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琉球処分と軍隊・歴代宝案のゆくえ : 「尚家文書」新出史料を手がかりとして: 沖縄地域学リポジトリ

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全文

(1)

Author(s)

真栄平, 房昭

Citation

沖縄史料編集紀要 = BULLETIN OF THE

HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(41): 1-22

Issue Date

2018-03-23

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/23826

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琉球処分と軍隊・歴代宝案のゆくえ

─「尚家文書」新出史料を手がかりとして―

真栄平房昭 はじめに 近代日本の転換期にあたる 1869 年(明治 2)5 月、箱館五稜郭を舞台とした戦争終結後、 政府は同年 7 月、太政官のなかに開拓使を設置し、8 月には蝦夷地を「北海道」と改称した。 それは二年後に断行された廃藩置県の先駆けで、1879 年(明治 12)の「琉球処分」はそ の最後の締めくくりであった (1) 。琉球という一つの国家が滅ぼされて、日本帝国の一部に 組み込まれた。政府は軍事力をバックに琉球国を併合したのである(2)。 本稿では、領土・国旗・戸籍といった近代国民国家の基本的枠組みが琉球に適用される スタート地点をまず押さえた上で、琉球併合の軍事的布石となる熊本鎮台沖縄分遣隊の配 備をめぐる問題に焦点をあてる。1877 年に勃発した西南戦争の動きをふまえ、この反乱を 鎮圧した軍人・警察官の一部がその二年後、琉球処分に関わった歴史的経緯を明らかにし たい。 1879 年、内務卿伊藤博文の指示を受けた処分官松田道之は、首里城明け渡しに乗じて、 国王尚泰・王子尚典以下琉球の主だった人々を東京へ移送すると共に、王国の文書記録を 封印し、その中でも特に重要なものを東京に持ち去った。大切に保管されてきた評定所の 日記類をはじめ、明清皇帝の詔勅類も政府の手に渡る。本論の後半部では琉球から持ち去 られた「人」と「もの」、特に尚泰の上京に関わった相良長発と『歴代宝案』接収に関わっ た木梨精一郎、二人の人物に焦点をあて「尚家文書」の中から浮かび上がる新たな史実を 紹介するとともに、『歴代宝案』の変転の歴史を読み解くための「補助線」を引いてみたい。 1.明治初期における琉球政策

MAEHIRA Fusaaki: The History of the Annexation of Ryukyu, Military Force and the Rekidai Hōan: new hints provided by the Shōke Monjo

(1) 田中彰編『近代日本の軌跡1 明治維新』吉川弘文館、1994 年。

(2) 琉球処分=併合をめぐる研究史について、詳しくは西里喜行「琉球処分研究史概要」(『琉大史学』第 18 号、2016 年)、『沖縄県史 各論編 5 近代』2011 年、金城正篤『琉球処分論』沖縄タイムス社、1978 年、 我部政男『明治国家と沖縄』三一書房、1979 年、波平恒男『近代東アジア史のなかの琉球併合』岩波書店、 2014 年、等を参照。

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明治初期における琉球政策の特徴について概観しておこう。1872 年(明治 5)9 月 14 日、 琉球から上京した維新慶賀使の伊江王子・宜野湾親方らを引見した天皇は、尚泰王を一方 的に「琉球藩王」に封じ、「華族」に列するという詔書を与えた。将軍を頂点とした旧来 の幕藩制国家に代わり、天皇制国家の中に琉球を組み込む、最初の布石が打たれたのであ る。同年、薩摩藩の出先機関であった「在番奉行所」も廃止され、「外務省出張所」と名 を改めた。さらに 9 月 28 日付の太政官布告により、琉球王国が各国と結んだ条約ならび に今後の外国交際事務は、外務省が管轄することになる。この条約とは、1850 年代に琉球 がアメリカ・フランス・オランダと締結した修好条約を指す。列強が琉球を国際法の主体 と認めた証拠(条約書原本)を政府が取り上げ、さらに今後の外交権を剥奪することを意 味する(『沖縄県史 各省公文書一』、1966 年、10・26 頁)。 さらに外務省は 1873 年(明治 6)4 月 13 日に、「海中ノ孤島境界分明ニ無之候テハ外国 略奪の憂も難計候」として、琉球藩に対し日本の「国旗」を久米・宮古・石垣・西表・与 那国の各島の庁舎に、日の出から日没まで掲示することを命じた(3)。 いうまでもなく、国家の権力とその言説によって作り出されたシンボルである「国旗」 の掲揚は、日本の主権の及ぶ「境界」をはっきりと明示する。外務省は同年 9 月、東京詰 在番親方の与那原良傑を呼び出し、先に交付した「御国旗、両先島江相立候首尾」につい て確認を求めた。それと同時に外務省は柳原前光を通じて、天皇・皇后の写真(御真影) を藩王尚泰に下付し、国旗・皇室シンボルの浸透化をはかる。さらに外務省の伊地知貞馨 は、皇室の祖神「天照皇大神宮」の「御守札」を琉球藩王に下付し、その御礼に「金三千 疋」を献納するように命じた。また、国民の「戸籍」登録制度を進める大蔵省戸籍寮は、「琉 球藩戸籍」ならびに職分総計表の作製、提出を命じた(4)。 このように領土・国旗・戸籍といった近代国民国家の枠組みが琉球にも適用される動き と同時に注目すべきは、「海軍省」による南島水路調査である。1873 年 2 月、海軍水路寮(の ちに水路局)は第一丁卯艦、大坂丸の二隻を派遣し、琉球諸島の水路測量に着手した。こ れは宮古島民の台湾遭難事件を機に、台湾への軍艦派遣も視野に入れた南方水路調査であ り、艦船の寄港に不可欠な海図・水路誌を作成するためであった。海軍大佐柳楢 ならよし 悦の指揮 のもと、鹿児島を振り出しに山川港・口之永良部港・奄美・琉球諸島の港を測量し、さら に春日艦を派遣して台湾近海の測量にもあたらせた (5) 。 (3) 外務省編『日本外交文書』第 6 巻、377 頁。日付けについては、史料中に、日付がないが、返信文書 等から便宜的につけたとして、4 月 13 日にしてある。 (4) 尚家文書「琉球江問合」707・708 号。 (5) 真栄平房昭「近代日本における境界の島々」(『歴史学研究』第 908 号、2013 年)『日本水路史 1871 1971 HYDROGRAPHY IN JAPAN』海上保安庁水路部編集・発行、1971 年。

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2.熊本鎮台沖縄分遣隊  (1)鎮台分営の設置をめぐる交渉 一方、陸軍は鎮台の分営設置に向けて動きはじめる。「鎮台」とは、明治初期における 陸軍編制の最大単位を指す用語である。1871 年(明治 4)8 月、政府は国内の暴動・反乱 を鎮圧する兵力として、東京・大阪・熊本・仙台の四か所に鎮台を設置し、諸藩の藩兵を 編入した。さらに徴兵制の施行に向け、73 年 1 月に全国を六軍管に分け、名古屋、広島の 2 カ所の新設鎮台をあわせ 6 鎮台を置いた(総兵力は約 4 万人)。各鎮台は 2 ~ 3 個の「営 所」を置き、歩兵大隊は連隊に改編され、御親兵を改称した近衛兵とともに、常備軍編制 の基本となった。 1874 年に佐賀の乱が勃発すると、肥後熊本の鎮台は大阪鎮台・東京鎮台からの増援部隊 を加え短期間のうちに反乱軍を撃破した。その戦況は琉球にも伝わった (6) 。「尚家文書」『琉 球江問合』二月十九日付文書に、以下のように記される。  去ル(一月)十五日、肥後鎮台少佐和田勇馬、十壱番大隊ヲ引率シ、旧城下江直入相成、   当駅江鎮之旨申付候處、其命ニ不服、同夜十二時比より発砲、大火ニ立至リ、勿論鎮   台兵茂発砲スト雖モ少勢ニシテ鎮静スル能ワス、遂ニ二ノ丸三ノ丸茂同十七日正午比   直ニ落城、鎮台兵過半大煙ニ堪ス(下略)。 1874 年(明治 7)7 月、政府は琉球藩の管轄を外務省から内務省に移管し、政府の実力 者である内務卿大久保利通が琉球問題に乗り出すことになる。翌 75 年 3 月、大久保は在 京の琉球使節を内務省に呼び出し、「鎮台支営」の設置など七項目を要求した(「琉球藩 処分着手ノ儀」『公文録 明治八年 第 106 巻』)。軍の駐屯問題を執拗に迫る政府に対し、 琉球側は独自の論理で抵抗する。すなわち「寸兵ヲ備ヘス礼儀ヲ以て」、非武装平和を維 持してきた歴史を説き、もし琉球に「兵営」を設置すれば、かえって外国から武力攻撃の 口実となりかねないと、反論したのである。 1875 年(明治 8)5 月 20 日、外務卿寺島宗則と会談した駐日英国公使パークスは、琉 球の朝貢使節が北京に駐在している問題について質問した。「今後も中国に朝貢するのか」 と問うパークスに対し、寺島は「差留ル筈」と答えた。政府は琉球の朝貢関係を断つ意思 を固めつつあったのである (7) 。同年 7 月、松田道之は王府首脳に対し、琉球藩の「日本専属」 を言明し、清国との朝貢関係の停止、明治年号の使用、日本の法律施行、在福州琉球館の 廃止、鎮台分営の設置など「六ケ条の御達書」を突き付けた。琉球にとって、とりわけ朝 (6) 「尚家文書」第 708 号。 (7) 「明治八年対話書二」外務省外交史料館所蔵『自明治八年至明治十五年 琉球藩関係書類』第六十五号。 アジア歴史資料センター B03030087500

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貢関係の断絶は王国体制を維持する根幹に関わり、国家存亡の危機につながる。琉球側を 説得することに失敗した松田は、政府に直訴したいという三司官池城親方安規ら要請団を 引き連れ、いったん東京へ戻る。 その後、琉球国存亡をかけた交渉の舞台は東京に移る。「救国運動」に奔走する池城安規、 与那原良傑らは、太政大臣三条実美ら政府要人に嘆願し、清国および英・米・仏・蘭の駐 日公使とも接触をはかり、琉球の立場を訴えた。さらに、清国に亡命した幸地朝常らによ る救国運動も注目すべきである(8)。 琉球に配備された鎮台分遣隊の任務は、「外寇ヲ禦クノ備ニアラス、琉球国内ヲ鎮撫」 するためであった。明治期の軍事史研究によれば、同じ離島でも朝鮮半島に近い対馬に配 備された分遣隊は「対外防衛」を任務とした。しかし、琉球分遣隊の任務は「日支両属」 を断ち、琉球処分を断行する「後ろ盾」として設置された点に大きな違いがあった (9) 。 1875 年(明治 8)、政府は「鎮台分営」の建設に向けて動きだす。6 月 12 日、陸軍省の 命を受けた長嶺譲少佐らは、内務大書記官松田道之らとともに大有丸で品川を出港、那覇 到着後ただちに「兵営」の候補地選定にとりかかり、「絵図面」を作成した。当時、世間 の噂では、進貢・冊封を禁じられ「藩王(尚泰)は無位の人」になるとか、「鎮台を置か れて戦争が始まらむと云ひ、巷説紛々」と、人心の異常な動揺ぶりを伝えている(10)。 7 月 29 日、松田道之が琉球側に提示した第十八号文書によれば、軍用地の総面積はおよ そ 1 万 8,670 坪余。このうち「営所」「練兵場」「射的場」「病院」等の用地が 1 万 7,870 坪余、残りの約 800 坪を道路とする計画であった (11) 。これらの軍用地買い上げを要求する 松田に対し、三司官富川親方らは分営設置について王府側でも論議中なので、「敷地一件」 はしばらく見合わせてほしいと回答した。しかし、松田は強硬姿勢を崩さず、兵営設置は 「王家ニ取テ、其可否ヲ論スヘキ理ナク只遵奉スヘキ理アルノミ」、政府の方針を遵奉せよ と迫った。富川親方は即答を避け、持ち帰って審議し、来月 6 日を期限として回答すると 伝えた。8 月 3 日、三司官池城安規は、長嶺少佐・松田らの策定した軍用地に異論を唱えた。 人口密集地の那覇港エリア、久米村・泊村等が軍用地になった場合、「人民」は旧来の所 有地を失い、生活に困窮するという理由で反対したのである。代案として渡地の対岸、垣花・ (8) 西里喜行『清末中琉日関係史の研究』京都大学学術出版会、2005 年。後田多敦『琉球救国運動―抗日 の思想と行動―』出版舎 Mugen、2010 年。マルコ・ティネッロ『世界史から見た琉球処分』榕樹書林、 2017 年。小風秀雅「冊封体制をめぐる日清外交―明治一〇年代の琉球・朝鮮をめぐって―」(明治維 新史学会編『講座 明治維新6  明治維新と外交』有志舎、2017 年)。 (9) 原剛「対馬・沖縄・北海道の兵備(二)沖縄分遣隊の派遣」(『明治期国土防衛史』錦正社、2002 年  167 頁 読点は筆者)。 (10) 「尚泰侯実録」『東恩納寛惇全集 2』第一書房、1978 年、366 頁。 (11) 松田道之編『琉球処分』114 頁。(本書は明治文化資料叢書刊行会編『明治文化資料叢書 第四巻外交篇』 を使用し、以下『琉球処分』とした。句読点は便宜的に筆者がつけたものである。)

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鏡水・大嶺・瀬長村等に用地変更を求めたが、松田は「陸軍官員」と相談して改めて回答 するとした。その後の会談で松田は第二十三号文書を王府側に示し、長嶺少佐の意見をふ まえて原案通りの主張を繰り返した(12)。 松田の強硬姿勢に対し、王府はやむなく分営設立を認め地所購入費を無償とする一方、 「兵隊共」の取り締まりや兵員数の減少を求め、日本軍の駐留に一定の歯止めをかけるべ く交渉した (13) 。 (2)鎮台分営の建設 1876 年(明治 9)4 月、陸軍省はいよいよ「兵営」建設に向けて動き始め、和田勇馬少 佐はじめ藤要蔵少尉・軍医補・職工ら総勢三百余名を現地に派遣する。『陸軍省日誌』4 月 22 日の達書にあるとおり、「琉球藩兵営建築」のため和田少佐は出張を命じられたのである。 それから約 1 カ月後、5 月 29 日に真和志間切古波蔵村の「兵営敷地」が陸軍省出張官吏に 引き渡された。7 月 1 日には熊本鎮台歩兵第一三聯隊の一分隊(橋本健作少尉以下、計 25 名) が着任し、那覇西村の親見世を仮兵舎として賃借する。同 26 日、陸軍少佐木梨精一郎が「内 務省出張所長」(兼任)として着任した。古波蔵に建設を進めていた「兵営」は 7 月 31 日 に完成し、9 月 3 日、分遣隊は西村から新兵舎に移転した。 敷地面積は約 1 万 8,670 坪、煉瓦石灰の高い塀で囲まれた「兵営」の規模は東西 90 間、 南北 65 間。兵舎一棟(170 坪)のほか、厨房・浴室・厠・倉庫・洗濯所が各 1 棟。北面に「陣 門」「哨兵所」を設け、門前に 120 間の道路を新設、南面の後門外に「操練場」、東南に「火 薬庫」があった。さらに「病舎」(176 坪)、士官・軍医らの官舎(132 坪)などが設置さ れた。ちなみに、明治 23 年制定の「陸軍定員令」によると、歩兵中隊の平時定員は将校 5 名、 下士 10 名、兵卒 120 名、軍医 1 名、看護卒 3 名の 140 名(半中隊はその半数 70 名)。兵 営の東側、国場村に「射的演習場」が設けられ、「田圃」の中間に長さ 360 間、幅 3 間、5 カ所に 1 丈余の小高い丘を築き、射撃演習をおこなった。住民生活エリアの近くで危険な 軍事演習が実施されたのである (14) 。 以上のように陸軍省は、琉球側の反対を押し切って軍用地を決定し、兵営建設を進めた。 1879 年 3 月には熊本鎮台兵 413 名・警視庁警官隊 158 名を送り込み、首里城を接収するこ とになる。 (12) 『琉球処分』114 ~ 117 頁。 (13) 「 尚 泰 侯 実 録 」『 東 恩 納 寛 惇 全 集 2』 第 一 書 房、1978 年、368 ~ 372 頁。『 球 陽 』 附 巻 四、 尚 泰 二十八年条(角川書店、読み下し編)750 頁。前掲『琉球処分』117 頁。 (14) 渡邊重綱『琉球漫録』明治 12 年、73 ~ 75 頁。国立公文書館所蔵の関連の図面を末尾に掲載した ( 図 1, 2)。

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(3)木梨精一郎の来琉 西南戦争の前年、1876 年(明治 9)、内務卿大久保利通の命を受け、木梨精一郎が琉球 に派遣された。戊辰戦争で活躍した長州藩出身の木梨は、江戸城明け渡しの際にも政府軍 幹部として立ち会ったキャリアをもつ。維新後、陸軍省に出仕して少佐の地位につくが、 現職兼任のまま内務省出張所長に抜擢された。軍事面で松田道之をサポートできる人材と 期待されたにちがいない。実際、二人はコンビを組み、琉球処分を主導していくことにな る。熊本鎮台鹿児島分遣隊(先発組 26 名余)を率いて木梨が那覇に到着したのは、同年 7 月 26 日(旧暦 6 月 6 日)。それから約 1 カ月後の 8 月 31 日、内務省あての「木梨内務少 丞 琉球藩情況申報 内務省上申」(15)は、つぎのように記している。 八月三十一日 今般内務少丞 木梨精一郎儀、琉球藩ヘ出張被命、客月廿六日着藩ノ上、該地ノ情況 別紙ノ通申出候ニ付、不取敢此段上申仕置候也。 木梨内務少丞 上申   八月三十一日 内務 本年七月廿六日午前十時琉球那覇ヘ入港、鎮台分遣隊警部巡査等ハ先キニ上陸致シ、 十一時三十分下官共出張所ヘ罷越、翌廿七日事務引継ヲ受ケ、八月一日ヨリ民刑裁 判事務相開キ候。此段御届且ハ目今ノ事情左ニ上陳仕候。・・(下略)。 同日、三司官冨川盛奎、与那原良傑らが挨拶のため木梨の宿を訪れた際に「木梨殿ヨリ 当藩在勤付テハ、藩王拝謁仕度」と尚泰王との面会を求めたが、あいにく病気療養中とい う理由で謝絶された。7 月 31 日、藩王代理として今帰仁王子、三司官冨川・与那原らが首 里で、太政大臣三条実美から尚泰王あての命令書を受け取った。政府は清国との朝貢関係 断絶を要求し、この措置は「我国体ト国権トニ関スル最モ大ナルモノ」であり、琉球側の 意向を斟酌する余地はないと強硬姿勢であった。8 月 1 日、木梨は那覇の内務省出張所に「民 事刑事ノ裁判事務」所を開設し、琉球の国権の一つである「裁判権」を接収し、法制度の 面から中央集権化を強引に進めていく。 「口八丁」の弁論にたけた内務官僚の松田道之にくらべると、戊辰戦争の修羅場をくぐっ た陸軍少佐木梨精一郎は乗馬を得意とした武闘派タイプで、「脱清人」の動きに眼を光らせ、 逮捕・尋問したのも彼である。1876 年(明治 9)10 月、幸地朝常(向徳宏)や伊計親雲上 (蔡大鼎)、名城里之子親雲上(林世功)ら一行が名護の湖辺底から清国へ密航した際、木 梨は早馬を駆って現地に向かった。だが、時すでに遅く、幸地朝常ら一行を乗せたマーラ ン船の帆影は、まさに南の水平線の彼方に消え去ろうとしていたと伝えられる (16) 。この逸 (15) 国立公文書館内閣文庫「太政類典」アジア歴史資料センター A01000032100。下線は筆者による。 (16) 国頭郡教育会編 『沖縄県国頭郡志』大正 8 年、401 頁。

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話からも「乗馬」に巧みな木梨らしい片鱗がうかがえる。 3.西南戦争 (1)アーネスト・サトウの日記にみる琉球情報 1877 年(明治 10)2 月、西南戦争の火ぶたが切られる直前、イギリス公使館日本語書 記官アーネスト・サトウが鹿児島に赴いた。駐日公使パークスの指示を受け、現地の状況 を偵察するためであり、サトウは旧知の西郷隆盛、鹿児島県令大山綱良らと面談した。西 郷・大久保らとともに幕末の精忠組に参加した大山(格之助)は、1862 年の寺田屋事件 では島津久光の命を受け、奈良原幸五郎(繁)らとともに過激派藩士を粛清。さらに戊辰 戦争の奥羽鎮撫総督参謀として東北各地を転戦、長州藩出身の参謀木梨精一郎とも顔見知 りであった。のちに「台湾出兵」のきっかけとなる宮古島民遭害事件が起こると、大山は 伊地知貞馨とともに政府に出兵を進言した。大山が語った興味深い情報を、サトウは 2 月 17 日の日記に詳しく書き留めた (17) 。政府の琉球併合に反対する琉球の高官が清国に脱出し、 軍艦の派遣を要請したという情報である。 「つぎの話が琉球からつたわっている。琉球王国の『参議』〔三司官〕のひとりが清国 へ脱出した、日本に対抗するために、清国の保護を求めるのが目的で、来月清国軍艦 が一隻琉球に姿を見せるはずであると」また「大山はざまを見ろといった口調で、こ の話をしてくれた。そして、〔大山は〕つぎのように付け加えた。ショベリーン号(〔汽 船〕太平丸)で那覇からこのしらせを持ち帰った内務省の役人は、じつは〔昨年の〕 クリスマス以来、軍隊の派遣を江戸政府にくりかえし要請してきたのだが、無駄であ った。いまとなっては、江戸から一兵たりとも〔琉球に〕派遣することは不可能だろう、 この鹿児島を通過しなければならないからだ、と」。 続けて、「じっさい、琉球は江戸政府にたいして、叛乱を起こしたのだ」と、大山はサ トウに語った。江戸政府とはもちろん、中央政府を指す。前年の 1876 年 12 月、三司官幸 地朝常(向徳宏)、久米村の伊計親雲上(蔡大鼎)、名城里之子親雲上(林世功)ら一行が 清国の救援を求め福州へ密航した事件である。いわゆる「脱清人」の情報が、翌年 2 月に 那覇から鹿児島に到着した太平丸の木梨精一郎らを通じて、鹿児島県令大山の耳に入った ものと考えられる。 (2)西南戦争の勃発、田原坂の戦い 1877 年(明治 10)2 月、鹿児島の私学校士族を中核に九州各地の士族が結集・決起した (17) 萩原延壽『西南戦争 遠い崖 ―アーネスト・サトウ日記抄 13』朝日新聞社、2001 年、33 ~ 34 頁。   〔 〕内の文字は引用者による補足である。

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反政府反乱、西南戦争が勃発した。西郷隆盛を擁する約三万の反乱軍は、先ず鎮台の置か れている熊本城を攻撃した。このとき城を守っていた兵士の数はわずか二千にすぎなかっ たが、司令官谷干城に率いられた鎮台兵の守りは意外に堅く、籠城戦が続く。「鹿児島逆徒」 が蜂起したという「異変」の知らせは、沖縄に駐留する鹿児島分遣隊の耳にも達し、緊張 が走る。この内戦は琉球まで波及するかもしれない、不測の事態に備えた分遣隊の橋本 中尉らは、琉球人の動きを注意深く監視し、「警戒探偵頗ル精密」に対応した。鹿児島― 琉球間に電信網が無かった当時、詳しい戦況も不明のまま緊張状態が続いた。7 月に入り、 那覇に来着した陸軍少尉宇野重喜らの報告で「征薩ノ事情」がようやく判明し、「人心稍 沈静」(18)を取り戻したが、九州各地に波及した西南戦争の衝撃は大きく、その余波は琉球ま で及んだのである。 琉球藩の内務省出張所長であった木梨精一郎もまた、西南戦争に遭遇した経験をもつ。 「内務少丞木梨精一郎君は先頃、琉球へ派出あり。彼地の用も相済ければ帰京せんと、二 月八日、三ツ菱の郵船太平丸」で那覇を出港した。太平丸が鹿児島に着くと、二百数十名 の「暴徒」が殺気立って刀をふりかざし、船に乗り込んできた。まったく予期せぬ事態に 困惑するが、幸いにも暴徒の中に陸軍時代の木梨と顔見知りの者がいたおかげで助かった。 彼らは西郷派の士族たちで、木梨の乗船を政府軍の「敵船」と勘違いしたのである。誤解 もようやく解け、2 月 18 日に太平丸は鹿児島から神戸へ向かった(19)。 政府軍の総指揮にあたる山県有朋は、田原坂の激しい攻防戦で警視隊の中から特に剣術 の達人、約 100 名の精鋭を「抜刀隊」として編成した(20)。3 月 14 日、政府軍本隊は田原坂 に総攻撃を開始した。白刃をふるい敵の陣地に突進した「抜刀隊」の活躍は、政府軍に勝 利の突破口を開いたことでよく知られる。西南戦争の勝敗を左右した「田原坂」の激戦には、 のちに「琉球処分」に登場する陸軍参謀中尉の益満邦介、警視庁抜刀隊の園田安賢、俣野 景明らの面々も参加していた。 田原坂で敗れた西郷軍は、後退を続けながら各地に転戦し、9 月 1 日、鹿児島に再突入 した。追撃する政府軍との間で激しい市街戦が展開され、鹿児島城二の丸が焼け、市中で 焼失した家屋は約五千八百戸にも上った(「鹿児島県庁日誌」5 月 13 日調査による『鹿児 島県史料・西南戦争』第 3 巻 12 ~ 14 頁)。戦禍を目の当たりに記録した旧薩摩藩士の日 記に、「野上橋及ヒ上町市中ヲ回望スルニ、(中略)新地ヨリ野上橋旧琉球館・入来院旧御 作事辺ハ昨夕之火ニ燃エシト見エ、黒煙(未タ上ツテ)空を遮ル」(『折田年秀日記 第一』 (18) 渡邊重綱『琉球漫録』明治十二年、95 ~ 96 頁。 (19) 「鹿児島戦争記」初編(『明治実録集 新日本古典文学大系明治編 13』岩波書店、2007 年)201 ~ 204 頁。 (20) 落合弘樹『敗者の日本史 18 西南戦争と西郷隆盛』吉川弘文館、2013 年、182 頁。

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明治十年九月四日条、湊川神社編、1997 年)とあるように、「琉球館」の近くまで火の手 が及んだのである。 9 月 24 日、西郷軍の最後の砦となった城山もついに陥落し、7 カ月間にわたる戦いに終 止符が打たれた。現地を視察したイギリス公使館員ガビンズの書簡によれば、「鹿児島の 現在の荒廃ぶりは、筆にもつくせぬほどです。(中略)以前この町にあって今残っている のは、幾つか散在している倉庫で、砲火の跡を残しています」と、惨状を伝えている (21) 。 戦争終結から約 1 カ月後、東京琉球館役所の在番親方である与那原良傑らがイギリス公 使館を訪ねて来て、10 月 21 日・11 月 2 日の 2 度にわたり、公使館の日本語書記官アーネ スト・サトウと面談した。2 日に与那原らは政府による「台湾出兵」の不当な作為性を批 判し、(台湾)事件は、日本外務省の伊地知貞馨のでっち上げであり、遭難した琉球人の内、 15 人ほどが清国政府によって無事に琉球に送り返され、残りの 45 人ほどがどういう風に して死んだかは、今日までわかっていないと語った (22) 。 この事件をきっかけに企図された台湾出兵は、前年の征韓論争によって一気に表面化し た士族たちの不平不満を対外出兵によって鎮静化するためであった。そもそも台湾事件を 出兵の口実にでっち上げたとすれば、台湾出兵の大義名分は根底からゆらぎ、琉球処分に いたる歴史の評価も大きく変わるであろう。出兵の開始に際して台湾蕃地に派遣されたの は、熊本鎮台管下の歩兵第一及び第二十二大隊(1,295 名)と第三砲兵分遣隊(150 名)、 そして、九州諸県より召集された士族 573 名からなる徴集隊であった (23) 。 西南戦争という国内最大の士族反乱の危機を乗り切った政府は、いよいよ琉球処分に向 けて動き出す。戦争終結の翌年 1 月、分遣隊の交代要員として鹿児島から静間浩輔中尉ら が派遣された(24)。分遣隊は古波蔵の兵営で軍事訓練を行なうほか、首里・那覇・泊村など を行軍した。隊伍を組み銃剣で武装した兵士たちの軍靴の響きは、やがて迫り来る琉球処 分の「予兆」であった。 (3)田原坂「抜刀隊」の盟友 先の西南戦争に参加した俣野景明は、出羽国荘内(山形県鶴岡市)出身で、「新徴組」 隊士という一風変わった経歴の持ち主である。新徴組とは幕末の志士になり損なった浪士 集団で、よく新撰組と間違われて一緒にされるが、組織の性質はまったく違う。1862 年(文 久 2)、幕府の組織した新徴組を率いて尊王攘夷運動の取り締まりにあたっていた俣野は、 (21) F・W・ディキンズ『パークス伝―日本駐在の日々』 東洋文庫 429、平凡社、1984 年、228 頁。 (22) 荻原延壽『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄 13 西南戦争』朝日新聞社、2001 年、304 ~ 306 頁。 (23) 「本局諸表上申二十二日」国立公文書館蔵『処蕃始末』第一百〇八冊 アジア歴史資料センター A03030454400。 (24) 渡邊重綱『琉球漫録』96 頁。

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1868 年(慶応 3)、品川の薩摩藩邸焼き討ちの参謀を務めた。のちに福澤諭吉の門下生となり、 三田の慶應義塾内に起居して漢詩を教えていたこともある。 西南戦争が勃発すると、警視庁創設者の川路利良率いる新撰旅団の将校(三等大警部) として従軍した。先に述べた抜刀隊の園田安賢と俣野景明はともに田原坂で血刃を振るっ た「盟友」で、しかも 2 年後、そろって琉球処分に関わることになる。1879 年 3 月、警官 隊を率いて松田処分官とともに首里城に乗り込んだ園田二等警視補は、さらに宮古島のサ ンシー事件を鎮圧した武闘派で、のちに「警視総監」となり、男爵の地位にのぼりつめた。 一方、俣野景明は各間切を巡って役人層の説諭にあたり、八重山にも派遣された。在京の 鍋島直彬あての書翰では、廃藩置県の進捗状況について報じている(25)。琉球処分の任を終え、 東京に戻った俣野は東京集治監の典獄(刑務所長)、仙台の宮城集治監第二代典獄に栄転し、 83 年 8 月現職で病死した。彼の死について福澤諭吉は、当時アメリカに滞在していた息子 の福澤一太郎、福澤捨次郎宛の手紙の中に「本月六日俣野景明君、宮城に於て病死、驚入 候事なり。随分有為の人物、畢生其志を不得、可惜亦気の毒なり」と悼んでいる(26)。 なお、宮内省御用掛から初代沖縄県令に任じられた旧鹿島藩主鍋島直彬は、戊辰戦争で 佐賀藩と行動を共にし、朝廷との交渉にあたり、西南戦争で明治天皇が京都に赴いた際に も同行している。 (4)陸軍参謀本部と鎮台分遣隊の派遣 1878 年(明治 11)11 月、松田内務大書記官は「琉球藩処分方法」を起草し、内務卿伊 藤博文に提出している。その第一条で、「処分発令ノ以前ニ於テ藩地ノ分営ニ若干ノ兵員 ヲ増スヘシ」と述べ、第八条「処分官県官等入琉ノ上ハ左ノ処分ヲ行フベシ」の「第七」 では、「処分ヲナスニ当リ、土人狼狽騒擾スルハ必然ニ付、可成説諭スヘシト雖モ、若シ 兇暴反人ノ所為ニ及フト視認ルトキハ、分営ニ謀リ兵威ヲ示シテ鎮撫スルモ苦シカラス」 と述べ、琉球側があくまで抵抗すれば、武力で鎮圧する構えであった(27)。 同年 12 月、陸軍参謀本部は、琉球の国情偵察のため益満邦介大尉らを現地に派遣する ことを決定した。すなわち、「該国ノ地理・城塞・道路・橋梁・風土・人情・糧食・薪炭 並ニ気候等」、あらゆる軍事的、社会的観点から琉球の国情を探るよう命じたのである (28) 。 清国での諜報活動に従事した経験のある益満大尉を現地に送り込む際、上司の参謀本部 管西局長の桂太郎は、琉球国の「地図大小八枚」を「至急」に購入するよう手配した。参 (25) 漢那敬子 ・小野まさ子「俣野景明書翰-鍋島直彬関係文書・解題および翻刻」『史料編集紀要』第 35 号 2012 年 115 ~ 126 頁。 (26) 『福澤諭吉全集 第 17 巻』 岩波書店、1961 年、572 頁。 (27) 『琉球処分』204 ~ 205 頁。 (28) アジア歴史資料センター C15120002100。

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謀本部長山県有朋の腹心として知られる桂太郎は、のちに陸軍大臣や総理大臣を歴任した 長州閥の代表的軍人である。 翌 1879 年 2 月 13 日、現地偵察を終えて帰任した益満大尉の復命報告を受け、参謀本部 次長大山巌はただちに右大臣岩倉具視に上申した。すなわち、琉球藩の件は「戒厳ヲ要スル」 等の処置もあり「外邦ノ挙動」に関わるので、「内閣列議」で早急に審議するよう求めた のである。大山参謀本部次長から「陸軍省」を経て太政官に進達した意見書によれば、参 謀本部条例・第四条を根拠に「異邦ノ形勢」は寸時もおろそかにできない、「外邦ノ挙動 風聞ヲ審覆検討シテ、以テ参画ノ用ニ供スヘキハ目下ノ急務」であると述べ、参謀本部の 幹部が閣議に列席する許可を求めた(29)。 こうしたプロセスを経て、琉球派遣軍の増強が正式に決定される。大山参謀本部次長の 上申からわずか 5 日後の 2 月 18 日、陸軍卿代理の陸軍少将小澤武雄は「宮中ニ召サレテ」、 天皇の「勅命」を受けた。すなわち「琉球藩分遣隊為増員、鹿児島分遣兵ノ内半大隊同藩 へ出張ノ事」との「勅命」を奉じた小澤少将は、「直チニ西部監軍部ニ向ツテ右勅命」を 下達した (30) 。ちなみに、小澤は先の西南戦争に征討総督本営参謀として出征し、のちに陸 軍省第一局長、陸軍士官学校長、参謀本部長などを歴任した人物である。 以上の考察から判明した新たな史実をふまえ問題を整理すると、陸軍参謀本部トップの 山県有朋の腹心であった桂太郎―益満大尉という指揮系統で、まず琉球の国情を探るため 「軍事偵察」の布石が打たれた。そして、益満大尉の復命報告を受け、参謀本部は鎮台分 遣隊の増員を計画した。その議案は「閣議」に上程されたのち、明治天皇によって裁可さ れた。つまり、琉球処分に向けての軍事動員は最終的に天皇によって決定され、その「勅命」 が陸軍卿代理小澤少将をつうじて下部組織に伝達されていったのである。 この天皇の「勅命」を奉じ、陸軍省は分遣隊派遣について正式に決定した。2 月 20 日、 陸軍省浅井中佐は内務大書記官松田道之に対し、派遣軍(総数 383 名)は次のとおりであ ると通知した(31)。 ・歩兵半大隊380名(内訳 将校14名、下士46名、卒320名) ・その他 将校(医官)、下士、出仕、それぞれ1名。 鎮台分遣隊は、新型スナイドル銃(後装式施条銃)を装備していた (32) 。この銃は戊辰戦 (29) アジア歴史資料センター C15120002100。 (30) 防衛省防衛研究所蔵「参謀本部歴史草案二 明治十二年 海外時事(附琉球処分)」アジア歴史資料 センター C15120002100。 (31) 2 月 18 日 「9 沖縄分遣隊増員に付鹿児島分屯兵の内半大隊へ可令出張に付御沙汰事」 (アジア歴史 資料センター C08052585500)。 (32) 『琉球処分』283 頁。

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争期にイギリスを通じて薩摩藩に導入され、西南戦争で政府軍の主力装備として用いられ た。『陸軍省大日記』 明治 10 年 8 月、内務卿大久保利通より陸軍少将井田譲あての通達に、 「英国倫敦ヘ注文候スナイドル弾薬三百万発昨二十三日横浜港へ着船致シ候」とある。 洋式銃を装備した鎮台兵力を動員し、近世以来、「帯刀」の習慣もない非武装の琉球人 を威圧するのは、政府の暴挙としかいいようがない。民権派の政論雑誌『近時評論』は、 日清両属を望む琉球の「小邦」としての実情を愍むべきだとして、軍事力をバックにした 強硬武断策は日本の「虚栄」は充たせても「実益」はなく、また琉球人民の「離叛ノ心」 を招くと、政府を批判した (33) 。 1879 年(明治 12)1 月、松田道之は琉清関係の廃絶と裁判権の委譲を命じ、遵奉書の提 出を要求するが、琉球側はこれを拒絶。帰京した松田は、三条太政大臣あてに琉球の廃藩 置県の即時断行を求めた。同年 3 月 12 日、3 度目の渡琉を命じられた松田処分官は高砂丸 で横浜を出港した。随行官吏の顔ぶれは、内務一等属遠藤達・同御用掛吉田市十郎・同二 等属種田邁・同二等属早瀬則敏・同三等属後藤敬臣・同三等属熊谷薫郎・同七等属村木良 蔵・同七等属西村義道・同九等属荒木章造の 9 名。その他、内務省出張所在勤官の増員 32 名、警視庁の二等警視補園田安賢の指揮下にある警部巡査あわせて 160 余名が一行に加わっ ていた。 一行は途中、神戸に寄港して弾薬・兵糧米を積み込み、さらに鹿児島で熊本鎮台分遣隊 と合流する。3 月 20 日、熊本鎮台の参謀長野崎少佐を筆頭に、東京の参謀本部から「特派」 された参謀益満大尉、鹿児島分遣隊の大隊長波多野少佐ら幹部クラスが松田の旅館に参集 し、琉球処分の基本方針について協議した。翌 21 日、鹿児島を出港した総勢 600 余名の 一行は、奄美大島の久慈港をへて、25 日に那覇に到着した。翌 26 日、松田処分官は園田 警視補に指示して警察署の位置、巡査の配置その他取締りに関する事項を施行させた。 こうして準備万端を整えた松田処分官は、3 月 27 日午前 10 時、警部巡査・鎮台分遣隊 の武力威圧をバックに首里城に乗り込み、今帰仁王子朝敷ら王府首脳に廃藩置県の命令書 を交付し、同時に藩王尚泰の上京、首里城明け渡し、土地人民及び官簿その他諸般の引き 渡し等を命じる。那覇では木梨精一郎(県令心得)が内務省出張所に仮県庁を設置し、事 務引き継ぎ準備に奔走した。 また、一方、使者を地方間切に派遣して廃藩置県の方針を伝えるとともに在地の動向を 探索すべく、県官を三人一組とし、各間切に派遣した。要所の港には巡査を派遣し、清国 への渡航を警戒した(『琉球処分』219 ~ 224 頁)。 3 月 31 日、首里城の接収を見届けた益満大尉は、参謀本部管西局長桂太郎に宛てた翌 4 (33) 『近時評論』第 170 号、5 ~ 8 頁「琉球處分」(明治 12 年 1 月 13 日)。

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月 1 日付電報で「昨日、首里城ヲ受取リタリ、該地ハ至極平穏ナリ」と、現地の状況を短 く報じた。この電文は 4 月 1 日に那覇を出港した船で鹿児島に送付され、同月 5 日午後 6 時 40 分に鹿児島より「発電」、同日午後 8 時 30 分、東京の参謀本部に着信した。その後、 東京に戻った益満大尉は、つぎの復命書 (34) を参謀本部長に呈出した。 今三十一日午後二時三十分、分遣隊半数現員百六十名、大隊長波多野少佐義次引率、 首里城中山門内ニ整列、且下官(益満大尉)出張、午後第三時、処分官内務大書記官 松田道之立会之上、首里城相受取、即チ兵一中隊屯営致候。此段御届申上候也。 臨時琉球分遣隊長波多野少佐は、6 月 13 日午後 2 時、歩兵第十三聯隊司令陸軍中尉佐土 原祐古に「首里城ヲ交附」した。翌 14 日、波多野少佐は部下の兵員を率い、益満参謀と ともに汽船豊瑞丸で那覇港を出発し、16 日鹿児島に帰着した。こうして、首里城は陸軍歩 兵聯隊の管理下に置かれ、王国の歴史は幕を閉じることになったのである。 鎮台分遣隊の<蛮行>  当時、松田道之に雇われた密偵による「探偵書」に、分遣隊による性的暴行が報じら れている。明治 12 年 5 月 15 日午後、「辻妓家ニ兵卒三人至リ無案内ニ婦人ノ座敷」に 無断で侵入し、驚いて逃げ出そうとした女性に「無法ヲ仕掛ケ、迯出スヲ押留衣類等モ 破リ候」というレイプ「未遂」事件である。5 月 11 日には、首里の士族の家の台所に 無断侵入した「兵卒」が持参の米を竃で炊飯し、残飯を放置して帰ったという (35) 。この ような兵士たちの粗暴な振る舞いは氷山の一角であろう。首里城に駐屯していた鎮台兵 たちは、夜間になると兵舎を抜け出し、若い娘(アングヮー)を探して民家の近くを徘徊 したという (36) 。  比嘉朝健「琉球の石彫刻龍柱」によれば、明治十二年の廃藩で国論が騒然としている とき、日本政府は鎮圧のため沖縄に分遣隊を派遣、その隊長は一身の欲望から首里城 正殿前の龍柱を自分の郷里に移送することを命じ、龍柱の一つの胴体は破壊されたう え、均等を得るため完全な方の龍柱の胴体も破壊された旨のことが書かれている (37) 。また、 比嘉景常「首里城正殿の龍柱に就いて」は、龍柱を損壊した分遣隊の蛮行をこう記して いる。「分遣隊の一士官が『こんな支那臭味のある龍柱など倒してしまへ』と、乱暴に も部下の兵士をして引っこぬかしてしまったさうである。(云々)」 (38) 。 (34) 防衛省防衛研究所蔵「参謀本部歴史草案二 明治十二年 海外時事(附琉球処分)」アジア歴史資料 センター C15120002100、句読点は筆者補足。 (35) 『琉球処分』318 ~ 320 頁。 (36) 真栄平房敬「第七章 近代の首里城」(首里城復元期成会編集『甦る首里城』同期成会刊行、1993 年、 285 頁)。 (37) 美術雑誌『アトリエ』昭和 2 年 3 月号、21 頁。 (38) 『琉球新報』昭和 15 年(1940)1 月 1 日から 3 回にわたって連載。

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4.尚泰の上京 (1)尚泰の上京問題 1879 年(明治 12)3 月、首里城の接収後、政府にとって最大の懸案となったのが藩王尚 泰の上京問題である。内務省出張所在勤官の俣野景明が、東京の鍋島直彬に琉球処分の進 行状況を知らせた明治 12 年 3 月 28 日付書簡の一節に「昨廿七日十時入城、藩王其外へ御 達相済、文書ヲ封し候、至而静也(中略)三十日正午城受取之積也、被案志候ハ王の上京也、 是ハ一大困難事と心配罷在候」 (39) とあるように、王の上京は「一大困難事」と懸念されてい たのである。 こうした現地の状況について松田道之から秘密電報を受けとった内務卿伊藤博文は、次 のような返書を認めた(40)。  松田大書記官殿  博文 昨一日鹿児島出発之電報、同夜中相達、今朝既ニ及奏聞、明後四日廃藩置県之布告被仰 出候筈ニ有之申候。藩王東京住居之儀ハ上京之上御達相成度、右ハ事情有之云々致領承 候。然ルニ藩王出発相済候迄ハ甚懸念之至ニ御座候故、時宜ニ寄海軍へ相談之上軍艦を 別ニ差越可成速ニ藩王上京之取計いたし度見込ニ御座候。乍然船之都合河村へ遂相談候 上ならでは確ト難取極候。若軍艦不差越時ハ四月郵船之外いたし方無之候。御疎ハ間布 候へ共、琉人之支那へ抜出ぬ様、御注意肝要ニ候。 東京在留公使其後外務省と談判ハ別ニ相変候事無御座候。尤廃藩発令之上ニ可致す帰国 も難図、宍戸ハ去月二十六日之郵船ニ而出発候。 鍋島ハ一両日中ニ県令拝命之上若シ軍艦ヲ遣候ヘハ為乗組、不然ハ此次之郵便之外無之 候。東京何も相変候事無御座候、御安心有之度郵船解纜切迫之趣唯今承知、不取敢一書 匆々候 敬具    四月一日午後一時半    内務省 松田処分官より電報を受け取った内務卿伊藤博文は、藩王の上京問題について「領承」 したと述べている。政府から尚泰に「東京住居」を通告するのは、王の上京後という合意 である。もし上京以前に通告すれば、激しい抵抗運動が起こるにちがいない。したがって 当面の課題はまず上京させることを最優先し、次のステップで王の身柄を引き留める策略 だ。伊藤は、海軍と相談して可能ならば「軍艦」を派遣する、それができない場合は次の 郵船で速やかに藩王を上京させるよう指示した。 (39) 明治十二年三月二十八日、俣野景明より鍋島直彬宛て書翰(『沖縄史料編集紀要』第 35 号、120 頁)。 (40) 松田大書記官宛て伊藤博文自筆書簡、沖縄県立図書館所蔵 1001973997。

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政府は廃藩置県と同時に、国王とその後継者(尚典・尚寅)の身柄を東京に移す計画で あった。しかし、王国の存亡にかかわるこの問題は容易に決着せず、琉球側は王の「病気」 を理由に上京延期をくりかえし嘆願する。これに対し、明治 12 年 4 月 5 日、天皇は侍従・ 富小路敬直を内勅使として王の派遣を促す。那覇に到着した富小路は同 13 日、松田道之 と警察官 30 人を護衛に従え、首里の円覚寺に入った。中城御殿で病床に臥す尚泰は、勅 使との面会を固辞して嫡子尚典の代謁を願い出るが、富小路はこれを斥け、中城御殿に乗 り込んで天皇の勅諭すなわち上京命令を伝えた。翌 14 日、松田処分官は旧藩重臣を呼び、 勅諭の奉答を督促するが、天皇の勅諭といえども琉球側は容易に屈服しなかった。 4 月 15 日、尚泰の弟尚弼(今帰仁王子)をはじめ三司官以下 21 名が内務省出張所に出向き、 富小路と松田に 4、5 カ月の「上京猶予」を訴えた。さらに政府に直接請願するため王子 一人が勅使と共に上京したいと伝えた。同月 16 日、21 カ村の士族総代 105 人および諸王子、 旧藩重臣等が 90 日間の延期を松田らに嘆願した(『琉球処分』233 ~ 255 頁)。 王の上京を迫る政府が危惧したのは、琉球側は清国から援助の手が差し伸べられるのを 待っているのではないか。尚泰の上京が早ければ早いほど、清国が介入する余地は少なく なるはずだった。松田はあせる気持ちを抑えつつ、勅使の帰京時に王の嫡子尚典を上京さ せることにした。そのねらいは尚典の上京後、「其嘆願ヲ許サスシテ嫡子ヲ拘留」し、「藩 王上京ノ督促を起ス」という策略である。実際、松田のシナリオ通りに尚典の嘆願は即日 却下され、そのまま滞京を命じられた。つまり王子を人質にとったのである。 その一方で政府は次の手を打った。天皇の侍医高階経徳と陸軍少佐の相良長発を琉球へ 派遣したのである。旧薩摩藩家老の小松帯刀の実兄にあたる相良(肝付兼善の次子、当時 は治部と称す)は、1863 年(文久元)から琉球在番として翌年春まで在勤し、英船来艦時 の処理もしている。その経験から尚泰とも面識があったので、政府の訓令を王に直接伝え る適任者として、相良に白羽の矢が立ったのであろう。参議西郷従道は相良を推薦する際、 「旧藩王とは懇親之者に付、此節彼地え被差遣候はゝ、旧藩王を誘引乃一助には相成可申」 と述べている (41) 。 さらにまた『近時評論』第 202 号 7 ~ 8 頁「華族尚泰君帰縣ノ得失」に、「陸軍少佐相 良長発氏ハ、元ト鹿児島藩ノ門閥ニテ嘗テ該藩ガ琉球島ヲ管轄セシ時ニ任ヲ奉ジテ該島ニ 在リ」とあるのも、これを裏付けている。相良が「懇々利害ヲ説キシヨリ、(尚泰)君ハ 翻然上京ノ意ニ決セラレシ」という。 ここで注目されるのは、琉球処分を主導した松田に次ぐ地位を占めた内務省出張所長木 梨精一郎と、相良長発の共通点である。この二人はかつて戊辰戦争の先鋒をつとめた盟友 (41) 伊藤博文関係文書研究会編『伊藤博文関係文書』五、塙書房、1978 年、79 頁。

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であり、陸軍省の同僚でもあった。幕末維新期における相良の軍歴(42)を確認しておこう。 1867 年(慶応 3)、島津久光の率兵上京で「薩兵大隊長心得」となった相良は、鳥羽伏 見の戦いの活躍をへて先鋒大隊長、東海道先鋒総括を命じられ、江戸城明け渡しの任にあ たる。さらに奥州白河など各地に転戦、会津若松城を攻略。その後、陸軍大尉から少佐に 昇進した相良は、さらに西南戦争で政府軍を率いて九州各地に奮戦した。それから二年後、 今度は「琉球処分」の終盤で、尚泰の上京に向けて尽力したことは、「政府ノ内命ヲ受テ、 尽力スル所不少」と叙勲理由書にも明記されているとおりである。木梨と相良の「軍歴」キャ リアには、驚くほど共通性がある。戊辰戦争に従軍した軍人エリートという点で薩長の影 が、琉球処分にも色濃く差しているのである。 西南戦争の二年後、1879 年(明治 12)の「琉球処分」の終盤に、相良は重要な役割で 登場することになる。五月十八日、東海丸で那覇に到着した相良・高階らはさっそく松田 道之とともに中城御殿に出向く。松田と相良は尚泰王の寝室まで入りこみ、高階侍医の診 察を受ける様子を注視した。尚泰の病状は神経性下腹充血症だが、重症ではないと診断さ れ、松田は一日も早く上京せよと促した。窮地に追い込まれた尚泰は、5 月 27 日に東海丸 で那覇を出発する。こうして、最大の懸案であった藩王の上京問題にケリをつけた松田は、 6 月 13 日に沖縄を離れた (43) 。 5.政府の手に渡った琉球の公文書  (1)首里城の公文書封印 ここで話は、「首里城明け渡し」の場面に戻る。1879 年 3 月末、首里城を追い立てられ た尚泰ら王族は、中城御殿に移った。3 月 29 日、城内から荷物を慌ただしく運び出す様子 が、喜舎場朝賢『琉球見聞録』(44)に克明に記されている。 「(三月)七日(新暦三月二十九日)衆官吏及び士族・平民数百人参集したれば、下庫 理・書院・近習・内宮各所より、藩王儀狀(ママ)・鹵簿・器具・図書及び衣衾・絹綉・衣疋等を 蔵むる箱櫃・箪笥其他、数百年来、経営聚蔵せられたりし百般の器具・物件を悉く中庭に 持ち出し倚畳堆積すること山の如し。之を荷造りして夫卒に荷担せしめ、紳徒士輩之を護 衛し、中城殿及按司・親方等の大家に運搬し、朝より晩に至るまで絡繹相絶えず、喧囂雑 遝し、満城騒擾を極む」。 こうして王城の中庭に積み上げられた儀式用の道具類や衣装箱・箪笥等を持ち出す作業 (42) 国立公文書館所蔵『叙位裁可書 明治四十一年・叙位巻十二』「陸軍歩兵少佐相良長発特旨叙位ノ件」、 アジア歴史資料センター A10110289400。本史料からは他に琉球在番任務は本資料添付の「相良長発履 歴附記」を参考とした。 (43) 『琉球処分』273 頁、喜舎場朝賢『琉球見聞録』138 頁。但し、喜舎場は 5 月 28 日とする。 (44) 『琉球見聞録』至言社、1977 年、118 頁。読点は筆者が付した。

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が終日続いた。城門を出る際、守衛の巡査たちが荷物の検査を行った。荷ほどきが少しで も遅れると、「叱咤呵責し、則ち所持の棒剣を以て之を打撃」したという。注目すべきは、 琉球王国の存在証明ともいうべき外交文書を押収する方針を、政府が周到に準備していた ことである。1879 年(明治 12)3 月 12 日の内務卿伊藤博文から「処分官」松田道之宛の 書簡は、こう述べている(45)。 琉球ト島津トノ関係書類並ニ従来支那ト関係之書類等不残取揃、鄭重ニ御保存御持帰 相成度候、此談為念申入候也。 すなわち、対日・対清関係の文書類をすべて保存し東京に持ち帰るよう命じたのである。 政府の意図はいうまでもなく、王国独自の「外交権」を否定し、その存在証明としての歴 史記録を奪い取る狙いがあった。琉球側からすれば、それまで保有してきた外交権の証拠 書類を根こそぎ持ち去られることになる。したがって、伊藤内務卿の命令は重大な意味を もっていた。この命令を受けて、松田道之は首里城の公文書類をどのように押収したのか、 その具体的経緯について次に見ていこう。 4 月 1 日、松田道之は内務卿伊藤博文あてに次のような「暗号電信」を発した (46) 。下線お よび句読点は引用者。     暗号電信   東京 内務卿       琉球 松田大書記官 御達之条件夫々相達セリ。少シ事情アル故、直ニ必用ノ書類アル場所ハ封印ヲ為シ、城 門五カ所ヲ開キ餘ハ皆閉テ書類ノ取調ヲ始メタリ。且亦藩王東京ヘ住居ノ御達ハ小官手 許ニ秘シ置キ、御用有之至急出京之御達書ヲ作リ相渡タリ。故ニ藩王上京ノ上、東京居 住ノ御達ハ其地ニテ御達アリタシ。(中略)城渡シハ三十一日、藩王出発ハ四月ノ郵便 船ト定メタル故、右両度ノ期限毎ニハ如何ナル事情生スルヤ難図ケレトモ、官吏士族一 般ヘハ小官巡回シテ説諭致シ、カクマギリヘハ県官を配リ鎮撫セシメ且又地方ノ役人ハ 不残旧職名ヲ用ヒテ県ヨリ更ニ命シ、皆々此方之者ニ致ス等ノ事ヲ取斗タリ。(中略) 委細ハ郵便。   四月一日 午後一時五十分 鹿児島   電信局発ス この秘密暗号電報によれば、警部巡査隊と鎮台分遣隊を率いた松田は首里城に乗り込 み、ただちに「必要書類アル場所ハ封印」された状況がわかる。王府文書の主な保管場所は、 政務中枢機関である「評定所」を中心に捜索が行われた。そこでまず「旧藩帳簿類」を封 (45) 『琉球処分』286 頁。 (46) 「暗号電信」「明治十二年三月二七日処分官松田より藩王尚泰へ文書」等、内閣文庫所蔵『廃藩置県 処分二』。アジア歴史資料センター A03022997600。下線は筆者による。

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印した上で、次のような布石を打った。「今般処分ノ都合有之ニ付、旧藩簿書類ノ場所ハ 封緘候條、同所ノ所蔵物件ヲ調査又ハ他ニ出ス等ノ節ハ城中ニ出張ノ内務省官吏ニ照会ノ 上、其立会ヲ得テ取計可有之。(中略)各所ノ城門ハ巡査ヲシテ護衛セシメ候條、城内ヨ リ他ニ出ス物件ハ大小ヲ問ハス是亦城中ニ出張ノ内務省官吏ノ検査ヲ受ケ、其印鑑ヲ得テ 通行候様取計可有之候也」という。 これらの「所蔵物件」(文書類・器物)を厳重に監視し、物品の持ち出しをチェックす るため、城門に巡査を配備したことがわかる。さらに、「書類ノ蔵匿ヲ予防」するため「巡 査五拾名」のほか属官若干名を「城中ニ止宿セシメテ」、松田らはいったん退城した。 こうして首里城にあった王府の文書記録は接収され、東京の内務省に運ばれた。内務省 文書課の作成した『旧琉球藩評定所書類目録』と題する文書目録によると、評定所文書は 2,074 冊を数える。これらの文書は、残念なことに関東大震災で大部分が焼けてしまった。 現在は目録でのみ、どのような文書があったのかを確認することができる。なお、土地制度・ 租税等に関する検地帳などは新たに発足した沖縄県庁に引き渡され、各士族の家譜等は「中 城御殿」に移管された。また、中国皇帝の詔勅や島津氏との通交関係の原文書は接収された。 これらの内務省に接収された琉球関係史料については、「琉球処分」から約四半世紀後、 1903 年(明治 36)からの数年間に東京帝国大学史料編纂掛の手でいくつか写本類が作ら れた。そのなかで最も重要なものは、「明清册封詔勅目録」(内務省総務局文書課所蔵本) である (47) 。これは松田道之が首里城から持ち出した明清皇帝の「册封詔勅」にちがいない。 つまり、琉球処分で評定所文書と一緒に貴重な「册封詔勅」も押収したものと考えられる。 それは日本による琉球王国の国権接収であり、また「歴史の簒奪」でもあった。 これら琉球史料目録の写本については、史料編纂掛事務主任(現、所長に相当)を務め ていた歴史家の三上参次が、明治 36 年ごろ内務省の旧幕寺社奉行所文書の引継について 交渉するなかで、同省所蔵の「琉球書類」にも接触したとされる。三上は、これらの琉球 書類を東京帝大に譲り受けたいと求めたが、内務省側は「外交上之秘密書類ニ属スル」と いう理由で断った。「琉球処分」から約四半世紀が過ぎてもなお、政府はこれを機密扱い にしたまま研究者にも一切公開しなかった。のちに貴族院議員となった三上参次は、貴重 な琉球関係文書が関東大震災で焼けてしまったのは大変惜しいことだった、と貴族院予算 委員会の席上において証言している (48) 。 (2)『歴代宝案』 『歴代宝案』の原本は王府の手で二部作成され、一部は久米村に、もう一部は首里城 (47) 東京大学史料編纂所蔵「明清册封詔勅目録」。 (48) 拙稿「琉球王国評定所文書に関する一考察」『九州文化史研究所紀要』第 35 号、1990 年。

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に保管されていた。『歴代宝案目録』には第一集四十二冊、第二集二百冊、第三集十三冊、 別集七冊、合わせて「二百六十二冊」とある (49) 。 久米村に代々伝わった『宝案』は、のちに天尊廟から県立沖縄図書館に移管され、研究 者や一般の眼にふれるのは 1933 年(昭和 8)、王国の閉幕からおよそ半世紀ぶりに陽の目 をみた。先述したように、琉球処分の際に首里城にあった評定所文書や詔勅類が接収さ れたが、それだけでなく、『歴代宝案』も政府の手に渡った事実を裏付ける新たな証拠が、 尚家文書の中から見つかった。以下に紹介する『明治十二卯年 従琉球大坂鹿児島御問合  役所』と表紙に墨書された冊子である (50) 。1879 年 4 月以降、11 月頃までは首里王府から 新県庁への行政機構の引継ぎが行われた時期であり、『歴代宝案』をめぐる問題はまさに その時期に起こった。 この問題に関わった木梨精一郎の動きを次に見ていこう。初代沖縄県令鍋島直彬が東京 から着任するまで、沖縄県令心得として県庁の開設準備で采配をふるった木梨は、東京の 松田道之から公文書引継ぎに関する重要な指示を受けていた。その指示とは、次に掲げる 明治 12 年 6 月 12 日付木梨あての公文書(史料①)である。 【史料①】 一 歴代宝案  弐百餘冊  但 琉球藩歴史ニテ漢文ヲ以テ逐年編輯セシモノ 右ハ旧琉球藩ヨリ御借入被下堅固ナル箱ニ詰込、三菱社汽舩便ニテ拙者迄御差送リ被下 度、此段及御依頼置候也   六月十二日   松田大書記官   木梨少書記官殿 この史料から明らかなように、松田は『歴代宝案』を堅固に箱詰めして「三菱社汽船」 で送るよう木梨に指示したのである。当時、三菱は「国内最大手」の郵便汽船会社であった。 殖産興業政策に力を入れる政府は、明治 7 年の台湾出兵の際に輸入した外国汽船 13 隻の 無償下付、巨額の補助金給付で三菱を手厚く保護し、日本の近海航路は三菱汽船の独占す るところとなった。1885 年には郵便汽船三菱会社と共同運輸会社が合併し、日本郵船会社 が設立された。こうした官民一体の海運事情により、『歴代宝案』は三菱社汽船で東京へ 運ばれたのである。 5 月 27 日、藩王尚泰は宜野湾王子尚寅らを伴い、東海丸で上京の途についた。東海丸の (49) 東恩納寛惇『黎明期の海外交通史』帝国教育会出版部、1941 年。小葉田淳「歴代宝案について」(『史 林』第四六巻四号、1963 年)、富島壯英「『歴代宝案目録』について」(『歴代宝案研究』創刊号、沖縄 県立図書館史料編集室、1990 年)等。 (50) 尚家文書 1103 号 那覇市歴史博物館所蔵、琉球大学附属図書館マイクロフィルム。

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出港を見届けてあと、松田は 6 月 13 日に帰京する際、沖縄に残る県令心得・木梨精一郎 に重要文書の移送を指示したと考えられる。次に、政府と琉球側との間で『歴代宝案』の 貸し借り手続きがどのように進められたのか、具体的にみていこう。 【史料②】 歴代宝案 弐百三拾八冊 右借入を以差登候様松田殿申越有之候間貸渡度、木梨殿より照會有之証書差出貸上置 候間、松田殿御覧相済次第取入、可被差下候。依仰別紙三通相添、此旨申越候以上   七月十日   摩文仁親雲上   阿波根親雲上 この 7 月 10 日付の史料で明らかなように、政府側に貸渡された『歴代宝案』の冊数は 238 冊を数える。文中の「松田殿」は、いうまでもなく琉球処分を主導した松田道之。「木 梨殿」とは長州藩出身の木梨精一郎を指す。最後に木梨の履歴を見ておきたい。 1868 年(慶応 4)1 月、鳥羽伏見の戦いに勝利した新政府軍は、東征大総督に有栖川宮 熾仁親王を任命。西郷隆盛らが征東軍参謀となり、薩長勢力を中心に五万の大軍で江戸へ の進撃を開始した。長州藩の木梨精一郎、薩摩藩の海江田武次が東海道先鋒総督府参謀と なり、途中の諸藩を次々に帰順させながら進撃、江戸城総攻撃は、3 月 15 日と定められた。 その直前の 3 月 13、14 の両日、江戸三田の薩摩藩邸で西郷隆盛と勝海舟の会談が行なわ れたのち江戸城総攻撃は中止され、「無血開城」が決まる。4 月 11 日、江戸城の接収現場 に踏み込んだ政府軍幹部の一人が、じつは木梨精一郎であった。江戸開城後、戦火は関東 各地に拡大した。 北上した政府軍は、奥州街道沿いの要地白河口を攻略するため「平潟」に上陸する。木 梨は奥羽鎮撫総督参謀として活躍した (51) 。いっぽう、江戸では彰義隊が上野寛永寺の山内 にたてこもるが、政府軍の砲撃により降伏した。幕府の海軍副総裁榎本武揚は、最新鋭の 軍艦開陽丸など七隻の艦隊とともに品川沖を脱走した。榎本艦隊は、琉球に向かったとの 「風う わ さ聞」も一部に流れたが、むろん虚報である。明治元年 8 月、政府軍は会津に攻め入り、 その「落城」に関する情報が遠く琉球まで達したことは、那覇役人の日記から明らかであ る(52)。会津城攻撃に参加した薩摩の相良長発は同年 8 月 27 日、大久保利通に「落城」の模 様を報じている (53) 。相良はのちに宮内省御用掛兼陸軍少佐として琉球に派遣され、尚泰王 の上京問題にかかわったことは先述のとおりである。 (51) 「木梨男爵史談会筆記」(山口県文書館所蔵)、菊池明編『戊辰戦争全史』新人物往来社、1998 年、栗 原伸一郎『戊辰戦争と「奥羽越」列藩同盟』清文堂、2017 年。 (52) 拙稿「幕末維新期における琉球の位置」(明治維新史学会編『明治維新とアジア』吉川弘文館、2001 年)。 (53) 国会図書館憲政資料室「三条家文書」書簡の部、第 18 冊。資料番号 291-1。明治元年 8 月 27 日付の 相良長発(治部)より大久保利通宛書簡。

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戊辰戦争後、木梨精一郎は政府の兵部省に入り陸軍少佐に任じられた。だが、長州藩の 山県有朋と親しい政商・山城屋和助による陸軍省公金使い込み事件に連座し、閉門四十九 日に処せられ辞職。その後、明治 9 年には「内務省出張所長」として琉球に派遣された。 注目すべきは、戊辰戦争で活躍した木梨が「江戸城接収」の軍務に関わった事実であり、 その軍務キャリアから当然、「首里城接収」の手腕を期待されての派遣にちがいない。 このように戊辰戦争、西南戦争という疾風怒濤の時代を生きた人物群像の足跡をたどる と、琉球処分の背後に血なまぐさい「維新の影」が差している意外な事実に気付かされる。 むすび 従来の琉球処分(併合)に関する研究では、内務卿大久保利通や伊藤博文の命を受けた 松田道之ら「内務官僚」を中心とする動き、あるいは清国との外交問題を考察することに 主眼がおかれてきた。その一方で、参謀本部や陸軍省がどのように関わったのか、軍部の 政策過程はなお十分に解明されておらず、研究上の盲点の一つともいえる。 本稿では、これまで等閑視されてきた西南戦争から琉球処分に関わる人物群像に眼を向 け、軍事的側面をできるだけ具体的に追跡、解明することに留意した。以上の考察で明ら かにした史実をふまえつつ問題を整理すると、第一段階として熊本鎮台沖縄分遣隊の配備 に向けての軍用地の選定、さらに第二段階は「兵営建設」である。いずれも琉球側の反対 を押し切って強行され、琉球処分に向けて軍事的な「布石」となった。 これらの動きとともに、陸軍参謀本部トップの山県有朋の腹心である桂太郎―益満邦介 参謀大尉という指揮系統で、琉球の国情を探るため「軍事偵察」の布石が打たれた。益満 大尉の復命報告を受け、参謀本部は鎮台分遣隊の増員計画を練る。その議案は「閣議」に 上程されたのち、明治天皇によって裁可された。軍事最高指揮権をもつ天皇自身が最終的 に琉球派遣軍の増強を裁可し、その「勅命」は陸軍卿代理小澤少将をつうじて下部組織に 伝達、実行されたのである。 こうした軍事力をバックにした「首里城明け渡し」に続いて、国王尚泰の移送・上京と ともに重要文書が政府の手に接収された。明清皇帝の「册封詔勅」や『歴代宝案』などが 東京の内務省に運ばれたのである。琉球処分から約四半世紀が過ぎてもなお、これらの文 書は「外交上之秘密書類ニ属スル」という理由で内務省は“機密扱い”にしたまま、研究 者にも一切公開しなかった。琉球王国の存在証明ともいうべき重要な外交文書の接収は、 琉球国の対外主権を否定する行為であり、「歴史の簒奪」でもあった。

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図1 明治 9 年 4 月 公文附属の図・九二号「琉球国国場村屯所用地之図」、国立公文書館蔵 (請求番号 附 A00092100)

図2 琉球藩兵舎配置及病室官舎配置賄所之図 四枚之内(明治 9 年 1 月 公文附属の図・ 七六号「琉球藩地兵営建築図」、国立公文書館蔵〔請求番号 附 A00076100、件名 001〕)

参照

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