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九州国際文化協会(1939~1943)の研究 ―戦中期国際文化事業における研究者組織― [ PDF

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Academic year: 2021

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1 1 1 1....目次目次目次 目次 序章 第一節:本論文の課題 第二節:本論文の構成 第一章:九州国際文化協会の創立 第一節:創立過程 第二節:「研究」の国際文化事業化 第三節:九州国際文化協会の成り立ち 第二章:外務省文化事業部の所管時代 第一節:事業の拡大を許容する事業形成過程 第二節:講演によって示される国際文化事業における 研究者の存在意義 第三章:内閣情報局への移管後の九州国際文化協会 第一節:内閣情報局に向けた補助金申請 第二節:研究者に示された「大衆」を導く論理 第三節:解散に際しての情報局への抵抗 終章 2 2 2 2....概要概要概要 概要 〈 〈 〈 〈序章序章序章序章〉〉〉〉 本論文の目的は、戦中期国際文化事業の形成と実施に おける研究者の関与を明らかにすることで、国際文化事 業がどのように形成されたのかを考察することである。 そのため、戦中期国際文化事業における研究者組織であ る九州国際文化協会に着目する。 国際文化事業を担った官庁は、昭和 13 年から昭和 15 年 12 月までは外務省文化事業部第二課であり、それ以降 は内閣情報局第三部第三課によって担われた。この国際 文化事業をめぐる議論においては芝崎厚士の研究が最も 詳しい。芝崎は、昭和 9 年に創設された、戦前日本にお ける最大の国際文化事業団体である国際文化振興会に着 目し、国際文化交流の起源を問うている。 芝崎の研究は国際政治学、国際文化論において、近代 日本の国際文化交流の歴史を紐解いたものとして考えら れている。芝崎は外交官や国際文化振興会の理事会にお ける国際文化事業論を分析し、国際文化事業の理念形成 とその展開を明らかにしている。それは国際文化交流史 と言われ、国境を越えた文化交流の姿を明らかにしたと 評価されている。しかしながら、国際文化事業において、 実際に、誰が事業を形成し動かしたのか、という視点が 必要なのである。この視点による研究はこれまでになく、 そうした研究の存在はこれまでの研究に、どのような動 きが存在したのかを加えることができる。それは国際文 化事業研究のより実証的な研究となる。そして、戦中期 日本の対外文化政策である国際文化事業の姿をより具体 的に描けるのである。 その具体的な姿として浮かんできたのが研究者である。 国際文化事業において、海外派遣などを通して関わって きた研究者は、国際文化事業を遂行していく一員となっ ていた。それにも関わらず、これまでの研究では、その 一員であるはずの研究者には光が当てられてこなかった。 これらを踏まえ、本論文の課題を、国際文化事業の形成 と実施における研究者の関与を明らかにすること、とす る。 そこで、本論文では、大学において創立された国際文 化事業団体である、九州国際文化協会に着目する。その 創立経緯と事業展開を明らかにし、そこで活動した研究 者と国際文化事業の関わりを考察する。主な史料として、 『九州国際文化協会会報』(九州大学附属図書館所蔵)、 九州国際文化協会の『理事会議事録』、『昭和十四年 雑 書綴』、『昭和十七年度 往復書類綴』(以上、九州大学大 学文書館所蔵)を用いた。 〈 〈〈 〈第一章第一章第一章〉第一章〉〉〉九州国際文化協九州国際文化協九州国際文化協九州国際文化協会会の会会のの創立の創立創立創立 第一章では、九州国際文化協会の創立経緯、性格と実 施事業について検討し、研究者組織が当時の国際文化事 業において求められていた存在であることを明らかにし た。 九州国際文化協会は、昭和 14 年 6 月 6 日に九州帝国大 学内に創立された国際文化事業団体である。その創立に おいては、外務省文化事業部第二課の市河彦太郎が重要 な役割を果たした。外務省文化事業部第二課は、国際文 化事業団体に補助金を与えることを職掌とする部署であ った。市河は、国際文化事業に関する座談会に参加する など、国際文化事業の拡大に動いていた。その過程で九 州帝国大学の研究者に国際文化事業団体の創立を働きか けた。その中で、法文学部の武藤智雄助教授、河村又介 教授が、設立要綱と予算案を持って外務省の市河を訪問

九州国際文化協会

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― ― ― ―戦中期国際文化事業戦中期国際文化事業戦中期国際文化事業戦中期国際文化事業におけるにおけるにおけるにおける研究者組織研究者組織研究者組織―研究者組織――― キーワード:九州国際文化協会,戦中期,国際文化事業,研究者,大学,外務省文化事業部,内閣情報局 教育システム専攻 山本 尚史

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している。 こうした研究者の動きに対し、市河は河村教授の示し た予算案を退けている。そして、市河自身で原案を作成 し、見本を提示している。この時示されたのは、創立費、 講演会及座談会、図書購入費及出版費という国際文化事 業の大枠であった。このような形で市河は、研究者を補 助した。そして九州国際文化協会の創立の運びとなった のである。こうしたことから、研究者たちは外務省文化 事業部(以下、文化事業部)の指示に沿う形で行動し、 文化事業部が創立の主導的な役割を担ったことがわかる のである。 こうして創立された九州国際文化協会は、国際文化振 興会、日独文化協会、日伊学会、日仏会館など、いくつ も存在していた国際文化事業団体の中の一つである。こ れら団体の構成者は政治家、軍人、財界人、研究者であ る。しかし、九州国際文化協会は九州帝国大学内に創立 され、研究者によって組織された国際文化事業団体であ る。ここに同時代の国際文化事業団体には見られない特 殊性があるのである。 こうした特殊性は、国際文化事業に対して「学者に芸 術家に基準を置かない」という批判をし、「大学なり学術 団体との連携が絶対に必要である」と指摘した三井高陽 の論考に示されている。九州国際文化協会が創立された 当時は、研究者団体の必要性が叫ばれるほど、研究者に よる国際文化事業を推進する団体は無かった。こうした 状況の中で九州国際文化協会のような、研究者による団 体が作られたことは、大きな意義を持つのである。 研究者組織による国際文化事業の目的は会則第二条 「本会ハ日本ト諸外国トノ文化ノ交換殊ニ日本文化ノ紹 介ヲ行ヒ兼ネテ諸外国トノ親善ニ貢献スルコトヲ以テ目 的トス」に示されている。この目的に沿う事業として掲 げられているのが会則第三条の一「東西文化ノ研究」で ある。この条項の存在は極めて大きな意味を持つ。それ は、九州国際文化協会にとって、「研究」が国際文化事業 の一つになっていることを示すためである。これは「大 学」や「学術機関」との連携の必要性とも合致するもの であり、「研究」を国際文化事業化したと言える。これま で「研究」が国際文化事業となっていなかった点を考慮 すると、九州国際文化協会は、国際文化事業において先 駆的な存在だったのである。 このような組織は九州国際文化協会の後に、東北帝国 大学に仙台国際文化協会、京城帝国大学に京城国際文化 協会が創立されている。これら3団体は「同じ目的に立 つ」ものであり、「学者を中心」とした。その事業には「研 究」が据えられており、ここでも「研究」が国際文化事 業化していることが明らかである。それは3団体の国際 文化事業を通じたネットワーク化を匂わせるのである。 このように、国際文化事業における研究者の組織化は 行われた。そしてそこでは研究者によって「研究」が国 際文化事業化されたのであった。 〈 〈〈 〈第二章第二章第二章第二章〉〉〉〉外務省文化事業部外務省文化事業部の外務省文化事業部外務省文化事業部のの所管時代の所管時代所管時代所管時代 第二章では、九州国際文化協会の最初の所管官庁であ る文化事業部の時代において国際文化事業化の様相を見 た。 まず文化事業部に提出された補助金の申請書類を分析 した。そこには講演並座談会、演奏会並展覧会、図書購 入費という大枠のみが記載され、具体的な事業名の記載 はない。さらに展覧会の写真帳出版に際して、臨時補助 金の申請を行う様子から、研究者による事業形成次第で、 国際文化事業と研究者の活動の拡大が可能であったこと が分かる。「外務省ヨリノ補助金年額五千円ハ殆ンド決 定的ノモノニシテ其他ニ必要アラバ臨時増額ヲ認メテ呉 レル様デアル」という三田村理事の報告があり、文化事 業部としても国際文化事業の拡大に肯定的であった様子 が示されている。また、その事業形成や実施においては、 理事会で諮り、研究者自らが百貨店に出向き、会場の借 り上げ交渉を行うなど、学外で交渉する様子が分かる。 このような国際文化事業の形成過程は、本研究で初めて 実証できた部分であり、一連の補助金申請、事業形成過 程には、文化事業部が九州国際文化協会に対して発した 指示や命令の形跡は見られない。こうしたことから、国 際文化事業の担い手として、当時新しい存在だった研究 者が自らの手で事業を企画し、理事会で議事化すること で、「研究」を国際文化事業化している様子がよく分かる のである。またここでは、研究者を支える学生の姿も垣 間見られた。 加えて、研究者による国際文化事業の形成過程、実施 事業から、研究者が国際文化事業の対象地域そのものを 変えていったことを明らかにした。九州国際文化協会の 創立を補助した市河によれば、国際文化事業の対象地域 は「支那満州以外の地域」であった。国際文化振興会の 事業対象地域もアメリカ、欧州が中心であった。ところ が、九州国際文化協会の事業には支那・満州地域を扱っ た「大陸事情講演会」、支那を含む広域アジアを対象とし た「新興アジア文化写真展覧会」がある。それは会員の 研究領域が市河の想定外の地域を含んでいたことに起因 すると考えられる。例えば法文学部では支那哲学史、支 那文学などの科目が設置されている。 このように国際文化事業の対象地域が支那満州にまで 拡大したが、そこは日本の学会において新しい研究地域、

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調査地域であった。それは法文学部の竹岡・重松・矢崎 の3教授による「大陸事情講演会」で語られている。「大 陸事情講演会」は、蒙彊地域に開墾された雲崗の仏教遺 跡が題材となっている。日本の仏教文化の淵源はどこに 求められるのか、という疑問に答える講演だった。3教 授によって、文化の融合、混合が文化交流として語られ、 それが教授たちの蒙彊地域における調査・研究によって 裏付けられている。支那満州地域に起こった民族の混血 や仏教様式の多様化が文化の「混合同化」とされた。そ の現象を3教授は「文化交流」であると規定した。 そこには異なる様式を加工し、文化に取り込んでゆく 「工人」の存在があった。「工人」とは当時の仏教美術家、 工芸技術者などを指す。「工人」によって文化間には連絡 が保たれた。そして、文化の受容と加工を担う「工人」 によって、異文化の諸要素が「結合」させられたのであ る。この「結合」の結果が雲崗の仏教遺跡であり、3教 授はそうした「結合」の結果を「文化交流」の実相とし て示したのである。そして、3教授の言う「文化交流」 の終着点は日本であった。つまり、日本が全ての文化的 要素を包含するのである。それが調査と研究に裏付けら れた国際文化事業として研究者によって語られたのであ り、さらなる調査と研究の必要性も説かれた。こうした ことから、「大陸事情講演会」では、研究者が文化の「結 合」を実証することで、「研究」を国際文化事業として位 置づけることになったのである。 こうした国際文化事業において「研究」の意義付けが なされた講演とは違う意義を持つ講演記録がある。それ は農学部の金平亮三教授による「蘭領ニューギニア視察 談」である。この講演会は昭和 15 年 6 月 7 日に「南洋事 情講演会」として開催された。しかし、この講演が掲載 されたのは昭和 16 年 9 月 10 日に発行された『九州国際 文化協会会報』第 2 号であった。講演から 1 年以上後に 会報に掲載されている所に意味がある。 この昭和 15 年度は国際文化事業において重要な年度 である。それは昭和 15 年 12 月に、国際文化事業が文化 事業部から内閣情報局(以下、情報局)に移管されたた めである。情報局において国際文化事業を担当したのは 情報局第三部第三課であった。情報局は外務省、陸軍省 の情報部、海軍省軍事普及部、内務省の検閲行政と逓信 省の電波行政を統合した機関であった。その中でも第三 課は国策遂行の基礎となる事項に関する情報収集と報道 及び啓発宣伝を任務としていた。 金平教授の講演は、講演日が文化事業部の時代にも関 わらず情報局の時代の講演記録として会報に掲載されて いるところに大きな意味がある。会報には数ある講演の 中から選ばれた 2、3 本が掲載される。昭和 16 年 1 月 22 日には「大東亜共栄圏とフィリッピン」などの講演会が 開催されていたが、会報には掲載されていない。こうし た九州国際文化協会の講演記録は会報以外では見ること はできない。そのため、講演記録の分析は、九州国際文 化協会が対外的に発したメッセージと考えることができ るのである。昭和 16 年度の講演記録として金平の講演が 選ばれたことは、情報局の箕輪情報官が九州国際文化協 会に発した「南進ニ関スル宣伝等御考慮」というメッセ ージの影響が強く考えられる。そしてそれは、事業を行 う研究者が情報局の意向に沿う形で会報を編集したと考 えられるのである。こうした点から、金平教授の講演記 録は九州国際文化協会の文化事業部の時代と情報局の時 代をつなぐものとして考えることができる。 〈 〈〈 〈第三章第三章第三章〉第三章〉〉〉内閣情報局内閣情報局内閣情報局内閣情報局へのへの移管後へのへの移管後移管後の移管後ののの九州国際文化協会九州国際文化協会九州国際文化協会 九州国際文化協会 第三章では情報局に移管された後の九州国際文化協会 について論じた。移管によって文化事業部時代とは異な る面が出てきた。それは補助金申請に際して情報局に送 付された書類に示されている。昭和 17 年度の計画並予算 書には講演会や刊行予定の書籍の目次などが示され、各 項目には予算額が付されている。また昭和 18 年度の補助 金申請に際しては、理事会において事業綱目について「明 年度ノ予算要求書ニ添付ノ要アル事業計画ニ付諮ル所ア リ」という形で議論が行われ、具体的な名称と名前が掲 載されている。こうした理事会の動きは創立以来、初め て見られるものであり、事業形成において情報局による 管理が増していることが指摘できる。 この情報局による管理の実態として、図書収集の対象 国に「亜細亜及び太平洋の共栄圏を構成すべき諸国」が 昭和 16 年度の会報に記載されることが挙げられる。また 講演会においても昭和 17 年度には「宣伝の原理」、「昭南 より帰て」と題するものが登場する。こうしたことから、 情報局による事業形成と実施に管理統制が及んでいるこ とが明らかである。 さらに情報局への移管に伴い、新たに見られる特徴と して、補助金の金額が挙げられる。情報局の時代は、九 州国際文化協会の補助金が減額される。文化事業部の時 代は年額 5000 円であった。ところが情報局においては、 昭和 16 年度が 3000 円、昭和 17 年度は 2000 円となって いる。昭和 18 年度は再び 3000 円に増額されるものの、 1000 円が「養生訓」の翻訳出版費であり、使用費目が限 定されているので、実質 2000 円の補助金となった。特に 昭和 16 年度は、九州国際文化協会の予算の合計が 6900 円であるのに対し、その半分の金額も認められていない。 こうしたところからも、情報局による管理と制約の様子

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が見える。 そして補助金の減額により、九州国際文化協会の事業 には新たな変化が生じる。それは、文化事業部時代に行 われていた展覧会や写真展のような大規模な事業の開催 が見られなくなるのである。昭和 14 年度、展覧会はおお よそ 1000 円規模の予算が組まれた。しかし、昭和 16 年 度以降の事業で、展覧会が開催されたことは『九州国際 文化協会会報』、『九州帝国大学新聞』、『理事会議事録』 からは確認できない。 だが異なる面だけでなく、創立省以来、踏襲されてい る方針も見える。それは、九州国際文化協会が事業の最 初に掲げた「研究」の一貫性である。これは図書購入に 見られる。図書購入は設置された図書室に「研究」目的 で配架するためであった。昭和 14 年度は 1200 円以上使 用されている。昭和 15 年度は 1300 円の予算が組まれて いる。情報局への移管後の昭和 16、17 年度は 800 円の予 算であった。そして昭和 18 年度は 400 円の予算が組まれ ている。こうした金額は補助金の減額とともに減少する が、最終年度においても全体の 25%を占めている。こう したことから、九州国際文化協会の事業として「研究」 を重要視し続けたことが示されている。それは創立以来 の事業としての「研究」を堅持した証である。 情報局の時代においても「研究」が堅持されたが、研 究者は何を語ったのか、また、何を考えていたのか。九 州国際文化協会の事業である展覧会は、一般人を対象と した事業であった。それは展覧会の入場券に「普通」、「小 学生」の区分が設けられたことからも明らかである。そ こでは研究者は見せる側、一般人は見る側という関係が あった。しかし、情報局の時代、一般人に対する認識は 変化を見せる。 それは『九州国際文化協会会報』第 2 号に掲載された 野上豊一郎の「世阿弥の舞台芸術論 ―『花伝書』解説 ―」に見られる。野上は「大衆」と芸術について述べて いる。その中で「大衆」は「低級な愚昧者」であり「危 険なもの」であった。一方の芸術家は「教師」であり、 高いレベルにあるものとして描かれた。そこには「大衆」 と「芸術家」の対立関係がある。そして「教師」である 芸術家が「大衆」を如何に導くかが説かれている。 このような論考が示されたのは会報を手にする者のみ である。この論考は講演会がベースになっていないため、 会報を見る者のみに示される野上の大衆論と言える。つ まり、配布先の大部分を占める研究者に向けて語られた 九州国際文化協会の「大衆」を導く論理の提示と考えら れる。こうしたことが、情報局への移管後に九州国際文 化協会の特徴として見られるのである。それは情報局第 三部第三課の職務とも重なるものであり、九州国際文化 協会が国策遂行のために国際文化事業を委託され、それ に応える形で事業形成が行われたことを示す。 だが、九州国際文化協会は昭和 18 年 11 月に情報局に よって解散させられる。その時に研究者たちは情報局に 「科学方面」という当時の国家政策を用いて存続を訴え た。それは情報局への抵抗であった。そして九州国際文 化協会の財産などの九州帝国大学での保管を承認させ、 新たな文化事業団体の創立時は、九州帝国大学を「主要 視」することを要望した。こうして文化事業部の委託で 創立された団体が解散時においては自ら存続を訴えるよ うになる。そこには国際文化事業というものが、研究者 によって有意味な価値を見出されていたのである。 〈 〈〈 〈終章終章終章終章〉〉〉 〉 本論文は、九州国際文化協会を通じて、戦中期国際文 化事業における研究者組織を明らかにした。九州国際文 化協会は研究者によって組織化された国際文化事業団体 として登場し、「研究」を国際文化事業として位置付けた。 文化事業部の時代では、緩やかな枠組みの元に、事業形 成を研究者自らが行うことができた。 しかし、情報局に移管されるに及び、事業形成と実施 において情報局の管理統制が生じた。その結果、九州国 際文化協会の事業は「大衆」を如何に扱うか、如何に考 えるべきかを研究者に向けて説くまでになり、情報局の 管理統制が強く及ぶようになった。だが、移管後も「研 究」が一貫して事業に据えられていることが確認された。 今後の研究では、国際文化事業において、研究者がど のような関わりを持ったのかを検討したい。国際文化事 業は戦中期に展開され、終戦まで継続された日本の対外 文化政策である。こうした対外文化政策の中で研究者の 組織化がどういった場所で、どのような政策意図で行わ れたのか、そしてそこには研究者以外の存在がどのよう な動きを見せたのかに注目して研究を進めていきたい。 3 33 3....主要引用文献主要引用文献主要引用文献主要引用文献((史料((史料史料史料)))) ・『 九 州 国 際 文 化 協 会 会 報 』 九 州 国 際 文 化 協 会 編 1940-1942 第 1-3 号 ・『理事会議事録』 ・『昭和十四年 雑書綴』 ・『昭和十七年度 往復書類綴』 ・『九州帝国大学新聞』 ・『中央公論』 1940 年 3 月 4 44 4....主要参考文献主要参考文献主要参考文献主要参考文献 ・芝崎厚士『近代日本と国際文化交流 国際文化振興会 の創設と展開』 有信堂 1999 年

参照

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