日(毎月1回25日発行)ISSN佃194剖3
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2008
NO. 186
部落のいまを考える⑩ 「人権のプロ」の虚像と実像 福岡ともみ 差別・被差別ー混沌の泉② 一枚の記念写真山口公博
ある光景⑫ 差異へのまなざし 重信陽子 いのちを生きる⑬ めぐりあえた二本の映画 長谷川洋子 光る風を見た一写真と文 小 林 茂 乙べる刊行会写 買 と 文 小 林 茂 スモン被害者 l次雪いたって出ていく 設を足腰の支えにして、トウモロコシを収穫した瞬間、思わず笑顔がこぼれた。 「時間ていうのはいいもんだ、どんな思いもいつかうすらいで、 鼻歌うたってすぎていく。
J
(丈・羽賀しげ子) スモンの被官は写真に写りにくかった。杖や車イスの写真を撮るようになる。それがし かし私の壁だ、った。三万六千カットの撮影は私を鍛えた。障がいはその人の一部であるが 全部ではない。「その人らLさjが凝縮した瞬間をとらえるように私は変わっていった。の ちのちの自分の視線を決めたと思う。 (1984年蝿影)部落のいまを考え る⑩
﹁
人
権
の
プ
ロ
﹂
の虚像と実像
福岡ともみ︵
NPO なら情報センター/ウイメンズカウンセリング京都・兵庫県加古川市在住︶発端と経緯
﹁部落解放同盟幹部らによるセクハラ事件発生から 3 年半やっと糾弾会がもたれる﹂という見出しの記事 が﹁ふえみん婦人民主クラブ﹂機関紙﹁ふえみん﹂︵二00
八年四月一五日付︶に掲載された。続いて﹁週刊金 曜 日 ﹂ ︵O
八年六月六日付︶には﹁解放同盟でセクハラ 事件幹部に処分なし﹂と題した記事も載った。いずれ も部落解放同盟大阪府連の専従執行委員であり日之出支 部支部長︵当時︶が加害者であるセクハラ事件を扱った 記 事 で あ る 。 一 一 つ の 記 事 に よ れ ば セ ク ハ ラ 事 件 の 概 略 は こ う だ 職 はO
四 年 当 時 の も の ︶ 。f
支 日之出支部支部長が大阪府連専従となることを祝う宴 席 が 二OO
四 年 一O
月 一 一 日 に 聞 か れ た 。 そ の 席 で 、 前 支 部長が人権協会職員であったA
さんに対し、いきなり名 指しして﹁A
さんのヌl
ド写真を撮って売り出そう﹂と 言 い 出 し た 。A
さんが反論するも、暴言はエスカレート し、支部長までもが﹁その年やったらもう売り物になら ん な ﹂ ﹁ 三O
の 女 の ヌl
ドなんて売れんやろ。せいぜい 二回、五歳までや﹂などと前支部長の発言を制止するど ころか加担したのである。宴席上では、A
さんともうひ とりを除いて誰も抗議するものはいなかったという。 A さんは悩みぬいた末、信頼できる支部メンバーに相 談しながら加害者二人に謝罪を要求することにした。前 支部長は謝罪し責任を取って支部の役職を辞任したが、 もうひとりの支部長であり大阪府連専従執行委員である 1 こぺる加害者は、謝罪はしたものの、支部長辞任を拒否。やっ と二年後に辞職はしたが︵
O
六 年 一O
月 ︶ 、 半 年 も た た ないうちに再度次期支部長候補に名乗りを上げた。こと もあろうにA
さんの雇用主である人権協会が加害者を推 薦 し た の で あ る 。 ﹁ ﹃ ダ ブ ル ﹄ と し て 被 差 別 体 験 に 苦 し ん だA
さんはこん な人物が人権運動のリーダーであることが悔しく、心底 許せなかった﹂という︵前掲﹁週刊金曜日﹂記事︶。﹁ダ ブル﹂とは﹁国際結婚﹂などで生まれた子どもたちを表 す言葉として九0
年代から登場したものだ。 心ある支部員とつながってなんとか持ちこたえてきたA
さんだったが、あまりのひどさに希望を失い、大阪市 人権協会セクハラ防止対策委員会に申し入れ書を提出し、O
七年秋、人権協会を退職したのである。申し入れを、つ けた大阪市人権協会セクハラ防止対策委員会は同年一O
月、﹁申し立てに対する見解と提言﹂を出した。この文 書には人権協会と大阪府連に対して、加害者を厳罰に処 することが提案されているにもかかわらず、大阪府連は なんの返答もせず処分も出さなかった。 この時点で部落解放同盟大阪府連の自己解決能力に愛 想をつかしたA
さんは友人知人によびかけ支援グループ を 発 足 さ せ 、 今 年 三 月 一 一 一 一 一 日 に ﹁ 部 落 解 放 同 盟 日 之 出 支 部のセクシユアルハラスメントを糾す会﹂の開催にまで こぎつけた。﹁糾す会﹂の場においても、セクハラ被害 を理解しない発言が相次いだが、支援者の追及により加 害者は大阪府連専従執行委員の辞任を表明した。大阪府 連 はA
さんへの謝罪はしたものの、加害者への処分につ いては言明しなかった。なお﹁週刊金曜日﹂の記事には ﹁加害者の辞表を受理したことで責任は果たした﹂とす る赤井隆史大阪府連書記長の見解が紹介されている。A
さんを性的対象とみなし、﹁商品﹂として扱い、侮 辱を繰り返した加害者に怒りを覚える。﹁ダブル﹂をカ ね ら ムアウトして生きてきたA
さんに狙いを定め攻撃したと しか思えない。祝賀会の趣旨が﹁大阪府連専従執行委員 に決まったこと﹂であると知って、正直あきれてしまっ た 。 それにしても大阪府連は﹁辞表受理﹂だけですませて 事足りるのか。これが人権侵害への対応といえるのか。 ﹁職場におけるセクシユアルハラスメント﹂への対応と 呼 べ る の か 。職場におけるセクハラ セクシユアルハラスメントとは七
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年 代 の ア メ リ カ で 、 女性労働者の﹁働きづらさ﹂に名前が付けられて生まれ た言葉である。性的な言動を執揃に繰り返し、他者を攻 撃・支配するあらゆる行為をさす。労働現場という限定 された場面で生まれた造語だが、私は個人的には、性暴 力も含む性差別言動を示す包括的な概念といえるのでは な い か と 思 っ て い る 。 日本では﹁職場におけるセクシユアルハラスメント﹂ について九七年、男女雇用機会均等法︵以下、均等法と 略す︶に﹁事業主のセクシユアルハラスメント防止の配 慮義務﹂がはじめて盛り込まれた。O
七年四月、同法が 改正され、﹁事業主のセクシユアルハラスメント防止﹂ は、業種や規模を問わず全ての事業主に義務づけられた。 雇用管理上の措置義務以外に改正された点は、﹁①男女 労働者が対象②紛争解決の援助として調停等の対象に追 加︵事業主、労働者双方からの申請が可能︶③是正指導 にも応じない場合は企業名公表の対象に追加④報告聴取 に応じない又は虚偽の報告をした場合は加万以下の過 料 ﹂ ︵ 厚 生 労 働 省 の ホ l ム ベ l ジより︶となっている。一 蛇足だが、日本において性暴力全般を取り締まる法体一 2 ・ 一 か ん 一 系は整備されていない。刑法における強姦罪や強制わい せつ罪、人身売買罪、スト l カ l 規 制 法 、D
V
防止法、一 児童虐待防止法、児童ポルノ禁止法、売春防止法などは一 あるものの、性暴力を禁止する法体系は整備されていな一 すき い。﹁あなたに隙があったから被害にあった﹂というよ一 うな﹁強かん神話﹂はまだ横行している。また性暴力被一 害者の対処行動が理解されない。性暴力に寛容な法体系一 は、加害者に寛容で被害者に冷酷な社会を象徴している。一 紹介した日之出支部のセクハラ事件は、﹁職場におけ一 るセクシユアルハラスメント﹂である。均等法の﹁職一 場﹂の定義は﹁勤務時間外の宴会等であっても実質上職一 務の延長と考えられるものは﹁職場﹂に該当する﹂とさ m れている。また性的な言動のうち、﹁性的な内容の発一 言﹂には﹁性的な冗談ゃからかい﹂も含まれる。﹁事業一 主、上司、同僚に限らず、取引先、顧客、患者及び学校一 における生徒等もセクシュアルハラスメントの行為者に一 な り う る ﹂ と 明 記 さ れ て い る 。 一 大阪市人権協会は大阪府連傘下の市内各支部と連携し一 て業務を行なっている。人権協会の職員であるA
さ ん は 、 一 こベる 3職務の延長である﹁祝賀会﹂において、日之出支部と大 阪府連の指導的立場にある男性から性的な冗談ゃからか いを執捕に繰り返された。﹁職場におけるセクシユアル ハラスメント防止﹂を怠った人権協会、日之出支部、大 阪 府 連 の 責 任 は 免 れ な い 。 ﹁人間の尊厳﹂を守るということ ﹁職場におけるセクシユアルハラスメント﹂とは、働 く女性たちが人間としての、労働者としての尊厳を守る ために闘い取ってきた概念である。名付けることによっ て、﹁悪いのは性的言動を繰り返す同僚であり上司であ お と し り取引先﹂、﹁女性が女というだけで庇められ職場を奪 われてなるものか﹂と反転攻勢に打って出ることができ たのだ。部落第了王義へのこだわりが外せないならば、 文中の﹁女性﹂を﹁部落民﹂として読み替えてみればク リ ア に な る か も し れ な い 。 佐々木寛治さんのホ
l
ム ベl
ジ記事﹁部落解放同盟第 臼回全国大会参加記i
﹁ 懸 案 ﹂ を 乗 り 越 え る 議 論 は あ っ たのか?﹂には、﹁分散会の冒頭で府連幹部より報道は 事実であること、当事者への対応を真塾に行ってきたこ と、二次被害を防ぐ︵被害者が特定されないよう︶ため一 に努力していること、再発防止のとりくみを組織をあげ一 て行うことなどが報告された﹂と書かれている︵なお一 ﹁日之出支部セクハラ事件﹂はO
五 年 二 月 一 一 七 日 付 の 朝 一 日新聞に﹁大阪の解放同盟幹部らがセクハラ﹂という見一 出しで掲載された︶。大阪府連幹部はこんな嘘をよくも一 平然といえたものだ o 被害者が特定されないようにする一 ことが二次被害を防ぐ核心ではない。被害当事者の立ち一 位置で解決しようとしない姿勢が二次加害なのだ。人権一 協会も支部も大阪府連も、被害当事者の思いを丁寧に開− き 取 り 、A
さんの立ち位置で情景をみながら、彼女の希一 望 に 添 う 解 決 へ の 方 策 を 探 っ て い な い 。 一 ﹁職場におけるセクシユアルハラスメント﹂であり、一 人権侵害であるセクハラ発言について事実確認せず放置− したこと。加害者の謝罪を求めず、組織としての見解も一 対応も明らかにしなかったこと。虚偽の報告を部落解放− 同盟の最高意思決定機関である全国大会で行なったこと。一 三年以上にわたりA
さんに二次加害を与え続け、退職へ一 と追いつめたこと。これらの責任の所在は三つの組織す一 べてにあるのではないか。なぜ、﹁処分しない﹂という一 発 想 に な る の か 、 理 解 で き な い 。 一ち ゅ う ち ょ 処分への蒔踏の背景に政治的抗争があるとするなら、 人権侵害の政治的利用も政治的保身も許されないことを 銘記すべきだ。人間の尊厳を守ることは何にもまして優 先されるというスタンスを崩すべきではない。 ﹁ 保 身 ﹂ と ﹁ 防 衛 ﹂ アメリカの黒人コミュニティに﹁汚れたシ
l
ツ を 人 前 で洗うな﹂という﹁暗黙の了解﹂があるという。ア一一 タ・ヒル﹃権力に挑むセクハラ被害と語る勇気﹄︵伊 藤佳代子訳、信山社︶で見つけた言葉だが、﹁汚れた シl
ツ﹂とは強かんされた証拠を意味する。﹁洗う﹂と は、抗議であり対決の表明だ。これは被差別部落という コミュニティにもあてはまるのではないか。 ﹁セクシユアルハラスメントが部落外に明らかになる お そ と部落差別が強化されかねない﹂という憧れが、性差別 を覆い隠そうとする。これは何を意味しているか。 自明のことだが、被差別部落のコミュニティが男性優 位の社会であるということである。部落差別の定義には 性差別は織り込まれてこなかった。 もうひとつ、﹁組織防衛﹂という力動が働きはじめる からだ。部落解放同盟は国家権力やさまざまな政党から の攻撃や、個人からの非難・批判にさらされてきた組織 である。政治的緊張感が常につきまとっているといって も過言ではない。しかし﹁セクシユアルハラスメントが 発覚すると組織にダメージを与える﹂という考えは間違 っている。このとらえ方には被害当事者が存在していな いからだ。人権侵害という視点を欠落させる﹁ダメー ジ﹂論は﹁敵を利する﹂論を誘導する。これがセクシユ アルハラスメントの﹁解決﹂を密室化させ、被害当事者 に 沈 黙 を 強 い る 。 そして運動団体の女性がすべて被害当事者の味方にな るとは限らない。少なくない女性が被害者非難をはじめ る。私の友人が出張先で性暴力被害にあい、運動団体内 ひ苦う で問題にしたとき、誹詩中傷が飛び交った。ある部落解 放運動に長く取り組んできた女性活動家は﹁最後まで拒 否しなかったのだから仕方ない。若くはなく子どもも産 んでいるのだから我慢せよ﹂と非難した。﹁抵抗したか どうか、証拠があるかないか﹂と質し、﹁加害者も悪い が被害者にも落ち度がある﹂として裁定した。セクシユ アルハラスメント被害に遭うことが﹁被害者の落ち度﹂ ﹁被害者の恥辱﹂として読み解かれ、加害者の計画的な こべる 5人権侵害行為は見過ごされていく。女性たちもまた﹁強 かん神話﹂に惑わされて対決できないでいる。﹁私には 起きてほしくない﹂とか﹁私はあなたと違い被害者には ならない﹂という溝を作って、被害者と距離を置こうと するのだろう︵拙稿﹁部落差別/複合差別とフェミニス トカウンセリング﹂、﹃フェミニストカウンセリング研 究﹄第 6 号、侃年 3 月 、 新 水 社 発 売 を 参 照 ︶ 。 男性優位社会が女性たちの心性にもたらすものはなに か。被差別部落出身女性たちは、差別社会の中で味わう 非力感をヒーローの出現に期待し、それに委ねたり、男 性的な孤独な自立によって代償しようとしてはいないか。 自らの体験を﹁彼らの物語︵
E
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︶ ﹂ と し て 語 つ て は いないか。ドメスティック・バイオレンスも性暴力も、 性差別が織り込まれていない部落差別というスコープで 覗きこんでいないか。セクシユアルハラスメントを糾す 取り組みによって、女性もまた自らの葛藤をみつめ、自 らと向き合わなければならない。 被害者の立ち位置から ﹁心的外傷体験の核心は孤立と無援である。回復体験 の 核 心 は 有 力 化 と 再 結 合 で あ る ﹂ 一 ハ1
マン︶との指摘がある。私はセクシユアルハラスメ一 ント事象が報告されたら、まず被害当事者を孤立させな一 い 体 制 を つ く る 必 要 が あ る と 思 っ て い る 。 一 人権侵害の視点を持つことは、被害当事者の立ち位置一 で情景をとらえることから始まる。当事者の目線で感情一 を想像し、景色をみていくことによって、憤り、哀しさ、一 悔しさが伝わってくる。解決への道はそこから出発する。一 そして被害当事者の希望を確かめ合いながら、解決への一 プ ロ セ ス を 踏 ん で い か な け れ ば な ら な い 。 − 大阪府連は部落解放基本法などの制定を要求している。一 しかし均等法は遵守しない。いとも簡単に手放す。この一 ぎ ま ん 一 アンバランスに欺臓を感じるのは、私だけだろうか。人− 権侵害への対応も、﹁職場におけるセクシユアルハラス− メント﹂への対応もひどいものだ。なのに﹁人権のプ一 ロ﹂﹁人権運動のリーダー﹂と自称L
続けている。﹁虚一 像﹂でごまかせると判断しているのだろうか。実像は組一 織内外の誰の日にも明らかではないのか。地に墜ちた信一 い ば ら 頼の回復はかつてない﹁茨の道﹂と覚悟すべきである。一 ︵ ジ ユ デ ィ ス ・L
差別・被差別| 混沌の泉昏
一枚の記念写真
山口公博︵兵庫県尼崎市在住︶ 古い写真がアルバムに残っている。 よ だ れ 晴着を着て誕かけをつけ、まだ歯の生えていない口 い す を聞いて、満面の笑みを浮かべた赤ん坊が椅子に腰掛け e u 丸 J て写っている。まるまると太り、正月の鏡餅に日と鼻を つけたようで、堂々とした赤子振りだ。 幼い頃から﹁この羽二重餅みたいなのはお前だ﹂と教 えられていたので自分自身と判るが、教えられていなか ったら誰の写真か判らない一枚だ。七月生まれの私が綿 いれを着ているのだから、年末もしくは正月前後のプロ の手になる記念写真だろうかと推測するし、その推測を 補うように﹁こんな写真はおまえだけ﹂と姉に言われ、 や ゆ ﹁そうや、そうや﹂と妹弟に、長男の特権として榔撤さ れてきた。場所は自宅の玄関の前、椅子は応接間の椅子、 しようい と 見 覚 え が あ る 。B
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の焼夷弾による空襲をまぬがれ た家に、戦後生まれの私も十八歳まで暮らした。 ところがこの写真の撮影後、私は発病し、入院するこ と と な る 。 ﹁ い つ も ピ l ピ l 泣いとって、お母ちゃんに世話ばっ かりかけとった﹂と七歳年上の姉。﹁姉ちゃんは、あん たにかかりっきりやった﹂と母より十五歳年下の叔母。 父や母に聞いたことはなく、叔母からよく話して聞かさ q レ’$﹂ 0 4 4 2 7 / 近所に﹁自転車の先生﹂と親しまれていた大阪大学医 学部出身の先生がいて、往診をしてもらっていたが治ら ず、入院することとなった。 ﹁えぴみたいに背中を丸められて、お前の背骨に畳針 みたいな太い針を刺したら、注射器に真っ白な水がたま ったんや。本当は透明な水ゃないとあかんのに。白色が ばい菌ゃったんやな。恐い病気ゃったんやで﹂と叔母。 ﹁水が透明になって﹂退院することができた。 後年、代議士になっていた﹁自転車の先生﹂と尼崎市 内の労働組合の新年旗聞きで一緒になったさい、﹁両親 から、命の思人やでと、ずっと聞かされてきました﹂と こベる 7話すと、﹁ちょうどいい薬が入ってきたんです﹂とのこ とで、先生の記憶では過去の患者のひとりの域をでない ものであることを知った。選挙の時は、﹁自転車の先生 にいれてきた﹂が両親の口癖だった。新しい薬の代金、 入院費用など治療に要したお金はいくばくの額だったろ λ ノ O 医 学 だ け で な く 、 叔 母 が 一 言 、 つ に は 、 母 は 占 い な ど に も 頼ったようだ。病気による高熱が原因で﹁頭がパーにな ってしまう﹂と聞いた母は祈躍師を訪ねた。﹁さかべの おばあさん﹂とよばれていた人のようだが、﹁この子は 賢すぎるんや、これで普通になる﹂と言われたようだ。 それでも母は安心できず﹁滝行﹂にも通ったと、やはり 叔母から聞いた。﹁雪が降ってて滝つぼが凍ってたんや で。お前は小さいし病院ゃから、身代わりの肌着を抱い て滝に打たれたんや。その肌着をまた病院へ持っていく ん や 。 ﹂ 小柄な母が肌着を抱えて一人滝に向かい、打たれ、帰 ってくるその道中に思いをはせるが、自分に全く記憶が ないのが不思議だ。母とともに﹁滝行﹂をくぐった肌着 を 着 て 私 は 大 き く な っ た 。 度だけ、というのが近所では当たり前という時代だった。一 ﹁医者にかかりすぎ﹂という言い方は、﹁甘やかせすぎ﹂一 に通じる響きを含んでいた。﹁お金を使いすぎ﹂とも受一 け取れた。要は、﹁かまいすぎ﹂ということだ。一 一、二年もして私は金太郎の腹巻ひとつで、ぞうり作一 わ ら 一 りの内職をしている母のまわりを、藁まみれになりなが− ら遊んでいた。女が夏でも炭火鉢をはさんで向き合い、一 並んで、黙々とぞうりを編んでいた。五人、六人、十人一 はいたろうか、母の実家の納屋だ。黙々と、と書いたが、一 手は黙々と動いているが、口のほうはそうはいかない。一 昨日のできごとであったり、明日の天候予想であったり、一 き ょ う 一 言葉が、情報が飛び交っている。笑い声も混じった嬬声一 の満ち満ちた中、女たちの手は藁ぞうりを作りあげてい一 く。炭火で余分な端わらを焼いてできあがりだ。葉の束一 がころがっており、編み上げたぞうりの束が丸くつみあ一 げられている内職場、そこが私の保育所だった。一 三十数年後、其の時の母の内職仲間の人から、﹁ちん一 だけ医者にかかったという。医者にかかるのは一生に一 声を母は気にかけていた。母の父は亡くなる前日に一度 ﹁あんたとこは医者にかかりすぎや﹂というまわりの
ちん放りだして元気に走っとったなあ﹂と言われたが、 そうかなあと思うだけである。金太郎の腹巻ひとつで下 着をつけない格好は大小便時に便利だったりだ。 幼稚園の入園には時間を要した。入国申し込みが定員 を上まわり、くじ引きで入園者が決まった。確か一回目 は父が引き、当たらず欠員待ちとなった。二回目は母が 引いたがはずれた。三回目は私自身が引いたもののはず れて、とうとう夏休みになった。夏休み中に欠員があっ h 、 、 , フ U て、宮司の次男と一緒に二学期から晴れて幼稚園児とな っ た 。 幼稚園は小学校と運動場が共用で休み時間の運動場は 子どもだらけ、小学生に運動場は占有されて、幼稚園児 は隅っこに追いやられた。運よくブランコに乗っていて も学校側が休み時間になると、当然のごとく小学生がや っ て 来 て 、 ブ ラ ン コ を 降 ろ さ れ た 。 コ一月に学芸会があって、私は主役の﹁一休さん﹂を演 じた。﹁一休さん、一休さん、この橋渡ってはいけませ ん。いえいえ端は渡りません、真ん中通ってきましたよ。 な l るほど、な l るほど。﹂などという唄に合わせて踊 った。小坊主衣装は自前、母の和裁の腕前が効いた。 小学校の同級生は五十数名で七クラス。教室は講堂を一 ベニヤ板で区切っただけだった。帰り道、母の内職場に一 寄りランドセルをおろしていたように思う。母、時には一 祖母から五円、十円の小使いをもらうのが楽しみだった。一 大きなトランクに材料一式を入れて﹁だんご細工﹂を− 行商しているおじいさんがいた。声をかけるとその場が一 店になる。折りたたみ椅子が出され、トランクが聞けら一 れると材料がぎっしりと詰まっている。五円で、にわと一 り、いぬ、かえるを作ってくれる。なにより甘いのがお一 いしい。十円だと、みかんを作ってもらえる。みかんに一 は ち み つ は、黄色い皮と白い袋の聞に蜂蜜がふりかけであって、一 噛むと口の中いっぱいに蜂蜜の甘さがひろがり、飲み込一 む の が 惜 し い く ら い お い し か っ た 。 一 私の在所でも﹁特別措置法﹂以後、部落解放同盟の支一 部が結成され、私も結成大会に参加し執行委員になった o 一 最初は保育を担当し、地域の中を訪問し﹁保育の需要﹂一 を聞いて回った。自宅で内職をしながら子育てをしてい一 る若いお母さんからは﹁ほんまにこの子、うちの子を保− 育所に入れてくれるんかいな﹂という疑いの眼差しをう一 けながらだった。しばらくして、﹁識字﹂を担当した。− こベる 9
ひ じ か た 土方さんの影響だと思っている。近隣の学校の先生と高 校・大学卒業の支部員を講師陣にしたマンツーマン式の 識字学級を始めた。 一年も経ったころだったろうか、母が識字学級に行き たいと言い出した。母が読み書きが出来ないとは思いも よらなかった。﹁私が行ったら、お前に迷惑か﹂と母は 聞いた。少しばかり振り返って考えれば、母が読み書き に苦労していることは不思議でもなんでもないことだと 思い至った。母の実家は小作農家であり、八人姉弟の長 女なのだ。妹を背負って学校に行っていたが背中で泣く ので、教室におれず運動場に立つうち行かなくなってし まったと、ぽつりと話した。私も通った同じ小学校であ る。姉の子供のおさがりの筆箱と鉛筆を持って、母は識 字学級に通った。時々やってくる孫との会話も、漢字を 話題にもりあがり、国語辞典も姉から買ってもらってい た 。 今も、太ももに左右とも少しへこんだ部分があり、そ あ と このところだけ脱毛していて真ん中に注射の痕がある。 ニ ん せ き 病気や入院に伴う痛みは記憶の中にもないが、その痕跡 の み が あ る 。 父と母から、私は病気・入院の経緯を聞いたことがな い。母は何故、黙ったままこの世を去っていったのか、 聞いてみたい気がするのだが。 ﹁占い﹂は誰のもとへ行ったのだろう? ﹁滝行﹂の場所はどこなのだろう? 気になってしかたがない。
ある光景⑫
差異へのまなざし
重信陽子︵大阪府熊取町在住︶ わ い ざ っ 私は大阪市内の狼雑な町で生まれ育った。天神橋筋六 てんろく 丁目、通称﹁天六﹂とよばれる大阪周縁の繁華街、そこ に隣接する町。人々は家族ぐるみで銅線やボルトなどを こ う ば な り わ い 作っていた。工場と住居、生業と暮しの区別はない。天 六周辺には、夕方になるとマッチ箱を持ったちょっと怪 う わ さ しいオパサンが出没するというまことしやかな睡もあ り、中学生の男の子たちはわざとそんな話を女の子に聞 かせる。環状線の天満駅も最寄駅。当時、プラットホー ムからは﹁東洋ショl
﹂の扇情的な大看板が目に入り、 いやで仕方なかったが、奈良方面に行くには利用せざる を得なかった。生まれてから思春期の後半まで、私はこ の 町 に 住 ん で い た 。 あ ま み 奄美や沖縄の人たちも多く、朝鮮の人たちもいた。 ﹁物価が安く、地位や一書きもいらんから、いろんな人 が住みやすい町なんやで。そういう町ゃから、だれとで も仲ょうせなあかんねんで﹂。常々、親が私たちに話し 聞かせていた処世訓、生活訓。しかし近隣で地元の小学 校に通ったのは兄と私だけ。他の子たちは名門﹁愛日小 学校﹂に越境していた。両隣の子と通う学校が異なる意 味も何もわからないながら、私は地元の小学校で多くの こ と を 学 ん だ 。 一、二年生。担任はおばあちゃん先生で、親や近所の 人とは全く違う﹁威厳﹂を発する人だった。とにかく、 時間をかけて一人ひとりが理解できるまで丁寧に教えて 下さる先生だった。一度だけ叱られて廊下に立たされた ことを思い出す。友人のチヨツカイに引きずられてふざ けすぎたことで、私は廊下に立たされた。もちろん恥し かったが、﹁ぁ、先生はひいきしないんだ。悪い時には だれであろうと叱って下さるんだ﹂ o 私 は H 先生がとて も大きな人であると感じた。中学年に向けて、学級委員 を指名ではなく、そろそろ選挙で決めるという移行期。 うちの学級でも選挙があった日の放課後、数人が音読指 導を受けるために教室に残っていた。その時、いきなり 教室の廊下側の窓が勢いよく聞けられた。隣の学級のY
先生。うちと同じおばあちゃん先生だ。﹁先生とこ、学 級委員だれに決まったん?﹂。すごい大声であった。H
先生は窓に歩み寄って﹁うちはOO
君、先生のところ こぺる 11は ? ﹂ ﹁ う ち 、
T
君 や ね ん ﹂ ﹁T
君やったら穏やかでしっ かりもしてるし、ええやん?﹂ o Y 先生﹁そやけど、あ の 子 、 朝 鮮 人 や で ﹂ 。 子どもながらに﹁聞いてはいけないことを耳にしてし まった﹂という動揺があったと思う。小学校で、H
先生 のように敬愛できる﹁大人﹂に出会って学校や先生とい うのは近所のオツチャン、オパチャンの世界とは明らか に違う何かがあるところだと思っていたのだが、Y
先 生 の一言で、先生といっても一様ではない、とはっきり感 じた。私は H 先 生 は 好 き だ け ど 、Y
先 生 は い や や 。 H 先 生が根気よく教えて下さっていたことは、みんなが学校 で互いに心地よく生活するための基本的なルl
ル や マ ナl
。Y
先生はガラリと窓を聞けて大声を出した瞬間、 私たちが学んできたルl
ルを悉く破ったのだった。そ してあげくの果てが、あの発言。小学二年生の私にY
先 生の発言を批評することはできなかったが、 H 先生の日 常の教えと親の生活訓のおかげで、それを反面教師にす る感性だけはあったと思う。 中学年、ここでT
君と同じクラスになった。四年の男 性担任はめったに教室に来なかった。小学校が創立九O
周年を迎えるとかで、その事業にかかりきり。毎日、問 題 集 の 自 習 。T
君と私は、みんなと対面する向きに机を一 置かれた。﹁今日はO
頁からO
頁までします﹂。そして一一 定の時間になったら、二人でみんなと答合わせをする。一 しかしこんな授業がいつまでも続くわけがない。ある日一 の習字の時間。担任はいつもの通り、お手本だけを持つ一 て来て教室を去っていった。指導者のいない習字の教室、一 あっという聞にみんなの顔はスミだらけ。私も﹁ちゃん− とやろうよ﹂と言うのもアホらしく、早々にスミだらけ。一 T 君はこの混乱をなんとかしようとしていたが、終わり一 の頃にはやはりスミだらけになって、ちょっとテレてい一 − た o − 四年生の途中で転校生が来た。たまたま、うちの隣の 材木問屋さんが経営するアパートに越して来るとかで、 学校より先に知っていた。父一人子一人で、お父さんは 東北出身の渡りの職人さんだという。左官さんか大工さ んだったろうか。彼が私の学級に入ったことを家で話す と、﹁あの子のお父さんは、ここでの仕事が終わったら また次の仕事先に引っ越しはるねん。その時あの子も転 校しゃるねんで。そやけど、ここにいてはる間だけでも 仲ょうしいや﹂と言われた。 それで放課後、帰宅してからも彼と一緒に宿題をしたりした。しかしある時、彼は言った。﹁転校ばかりして ると、勉強の進み方がそれぞれ違うし、なかなかついて いけない﹂。彼にとっては、迷惑な勉強の押しつけだっ たのかもしれない。﹁でも、たて笛を教えてほしい。一 度もきちんと習ったことがないから﹂と。それから、彼 と私は毎日アパートの外階段に座って、たて笛の練習を した。ドレミファの基本の指使いから、上のオクターブ の指まで、彼の吸収力は驚くほどだった。あっという聞 に、彼と私は今習っている曲を合奏するまでになってい た 。 ﹁もうそろそろあそこの仕事は終わるらしいで。また あの子は転校せなあかんのかな﹂という大人たちの嘆息 が聞こえてきた頃、いつもの外階段で、﹁ボク、ハモニ カが好きなんだ﹂と言って、小さなハモニカをポケット から出して吹きはじめた。それは、伴奏や和音も入るも ので、学校で習う単音奏法とは明らかに違い、父が時々 聴かせてくれた演奏法と同じだった。父も家庭的に恵ま れず、転校をくり返した苦労話を幼い頃から何度も聞か され、少々ウンザリしていたのだが、今、精一杯のお礼 として演奏してくれている彼の姿と、父の寂しい少年時 代 と が 重 な っ た 。 その後まもなく、彼は転校していった。 高学年、また
T
君と同じクラスになった。都市のドー ナツ化現象が進む中、もともと四学級だったのが六年生 では三学級になった。学年が進むにつれてシャツフルが くり返され、ほとんどみんなが顔見知り。六年生の時に は、男女・学級の枠をこえて巨大遊び集団が出来上って いた。大きな括りは﹁活発組﹂と﹁おとなしい組﹂であ あ い ま い るが、境界も暖昧で流動的であった。私は、友だちがた くさんそこにいるということで、活発組にいたが、帰属 意識があるわけではない。T
君は﹁おとなしい組﹂だっ た 。 校庭は六年生の天下。毎日ドッジボールに明け暮れ、 何の屈託もなくコロコロと笑いながら男子と口ゲンヵ。 時には手足も出る無邪気で幸福な時間だった。でも雨の 日は、みんなそれぞれの学級内で過ごす。H
先生の教え よ そ 通り、あまり他所の教室にヅカヅカ踏み入ることはしな い。そんなある日、ボンヤリ教室内をながめていると、 活発組が多数だというのは私の勝手な思い込みであるこ とを知った。今、私が目にしているのは、T
君の周りに 群がる男の子たちの多さだった。それは、女子と話すの が極端に苦手な子、無口だけれどいつもニコニコしてす ごく絵の上手な子、ちょっといじけた所がつっこまれや すい子、ボンボンでわがままで自分の気に入らないとす こベる 13ぐ怒りだす子。核をなしているのは、コミュニケーショ ンが苦手で誤解されやすい子、今でいう、いじめられた りはずされたりしやすい男の子たちだった。彼らは、
T
君のそばにいることによって、人間関係のトラブルから 守られると、肌で感じているようだつた。しかし、それ を取り囲むように、さらに多くの男子が輪を作っていた。 彼らはふだん活発組にいる子たちだったが、学級内ではT
君のそばが落ち着くのかもしれない。この光景を見て、 ﹁T
君は本当に人格者ゃなあ﹂と思った。これが同じ十 二歳か、とも。本人にそのつもりはなくても、自然に人 が寄り集まる。しかしそんな中でも、決してT
君と交わ ろうとしない活発組の準リーダーもいた。私は心の中で、 そんな彼にはっきりと反感を抱いていた。 ある日、中津辺りの国道に学年全員が並ばされたこと があった。他所の学校からも来ていた。T
君と私が先頭 で、車道を正面にしての隊列。そのうち、日の丸の小旗 を両手に持たされた。﹁合図をしたら、旗を振って下さ い﹂というアナウンス。アナウンサーは学校関係者だっ たのかどうか。合図が出て、私は何の疑問を持つことも なく言われた通りに旗を振った。黒く大きな車が何台も 通り過ぎた。ふっと横のT
君を見ると、彼は両手を下ろ したまま直立不動の姿勢でまんじりともしなかった。彼一 は意思的に旗を振らないんだ、ということは私にもわか一 った。ふだん、先生や学校が﹁善﹂とするものに従順な−T
君が、口を真一文字に結んでただただじっと立ってい一 た。当時の私には、彼が朝鮮人であるということと球な一 に旗を振らないということをつなぐ回路がなかった。帰一 宅後﹁今日、中津まで歩かされて旗振らされたわ﹂と言− うと、﹁エライさんが来るとかで、あんたらもややこし白 い こ っ ち ゃ な ﹂ と 母 。 ﹁ で も な 、T
君、旗振りやれへん一 か つ て ん 。 何 で や ろ ﹂ ﹁ ふ ー ん ﹂ 。 次 の 言 葉 は な か っ た が 、 一 無視ではなかった。どう説明すればいいのか母も考えて一 いたのだ。しかし結局、説明はなかった。そしてこの疑一 聞 は 、 後 々 ま で 私 の 宿 題 と な っ た 。 一 様々な人がいるからこそ、その思いを想像したり観察一 したり、そして、意を決してその距離を縮めたり、離し一 たりする。差異があるからこそ想像力が鍛えられるのに、一 実在する差異をないことにして、無菌で均質でつるりと一 した空間で子どもを育てようとしている。平板な擬似社一 会で心に何のひっかかりもなしに、どのような心が育つ一 と い 、 つ の だ ろ 、 っ か 。いのちを生きる⑬
めぐりあえた二本の映画
長
谷
川
洋
子
︵
大
阪
府
教
員
・
三 島 郡 島 本 町 在 住 ︶ 五月九日 治療一ヵ月後の検査で、東京に向かう。﹁喜んでもら っていいと思います﹂と医師が言った。コンピューター し ゅ よ う の画面を見ると、治療直後より半分強に縮んだ腫療が写 っている。一方、外側の白くぼうっとした部分が増えて いる。﹁白い所は活動が弱くなった部分ですか﹂と尋ね ると、そこが活発な部分の由。しかしこんなに小さくな ったら、たとえ全部が消えなくても﹁役立たず﹂な腫傷 になるらしい。医師は嬉しそうだった。 六月に入ってすぐ、他に転移していないか全身PET
CT
を撮ることになる。放射能は気になるが、転移の 方がもっとこわい。再発前の半年間、C
T
を撮ってもら えなかったので、コ一、四ヶ月毎の撮影はとても安心でき る。七月の判定までおとなしく養生して、お坊さんのよ うな︵ちょっと古いかな︶生活を送ることにしよう。 く 家 ょ にろヲ!
となき
っ 万 之 」 な 宇 も つ−; 二 つ ザ 同 て み て も す い 生 匂 る き と 三 体 社 く こ 会 ぞ の 性 」 先 が 何 と ど ど だ 腹 う ん か を む ど 気く る ん 分
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日 良い検査結果が出ているのに、 l u −− ﹁ 私 が 死 ん だ 後 、 大事にしている本はどうなるのだろ う?﹂と思考に脈絡がなくなってしまった。どうもいけ 丸 、 、 a O J h v し 気分転換のためケーブルテレビで﹁全身小説家﹂︵原 一男監督︶を観る。あまりに面白くて二回も観てしまっ た。井上光晴氏︵一九三六|九二、作家︶の晩年を追っ たドキュメンタリーだが、晩年という言葉が恥じ入って 逃げ出すほど、彼は最期までエネルギッシュで、おしゃ べ り で 、 色 っ ぽ か っ た 。 が ん 釘付けになったのは、彼が癌の治療を受けるたくさん の シl
ン。肝臓転移|手術l
肺 転 移 抗 癌 剤 治 療l
全身 転移の過程をカメラはつぶさに写していく。医師の前に 座ったとき、彼は思わず目線を泳がせる。転移を説明す る医師を、悲しそうで真剣な眼差しで見つめる。私と同 じ弱い人間である彼が写っている。オベで肝臓患部を取 こべる 15り出すシ
l
ンや、さらに、信じられないのだが、主治医 が原監督に氏の全身転移の様子をCT
写真を見せながら 説明するシ l ンもあった。今だったら撮影不可能だろう。 病院から帰った夫婦がキッチンで一休みするシl
ン が 忘れられない。病院では前向きの姿勢を崩さない彼も、 キッチンではまるで泣いているようだ。そんな彼を連れ 合いさんがさばさばと、しかし、ふわっと受けとめる。 彼女の方が彼より数倍泣きたいだろうに・:。二人が共に 生きている実感が伝わってきた。﹁僕は末期になっても、 ﹃闘病記﹄は書きませんよ﹂と彼は映画の中で断言して いたが、その代わり素晴らしい闘病ムービーを遺した。 五月二八日 ﹁ 靖 国 ペ ﹀ ω d E H Z とを観た。終わって、なぜ上映を 自粛する映画館が現れたのか不思議に思った。この映画 を観て感動する靖国支持者、一般の人たちがきっといる リイン だろう。迫力ある画面だが、李捜監督の想いは抑制され、 映画の中で彼が語る言葉も少ない。 ただ、靖国支持者の集会での﹁君が代斉唱﹂時に、若 者が抗議の芦を挙げるシl
ンだけちがったので印象的だ った。支持者たちは若者の顔が血まみれになるまでボコ一 し つ よ う ボコにし、﹁中国へ帰れ﹂と執劫に怒鳴り、鳥居の外へ一 彼を追い出すのだが、監督は、その決して短くないシl
一 ンをほぼノl
カットで撮りきった。彼の隠された想いを一 む き 出 し で 見 た よ う な 気 が し た 。 一 インタビューを受ける人たちは、頭や体の一部が画面一 からはみ出て、見る者を不安定な気分にさせる。ズ l ム一 アップなのだが、多くの話し手の真意は伝わってこず、一 話を最後まで聞いても謎が解けない。例外は台湾からき− た高金素梅︵チワス・アリ︶さんだ。すばらしい存在感一 で靖国の宮司に抗議する美しい彼女は、舞台女優のよう− に 画 面 に 現 れ る 。 一 この映画で、一九年間日本で暮らしてきた李楼監督が、一 ニホン人の難儀さを靖国という舞台を借りて語ったので一 は な い か と 感 じ た 。 一 * * * 期せずして二本のパワフルなドキュメンタリー映画に めぐりあえた。それにしても、ひとが生きるとは、何と 難儀で美しいことだろう。鴨水記 マ学校で話をするとき、前に座ってい る生徒に出てきてもらい、﹁さあ、わ たしを抱きしめて﹂と頼みます。たい ていの生徒は驚いて尻込みする。そこ で、﹁抱きしめ合うのは、命を確かめ 合うことなんだよ﹂と言いながら、わ たしから抱きつく。すると、しっかり 抱きかえしてくれるんですな。 ﹁藤田さんに K は 2 回もだいてもら っていいな l と思いました。こんどは T が一回だかれていいな i と思いまし た。ぼくも、ふじたさんに一回だけで もいいから、だいてもらいたかったで みゆきもり す﹂︵大阪市立御幸森小学校 5 年 1 組 K ・ T く ん ︶ o 授業のあとに書いてく れた感想文をその夜のうちに読み、翌 朝、クラスを再訪。 K ・ T くんと抱き しめ合いました。 K くんは涙ぐみ、わ た し も 感 激 。 ﹁ K ・ T くんが、手紙で、 ハグした かったと書いたのでまた藤田さんが来 て 下 さ っ た の で 、 T くんのように、ー自 分の気持ちを相手に伝えなきゃいけな い L と思ったので、藤田さんが、教室 から出て、私は、すぐに藤田さんを追 いかけました。そして、藤田さんに、 自分の気持ちが、藤田さんのむねいっ ぱいに広がるように、ハグゃあくしゅ をしました。そして、藤田さんと、ク ラスのみんなで写真さつえいをすると きに、私が藤田さんの手をギユツとに ぎると、藤田さんもギユツとにぎって くれたので、とてもうれしかったです﹂ ︵ 0 ・ S さん︶。子どもたちは、﹁呼応 の関係﹂をもとめているんです。 マ先日、ある会場で﹁人生に手遅れは ありません。いまからでも子どもさん と抱きしめ合ってほしい﹂とお願いし たら、こんなお便りがとどきました。 ﹁家へ帰って早速、子どもを抱きし めてみました。まず中一の娘に。最初、 少し照れながらも﹁どうしたの。急に : L と言ったので、よ叩と存在を確か めているの L と答えたら♂りゃんと生 きているじゃん L と笑いながらも抱き しめ返してくれました。ついで中一一一の 息子に。さすがに私も少し構えてしま ったのですが、﹁何するの i L と体を 引いて照れていました。久しぶりに抱 きしめた息子の体は、がっちりしてい ました。なんだかとっても温かい気持 ちになり、たまにしてみるのもいいな ぁと感じました﹂︵岐阜 N さ ん ︶ 。 マ﹁部落民は人権問題の専門家だ﹂と は、よく聞いた話です。しかし、﹁被 差別﹂という立場それ自体が﹁人間解 放の主体﹂であることを保証しない。 当たり前です。それにしても福岡丈を 読むと哀しくなりますなあ。 マ﹃こぺる﹄の裏表紙に阿昨社の本を 広告するのは慣例です。どんな出版物 を載せるかは阿件社の判断によります 0 7 ﹂わい考﹄の広告も、そう。わたし が依頼したわけではありませんよ。誤 解しないでくださいね。︵藤田敬ご 編集・発行者 こぺる刊行会(編集責任藤田敬一) 発行所 京都市上京区衣棚通上御霊前下ル上木ノ下町73-9阿件社 干6020017 Tel. 075-414-8951 Fax. 075 414 8952 E mail: [email protected] 定価300円(税込)・年間4000円郵便振替01010-7-6141 第186号 2008年9月25日発行