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2012
乙べる刊行会NO. 234
ひろば⑮ 「両側から超える」立場からの教育実践 一大学における福祉教育の試み 平川 茂 『こぺるj終刊に寄せて⑥ 部落問題と出会って考えてきたこと ふたつぎ 二木 保 こころのつぶやき④ 老人保健施設の光景一母のことなど鶏街アユ
いのちを生きる@ 統一プール登校日 長谷川洋子 〈幻の銀河〉 ー写真と文 小 林 茂写 真 と 文 小 林 茂 「人の世に熱あれ、人間に光あれJ(中略)部落差別をなくす運動が人間 の解放をめざすものだとひとびとに呼びかけている。 (師岡佑行) (京都・旧近鉄デパート。 「好きです人間展j。 左、師岡佑行さんと奈良本辰也さん。 1987年 3月) あるとき東本願寺を参観したあと京都駅まで歩いた。家電量販店があったが、そこはたしか近 鉄デパートがあった場所である。突然、 1987年の「好きです人間展」を思い出した。有名デパ ートで開催された大きな人権イベントであった。私が写真記録を担当した。結婚差別、狭山裁判 事件などのパネル。水平社宣言などの資料。部落の産業、その実演もあった。 妻が京都部落史研究所に勤務した関係で、師岡佑行さんとは親しくお付き合いしていただいた。 子どもと遊んでくれた笑い顔がなんとも忘れられない。大著『戦後部落解放論争史』(全 5巻、 柘植書房 1980年∼85年)の第1巻のまえがきに、「生産力の発展がそのまま人類の幸福につなが る」という考え方を変え、全地球の破滅さえ招きかねない文明の危機を見すえた、新たな部落解 放理論の再構築が必要であると訴えている。 86年のチエリノブイリや昨年の福島原発の爆発がそ の「発展」の帰結のひとつであろうか。京都から新潟にもどるとき、奥様の故郷の若狭塗り箸を いただいた。あれから25年使っているが、ますますしっとりと手になじんでくるのである。
ひろば⑩ 茂︵四天王寺大学・奈良県香芝市在住︶
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部落問題について週に一度必ず学ぶ機会があった。部一 落問題は、就職や結婚など、人の人生が変わる大切な一 時にからんでくることが多く、その苦悩は部落出身の 人の書いた文章やビデオからよく知っているつもりで あった。そして勝手に被差別部落に生まれた人は苦労⋮ して辛い思いをしていると思い込んでいた。しかし、 授業でマイノリティ・マジヨリティの関係性を知り、 お互いが壁を作るのではなく歩み寄ることが多文化共⋮立場からの教育実践
大学における福祉教育の試み
平川 学生の反応 ﹁全日回の授業を通して、私の考えは徐々に変化し ていった。初回の授業で ﹁ 多 文 化 共 生 の 実 現 の た め にl
ま マジヨリティとマイノリティがお互いに理解し、 歩み寄ることが大切だ﹂という話を聞き、今までマジヨ リティがマイノリティに歩み寄ることが最も大切だと 思っていたが、意見が大きく変わった。いろんな人と 接 し 、 話 を 聞 く こ と に よ り 、 マジヨリティの人はマイ ノ リ テ ィ の 意 見 を 、 マイノリティの人はマジヨリティ の人の意見を理解し、受け入れることができるように な る 。 ﹂ ︵ A さ ん ︶ ﹁ 特 に 印 象 に 残 っ て い る の が 、 平 川 先 生 の 部 落 問 題 、 逢坂先生のホl
ムレスの話である。私は高校生の時、 生につながるという話を聞き、自分の考えが偏ってい こベる る こ と に 気 づ か さ れ た 。 ﹂ ︵ B さ ん ︶ 1﹁授業を受けていくたびに、自分の Y 軸 と X 軸の位 置がどんどん変化していくのがわかった。知識がなく、 でたらめな情報にふりまわされ Y 軸の側に寄っていた 私の見方や考え方が、どんどんと X 軸に近づいていく のがわかった。どっち側にかたよるのではなく、平面 上に自分を位置させるのが理想だ。どちら側も見れる よ う に な り た い 。 ﹂ ︵ C さ ん ︶ ︿ 図 1 ﹀ X 軸 と Y 軸で固まれた平面 y 軸 X軸 「位置」
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現在の ﹁多文化共生と福祉﹂という授業の最終回で、私は受 あなたの位置はどう変化した一 かを所定の用紙︵ A 4 サイズのレポート用紙︶の表︵オ一 モテ︶全体を使って述べなさい﹂という課題を出した。 冒頭に引用した三つの感想は、この授業に込めた私の一 ﹁ねらい﹂を最もよく理解してくれていると思われるも一 のである︵抄録。受講生は口名であった︶。 ﹁多文化共生と福祉﹂は、私が現在所属している人間一 福祉学科健康福祉専攻が今年の 4 月 か ら の 新 入 生 向 け に 、 専攻名の変更をともなう改組に際して新たに設けられた一 も の で あ る 。 健康福祉専攻は、社会福祉士および精神保健福祉士な一 どの、いわゆるソl
シャルワl
カl
の養成を主な目的に一 している。ソ!シャルワl
カl
が行う仕事はソl
シ ャ ル 一 ワl
クと呼ばれる。ソl
シャルワl
クとは、さまざまな一 困難を抱える人とつながることによって、その人が直面一 している課題をその人自身が解決することができるよう一 に 手 助 け す る 仕 事 で あ る 。 一 例えば、ホl
ムレスの人を対象にした場合、ソl
シ ヤ 一 その人が寝泊りしている場所を定期一 講生に﹁この授業を受ける前と後を比べたとき、 X y 軸で固まれた平面上での、 ル ワl
ク は 、 ま ず 、的に訪問することから始まる。当初は露骨に拒絶された そ れ に め げ な い で 、 り 、 無 視 さ れ た り す る の が 普 通 だ が 、 こ の 定 期 的 な 訪 問 を 続 け る う ち に 、 なんとか世間話くら い は で き る よ う に な る 。 その後も一進一退を繰り返しな がらではあるが、徐々に相手がいま困っていることを話 してくれるようになる時が訪れる。この段階に至ってよ うやく支援者は、話の内容に応じてホ!ムレスの人の問 題解決の手助けをすることになる。例えば、その人がこ れまで何度か生活保護を受けようとしたが、なかなか認 めてもらえなかった、もはや限界なので何とかならない だろうかと助けを求めてきたとした場合、 一 緒 に 福 祉 事 務所に行って、生活保護が受給できるように支援するこ と に な る 。 ソ l シ ャ ル ワ l クは、この人がアパートに入 居した後も、定期的な訪問を通じて、この人が日常生活 や社会生活をつつがなく送っていけるように支援すると いう形で続く。そして、最終的にこの人が就職して経済 的に自立した段階で終わりを迎えることになる。 見 ら れ る よ う に 、 ソ
l
シヤルワl
クという仕事にあっ ては相手とのつながりをつくることがきわめて重要なの で あ る 。 それを抜きにしては、ソ l シ ャ ル ワ l クは始ま を開講した目的一 は 、 ソl
シ ャ ル ワl
カl
を め ざ し て 入 学 し て き た 学 生 に 、 当 の ソl
シ ャ ル ワl
カl
にとって他者理解を深めること一 こ そ が 最 重 要 の 課 題 で あ る こ と を 知 っ て も ら う こ と で あ っ た 。 ﹁ 多 様 性 へ の 感 受 性 ﹂ を 高 め る 一 こ の 科 目 は 3 人 の 教 員 が 持 ち 回 り で 担 当 す る こ と に な っ ている。初回のオリエンテーションの後、私が 4 回 の 授 一 業を行った。次の 4 回は横英弘先生、その後の 4 回 は 逢 一 坂隆子先生が受け持たれた。横先生は視覚障害者と在日一 コリアンの種々の困難に関して、それらがさまざまな制一 度のあり方と深く関わっていることを強調された︵ 4 回 一 の授業に加えて、京都市東九条の NPO に所属する在日一 コリアン女性の講演もあった︶。逢坂先生は釜ヶ崎のホl
一 ムレス生活者の過酷な状況について話された︵ 4 回 の う 一 ら な い 。 で は 、 ど の よ う に し た ら 、 つながりをつくるこ と が で き る の か 。 い う ま で も な く 、 それは相手に対する 深 い 理 解 を 通 し て で し か な い 。 健康福祉専攻が﹁多文化共生と福祉﹂ こ,−..:_る 3ち の 1 回を使って、釜ヶ崎で活動する紙芝居劇団の公演 も 行 わ れ た ︶ 。 X 軸 は ﹁ マ イ ノ リ テ ィ ︵ 少 数 派 ︶ y の 価 値 観 ﹂ を 表 し 、 に 込 め た ﹁ ね ら い ﹂ は、残念ながら両先生には共有され なお以下で述べるような、私がこの授業軸は﹁マジヨリテイ 私たちの現在の ていない。両先生とも ﹁ マ ジ ヨ リ テ イ ︵ 多 数 者 ︶ が マ イ ノ リ テ ィ ︵少数者︶に歩み寄ることが最も大切だ︵逆の こ シ ﹂ 、 つまりマイノリティがマジヨリティに歩み寄るこ となど考えられないごというスタンスで授業をされた。 −回目の授業で、私は ﹁ 多 文 化 共 生 と 福 祉 ﹂ という授 業 の ﹁ ね ら い ﹂ は 、 受 講 生 が ﹁ 多 様 性 へ の 感 受 性 ﹂ を 高 め る こ と に あ る と 述 べ た 。 そ れ な し に は 、 ソ
l
シ ャ ル ワl
カーにとって枢要な他者理解を深めることは不可能であ ると考えたからである。前者︵﹁多様性への感受性﹂ 高 め る こ と ︶ は 後 者 ︵ ﹁ 他 者 理 解 ﹂ の 斗 削 を 深 め る こ と ︶ 提 な の で あ る 。 そこで、まず﹁多様性への感受性﹂がこれまでどのよ うに高められてきたかを、大学入学から現在までの私の 個人史に即して話した。その後で ﹁ 多 様 性 へ の 感 受 性 ﹂ を 高 め る ﹁方法﹂として、およそ以下のようなことを述 べ た 。 私 は ま ず 黒 板 に 大 き く 、 X 軸 と Y 軸 を 書 い た 。 そ し て 、 ︵ 世 間 ︶ の 価 値 観 ﹂ を 表 す と す る と 、 を ﹁ 位 置 ﹂ は 、 こ の X 軸 と Y 軸から成る平一 面上のどこかにくるはずである︵︿図 1 ﹀ 参 照 ︶ 。 受講生の多くの現時点での﹁位置﹂はおそらく Y 軸 寄 一 りであるだろうが、もし授業回数が増えるにつれて、そ一 の﹁位置﹂がだんだん X 軸 に 近 づ く よ う な こ と に な れ ば 、 それは受講生の﹁多様性への感受性﹂が高まったことに一 なるだろう。さらに、授業の内容によっては、いったん一 X 軸に近づいた﹁位置﹂が再び Y 軸寄りに戻るようなこ一 とがあるかもしれないが、それは受講生のなかに自分の一 ﹁位置﹂をめぐって何らかの葛藤︵せめぎ合い︶が生ま一 れているからである。ここで大事なのは、この葛藤から一 逃げないことl
すなわち、葛藤などあるはずがないとし一 て、それから眼を背けたり、あるいは葛藤を抱え込んだ一 自分を責めて、ついには自己を否定することにやっきに一 なったりしないで、むしろこの葛藤を冷静に見つめて、 それが生じる理由をあれこれ考えることが重要なのであ一 る。受講生は ︵X 軸| Y 軸 で 固 ま れ た 平 面 上 に お い て ︶ ﹁ 自 分 が 今 ど こ に い る か ﹂ を つ ね に 意 識 し て ほ し い 。私 が こ う し た 授 業 の ﹁ ね ら い ﹂ とそれを実現するため の﹁方法﹂を初回の授業で提示したのは、 こ れ ま で 文 化 共 生 ﹂ や ﹁ 人 権 ﹂ ﹁ 差 別 ﹂ な ど が テ
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マになる授業 や講演会、集会などでは、つねに受講生・聴衆・参加者、 つまりマジヨリティは自分たちの価値観をていねいに検 討 す る こ と な く 、 そ れ を あ っ さ り 全 否 定 し た う え で 、 イノリティの価値観に﹁歩み寄る﹂ことが当然のことと み な さ れ て い た か ら で あ る 。 先の︿図 1 ﹀ で 言 え ば 、 マジョリィティたる者はつね に X 軸に近づけるようにマイノリティの価値観の理解に 努めるべきであるとされてきた。他方、 マイノリティは X 軸 上 に い て 、 マジヨリティが無事 X 軸に近づけるよう に啓発するだけでよいのであって、マイノリティ自身が 自己の価値観のありょうを問われることはなかったので ある。これまで、こうしたあり方が自明のこととされて き た の で あ っ た 。 ところで、こうしたあり方は、藤田敬一さんが、 八七年の ﹃同和はこわい考﹄刊行以来現在まで批判して やまない﹁指導随伴﹂関係と呼ばれるものに他ならな l,,) い ま 、 ﹁ 部 落 の 人 々 ﹂ と ﹁ 部 落 外 の 人 々 ﹂ をそれぞ 九 多 ﹁マジヨリテイ﹂と言い換えれば一 と い う の は 、 藤 田 さ ん は ﹁ マ イ ノ リ テ イ ﹂ 、 ﹁ マ ジ ヨ リ テ ィ ﹂ という言葉を一切使っていないので|藤田さんは、この一 ﹁指導随伴﹂関係のなかに、自己への批判を拒絶しつ一 つ、マジヨリティに属する人たちを啓発できると考える一 マイノリティ側の﹁思い上がり﹂と自己の立場の冷静な一 検証を抜きにして、とにかくマイノリティの人たちの価一 値観に近づくことに汲々とするマジヨリティ側の﹁身と一 心のすり寄せ﹂を見ていた。そして、藤田さんによれば、 こうした﹁指導|随伴﹂関係の下では、マイノリティに一 せよマジヨリティにせよ、両者の関係の全体的なあり方一 を把握することも、マイノリティ、マジヨリティのそれ一 ぞれがその人間性を豊かにすることも望めなかった。 藤田さんは、こうした﹁指導随伴﹂関係に取って代一 わるものとして、マイノリティ・マジヨリティ関係の新一 しいあり方を提案していた。それは、まずマイノリティ 側には、マジヨリティからの批判であっても真塾に耳を一 傾け、その批判が妥当だとみなされれば自己のあり方を一 改めることもいとわない姿勢を求めるものであった。他一 マジョリティ側には、初めからマイノリティの価値一 5 れ ﹁ マ イ ノ リ テ ィ ﹂ 、マ
こ,−.::.る 方 、観を正しいと決めつけないで、自分の価値観に照らして それが認められない場合には、そのことを主張できるよ う な 主 体 性 を も つ こ と を 求 め た 。 マイノリティ・マジヨリティ関係のこうした新しいあ り方にあっては、双方がともに自他を対象化できる主体 と な る こ と が 求 め ら れ た の で あ る 。 そして、これらの主 体となった者どうしが、差別を克服するために手をたず さえることが、藤田さんのいう﹁両側から超える﹂立場 で あ っ た 。 私が受講生に、自分の価値観を X 軸 と Y 軸から成る平 面 状 の ど こ か に 位 置 づ け て 、 それをつねに意識しながら 授 業 を 受 け る と 同 時 に 、 ︵そうすると必ず生まれる︶自 分のなかの価値観をめぐる葛藤︵せめぎ合い︶ から逃げ な い で 、 それを冷静にみつめるように希望したのは、藤 田さんの﹁両側から超える﹂立場を踏まえてのことだっ たのである ︵ 注 ︶ 。 多様な部落、多様な部落民、多様な非部落民 2 回 目 と 3 回目の授業では、角岡伸彦さんのルポ﹁被 差別部落の青春群像﹂︵初出鵬年。いま﹃とことん部落一 問題﹄講談社、問年、に収録︶を読みながら、一口に部一 落といっても、それがどこにあるか、人口規模や混住の一 程度がどうであるかに応じてさまざまであること、また一 同様に部落民にも、自分が部落民であることをどう考え一 るかということひとつ取ってもさまざまであること、同一 じく部落外の人︵非部落民︶にも、部落民をどう見るか一 という点で、さまざまな考えの人がいることを示した。 そして、部落民と非部落民の多様性をトータルに把握一 するために﹁部落非部落﹂関係の類型化を試みた。そ一 のために、まず部落民の類型化を行った。 類型化の基準は、①自分が部落民であることを名乗っ ているかどうか、名乗っている場合には②自分が部落民一 であることに誇りをもっているかどうかである。これら一 二つの基準に基づいて、次の四つの類型を設定した。 A ﹁ 卑 下 ﹂ 型
l
自 分 が 部 落 民 で あ る こ と を 名 乗 ら な い 。 というのは、自分が部落に生まれたことに誇りをもてな一 い か ら で あ る 。 一 B ﹁ 告 発 ﹂ 型 ・ C ﹁ 反 省 ﹂ 型l
両者はともに自分が部一 落民であることを名乗り、同時に部落民であることを誇一りに思っている点では共通しているが、違いは、前者が 部落差別の原因をすべて部落外の人たちの偏見や差別意 識に求めるのに対して、後者は、部落外の人たちの偏見 差別意識ばかりではなく、部落民のなかにある否定的な 側面︵部落の外の人たちの批判に頑として耳を貸さない 独善的態度や身内のつながりを至上とみなす態度など︶ に あ る 。 を も 考 慮 に 入 れ た う え で 、 それらの克服をも主張する点 て も 、 D ﹁超越﹂型自分が部落民であることを名乗るにし そこには 「部落一非部落J関係 〈表1) ﹁告発﹂型や﹁反省﹂型に見られたよう
日割
匝
三
副
A 型 下 卑 A B 型 発 告 B F し 型 省 反 「超越」型…………...・H・...・H ・・・D’ C D ある。この型に属する者にとって切実な問題は、部落民一 としてどう生きるかではなく、むしろ一人の人間として ど う 生 き る か な の で あ る 。 一 部落民の多様性を、ひとまずこのようにとらえた後で、 次に私は、これらの﹁部落民の類型﹂のそれぞれに対応一 する﹁非部落民の類型﹂を考えることがでさることを示一 し た 。 一 A ﹁卑下﹂型には、部落や部落民をやみくもに非難・ 攻撃する人たちが対応するとして、それをK
と し た 。 B ﹁告発﹂型に対応するのは、自分の価値観を全否定一 したうえで、部落民の価値観に﹁すり寄る﹂人たちだろ一 うとみなして、これを B と し た 。 一 C ﹁反省﹂型には、部落民の否定的な側面を問題にす一 ると同時に、部落外の人々の偏見・差別意識をも批判す一 る人たちが対応するだろう。これを C と し た 。 最 後 に 、 D ﹁超越﹂型にもまた対応する人たちがいる一 だ ろ う 。 D ﹁超越﹂型の部落民にとって、自分が部落民一 であることをリアルに感じられなかったのと同様、部落一 な、部落民としての誇りや部落民への思い入れは希薄で こベる の外にも、現に部落差別があることにリアリティを感じ 7られない人たちがいるだろう。彼らは部落差別を問題に して、それをなくすことが自分たちの課題であるとは考 え な い 傾 向 が あ る 。 彼 ら に と っ て 、 それは自分たちより 年長の世代の人たちの課題であると思われている。 そ の ような者にとっての切実な課題とは、部落差別をなくす 一人の人間としてどう生きるかというこ とになるだろう。私は、これらの人々を
U
と 名 づ け た 。 ﹂ と で は な く 、 こうして、部落民と非部落民の多様性を全体的にとら え 得 る 部 落 非 部そ 警
り関
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え の ず 類 私 型 は 化受 を
百!?子生 つ
「 と で が は で き た︵︿表 1 ﹀ 参 照 ︶ 。 あなたたちはどの類型に入るだろうか﹂と問いかけた。 授業の最後に書いてもらう﹁出席カl
ド ﹂ に は 町 と 書 く も の が 多 か っ た 。 の自由記述欄 では、私はどうなのか。おそらく C に属するだろうと 述 べ た 。 そして次回、外部講師として来て話をしてもら う住田一郎さんは C ﹁反省﹂型に入ると思うと述べた後 で、これら二つの類型︵ C と C ︶に属すると思われる人 たちの聞には、部落差別を終わらせることを、差別する 側、だけの課題としてではなく、差別される側もまた、自 分たちの否定的な側面を克服するべく努力しなくてはい けないという意味で、同等の責任を負わされている課題一 としてとらえて、差別する側と協力してやって行こうと一 いう動きがあることを紹介した。部落差別を、部落の人一 と部落外の人が協力して克服して行こうとする、こうし一 た動きは﹁両側から超える﹂という言葉で表現されるも一 のであって、それを言い出したのは藤田敬一という人で一 あ る と 付 け 加 え た 。 ﹁ 部 落 ・ 部 落 民 を 名 乗 る ︵ 力 ム ア ウ ト ︶ ﹂ か ら 始 ま る 住田さんには、これまでの授業で私が使ったレジュメ一 と資料を事前に渡すこと以外は何もしないで、自由に話一 していただいた。話の中心はおよそ次のようなことであっ た。すなわち﹁部落民が、部落の所在や自己の出自を隠一 すから、それを暴こうとする人が出てくるのであって、 部落民がカムアウトすれば、つまり部落・部落民を名乗一 れば、部落と部落民を暴きたて、攻撃しようとする人は一 ほとんどいなくなるだろうし、それによって一切のタブl
一 を排した、自由なコミュニケーションも保障されるよう一 そうした環境の下でこそ部落差一 に な る だ ろ う 。 そ し て 、別 の 克 服 が 可 能 と な る 、 だ ろ う 。 ﹂ 住田さんの、こうした話の内容は受講生にかなり理解 さ れ た よ う で あ っ た 。 そのことをよく示す、当日、 席カ
l
ド﹂に記された感想を二つ挙げる。 ﹁親から聞かされた話は、全てマイナスな話ばかり だった。今回、お話を聴かせていただいて、実際に白 分の目で本当のことを確かめたいと強く思った。住田 さんのように X 軸から Y 軸に近づくよう努力してくだ さっているのだから、私たちも Y 軸から X 軸に近づく 努 力 を し な け れ ば な ら な い と 思 っ た 。 ﹂ ︵D さ ん ︶ ﹁ 今 ま で の 経 験 や 授 業 で は 、 ただ被差別でない我々 が被差別部落の人たちを理解し、認めることが大切な んだと思っていた。しかし、住田さんのように実際に 被差別部落出身の方の﹁まず越えなければならないの は被差別側﹂という言葉を聞き、被差別部落の人も、 私 た ち と 同 じ よ う に 歩 み 寄 り 、 理解しなければならな い と 思 っ て い る の だ と 改 め て 感 じ 、 感 動 し た 。 ﹂ ︵ 前 出 の B さ ん ︶ 受講生の多くにとって、部落差別はきわめてわかりに く い も の で 、 とりわけ﹁部落差別はなくすべきだと言い 出 ながら、どこが部落で、誰が部落民なのかを明らかにし ないでいること﹂に対して、彼らは極度のわかりにくさ 一 つ の 有 力 な 一 展望を与えてくれるものと受けとめられたのではなかろ一 う か 。 ﹁両側から超える﹂立場を実践の場で鍛える 今回、実践の至らなさを十分自覚した上で、 4 月 か ら 一 の﹁多文化共生と福祉﹂という授業の一端をあえて報告一 することにしたのは、以下のような思いからである。 藤田さんがお年︵!︶の長きにわたって主張し続けて一 きた﹁両側から超える﹂という立場は、すでにその内容一 に関してあれこれ論評し合う段階を過ぎており、いまや一 教育やその他の活動︵例えば、町づくりや啓発など︶の一 その有効性如何を検証すべき一 を感じていたと考えられる。こうした受講生にとって、 住田さんの ︵ す べ て は ︶ ﹁部落・部落民を名乗ること ︵ カ ム ア ウ ト ︶ か ら 始 ま る ﹂ と い う 話 は 、 こ,−.::.る 場 で 実 践 に 移 し た う え で 、 9段階に至っているのではないか。 それにもかかわらず、 ﹃こぺる﹄誌上においても、これまで﹁両側から超える﹂ 立場の枠組みを意識的に適用して、 それを何らかの実践 や 活 動 に 生 か し 、 その有効性を検証する試みはほとんど なかったように思う。提起以来、四半世紀経過した現在 は
つ
し た 試 さ み ら が な な るふさ 彫長れ 琢正 、そ れ を 通 じ て ﹁ 両 側 か ら 超 え る ﹂ 立 場 の 、 つまり思想・理論として の深化が図られるべき段階ではないか、 というのが私の 率直な思いである。 今回の私の不十分な試みは、今後行われるべき実践を 通した検証作業の一例となることを意図したものである。 できれば、これが呼び水となって、各地で、こうした作 業がなされるようになることを願っている。 ︵ 注 ︶ X 軸 を ﹁ マ イ ノ リ テ ィ の 価 値 観 ﹂ 、 Y 軸を﹁マジヨ リティの価値観﹂とみなしたとき、これら二つの軸で囲 まれた平面上での ﹁位置﹂は、ある人の現在の価値観の ありょうを示すという発想は、本学短期大学部・保育科 の久家英述先生の ﹁ 保 育 者 意 識 マ ト リ ッ ク ス ﹂ からヒン ト を 得 て い る 。 ﹁大人社会からの伝達志向﹂、水平軸一 を﹁子ども理解・受容共感への志向﹂とみなすものであ一 る 。 一 この﹁マトリックス﹂を用いることによって、実習生一 は、子どもと関わるたびに、その関わり方が 2 つの軸に一 固まれた平面上のどのあたりに位置するかを判断するこ とができるようになる。そして、この作業を継続するこ一 とによって、実習生は、自分の実践を逐一、自分の保育一 者としての成長に資することができるようになるのであ一 る 。 一 この﹁マトリックス﹂にあっては、実習生の葛藤は一 ﹁ジレンマを楽しむ﹂こととして大いに推奨されている一 が、︵当然のことながら︶﹁子ども﹂が﹁大入社会﹂に近一 づくことは想定されていない︵久家英述﹁保育者養成の一 ための原理的視点について﹂四天王寺大学短期大学部保一 育科﹃平成お年度﹁保育実践演習﹂研究報告書﹄加年、 間l
m
頁 。 ︶ ﹁保育者意識マトリックス﹂とは、保育実習生が子ど も と 関 わ っ た と き 、 その関わりの本質を的確に理解する ことができるようになるために考え出されたものである。 それは、垂直軸を﹃ こ ぺ る ﹄ 終 刊 に 寄 せ て ⑧
部落問題と出会って
考えてきたこと
ふ た つ ぎ 二木 保 ︵ 真 宗 大 谷 派 僧 侶 ・ 大 垣 市 在 住 ︶ いまから三十二年前、わたしは二十九歳で真宗大谷派 教師資格を取得すべく、同朋大学別科に席をおいた。 当時、宗門では、﹁同和・靖国﹂問題が重要視され、 ﹁同和問題学習﹂は必修であった。島崎藤村﹃破戒﹄を 読み直し、住井すゑ﹃橋のない川﹄を読んだ。 一番影響を受けたのは、笠原初二の遺稿集﹃なぜ親鷺 なのか﹄であった。学園闘争から部落問題に取り組み、 宗門の同和推進本部の嘱託職員として勤務し、三十四歳 で死去した彼は、﹁差別する側・差別される側の立場の 違いから、相手を問いつめて、殴りあったりする﹂と書 き残している。真剣に真正面から取り組む姿勢に敬意を 払う反面、お互いがお互いの﹁見えない壁﹂に向かって 拳を交える行為は不毛ではないかと感じた。いずれにせ ﹁ 覗 き 見 ﹂ す る こ と は 不 謹 慎 で あ 一 いまから二十年ほど前、宗門の﹁教区一 そ − 同和問題委員﹂として組から選出されたことによる。委一 員会の講師は、藤田敬一師であった。師が体験を踏まえ一 て熱く語られた言葉のなかで一番印象に残っているのは、 ﹁ 資 格 ・ 立 場 の 絶 対 化 と 関 係 の 固 定 化 は 独 善 に つ な が る ﹂ 一 というものである。個人・集団を問わず、特に組織とし一 ての運動にとって、それは大きな障碍となるとの指摘は、 普遍の真理であると思った。また部落問題は、人間存在一 の根源にかかわる問題であると理解するようになった。 いまでも﹃こぺる﹄や講演をとうして、藤田師から教え一 を 聞 い て い る 。 一 その﹃こぺる﹄が終刊を迎えると聞き、時の移ろいを一 感じる。この問、人との出会いがあり、言葉との出会い一 があった。十数年前なるが、三年続けて部落問題全国交一 流会に参加させてもらった。多くの方々と交流・談笑し、 夜が明け白むまでビ l ル を 酌 み 交 わ し た こ と が 懐 か し い 。 人と言葉との出会いと言えば、一九六九年、部落解放一 同盟による第三回東本願寺糾弾集会における、米国富師一 る ょ、怖いもの見たさの と 思 っ た 。 次 の 出 会 い は 、 こぺる 11の﹁それでも親鷺の弟子か﹂という指弾を資料中に見つ けたとき、衝撃を受けた。全国水平社創立に関わり、熱 心な念仏者でもあった師は﹁いし・かわら・つぶてのご と く な る わ れ ら ﹂ と名のられた親鷺聖人の絶対平等の の地平とは異なる宗門の対応に苛立ちをおぼ え、怒りの言葉として発せられたのであろう。部落問題 ﹁ わ が 身 ﹂ が 間 わ れ て い る の だ と 理 解 し た 。 ﹁ い の ち ﹂ をとおして ﹁ わ た く し を し て 、 わたくしたらしめている﹂諸仏 ︵先祖︶はガンジス河の砂の数ほどある︵無量寿︶。先祖 を二十代遡れば、二の二十乗、百万。四十代遡れば単純 計算で一兆人の先祖を持つ。猿人︵ヒトの先祖︶と類人 猿︵ゴリラ・チンパンジー︶の枝別れは六百万年前とい う説がある。そこまで遡れば、量ることができない数と なる。つまり絶対平等なる寿︵いのち︶を戴いているの で あ る 。 目に見える﹁いのち﹂には、身体性が現れ、属性・心 性を伴う。属性を持つことにより絶対唯一無二の存在と と ん よ く なる。また、万人が共通して持つ心性は、三毒︵食欲・ し ん い ぐ ち 曝書・愚痴︶を持ち、我執・我欲にまみれ、自己の正当 性・絶対性を固持し、自らの善人性を疑わない。自我の の 地 平 一 無明の閣を破り、見ることも量るこ一 ともできない真実の光︵無量光︶が、わが身を照らし、 ざ ん き 心が聞かれて、﹁天に恥ず・人に恥ず﹂という暫塊の心一 が届く。自我︵エゴ︶からの解放である。暫塊の心から一 の言葉は、魂の叫びとなって、他者の感性に、共感と共一 鳴を与え、呼べば応える呼応の関係が生まれる。人と人一 真 の 連 一 殻 に 閉 じ こ も り 、 他 者 と の 関 係 性 を 閉 ざ し 、 無明の聞に 包 ま れ る 。 独 善 か ら は 、 絶対平等なる ﹁ い の ち ﹂ は 聞 か れ て こ な い 。 と が 繋 が り を 持 ち 、 広 が り を 持 つ こ と に よ っ て 、 帯 が 生 ま れ る 。 人 が 解 放 さ れ る こ と が 、 人 間 成 就 で あ り 、 人間性が回復されることになるのではないかと思う。 人の世には、不条理・理不尽なことがあふれでいる。 ﹁人の世に熱あれ、人間に光あれ﹂との水平社宣言と、 ﹁本願寺の僧侶として御開山︵親鷺聖人︶に申しわけな かったとの気持ちはないのか﹂と問う米田富師の言説を、 いま一度じっくりと読み返したいと思っている。
﹂ こ ろ の つ ぶ や き ④
老人保健施設の光景
|母のことなど
う が い 鵜飼アユ︵尼崎市在住︶ 私は昨年九月、肺腺癌を発症し、いま治療中です。両 親は日本による中国侵略のまっただなか、大連で知り合っ て結婚し、一九四O
年に私が生まれました。父が病死し たあとに生まれた二歳下の妹は養女に出されて行方知れ ずになり、五十年前、やっとのことで捜し出しました。 一緒に暮らしたことがないのに、妹は私の入院中には、 足しげく見舞いに来てくれました。そのお礼にと、有馬 温泉に招いたのが初めての姉妹旅行でした。 戦争さえなければ妹が犠牲にならずにすんだのにと思 いますが、﹁いまは幸せだから﹂と彼女は言います。通 院するときは必ず付き添ってくれます。妹は母と私の看 病のために生まれてきたようなもので感謝しています。 苦労の多かった母は八十代半ばで認知症になりました。 昼も夜もない生活となり、不信心な私でも﹁神も仏もキ一 リストもいないのか!﹂と恨みました。家出されたこと一 もあり、介護保険に頼ることにしました。私が仕事で外一 出中はヘルパーさんに自宅で見守りをお願いしたり、施一 設でのデイサービスやショートステイを利用してやりく一 りしたものの、問題は夜間俳佃です。身長二ハ四センチ一 の私の体重が三八キロにまで減少し、疲れ果てて、つい に﹁死にたい﹂とまで思いつめ、これは限界だと観念し一 て 施 設 入 所 と し ま し た 。 老人保健施設には介護保険を利用するたくさんのお年一 寄りが暮らしていました。母は認知症の四十人と四階で一 暮らすことになりましたが、エレベーターのドア1
の 前 一 にはもう一つドアl
が設置されていて閉め切られ、中か一 らは出られないようになっていました。 部屋に一歩足を踏み入れると、その匂いにピックリ。 鼻のいい私に耐えられるだろうかと案じましたが、二日一 に一度通っているうちに、みなさんと知り合って親しく一 なると、﹁好きな人の匂いは気にならない﹂もので、し一 かも私が着くのはいつも昼ご飯時。お料理の香りで排世一 臭は消され、﹁自然の妙!﹂と感心しました。 こ""る 13日中、お年寄りのみなさんは大部屋でテーブルの前の 椅子につくねんと座っておられます。私が誰彼なしに ﹁ コ ン ニ チ ワ ﹂ と 声 を お か け す る と 、 ﹁ 知 ら ん ! ﹂ と の ご 返事。﹁たしかにそうだ﹂と納得しながら、それでもめ げずに﹁コンニワ﹂を言い続けたら、ニッコリと笑顔が 返って来ました。部屋がシ
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ンとしているので、暇つぶ しにと一人でリズム体操を歌い踊っていると、前のお二 人がクスクス笑う。﹁私のこと、アホやと思ってる?﹂ ﹁ ウ フ ツ ﹂ と 笑 い 返 さ れ 、 と 聞 く と 、 ﹁ そ ん な 薄 情 な ! ﹂ と 私 。 昼食時、突然男性が不安げに﹁食事代はどうなってい ま す か ﹂ と お 開 き に な る 。 と ご ま か す と 、 ﹁ 前 払 い な の で 大 丈 夫 で す よ ﹂ そ の 方 は 落 ち 着 い て 食 事 を さ れ ま し た 。 ﹁ お 金 を 事 務 所 に 二 百 万 みなさん、お金にまつ ﹁ パ ス 代 が な く て 家 に 帰 れ な い ﹂ 預 け て あ る ﹂ と 言 う 人 も い ま す 。 わ る 悩 み で 大 変 で し た 。 退屈な毎日なので、郊外へのパスツア!、庭での夏祭 り、室内運動会、餅っき、カラオケなど、さまざまな行 事が工夫され、私も参加しました。ある日の運動会で、 盛り上げ役としてマイクを握って叫んでいると、ウロウ ロしていた母に﹁何してんねん!アホ!アホ!何してん一 ね ん ! ﹂ と ダ ﹂ フ ル で 叱 ら れ ま し た 。 母 は ず っ と 私 を ﹁ 親 一 戚 の 人 ﹂ と 言 っ て い ま し た が 、 娘 、 だ と 判 っ て い た ん だ と 一 発 見 ! 認 知 症 は 奥 が 深 い 。 一 四十人もいらっしゃると、ウマが合う相手が見つかる一 ょうで、母も百歳近い方と仲良しになりました。その方一 は八十八歳の母を﹁私の孫﹂とおっしゃっていて、いつ一 も手をつないでウロウロなさる。ある日、私が母のそば一 にいると、﹁あんた、この子のお母さん?﹂と聞かれ、 ﹁いえ、娘です﹂と応えると、ハッと気づかれたご様子一 で、﹁この子の守りに疲れた﹂とお怒りになって向こう一 へ行ってしまわれました。母の面倒をみなければと責任一 を感じておられたのでしょう。みなさんの手は小さいの一 に分厚く節が太い。この手で戦中・戦後を生き抜いて来一 られたのです。どうか安心してゆっくり過ごしてほしい と 願 う ば か り で し た 。 母は四年前に亡くなりました。私の癌発症前でよかっ た と 思 っ て い ま す 。いのちを生きる⑧ 三 島 郡 島 本 町 在 住 ︶
統
一
プ
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ル登校日
長谷川洋子︵大阪府小学校教員 今年から T 市すべての小学校で夏休みの 指導﹂が始まった。期間は五日間。これまで T 市ではそ れぞれの学校が実態に合わせてプl
ル登校日を決めてい たのだが、去年、市議会で﹁ T 維新の会﹂の議員さんが 統一夏休みプi
ルを提案し、教育委員会が校長会でアタ マを下げて実施が決まったという。もっとも﹁議員の提 案とは何の関係もない﹂と教育委員会は弁明している。 そりゃそうだよね、教育委員会は政治から独立している ﹁ 統 一 プl
ル は ず だ も の 。 プール登校は、夏休み突入の一週目に当てられた。出 席は自由だ。これに加えて﹁学力向上﹂。﹁他市もやって いるから﹂︵市教委︶ということで、夏休みが一週間短 くなり、八月二十七日の月曜から授業日と改変された。 ﹁夏休みが短くなったことがわかれば子どもたちは怒 こ の 二 占 山 一 事前に登校を希望してい たのにこの日来なかった子どもの家には、私のような担一 任外の教員が電話をして事情を聞く。 電話をすると、﹁えっ!連絡しなきゃいけなかったん一 ですか﹂と言う保護者や、不在の家、連絡が行き違うケi
一 スが多く、しまいにバカバカしくなった。授業日でない一 ので元来親は学校に連絡する必要はない。夏休みになっ て急にお出かけが決まった家もあるだろう。担任外が電一 話するから情報の集約が困難で、行き違いも不可避とな一 る。保護者の方がよくわかっている。﹁安全管理は学校一 ﹁ 来 年 は 電 話 を や ⋮ るやろなあ﹂と、私は思っていた。ところが、 七 月 初 め に五年三組の子どもたちにそのことを話したところ、 ﹁何でやねん!﹂と怒る声は出てこなかった。やんちゃ な 子 が 多 い 組 な の に 、 、 び っ く り し た 後 、 沈 み こ ん で し ま っ た。私は少し驚き、そして気の毒になった。 七月二十三日 プ ー ル 登 校 の 初 日 。 健康部の先生らが正門に机を置い て、子どもから出席カl
ド を 受 け 取 る 。 カ ー ド に は 体 温 、 朝ご飯を食べてきたかどうかが書かれている。 が 記 入 さ れ て い な け れ ば 見 学 。 こぺる の 責 任 ﹂ に縛られているのは教員だ。 15めようよ﹂と彼らを説得する大変さが予想され、 ため息 が 出 る 。 さて、登校した子どもたちは元気に泳ぎ、元気に下校 する。水泳がキライな子は来ない。昔と変わらぬ光景だ。 昔になかったのは集団下校。炎天下の校庭に、全員揃う まで地区別に並んで待つ。教員が名前を読み上げ、地区 別に引率して下校する。ビーチサンダルをはいて学校に 来るのは、﹁安全ではないから﹂と、この日禁止された。 三十五度の炎天下に三十分、ぐらい待たされても、子ど もたちは平気だ。元気に帰り、帰宅後すぐチャリンコに 乗って校区を駆けめぐる子もいる。大変なのは大人だ。 この日の午後は個人懇談の最終日。二学期制なので終業 式や﹁あゆみ﹂︵通知表︶がない。その代わり国語と算 数の評価を記した補助簿が作られ、親と一週間懇談する の だ 。 七月二十六日 プ
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ル登校四日目。教員は痛々しいくらい日焼けをし ている。疲労の色が隠せない。二日目から五日固まで、 午後は校内研修が続く。この日は私が所属する人権の校 内研だった。川西市子ども人権オンブズパl
ソン元代表 ルで相談した。虐待や特別支援学級の子どもたちに向け一 られる、まわりの子どもたちの眼差しにいかに対峠する一 か、多くの担任が困っている。桜井さんはそんな担任の一 ためのレジュメを作って下さった。 講演が始まった。恐れていたとおり何人もが居眠りを一 している。反応が悪い。教員の疲労がピi
クに達してい るのだ。桜井さんの熱意が﹁疲れているのに、なんで連一 日校内研やねん!﹂という教員の憤怒とすれ違っている一 ようにも思えた。それでも桜井さんは素晴らしい講演を一 された。ただただ申しわけなく頭が下がった。 二学期制も、夏休みが短くなったことも、プール登校一 も、教員たちが現場の状況に照らし合わせて望んだこと一 それらに抗わ一 何だか悲一 の桜井智恵子さんに来てもらった。 学校の事情を桜井さ ん に お 伝 え し 、 どのような講演内容にするか何度もメl
で は な い 。 すべて上から降りてきたのだ。 ず 従 い 、 赤黒く焼けて居眠りする教員の姿は、 し い 。 大人が怒らないから子どもも怒らなくなったのだろう。 いったい大人はいつから怒らなくなったのか。濃水飛山記 マ﹁以前、わたしは人権問題につい て 、 ﹃ こ う 考 え る べ き で あ る 。 こ う 考 えなければならない﹄と声高に語っ ていました。眠っている人を起こし たこともあります。それがとんでも ない間違いで、﹃話を聞いてほしい のなら、聞いてもらえるように努力 するしかない﹄と気づいたのは叩年 ほど前のことでした。人びとが人権 問題に抱く﹃むずかしい﹄とか﹃や っかいだな﹄というイメージを、穏 やかに、丁寧に、じっくりと解きほ ぐす作業を、わたしがしなければな らなかったのです。/そこで、わた し が 心 に 決 め た 第 一 は ﹁ 言 企 業 や 知 識 から出発しない﹂こと。話を聞いて くださる人びとの身近な話題を取り 上 げ 、 ﹃ 自 分 に も 思 い 当 た る フ シ が あ る﹄と感じてくださるように努力す る。/第二は﹃人権とは、人が生ま れながらに持っている権利﹄といっ た教科書や辞書に書いてあるような 決 ま り 文 句 は 使 わ な い こ と 。 ﹃ 人 権 と は、人が生まれながらに持っている とされる権利﹂なんですね。人権の 一つひとつに人びとの汗と涙と血が にじんでいるのです。/第三は﹃人 権 と は 、 容 器 ︵ 入 れ 物 ︶ ﹄ で あ っ て 、 大 切 な の は 何 を 入 れ る か で あ り 、 ﹃ 入 れたものを不断・普段に守ろう!﹄ と語りかけること。法律や制度は検 証と豊富化の努力を放棄すると腐る も の な ん で す 。 / 第 四 は ﹃ 人 権 と は 、 生き合いたいという願いに根ざすも のだ﹂と訴え続けること。生き合っ て人問。ところが孤立死 3 万 2 千 人 、 自殺者 3 万人、行方不明高齢者はそ の数を知らず。児童虐待の悲しいニ ュースに胸が潰れそうな日々。﹃生 き合う力﹄の回復が求められている のです。県内各地に残っている﹃お ゆ かげさま・おたがいさま﹄の結いの 伝統をいまにいかす知恵を出し合い た い 。 / 東 日 本 大 震 災 か ら 1 年 有 余 。 わたしはこの間、助け合い、支え合 い、分かち合う人びとの姿に励まさ れ て き ま し た 。 ﹃ 大 津 波 逃 れ し 人 の 避 難所に百余の靴の整然と並ぶ﹂︵本 吉 恭 子 ︶ 。 人 び と の 暮 ら し の な か に 患 づくこの精神は、人としての根源的 な生き合い方を示しています。複合 災害への怒りを押さえながら、わた し は 、 ﹃ 響 き 合 い 、 重 な り 合 う ﹄ 感 性 の 広 が り と 深 ま り を 求 め 続 け ま す 。 ﹂ これは、岐阜県﹃人権だより﹄印 号 ︵ ロ ・ 8 ︶ に ﹁ ﹃ よ く 生 き 合 う ﹄ 世の中を願って|わたしの希望﹂と 題して寄せた文章です。取り返しの つかない間違いから学んだものばか り。東海郵政局の職員はじめ、教え て く だ さ っ た み な さ ん に 心 か ら 感 謝 叫 マ﹃同和はこわい考﹄の発刊から二 十五年。わたしは、﹁人権教育・啓 発と人権施策の展開﹂の世界へと踏 み出しましたが、部落問題について は、﹁和解と関係の修復を図る仕組 み﹂を構想してきませんでした。そ れを桜井智恵子さんの﹃子どもの声 を社会へ﹄︵岩波新書︶で気づかさ れたのです。来年四月からは岐阜の み な さ ん と と も に ﹁ 仕 組 み づ く り ﹂ を 具 体 的 に 考 え る つ も り で す 。 マ奈良の山下力さんたちが開く﹁差 別と人権﹂研究集会︵?とで﹁自 分史のこころみ部落・人権・人聞 を考えつづけて﹂と題して講演しま す。午後は﹁部落差別を超えて生き 合える道とは﹂がテ l マ の 分 散 会 。 さ て ど う い う 展 開 に な り ま す か 。 藤 田 敬 一 ︵ ロ ・ 8 ・ 6 記 ︶ 発行者こベる刊行会(代表藤田敬一) 発行所岐阜市西改田字川向187 4 藤田敬一方 干5011161 Tel.&F田三058239 5348 E mail k [email protected] 印制・発送 戸田写植(干50H015 陛車県笠払咽I円域寺回目lTel出&c88・!864) 定価300円 年 間 購 読 料4000円 郵便振替:01010 7 6141 銀行振替,十六銀行正木支店 こべる刊行会代表藤田敬一名義 普通口座 1418253 - ~o"2'.' 第234号 国〆’k之J2012年9月25日発行
告] 今年は全国水平社結成90周年の年である。戦後の部落解放運動最大の成果である「同 和対策事業特別措置法」下における「同和対策事業」は33年間実施され2002年3月末に 終結した。この時点で、部落解放同盟中央本部(以下中央本部)には33年間に及ぶ同和 対策事業の総括を行い、成果・到達点を明確にした上で今後の課題を提示することが求め られていた。にもかかわらず、中央本部はこの作業に力を入れることなく10年が経過した。 1987年に解放運動への警鐘、諌言として発表された藤田敬一著『同和はこわい考』は法 終結時でも「差別図書」扱いとされ、藤田の基本的な問題提起(「二つのテーゼ」への聞 い)は無視されたままであった。法終結後 10年間の部落解放運動はこの藤田の問題提起 と真撃に向き合うことなしには一歩も前進で、きないはずであった。 「両側から超えるJ一 方の当事者であるべき被差別部落民自身が真の当事者足り得るのかが問われていたからで ある。 交流会ではこの10年間の動きを中心に、多くの視点から話を深めていきたい。 ご参加をお持ちしています。 テーマ『今日における部落問題の現状と課題』 報 告 者 住 田 育 子 石 元 清 英 住 田 一 郎 鈴 木 克 治 [広