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牟子問題の清算(承前)

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(1)

九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

牟子問題の清算(承前)

山内, 晋卿

https://doi.org/10.15017/2557105

出版情報:文學研究. 5, pp.1-20, 1933-07-10. 九州文學會 バージョン:

権利関係:

(2)

の第六に 時の佛徒の肘外的要求に本づくのである︒

牟 子 問 題 の 洞 算

以上本問題に覇し根本資料を取揃へ順序づけをして見た︒さてこの段から問題別に考へて見る︒先つ﹁牟子﹂が何

故に﹁法論﹂や

﹁弘

集﹂の如き佛赦総集中に牧録せられたか︑その泌の事俯を考へて見なければならぬ︒それは嘗

﹃樅

は法徹

にし

て︑

晋代に始めて盛なるを

疑ふ

ミあ

り︒

は︐何とも致し方なき話で︑之を疑ふ方も之を言

ひわ

けする方も︑均しく無理の様であるけれさも︑佛敬側が佛力の

子 問 題 の 箭 邸

弘明

集﹂後序に射外的問題を概括して

六疑

ーこ

して居る︒中々面白い︒そ

︵ 承 前 ︶

第 五 輯

今日から見ればそれが庇史的事質である以上

山 内

︵ 六

八一

︵ 昭

和八年七月

戸発 行

晋 卿

(3)

廣大無泌を主張する敬義の建前からは︑放義ミ事宜さ相互の間に劇係ありて︑然かくあ

っさ

りさ切離されない︒出来

得べくんば嵌代に佛法の緊昌した光景を立證して見たい所である︒そこに裳時佛教徒の憐みがある︒於是その結果古

史の研究や︑古舎の捜索が盛に行はれ︑遂

に彼れらに由り故祁堆裏に偶然にも疲見

せられたのがこの﹁牟子﹂の一書

であ

らう︒その中の秘明求佛の記事が︑如何に彼れらの眼を股らしたであらう︒さき

ー に 引

いた陸澄の本書に脚する断

り書は幸にその消息の幾徹を洩らして居る︒即ち彼れは本啓を放門集中に入れないで

緑序集

中に入れたのは︑その内

容の

大部分が佛敬々義の應酬であるに拘はらず︑特に嵌明求佛の記事を注重したからであるーミ云ふ︒これがやがて本

この

特殊の事術は﹁法論﹂紙に然か

り﹁弘明集﹂も亦然かりである︒集の後序に所謂ゆる第六疑を秤

して

﹁明

帝夢

に感じて︑他毅佛を稲するに逮ひ︑於是秦最束

£り

使い

して

騰四より至る︒乃ち像を開陽

の観に圏

し ︑

臨磁

の室に蔵す﹂さ云ふ︒この中の人名地名に脳する固有名詞の具列が

﹁牟

子﹂

記事

に根

腺するこーこなしに如何にして

出来得や

う ︒ 但し論慨の文であるから牟子日はくこ態々指斥

しな

いだ

けのこミである︒且つその次下の﹁魏武英鑑`

書に妙化を述ぷ﹂ミ云ふのも﹁法論﹂

緑序集

中に収録

した

所の魏の武帝の孔文殿に答

へた

書面に根腺するのであ

るか

ら︑かた

K

\以て明白である︒これが本書の

﹁弘 明

集﹂に牧

録せ

られた理由であらねばならぬ︒

尚ほそればかりでない﹁世説﹂注も﹁文迦﹂注も︑その所引が揃いも揃つてこの求佛の記

事に限られたミ云ふこff)

は︑獨り嘗時の佛教徒ばかりでなく`外間梨科も特に﹃ .︶

の記

事あるが為に︑本書に注意したこさが知れる︒即ち彼れ

ら注家は事荀くも求佛の記事に劇する限り︑本書セ以て哀宏の﹁後樅紀﹂や苑暉の﹁後艇書﹂

等々

よりも一府根本的

書の

﹁法論﹂に収録せられた事梢でもあら

ねば

なら

ぬ︒

・文

學 研 究

第 五 輯

(六 八︱

︱)

(4)

︵六 八三

資料ミ見倣して︑敢て彼れらを捨て此れを取ったのであらう︒かくの如ぎ効果を靡ち得たのは一面佛敬徒の成功こも

見られ︑また他面本奢が決して郷校免園の僻害こして一概にさげしむべきでないこミを物語るミ云つて宜からう︒併

しながら今日の根徒に取りては︑本瞥の偕値は種々の問題に誹りて別に拡大なるものがある︒あながち求佛の記事に

さて本書の佛敬徒に由りて悛見せられ珍重せられた諧時の事俯を前提

‑ fr

して

箪者の想像を退うして見るならばU

附志に﹁後漢太尉﹂の四字を冠せた続

過が

多少合勘出来る様である︒附志の見た墳行本の本書は︑固り現行本ミ異

りた所もあらう︒しかし描然が﹃燕帝崩

後﹂

云々と其つ向から解説した勘から考へて︑巻首の序文にそれらの文

句を

存して居たに相違ない︒それに拘はらす﹁後嵌太尉﹄を冠した加筆者があったミすれば腐分酷い︒しかし明帝求佛の

記事に誘喜した常時の佛放徒にして見れば︑恕すべき勘がないでもない︒恐らくは疲見嘗

時の

題器は牟融の二字であ

ったらう︒佛教徒の或る者はそれを見るや大早計にも後漢太尉牟

融.

こ速

断し︒即ち明帝裳時の府朕目

繋者

として府一

府この書中の記邪を固ため︑その栢植を高めさすべく︑敢てこの四字を加箪したのかも知れない︒若し明帝同時に牟

融なる人なく︑またそ︑ の人が太肘の高官に昇れる知名の人でなかったならば︑かくの如き滑稽は演出せられないであ

らう︒夫れ然かり考へ様に由りては︑この蛇足ありてこそ却つて附志の所収が確かに現行本ミ同一内容を有し︑明帝

求佛の記事を含むものであるここが反證

せら

:の

ある︒箪

者が

先きに殴約の間に窟知さるミ云ったのはこの聯で

ある︒要するに

﹁後

樅太尉Jの四字が別人の蛇足であるミ

云ふ

位のこさは︑誰人も道破し得るこさである︒それは家

ろ問題ではない︑問題は如何にしてこの蛇足が試み

られ

たかさ云ふ黙に存する︒それには迂遠ながら本書が﹁法論﹂

牟 子 問 題 の

箭邪 のみ存するものでないことは云

ふ迄

もな

い︒

(5)

であ

る︒

少しく詳細に述ぺること~する。先づ差裳 や﹁弘明集﹂に牧録せられた事椛を明白にして︑始めて解決せらるべきー)思ふ︒倫ほ附志がこの四字を有るが儘に著録したのも︐湛然がこれを無視したかの様に解説を下したのも︑いづれも甚だ而白いミ思ふのである︒

次にこの段に来て﹁弘明集﹂がその十巻の初稿本から︑兎にも角にも現行の十四巻本になったまでの経過に就て考

へて見る︒これは最初の豫定では本問題に直接の剃係がないから︑之を他日に期する栢りであったが︑次段に述べん

さする所の本書の受けた経過さ曖方を比較すべき便宜を認

めた

ので

﹁弘明集﹂の初稿本が森者僧祐の手に由りて更に再治せられたこさは何ら疑を挟むぺき除地がない︒その第一の證腺

は常初弘明論ミ題

する

著者獨自の論文さして末巻に痒皿かれたものが︑後に至り序慨に書替へられて全魯の後序に擬せ

られたこーこである︒その事は初稿本の目録に弘明論

fぶあり︑また現行本の前序にも﹃論をその末に附す﹂ミ云ふ句が

ありて︑未改訂の儘に裳初の痕述

︐ 笑 残

して居る︒之に由りて著者が再治したさ云ふことは明白千斡である︒第二に現

行本には第十二巻首に別序が附いて居る︒その末文を設んで見ると︑初稿目録に訣げたる三檄に道及して居る︒之に

由りて再治の際に少くもその三檄を増入して︑新たに別序を書き加へたものミ見なければならぬ︒これが第二の證腺

さてそれならば再治に由りて一切が完成したのであらうか否かを考へて見るに︑さぎの三檄に限ら中`初稲目録さ

現行本の内容とを比較すれば︑後者の方には澤山増入せられて居る︒之は嬰方を比較してその出入を射照して見れば

文 學 研

西)1, 

︵六

八四

(6)

︵六

八五

早速に知れるこーこである︒例せは神滅論問隠腸係の杉大なる文書の如きがそれである︒該問題は筆者の考證結果では

二次に一旦り︑第二次は天監七年の出来事である︒恐らくは再治已後︑著者がこの出来事に遭遇してその文書を入手す

るや

︑取敢へす無造作に之

を巻

末に

綴り込んで︑他H

の一

二治

を期

したものではあるまいか︒何`こなればその文書中の

王公朝貴

の返

瞥六十二通

O J 中には随分御余の撰する座なりのものもありて本集編熊の元来の目的たる所謂ゆる﹁︑︑

所の弘明は︑並びに護

法の

論を集む﹂ミ云ふこミに合致しない姫がある︒しかし現在面を見合す間柄では.甲を捨て

;乙を取るミ云ふここに踏路する所もあったらう︒而してその内に天監十七年七十四歳の高齢を以て世を僻したもの

然らば本集三治の任に嘗りたものは果して誰人で有ったであらう︒箪

者の

考では恐らくは府の道宣その人ではある

まいかミ恩ふ︒その第一の證腺は隋の典

長房

の﹁

庇代三夜記﹂十一には本集の巻数は初稿本

その

儘の

十巻

‑こ

なつて居

る︒但し盟本だけに一十四巻

ミあ

るは

離板蛍局が追改したものであらう︒所が道宣の﹁内典録﹂四に至りて諸本い

づれも一十四咎ミ注せられた︒之に由hてこれまで無造作に綴ぢ込まれて居ったものを ︑適

四 国

の所に骰ぎ替へ︑

その

咎第を序次して十四巻の現行定本に招へ上げたのは︑屹度逍宜の手に成りたものご恩ふのである︒向ほそればかりで

い ︑

二の

證腺は逍宜は質に﹁弘明集﹂を増廣して﹁廣弘明集﹂を編集した人であるからである︒

に﹁博練の君子︑惑みて増廣せられんこさ

を﹄

ミ著者が淡然牌来に希望を繋いで居たのが︑道宜が出て丁度その期待

を事園にしたのである︒加之彼我の交渉は之に止まらない︑彼れに﹁秤迦諮﹂あれは此れに﹁秤迦氏譜﹂あり︒彼れ

に﹁枇界記1あれは此れに﹁秤迦方誌

﹂あ

り︒彼れに﹁出三蔵記集﹂あれは此れに﹁内典録

﹂正

紺あり等々︒また人

と思

ふ ︒

牟 子 問 題 の 消

郡 ﹁弘明巣﹂前序

 

(7)

宜はそれは道宜を通してのこーこであ 物に就ても彼れも此れも明律科中の人にして談欲科を兼ぬるものミ云へる︒さればこそ裳時俗間に此れら諸貼の酷似からして此れを以て彼れの後身再誕なり92取沙汰した位である︒夫れ然かり此人が廣渠を編次するに際して︑前集の

砒雑未整理の儘に捨て堺皿かれたのを見たならば︑好し自袈に射するミ同様の手数を為さないまでも︑必す或る程度の

然しながら﹁弘明集﹂現行本はこの一二次の修改を経たので︑もはや完全の域ーヒ到逹したかミ云ふに︑否と答へざる

を得ない︒何となれば︱つはその線目録セ訣ぐこーこである︒明本を除き他の三本には各巻首に小目録はあるが継目録

はな

い︑

不備ミ云ふべきである︑明本に至りてはをの小目録さへも削除した︒固より総目録を作るべくそれ/\作者

の姓字を検索し問題別に文書を匝別

する

のは一寸而倒の仕事であらねばな

らぬ

︒故に坊間最近の刻本に目録を添

附す

るものがないでもな

いが

頗る精確セ鋏

いで

居る

のは已むを得ない︒今︱つの黙は別序に﹁恒標略を僻す﹄さある︑

この

道恒道標二僧は後秦の主誂典字

は子

略に勁し︑その遠俗の勧告を謝絶

した

︒この一件の瀾係文署は現行本では第

云心

に収めて

有る︒故

に第十二巻首の別序を繰上げるか︑若しくはこの文紙りを繰下げるか︐いづれかにすべぎであ

る︒これまた不完ミ云ふべきである︒但し未完成ミは云ひながら︑兎にも角にも道宜

に由

りて一個の定本が出来

た ︒

かくしてこそ﹁開元

録﹂

にも本

集が無條

件で牧人せられるここが出来たのであらう︒筆者はさきに本集が経録中に牧

云つて罹いたが︑

. 

集主僧祐

の梱威に由るミめられて大

蔵の 底本

﹃こ な

った

のは

る︒即ち入蔵を巌ち得たのは彼此二人同功

一個

の働

るこ

ーこ

は云

ふ迄

ない︒

さて如上の紫説は

直接

には﹁

牟子

さ濶係する所がない︑之からその貼を特に考へて見る︒道窟は恐らくは﹁弘明 修治を施すべきであらうミ思ふ︒

︵六

八六

)

(8)

牟 子 問 題 の 洞 邪

るだ けに

脊々の梢︑自ら已み難きものありて︑ 解秤上.最初に決定し附くべき︱つの重要勘であらねばならぬ︒

集﹂の巻第を序次するばかりでなく︑その中の﹁牟子﹂にも手入をしたらしい︒彼れは

集﹂の﹁法論﹂に捌する個所を丁

索叩

に録

して︑その末文に﹁たゞ題目を獲て︑

︵六

八七

この録に著るす﹂ミ断りて居る︒之

に腺るに彼れは既に﹁法諭﹂の質物に接するこミが出来なかったやうである︒しかしそれに拘はらず﹁法論﹂の目次

を録出して﹁牟子﹄の所に来て牟子ーこ大書し﹁一云森梧太守牟子博他﹂の十字を爽注

して 居る

︒四 本﹃

︑︶ もに 皆同

様に

偲の字であって︑他の字ではない︒之を見るに彼れがこの十字を設みて上方の六字は暫く措き.下方の四字を牟子博

偲)設んだこミを疑はない︒若し﹁出一示戚肥集﹂の艇本の通りに偲の字ミして見るならば︑牟子の著者は別に牟姓を

もり名乗る太守牟子博ミ云ふ人の他役であると云ふここになつて仕舞ふ︒殊に樅制には封國に俯相あるも州郡にはない︒

道宣が偲の字lこして誤んだのは正しい︒若し更に筆者の想像4忽退うするならば︑博︑偲︑他一︱︱字は字形相似て居るか

ら︑中間の博字を取り去り牟子催の間違ではないかミも思へ

る ︒

しかしかくの如ぎ場合に態々文字を減らしてまで考

ふるにも及ばない︒筆者は逍宣を信じて牟融字は子博の催ミ諏むのが正しと思フ︒この勘はこの一大謎語たる十字の

しかし之は蹴に﹁内典録﹂に於て

﹁ 法

論﹂の目次を録出

した

場合に就てに過ぎない︒但しさきに架脱するが如く若

し道宣にして﹁弘明集﹂に肘し一個の定本セ作りたるものーこするならば︑彼れは﹁法論﹂に甜しその質物4径接手せざ

一旦侶祐の手に由りて削除せられたこの十字を再往拾ひ上げて`そ

の手定の﹁弘明集﹂定本の小題牟子題下にも書き入れたものではあるまいか︒而してその定本が智昇の﹁開元録﹂に

取入れられ︑大蔵離板諧局の底本にもなった為に︑今日見るが如きものミなったものではあるまいか︒その質は﹁法

﹁内

典録

﹂ 十に

﹁出

一=

蔵記

(9)

は﹁

牟子耶惑﹂の四字を﹁弘明集﹂から取入和十字を﹁法論﹂.から拾ひ上げたfl)云ったのは︑如上の経緯を略示

したのである︒所謂ゆる経録家とは︑この道宜を指したのである︒倫ほ

智昇

の如ぎ経録家は有る儘に十字を存逍

し ︑

少し彼れに後れて出た沸然は少くもこの十字中﹁森梧太守﹄を無視し

たか

様に解説を試みたのは.いづれも皆面白

﹁弘

明集

﹁弘明集﹂初稿本に牧録せられたまでの経過を考へて見る︒それが

T

度﹁弘明集﹂その物の受けて来た経路こ似辿つ

て居るミ思う︒抑も一大謎語‑こも謂ふべき問題の十字は如何に消繹すべきであらうか︒先づ前段に云ふ通りその下方

の四字は道宜の誤方に従ひ︑牟子陣催と題する一部別個の書であるミ見るべきであらう︒元来偲の字を附するものに

色々の種別がある︒先つ経部に屈する経催がある即ち催注である︑之も始から続文の下に割注にされたものではない

が経

r五竺切りても切れないものである︒次に史部に屈する正史の中に普通の列偲があり︑更に著者の自叙偲がある

本人の偲でもある︑之も同一人の作ミして切りても切れない即ち後者は叙催である︒それはその書全憫の序でもあり

ものである︒次に史部雑偲中に著録せらる:別偲がある︑これは始からその人を偲するのであつてその書を偲するの 次にこの段に来て愈々 い

事ミ

思ふ

では

ない

その内に入りて現在に催った牟子その物が︑最初の輩行本時代から 入れたミしても︑荀も十字を解秤する上には︑彼此の間に軽重を附すべきであらう︒何は兎もあれ筆者がさきに続録 論﹂に別し俯祐はその愛語者であり︑道宵は徒らに死兒の年齢セ●指する追娠者に過ぎない︒若し後者が十字を書き

第 五 輯

︵六 八八

(10)

牟 子 問 題 の 箭 邸

︵六

八九

ではない而して勿論別人の作である︒切り離さる場合が多分を占めて居る︒しかしその内にも時代の隔たりがあり︑

その

書に由りてその人を知るべきものは︑その人を偲すらは畢覚その書︑名偲する所

以で

るー

こも

云へやう︒この特殊

の事箭あるものに限り︑その書から見れば叙催の役目を為

すものミも云へやう︒今牟子に就き牟子博偲と題する一部

別個の書があるご見るならば︑部屈から云はゞ牟イは子部の一書なるにもせよ︑史部雑偲中に屈すべき別

催が出来

こともまた

それ

叙 偲 r

して

本梱.

に附

陵す

る様

ー﹂

ったこミも且然可能であらう︒何は兎もあれ六朝を通して別催を

作ることの流行したこミは事四である︒附志に

著録 せら

:も

のは僅にその敷部に過ぎないけれさ

も `

章宗

源氏は綿

密ー

に誼

書の

引用中から︑隋雁志丘

者録

せられさ0別他二臼八十四家の書題狸琥を﹁

隋続籍

志考随﹂中に考据列記して.

居る

筆者もその上に若干の補逍羞し得る︒若し聾侠の事薮をも見込んだなら︑郭しき多数に

上るべきは想像に難

くない︒如何に別偲流行の時代であるかゞ想見さる:°然らば牟

子の

疲見に次ぎ一好事者ありてこの流行の

趨勢

に謳

られて牟子博偲なる一習を物せぬミも限らぬ︒それが又その人を他するはその

書を偲

する所以であるから︑いつの間

にか本書に附随する様にならぬミも限らぬのである︒

この 最後

の場合

に就き極めて無造作に牟子の本事悶牟子

博條

が一

所に

綴込まれたものミするならば︑その書の表

隠は何ミ瞥かれたであらう︒或は一方の牟子でも迎用したであら

う ︑

或は他方の牟子博催

でも

相流むこ﹃

こで あら う︒ して見るミ陸澄の﹁法論﹂を編集した際に彼れの入手した百料中に後者に屈するものがあったではあるまいか︒そこ

で彼れは﹁法論﹂牟子隠下に記録するに際し彼れ自らの手に由りその阻上に﹁一云﹂

の二

i

附加したものではある

まいか︒即ちr︱云﹄

ミは

一本の表題には北

心梧

太守

牟子博個こなつて居るぞご云ふ意味であ

る ︒

しかしながらこの綴

(11)

込本の表題セ牟子ミ隠するのはまだ

しも

牟子博偲こ題するのは丸で

照を笠

して

お母屋を取られたやうで相涜

よぬ

‑ r)

云ふならば︑牟子博催の下に他の字が今一字あったかも知れない︒

はす︒個様の事は少し穿隙に過ぎるミ云ふならば差控えて梱かう︒何にもせよ子部の書に催の字が如何にして紛れ込

みし

か︒

0 1 揚合の偲字は附字ミ相辿じて附酪の意味を願

もし子部の本文に闘する解秤ならば古代に在りては解ミ云ふべぎである︑

cまた勿論子部の書に作者自身の叙はあるべきである︑しかしそれは叙であって偲ご云はない︑正史の叙偲に例す

べきでない︒それから校定者の叙録ならばそれは叙録でありながら僻ミ云はれないこさもない︑淮南い離靡偲はその

的例であらう`之は必ずしも銀部に限らない︒しかしそれは六朝時代の別偲なるものこ眼始形のーつでもあらう︒い

づれにしても作者自身の手に成ったものではない︒今この場合他の字や一云の字‑で如何に消秤すべきか︑之を消秤す

るに本書以外に別個の文書こして僻ー︑題すらものがあったさ想定するのが一番穂富であらうさ云ふだけの事であるC

倫ほこの問

題は更に本書前序の内容からして更に考論すべきものミ恩ふからその臥は後段に談りて

罹く

しからば十字の謎語の内に中間の﹃

芥 心 梧

太守﹂の四字だけが残りた︒之は如何に消秤すべき

かミ

云ふに︑それに就

ら見1︑全然間泣であり︑跡から紛れ込んだものではなからういて現行本の前序に牟子は

一生 仕

官しないミ云ふ所か

ある︒更に池然の如烹

55時本書軍行本に接するこミの出来たかさ云ふ位のことは︑誰人も一目の下に短破し得る所で

ら見ても亦然りこ云

へや

︒さて然らばこの四字は如何なるものが︑その解説に之を無視したかの様に振舞った勘か

襲 悶 辿 い

て紛れ込んで来たか︑此所に至り之を説明すべき要がある︒固り個様の事は的確の閤腺を躯げるこミは出

来ない︑それが出来れば今日問題にもされないで︑疾くの迅日に涜んで仕舞ふ次第であらづ c

さて

筆者

の意見では牟子

文 限 研

10  

今その逸の様子は一向見菌らな ︵六

0 )

(12)

︵六

一︶ は勿論一生仕官しない︑北心梧出身の一逸民を以てその一

生を終始したに相

違ない︒けれざも前序の叙述に腺るミその

麟土地の州牧郡守から俊過せられて︑

り︑中止しなければならなかつただけの事である︒そこで嵌末一般の風習を見るに魏の徐幹の﹁中論﹂詭交篇に腺る

ー ) ︑

常時上は公卿大夫より下は郡守縣令に至るまで︑肝心の公務を発痒皿含役客の学啄

に狂

奔した光最が

歴々

描寓せれ

れて居る︒所謂ゆる﹁公卿大夫州牧郡守より王事を慎ひす ︑疫客を務めミなす﹂さは︑いかにも破的の言であらう︒

然かり逸部の森梧地方も御多分に漏れず︑かくの如き風

習は関分流行

したものであらう︒されば牟子

もそ

のオ尿僻舌

の優越そ名認められて︑否應なしにその郷葺の太守から客分扱にされ︑捨扶持位は平牛共受けて居ったものであらう︒

かく恩義の枷を掛けられて居るので使者の役目︐了命ぜられて︑無下に謝絶するこミが出来なかったに相辿ない︒若し

果して然らば

牟子博催の姓名に冠する肩書を入用こする場合があったミすれば︑紙に仕官しない以上は官制上に

規定

せらるA官名を附する膵に行かぬ︑しかし何こか物慨をつけて見たい︑相常苦心の揚句に奇梧太守災客或は疫師ミで

肩瞥

したのではあるまいか︒その所が更に若干諸人の手を潜る間に︑疫客ミ云ふのも何だか可笑しいさ云ふ様の事

から︑上方の荘梧太守四字ばかh茂り︑下

方の

二字が刊落したのではあるまいか︒その質は一寸も

n I

しく

ないので

ある︑此所は官制上の官名でありてはならな

い ︑ 太守ミ牟子ミの個

人測係を表示すべぎ鈴には`

疫客役師と云ふ様な

る文字こそ最も適堂であるミ云へやう︒以上澁に筆者の愁

見を提

案して晋くだけの事

であ

る︒

牟 子 問 題 の 荷 邸

廊次使者の役目ャ.仰せ附けられた︑

但しいつもそれを質行せんミする間院に至

(13)

罹いたのであらう︒ さて話は前に

戻り

て陸澄は本菌に射して如何に取扱ったであらうか︒常時書

凪ミ稲せられた彼れはその異本の有無

も考

へた らう

文字の提同も調べたらう︑況して勅を奉じて編集するのであるから相︐品の毀任を以て事に賞りたもの

ミ思ふ︒しかし

餘り見苦しい程

のものでなかったの

か ︑

左程手入をしたやうに見へない︒先づ牟子に就ては輩行本と

して二巻或は三巻の巻別があった︒之を﹁法論﹂ミ稲する継集中に牧むる上から之を削除

して 一

篤こした位の事であ

らう

牟子の害名も牟融の揺銃もその儘にして平皿いたらう︑或は捩銃の上には﹁後砒太尉﹂も冠ふさ

つて

居たかも知

れない︒それから彼れ巳前より綴込れて居た牟子栂催もその儘にして叩

辿い

たら

う︑

思へない表隠も別

に手

入しなかったこごは十字の央注に由りて推知せらるA

ら ︑

但し之に由りて彼れの用意の在る所は諒知せられないではない︑即ち荀も牟子を設みてその瀦者の何人たるかを卸ら

んミ

欲せば︑

その

他は推して知るべきである︒

一方

の牟子博偲を一設せば了然たるべ

しミ

云ふ積にて︑敢へて之を切離さず綴込本の儘に之を収録

して

然らば僧祐に至りて如何に之を取扱ったか︒彼れは恐らくは平素座右

に法

論を附いて之を愛玩し︑この牟子の綴込

本の儘t

にな

つて

居るに悩足せず︑自ら

﹁弘

集﹂を編渠

して

之↓

笞収録す

るに

pmり︑十分手人をなし︱つの定本そを作り

たのではあるまいか︒その證腺は先きに云った通り従

来苦名

‑ rrて有った牟子を著者の名ミし或は少し

< ‑

f ) も

著者

の名

に兼用さした︑而して曹名さしては新たに理

惑ミ命名

したこさである)

かく

新たに害名を宜つるこミは甚だ容易なら

ざる事である︐少

< ‑

も校定者にして始めて為し得I ) べき事である︒例せば﹁荀子﹂が始めは孫卿子であり

︑中ごろ孫

卿新書であり︑更に荀卿子と題せられる

のは

︑ 校定の都度

︑書名の笈更せられたからである︒それは郷立の一魯

なれ

文 學 研 究

r砦梧太守﹄だけでは間違ごしか ︵

六 九 一 ー

(14)

(六 九三

さも

紹集

中に収録するこの場合は一肝自由であらう︒今︱つの證腺は俯祐の断然十字を削除した幽であるc之は輩な

る校定に止まらす︑恐らくは彼れが本沓の前序r

こ牟チ博偲

こを宕料

ミし

て稜

方︐

忽切

取り

細合せ現行本前序の形に改作

した為に ︑最早やこの十字は不用である計りか﹁一云﹂の字の如

きは 何の

意味

ナて

も岱さない却りて目障になるばかり

であるので敢然斧絨を下したものであるま

いか

3但し個

様の事は若

しそれが獨立の一書

ーこ して なら ば

`校

定者

﹄こ

して

叙録の憫に書ぎ下し飽く迄第三者の1立場を明白にし何品にか自己の姓

名日

時を自署すべきである︒たミひそれが

継集

中の一篇であるごしても恰かも本翌者平

1 1 自身の箪

に成

るかの如く前序の盟に唐ぎ下すべきで

はな い ︒ 要するに陸澄

本書に弱する

態度は之を姑息に失

し︑僧祐のそれ

は之

笠武曲に失するさ

細叩

ふべ

き であ らう

︒ 筆者

のかくの

如き疑

議︐

名持

つ理由は他に非ず`先づ前序改作の方か

ら述 べる

本書に本来たとひ数行程度のものに

せよ前序らしい

もの

があったらうさ云ふこミは

一部

の閤裁から見1も分かる︒後序があり

て全

書を結んで居ながら︑

堡眼突然第一篇

から

書出されたものミは思へない°且つまた文章の照應から見ても分かる︑後序に﹁子の理する所﹄

云々の句がある`この句ミ逝かに呼應せねばならぬ何物かゞ

最初

に有りて欲しい︒果して現行本前序結末に

﹃名

牟子耶惑さ日

ふミ

ふ ﹄

のが丁度それに相常する︑此句が本来前序の結尾ででもあったらうJ尚はその直前に﹁世俗

の徒︑これを非するもの多し﹂已下は祉人を向ふに廻はして云ふべき口吻である︑即ち自叙こしては妥富なるも偲中

﹁獣

せんさ欲せんか能はず﹂ミ云ふに至りては愈々然かりである︒要するに結蒙

の ︒

一段

は改作の際に従来有った前序をそのま:常餃めたものでがなあら

う ︒

韓じて起首.

I

に牟子の外的態するに眼を惹く︒起酋には﹁五経結末こを誤較べて見る︒先づ其つ先別度の前後阻澁

子 問 題 の 荷

の叙 述︱ こし て

は誤

下し

難い

(15)

第 五 輯

を以て之゜々難す﹄さその態度を執りたる所から﹁之4娑証朝の楊朱提釈々距くに比す﹂ミ︑恰も孟子の再生の如く慇め

そやされて居る︒此逸は牟子を第一︱︱抒ミして取扱ふ作他者の話氣こしてのみ妥常であらねばならぬ︑自砒咄日眼の文句

﹁志 を佛

道に鋭にし︑兼て老子五千文を研す﹂と云ふのは佛主道従の態度である︒また﹃立妙を含んで涸漿Iこな

し ︑

五経を玩んで琴笈ミなす﹄ミ云ふのは佛家本位で

あり

て ︑

灌佃雨家はいづれも従位に岡かれる︑低に此所に来てはも

全く雑家的である︒但し此方が恐らく牟子自身の本色であったであらう︑何ミなれば本論に

﹃五経は五味にして︑佛道は五殻﹂ミ云ふ語がある︑彼此の間に逝かに墜息相迎ずらものがある︒筒つて此方が本色

なればこ↑r泄俗の徒﹂からして﹁五経に背きて︑異道に向ふ﹄ミ云ふ非難の荘︐ご浴せ掛けられたのである︒若し起

首に一云ふが如き五経一貼張であって︑蹂呈血子の再生ででもあるかの如く殊勝に振舞ったならば︑個様の非難を受<

べきでない︒しかしながら牟子の本色は却りて此れに在らずして寧ろ彼れにありたればこ

そ ︑

喋国時僻家全盛の時代少

くもその

惰勢持綬の時

代に

作者をして牟子の述作を餘儀なくさしたのである︒要するに起首ーこ中腹の雨段はその大

部分は改作の際に従来附録的に綴込れてあった所の牟子博催から補項せられたものであったらうミ思はれる︒

尚ほ今一っ

l J f 心の

事はこの改作の

際に︑いつの間にか牟子の名字

が蕗ちて仕舞ったーこ云ふ疑諮である︒全慨この改

作ミ一云ふこミは徹頭徹尾文腟の濶係から来て居らさ見る︒最初陸澄に

して も`

偲閥のものを論集中に入れてならぬご

云ふ位のこさは知りながら︑作者の人物脚歴を催へずには贈かれないので暫く姑息の方法を執りたのであらう︒俯祐

は之を

織派

して敢て改作せんミした︑所が牟子を輩行さして證くならば叙録若くは序践を附したら宜

しい

それなら はや儒家的ではない︑ ミしては可笑しい︒且つ此裟の肘外的態度は全然仙家的であるつ所が結末に行って見るミ俄然約喪

して

居る

即ち

一四G

(16)

訂正した所もあらう︑ り進退雨難に陥ったものではあ

るま いか

一 五

︵六

九五

﹁輔行他﹂や﹁太平御覧﹂引 作

者の

名字をその中に挿入し牟子は名は融に

して

字は子博ミするのは何でもない︑否な乙を挿人することこそ

嘗然

である︒然しながら

綿集中

に牧

録する上からは

この

牟十に限りて前後の諸篇にな

い所 の

叙録

‑笠

するのは閥を失する

.羞ふ逸からは催文を論集に入れるのご大差ない︒そこで是非共牟子自叙の慌に

せね

ばならぬ︑それならば躾中

その

例に乏しくない︒然るに自

叙 ‑ こ

するには自己の名字を吹聰する場所がない︑已むょ忍

ずんば﹃牟子理惑﹄の題下にで

容注

すべきであらう︒更に巳上は文胞の制係から見たのであるが ︑また改作の

資任

ー こ

云ふ方からも考へて見ねばな

らぬ︒例へば俯祐は自作の論文弘明論を

﹁弘

集﹂再治の際にその集の後序に改作し

た ︑

之はいづ

れも

自作であ

るか

ら何返改作しゃうさも勝手である︒しかし他人の作品に劉して改作を試みるのは.武断を迎り越

して

越梱

︑三

云は

れて

も仕方がなからう︒そこで菰々已むを得さるものミしても原作を切取り紺合す程度

にし

て附くべぎである︒殊に今の

場合はその原作が二人の手に成り文閤も︱つは催盟︱つは叙憫の相辿があり︑之を

橿合せて恰も一手に出づるが如く

するのは︑到底不可︸

脚の

事であらう︑之が前

後の

矛盾

含泰

心酪

する所以である︒嬰するにさすがの俯祐も改作の

際に裳 終りに全書校定の一般に就て見る︒此方は血曰通校定者の行方と替った所はないやうである︒即ち入ー習に亘り篇第︐佗

﹁輔行僻

﹂引用の内に`

篇を越へて彼此を

粛合

せた

様に見ゆ

る所 があ る.

行本が

その

様になつて居たものと見るべきであらう︒ま

た繁 蕪↓ 笙訓

節した所もあらう︑

用の内に侠吝既しきものがある︑それは蹴行本にあったのが胴節せられた

為に個様の結果になったのであらう︒要

するに道宜の

﹁弘

集﹂に加へた手紹さ僧祐の﹁牟チ﹂に加へたそれご大憫似迎

つて

居 宮 元 米 校 聾

ご云ふ事は斯道

牟 子 問 題 の 箭 符

それは訂正以前の輩

(17)

の根者に

取り

て並大抵のボでない︑殊に胴以

前の

巻f本時代に於てはその舎を組集に収録したりまた続録に姪次した

りするに際

し ︑

輩に底本の撰採や文

字の

校勘

に止

まらず︑可な

り大

胆に振舞ったものだミ云ふ

こミ

を附加へて罹

く ︒

如上逐段

筆者

は本

書の外形方而に刷する卑見の大騰を

述べ

たので︑此所に便宜上洪氏以下諸氏の意見を歴評する︒

それ

がまた卑見の要領を再掲し彼我の相澁を鮮明にする所以でもあるご

思ふ

から︒

先づ洪願嘔

氏の

附哺三

志の

著録に注意したのは本懇研究上に一個の指

針を示唆

する︒しかし氏は輩にその一致貼を

指摘

した ゞ

けでその相違勘に道及しない︑その方にも暗示せらる

所が

ある

にそ

れを見落して居る︒但し他の諸氏の

凡﹁が

殆さ

隋志のみに根腺して云第するのミ比較すれば確かに卓越し

て居

る︐

次に氏

は年

代の懸隔を論腺こして牟子

の太尉

牟融に非るこミを断

定し

たのは頗る宜しい︑但しそれに拘はらず依然本書の酋題を存盟したのは

︑三

志の一致

﹁好古の過﹄でもあらう︒之に就ぎ洪氏は兎も角も錢太昭氏の

﹁補

綬班

書戟 妥 志

﹂の

本苦題下に︑矢張り隋志を製ひ﹃隙︑字子優︑

官太

尉﹄

ミ御丁

宗に

附け加へたの

は 一 屁酷

い︒

要す

るに

此期は隋志ミしては

或は

樅霞.r稲すべけんも戦近の根徒としては固晒の談

セ甘

せね

はなるまい︒次に供氏

は本

梧太守の下に従事︑橡 .史等の字を脱

した

のではあるまいかさ云ふ疑議を提出して居る︒

また

7

っ牟子

はそ

述以 後に太

こな

ったかも知れ

ない

それ

後人が追器したのではあるまいか

‑ こ

云ふ疑議をも提出して居る︒

如何

に彼

れが十宇の謎語を消輝するに苦心し

たか

ゞ察せら

ら:

°

しかし後者は之を支持すべき傍證なき限り今更取上げて 貼のみを見た誤からも来て居や

う ︑

+ 

叉周氏の所謂る 一六︵六

九六

(18)

牟 子 問 題 の 浦 邸

け加へて盟く︒

︵六

九七

問題さすべきでない︒また前者は若し氏の試案の通りに従事︑橡︑史等の字を脱したとするならば︑これらは州郡の

官制上に立派に規定せられた官名である︑語ってこれらを名乗らせる必要があるならば裳該郡名の下に直ちに莉梧株

﹁一

二國

志﹂

斐催に﹁師友従事﹂の珍名が出て居る`従事は少々融通がきくゃう

である︒兎もあれもご/\太守の字を消秤すべき為に提出した試案でありながら︑太守の字を不用視する破目になっ

て仕

舞ふ

︒ 箪者

の敢て氏に従はずして別に疫客の案を提出した理由は此所に存する︒しかし氏の太守の下に脱字ある

べしと云ふのは︑十字研究上に一個の指針︐を示唆するの功を認めずには居られないのである︒

次に梁啓超氏は胡適氏も批評する通り︑何ら動かすべからざる確證を前提せずして︑頭から本薔を以て晋宋間人の

偽託`こ臆断した︒その先入総主の見から

本書

の偽作者︑始めは窄融に託し終りは太尉牟融にまで持つて行ったものだ

さ云

ふ︑

生子ご牟字ご字形相似て居る云々︒周氏は之を駁して若し然らは前序に陥融が朱皓を殺した悪事なさを態々

提出する代りに︑彼れの佛寺を建立した善行なさを艇艇すべきではないかと云ふ︒珀者の見る所では﹁弘明集﹂中に

正腔

論一

節あり︑それに腺るこ束晋以後彼れは佛敬徒の間にすらも評判の悪い男だミ云ふこミを附け加へて囲く︒晋

宋間人の佛教徒がこの不評判の男に瑕託する氣遣はない︒しかし梁氏が太肘牟融に持つて廻った理由こして︑それを

求佛の明帝に引つ掛けた黙は︑その眺だけを切離せばr後嵌太尉﹂

の梢

秤上

多少の示唆がないでもない︒更に周氏

は梁氏

を駁

して

梁氏が後樅一代牟

融ー

︑三

ふ人は只一人しかないミ山心詰めたのが根本の間謹であるさして︑樅末に二人

の張温があるこさを指摘した︒筆者は史に同一明帝昨代にさへも︑文苑催ーミ四先催ー︑こに二人の偲毅が有りたこミを附 こか砦梧史とか云へば澤山である︒

(19)

ミなさは別書の根搬としては頭から問題にならない︒

し ﹄

衆根誠氏の所謂る

﹃所

﹃胆

より以前は分俗秘だ短 終りに周明泰氏は隋志の牟子を以て本栂以外の全然別書

であ

るー

主張し

たや

うである︒個様の事は太尉牟融の本催

に著述ある

こと

を明記

して

有るなれば格別︑若し然らずんば古態の引用中に牟子ミ題する侠文があり︑しかもその内

容が本瞥のそれミ

のであって反即のも︑佛道二家を排繋し

i E

たも のー こし か見 へ

ないものを痰見せざる限り︑取り立て

ぷ問題にする程の伯値がない︒例へば現行本の﹁劉子﹂の作者セ普通に梁の劉伽として居らけれさも︑その書の内容

が佛放に反到する所があるから︑恐らく親佛家の劉醐ではあるまい︑家ろ排佛家の北齊の劉載でこそあるべぎだミ云

ふ議論が成り立ち得るの

であ

る︒

且つ刷氏の云ふが如く蹴に附志に佃家に列するからさ云ふならば︑新俎府志が之を

道家に列

するのは何故ぞご反詰せねばならぬ︒要するに附志を偏信するの過誤である︒更にまた氏は陪志に二咎ごあ

るのに本饗の紙数は一咎にも足らないミ云ふ︒これは本密が綿集中に牧録せらるA際に常然原書の巻第の削除せらる

ペぎさ云ふこさに想到せず︒また咎子本時

代の

柑節は現今さ澁ひて︑

︵文

通義︑篇巻︶の事質を看過した過誤でもある︒品して﹁輔行他﹂に三巻1こ明記してあるをやだ︒巻数のこ

しかし周氏の別書なるものは直接本書に腸係を持つものでないから︑弛いて取上げるに及ばない︒その本書に射し

する意見さして之を別個の旗魯ーこ云ひ︑前序は催ーこ論‑こが元来分行して居たのを僧祐が合して二変;なし︑かつ催文

を罰節した所があるかも知れないミ云ふのは︑確かに一大卓見であって頗る肯緊に中つて居る︒

筆者

も氏こ同様

にこ

の偲論

別手 ーこ 云ふ こ

f)を瑕

定す

るこ

ーこ

しには︑到底本書の前序を消秤

する こー

︑こ は出 来な いー こ思 ふ︒ 但し 氏の これ に

針する論腺は筆者のそれミ大に異なる所がある︒氏は︱つの論腺さして若し此偲が牟子の自序であるごすれば︐

文 畢 研 究

第 五 輯

一八

︵六

九八

(20)

終りに周氏の十字の解決として提出した試案は甚だ奇怪に既える︒それは外でもない︑この十字を設下して砦梧の

太守の作ら所の牟子博の催さするここである︒丸で我邦巾古の日本天磁

の口

他口訣︐ないし

宗論

の場合にでも出そう

子 問 題 の 荷 邸

を認めずには居られないのである︒

一 九

︵六

九九

叙の

事質は後論の義と絶えて相渉らず﹄

と云

この

意味は牟子の閲庇な

l} Jは理

惑論

の内容と無刷係だミ云ふ意味ら

しい

筆者は之に到して甚だ賛意を表し兼ねる︑牟子の平生が諸子ーに

辿して雑家的であるこf

f )

︑その別論に長じ

て好緋的であるこー

︑︶

こが

︑彼

れを

して

本書を述作させた素因ではあるまいか︑決して無躙係でないさ思ふ︒今︱つの

氏の論腺は牟子の人物は﹁淡泊に甘んじ仕進を絶つ︑また何ぞ必ずしも太守州牧の相溜請するこミを叙して以て自ら

重んぜんゃ﹂

ミ `

筆者は之にも賛意を表し兼ねる︒牟子の翔逹の技側はまた一方に樅横家的の所ありて使者の役目を

果すに適常

して

居る︒そこで州牧郡守から引張り凧

にさ

れる

若し本人にその氣があるなら随分立身出批も出来る闘

であ

る︑かくの如き材能の持主なればこそ明哲保身の必要もあるべく︑俗念を抑制する不断の努力も入用であらう︒

世の中に無能無総のものが動もすれば遁枇

呼は:

りをするのは片腹痛い話ではあるまいか︑故に

輩に

州牧郡守の

激請

を直叙するだけならば︑

自 叙

Lして別に不都合もなからう

︒ 要 す る に 周

氏の

提出した二個の論

腺は甚だ泄弱であ

て ︑

催論別手を立閤するに足らない︒宜なる哉胡氏のそれを獣殺して依然前序を以て﹁牟子自述﹄

﹃ こ

云ひ

﹁自

叙偶

ミ稲して︑それに耳を貸

して

藉説を毅へそうミしないのは無理もないさ

思ふ

侮ほ周氏は僧祐の改作に就ては何等の

根捩も提示しないから批評の仕様がない︒また本書の其瞥であるミ云ふ周氏の卓見は次段に譲つて叩叫ヽ︒何は兎もあ

れ氏の催論別手説にもせよ俯祐の改作説にもせよ︑本雹研究上重大なる示唆を含み従来行詰れる局面を打開さす偉功

(21)

な一種珍無類の設方である︒氏はかくの如き誤方に由り催文の作者↓笠往梧の太守に蹄する考である︒果して然らば筆

者の指摘するを待た中︑若じ個様の場合には脊梧の上に必すその人の姓を冠して太守の二字を省略すべきである︒例

せば桓南郡さか謝宜城とか云へばそれで澤山である︒ G

00 )

る︒それに拘はら中太守の二字を不用視する破目に陥つて仕舞ふ結果になる︒且つ是非とも太守の二字を活かさうと

せば更にその下に姓名を具署し更にその下に所作の二字を入れてもまだ/\面白くない︑所詮牟子博催の四字を脊梧

の上に置替ねばなるまい︒宜なる哉胡氏が之に到して太守の二字は後人の﹁誤加﹂なりさあつさり片附けて仕舞った

のは無理も

ない

しかし

それ

ではこの二字が如何なる経路を辿つて誤加せらるAに立到ったのか︑依然問題を片隅に

押逍り未解決の儘に残

して

居ら

I

こに

なるのは已むを得ない︒

已上諸氏を通じて大蔵本四本の比較を試みず`況

して

﹁出三蔵記集﹂の初稿本目次に獨

れな

い︑

輩に明本のみに探

り而かも大蔵本一切が最初から艇牟融採ミ署せられたかの如く速断して︑自己の研究を出登さした幽に大なる疎漏が

ある︒それは暫く如心するこしても手近にある所の附胆

一二

志の

比較

さへ

屈かない勘あるのは拡だその意を得ない

と思

ふのである︒さて本書内容方面に脳する諸氏の意見︑ヽ︶その批評ごは自下に段を逐ふて之を説かん︒

研 究

今の場合はもこ/\荘梧太守の四字を消籾する為の試案であ

1 0  

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