初期仏典における
upadhi
の用法
―縁起説の成立に関連して―
唐 井 隆 徳
1.はじめに
縁起説の成立史やそれ自体の意味を明らかにしようとした多くの研究が国内外 に存在するが,未だ定説と呼べるものがないのが現状である.特に,その成立史 を研究する場合,初期仏典の性質上,明確にXからYへ展開したと主張するこ とは困難である.そのことは,upadhiを支分とする三支縁起説1)(渇望→upadhi→ 苦)についても例外ではない.和 (1970, 176–191)や宮本1975は,三支縁起説か ら五支縁起説への展開を想定しており,また,荒牧1988は,三支縁起説を説く 経典こそが,最新層の韻文経典と位置づける資料を継承して縁起説を形成し始め たと考えている.以上の諸研究は,三支縁起説を他の各支縁起説に先行するもの と見做している.一方,Frauwallner(1953, 210–211)やVetter(1988, 45–53)のよう に,三支縁起説に言及しない研究も見受けられる.そこで,本稿では,upadhiの 用法を確認し,それを支分とする三支縁起説が,縁起説の成立史上どこに位置づ けられるべきかという点について考察する.筆者は,upadhiがupa- dhā(近くに 置く)から派生した語であることから「所有物」と「所有」に訳し分ける必要が あることを既に指摘した2).しかし,その訳し分けが難解であるということや, 訳者によってそれとは全く異なる意味がupadhiに対して与えられていることを 考慮すれば,さらに考察を加えていく必要がある. 2.最古層における
upadhi ここでは,最古と言われるSnの第5章にあるMettagūmāṇavapucchāを取り扱 い,最古層におけるupadhiの用法を確認する.Mettagūmāṇavapucchāには,ブッ ダとバラモンの学生メッタグーとの問答が描かれている.はじめにメッタグーが 苦の原因を質問し(Sn 1049),それに対して以下のように返答する.Sn 1050–1051 世尊は〔言った〕.メッタグーよ,あなたは苦の根源を私に問うた.私は 知っている通りにそれをあなたに説こう.世間の人には多種多様な苦があるが,それらは 所有(upadhi)を因として生じる.(1050)無知なる者は所有をなす.〔その〕愚か者はく り返し苦に直面する.それゆえ,苦が生じる根源を見る者は,〔それを〕知りながら所有 をなしてはならない.(1051) このように,1050偈では所有(upadhi)を苦の原因と見做しており,1051偈で は所有しないよう誡めているが,苦の滅が説かれている訳ではない.引き続き, メッタグーは「どのように洪水,生まれや老い,憂いや悲しみを超越するのか」 と質問する(Sn 1052).それに対して,世尊は「世間〔における対象物〕にしがみ
つ く〔渇 望〕(visattikā)」(Sn 1053)や「喜 び(nandi)」「入 れ 込 み(nivesanā)」(Sn
1055)を滅することを説き,さらに1056偈には「このように過ごし,自覚してい て,怠惰でない乞食修行者は行じながら,我がものとすること(mamāyita)を捨 てて,この世で〔教えを〕知る者として,生まれと老い,憂いと悲しみという苦 を捨てるだろう」とある.このように,Sn 1053, 1055–1056には,執着を滅する ことと苦の滅が説かれている.そして,1057偈でメッタグーが以上の返答に対 し,「ゴータマよ,所有なきこと(anūpadhīkaṃ)がよく説明された.確かに世尊は 苦(dukkha)を捨てた」と歓喜の言葉を発して問答を一旦締め括ることから,Sn 1053, 1055–1056は,Sn 1050–1051の「所有(upadhi)→苦」という関係を受けて説 かれていると推定できる.但し,1057偈においてもupadhiの滅と苦の滅は直接 繋がっている訳ではなく,upadhiと苦の滅との間には幾分か隔たりがあるように 思われる.最古と言われるSnの第4章・第5章には,以上の用例のみならず, 「執着によって苦が生じる」や「執着を滅すれば苦が滅する」ということを示唆 する用例が多い.例えば,「人々は我がものとしたもの(mamāyita)のために憂え る(socati)」(Sn 805),「世間に自分のものとするもの(saka)がない者は,ないか ら と い っ て 憂 え な い」(Sn 861),「何 も 所 有 せ ず(akiñcana), 執 着 し な い こ と (anādāna),これが他にはない避難所であり,それを老いと死〔の苦〕(jarāmaccu) を滅尽した涅槃であると私は説く」(Sn 1094)などがある.本稿では,1050–1051 偈におけるupadhiを「所有」と既に訳しているが,「所有物」と訳すことも可能 であろう.しかし,以上のように最古層には執着を表す語が多く,それが苦と関 連していることから,ここでのupadhiもそれらと同列に扱うべきであると考え, 「所有」と訳した.
3
.所有物としての
upadhi 「所有」を表すupadhiとは別に,身のまわりにある「所有物」を表すupadhiの 用例が見られる.SN 1. 2. 2 (vol. I, p. 6)には,「子どもを持つ者は子どもたちに よって憂える.同様に牛飼いは牛たちによって憂える.諸々の所有物(upadhi) によって人には憂いがある.実に所有物を離れた者(nirupadhi)は憂えない」とあ り,upadhiが子どもや牛などの世俗的な所有物を表している.また,散文資料3) においても,子どもや妻,奴隷,家畜の類,金や銀がupadhiとして扱われてい る.そこで,このような所有物を意味するupadhiの用例を眺めると,upadhiが 複数形として扱われていることに気付く.そのことから,upadhiという語は個別 化した具体的なものを表していると考えられる.その場合,「一つのupadhiに よって苦が起こる」が成立しても,「一つのupadhiを滅することによって苦が滅 する」は成立しない.例えば,先述した子どもや牛などを表すupadhiに関して, それによって苦は起こるが,それを捨てたからといって直ちに覚りに至るという ことではない.「所有物を離れた者(nirupadhi)は憂えない」とあったが,その nirupadhiが解脱や涅槃を表すとは必ずしも言えない.そのため,upadhiの滅は解 脱と並記される4)ことも多いが,解脱を表さない場合が他にも見受けられる.例 えば,「所有(upadhi)を離れることにより,善くない諸々の物事を捨てることに より,完全に身体の粗悪さが鎮まることにより,…初禅に到達して,過ごす」5) という用例では,upadhiの滅により色界初禅に入ることが説かれている.一般的 に色界初禅に入る時には,「諸々の欲望の対象(kāma)を離れ,善くない諸々の 物事を離れ」6)で始まるフレーズが説かれ,上記の下線部と比較すれば,欲望の対象(kāma)がupadhiに相当している.このように,upa-√dhā(近くに置く)から
派生したupadhiは,「近くに置く」主体や状況に応じて,その指し示す範囲が変 わる個別的な語であるため,upadhiの滅がそれ程重要な役割を果たしていない用 例も見られるのである.また,古層のジャイナ教聖典には,upadhiと関連してい ると思われるuvahi7)が確認され,以下にその用例を示す. Das 10. 16 (p. 72. 1–2) 所有物(uvahi)に対して夢中になっておらず,貪っておらず,〔他 人が〕無意識に残したものを〔集め,〕枯れた穀粒や 殻のないものを有し,売買と貯蓄 を止めていて,全てのとらわれを離れた者,彼〔こそ〕乞食修行者である. Utt 19. 84 (p. 151. 4–5) 「私は獣のように遊行するだろう」「子よ,〔あなたが〕良いように〔な しなさい〕」そのように〔彼は〕母と父によって許されたので,所有物(uvahi)を捨てた.
以上のように,uvahiは出家者の所有物や在家者の世俗的な所有物を表してい
る.そのため,ジャイナ教聖典においてもuvahiは実践上それ程重要な役割を担
う単語ではないことが窺える.ここまで,所有物を意味するupadhiについて言
及した.最後に,これに関連する用法として,『根本説一切有部律』に見られる
upadhivārikaという役職を紹介する.upadhivārikaは,upadhiと「管理人」を意味
するvārika8)との複合語であることから「物品管理人」という役職であり,僧団 の雑務全般を司る9).upadhivārikaは他の広律には見られないと指摘されてい る10)ため,これまでに挙げたupadhiの用例よりも新しいと思われるが,その段 階で僧団の身のまわりにある様々な物品を表す用語として,upadhiがそれに相応 しいと見做されていたことが重要である. 4
.おわりに
本稿で考察したように,upadhiは文脈に応じて,その内容が変化する個別的な 語であるため,upadhiを滅しても苦が滅さない場合がある.そこで,この点のみ に基づいて三支縁起説の成立を論じるとするならば,次のようになるだろう.三 支縁起説は「渇望→upadhi→苦」という縁起関係であり,upadhiは苦と直接関 わっている.しかし,縁起説が成道の場面と結びつく用例があるように,重要な 位置づけになると,苦の滅に繋がらない場合もあるupadhiは縁起支となる資格 を失うことが予想される.一方,執着を伴うもの(sa-upādāna)と執着のない完全な涅槃(anupādā parinibbāna)とを対比する用例11)があるように,upa-ā- dāの派生
語 を 滅 す れ ば 解 脱 や 涅 槃 に 至 る と 説 く 用 例 は 非 常 に 多 い. し た が っ て, upādāna12)は縁起支としてより相応しい語と言えるだろう.以上のことから, 種々の各支縁起説を一 すれば分かるように,渇望(taṇhā)に条件付けられるの はupadhiではなくupādānaになると考えられる.それとは逆に,種々の各支縁起 説が成立した後,三支縁起説が構築されたと主張するのであれば,なぜupādāna ではなく,世俗的な所有物を表すこともあるupadhiを縁起支として新たに用い たのかについて,説明しなければならない.したがって,三支縁起説は他の各支 縁起説に先行するものと見做すのが妥当ではないだろうか.
*パーリ文献の略号はA Critical Pāli DictionaryのEpilegomenaに従い,テキストはPali Text Society版による. 1)SN 12. 66 (vol. II, pp. 107–112). 2)拙稿(唐井2015)を 参照. 3)MN 26 (vol. I, pp. 161–162). 4)SN 5. 8 (vol. I, p. 134),SN 8. 10 (vol. I, p. 195),Th 1250, Thī 318, Thī 320, Thī 334, It 57 (p. 50),It 112 (p. 123). 5)MN 64
(vol. I, p. 435). 6)DN 2 (vol. I, p. 73). 7)古層のジャイナ教聖典における用法 に関しては,拙稿(唐井2019)を参照. 8)vārikaについては,Silk(2008, 101– 125)を参照. 9)Silk(2008, 110–113)を参照. 10)佐々木(1993, 74)を 参照. 11)MN 24 (vol. I, pp. 148–150). 12)今回は,紙幅の都合により upādānaの考察には至らなかった.それについては,第70回佛教史学会学術大会(2019 年11月9日)にて,本稿の内容と合わせて発表し,投稿する予定である. 〈略号表〉
Das The Dasaveyāliya Sutta. Ed. E. Leumann & Tr. W. Schubring. Ahmedabad: The Managers of
Sheth Anandji Kalianji, 1932.
Utt The Uttarādhyayanasūtra being the first Mūlasūtra of the Svetāmbara Jains. Ed. J.
Charpenti-er. New Delhi: Ajay Book Service, 1980.
〈参考文献〉
Frauwallner, Erich. 1953. Geschichte der indischen Philosophie. Band I. Salzburg: Otto Müller Verlag. Vetter, Tilmann. 1988. The Ideas and Meditative Practices of Early Buddhism. Leiden, New York,
København and Köln: E.J. Brill.
Silk, Jonathan A. 2008. Managing Monks: Administrators and Administrative Roles in Indian Buddhist
Monasticism. Oxford: Oxford University Press.
荒牧典俊 1988「ゴータマ・ブッダの根本思想」『岩波講座東洋思想第八巻 インド仏教1』 岩波書店,61–98. 唐井隆徳 2015「三支縁起説の成立―upadhiの用例を通して―」『佛教大学大学院紀要 文学研究科 』43: 1–18. ― 2019「ジャイナ教聖典におけるuvahi」『佛教大学仏教学会紀要』24: 51–66. 佐々木閑 1993「典座に関する一考察」『禅文化研究所紀要』19: 59–76. 宮本正尊 1975「縁起説の一考察―upadhiをめぐって―」『印度学仏教学研究』23(2): 723–727. 和 哲郎 1970『原始仏教の実践哲学』(改版)岩波書店.
〈キーワード〉 upadhi,uvahi,upadhivārika,所有,縁起説