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社 会 科 教 育 に お け る 公 民 的 資 質

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* なかだいら かずよし 社会系教育講座

キーワード:公民的資質/法教育/憲法的原理/憲法的価値/学習権 はじめに−問題の所在

 1 .公民的資質とは何か

 学習指導要領によれば、社会科教育の目標は公民的資 質の育成である。その公民的資質については、さまざま な議論がある。そこでは、戦前の国家主義的、あるいは 道徳主義的な傾向への反発として、戦後は「科学的民主 的社会認識の育成」や「民主主義の担い手の育成」「主 権者の育成」という用語として理解されてきた* 1 。近年 は「国家・社会の担い手の育成」とされ、新学習指導要 領でも継承されているが、「国家・社会の形成者」とは何 かが明らかではない。

 これまでの社会科教育では、憲法教育において、統治 のシステムや人権などの「国家・社会の形成者」に関係 するものを体系的に扱ってきた* 2 。星野安三郎によれ ば「憲法教育は、すべての国民が、人権・主権・平和な どの憲法的価値を身につけ、これらの価値を自主的・主 体的・民主的に実現できる能力を目的とする」と定義さ れている* 3 。星野の定義した憲法的価値は、いわゆる日 本国憲法(以下、憲法とする。)の三原則と整合性を示す が、それらは単独で存在するものではなく、相互関連の 中でその意義を発揮できるものである。よって、憲法の 基本的な価値* 4 である「個人の尊重」を目的とした「人 権・主権・平和」を相互関係のものとして捉え、単純に 並列に扱うのではなく、目的と手段の関係性を持つもの として考える必要がある。

 ところが上記のような憲法教育に対して、条文暗記を 中心とした教育、憲法に記されている内容を個別に人権

教育、平和教育といって抜き出し、法との関係が希薄な 教育、統治機構などの制度の側面のみを主に扱うもの* 5

、さらには憲法に記されていることを絶対的真理として おこなう憲法教育などがある* 6 。例えば人権教育につい て北川善英は、「個々の人権問題を意識・感情の問題に 抽象化し、その抽象化された意識や感情への対応に傾斜 した教育がおこなわれている。」と指摘している* 7 。つ まり、人権をその法的・制度的・社会的側面から切り離 して、もっぱら私的個人の「心」(意識・感情)の問題に すり替え、人権自体を矮小化する危険性を孕んでいるの である。他にも、憲法教育の内容について、「何を教える のか(教えてはいけないのか)「どのように教えるのか

(教え込むのか否か)」など様々な論点がある。

 このように、憲法教育には様々な問題点や議論が存在 するが、星野が憲法教育の定義で憲法の価値を身につけ る必要があるとした国民* 8 の育成は、どのようなことに 留意する必要があるのだろうか。次にその国民に含有さ れる意味について考察したい。

 2 .国民の2つの側面

 樋口陽一によれば、国民という言葉には、いくつかの 意味が含有されている* 9 。一方の「国民」主権として の国民は、「全体としての国民」を指し、日本の公共社 会のことを最終的に決める立場にあるものであり、権力 に正当性を与える存在である。そのような国民は、憲法 に縛られる立場にある。それに対して、もう一方の国民 は、「個人として尊重」される立場にある国民である。そ れは、たとえ国民により正当性が与えられた権力にさえ

社 会 科 教 育 に お け る 公 民 的 資 質

――  法教育における憲法的価値・原理  ――

中  平  一  義

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も対抗できる立場にある。さらに言えば、憲法そのもの に異論を唱えることができる、思想と良心の自由を主張 できる存在である。つまり、前者は「主権主体としての 国民」として、後者は「人権主体としての個人」として、

国民を区別することができるのである。

 そのような二側面をもつ「国民」の関係からいえば、

憲法ではその条文で「個人の尊重」を基本的な価値とし ていることからも、全体としての「主権主体としての国 民」がみんなで決めたことであっても、 ひとりひとり の「個人」を尊重するという原則を侵してはならないの である*10

 そしてそれこそが人権の存在理由でもある。「個人の尊 重」を確実なものにするために、人権が存在する。哲学 的、倫理的、道徳的な主張として登場した人権を、憲法 が保障する権利として実定法に取り込むことによって人 権の本性が憲法制度上発揮できることになる*11。さらに、

それらを確実なものにしていくために立法・行政・司法 などの「統治のさまざまなしくみ」も憲法によって定め られているのである。

 つまり、「主権主体としての国民」と「人権主体とし ての個人」との関係性は、後者の立場の「個人」の尊重 を基底にし、それらを確実なものにするために存在する 人権を獲得するため、前者の立場の「国民」により正当 性を与えられた様々な統治システムがあると考えられる。

よって、「人権主体としての個人」は目的であり、「主権 主体としての国民」は、目的を達成するための手段であ るといえる。

 ところで、社会科教育ではこれまでに上記のような視 点を持ち、人が持つ権利を分類してきたのだろうか。先 に述べた憲法教育のような問題性を勘案すると、人を二 つの側面に分類して扱う視点は、特に考察されてこな かったのではないか、あるいは並列のものとして扱って きたのではないかと考えられる。二側面の関係性を曖昧 にしたことで、先に述べたような憲法教育が抱える問題 に代表されるような状態にあるのではないかと考えられ る。

 そこで本論文では、国民の持つ「主権主体」「人権主 体」の二側面に立脚し、それらの視点から社会科教育で 扱う価値などを明らかにするとともに、社会科教育の目 標たる公民的資質を育成するための視点を明確化したい。

よって、以下の内容について論じていくこととする。

 まず第一に、現在様々な研究機関等で研究や実践が進 み、さらに新学習指導要領では小中学校で実施が予定さ れている法教育をもとに考察していきたい。法教育と憲 法教育の関係や、現状の法教育で国民の二側面に関わる 価値はどのように扱われているのか、扱うべきなのかに ついて考察する。第二に、国民のもつ二側面に関連し、

憲法典等に内包される価値などについて考察し、二側面 に関係した価値の明確化を図る。そして最後に、明らか になった憲法に内包される諸価値を、教育(特に公教 *12)でどのように扱うことができるのかについて、公 教育の目的や権利と関連させて考察したい。

第 1 章 法教育と憲法教育

 1 .法の構成要素と価値

 近年、日本で研究されている法教育は、広く解釈すれ ば法や司法に関する教育全般をさし、具体的にはアメリ カ法教育法*13 に由来するものである。その法教育法によ れば、「法律家ではないものを対象に、法全般、法形成 過程、法制度と、それらが基づいている原理と価値に関 する知識と技能を提供する教育」と定義されている*14 アメリカの法教育では、法を広く捉え、法全般から、法 に基づく原理・価値を扱っているとともに、その運用ま で網羅している。

 ところで、長谷川正安*15 は「法」を、議会が制定す る「法律」ではなく、①「憲法意識」、②「憲法規範」

③「憲法制度」と分類している。

 ①は、法に関する人々の意識・理念であり政治的、倫 理的、あるいは宗教的な社会意識などが複雑に存在する ものである。意識の次段階として憲法典が形成されると、

それに対し新たな憲法意識が生じる。つまり、すべての 憲法意識を網羅した憲法規範である憲法典が形成される ことはなく、憲法典はその時代の支配的な憲法意識が反 映されたものとなる。

 ②は、①の意識が実定化された憲法典である。しかし、

憲法典が実質的にその社会の憲法規範として妥当してい るものをすべて網羅しているわけではない。例えば選挙 法は憲法典には含まれない。憲法典は憲法規範を確認す る有力な手がかりではあるが、全てではない。つまり現 学校教育学研究論集 第 21 号 

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実の憲法規範は、憲法意識から導かれた憲法典の範囲内

(枠内)で、条約や法律、命令や条例などの中に存在する のである。また長谷川は、「憲法規範」と「法規範」とで は、違いがあるとしている。「法規範」については、一定 の行為、不作為の命令があり、つぎにその命令に違反し た場合の制裁が加わる。つまり、行為規範と制裁規範の 二重構造がある。それに対して「憲法規範」は、自身の 中に制裁規範的な要素をもつことはほとんどなく、国家 への一定の組織づくりを命じている組織規範と国民の権 利などから成り立つ。それら行為命令の名宛人は少なく とも国家の機関や公務員であり、国民に対しては権利を 与えるだけなのである。「憲法規範」は、その国の「法」

の広い範囲で一定の役割を担っており、さらに「法規範」

により実効性、具体性を明確にしているのである。

 ③は、憲法規範によって形成される施設や制度、すな わち国会、内閣、裁判所などである。憲法規範を現実化 するために必要なものである。民主的な方法により選出 された議員で構成する国会。その国会と連帯して責任を 持つ内閣。広い意味では民主的に選出された議員が構成 する国会の立法に関係することから、民主主義と関連を もつ裁判所。しかし、裁判所については、憲法 81条によ り、違憲立法審査権が認められていることからも、民主 的ではない方法だからこそ、冷静に憲法典と比較して判 断をすることができるともいえる。「法」は、これら意 識・規範・制度の相互関係の中で、さらには時代背景に よって変化し、あるいは制定、改廃されるなかで大きな 変化をもたらすダイナミズムがある。

 アメリカの法教育は「法全般・法形成過程・法制度」

などの法のプロセス全体を網羅するが、それは長谷川の いう法の三要素と重なる部分が多いのである*16。しかし 日本の法教育では、法全般ではなく、長谷川の分類でい えば憲法制度そのものに力点を置いていると考えられる。

法教育研究会等の研究成果でもある法教育教材にもその 特徴があらわれている*17。すなわちそこでは、「ルール づくり」から始まり、最終的には「司法」にすべて収斂 されるなど、司法を特に重視していると指摘できる。つ まり、憲法制度についても、特に司法制度だけを中心と しており、法に深く関わる「行政」や「立法」の側面が 抜け落ちていることからも、狭い範囲に傾斜しているの である。よって、長谷川のいう意識・規範・制度の関係

性が切断されているだけでなく、規範や制度に関して扱 う範囲が狭く、法そのものを矮小化して扱っているので ある。

 しかし、アメリカの法教育をそのまま日本でおこなう ことは、以下の理由により困難である。日米で細かい規 範、制度が違うことは言うまでもない。それ以上にアメ リカ法教育では、法に関する内容でも、特に法を使いこ なすこと(スキル)についておこなわれるが、長谷川の いう法のダイナミズムが見えないのである。例えば

ABA

(American Bar Association)では、「子どもたちに紛争解決 能力を身につけさせ、究極的には自ら積極的に政策、立 法に関与していくことのできる市民(good citizen)を育 てること」を目的、理念としている*18。アメリカ法教育 は、法の根底にある原理や価値を扱うものとしたが、こ のような方法では、憲法規範(特に法規範)と憲法制度 の狭い範囲内のみで循環するものになる。そこでは、「知 識と技能」は現にある法をどのように扱うのかという点 に焦点があたることになる。以上の理由から、アメリカ の法教育をそのまま日本でおこなうことはできず、日本 型法教育が求められるのである。

 他方で長谷川は、法には三つの要素があり、その意 識・規範・制度の中で法が形成されるとしているのであ る。つまり長谷川も、法の根底にある価値などに着目し ているが、その根底にあるものは、アメリカ法教育の実 定法レベルのものとは異なり、より深いものであるとい えよう。

 2 .日本の法教育の問題−憲法教育と「別の柱」

 現在、日本で法教育を研究している者の中で、「別の 柱」という語句がよく使用される。例えば、「今までの憲 法中心の教育内容だけで人権擁護の社会の実現をめざし たとしても、『私事化』が進行し権利衝突が今まで以上に 想定される社会の中で、実際的な教育的選択であるか疑 問がある。…(中略)、今後構想される法教育は、憲法教 育をひとつの柱としつつも、その他の現代法をめぐる時 代の人々の意志や要望を反映する、いわば別の柱や部屋 をも今一つの基礎に展開されなければならない*19」な どがある。ここでいう「別の柱」の法教育は、具体的に 何を想定しているのか。法教育研究会の報告書の中では、

「日常生活における身近な問題」という語句が多くの場面

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で出現する。また、先のような法教育研究者の意見を勘 案すると、これまでの社会科教育の柱であった憲法とは 別のモノを新たな「柱」として扱うことがわかる。つま り、ここで指摘されている「別の柱」は、憲法ではなく

「子どもたちにとって身近であると考えられる個別具体的 な法律」であるといえる。

 そこでの身近とは、何を意味するのか。切実性のある 問題として身近なのか。それとも、聞いたことがあると いう程度での身近か。きっと、そのどちらも当てはまる とともに、どちらも当てはまらないだろう。教室という 表面的にはフラットな空間にいる子どもたちは、実際に 生活環境や学力、経験などに差異が存在することは言う までもない。そのような状態にある子どもたちに対し、

教育内容が身近であるかどうかの判断は困難を極める。

憲法とは異なる「別の柱」にあたるものは、大人の視点 からみた「子どもたちにとっての身近」であり、それが 子どもたちにとって本当に有効な教育的選択かは確証が ない。しかし、法的なものを扱う教育がすべて効果的で はないわけではない。重要なのは、その法的なるものが、

何のために存在しているのか、つまり根底には「個人の 尊重」を目的としていることを子どもたちが理解する必 要があるのである。

 さらにいえば、「子どもたちにとって身近な法」は、長 谷川の法の構成要素から分類すると、憲法規範に当ては まる。先に指摘したように、その憲法規範も「憲法典」

と「法規範」に分類される。ここでいう「子どもたちに とって身近な法」は、後者であるといえよう。つまり、

「法規範」を中心に扱う「別の柱」の法教育は、憲法規 範の中でも一部しか扱っていないとともに、「憲法典」を 加味しないことからも、憲法規範のもとになる憲法意識 との切断が生じることになる。仮に、「別の柱」とは違う 場面で「憲法典」を扱うとしても、法の構成要素が理解 できなければ、別々のものと捉えてしまいかねないので ある。つまり、単純に「身近」ではなく、憲法規範全体 を扱う意味でも「憲法典」は避けて通れないはずである。

 3 .日本の法教育に必要な価値・原理

 では、「憲法典」を中心に据えた法教育であれば、そ れだけで法の意義を理解した教育内容になるのか。教科 書等の問題として、憲法の知識を広く網羅するが、子ど

もたちに憲法の理念、本質、価値観が伝わらないという 指摘があり*20、単純に「憲法典」を扱うことだけでは解 決できない。さらに、「憲法典」を扱うことについては、

「教え込み」との関連や憲法教育が現体制維持の機能を 内包することからも、その扱いについては慎重におこな うべきとする考え方がある*21。加えて、憲法が価値相対 主義をとっていることからも、その扱い方にはさまざま な議論があることも確かである*22

 そのような中で、現代社会は価値多元的な社会である とし、何らかの特定の正義原理を公教育の場で教え込む ことは避けるべきであり、むしろ実質的正義をめぐる意 見の対立状況などを理解させ、正義問題が倫理だけでな く、政治・経済との関連でも重要な位置を占めているこ とを、広い視野から考え、意見を異にする人々の主張に も耳を傾け、公正な判断をおこなうという姿勢と能力を 身につけさせるという論者もいる*23。しかし、実質的で あってもそのような正義の概念は曖昧であり個人により 受け止め方が異なる。逆に極端な価値相対主義の立場で、

「何でもあり」にすると、教育内容が「法なのか」「道徳 なのか」、あるいは「ルール一般なのか」などの区別が曖 昧になり、その教育効果に疑問が生じる。

 よって、単純に「憲法典」を扱うかどうかの問題では なく、先の長谷川の法の三要素をふまえた、法のプロセ ス全般を踏まえた教育であるべきである。つまり、憲法 典である憲法規範が、憲法意識をもとに形成されている ことから、憲法の基本的価値である「個人の尊重」をど のように目指すのかを扱う必要がある。

 では、日本の法教育ではどのような価値を根底におい ておこなわれるべきなのだろうか。これまでの考察を踏 まえ、本論文では国民の二側面を前提とし、「個人の尊 重」を根底におき、その受益者たる「人権主体としての 個人」を保障するために形成される憲法意識や憲法規範 の根拠となるものを、「価値=憲法的価値」としたい。も ちろんここでの「憲法的価値」は、先に述べた星野が定 義するものとは異なる。また、「人権主体としての個人」

を保障する「憲法的価値」には、様々なものが内包され るが、その根底にある「個人の尊重」に特に関係するも のとして、ここでは人権について考察することとしたい。

また、「主権主体としての国民」により正当性を与えら れた憲法制度を、目的達成のための手段、つまり「原理 学校教育学研究論集 第 21 号 

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=憲法的原理」とする。このように、法に関する内容を、

目的と手段、つまり憲法的価値と憲法的原理の関係性に 分類して扱うことで、法の全体像が理解できると共に、

このような視点が日本型法教育には必要であるといえよ う。

第2章   なぜ、憲法的価値と憲法的原理を分ける意 義があるのか−憲法的価値と憲法的原理の 関係性

 では、憲法的価値と憲法的原理の関係性はどのような 構造を示しているのだろうか。

 これまでの考察で、憲法的価値の中身には人権が存 在するとしてきた。しかしながら人権も、例えばそれが 自然権によって根拠づけられるものか、実定法システ ムによって保障されるものかによって、その射程が異な *24。では、長谷川の指摘する、意識、規範、制度との 関係性はどのようになるのか。自然権によって根拠づけ られる人権とは、どの範囲のものなのだろうか。憲法意 識なのか、それとも憲法規範に内包されるものか、ある いは、両者に関係するものなのだろうか。この問題を明 らかにすることで憲法的価値が明確になると考えられる。

 また、憲法制度については、憲法規範を現実化するた めに構成され機能するものである。よって、国会や内閣、

裁判所をはじめとした統治のシステムがそれにあたり、

本論文では憲法的原理とした。憲法的価値と憲法的原理 は関連するものではあるが、同じものとしては扱うこと ができない。なぜなら、これまでの憲法教育や法教育で は、憲法的原理に傾斜する教育がおこなわれる中で、先 にも述べたように憲法的価値の内容が「法」とは関係の なく感情的に扱われることや、憲法的原理の中身のひと つとしておこなわれる問題があったと考えられるからで ある。本章では、憲法的価値と憲法的原理の内容につい て考察することで、その関係性、つまり目的と手段の関 係性について明らかにしたい。

 1 .憲法的価値の内容

 奥平康弘は、いわゆる人権について、大きく 2 つに分 類している*25。憲法が保障する権利と人権(奥平は基本 的人権と同意で使用)である。前者については、「各人が

自己の尊厳を保持し他者と折り合いをつけながら、生き るに値する生存を全うするためには憲法が保障する権利 方式以外に、どんな他の方式がありえるのか。これらは 現実の状況、その時のコンテクストに特有なやり方で否 応なく決着がつけられ、その結果、ほとんどつねに、利 害関係者の誰かからみて不十分・未解決な部分が残る。

しかしこれは『権利』としての発展充足の契機が、ほぼ つねに留保されていることを意味するから重要である。 と説明している。また、後者は自然権的な側面が強調さ れている。つまり、「人間が人間である以上、当然に具 わっている(はずの)権利」であるとしている。

 では、奥平はなぜ人権だけではなく、実定法としての 憲法が保障する権利という語句を使用するのだろうか。

つまり、自然権的な人権概念と、実定法としての憲法が 保障する権利の関係性はどのように定義されているのだ ろうか。奥平によれば、そもそも人権は、国家以前より 存在する自然権としての人権を国家が追認した(すべき)

ものである。それは、人が人であるということでそなわ るものであり、他にいかなる根拠づけも不要である。ま た、時代背景や社会の変化に応じて拡がりを持つ特性が ある。さらに、奥平によれば人権という 観念 は、憲 法、世界人権宣言などに採用されていることからも、実 定法的なものでもあるとしている。しかし、それ以上に 人権は、単に実定法の世界にとどまるものではなく、実 定法の世界の外、あるいはそれを超えたところで活発に 生きる超実定法的性格を有するものである。つまり、人 権は実定法では不足する部分を補うなど、実定法をより 豊富に、活性化する効果を持つものであると奥平は指摘 しているのである。

 ところで、長谷部恭男は「憲法上の権利」としての人 権を、「生来の人権の一環として、社会全体の利益に反 するものとしても保障されねばならない権利」と、「社会 全体の利益を理由として保障されており、そのため、と きには同じ社会的利益の効果的実現のために、あるいは より重要な社会的利益のために制約されるべき権利」と に分類している*26。その上で、人権とは厳密には前者の みであるという立場を取っている。

 長谷部によれば、後者に関しては公共の福祉を根拠に 社会全体の利益に還元されるために制約されることもあ るが、前者は一定の事項について、公共の福祉に反して

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でも個人に自律的な決定権を人権の行使として認めるべ きであるとしている。それを「切り札としての人権」と 定義している。「切り札としての人権」はいかなる個人 でも、もしその人が自律的に生きようとするのであれば、

多数者の意思に抗してでも保障したいと思う権利でなけ ればならない。そして「切り札」の核心にあるのは、「個 人の人格の根源的な平等性」である。しかし、実定法上 の人権を分類することは、ある個人の「切り札としての 人権」が、別のものと衝突するという事態を生じさせる という深刻な問題が生じる可能性がある。

 長谷部はその点について、個人が自律的選択をしたこ とであるという理由のみから、社会全体の利益に反して まで、「具体的な行動の自由」が保障されねばならないと いうわけではないとしている。広汎で無内容・無限定な 自由は、社会生活のあらゆる局面で衝突を繰り返す。そ のため、実定法によってそのような衝突を調整し、解決 する必要が生じる。つまり、具体的行動や自由を広汎に 認める一般的な自由は、広汎な立法による制約を前提と することではじめて成り立つのである。長谷部は、この ような制約のあるものは「切り札」たりえないとしてい るのである。つまり、「切り札」の権利は、他の諸利益と の比較考量を拒否するものである。あるいはそうでなけ れば、「切り札(長谷部のいう人権)」になることができ ないのである。

 奥平は人権の発生史的な流れをふまえ、人間であるだ けで持つ人権を根拠として実定法が形成されるという流 れを示している。長谷川の三要素をふまえると、実定法 は憲法規範であるが、奥平のいう人権は、憲法意識のレ ベルに存在し、憲法規範の源であるといえる。さらにい えば、新たに生じた実定法上の権利が、権利としてふさ わしいものかどうかを判断するフィルターの役目を果た すものでもある。それに対して長谷部は、簡単には制限 させない「切り札」としての権利を実定法上で最も上位 においた。実定法であることからも憲法規範であるが、

何が「切り札」であるのかを判断する基準は、個人の根 源的な平等性が必要であるとしている。そのような根源 的平等性は「個人の尊重」に基づくものであり、それは 実定法を超えた憲法意識のレベルに存在するものである。

つまり、憲法的価値とは実定法の外にあり、実定法の根 拠である、究極的には「個人の尊重」を目的とする憲法

意識に関わるものであるといえる。もちろんそれは、憲 法典によって目に見えるものとなる。

 2 .憲法的原理の内容

 これまでの考察をふまえれば、憲法規範により形成さ れ、憲法規範さらには、憲法意識、つまり憲法的価値を 確実なものにしていくものが憲法制度、憲法的原理であ る。

 先にも述べたように樋口の議論によると、人には「人 一般(個人)を主体として人権を保障される人(人権主 体としての個人)」を目的とし、そこに迫る手段としての

「国家(国民主権)を担う国民(主権主体としての国民) の両側面が存在する。その後者により正当性を与えられ るものが憲法的原理なのである。より具体的にいえば、

統治機構のあり方を示すものであり、立法・行政・司法 などの三権分立の概念や、民主主義などがそれにあたる。

本論文では、立法などの三権分立の内容に立ち入ること はしないが、現在、憲法学上で議論もある立憲主義につ いて簡単に触れておくこととする。

「個人の尊重」という価値を具体化する方法は多岐に わたる。歴史的には国民が権力の支配から自由であるた めに、自らが統治に参加する民主制度を必要とした。そ の中で民主主義が発展し、さらには議会制民主主義へと 形を変えていくこともあった。ところが、歴史的には民 主主義が必ずしも本来の目的(個人の尊重という価値の 具現化)を達成するとはいえないこともあった。そのよ うな中で、法による支配から国家権力の制限へと展開し、

民主主義とは別の方向から個人の権利を確保する立憲主 義が発展した。

 しかし、立憲主義も近代から現代にかけては大きな変 化があった。歴史的には中世立憲主義の法の支配の時代 から、1789 年宣言を受けて近代的な立憲主義の時代が成 立した。北川によれば、近代憲法(近代立憲主義)は個 人主義という基本的価値を前提として、権力の分立と人 権の保障を憲法で定めており、その目的は、個人の人権 保障のために、公権力を国民が制限・コントロールする ことにあるとしている*27。さらに現代憲法では、公権力 の制限を実効的に実現するために違憲審査制を採用して いるのである(現代立憲主義)

 北川は、民主主義は「国家権力の形成・運用の正当性 学校教育学研究論集 第 21 号 

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に関わる原理である」のに対して、立憲主義は「民主主 義的正当性を有する国家権力であっても、憲法を基準と して外側から制限する原理である」としている。つまり、

「個人の尊重」を確保するために人権の保障を目的とし、

それらを確固たるものにするために必要な手段として、

さまざまな政治制度(統治のしくみ)を形成する。そし てその政治制度もひとつの権力者や権力機関に偏るので はなく、権力を分立することでチェックアンドバランス を図る。さらにいえば、政治制度の中でも「主権主体と しての国民」により正当性を与えられている民主主義を、

「人権主体としての個人」の権利を守るために、憲法を基 準として制限をすることが要請されているのである。違 憲審査制を伴う現代の立憲主義は、憲法的原理の中でも 重要なものである。

 ところで、教育には、私的な領域のみに関わるものと、

ある一定の(法的、国家的)領域の中で定められておこ なわれるもの、さらにはそれらが複合的に重なっておこ なわれるものがある。どこまでが「私」か「公」は、あ るいは「相互」に重なり合う部分については、絶えず問 い返されなければならない。本論文では、特に学校でお こなわれる公教育を中心に考察する。もちろんその公教 育を考察する中で私的な領域との関連性についても扱う ことになる。では、これまで考察してきた憲法的価値や 憲法的原理を教育(特に公教育)で扱う際に留意すべき 事柄は何か。先にも述べたように教え込みとの関係など 議論が分かれるところである。そこで次章では、公教育 の目的や意義を、憲法的価値や憲法的原理を分析の視点 として考察し、その関係性について明らかにしたい。

第3章  公教育と憲法的価値・憲法的原理−日本に おける教育に関する権利

 1 .枠組みとしての子どもの教育を受ける権利

 日本の教育を受ける権利の意義・性質について、憲法 学を中心に議論を整理すると、「生存権説」「公民権説」

「学習権説」に大別される*28。その中でも「学習権説」

は現在の憲法学では主流であり、判例理論*29 にも使用さ れている。これは、子どもを中心とするすべての国民が、

学習・教育を通じて人間的に成長・発達する権利をもつ というものである。「学習権」の憲法上の性格は「社会権

的側面」と「自由権的側面」に大別される*30。前者は、

教育条件整備・充実を政府に対して求める国民の権利で ある。社会権としての26 条をプログラム規定として捉え る立場が通説的であったが、最近は法的権利性を肯定す る立場が一般的である。但し社会権が社会の発展の中で 自由権を広く保障するために形成されたことを踏まえる と、自由権を基底に置くべきであるといえよう。その「自 由権的側面」は、教育を受ける(側の)権利=「学習の 自由」と、「教育(をする側)の自由」に分類される。も ちろん「学習の自由」と、「教育の自由」では、法的な構 造を異にする。

 前者の「学習の自由」ついては、教育を受ける主体た る国民(主として子ども)が妨害(物理的・条件的に)

されることなしに教育を受ける自由をもつこと、合理的 な理由なく停学・退学に付されない自由などである。ま た、就学や出席を拒む自由、著しく不適切な内容の教育 を受けるように強制されない自由、さらに政府に対して 教育制度の構築と教育施設・設備の整備を求める国民の 権利も含む。さらにいえば、国家の役割をいわゆる教育 条件整備の範囲のみと考えるのか、それとも、より広範 囲で国家の教育への関与(教育内容への関与)を認める べきなのかという問題も生じる。成嶋隆は、「国民の憲法 忠誠義務を明示していない日本国憲法の下では、(成嶋の いう)憲法的価値といえどもその教え込みを憲法の規範 的要請とは解しえない」とし、憲法であってもその教え 込みを批判しているのである*31

 後者の「教育の自由」については、政府による介入を 受けることなく、親が子に対して持つ教育の自由である。

また、不当な支配に服することなく、権力と権威から自 立しておこなわれることが不可欠であることから、学校 教育における教師の教育の自由などが考えられる。しか し、現代社会において国家が全く公教育に関わらないと いうことは考えにくい。また、「教育の自由」は、教育権 論争などがある中で、教育に対して国家がどの程度の権 限をもつのかについても議論になってきた。1950 年代以 降の勤務評定、学力テスト、教科書検定の強化など国家 統制が強まる中で、親や教師などとの間で教育論争が起 こった。その中心は「教育内容決定権」、つまり、具体的 な教育内容を決定するという権能という意味での「教育 権」の所在である。それはいわゆる「国家の教育権」と、

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「国民の教育権」の議論につながるのである*32「国民」

側は、教師の教育権の憲法上の根拠を、憲法13 条、23 条、26 条に求めてきた。最近はこれらが複合的に保障し ていると説く見解が有力である。しかし、「国民」側の支 配的見解に対して、「国家」側の含む方向性を積極的に 肯定するものもある。戸波江二や内野正幸は、主権者の 育成に資する教育内容を国に要求しうる権利ととらえる 永井憲一*33 を再評価し、学校における憲法に内包され る価値などの教え込みについて、正当性を確認し、その 促進を図るとしている。これらは「国民」側から出され たもので、矛盾・背理、権力的介入に歯止めが利かない など批判もあったが、最近は、公教育の価値注入機能の 積極的意義を、改めて強調するという点に特徴がある。

 教育は獲得した知識・概念をもとに、新たに獲得した 知識・概念との比較検討により社会を再構築する機能を 持つものである*34。再構築のためには、人類が歴史的に 発展、深化させてきたものを個人が会得する必要がある。

さらにいえば、その教育内容は、子どもたち自身の精神 的自由(学問・宗教・思想など)を侵害しない内容でな ければならない。しかし、未熟で発達段階にある子ども たちが、自己の成長のために必要であるとする教育内容 をすべて自主的に判断できるわけではない。そこで、子 どもたちにかわり、あるいは子どもの教育権を持つ親(保 護者)の法的地位を、第三者である教師が担うのである。

もちろん教師の「教育の自由」は無制限ではなく、その 枠組みは子どもの学習権を保障するという観点である。

またそのような観点から教師の職務権限が存在し、教育 に対する不当な妨害を排除することができる。しかし、

それは教師に対して子どもの「学習権」を保障する強い 義務が発生するともいえるだろう。

 2 .憲法的価値・原理と教育内容

 教育は文化の伝達だけではなく、新しい文化を創造す る主体を形成することを内包する。これは社会における 教育の役割にほかならない。よって教育は現在の体制を こえて生きる主体形成を任務としている。だからこそ、

憲法に内包されているものを教条としてではなく、人間 の全面的発達と歴史の進歩をおしすすめる立場から不断 に充実・更新すべきものとして把握するべきである。こ こに公教育の意義が存在するとともに私教育とは異なる

点が顕著になる。さらには公教育の限界が関係してくる のである。

 では、公教育の意義と限界に関して、公教育で教える べき範囲はどこまでなのか。その範囲の内容は「教える こと(教えられる範囲)「教えても良いこと」「教えて はいけないこと」に分類される。もちろん、著しく不適 切な内容の教育を受けるように強制されない自由が子ど もにはある。しかし、教えられる範囲は誰が定めるのか、

その正しさを判断するかは容易ではない。

 成嶋は、国家による介入は憲法であれその限界を示す ことが困難である以上すべきではないと指摘した。また、

憲法教育*35 と憲法保障の関係から、教育で扱うべき憲 法の教育内容の決定権限をもつものについては、もとも と憲法教育の観念に教育を通じて国民に憲法に含まれる 価値を注入し既存の憲法秩序、現体制を維持する契機が 含まれていることをふまえるべきであるという批判があ る。仮に国家の正当な役割として価値の教え込みを措定 するとしても、その限界を画する基準は何か、もし国家 の介入権限に合理的な歯止めを設けられないとするなら それは反立憲主義的な議論ではないかなどの問題が生じ ると成嶋は指摘しているのである。

 戸波は公教育で教えるべき教育内容について、「軍国 主義など何を教えないことについては、比較的容易に定 義できる。読み書きそろばんなど実社会で役立つ必須の 素養は教えるべきであるが、歴史や社会に対する認識な どいわゆる真理教育は検討を要する。」と指摘した*36 さらにその内容を誰がどのように決定するのかについて は、実務では国が学習指導要領を告示し教育内容を決定 しているが、(戸波のいう)憲法的価値に関係する価値教 育については中立性が求められるとし、特定の価値の教 化ではなく、価値の選択の前提として価値や思想につい て客観的に教えることは否定されてはならないとしてい る。また、政治や思想で特定の世界観を教育することは 許されないが、他方で社会生活において必要とされる最 低限の道徳的規範遵守を教育することは否定されるべき ではないし、それに対して反社会的思想や行為を伴った もの、暴力を肯定し暴力を唱導するもの、犯罪行為と結 びついたものは、例外として否定的に教えるべきである とした。また、価値教育の中でも憲法教育はそこに含ま れている価値の内容からも特別に肯定されるべきである 学校教育学研究論集 第 21 号 

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と指摘し、成嶋を批判しているのである。

 しかし、戸波が肯定されるべきとした価値については、

憲法のどこを扱うのか、選択のためとはいえその教育方 法、そして誰に教育の権限があるのかなどが不明確であ る。他方で、成嶋の指摘のように教え込みが要請されて なくても、「学習権」の観点からいえば、成長、発達のた めに扱うべき教育内容が存在する。そしてそれは、成長、

発達のために要請されているものという観点からいえば、

その教育内容はこれまでに考察してきた、憲法的価値と 憲法的原理であると考えられる。なぜならば、それら価 値・原理は、人類の歴史の中で発展、深化したものであ り、それぞれの個人がもつ国家を形成する国民の二側面 を成長、発達させるために必要なものだからである。よっ て、主として子どもたちの「学習権」を保障し、社会の 再構築、あるいは新たに生じる憲法意識との比較・判断 のためにも、公教育においては、現在の憲法意識やそこ から形成された憲法規範や憲法制度である、憲法的価値 や憲法的原理が教育内容として選択されるべきであると いえよう。

まとめと今後の課題

 1 .「公民的資質」と憲法的価値・憲法的原理

 これまで、憲法的価値や憲法的原理の中身、さらには それらと公教育の関係性について考察してきた。では、

それら憲法的価値や憲法的原理、さらには、樋口のいう 国民の二側面と、社会科教育の目標でもある公民的資質 はどのような関係性を示すのだろうか。

 はじめにも述べたように、社会科教育における公民的 資質という語句は、多義的に捉えられる傾向があり、そ の語句に含まれる公民の概念については、例えば戦前の ような国家主義的傾向が強いという批判もある。そもそ も公民的資質という語句がはじめて使われたのは、1968 年(昭和43)年度版「小学校学習指導要領」である。そ こでの公民的資質の説明は、「公民的資質というのは、社 会生活の上で個人に認められた権利は、これを大切に行 使し、互いに尊重し合わねばならないこと、また、具体 的な国家や地域社会の一員として、自らの課せられた各 種の義務や社会的責任があることなどを知り、これらの 理解に基づいて正しい判断や行動のできる能力や意識な

どを指すものといえよう。したがって、市民社会の一員 としての市民、国家の成員としての国民という 2 つの意 味を持った言葉として理解されるべきものである。」と定 義されている。

 長坂端午*37 によれば、公民について、時代などが異 なるが、アメリカの「公民科」とドイツの「国家公民教 育」の対比から公民概念を捉えている。前者は「下から の公民教育であり、協力して社会の共同福祉を実現する」

のに対し、後者は「上からの教育であり、国家王室に忠 実な臣民教育である」としている。現在の社会科教育学 においては、前者の概念に沿ったものとして扱っている ことが多いと考えられる。

 大杉昭英*38 は2000 年(平成元年)の学習指導要領が 改訂される際に、「公民」を、第一に「市民社会の一員と しての市民」、つまり、個人(市民)間の関係を扱う中で、

民主主義的な考え方の萌芽を読みとらせることや、個人 の自由な経済活動の意味を学ばせるものであるとしてい る。さらに、第二に「国家の成員としての国民」という これまでの公民像、つまり個人(国民)と国家の関係か ら、民主主義の基礎には個人の尊厳と人権の尊重がある ことや、自らが自らをおさめるという民主政治の基本と なる考え方を理解させると定義している。そして新たに、

第三に「国際社会に主体的に生きる日本人」という概念 が加味されたとしている。そこでは、主権国家間の関係 とそこでの日本人の役割という観点から世界平和の実現 などについて考えさせるべきであると定義している。こ れら三つの「公民」像を育成するために民主主義の本質 と方法、政治や経済についての見方や考え方を身につけ させるように学習指導要領が改訂されたとしているので ある。

 現在の学習指導要領*39 では、公民的資質について、

「国際社会に生きる平和で民主的な国家・社会の形成者、

すなわち市民・国民として行動する上で必要とされる資 質を意味している。」と定義している。

 1968 年度版の学習指導要領における公民像は、市民や 国民を意味し、長坂の言葉を借りれば、「協力して社会の 共同福祉を実現する公民教育」であったが、究極的には

「個人の尊重」を目的とし、そのために「人権主体として の個人」を保障する憲法的価値と、目的達成の手段とし ての憲法的原理に正当性を与える「主権主体としての国

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民」の姿が見られず、それらが並列に扱われていると考 えられる。

 さらに、その後は、「国際社会に生きる日本人」が加味 される中で、民主主義への理解が特に強調されていると ともに、最近の改訂では、「社会に参画する」ことにより

「民主主義」を担う国民の育成が特に重視されているので ある。

 たしかに、「主権主体」の側面である国民の育成や、民 主主義の理解は、人類が発展、深化させてきた概念であ るとともに、目的達成の手段として教育上とても大切な ものである。しかしながら、国民の二側面と、それに関 連する憲法的価値や憲法的原理を、並列ではなく目的と 手段の関係として扱わなければ一面的な理解でとどまっ てしまう。

 よって、公民的資質は国民のもつ二側面を前提として、

それぞれを育成するためにある憲法的価値や憲法的原理 を、目的と手段の関係から捉えて教育されるべきである。

これまでにも述べたように、社会科教育における憲法教 育や法教育では、先の目的と手段の関係性からいえば、

手段に傾斜した教育がおこなわれてきた。ここに憲法学 的視点である、憲法的価値や憲法的原理を導入すれば、

目的と手段の明確化が図れるといえよう。

 2 .今後の課題

 くり返すが社会科教育の目的たる公民的資質の育成に は、憲法的価値や憲法的原理をふまえた内容が必要であ る。そして社会科教育においては特に憲法に関する教育 が大きな役割を担うと考えられるのである。しかしなが ら、憲法教育についてはこれまで条文の暗記というもの や、特に統治機構を中心に扱うものなどが存在するとい う問題性があった。それらの大きな要因には、主に統治 のシステムである憲法的原理と、個人の尊重のための憲 法的価値の未分離、あるいは目的と手段ではなく、並列 の扱いがあることの問題性がある。

 その憲法的価値については、本論文で人権の中でも上 位におかれるものとそうではないものとが存在すること を示した。しかしながら今後の課題として、より詳細な 人権の分類が求められるといえよう。さらに、本論文で 簡単に触れた程度であるが、現代的な立憲主義について は、特に憲法的価値との関係から検討する必要があるだ

ろう。違憲審査制の意義と問題点を考察することで、憲 法的価値や憲法的原理の関係がより明確化されると考え るからである。さらに、学習権についても、より多くの 議論を踏まえ考察を深めたい。

 そして最後に、法教育の可能性と有効性の再確認から、

そこでおこなわれるべき教育内容や方法の考察である。

国民の二側面を踏まえ、さらには目的と手段にある憲法 的価値や憲法的原理の分離と連関をふまえた上で法教育 を再構成することで、「個人の尊重」を根底においた法教 育が展開でき、公民的資質の捉え直しが可能になると考 えられるからである。

* 1 臼井嘉一「現代の学力問題をどう捉え、実践するか

−社会科・公民かを中心として」、全国民主主義研究 会編『現代資本主義は変わったか』(同時代社、2009 年)、260‑271頁

* 2 ここでいう「憲法教育」とは、教師が生徒に教える 方向性があるのに対して、生徒側からの視点を中心と した「憲法学習」と区別した。

* 3 星野安三郎「憲法教育の今日的課題」(日本教育法 学会年報 4 号、1975 年)、130 頁

* 4 本論文における「価値」と「原理」の使い分けにつ いては、「価値」を根底においた上で、それを具体化 するものを「原理」として扱うこととした。

* 5 中平一義・重松克也「社会科教育における判断基準

(価値)−法教育における判断基準(価値)−」、横浜 国立大学教育人間科学部紀要Ⅰ(教育科学)第10 集、

(2008)、63‑78 頁

* 6 和田進・大野博史「『憲法教育』に関する一考察」

(神戸大学教育学部研究集録 81集、1988 年)、21頁以

* 7 北川善英「人権教育論の課題」、全国法教育ネット ワーク編『法教育の可能性』(現代人文社、2001年) 59 頁

* 8 「国家・社会の形成者」の後半にあたる「社会の形 成者」については、本論文では立ち入らないことにす る。なぜなら、国民とは分離されるものとしての社会 の形成を担うのは、市民であるからである。本論文で 学校教育学研究論集 第 21 号 

参照

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