富山県で絶滅した大型動物(哨乳類・鳥類)の記録
Ⅳ江戸時代中期の越中におけるトキの放鳥とその後の生息状況について*
南 部 久 男 富山市科学文化センター 939‑8084富山市西中野町1‑8‑3;
T h e i n h a b i t e d r e c o r d s o f t h e e x t i n c t a m m a l s f r o m T o y a m a P r e f e c t u r e .
ⅣOnthemhabitedrecordsofJapanesecrestedibis,jVipo"jα〃jppo凡,ofthe
EdoerainEcchuProvince
HisaoNAMBU ToyamaScienceMuseum
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I i n v e s t l g a t e d o n t h e i n h a b i t e d r e c o r d s o f J a p a n e s e c r e s t e d i b i s , j V Z p p o " j α 〃o 恥 i n s e v e r a l a n c i e n t d o c u m e n t s i n E c c h u P r o v i n c e o f t h e m i d d l e E d o e r a 、 1 , 1 6 3 6 , J a p a ‐
nesecrestedibisbroughtfromOomiProvincewerereleasedat9pointsaroundofth亘 middlereachofOyabeRiverwherethesebirdswerebredandthenumberincreased later・Afterthat,thesebirdsbecameinhabitedconstantlyaroundthereleasedDlace
f o r a b o u t l 5 0 y e a r s 、 I n t h e l o w l a n d o f E c c h u P r o v i n c e o f t h e m i d d l e E d o E r a , J a p a n e s e
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o f l , 7 0 0 t o t h e a n t e r i o r h a l f o f l , 8 0 0 b y f o r e s t c l e a r i n g , T h e p u r p o s e o f r e l e a s i n g b i r d s
wasconsideredtohavebeencollectingoffeatherstomakearrowsusedbyKagaClan Keywords:MiddleEdoera,Ecchu,Japanesecrestedibis.江戸時代中期の越中の古文書く富山県小矢部市の加茂文書,過眼録(笹島,1926)等>を調 査し,江戸中期の越中におけるトキの放鳥やその後の生息状況について次の知見が得られた。
1)1636年に砺波郡(現在の富山県西部)の小矢部川流域9箇所に近江(現在の滋賀県)から 取寄せられたトキ100羽が放鳥され定着し,その後増え,150年間は放鳥地周辺に定着していた。
2)江戸中期には,越中の中央部から西部の平地に広く生息していた。3)開墾等の影響で:
江戸後期前半(1700年代後半〜1800年代前半)にはトキの生息地の環境は次第に悪くなっていっ た。4)放鳥の目的は加賀藩の矢羽製作のためと考えられる。
キーワード:江戸時代中期,越中,トキ
富山県の絶滅動物調査の一環として,オオカミ,カ ワウソ,アシカ,イノシシ,ニホンジカの5種のロ甫乳 類,トキとコウノトリの2種の鳥類のアンケートや狩 猟統計調査を行い,その結果については既に報告した が(南部,1999a,b,c),トキに関する 情報は収集 できなかった。トキは江戸時代には日本各地に生息
*富山市科学文化センター研究業績第221号
し,安芸国(広島),阿波国(徳島)では放鳥され≦
越中においても,放鳥されたことが安田(1983)によっ て簡単に紹介されている。今回,越中のトキの放鳥に 関連した古文書の調査により,放鳥の実態やその後の 生息状況の一部が明らかになったので報告する。
調査文献
調査した主な古文書は,加茂家文書(富山県小矢部
市),過眼録(笹島,1926),内山家文書(富山県富 山市)等である。また,当時のトキの生息状況を知る ため,加賀藩領の郡方産物帳(盛永他,1985)や加賀 藩史料第三,十三,十四,十五編(前田育徳会編:1930,1940,1941,1943)等も調査した。加賀藩の藩 主等は田川(1995)を参照した。
1.加茂家文書
小矢部市史編慕委員会編(1971a)によれば,加茂 家は,江戸時代の砺波郡水嶋村(現小矢部市)にあり,
1636年(寛永13年)に当時15才の庄左エ門が加賀藩の 烏見役を命じられ,歴代烏見役を務めた。加茂家文書 は,寛永,万治のころから明治にいたるまで触留や鳥 見報告控え,藩主の鷹狩を案内した記録など49冊から なり,小矢部市の重要文化財に指定されている(小矢 部市史編慕委員会編,1971b)。加茂家文書のコピー は小矢部市立石動図書館に保存され,一部は翻刻され 報告書になっている(小矢部市ふるさとづくり読書講 座,1992,1997)。加茂家文書は,トキをはじめとし て,江戸時代の越中の鳥類の生息状況や保護政策を探 る上で貴重な古文書と思われる。この中で,トキの放 鳥に関する部分を調査したが,今回は,既に報告書と なり翻刻されているものや(小矢部市ふるさとづくり 読書講座,1992,1997),小矢部市史(小矢部市史編 慕委員会編,1971a)で翻刻されているものを調査し た。加茂家文書の全体を調査したわけではなく,他に もトキについ記述されている可能性があると思われる。
① 原 文 : 越 中 御 鳥 見 被 仰 渡 帳 図 1
小矢部市立石動図書館蔵品古文書番号4 加茂家の烏見役の役儀または留書等を編冊したもの と思われる。トキの放鳥に関する部分の翻刻は,小矢 部市史(小矢部市史編幕委員会編,1971a)で紹介さ
れている。
概要:1639年(寛永16年)2月近江国栗太郡(現在の 滋賀県)から取り寄せたトキ100羽を鷹方役所が砺 波郡(現在の富山県西部)の今石動,年代村,野口 村・原村,宗守村・樋瀬戸村・嫁兼村・広谷村・香 城寺村の栗の御林に放鳥した。トキが多く生息する ようになり,宮林や寺社門前などに色々な鳥が営巣 するようになった。そのため,鳥目二貫文(銭二千 文)の拝領を仰せ付けられている。
②原文:亨和3年(1803年)留帳図2
小矢部市立石動図書館蔵品古文書番号19 報告書:小矢部市ふるさとづくり読書講座,1992.加
茂家烏見役留帳,安永4年(1774年)八月より御留 帳妙,pp,76.小矢部市立石動図書館
同報告書の27‑29ページにトキの放鳥地の状況が下 記の通り記述されている。
概要:1803年(亨和3年)6月8日付けで,烏見役庄 左エ門が藩の鷹方役永原七郎右衛門外5名に宛た控
えで,以下の4つの内容からなる。
1)砺波郡小院瀬見村の野地原と野地野の2箇所の 栗の御林は,トキの営巣場所として藩が定めたと ころである。緒鳥が営巣する場所は栗の御林に指 定された場所である。開墾されると聞き,御林の 番人の八右衛門へ尋ねたところ,砺波郡大西村嘉 平が先年十村を勤めていた時,開墾を願いでたと ころ許可され,松など伐採し段々畑にすると御林 の番人より聞いた。営巣場所の御林を焼き払うよ
う申しているが,焼き払わないように八右衛門に 申し付けた。
2)嫁兼村の羽佐見野原は百姓持山の栗林を摂取し てトキの営巣する栗の御林にした所である。当時 開墾のことを同村肝煎へ尋ねたところ,大西村嘉 平が先年十村を勤めていた時,開墾を願いでたと ころ去年許可され少々畑にしたと聞いた。鴇など の営巣する栗の御林というのは御先代様の御意向 によるものであり,無用にし難いことである。
3)宗守村田湖浦野の栗の御林は先代様の御意向に よりトキの営巣場所となったところである。開墾 のことを同村肝煎へ尋ねたところ,大西村嘉平か 十村を勤めていた時,開墾を願いでたところ去年 許可されたと聞いたが,畠にしてしまえばトキは 他へ移る恐れがある。このようなことになれば,
必要な時に差し支えると思う。
4)以上の鴇等の営巣地の事
先代様が近江国栗本郡よりトキ100羽を取り寄 せ鷹方役所へ命じ,先祖の庄左エ門へ放すように 申し付けた。小院瀬見村等の栗の御林へ全て放し たと聞いている。この外,9箇所の御林の状況
(トキの営巣状況)は変化していない。この事を 申し添える。
③原文:天明3年(1783年)留帳
小矢部市立石動図書館蔵品古文書番号12 翻刻は,小矢部市史上(小矢部市史編慕委員会編=
1971a)及び新田・石黒(1990)で紹介されている。
概要:治惰(加賀藩第11代藩主)江戸からの帰城の際 の1789年(寛政元年)4月26日〜27日にかけての鷹 狩 の 記 録 。 か ら す , 青 鷺 , 鴨 鴇 , 鶴 , ひ な 黒 の 獲 物が上がっている。
指支可申与奉存候 宗守村領田湖浦野与申栗御林とき巣所二御先代様御様子御座候而為被仰付置候然処畠開キ候故同村肝煎二相尋候得者大西村嘉平十村相勤候節新開キ願候処去年願之通り被仰渡候与申聞候開二仕候得者以来とき巣所退転仕候左候得者御用等之節 御先代様御様子御座候二而為被仰付候得者無用一一難相成儀与奉存候 所栗御林与申者 嫁兼村領羽佐見野原百姓持山栗林御取上二而とき巣所栗御林被仰渡候当時畠開キ候故同村肝煎江相尋候処大西村嘉平十村相勤候節新開キ願置候処去年被仰渡候二付少々宛畠二仕候由申聞候鴇等巣 仰付置候処当時畠開キ相成候故御林番人八右衛門江相尋候処砺波郡大西村嘉平先年十村相勤候節新開二奉願候処去年願之通り被仰渡右松木等伐取段々畠二開キ候由御林番人申聞候然者右巣所御林焼払申二付焼払不申様御林番人八右衛門江申付置候 御座候同村領野地野与申とき巣所栗御林当時松木三本迄二御座候右弐ケ所諸烏巣所栗御林二為被 口上書を以申上候
砺波郡小院瀬見村領野地原与申所栗御林とき
巣所二被仰付置候松木拾五本雑木弐本〆拾七本
後藤吉太郎様
享和三年六月廿八日一一永原七郎右工門様御達申上候
寛永十六年二月近江国栗太郡より鴇百羽御取寄被
為遊候二而御麿方役所此元主附二而砺波郡今石動城
林等右鴇放置候様被為仰出旨被仰渡候二付右今石勤
城林井二年代村宗守村野口村原村樋瀬戸村嫁兼村
麿谷村香城寺村栗御林二鴇放置候所右鴇巣多仕候二付
宮林井二寺社門前等林諸烏巣被仰付依而御目録を以
烏目弐員文拝領被仰付候
無御座候右之趣御注進申上候以上亥六月水嶋村御烏見
庄左エ門花押永原治九郎様
佐藤八郎左衛門様
永原七郎右衛門様 故蔵一申様被仰渡小院瀬見村等栗御林ケ所不残放置候由承伝申候此外九ケ所御林相替義 御先代様近江国栗本郡6とき百羽御取寄為一被遊候御麿方役所江被仰渡私先祖庄左衛門江主附候而 右とき等巣所之義 一越中御烏見被仰渡帳﹂ 池田勝左衛廃ゞ様
︵脈茂家文書︶
図1.加茂家文書の「越中御鳥見被仰御 渡帳」に記載されたトキの放鳥の記 述。*原文では「本」であるが「太 の間違いと思われる。
図2.加茂家文書の1803年(亨和3年)留帳のトキの記述。小矢部市 ふるさとづくり読書講座(1992)による。
④原文:寛政四年(1792年)寛政五年(1793年)留帳 小矢部市立石動図書館蔵品古文書番号13 翻刻は,小矢部市史上(小矢部市史編纂委員会編,
1971a)及び新田・石黒(1990)で紹介されている。
概要:1792年(寛政四年)3月6日の鷹狩の記述で,
雁,小鴨,第鷺,錐,からす菱食,燕,ときの獲物
が上がっている。
③及び④の鷹狩のトキの捕獲記録は表1に示す。
2.過眼録(福光町立図書館蔵)
報告書:笹島久太郎編,1926.過眼録図3 富山県福光町関係の資料をまとめるため,笹島久太 郎が弟子とともに色々な古文書を書き写したもので,
11分冊よりなる。トキの放烏地である原村のことが記 述されている部分は,宮永家の古文書を書き写したも ので,その出典は下記の通りである。
天明3年(1783年)
新川郡立毛為内見分 罷 越 候 剛 村 繰 泊 所 並 旧 跡 等 覚 附 萱 山 木 名字追加書
卯 八 月 宮 永 十 左 衛 門
1783年(天明3年)8月宮永十左衛門新川郡へ田畑 の作柄検分のため出かけた折の村内旧跡跡等の覚書及 び山の木の名前などを書き加えたもの。
宮永十左衛門(1732〜1803)は,砺波郡下川崎村 (現小矢部市)の豪農宮永家の5代目で,1980年には 山回り役を務める(米原,1994)。
概要:原村の御林は,別名朱鷺の林という。元々百姓 の持山であったところであったが,微妙院様(加賀 藩第3代藩主利常)が他国より朱鷺を求め越中川上 に放鳥したところ,この林に営巣したため,御留山 となり,釜や斧のよる伐採が禁じられ,里人が鴇の 林と唱えたとのことである。
3.内山家文書(富山県立図書館蔵)
内山家文書は婦負郡宮尾(現富山市)在住の代々富 山藩の十村を務めた内山家に伝来する寛政年間(1789
〜1800年)から明治時代に及ぶ記録類である(広瀬,
1976)。
原文:寛保弐年(1742年)諸事留帳図4
1742年(寛保2年)4月15日付で,針原村,北代村,
八町村,布目村,打出村,利波新村,中沖村,土代村,
高木村,小竹村,吉作村,埜口村,埜新二つ屋,住吉 村,音年村,長沢村の16力村の肝煎の合名で富山藩庁
に願い出た際の十村の御用留で以下の内容である。
概要:田植えをした所へ,黒鴨,とき,から鷺,雁が たくさん植田の中へ入り込んで苗を踏み荒らすので 迷惑極まりないとこです。そのため,毎年のとおり 鉄砲打ち衆を差し向け,そのような烏を打ち捕えて 下さいますようお願い申し上げます。
4.加賀藩領の郡方産物帳
図書:盛永俊太郎・安田健・田川捷一,1985.享保天
文諸国産物帳集成第1巻.加賀・能登・越中・越前
科 学 書 院 . 、
同書によると,産物帳は1735年(享保20年)から数 年にかけ,八代将軍吉宗に仕えた本草学者丹羽貞機
(正伯)の企画と指示により,全国の大名領等の農作
物,動物,植物の種類名等を調べさせたものである。そのうち,同書には加賀藩領等のものが記載されてい る。越中の産物は,砺波郡,射水郡,新川郡が上がっ ている。トキは,1738年(元文3年)書き上げの郡方 産物帳の「烏部」の項目に記載されている(表2)。
5.加賀藩史料
加賀藩史料は第1編〜第15編,藩末編上,同下,加 賀藩史料編外の全18冊からなり,著作著者は財団法人 前田育徳会,発行は清文堂出版社(大坂)であり,初 版は1929年(昭和4年)「第1編」〜1943年(同18年〉
「第18編」,1933年(昭和8年)「加賀藩史料編外」,
1958年(昭和33年)「藩末編上,下」で,1960年(昭 和45年),1980年(同55年),1981年(同56年)に復 刻されている。
内容は1579年(天正7年)〜1871年(明治4年)の 加賀藩の主な記録が記述され,表題,出典,釈文から なる。鴇等の羽の提出に関する記録は,第3編,13編,
14編,15編(前田育徳会編,1930,1940,1941,1943}
にある(表3)。
6.小矢部市史
小矢部市史上下(小矢部市史編集員会編集,l971a b)の加茂文書の鴇が記述されている「麿狩」の目次
は次のように構成されている。
・加賀藩政のもとに
・町方の行政と財政
・鷹狩347‑364ページ
「鷹狩」の項には,鷹狩のはじまり,加賀藩の麿匠,
鳥見役,御旅屋,越中の烏見役,不湖,鷹狩の道筋と 区域,鳥見役の留帳の内容に分かれている。
鷹狩の道筋と区域には上述の加茂文書①が,烏見役 の留│帳には,同③及び④が引用してある。
小矢部市史下には加茂文書について808ページに謝 単に解説してある。また,執筆者の一覧があり,(上}
の「加賀藩政のもとに」の執筆者は,坂井誠一,木下 秀夫,松永公英,平野良作,石崎直義の各氏と記して あるが,鷹狩の執筆者は明記してない。
乍恐口上書を以御断申上候の一私共村々田うへ申候所々黒鴨ときから鷺雁多植田ノ中へ烏む入込苗を引ふミ荒シ迷惑至極二奉存候間毎年之含
通御鉄砲打衆御出被成右鳥類打捕被下候様二霊
奉願上候問御慈悲ノ上を以早速御出被成候様二被為卜た仰付被下候ハエ難有恭可候存候以上れ
載寛保二年四月廿五日
針原村覚衛門に
州州叶譜坤恥畔 打出村和兵衛︑J 利波新村善兵衛年 中沖村口圃助唖 士代村目三衛門d 高木村五衛門年
小竹村助三郎弐
吉作村善五郎保 埜口村吉衛門喧述 埜新二つ屋村善衛門書記 住吉村孫助文の 者年村瀬兵衛家い 長沢村治右衛門帥癖
栂野覚兵衛様・駆吉川館兵衛様図
︵内山家文書︶
に趣 三原村許胤 ①の
兜キート源刑期膨州鯛撫伽雌鮎椴繍
象豚芳も求沸ざざら此然一応1川上隈承う了昨1幅火銅桂 需砕懲謙隅賊射淑洲俄然鰍蕊
I由沙
図表1越中での鷹狩の際のトキの捕獲記録(加茂家文書による。引用:No.12は天明3年留帳。Nolg
は寛政四年寛政五年留帳。本文参照)
鷹 狩 E トキ捕獲の記載 現在の地名 引用
1789年(寛政元年)4月27日 壱鉄壱
っ砲っ
な 鴇り鴇〆 四 羽 魚 津 よ り 小 出 迄 御
魚津市より富山市水橋小出NQ12 高岡市江尻
江尻村領御鉄砲御こぼし 1792年(寛政4年)3月6日 壱 つ 鴇
壱 つ と き
今開発村順御小将江被仰付候 新川郡天正寺村領
大 島 町 今 開 発 富山市天正寺
NQ13
調査結果及び考察 1.トキの放鳥地とその後の定着
「越中御烏見被仰渡帳」に掲載されている1636年に トキが放鳥された砺波郡9箇所の地名と現在の市町村 名を対応させると,今石動(小矢部市今石動),年代
村(福野町年代),野口村(同町野口)・原村(城端
町上原),宗守(同町宗守)・樋瀬戸村(福光町瀬戸〉・嫁兼村(同町嫁兼)・麿谷村(同町広谷)・香城寺 村(同町香城寺)である。原村以外は,現在も地名と して残っている。原村は山田川左岸にあり,集落は1920 年(大正9年)に立野ケ原演習場の拡張により北方約
1kmに移転した(高瀬,1994)。いずれも小矢部川の 中流の流域である(図5)。現在の環境(図6)は,
年代村(福野町),宗守村(福光町)は,小矢部川右 岸平野部の散居村の水田地帯である。樋瀬戸村・嫁兼 村・広谷村・香城寺村(福光町)は,医壬IIlIII麓にあ り,近くには小矢部川が流れ,野口村,原村(城端町)
は,小矢部川支流の山田川沿いにあり,河岸には,所々 林が残り,集落周辺には山麓の林が近くに迫っている。
平地には集落が散在し,水田や畑地となっている。地 形等から推測すると,小矢部川やその周辺の水田は水 鳥のトキ等のエサ場となり,河畔の林や山麓の林,寺 社林は営巣地として利用され,トキの放烏地として適 地であったと,思われる。
放鳥後約150年後の1783年(天明3年)の宮永十左 エ門の「原村の御林…」の記述には,地元民から「鴇
安田(1983)は,江戸初期にはトキは主に東日本に
生息し,中期には全国的に分布が広がったとし,その 原因は,禁猟区が定められたこと,諸侯による導入繁 殖を上げ,安芸国(広島県),阿波国(徳島県)など で移入されたことを報告している。越中においても,放鳥によって増えたことが,今回の放鳥後の記録やト キの羽の収集からも裏付けられる。
表2郡方産物帳等に出てくるトキの記述(盛永他,1985;
地 域 記 載
朱朱朱紅 鷺鷺鷺鶴
とうからす とうからす とうからす とうからす 砺 波 郡
麓中瀬
珠洲郡・鳳至郡
と う か ら す 朱 鷺 と う か ら す 朱 鷺
能豊鯛憾烏郡
2.江戸中期の越中のトキの生息状況放鳥より約100年後の1738年(元文3年)書き上げの 郡方産物帳によれば(盛永他,1985),越中,加賀,
能登,越前にはトキが記録され,越中では,砺波郡,
射水郡,新川郡に記録されている(表2)。
内山家文書の1742年(寛保2年)の諸事留帳には,
現在の富山市呉羽周辺の地域で毎年水田の苗を踏み荒 らす害鳥である黒鴨とき,から鷺,雁を追い払って ほしいとの内容である。現在の地名と対応させると (図4),針原村(富山市針原),北代村(同市北代),
八町村(同市八町),打出村(同市打出),利波新村 (同市利波),中沖村(同市中沖),土代村(小杉町 土代),高木村(富山市高木),小竹村(同市小竹),
吉作村(同市吉作),埜口村(同市野口),埜新二つ 屋(同市ニツ屋),住吉村(同市住吉),音年村(婦 中町羽根または富山市羽根),長沢村(婦中町長沢)。
長沢と羽根を除くと,いずれも神通川左岸側の富山市 呉羽丘陵の西部から北部にかけての平地と神通川支流 山田川の山麓部の流域である。越中中央部の平地には トキが普通に生息していたと推測される内容である。
加茂家文書の鷹狩の記録(1789年,1792年)では(表 1),現在の魚津市から富山市にかけての平地,大島 町,高岡市の平地で捕獲されている。
これらの古文書や加茂文書の内容,羽の請取状から 江戸中期にはトキは越中の西部から中央部の平地に広 く分布していたと推測される。砺波郡の小矢部川流域 のトキは,1639年の放鳥の結果定着し,他郡のトキは 砺波郡の放鳥地から分布を広げた可能性もある。なお,
と う か ら す 朱 鷺 烏の項にトキの記述なし
加賀鰯
越 前 越 前 国 福 井 領 と う か ら す
の林」と呼ばれているように原村では放鳥後繁殖し定 着したことがわかる。加茂家文書の「烏見役留帳」の トキの営巣地の記述は1803年(亨和3年)書き上げで あり,トキが放鳥後も9箇所全てで変わらず定着し営 巣していたと推測される内容であり,放烏後150年間
は繁殖し定着していたと思われる。
広瀬(1998)は,太田家文書(現小矢部市)に記述 されているトキの羽の請取状(1692年〜1714年のもの)
を次のように紹介している。1692年(元禄5年)10月 35枚,1696年(元禄9年)正月鴇丸羽物74枚,片羽物 174枚,同年12月鴇丸羽物15枚,片羽物43枚,1711年 (正徳元年11月丸羽物6枚,片羽物27枚,1714年(正徳 4年)2月片羽物52枚。丸羽物をトキ1個体の両翼,片 羽物を片方の翼と考えると,1696年(元禄9年)には 少なく見積もっても197個体分のトキが捕獲されたこ とになる。1639年に100羽のトキが放鳥され,約60年 後には約200個体分の羽が採取されたことになり,放 鳥後に定着し,その後トキの羽の収集が可能になるほ どトキが増えたことがこの請取状からも推測される。
なお,放鳥時にトキが生息していたかどうかは資料が なく不明である。仮に生息していたとしても十分な羽 が集まるほどには生息していなかったと思われる。
表3加賀藩による鴇羽等の買い上げ,差し出しの通達(加賀藩史料による。引用は編の番号と掲載ページう
表 原 典
和 暦 西 暦 題 引 用
年
年年年年二年 元元五三十三 治文政保保化 菖寛文天天弘 123456
越中神通川以西諸村に命じて鶏の尾を責上げしむ。
鴇の羽を所有する者に責上を命ずo
矢を製するが為鴇等の落羽を藩に提出すべきことを真議す。
鴇羽一枚につき一文以て買い上ぐべきことを告ぐ。
鷲羽・鴇羽等を拾いたる者は御郡所等へ差出すべきことを命す蓬 諸鳥の落羽を弓矢奉行に差出すべきことを命す。
三百二篠奮記 改作所奮記 留 帳 抜 書 御 用 儀 品 々 留 帳 御 郡 典
郡 方 御 鯛
333455
1111
541 932 153‑154 289‑290 305‑306 909‑911
︵×︺・竜⁝・・︲今二年ご写一・・・︲︲︲︲一八hUPhJ八hU︑〃臼ハペリ4基44︽戸hUハhU︹xUn︵︺︑︹︶︿×︺イーエ勺Iエイー上剣I上訂Iエ可I上
濠
境 小 川
川
} 蜜
蕊
神通川
)‑雪急
◆そ
在 へ一
、 、
ノ
蕊︑︑鯛側i︲︽
20Km
1 1
図5.1636年にトキの放鳥された地点(加茂家文書の越中御烏見被仰御渡帳),トキなどの駆除願いを提出した村々
(内山家文書の1742年の諸事留帳),鷹狩でトキが捕獲された場所(加茂家文書の1789年,1792年の留帳)を現
在の富山県の地形図に対応させた。一点破線は,現在の市町村境。下記の括弧は現在の地名。●トキが放鳥された村々。l・今石動(小矢部市今石動),2.年代村(福野町年代),3.宗守(同町宗守),4.香城寺村
(福光町香城寺),5.度谷村(同町広谷),6.樋瀬戸村(同町樋瀬戸村),7.嫁兼村(同町嫁兼),8.野口村(城端町野
口),9.原村(城端町上原)
▲駆除願いの出された村々。1.打出村(富山市打出),2.布目(同市市布目),3.利波新村(同市利波),4.中沖村(同
市中沖),5.八町村(同市八町),6.埜新二つ屋(同市北ニツ屋),7.高木村(同市高木),8.埜口村(同市野口),9.
北代村(同市北代),10.針原村(同市八ケ山),11.小竹村(同市呉羽町),12.吉作村(同市吉作),13.住吉村(同市住
吉),14.土代村(小杉町土代),15.者年村(婦中町羽根または富山市羽根),16.長沢村(婦中町長沢)◆鷹狩でトキが捕獲された場所。1.天正寺村(富山市天正寺),2.今開発村(大島町今開発),3.江尻村(高岡市江尻)。
破線で囲った部分:魚津より小出(魚津市より富山市水橋小出)
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図 a トキの放烏された地域の現在の様子(1999年7月6日 撮影)。下記の括弧は古文書の地名。
1.小矢部市今石動(今石動),2.福野町年代(年代村)ミ 3.福光町宗守(宗守),4.同町香城寺(香城寺村),
5.同町広谷(唐谷村),6.同町樋瀬戸村(樋瀬戸村),
7.同町嫁兼(嫁兼村),8.城端町野口(野口村),
9.同町上原(原村)
富山県東部の平地の生息状況は不明である。
江戸時代の砺波平野や射水平野には,小矢部川や庄 川の洪水によってできた不湖と呼ばれる水溜まりのあ る雑木林が多く見られたことが知られている(小矢部 市史編慕委員会編,1971a)o江戸時代の砺波郡には,
トキ等の水鳥に,エサ場や営巣地を提供してくれる良 好な生息環境が多くあったと思われる。
3.江戸後期前半のトキの生息状況
以上のように,放鳥後(1636年)から100〜150年間 は,トキは越中の中央部から西部の平地に広く分布し,
その生息数も比較的多かったと推測される。
加賀藩では,藩政時代を通じ,新田開発が奨励され ていた(小矢部市史編幕委員会編,1971a)。「加茂 家烏見役留帳」の内容は,トキの営巣木のある藩有林 が開墾されることになり,烏見役である庄左エ門が,
三代藩主利常の御意向を尊重し,トキ営巣林の保護の ため,止めるよう求めているものである。十村の砺波 郡大西村嘉平が開墾を願い出て許可されていることよ り,放烏後150年以上たち,藩の役人には,藩が指定 したトキの営巣する栗の御林であるという意識も薄れ ていると思われる。それに対し,烏見役が先代の御意 向を尊重し,保護を訴えていると推測される。砺波郡 で放鳥後も150年以上は繁殖定着していた反面,藩有 林である栗林の開墾が許可されていることより,栗の 御林やその周辺のトキの生息環境がしだいに悪くなっ ていったと推測される。
広瀬(1998)は,伊藤文書(富山県立図書館蔵)の 1842年(天保13年)の御用留に「鴇羽拾集可指出旨」
と上下新川郡役所から触れ渡されていることを紹介し ている。加賀藩史料(表3,N0.3)には「新川郡迄拾 羽少々宛て毎歳指出候得共,其外御郡方等より一切指 出不申候に付き」(1822年,文政五年)とあり,新川 郡以外からは羽の提出が滞っていることを報告してい る。表3,N0.4,5,6の1832年(天保3年),1841年 (天保12年),1846年(弘化3年)にも同様の記述が ある。前述の1で述べたように1692年〜1714年には砺 波郡からは多い年で200羽近いトキの羽が藩に提出さ れたことを考えると,砺波郡ではトキの生息数は比較 的多かったと考えられる。このようなことから,江戸 後期前半(1832〜1841年)には,越中の新川郡には羽 を収集できるほどトキが生息していたが,砺波郡には 羽の収集が困難であるほどトキが少なくなったと推測 される。また,表3,N0.3の中には「其上近年は鴇丸 羽肉付之儀に而所々指出,責買仕候鉢に相聞申候。」
とあり,NO6のも同様の内容の記述がある。これは,
トキの羽が藩に提出されずに売買されている内容であ り,このような不正と思われるトキの捕獲も少なくなっ た原因の一つと考えられる。
このように,放鳥後200年頃には,開墾などにより トキの生息環境は悪くなり,砺波郡などでは少なくなっ たと推測される。
4.加賀藩によるトキの羽の収集
加賀藩史料によれば,加賀藩はトキの羽を集めるよ う通達を出し,最も早い時期は,1661年(寛文元年>
である(表3)。文政5年の表題は,「矢を製するが 為鴇等の落羽を藩に提出すべきことを真議す」とあり (表3),その内容には「文化5年矢天井御用御矢被 仰付候狗も…」とある。上述の加茂文書②−3)には
「…御用などの節指し支え申すべくと存じ奉り候」と あり,必要な時に困るという内容である。実際に,
1692年〜1714年にかけトキの羽の請取状が残っている (広瀬,1998)。このようにトキの放鳥の主たる目的 は,トキの増殖をはかり,羽を集め矢羽にすることと ,思われる。
摘 要
1)江戸時代のトキの生息状況を知るため,加茂家文 書(富山県小矢部市),過眼録(笹島,1926),内山 家文書(富山市),加賀藩史料第三編,十二編,十 三編,十四編,十五編(前田育徳会編,1930,194Q 1941,1943)等を調査した。
2)加茂家文書の「越中御烏見被仰渡帳」によれば,
1636年に越中の西部の小矢部川流域9箇所に近江
(滋賀県)から取寄せられたトキ100羽が放鳥され定 着した。
3)加茂家文書の1803年6月8日付けの留帳によれば トキの放鳥地である9箇所はトキの営巣地として変 化していない。その内の3箇所の小院瀬見村,嫁兼 村,嫁兼村(3箇所とも現在の福光町)のトキの営 巣地である御林が開墾されようとしており,憂慮し
ている。
4)過眼録(笹島,1926)の,1783年の内山家文書の 写しによれば,トキが放鳥された原村の御林はトキ が定着し,里人が「鴇の林」と呼んだ。
5)内山家文書の1742年の諸事留帳によれば,1742年 4月15日付で,現在の富山市呉羽丘陵周辺から海岸 沿いの16力村が,苗を踏み荒らす黒鴨,とき,から 鷺,雁を例年の通り駆除してほしと富山藩庁に願い
でている。
6)1738年書き上げの郡方産物帳によれば(盛永他,
1985),越中,加賀,能登,越前にはトキが記録さ れ,越中では,砺波郡,射水郡,新川郡に記録され
ている。
7)広瀬(1998)が紹介している太田家文書(現小矢 部市)に記述されているトキの羽の請取状(1692年
〜1714年のもの)の内,1696年の合計は197羽分
(丸羽物計89枚,片羽物計117枚)になる。
8)加賀藩史料(第3編,13編,14編,15編)によれ ば,1661年,1822年,1832年,1841年,1846年にト キの羽収集の通達が出されている。1822年,1832年,
1841年,1846年の通達には,新川郡以外からは羽の 提出が滞っていることが記述されている。
9)加賀藩史料(第12編及び13編)によれば,1789年 と1792年の鷹狩の記録の中で,現在の魚津市から富 山市の平地,大島町及び高岡市の平地でトキが捕獲
されている。
10)上述の2),3),4)から,江戸中期に小矢部 川流域にトキが放鳥され定着し,その後増え,150 年間放鳥地で繁殖し定着していたと思われる。
11)上述の3),4),5),6),9)から,江戸 中期には,トキは越中の中央部から西部の平地に広
く生息していたと推測される。
12)2)及び8)から,開墾等の影響で,江戸後期前 半にはトキの生息地は次第に悪化し,少なくなった 可能性がある。
13)8)から,放鳥の主な目的は矢羽作製のためと考 えられる。
謝 辞
氷 見 市 立 博 物 館 小 境 卓 司 氏 に は 古 文 書 全 般 の 内 容 に ついてご教示いただき,加茂家文書の「越中御烏見被 仰渡帳」,内山家の寛保弐年の「諸事留帳」の翻刻は 同氏によるものである。宮崎寛氏,林梅夫氏小矢部 市立石動図書館福光町京図書館,富山県立図書館に は 加 茂 家 文 書 及 び 内 山 家 文 書 に つ い て ご 教 示 い た だ い た 。 大 浦 正 光 氏 に は 原 村 の 林 に つ い て ご 教 示 い た だ い た。科学文化センター館長布村昇氏には英文を校覧し ていただき,志波友子氏には作図をしていただいた。
以上の方々に厚くお礼申し上げる。なお,本研究には 平成10年度富山県博物館協会の研究助成金の一部を用 いた。
参 考 文 献 く古文書>
加茂家文書
・越中御烏見被仰渡帳(小矢部市立石動図書館蔵品
古文書番号4)
・天明3年(1783年)留帳(小矢部市立石動図書館 蔵品古文書番号12)
・寛政四年(1792年)寛政五年(1793年)留帳(小 矢部市立石動図書館蔵品古文書番号13)
・亨和3年(1803年)留帳(小矢部市立石動図書館 蔵品古文書番号19),(小矢部市ふるさとづくり 読書講座,1992)
内山家文書
・寛保弐年(1742年)諸事留帳 く 文 献 >
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pp,460.(原典は,信濃18巻1号(1966)に掲載さ
れ,本論は,一部加筆(付記)されている)盛永俊太郎・安田健・田川捷一,1985.享保天文諸国 産物帳集成第1巻.加賀・能登・越中・越前.科学 書院.
前田育徳会編,1930.加賀藩史料第三編.清文堂出版
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前田育徳会編,1940.加賀藩史料第十三編.清文堂出 版(大坂).
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