたら別に普通のコなんや けど、ただ、ちょっと言葉が違うとこがあるでしょ。隣 同士の狭い地域やのに、部落のコだけが使う言葉があっ てそれが気になったり。ほら、どういう意味なんか﹁ケ ナルイ﹂て言いますね。何々﹁

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チャア﹂とか。方言な こベる 7

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んかなあ。それ以外では、同和の勉強というのはあんま り、先生も熱心ではなかったと思いますしィ、とにかく 印象に残らないまま大きくなりました。高校では同和の 時間はもうなかったので、部落のことはふだんは意識す ることもなかったですね。友達が部落のコやとしても、 そのことを意識したらそれ自体が差別や、と思てました から、あんまりそういう話はしなかったと思います o r 今ですか?今は、そうですねェ。ヨソに比べて部落 は施設なんかが優遇されてるでしょ。特別にきれいにし てもろてる、という感じはありますね。平等やったら、 みんな同じ方がエエのと違うかなパという気がします。 お風日なんかも、八

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円とか百円とか、エエッ何でそん なに安いの、と思いますけど、まあお風呂はどっちかい えばお年寄りが利用されてるし、そのお年寄りたちはこ れまで色々と苦労してきはってんから、ある程度は優遇 したげなあかんかな、とも思いますけど。でも、他のこ とでは、確かに仕事の面なんかで差別はまだあるとして も、いまの部落は優遇されすぎてるんと違うかな、と思 たり。これまでの歴史があるからと思たり、さあ、どっ ちがどっちなんやろ。私らの子どもが大きくなる頃には、 もう部落ゃからということで差別されることもないと思 てますけど、でも、もし自分が差別されるようなことが あったら、その時はどうやって言うていけるんかなあ、 その意味では覚倍もいるし、勉強しとかなあかんな、と 思ってるんですけど。︵解放同盟の︶新聞なんかももっ と読めばいいのやけど、実際にはなかなかヒマがなくて。 ぇ、お風呂ですか?いえ、お風目は子どもがまだ小さ いし、家に内風自がありますから行ったことはないんで すけど。それで思い出しましたけど、ここへ来てもうひ とつびっくりしたのはお風呂のサイレンですね。はじめ は何の音かと。それからコレ、有線放送のスピーカー、 いきなり壁のところから﹁今日はボイラーの故障でお風 呂はお休みします﹂と喋られたときは、何がどうなって るんや、と本当に驚きましたけど。

仕事・子ども

ええ、主人の仕事は靴の関係なんです。ヨソの会社が 不渡り出したりとか、景気の方はあんまりよくないとい う話は聞いていますけど、でも毎月、一定レベルの収入 も貰っているのでせっぱ詰まったという感じはありませ んし、いまの所は安心してます。そうですね。心配があ るとしたら、ウチの主人の代になったときに︵工場に︶

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勤める人がいて tくれるかなあ、ということですね。何し ろ 二 十 何 人 か の 従 業 員 の 平 均 年 齢 が 高 く て 、 若 く て 一 一 一 五 九 六かな。うちの主人が一番若い方で。それに、近

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ろ は どこの会社も土・日の休みはだんだん当り前になってい ますけど、ウチは夏場だけ週休二日で、あとは土曜日も 五時まで。朝ですか、朝は八時一五分から。先々、若い 人が来てくれるかなあ、という心配。それを別にしたら、 まあ休みの日はちょっとしたレジャーにも連れてってく れますしィ、夜は子どもを風呂へ入れてくれますし。あ とは子どもたちがまっすぐに育ってくれたら、いうこと な い 、 で す ね 。

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気になるムラの子と親とのかかわり方

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一 総 合 セ ン タ ー の 仕 事 の 今 後 の あ り 方 も 一 ﹁|

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−−山本薫さん︵上但馬支部・三五歳︶

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部落差別は知らなかった 昨日もここの人らと話していたんですけど、この総合 センターとか解放会館というのは、役場の人たちから見 たらあんまりイメージがよくないみたいなんですよね。 あそこ︵の職場︶へ行ったら左遷やと言われたり J 役 場 、 だけではなく、ムラの人らからもそんなふうに見られて る所もあって、ほんなら、そこで仕事をしてる私らはい っ た い 何 や ね ん 、 と い 、 つ よ う な 話 。 私はもともと保母になりたくて、しばらく乳児園に勤 めてたんですけど、臨時職員でしたから都合で退職して、 その時にある人のお世話でこちらを紹介されたんです。 その時は学童保育の仕事みたいな説明でしたから、部落 のこととかは詳しく知らなかったし、あまり考えてもい なかったんですけど、で、私が勤めてしばらくして︵こ の同じ職場へ︶今のつれあいが入ってきはって、ここで 知 り 合 っ た ん で す 。 もともと生まれたのは大阪の西淀川でしたから、公害 問題というのは知っていましたし、道端で寝てはるよう な人もいたので、そういうことについては色々と思うこ とはありましたけど、部落とか差別とかというのは、三 宅町に引っ越してくるまでは、そういう言葉もあんまり 聞いたことがなかった。 三宅小学校へ転校してきた時に、太陽子ども会とか補 充学級の活動があることを知ったんですけど、でも当時 は﹁地区の子だけ何してるんやろ﹂と思うぐらいで。何 こベる 9

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かあると上但馬の子が﹁それ差別や﹂て言うたり、﹁そ れ 仲 間 外 れ や ﹂ て 言 、 っ た り し た の は よ く 記 憶 に 残 っ て い るんやけど、でも、転校生の私に﹁おまえヨソモノや ろ﹂と言、ったのも上但馬の子らで。遊んでるときに﹁入 れて﹂いうたら、﹁おまえヨソモノやろ。ませて言わん と 入 れ た ら へ ん ﹂ と か 。 結婚するときは、親はとくに﹁反対﹂とは言わなかっ たんですけど、﹃親戚の人は反対するやろな﹂とか、﹁お 前は何かあっても言い返すことができるやろうけど、子 どもが同じ目に会うたら可哀そうゃな﹂とか、そういう 心配はしてました。事実、先に結婚していた弟の嫁さん が︵私らの結婚に︶ものすごく反対ゃったみたいで、結 婚式にもハガキ一枚の﹁欠席﹂の返事だけで、一時は弟 と別れるという話もあったみたいで。この時は、弟が苦 し む の は 本 当 に 悲 し か っ た 。 もちろん、最終的には父も賛成してくれて、﹁部落﹂ についての本も読んで勉強したということですから。

自分を問いながら

おかげで、私の方の親戚つきあいは寂しいんですけど、 それに比べると、つれあいの方は賑やかで、この間も、 お義父さんの家の引っ越しの時なんかは、近所に住んで は る 親 戚 の 人 が ワ あ ! と 手 伝 い に 来 て く れ は っ て 、 ﹁ あ あ 、 エエなあ﹂と思いました。お義父さんは、子どもの時に は狭い家に大家族で住んで貧乏ゃったということですけ ど、それをパネに頑張って、いまは

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社のプレハブの家 の材料なんかを運ぶトラックの運転手をしてはる。朝か ら晩までホンマによお働くひとで、それで今度もまた新 し い 家 を 建 て は っ た ん で す け ど 。 その引っ越しの時に、お義母さんが荷物をつめたダン ボール箱に﹁らいどころ﹂と書いていたり、﹁みるや﹂ と書いているのを見て、部落の人の中には字の書けない 人がいるということは話には聞いていたんやけど、そん な 形 で 実 際 に 目 の 前 に 出 く わ す の は 、 大 き な 、 ン ヨ ツ ク で した。はじめは、その荷物を見たとき、﹁何を書いてる んやろ、誰がこんな字かいたんやろ﹂と思ったんですが、 それがお義母さんの﹁字﹂やと分かったときはホンマに。 私の育った家庭では、字が書けるのは当り前だという 感覚ですから、その時は頭をガ

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ン と 撃 た れ た よ う な 。 お義母さんはまだそんな歳ではないのですが、これまで そういう字のかけない生活してきはったんやな、と思う と 。

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私がその後で悩んだのは、私はそういう人らを軽蔑し てないやろな、ということでした。部落差別というのは 頭で分かってるつもりでいるけれど、ずっと字が書けな いで暮らしてきた人の思いは分かってへんかったなあ、 と い う 自 分 。 ただ、そういうお義母さんもすごい頑張り屋で、団地 へ入れるまでは﹁点数稼ぎや﹂いうて、解放運動の集会 なんかもずっと参加してきはったそうで。最近は﹁もう いまは関係ないからエエねん﹂て言うてますけど。 でも、同じ部落差別の結果やとしても、生活保護をも らう生活に慣れてしもて、いったい仕事をする気がある んかどうか、という場合も、私にはまた別の意味で分か らへんまま ρ 上但馬の場合は﹁団地﹂が解放の拠点やと 言 わ れ て る の に : : : 。 子ども同士のちょっとしたトラブルで保護者の方との 話になった時にも、﹁こんな団地になんで戻ってきたん やろ﹂とか﹁早よ出て行きたいわ﹂て言うてはるのを聞 いたりすると、私としては、何て言うてええか。もとも と﹁団地﹂は何のために建てられたんやとか思ってしま います。こういう思い方もどうなんかなあとも悩みます。 子ども会の指導員の聞でも、団地の子はしんどい、み たいな見方があるんやけど、それもこれも親の生活のあ り方と関係してるんちゃ、つかなあ、と思うことがありま す。子どもが何か問題を起こすと、その子の親が﹁ボコ ボコに叩いたってん﹂とか、﹁パシパシにやったった﹂ という云い方で厳しくシツケてることを言わはったりし て 。 私 と し て は 、 そ れ は ち ょ っ と 違 、 つ ん と ち ゃ う か な あ 、 と思いながら、それを口に出していうと、﹁かまわんと いて﹂﹁お前に、そんなこと言われたない﹂みたいな返 し方をされたりしてそれに対してまだまだきちんと深め あう話ができない自分がいます。 児童館の中で問題が起きたりした時には、職員の私ら もつらいんやけど、問題おこした子どもの方がもっとつ らいのと違うかな、と思て子どもらの話を聞くことにし て い ま す 。 答えはなかなかでないけど 部落の人のものの感じ方については、たとえば、ウチ のつれあいなんかは、小さいときから子ども会などの解 放運動とかムラの活動に守られてきて、本人は差別され た と 感 じ た こ と が あ ま り な い 、 と 云 、 つ ん で す け ど 、 で も 、 横から私が見てたら﹁エッそれはあんたの立場をなくさ こぺる 11

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れてるんと違うん?﹂とか、﹁そんなん言われたらキズ つくなあ﹂と云われるような事柄でも、それを﹁おかし い﹂﹁差別や﹂というような対応しないですましてるこ と が あ っ て 。 私は最初はそれがか歯がゆい H ような思いをしたこと もあるんですけど、でもよく考えてみると、彼にすれば、 これまでに似たようなことが沢山ありすぎて、それにイ チイチ反応してたら身がもたへん。反応するとしんどく なるから、反応しゃんとこ、という生き方を選んできた /のかもしれへん。﹁言わしとけ﹂というふうにして、自 分を守つ、てきたのかもしれん、と思てみたり。 でも、人が見下したような態度をとったときには、 ﹁くやしい﹂と思わへんと向上もでけへんとちゃうかな と、過去にはイライラすることもありました。同じ相手 の言い方でも悪い方にとるか、エエ方にとるか難しいと こ で す け ど 。 ただどちらにしても、ウチのつれあいのいまの解放運、 動への関わり方は、このままではアカンのゃないか、と いう思いはあります。何か同じパターンの繰り返しで、 活動を楽しそうにやってるようには見えへん。できたら、 思いきって一回運動からもう根本的に距離をおいて、自 分の関わり方を考え直した方がエエと思うわ、と彼には 一 言 、 っ た こ と が あ る ん で す 。 解放運動の全体がいまはやっぱり元気がないでしょ。 狭山の集団登校の時なんかでも、おとなの参/加はごく限 られた人たちだけですし。団地の方は高齢者の人が参加 してくれはって、まだ少しは賑やかになるんですけど。 そういう地域の親たちとの関わりでいえば、たとえば、 この児童館の一年間の活動計画ができたときには、職員 が全員でムラのなかを回って、ひとり二

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軒くらい担当 するのかな、それで一・軒一軒﹁こんにちわ﹂て家庭訪問 するんですけど、玄関先で﹁あ、うちは関係ないから﹂ とか言われることも多くて、なかなかうまくいってない。 親たちとの関係も子どもたちとの関係も、どうしたら うまくいくか、本当に毎日毎日考えさせられて、職員同 士でも話し合ってはいるんですけど、まだ答えは見えて な い で す ね 。 ︵ 聞 き 手 ・ 構 成 吉 田 智 弥 ︶ ︵ ﹃ な ら 解 放 新 開 ﹄ 部 落 解 放 同 盟 奈 良 県 連 合 会 機 関 誌 、 七 年 一

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月 一

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日 、 一 一 月 二 五 日 、 一 九 九 八 年 一 一 一 月 一

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日 よ り 転載 V 一 九 九 ノ

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ひ ろ ば ⑬

高橋竹山

灘本昌久︵京都産業大学︶ つがるしやみせん 〆 津 軽 三 味 線 。 青 森 県 津 軽 地 方 に 伝 わ り 、 太 樟 の 一 一 一 味 娘 で演奏する、豪壮にして繊細な三味線音楽を総称してい う。長唄の細梓三味線が三本とも細い弦を使うのにたい ぱ ち して、津軽三味根は一の糸が非常に太く、その弦を援で 強ぐはじきながら、三の糸をすくうようにして繊細で装 飾的な音をからみつかせるところに特色がある。もとも とは、民謡の伴奏が主であったが、のちに独奏・合奏も 可能なまでに芸術的完成度を高めた。その第一人者が、 ち く ぎ ん 高 橋 竹 山 で あ る 。 私自身、早くから高橋竹山のファンであった。しかし、 竹山の生い立ちにはあまり関心がなく、また彼が盲目で あったニとも、黒人歌手スティ

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・ワンダーと同列 で、自が見えなかったが歌が好きで演奏家になったと考 え る 程 度 だ っ た 。 ところが、数年前にそのレコード︵現在は末尾標記

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︶での語りを聞き直して、はっとさせられた。竹山は、 決して好きで三味線を弾いていたわけではなく、目が見 えなかったので物乞いをするためにーやむなく弾いていた に過ぎないというのだ。音楽的完成度などあったもので はなく、お恵みの多いことが第一で、三味線を習って一 ヶ月めにはもう物乞いに出された。﹁習いたての三味線 は、や

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かましいもんで﹂、門口に立たれた家の人が、 他へ行ってほしさに、いくばくかのお金や米を出すとい う あ ん ぱ い で あ る 。 自伝﹃津軽三味線ひとり旅﹄によれば、竹山は一九一

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年︵明治四三︶生まれ。生まれて二歳になるまえに、 は し か 麻疹で目を悪くし、半失明になった︵ほほ全盲になるの は、四

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歳を過ぎたころである︶。小さいころは、たま に盗み食いなどしてその日を暮らしていたが、いつまで も無為徒食でいるわけにもいかず、一五歳の時に母に連 れられて隣村の坊様︵ボサマ︶、つまり盲の乞食芸人に 弟子入りする。母は、極貧の中から、謝礼として米一俵、 そ り 味噌一貫目、布団などを撞に載せてもたせてくれた。十 六、七歳の食べ盛りで、食べるものは粗末。師匠の体調 こベる 13

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不良で稽古が休みとなれば、遊びに外出するふりをして 物乞いに出る。修行中の弟子の身としては、師匠にはな いしょのことなので、三味線を持つては出られない。竹 か と づ け 山は、門付をするのに、自分の手をたたいて拍子をとる し か な か っ た 。 二年ほどして、師匠から独立したが、それからがまた 苦労の連続である。墓所のそばの空き地に、コウモリ傘 直し、太鼓の皮張り、心中の死体片づけ人、盲の三味線 弾きなど、いろいろな人が吹き溜まっていて、かろうじ てその中にまじって食いつないだ。乞食芸人の中には、 飴売りやセキジロ︵節季候︶、アホダラ経、ないないづ くし、デロレン祭などさまざまな種類がある。竹山も、 三味線だけでなく尺八やバイオリンまで見ょう見まねで 身につける。そして、飴売りやインチキ目薬などを売っ てなんとか生きながらえた。 それにしても、年頃の青年にとって、ホイト︵物乞 い︶は辛いものだった。まだ、少し目が見えていた竹山 にとっては、若い娘さんから銭を手に恵んでもらうほど 辛いことはなかったという。 こんな時代は、三味線の腕前などたいした問題ではな かった。ボロ、ボロの三味線に糸が三本ついておればよぐ、 / 弦が切れても結んで使っていたほどだった。歌も上手く 歌うことよりも、長時間あちらこちらで歌い続けられる ように、体力を消耗しない歌い方が大事だった。 そうしながらも、門付で修行を積むうちに、腕はだん だん上達し、日中戦争のころには慰問に満州へ渡ったと きもあった。同時に戦時体制への突入は、盲の芸人には 辛いことであった。門付をしていると、この非常時に呑 気に三味線など弾くな、といって殴られたり迫害を受け る の で あ る 。 終戦間近になって、竹山は決心した。芸人ではだめだ、 マッサージを習って飯を食おう。そして、盲学校の門を たたくのだが、三十五歳にもなっている竹山になかなか 入学許可がおりない。しかし、持ち前のねばりでなんと か許しをえて、県立八戸盲唖学校に入学し、五年かかっ てマッサージ・鍋灸の免許をとっ’て卒業した。しかし、 あまり商売にならないうちに、津軽民謡で名をなす成田 雲竹から声をかけられて、ふたたび伴奏者として芸の道 にもどった。竹山四十一歳のころである。 このころでさえ、竹山はまともな三味線をもつことは できず、ひいきの人が楽屋に来て﹁三味線見せろ、披み せろ﹂といわれると、恥ずかしきで体が震えるほどであ

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ったという。また、尺八も、割れたものを糸でしばって 一使い、先がもげてしまったら、木で継ぎ足したというし ろ も の で あ っ た 。 竹山が津軽三味線独奏のレコードを出したのが、一九 六四年で五十五歳のことであった。この年、勤労者の音 楽鑑賞組織である﹁労音﹂に招かれ、以後毎年、演奏会 を各地で行うようになる。また、海外公演も多数こなし、 一九八三年には勲四等瑞宝章を受け、一九九八年、惜し まれながらその八七歳の生涯を閉じた。 本稿で紹介した

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は、一九七三年に東京・渋谷の前 衛的文化活動の劇場であるジアン・ジアンで、都会の若 者を相手に聞いた演奏会の録音である。一

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年の歴 史を背負った最後の乞食芸人たる高橋竹山が、日本の土 俗的なものとはまったくかけ離れた都会の若者に自分の 人生を織りまぜながら、津軽三味線の珠玉の演奏をぶつ けている様は、まったく圧巻である。そして、竹山の軽 妙な話術が、彼の筆舌に尽くしがたい境涯を語つてなお 聴衆を爆笑の渦に巻き込み、しかもジンと心に渉みてい くのが、また芸の極致という他ない。 上記の自伝は、竹山の全国公演を長年に渡って企画し、 支え続けてきた佐藤貞樹氏が竹山から折に触れて聞いた 昔語りをまとめたものであるが、いきなり竹山の語りを 文字で読んでも、なかなか他の地方の人聞には理解しに くい点がある。私としては、いちど

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﹁ 津 軽 三 味 線 ﹂ で竹山の肉声の語り口を知ってから、この自伝を読まれ ることをすすめる。また、この他に、竹山を描いた映画 に新路兼人監督・林隆三主演﹁竹山ひとり旅﹂がパイオ ニ ア か ら

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および

VHS

ででていたが、残念ながら現 在は廃盤になっている。しかし、竹山の名演集﹁

NHK

ビデオ高橋竹山全三巻﹂がキングから発売されてい て、生前の演奏や苦難の日々の語りを聞くことができる。 参考 高 橋 竹 山 ﹃ 津 軽 三 味 線 ひ と り 旅 ﹄ ︵ 中 公 文 庫 、 同 ﹁ 津 軽 三 味 線 ﹂ CD 版 ︵ ソ ニ l レ コ ー ド 、 商 品 番 号

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ω 色 同 ︶ 0 一 九 九 一 年 ︶ 。 一 九 八 九 年 、 ﹁ NHK ビデオ 高橋竹山全三巻﹂︵キング、商品番号 回 ︿ 冨 N N ω ・ NN 仏 咽 NN 印 ︶ 。 こベる 15

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ヒロの楽書き帳 私にはなんとなく結論めいた考えがあります。それ は、人づきあいは私にとって自己変容のきっかけにな っているということです。第一印象はいやな人だと思 3 ても、接しているうちにそうでもなくなるという経 験はだれにでもあるはずです。他方、好き嫌い、性が 合う合わないだけでは人間関係は成り立っていかない ので、がまんすることも必要だとわかっていても、や っぱり腹が立ってしまうこともあります。 第一印象のたよりなさ、好き嫌いのからみついた複 雑な感情の動きについて、簡単に相性が合わないとか、 気が合わないとかではすませられないだろうと、ずっ と考えていました。そこで気づいたことがあるんです。 それは、きっといやな人がいるのではなく、その人の、 ,そして私自身の状態が悪かったりしていることと関係 があるんじゃないのかということでした。こう考えれ ば、人を固定的に見たり、断定的に峻別しないように なれるし、そのぶん心にゆとりが生まれるだけでなく、 自分を省みることもできるんだ、と思うようになりま ある人を、自分と違うからいやだとなんて感じると き、思い起こすようにしているエピソードがあります。 高校一年のクラスに、やたら大声ではしゃぐ子がいま した。消しゴムを落としたくらいで、いちいち﹁きゃ あ、落と

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ちゃったあ!﹂とか。うるさいので、なん だこいつと反感をもっていました。ところが、その子 が私と同じ誕生日だとわかったとたんに、ただそれだ けで気分が変わり、いやなところは自分にもあるかも しれないと反省したことがあります。 人づきあいの中で、いままでとは違った認識が生ま れ、それに気づくことで相手との関係も変わり、自分 も豊かになっていくのではないでしょうか。そんな人 づきあいができたらすばらしいし、また大切なんだな あと思っているんです。 し た 。 ︵ 多 田 ヒ ロ ミ ︶

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白 E 4 h k 円 ﹃ H U 悶 剛 h v − 守 引 圭 一 口 マ﹃こペる﹄が八年目に入ります。 この一年、なんとか第三種郵便物認 可限度部数が維持できました。みな さんには心からお札を申します。 どこかに書いたことがありますが、 復刊当初、わたしに﹁中小企業の社 長みたいなことをしなさんな﹂と忠 告してくれた友人がいます。中小企 業の社長とは、何から何まで一人で 切り盛りするワンマンという意味で しょうが、友人の評はあたっていま せん。﹁一人でできることは高がし れているが、一人だからこそできる ことがある﹂と考えるわたしは、そ のかぎりでのみ﹃こぺる﹂にかかわ ってきたつもりです。そしてそれぞ れの方にはそれぞれの﹁かかわり 方﹂があり、それらの﹁かかわり﹂ が呼応して、ここまでこれたわけで す。集団や組織ではないで﹂ぺる﹄ が持続してきた秘密はここにある。 ただ、読者層のはばが広く、問題 関心も多岐にわたっていて、﹃こぺ る﹂の内容が十分ご要望に応えきれ ていないことは率直に認めます。そ こで、合評会もふくめて﹃こぺる﹄ の今後について検討したいと考えて おります。みなさんからのご意見・ ご 提 案 を お 待 ち し て い ま す 。 マ第町田﹃こぺる﹂合評会︵

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︶は、次回哲治さんに﹁転換期の 同和教育|ほんとうに転換すべきは 何なのか﹂と題して話題を提供して いただきました。次回さんのお話を 聞いていて、同和教育の転換とは、 何かから何かへの転換というよりも、 今日ただいまの同和教育の実情を問 うことのほうが先決だとの印象をも ちました。それには現状への批判的 視点が不可欠です。しかし組織・集 団の一体感を優先させる発想、雰囲 気が強いところでは、批判的視点を 口に出すには勇気がいります。次回 さんを決断させたものは何か、もう 少しくわしく聞きたくなりました。 マ前号︵八四号︶の三橋論文一一頁 付記一行自の﹁破壊﹂は﹃破戒﹄の 誤りです。おわびして訂正します。 マ今号の﹁インタビュー﹂は、注記 にありますように﹃なら解放新聞﹄ からの転載です。転載を承諾してく ださった﹃なら解放新聞﹂編集部、 ならびにインタビューを受けられた 方々、そして吉田智弥さんに感謝し ま す 。 ︵ 藤 田 敬 一 ︶ ※お知らせ 4 月 の ﹃ こ ぺ る ﹄ 合 評 会 は お 休 み し ま す 。 編集・発行者 こべる刊行会(編集責任藤田敬一) 発行所京都市上京区衣捌通上御霊前下lレ上木ノ下町73-9 阿昨社 Tel. 075 414 8951 Fax 075 414 8952 定価300円(税込)・年間4000円郵便振替 010107 6141 第85号 2000年4月25日発行

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﹁ 部 落 ﹂ が 制 度 の 産 物 で あ り 、 ﹁ 部 落 民 ﹂は観念としてしか存在しな いことを跡づけつつ、どうしょうもなく抱え込 ん でしまう屈折を聞 いていこうとする脅力の ︿ 幻想論﹀。差別をもっと広い視野から考 え抜き、新しい地平を拓こうとする試みの第 一 章 。 ︵ 価五

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円 ︶ 福岡水平塾双書① 福岡水平塾双 書②

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他 に も 、 毎 月 の 水 平 塾 の まとめと紹介をかねた案内状や 、 小 パ ン フ ﹁ 水 平 墾 ノ

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ト ﹂ ︵ 共 に 無 料 ︶ も あ り ま す 。 御希望の方はお 申 し 込 み 下 さ い 。 ︵ 価 格 は 全 て 送 料 別 で す ︶

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八 五 回 守 二 000 年四月 二 十 五 日 発 行 ︵ 毎月 一 回 二 十 五 日 発 行 ︶ 一 九 九 三 年 五 月 二 十 七 日 第 三 種郵 便 物 認 可 定 価 三 百 円 ︵ 本 体 二 八 六 円 ︶ 忠

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