社会資本概念についての一試論――宮本憲一教授の 社会資本概念の検討を中心にして――
著者 仁昌寺 正一
雑誌名 経済研究年誌
号 1
ページ 47‑65
発行年 1978‑03‑25
URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024489/
社会資本概念についての一試論
一宮本憲一教授の社会資本概念の検討を中心にして−
仁昌寺 正一
目 次
宮本憲一箸「社会資本論」における社会資本概念 の要約
宮本教授の社会資本概念の検討 社会資本概念構築の試み むすびにかえて 1
甲■①2 3 4
1.宮本憲一著『社会資本論』における社会資本概念の要約
周知の如く,宮本憲一教授の『社会資本論」 (有斐閣, 1967年)は,
1960年代初頭以来の社会資本論争を総括したものとして1), また単にそれ にとどまらず, 「戦後日本の経済学研究に一エポックを画するもの2)」と して,多くの研究者よりきわめて高い評価を受けている。
しかしながらこの著書に展開されている社会資本の理論に関する部分 は.教授が多彩に引用されているマルクスの著書ヤこ照らしあわせてみて も, また現実のいわゆる社会資本と照応させてみても,著しくそのあいま L、さが目立つのである。
本小論稿ば, この著書を中心に展開されている宮本教授の社会資本概念 を批判的に検討し,われわれなりの社会資本概念を導き出すことを目的と しているのであるが,ではまず,教授の著雷に展開されている社会資本概 念を要約してみよう。
社会資本概念についての一献輪
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教授ば,社会資本を「社会的一般労働手段」と「社会的共同消費手段」
の二つに区分される。ここで「社会的」とは「所有が社会化(株式会社あ るいば,国家の所有のように社会化されたもの)されている所有形態をさ す。」(前掲雷, 10頁)
「一般的労働手段」は, 労働手段のうち,機械(筋骨系統)や管・鰯・
篭・壷など(脈管系統)とは異なる広義の労働手段,すなわち労働用建物,
運河,道路などである。その「抽象的な第一次的規定」をすれば,それは
「労働過程がおこなわれるための共同社会的一般的な諸条件」 (13頁)で ある。しかし「資本制社会においてば労働過程ば価値増殖過程となる。し たがって,資本制社会の一般的労働手段は次のように第二次的規定をせね ばならない。資本制社会の一般的労働手段は,資本の一般的共同社会的条 件である。すなわち,それば資本の再生産の基礎条件であり,剰余価値増 殖過程の一般的共同社会的条件である。」 (15,頁)そしてこの「一般的労働 手段の性格」としてば,①「場所的固定性」,②「価値移転の特殊性」一
「その価値は生産資本と結合して,はじめて生産物の価値に転化することが できる。独自に価値移転を満こなったり,剰余価値の増殖を満こなうもの ではない。」 (17頁),③「固定資本としてみた場合の循環の特殊性」−
「大規模な建設投資を必要とし,建設期間が長期におよびその生産物は遠 い将来にしか実をむすばない。」 (20頁),④「各種の手段がワンセットな ければ機能しえないということ」 (22頁),⑤「他の労働手段とちがい,消 撰過程にはし、りこみ,浪費的性格をもつこと」 (23頁),⑥「軍事的政治的 性格をかねそなえている」こと(23頁),の六つがあげられる。
「共同消費手段」ば, 「主として家庭外で共同の消費の対象となる」もの である(29頁)。それは「個人消費の一般的条件」 (30頁)であり, 「早く から都市住民の共同的生活手段としてつくられた。」 (29頁)資本主義社 会になると,それば「労働力の再生産一労働者階級の再生産の一般的条 件となる。」 (32頁)この「共同消費手段」は, ①場所的固定性,②非分 割性, ワンセット性,③利用の低所得者的性格,④生産過程との不可分
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性,⑤政治的軍事的イデオロギー的性格がつよいこと,の六つの性格をも っている3)。
このような宮本教授の社会資本概念に対して,吹にわれわれの疑問・批 判を提示してみ、よう.
注
1960年代初頭から今日までの社会資本の定銭をめぐるマルクス経済学者の論 争史は,大きく2段階に区分することが可龍であろう。第1段階は, 1960年代初 頭より1967年の宮本憲一箸「社会資本論」 (有斐閣)の登場まで,第2段階はそ れより今日藍でである。すなわち, 宮本教授の著書は1960年代初頭より行われ た論争を総括したものとして位置づけられるばかりでなく,今日の社会資本研究 の出発点としても位置づけられるものなのである。
第1段階の代表的論者とその論文としては,宮本憲一「社会資本論批判(1)」
(「金沢大学経済論築」第1号, 1961年),同「社会資本論批判(2)」 (「金沢大学法 文学部論集」第1号, 1962年),岩元和秋「公共投資論序脱」 (「鹿児島大学社会 科学報告」」第1号, 1962年), 同「公共投資の機能」 (「鹿児島大学経済学研究」
第3号, 1963年),池上惇「社会的労働手段と公共投資」 (「経済論錘」第90巻 6号, 1963年,後に同氏箸「現代資本主義財政論」,有喪閣,に収録).同「社会 的間接資本の財政論」 (島恭彦・林栄夫編r財政学講座」4所収, 1965年),山 田喜志夫「国富概念と国富統計」 (『国学院大学政経論議」第12巻1号, 1963年),
斎藤博「いわゆる社会資本と 社会的労働手段 に関する覚書」 (「国学院政大学 経論鎚」第13巻4号, 1964年)などがある。
そして, 1967年の宮本葱一署r社会資本論」登場以後すなわち第2段階のもの としては,島津秀典「いわゆる社会資本について一国索資本蝿零との関連にお いて−」 (「経済学雑誌」第59巻1号, 1968年,後に小谷装次編薯「国家資本 の理論」,大月書店,に「国家資本と社会資本」と改称して収鋤,宮本憲一「社 会資本強補修覚書」 (「経営研究」第116‑118合併号, 1972年), 同著「社会資本 輪・改財版」 (有巽閣, 1976年),池上惇「社会資坤:と資本蓄穣」 (「経済論叢」第 109巻4‑6合併号, 1972年,後に同著「現代資本主蕊財政論」,有喪閣に収鋤,
加藤一郎「社会資本研究の一視角」 (「経済論叢」第111巻4号, 1973年),同
「 社会的生産の共同社会的.一般的諸条件,'について」 (「経済」1975年1月号),
北沢啓明・仲田明道「「社会資本」概念の基礎的検酎一宮本憲一薪「社会資本 論」の問題点一」 (「経済」1973年11月号),同「「社会資本」研究の発展方向 (1) (2) (3) (4)」 (「経済」1975年8月号, 9月号), 1976年3月号, 4月号), 遠 藤晃「社会資本」概念の検討視角」 (「経済」1974年9月号, 山田客志夫(「社会 資本」に関する趨論的諸問題」 (「国学院経済学」第23巻3.4合併号, 1975年)
など鰄ある。
本溺では, これらの謹害や論文には必喪なかぎりでしかふれない。尚,第1段
一49−
1)
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階の輪点の整理は,北沢啓明・仲田朗道両氏の飾掲論文(「経済」1973年11月 号)において群しくなされている。
2) 欄尾邦夫「<書評>宮本憲一「社会資本論」」 (「国学院大学政経論叢」第16韓4 号), 112頁
3) 北沢啓明・仲田朋道,萠掲論文(「経済」1973年11月号),参照
2. 宮本教授の社会資本概念の検討
第1腱, 宮本教授は社会資本(「社会的一般労働手段」及び「社会的共 同消費手段」)を, 「所有が社会化されたもの')」 (「株式会社あるいば国家 の所有のように」) として把握されているが, ここには社会資本の定義に 関して次元を異にする所有の問題が混乱したかたちで導入されている。
もし社会資本をその所有者別に区分するとすれば, H)個人所有のもの,
(ロ)株式企業の所有するもの, し,国家(地方自治体も含む)の所有するも の,の三つが基本的なものであり, これを「私」と「社会」 (「公」)と に区別すれば, (イ)と(ロ)が私有の社会資本,㈱が公的に所有される社会資本 となるが,宮本教授の世界でば, しf)の存在が否定され, │ロ)とレサの公私両部 門が社会資本という点で一諸にされてL,る°
確かに一つの企業を経営するために必要な資本金または貨幣資本が一人 の個人の所有である場合に対し複数の個人が出資する場合ば,資本ば社会 化されているといってもいい。Aktjengesen…aftを株式会社または株主 社会といってもし、いのと同じことである。しかし,企業が国有化または公 有化される場合に社会化という言葉が使われるのば, 「私」に対し「公」
という意味,すなわち社会の代表者としての国家という意味であって,所 有者が多数だという意味でない。したがって教授が「資本制社会でば,一 般的労働手段ば私有された資本から排斥される性格をもっている2)」「……
社会的に所有(とくに公有化)されやすい3)」と述べ個人所有→株式企業 所有→国家所有をストレートに同じ方向の発展過程と考えて端られるの は, この意味をとりちがえているからにほかならない。それは全く別な問
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題なのである。
しかし, もともと社会資本の所有形態が肘)(ロル、のどれであろうとも,あ るいはまた'二) 「第三セクター」の形態をとろうとも,社会資本の定穀にお いてはそのような区分をすること自体大きな意味はない。後述するように 社会資本の社会とは,所有・経営についての主体の問題ではなく,利用d 消費の共同化(社会化)をさすものだからである。したがって, ここで ば,あるものが社会資本であるか否かについては所有形態はインデイファ
レントであるということを強調しておこう。
第2に,教授ば「一般的労働手段」の労働手段に固執して社会資本を定 義されようとするが故侭二,それを一つの機構として把握されようとはしな い。そのことは「一般的労働手段」の「例示」としてあげられる次の箇所 に端的に示されている。
「鉄道(車輌などをのぞく) ,道路, 港湾(水路をふくむ) ,飛行場お よびそれらに付属する鯛築物4)」 (傍点引用者)
しかし「車輔などをのぞく」 「鉄道」は, し、つたいどのようにしてその 利用者にサーヴィスを提供できるというのであろうか.
「鉄道」という社会資本でいえば,それはレール, 操車場, 車輌, 、信号 灯,駅舎,…….及びそこで働く労働者の労働を一括して含めて機能させ ることによって,そこから生ずるサーヴィスを利用者に提供しているはず である。すなわちその「生産過程」の諸要素が不可分に結合して機能する ことによりばじぬて使用価値が産出できるのであり, もしその生産機櫛を 構成する諸要素が一部でも欠けていれば使用価値を提供できないことはい うまでもない。このことは「港湾」その他の社会資本についても全く同様 である。
後に宮本教授ば, 「車輌などをのぞく」としたことについての誤りは認 めておられるが5),しかし社会資本を機構の一部である固定施設とみ患か,
それとも固定施設を含む機構とみるかということを一大争点として行われ た高橋正雄教授との論争に詣いては,依然として前者の立場に立つことを
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表明して諦られるG)。宮本教授は社会資本を固定施設に限定する規定の方 法を, 「素材的規定7)」とよ嘘れているのであるカョ,この規定の内容ば到底 われわれの納得するところのものとばなりえず,筆者もさきにある雑誌の 中でそのあいまいきを指摘したのである。ここでばその箇所をくり返しを L,とわずあげてみることにしよう。教授は「素材的規定」という視点に固 執して次のようにいわれる。
「素材的規定から はいるということば環境問題など新しい社会問題に 直面したときの理論構成の方法であろう。また『社会資本』とL、うこと ばを使用する場合も,供給主体でなく固定施設としているのが一般的で ある。たとえば,社会資本充実政策とか,社会資本が不足して都市問題 がおこる……という使用法は,道路や上下水道という固定施設を充実す る政策とか,それらが不足する問題をいっているのであって,水道局あ るいは下水道局(高橘教授の定義では, 「企業」「資本」または「機構」)
を充実化せよとか, これらが不足しているといっているのではない8)。」
これに対する筆者の批判は洗のようなものである。
「しかし,はたしてそうであろうか。かりiこいま都市問題が発生し,
それに伴って住民運動が盛んになり,そこの住民が「道路をつくれ」と か「下水道をつくれ」とかいう要求を起こしたとして,彼らが段終的に 要求しているのは道路とか下水道設備とかの固定施設の象と考えること ができるであろうか。また,住民のそれらの要求に応じて道路や下水道 を充実化しようとする政府や地方自治体も,単にそれら固定施設を建設 してやるだけですべてがことたりると思っているのであろうか。おおL,
に疑問とするところである。
むしろ,住民の要求は多分にスローガン的な意味あいのものであっ て,最終的には固定施設とともにそれから提供されるサーヴィスまでを 含めて,あるいはそういうことをすでに前提として要求しているとみる べきでばなかろうか。もし固定施設のみとし、うのであれば,それが破損 や磨耗した場合修復する組織や人間が存在しないこと腱なってしまう。
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極端にいえば.教師のいなし、教育施設を要求していることになってしま う。
つまり.宮本教授の『素材的規定』でば『社会資本』としての固定施 設の建設のみが強調され,その固定施設の維持.管理.運営という面が 宕過ないし軽視されているのではないかという疑問が残る9)。」
宮本教授は,あまりに感覚的側面にウエイトを置きすぎて社会資本を定 義されようとしたのではなかろうか。しかし一歩たちいってみると,それ は「素材」のみに限定されうるものでばなく, 「素材」すなわち固定施設 をもその中に包含する有機的機榊として把握されなければならないもので あること力:理解できよう。 したがって, 「一般的労働手段」といわゆる社 会資本とを接合させようとする宮本教授の方法は,社会資本の体系的把握 を困難にしているものといわざるをえないのである。もともと『資本論』
や『経済学批判要綱』における「一般的労働手段」や「共同社会的・一般 的諸条件」は,後述するように共同で利用される榴築物について述べたも のにすぎない。
したがってまたそのことに付随していえることは,教授が行っている社 会資本の性格づけ(「一般的労働手段」の六つの性格, 「共同消費手段」の 五つのは性格)は,社会資本の性格づけとしてでばなく,社会資本がその 中に職成要素として含む固定資本や固定施設ヤこついてのものだということ になる。具体的な論証をするまでもないが,それらを順次みていけば,
「一般的労働手段」のうち,①場所的固定性はすべての固定資本に共通し て染られる性格である○②独自に価値を移転できないこと,すなわち他の 生産諸要素と結合してでなければ価値を移転できないこともすべての生産 資本にあてはまることである。③大規模な建設投資を必要とし,かつその 建設期間が長期に及ぶことも,巨大な固定資本をもつすべての生産資本に 共通していえることである。④ワンセット性は②と同じことである。⑤た とえばスキやクワは農業資本の生産資本(生産手段)としても役立ってい るが, 家庭菜園用の消費手段としても役立っているのであって, 「社会資
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本」の黙が生産的消撰と個人的消費しこはいり込むという性格をもつもので はない。⑥すべてのものが使い方によって政治的軍事的に使われる。たと えば米#ま,生産的消蟹,個人的消費のほか軍事需要一行政需要の一種 一をみたすためにも使われる。以上のように, 「一般的労働手段」の六 つの性格は, ことごとく社会資本をそれ以外の企業や施設から区別するメ ルクマールとはなりえていない。それらは固定資本についての一般論にす ぎない。このことは「共同消費手段」の五つの性格についても,全く同様 のことがいえるのである皿)。
第3に,宮本教授にあっては社会資本を定義するうえでの最重要点であ る利用・消費の社会化という側面が明確Wこ把握されていない。それはたと えば教授の著書中の次のような叙述に端的にあらわれている。
「マルクスの時代に, 生産用建物, ドックなどは,一般的労働手段で あったが,いまでは,それ朧固定資本ヤこかわり,むしろ工場水道が一般 的労働手段となってL、る'2)。」
結論的にいえば, マルクスの時代でも, 「生産用建物, ドックなど」は,
個別資本に専用されていれば固定資本であったし,複数の個別資本に共用 されてL、れぱ一般的労働手段となったはずである。これは現代でも同じこ となのであり, 「工場水道」をそれを使用する企業力:独自に建設し専用す れば,そればその企業の固定資本となり,企業同士が共同利用すれば一般 的労働手段となるのである。
ではなぜ教授は上述のようなあいまいないL、方をされ為のか。それは教 授が援用されてし、るマルクスの叙述を誤解しているからに外ならなL,。す なわち, 「労働手段」を「一般的」たらしめるモメント,換言すれば 「労 働手段」における「個別」と「一般」との関係が明確に把握されていない のである。教授が引用されているマルクスの「一般的労働手段」の言及箇 所を吟味して黙よう。
「広義におL、て労働過程の手段に数えられるものには,労働の対象への 労働の働きかけを媒介する。したがってまたあれこれの仕方で活動の伝
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導体として役だつ。諸物の他に,過程が行われるために総じて必要とさ れるすべての対象的諸条件がある。それらば直接には過程にはいりこま 踵いが,過程はそれらなしには全く行われえないか, または不完全にし か行われえない。 この種の一般的労働手段はやはり土地そのものであ る。けだし土地は,労働者に対してば彼の立つ場所を与え,彼の過程に 対しては作業場面を与えるからである。労働によってすでに媒介されて いるこの種の労働手段は, たとえば労働用建物, 運河, 遺路などであ る'3)。」
ここではマルクスは労働過程において複数の生産活動または生産主体を 前提にして,それらの生産単位が共同で,換言すれば一般的に使用する労 働手段を「一般的労働手段」とよんでいるのであjる・たとえばそれは同一 の労働者がL,くつかの生産活動をしている場合にもあてはまるが,一つの 企業一いうまでもなく資本主義企業一の中において, いくつかの生産 単位が個々の道具や機械その他の設備を共同で利用すれば,利用されるも のばやはり「一般的労働手段」となるのである。
このような理解は, 『資本論』に散りぱめられている他の箇所を引用し て黙るとその正しさが一層明瞭になる。
①「労働様式は変わらなくても,かなり多くの労働者を同時に充用する ことは,労働過程の対象的諸条件に一つの革命をひき起こす。多くの 人食がそのなかで労働する建物や, 原料などのための倉庫や,多くの 人々に同時またば交替に役立つ容器や用具や装置など,要するに生産 手段の一部分が労働過程で共同に消費されるようになる'4)。」(傍点引
′用者)
②「協業やマニュフアクチュアの考察で明らかになったように, ある種 の一般的な生産条件,たとえば建物などは,個別的な労働者の分散し た生産条件に比べれば,共同の消費によって節約され, したがって生 産物を高くすることがより少い。機械の場合には.一つの作業機の機 体がその多数の道具によって共同に消費されるだけでばなく, 同じ原
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動機が伝導機構の一部とともに多数の作業機によって共同に消賢され るのである'5)。」(傍点引用者)
すなわち,①では「多くの人,々」によって「労働過程で共同に消費され る」「生産手段の一部分」として, 「建物」, 「倉顕」, 「容器」, 「用具」, 「装 置」などがあげられている。 ここでは多くの人食の同一企業内に瀦ける生 産活動が生産単位として据えられ, それらが共同消費するものとして上述 のものがあげられてL、るのである。
②では, 「個別的な労働者」が生産単位に置かれ, それらが「共同の消 費」を行うものが「ある種の一般的な生産条件, たとえば建物」とされて いる。そしてまた, 「作業機の機体」が「多数の道具によって共同に消費」
されれば.それは「多数の道具」から詮て「一般的な生産条件」となり,
「同じ原動機」が「伝導機構の一部」や「多数の作業機によって共同で消 費」されれば,それもやはり「一般的な生産条件」となるのである。つま り,生産単位の置き方によって,そのつど「一般的な生産条件」は変化し てL、くのである。これは企業内のことであろうと,複数の企業に関するこ
とであろうと全く同じことなのである18)。
社会資本を定義するうえでの『資本論』や『経済学批判要綱』の引用 は,以上のような複数の生産単位による共同利用,その意味で一般的利用 と、、う点に限られるべきであり,社会資本の「社会」の意味もそのように して明確なものにされていくのである。もちろん, 「……労働手段」や
「……生産手段」という把握方法が社会資本の定義には役立たないことは すでに述べたと謂りである'7)。
さらにまた,社会資本の利用・消費の仕方に関してL、えば, この点でも 宮本教授の定穀はあいまいなのである。
すでに要約でも示したように,教授は「社会的共同消費手段」を定義す るにあたり,個人的消賛を「家庭内」「家庭外」における消費に区分され る。教授は次のようにし、われる。
「ここで対象とするのは,生産過程外の消雷である。この消費ば,主と
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して家庭内でおこなわれる本来的な個人消費と,主として家庭外で共同 の消費の対象となる共同消費にわかれる'8)。」
後者の消費すなわち「家庭外」での消費が社会資本を利用しての消費の ことであるが, しかしそれでは,社会資本を利用しての消費は「家庭外」
の承に限られ, 「家庭内」では利用されていないということになるのであ ろうか。
「家庭内」で実際に行われている消費を思い浮かべてみると,それば大 きく二つの消費の仕方に分けられる。一つば個人が専用する財を使っての 消費であり, もう一つは共同利用される機櫛から提供される財を使っての 消費である。前者を個別的消費とよぶことにすれば, 「家庭内」では, H) 個別的に行われる消費と, |ロ) 社会資本を通じて行われる消費,が結びつ いて個人的消費が行われていることになり,個人的消費の実態をヨリ現実 的に把握できるのである。たとえばマッチ, ナペ.米という個別的消費財 を, 水道, ガス,電気という社会資本に結びつけて個人的消費が行われて いることになる。
この際, ここでは教授のいわれるような, ㈹と(ロ)のどちらが「主とし て」とL,う基準はなりたちえない。また「家庭外」での個人的消費は,た とえばホテルでのそれであれば, lia)だけということになろう。したがって 教授による「家庭内」「家庭外」と、、う個人的消費の区分方法は,社会資 本の利用の仕方を明確なものにしてL、るとぱいえなL、のである。
そしてこれに付随して教授ば次のようにいわれる。
「ここでは. マルクスの個人的消雷を共同消費をふくむ広義の個人的消 費または本来的個人消費とよび,区別すること腱する。なお,……私的 個人消費を私的消費,社会的共同消費を社会的消費と省略してつかう場 合が多し、19)。」
しかしこのような雑多な「……消費」を登場させれば,個人的消費と社 会資本との関係があいまいにされるだけである。 「共同消費をふくむ広義 の個人的消費または本来的消費」は, マルクスにしたがって個人的消費と
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するだけで十分なのであり, さらに「私的個人消費」ば個別的消費, 「社 会的共同消費」は社会資本による消費, とした方が簡潔に説明できるので はなかろうか。
以上,われわれは,宮本教授の社会資本概念につL、て,その最も問題と なるべき3点につL,て疑問・批判点をあげた。すなわち,第1に,所有形 態ば社会資本の定義にはインディファレントであること,第2に,教授に ば社会資本を機購として把握する視点が欠けていること, 第3に,利用・
消費との関連での社会資本の位匿づけがあいまいにされていること,がそ れである。
さらにこれら以外にも大きな問題として,教授が社会資本を定義するに あたり,労働過程一→価値増殖過程による規定という二重的規定の方法を 採用していることがあげられる。しかし結論的にいえば,社会資本の定義 に価値の問題を導入させる必要はないのである。 このことは孜節におい て,方法の問題として簡単ヤこふれてみることにしよう。
以上の諸問題を整理し,われわれなりの社会資本概念を抽出することが 次節の課題となる。
注
1) 宮本患一箸「社会資本論」 (有姿閣, 1967年), 10頁 2)3) 飾掲害, 15‑16頁
4) 餉掲害, 14頁
5) 後に宮本教授は「車両老抜いたこと自体にはたしかに問題があって,車両を入れ てもいいと思う。車両を入れても, なおかつ鉄道に場所的固定性があることが重要 なのであって,レールなしに車両が走れろわけではない。ですから,具体的な例の中 で車両を除くと書いたのは, ちょっとしまったと思っているんです。」 (「経済セミ ナー」1975年5月号, 97頁) と述べ, この点の誤りを認めておられる。そして
「改訂版・社会資本論」 (有斐閣, 1976年)においては, この「車両を除く」 とい う箇所は削除されている。
6) 満橘正雄教授の宮本教授批判は「社会資本論メモー宮本憲一「社会資本輪」を 瞬んで−」として, 「都政」(東京都政調査会)麓上に, 1976年2月号, 3月号,
5月号, 7月号, 8月号, 9月号の6回にわたって掲峨され,それに対する宮本教 授の反批判論文「社会資本論の問題領域一一高橋正鱈「社会資本論メモ」への反批
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判轟中心に−」は,同じく 「都政」誌の1976年11.12合併号に掲峨されている。
そしてさらにまた競近,癌揺教授から宮本教授に対する再批判がなされた。商矯正 蟻「社会資本論の問盟点一宮本巌一教授に答える−」 (「東北学院大学論集・経 済学」第74号) 力fそれである。
7)8) 宮本憲一, 「都政」飾掲論文, 117頁
9) 拙稿「社会資本論の問題とは何か−社会資本鵠についての高橋正雄,宮本憲一 両教授の輪争をふり返って−」 (「都政」1977年9月号), 24‑25頁
10) 「一般的労働手段」患社会資本鵠に導入する最初の試みを行ったのは池上博氏で あった。したがって宮本教授の定装は, この池上氏の論文に大きな影響を受けてい るものと思われろ。池上惇「社会的労働手段と公共投資」 (「経済論叢」第90巻6 号)参照。
11) 他の文献をみても,社会資本を固定資本一般から区分する明確な性格づけを与え ているものはほとんどない。例えば, ロストウは社会資本の三つの特徴として「長 期の懐妊ならびに償還期鬮・非分割性・償還径路の間接性」 (W.W.ロストウ「経 済成長の賭段階」,木村・久保・村上駅, ダイヤモンド社, 35頁)をあげているが,
これらは巨大な固定資本を有するすべての生産資本にあてはまるものである。 また クートナーは,社会資本が,土地間定性,巨大規模性,長期の懐妊期間の必要性の 三つの性格をもつことをあげ (Cootner, SocialOverheadCapital andEco‑
nomicGrcwth,inW.W.Ro5towed、,TheEcon・micofTake‑Dff into SustainedGrowth, 1963, p,262), ヌルクセは,政府関与の重要性,長期的・持 鶴的投資の必要性をあげているが(R・ ヌルクセ「後進諸国の資本形成」,土屋六 郎訳,儀松堂出眠溺0‑255頁参照), これらもやはり社会資本の性格づけとして は薯しく不十分である。
I2) 宮本憲一,的掲書, 14頁
13) マルグス「資本論」第1巻(長谷部文鐘駅,青木書店), 334頁 14) マルクス「資本論」第1審(大月書店版訳), 426頁
15) マルクス「資本論」第1巻(飾掲訳書), 506頁
16) 「経済学批判要綱」ではマルクスは, 「特殊な資本とその特殊な生産過程との諸条 件にたいするものとは区別された,社会的生産の共同社会的・一般的諾条件」 (寓 木幸二R畦訳,第3分冊,大月書店, 470頁) とか「個人の社会的なものとして措 定された諸欲望,すなわち社会における個々別々の個人としてではなくて,他の個 人と共同して消費し欲求するところの諸欲望」 (同, 469頁) なる叙述をし,その 例として「道路」や「運河」をあげているが, これからは,共同利用をする単位と して個人や個人企業がおかれていること力轆みとれよう。
17) 山田喜志夫氏は,社会資本詮「社会的生産手段」として把握さオLている。しかし 社会資本毎固定施設とする点では,宮本教授に対するのと同槌の批判があてはま る。山田喜志夫「国富概念と国富統醗」 (「国学院大学政経論鐙」第12巻1号)参 照。
18)19) 宮本憲一,餉掲害, 29頁
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3. 社会資本概念構築の試み
(1) 社会資本の定蕊の方法について
前節の末尾で述べたように,価値の問題を導入する宮本教授のアプロー チの方法,すなわち「第1次的規定」=労働過程からの規定及び「第2次 的規定」=価値増殖過程からの規定という二軍的規定の方法ば,社会資本 の定義にとっては不必要なものである。いうまでもなく社会資本をめぐる 問題は資本主義社会に特有のものではない。たとえば「古代オリエントに おし、て文明の開花をみせ,高度の中央集権国家を形成した動磯となったも のは,大勢の人,々の協業によるいわゆる社会資本の整備であった。具体的 にはナイル河による毎年の洪水による災害に対処した堤防の構築,運河の 建設がそれであった')。」このことに関してゴードン・チャイルドは次のよ
うに述べている。
「毎年洪水が水と沃土をもたらすナイル河は確実に,ゆたかな食料を供 給したが,洪水がひろがる流域の低地には, もともと沼やアシのしげっ たジャングルがつづいていた。これを開拓することは,途方もなL,大事 業であった。すなわち,溝をつくって沼をほしあげ,堤防をきずL,て洪 水の猛威をふせぎ,やぶをきりはらって,そのなかにすむ野獣をおいは らわねばならなかった。小さな集団では, このような障害物を突破する ことは, とてものぞめなかった。これには,排水溝や堤防をおびやかす 頻繁な危険にたL、して,協同して対抗できる,強力な力が必要であっ た2)。」
引用が長くなった。だがこの社会は社会資本の整傭の結果,それを住民 に共同に利用させることによって繁栄してL、たのである。
社会資本の定義にとって重要な点は,その使用価値が共同利用されてい るか否かということなのであり, したがってこの視点を土台に据えれば,
社会資本の問題はあらゆる歴史的社会に共通のものとしてとらえられるこ
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とが可能なのであ為。
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(2) 社会賓本の資本の意味について
前述したようにわれわれは,社会資本を有形・無形の財を供給するため の一つの有機的機構としてとらえているが,社会資本の資本の意味は,実 はこのような内容のものをさしているといわなければならない。たとえば
「水道」といった場合,それは次のようなものをあらわしてL,る・
「どこかの河川・湖沼あるいは地下にあった自然水が堰かボンプかで取 水され,水路(開渠と管路がある)を流れ,浄水場で浄水されポンプ圧 送によって送られてくるのが蛇口からでる水である。……堰,貯水池,
ポンプ,沈砂地,水路,水そう等が『水』が通過する施設である。もち ろんこれらの施設を操作する人間がついて、,なければならなL、3)。」
このように「水道」は, 「水」という財をその消費者に届けるための幾 多の施設や人間労働をその中にそなえてL,るのであり, したがってわれわ れがそれを社会資本そして資本というとき, それは以上のような物的な生 産要素と人的な生産要素が有機的に結合されていて経常的に「水」を産出 する機構のことを総称していうのである。
なおまたそれと同時に,われわれが社会資本というとき, それば土地と 一体不可分に結びつL,てL、ることも強調されなければならなし、。マルクス
は,
「鉄道,運河, 道路. 水道など……土地と合体させられた資本4)」とか
「股初から常麗的で場所に縛りつけられた形態・…,たとえば……運河,
鉄道など5)」
としてL、る。すなわち社会資本の物的な生産諸要素は. その中に固定資本 とりわけ地球にビルトインされてL、る構築物を含んでし、ることも前提にさ れなければならなし、のである。
そしてこのような機描は,価格原理を基準にして区分すると,現実に は,民間の資本主義企業,国家の資本主義企業,行政または統治主体とし
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ての国家の三つの形態で存在してL,ることになる。民間の資本主義企業及 び国家の資本主義企業としての社会資本ば, その経営者・管理者に「みず からを増殖する価値6)」を期待されながらその産出物を有料で企業や家計 ヤこ提供している。一方,行政またば統治主体としての国家によって提供さ れる財(有形財・無形財)は, マーケット ・メカニムズを通ることなく無 償で(租税によって提供されるから実は無償ではないが)提供されるので ある7)。
(3) 社会資本の社会の意味について
社会資本の場合の社会とは,前述の「機織」の利用者が複雑であるこ と, もっと正確にいえば, 多数の利用者が同一の機構を利用できるという ことである8)。
以上のことから, とりあえずわれわれの社会資本概念を設定してみ、るこ とにしよう。
社会資本とは,共同利用される機構である9)。
しかしながら, この定義だけではなお不十分であろう。というのは,企 業はすべて種々の物的生産要素及び人的生産要素をその中にそなえつけて いるのであり,かつ商品生産社会においてはその企業から生産される財 は,商品とL、う形態をとってその社会の消費者に共同で利用されている。
すなわち商品の消費からすれば,その社会の企業は社会的にすなわち共同 的に利用されているということになるのである'0)。
そこで社会資本とそれに含まれない企業との相違点がみL,だされなけれ ばならなL、ことになるのであるが.その相違点はそれから産出され為財と その消費者の関係から導きだされる。社会資本の消費者ば,それが道路で あれ電力であれ常にそれに接触してその機構から供給される財を消費しな
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ければならないという特徴をもつ'エ)。 ところが社会資本以外の企業を利用 するものばそのような傾向に制限されることはない。たとえばパンなど は.その供給体から分離して販売せられ, 消費者ばそれを任意に購買し消 費することが可能である。すなわちこの消費者にとっては財の供給体に接 触してその財を消費する必要性ばないのであり, したがって,財の消費者 がその供給体に接触して消費するか否かという点が,社会資本を他の企業 から区別するメルクマールとなるのである。
それ故, さきの定義に次のことがつけ加えられること#こなる。
消費者が機描と接触してそこから供給される財を消費しなければならな いものが社会資本である。
注
1) 青木憎治「公共財政論序脱一一社会資本整備至上主装批判一」 (「専修経済学論 集」第9巻1号), 3頁参照
2) ゴードン,チャイルド「文明の起源(下)」 (ねずまさし訳,岩波新書) 3‑4頁 3) 佐藤武夫薯「水の経済学」 (岩波新翻, 14‑15頁
4) マルクス「経済学批判要綱」第3分冊(高木幸二郎監訳,大月書店), 470頁 5) マルクス「資本輪」第3巻(長谷部文雄駅,青木書店), 209頁
6) マルクス「資本輪」第1巻(前掲邦訳書), 312頁
7) 1960年代駒半にあらわれた見解は,価格原理を基箪にして, |イ)民間の資本主企 業及び国家の資本主蕊企業, |ロ) 行政または統治主体としての国寂,のうちHIInlど ちらか一方のみ詮採用しようとする。たとえば池上惇教授は「資本一般の運動法則 の中で社会資本を位置づける場合には.…社会資本も利潤追求のための自立的資 本」(「社会的労働手段と公共投資」, 「経済論剃第90巻1号, 18頁) とされj f口腱 排朧きれる。反対に,斎蕊博教授は「それらは公物,公共設愉, として機罷し,個 別資本の生産活動の容器ではない。つまり, これらは資本の範蒋に属するものでは ないのである。」(「いわゆる社会資本と。社会的労働手段、に関する覚書」, 「国学院 大学政経輪叢」第13巻4号, 10頁) として, I'f)を排除される。しかし, これらの 見解はいずれも一面的である。
8)社会資本の社会の意味についても, あいまいな理解がなきれている場合が多い。
たとえばその一例として宇沢教授の社会資本定装をとりあげてみよう。教授は次の ようにいわれる。
「むしろ, 〔社会資本は−引用者〕そのときどきの躍史的.社会的.纒済的条件 にもとづいて,社会的に決められたものであることを強翻しておこう。….そこ
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に生み出されるサーヴィスが,市民生活でどのような役劉をはたしているのか,
ということにもとづいて,雀会的に決定されるものである。」 (字沢弘文著「自動
車の社会的費用」,岩波新書, 120皇121頁,傍点原著着)
この際,文中の「歴史的・社会的・経済的条件」の「社会的」と「社会的に決め られろ」の「社会的」とは同一の文章中に存在するものであるが,そ恥ぞれの意味 が脱明されていないため,教授が後者に傍点篭付して特別な意味をもたせようと努 力しているにもかかわらず,却ってそれらの理解を困惑させる鎗果になっている。
結局のところ,数授は「社会的」ということばの中に抽象性・神秘性廷もたせるこ とによって,いったい誰が, どのような基串でそれ毎「社会的」と判断するのかと いう点を回避しているのである。
9) 「共同利用される描構」とは,槻樽のどの構成部分も力f共同利用されていること 毛意味する。この点についての誤った定義は飯田経夫教授のそれである。数授は
「政府介入」という点を社会資本であるか否かのメルクマールにされて次のように いわれる。
「民間住宅のうち,政府猫策住宅(たとえば,住宅金融公庫の融資によるもの とか,住宅公団や都道府県住宅供給公社が分狼するもの)は,所有權は民間に婦 風するけれども,政府関与の程度が大きいから, これを社会資本に含めて考える べきかもしれない。」 (韻田縫夫・斎蕊精一郎署『社会資本の政治経済学」, 日本 経済新縄社, 10頁)
ここでは「民間住宅」 という専用されるものが社会資本に含められている。
「住宅金融公噸」「住宅公団」 「都道府祭住宅供給公社」など自体力f社会資本でない のは,政待それ自身カヌ社会資本でないのと同じことである。それらは観騨の中にあ
って維持・管理・運営などを担当しているにすぎない。
10) 「生産手段の場合と同機に生函そのものも,一連の個人的動作から一連の社会的 行為にかわり,そして生産物も蛍た,個々人の生亜物から社会的な生産物にかわっ
た。」エンケルス「空想から科学へ」 (国民文嘩), 90頁
11) 社会資本の定装に「接触」なる概念を導入されたのは商揺正雄教授であった。
商橋正鯉「社会資本論メモー宮本憲‑r社会資本輪」曙晩んで一」 (「都政」
1976竿2月号)帥頁参照。
4. むすびにかえて
われわれの社会資本概念は,箇条醤き腱すれば次のようになる。
(1) 社会資本とは, 財またはサーヴィスを供給する機織である。消費 者がそれから供給される財を, その機輯と接触して消費する機栂で
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ある。いうまでもなく,社会資本を機能別に分類すれば, HI 生産 的消費のために機能するもの、ロ) 個人的消費のために機能するも の, ヤウ HI(ロl両者に共通して機能するもの, となる。
(2) 社会資本の社会とは,上述の機構が複数の主体によって利用され る, という意味である。
(3) 社会資本は,それ自身一つの経済単位として分類すれば, (イ1 国 家の統治上の機構, Iロ) 国営企業,㈱民間企業, という形態巻と って存在する。また㈹│ロ)閥の混合体としても存在することがある。
(4) 社会資本は,所有者別に分類すれば,例国家(地方自治体も含 めて)の所有するもの, (ロl 私人(株式企業も含めて)の所有する もの.及びし1 H1(画1の混合体として存在する。
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