慧友僧護の事績について(小宮) 抄録 洛 西 栂 尾 高 山 寺(以 下、 高 山 寺 ) は、 鎌 倉 初 期 に 明 恵 房 高 弁(一 一 七 三 ~ 一 二 三 二 )(以 下、 明 恵 ) が 中 興 開 山 以 来、現在にいたるまで膨大な典籍文書が所蔵される。この高山寺経蔵は、貴重な資料を伝存する宝庫として名高い。こ れ ら 所 蔵 さ れ る 典 籍 文 書 に つ い て は、 『高 山 寺 経 蔵 典 籍 文 書 目 録 』 全 五 冊(以 下、 『高 山 寺 目 録 』) と し て 刊 行 さ れ、 現 在その全貌をある程度窺い知ることができる。 本 稿 で は、 現 在 の 高 山 寺 経 蔵 の 基 礎 を な し た と さ れ る 慧 友 僧 護(一 七 七 五 ~ 一 八 五 二 )(以 下、 慧 友 ) の 事 績 に つ い て、その果たした役割や活動の目的を明らかにする。慧友の七十八年という長い生涯は、一貫して幕末の高山寺におい て、荒廃した境内堂宇ならびに経蔵聖教の修繕・整備を精力的に推し進めたことがわかる。その功績は、現在貴重な多 くの資料を伝存する高山寺経蔵を考える上で極めて重要である。
一
はじめに
慧友は、近世江戸末期に高山寺において、当時荒廃した境内堂宇ならびに経蔵聖教の修繕・整備を精力的に推し進め た僧侶である。 高山寺は、はじめ高雄神護寺の栂尾別所としての性格であった地を鎌倉初期、後鳥羽院(一一八〇~一二三九)より慧友僧護の事績について
――高山寺での活動を中心として――小
宮
俊
海
智山学報第六十七輯 明恵が華厳興隆の寺として下賜され開創以来、華厳真言を兼学する寺院となった。現在、高山寺に所蔵されている典籍 文書は、奈良・平安期から近現代にいたるまで膨大に所蔵されており、明恵研究のみならず、仏教学・真言学をはじめ 国 語 学・ 国 文 学・ 美 術 史 な ど 多 岐 に わ た る 貴 重 な 資 料 を 伝 存 す る 宝 庫 と し て 名 高 い。 こ れ ら 所 蔵 さ れ る 聖 教 に つ い て は、 高 山 寺 典 籍 文 書 綜 合 調 査 団 の 長 年 に わ た る 調 査 に よ り 目 録 化 が な さ れ、 『高 山 寺 目 録 』 全 五 冊 と し て 刊 行 さ れ、 現 在その全貌をある程度窺い知ることができる。 現 在 の 高 山 寺 経 蔵 の 基 礎 を な し た と さ れ る 慧 友 に つ い て は、 そ の 事 績 に つ い て 既 に 長 谷 宝 秀 編[一 九 二 六 ]、 密 教 大 辞典編纂委員会編[一九二六] 、築島裕[一九八七]といった先行研究によりいくつか紹介されている。 また近年、小宮俊海[二〇一四]では、智積院僧としての側面について指摘し、小宮俊海[二〇一六]において基礎 資料としての年譜を作成した。しかし、慧友の生涯を通しての事績や活動の目的について論じられている研究は未だ数 は少ない。 そこで本小稿では、具体的に以下の三点について明らかにしたい。 ①慧友の事績について、 『高山寺目録』全五冊をもとに確認し、高山寺における慧友の位置付けを明らかにする。 ②慧友の事績を確認することにより、その活動の目的について明らかにする。 ③慧友の活動を確認することにより近世高山寺僧の活動実態の一端を明らかにする。
二
慈雲尊者との距離
慧 友 に つ い て 長 谷 宝 秀 編[一 九 二 六 ] に よ る と、 そ の 名 は、 字 を 慧 友 と い い、 ま た 恵 猷 と も 書 き、 諱 を 僧 護 と 号 し た。安永四年(一七七五)伊賀国上野に生れ、はじめ洛東智積院第二十八世謙順能化(一七四〇~一八一二、能化在任 一 八 〇 四 ~ 一 八 一 〇 )(以 下、 謙 順 ) の 室 に 入 る。 そ の 後、 寛 政 八 年(一 七 九 六 ) 二 十 二 歳 で 謙 順 よ り 遍 照 院 道 場 に お いて両部灌頂の印可を受けている。慧友僧護の事績について(小宮) 【原文】 右寛政八年〈歳次丙辰〉二月二日於遍照院道場/授両部灌頂印可畢/阿闍梨法印大和尚位謙順// (1 ) 【訓読】 右、寛政八年〈歳次丙辰〉二月二日遍照院道場に於て、両部灌頂の印可を授け畢ぬ。阿闍梨法印大和尚位謙順。 (筆者書き下し。以下、同。 ) 管見では、資料的制約から入室の歳は判然としないが、二十二歳には既に出家していたことがわかる。そして、長谷 宝秀編[一九二六]によると享和二年(一八〇二)二十八歳の時、西の京阿弥陀寺(現京都市上京区行衛町・明治一五 年(一八八二)廃寺) (以下、阿弥陀寺)において慈雲尊者飲光(一七一八~一八〇四) (以下、慈雲)に従って進具し ている。 享和二年正月十五日〈廿八歳〉宝静師と共に京都阿弥陀寺に於て慈雲尊者に従て進具し。後故ありて捨戒して一 派を離れ洛西栂尾高山寺に隠栖す。 (2) 築 島 裕 [ 一 九 七 一 ] に よ る と 『 左 右 記 』( 四 部 四 八 函 二 〇 号 ) に 文 化 五 年 ( 一 八 〇 八 ) の 「 春 秋 三 十 又 四 法 歳 七 夏 」 ( 3 ) と の 記 述 か ら 逆 算 し て 二 十 七 歳 で 得 度 し た と す る が 、 ( 4 ) こ こ に い う 「 法 歳 七 夏 」 は 、 恐 ら く こ の 進 具 を 指 し て い る と 考 え ら れ る 。 進 具 と は 通 常、 二 十 歳 以 上 の 出 家 者 が 進 ん で 具 足 戒 を 受 戒 す る こ と を い う が、 ( 5) 慧 友 の 伝 記 資 料 を み る 限 り こ の 時 期、南都東大寺戒壇院等に出向いた痕跡は無く、具足戒を授戒したという記述がみられないことから、具体的にはこの 場 合、 慈 雲 が 提 唱 し た 正 法 律 の 受 戒 で あ っ た と 考 え ら れ る。 慈 雲 一 門 と し て 戒 律 復 興 運 動 に 加 わ っ た よ う で あ る が、
智山学報第六十七輯 「故ありて捨戒し」 、 ( 6) 一門を離れて高山寺へ隠遁している。しかし、 肝心の捨戒の理由については述べられていない。 そ こ で、 慈 雲 側 の 資 料 を 確 認 す る と、 享 和 二 年 と は、 慈 雲 が 文 化 元 年(一 八 〇 四 ) 八 十 七 歳 で 示 寂 す る 三 年 前 の 八十五歳の年に当たる。そして、慧友が進具した阿弥陀寺と慈雲の関係をみると、 尊者阿弥陀寺に住すること約五ケ年。漸く京地の繁雑を厭ひて隠遁の志を起し。安永五年正月在京法縁の道俗を 集めて隠遁の旨を披露し。二月朔日河州に下向せられたり。其後阿弥陀寺には輪番を置き一派中上座分の者をして 之に当らしむ。 (7) こ の よ う に 慈 雲 が 阿 弥 陀 寺 に 止 住 し て い た 時 期 は 、 明 和 八 年 ( 一 七 七 一 ) か ら 安 永 五 年 ( 一 七 七 六 ) の 五 年 間 で あ っ た こ と が わ か る 。 よ っ て 慧 友 が 進 具 し た 享 和 二 年 は 、 慈 雲 の 活 動 の 中 心 は 既 に 阿 弥 陀 寺 か ら 河 内 高 貴 寺 へ と 移 っ て い た 時 期 と な る 。 慧 友 は 慈 雲 よ り 『 普 賢 行 願 讃 梵 本 』 一 帖 を 寄 与 さ れ る ( 8 ) な ど 直 接 に 交 流 を 持 つ も の の 長 谷 宝 秀 [ 一 九 二 六 ] に よ れ ば 「 僧 衆 一 百 八 十 八 人 。 尼 衆 一 百 五 十 六 人 。 優 婆 塞 衆 十 一 人 。 優 婆 夷 衆 八 人 。 合 計 三 百 六 十 三 人 」 ( 9 ) という多数の弟子を擁する慈雲一門のうち、最晩年の弟子の一人に数えられるに過ぎず、それも一年足らずでそのもと を離れてしまったことがわかる。 慈雲一門のもとを離れ、高山寺へ隠遁してからその後は、生涯にわたり高山寺内での活動が中心となる。しかし、自 身の出身寺院である智積院の僧侶との関係は、最晩年まで続いていくのである。 以下、慧友の事績について高山寺での活動を中心にみていきたい。そして、これらの活動について、その目的や特徴 について考察していく。
慧友僧護の事績について(小宮)
三
栂尾高山寺明恵の法脈
慧友は、享和二年(一八〇二)二十八歳の時に高山寺へ隠遁したとされるが、翌年の享和三年(一八〇三)二十九歳 の時、智積院勧学院道場において謙順より『伝法許可灌頂印信』一通 ( 10)を授かっている。 そして、 文化四年(一八〇七)三十三歳の時、 南北朝期書写の『高山寺修正初夜導師次第』一帖 ( 11) を修補している。 これ以後、聖教を修繕する活動を繰り返していく。 続 い て、 文 化 五 年(一 八 〇 八 ) 三 十 四 歳 の 時、 高 山 寺 報 恩 院 に お い て 能 化 在 任 中 の 謙 順 を 招 き、 『謙 順 授 与 生 身 地 蔵 印信〈受者慧友〉 』一通 ( 12) を授かっている。 また、同じく文化五年、山門の二階から明恵自筆の『唯心観行式』一巻を見出し、珍重するようにと包紙を付してい る。 ( 13) こ の よ う に 明 恵 を は じ め 明 恵 の 直 弟 子 で あ る 空 達 房 定 真(一 一 七 三 ~ 一 二 五 〇 ) と い っ た 高 山 寺 の 先 徳 の 聖 教 に対し、包紙を付して一言加えるといった活動を以後継続し、聖教の維持管理を意欲的に進めていくことになる。 その理由として慧友は、高山寺が中興開山である明恵からその門下たちへ脈々とその法脈が伝えられ、自身へと継承 されているということを強く意識していたことが以下の資料から看取される。 【原文】 文 化 十 年 癸 酉 孟 春 念 一 日 託 于 円 成 房 / 令 書 写 之 予 一 校 了 抑 此 法 軌 者 故 本 / 願 上 人 之 御 作 也 後 葉 最 可 尊 重 也 伏 願 / 依 此 法 門 修 習 瑜 伽 共 一 切 衆 生 証 入 文 / 殊 師 利 般 若 波 羅 蜜 海 〈 云 爾 〉 / 明 慧 上 人 第 十 八 葉 遺 弟 沙 門 僧 護 記 于 / ( 以 下 略 ) ( 14) 【訓読】 文化十年癸酉孟春念一日、円成房に託して之を書写せ令め、予一校し了ぬ。抑も此の法軌とは故本願上人の御作 なり。後葉は最も尊重す可きなり。伏して願くは此の法門を修習する瑜伽に依りて、一切衆生と共に文殊師利の般智山学報第六十七輯 若波羅蜜海に証入せんと〈爾か云ふ〉 。明慧上人の第十八葉の遺弟沙門僧護記す。 (以下略) 文 化 一 〇 年(一 八 一 三 ) 三 十 九 歳 の 時、 明 恵(本 願 上 人 ) 御 作 の『文 殊 師 利 菩 薩 念 誦 次 第 』 一 帖 を 円 成 房 に 書 写 さ せ、自ら校合を行っており、自身が明恵から数えて十八代連なる弟子にあたると自認している。このように明恵の法脈 の存続維持、興隆のために積極的に明恵関係の聖教の書写・校合を重ねていく。 具 体 的 に は 、 文 化 十 二 年 ( 一 八 一 五 ) 四 十 一 歳 の 時 、 明 恵 著 作 な ら び に 講 説 聞 書 で あ る 『 光 明 真 言 句 義 釈 聴 集 記 』 二 巻 、 『 光 明 真 言 句 義 釈 抄 』 一 巻 、『 三 時 礼 釈 』 一 巻 の 計 四 巻 を 「 右 四 巻 大 破 修 補 ス ヘ シ 」 ( 15) と 修 補 を 促 し 、 包 紙 を 付 し て い る 。 また同年、仁和寺の宏練なる僧も明恵の著作である『随意別願文』一巻を書写し、それに校合を施し高山寺禅堂院へ 納めている。 【原文】 時文化十一年甲戌霜月十九日於高山寺三尊院対仁和/寺少輔僧都宏練御房遂校合了生々世々同生一仏前/証得華 厳普法同於一切衆生界満足普賢大菩提心/〈云爾〉十無尽院沙門恵友僧護謹識 依為明年正月/開基明恵上人六百 諱辰為報恩謝恩護徳聊積写功以/奉施入于高山寺禅堂院畢/文政第十三庚申十一月望於紫野大徳禅寺之寓居敬記之 /仏子宏練〈時享年四十七〉// ( 16) 【訓読】 時 に 文 化 十 一 年 甲 戌 霜 月 十 九 日、 高 山 寺 三 尊 院 に 於 て 仁 和 寺 少 輔 僧 都 宏 練 御 房 に 対 し、 遂 に 校 合 し 了 ぬ。 生 々 世 々、 同 じ く 一 仏 前 に 生 じ、 華 厳 の 普 法 を 証 得 し、 同 じ く 一 切 衆 生 界 に 於 て 普 賢 大 菩 提 心 を 満 足 せ ん と〈爾 か 云 ふ 〉。 十 無 尽 院 沙 門 恵 友 僧 護 謹 み て 識 す。 明 年 正 月、 開 基 明 恵 上 人 六 百 の 諱 辰 の 為 る に 依 て、 報 恩 謝 恩 護 徳 の 為 に 聊か写功を積み、以て高山寺禅堂院に施入し奉り畢ぬ。文政第十三庚申十一日、紫野の大徳禅寺の寓居に望みて敬
慧友僧護の事績について(小宮) て之を記す。仏子宏練〈時享年四十七〉 明 恵 は 、 寛 喜 四 年 ( 一 二 三 二 ) に 六 十 歳 で 示 寂 し た が 、 そ の 六 百 年 御 遠 忌 の 正 当 を 天 保 三 年 ( 一 八 三 二 ) に 控 え 、 そ れ に 向 け て 先 師 明 恵 に 対 す る 報 恩 謝 恩 護 徳 の た め 、そ の 著 作 を 書 写 ま た は 校 合 、修 補 す る 機 運 が 高 ま っ て い た も の と 考 え ら れ る 。
四
栂尾高山寺復興への道
天 保 三 年(一 八 三 二 ) に 明 恵 上 人 六 百 年 御 遠 忌 を 控 え、 慧 友 が 高 山 寺 興 隆 へ 邁 進 し て い た 最 中、 文 政 十 三 年 (一八三〇)五十六歳の時、高山寺一山を大惨事が襲う。 【原文】 文政十三年庚寅七月十一日/十無尽院慧友護/高山鐘楼崩落院宇大破〈云々〉/去二日未尅大地震動山川/崩倒 京師皇城民屋神/社仏閣破損無極前代未聞/未曾有〈云々〉// ( 17) 【訓読】 文 政 十 三 年 庚 寅 七 月 十 一 日、 十 無 尽 院 慧 友 護。 高 山 の 鐘 楼 崩 落 し、 院 宇 大 破 す〈 と 云 々〉 。 去 る 二 日 の 未 尅、 大 地 震 動 し、 山 川 崩 倒 す。 京 師 の 皇 城・ 民 屋・ 神 社・ 仏 閣、 破 損 す る こ と 極 ま り 無 し。 前 代 未 聞 に し て 未 曾 有 な り 〈と云々〉 。 こ の よ う に 、 高 山 寺 経 蔵 所 蔵 聖 教 の 第 一 九 八 函 の 函 裏 に 墨 書 さ れ て い る 。 文 政 十 三 年 ( 一 八 三 〇 ) 七 月 二 日 、 亀 岡 盆 地 北 東 部 を 震 央 と す る 文 政 京 都 地 震 が 発 生 し た 。 ( 18) 洛 中 の 被 害 も さ る こ と な が ら 、 高 山 寺 一 山 も 甚 大 な 被 害 を 受 け た こ と が わ か る 。 こ れ に よ り 以 降 、 慧 友 の 活 動 の 中 心 は 、 必 然 的 に 堂 宇 の 復 興 な ら び に 聖 教 の 修 繕 と な っ て い っ た も の と 考 え ら れ る 。智山学報第六十七輯 そして、慧友は喫緊の課題として高山寺復興を掲げ、聖教に対しても修繕という形へ質的な転換を迫られたものと考 えられる。 【原文】 天保三年壬辰三月廿一日奉修補之/修補施主能州石動山仏子高照也/十無尽院沙門慧友護記之// ( 19) 【訓読】 天保三年壬辰三月廿一日、之を修補し奉る。修補の施主、能州石動山の仏子高照なり。十無尽院沙門、慧友護之 を記す。 こ こ に は 、『 胎 蔵 界 伝 法 灌 頂 作 法 〈 初 夜 草 案 未 再 治 〉』 一 巻 の 修 補 の 施 主 と し て 石 動 山 天 平 寺 ( 現 石 川 県 鹿 島 郡 中 能 登 町 ) の 僧 侶 と 考 え ら れ る 高 照 ( 一 七 七 九 ~ 一 八 三 二 ヵ ) ( 20) と い う 名 が 見 え る 。 こ の よ う に 、 こ の 時 期 か ら 高 山 寺 外 の 施 主 の 名 前 が 聖 教 奥 書 に 散 見 さ れ 、 積 極 的 に 勧 進 活 動 を 行 っ て い た こ と が わ か る 。 石 動 山 は 山 岳 修 験 の 霊 場 と し て も 著 名 で あ る 一 方 、 当 時 仁 和 寺 末 の 寺 院 で あ っ た と さ れ る 。 ま た 、 明 恵 と 親 交 の あ っ た 宣 陽 門 院 覲 子 内 親 王 ( 一 一 八 一 ~ 一 二 五 二 ) 以 来 の 勅 願 寺 で あ っ た 。 高 山 寺 も 同 じ く 中 世 以 来 仁 和 寺 の 影 響 下 に あ る 寺 院 で あ り 、 こ う い っ た 性 質 か ら 高 山 寺 を 庇 護 し た 可 能 性 が 推 察 さ れ る 。 一 方 、 天 保 三 年 ( 一 八 三 二 ) 慧 友 五 十 八 歳 の 頃 よ り 頻 繁 に 自 身 の 弟 子 で あ る 密 護 ( 一 八 一 〇 ~ 一 八 五 四 存 ) や 凝 念 ( 一 七 八 九 ~ 一 八 三 八 存 ) と い っ た 高 山 寺 僧 に 伝 授 を 行 っ て お り 、 同 時 に 法 脈 の 上 で も 高 山 寺 の 継 承 、 興 隆 を 図 っ て い っ た こ と が わ か る 。 ( 21) また、同じく天保三年の記録として、 『十無尽院之記』一冊において「 〈天保三年壬辰八月八日〉/照念院殿下御法事 日 記 」 ( 22) と い う 記 述 を 見 る こ と が で き る。 照 念 院 殿 下 す な わ ち 鷹 司 兼 平(一 二 二 八 ~ 一 二 九 四 )(以 下、 兼 平 ) に 対 す
慧友僧護の事績について(小宮) る追善供養の法要が十無尽院において行われていたと考えられ、慧友がその記録を書写し残していたのである。 兼平は、関白近衛家実(一一七九~一二四三)の四男で、祖父近衛基通(一一六〇~一二三三)が明恵に帰依したこ とから代々深く信仰をよせ、自身も正応三年(一二九〇)六十二歳の時、出家して覚理と号し六十七歳で示寂した。現 在、高山寺の眼下を流れる清滝川の東岸へ白雲橋を渡ると 深 ふか 瀬 いぜ 墓 ぼ 域 いき という高山寺に縁の深い僧侶たちの墓碑が集まる区 域がある。その第二層に兼平の墓碑と伝わるものが建立されている。また、同じくこの深瀬墓域の第一層には、慧友の 墓 碑 で あ る 大 き な 石 塔 が 建 立 さ れ て いる。 ( 23) 明 恵 は、 弟 子 に 優 れ た 画 僧 を 輩 出 し て お り、 現 在 も 高 山 寺 は 数 多 く の 仏 教 美 術 絵 画 の 優 品 を 有 し て い る。 そ の 中 に 兼 平 の 兄 で あ る 近 衛 兼 経 と 伝 え ら れ る 肖 像(一 幅・ 紙 本 淡 彩・ 鎌 倉 時 代・ 十 三 世 紀 ) が 所 蔵 さ れ て いる。 こ れ を 考 慮 す る と 同 じ く 兼 平 の 肖 像 も 作 画 さ れ、 法 要 の 際 に 荘 厳 し て いた可能性が示唆される。 引 き 続 き 慧 友 は、 六 十 代 に 入 っ て も な お 聖 教 修 補 の 勧 進 活 動 を 継 続 し ている。 【図1 慧友上人墓碑石塔(筆者撮影)】 (24)
智山学報第六十七輯 【原文】 (補紙) (朱書) 天保十二年 〈辛丑〉 六 月 三 十 日 於 十 無 尽 院 一 校 了 / 高 山 禅 念沙門慧友 〈六十又七〉 /此式文以解 脱 上 人 之 撰 文 他 日 可 勘 之 / 凝 念 法 師 恵 之 予 云 々 / 修 補 施 主 京 師 和 歌 山 治 躯也// ( 26) 【訓読】 天保十二年〈辛丑〉六月三十日、 十 無 尽 院 に 於 て 一 校 了 ぬ。 高 山 禅 念 沙 門 慧 友〈六 十 又 七 〉。 此 の『式 文 』 は 解 脱 上 人 の 撰 文 を 以 て、 他 日 に 之 を 勘る可し。凝念法師、 之を予に恵むと 云々。修補の施主、 京師の和歌山治駆 なり。 こ れ は、 凝 念 か ら 慧 友 へ 授 与 さ れ た『毘 沙 門 講 式 』 一 巻 で あ る。 内 容 と し て 解 脱 房 貞 慶(一 一 五 三 ~ 一 二 一 三 )(以 下、貞慶)の著作かは後日確認すべきと記述されている。しかし、修補の施主として京職の役人方、和歌山治馳(生没 年未詳)の名が見える。このように在家の施主にも積極的に勧進を行っていたことがわかる。また、明恵と縁の深かっ た 貞 慶 の 著 作 と 関 係 す る も の と 考 え ら れ る こ と か ら、 著 名 な 著 作 者 の 聖 教 は 勧 進 が 集 ま り や す か っ た の で あ ろ う。 ま 【図2 鷹司兼経像(京都・高山寺所蔵)】(25)
慧友僧護の事績について(小宮) た、同じく在家の施主からの勧進の記録をあげることができる。 【原文】 (表紙見返) 〈木上〉金剛界抄一巻〈栂尾御筆〉/右根本上人御作歳次己亥五月奉修補了/施財者従五位下越中守 蜷川親常〈本姓也〉宮道/沙門慧友護記之// ( 27) 【訓読】 〈栂(尾 ) 上(人 )〉 『金 剛 界 抄 』 一 巻〈栂 尾 御 筆 〉 / 右、 根 本 上 人 の 御 作 な り。 歳 次 己 亥 五 月 修 補 し 奉 り 了 ぬ。 施財者、従五位下越中守蜷川親常〈本姓なり〉宮道。沙門慧友護之を記す。 『金 剛 界 抄(外 題 )』 一 巻 に お け る 天 保 十 三 年(一 八 四 二 ) 慧 友 六 十 八 歳 の 時 の 記 事 で あ る が、 こ こ に 従 五 位 下 越 中 守 蜷 川 親 常(生 没 年 未 詳 )(以 下、 親 常 ) の名が見える。 坂 井 誠 一[一 九 六 三 ] に よ れ ば、 蜷 川 氏 は 室 町 末 期、 第 十 三 代 将 軍 足 利 光 輝(一 五 三 六 ~ 一 五 六 五 ) に 仕 え た が、 室 町 幕 布 滅 亡 の 後、 戦 国 動 乱 の 折 に 離 散 を 余 儀 な く さ れ た。 後 に そ の 一 部 が、 土 佐 国 の 長 宗 我 部 元 親(一 五 三 九 ~ 一 五 九 九 ) の も と へ 落 ち 延 び た。 親 常 は こ の 流 れ を 汲 ん で い る。 そ し て 一 方 で は、 江 戸 期 徳 川 治 世 に 入 る と 越 中 国 新 川 郡 蜷 川 庄(現 富 山 市 の 一 部 ) を 旗 本 と して所領としたとされる。 蜷 川 氏 と 高 山 寺 と の 直 接 的 な 関 係 は 判 然 と し な い が、 蜷 川 氏 の も と も と の 所 領であった丹波国にある菩提寺とされる蟠根寺跡 (現京都府南丹市園部町高屋) 【図3 春日神社本殿(南丹市園部町高屋)】(28)
智山学報第六十七輯 には現在、平安期創建とされる春日明神社の本殿(室町期建立)が京都府指定重要文化財として遺されている。これら を考慮した上で、高山寺と蜷川氏との関係性については今後の課題としたい。 慧 友 は そ の 後、 晩 年 の 七 十 代 に 入 っ て か ら も 親 常 と の 交 流 は 継 続 さ れ て い る。 『一 切 智 光 明 慈 心 因 縁 不 食 肉 経 』 一 冊 に残される弘化三年(一八四六)七十二歳の時の記事である。 【原文】 歳次丙午弘化三年三月二日為于/能登守宮道朝臣親常君一校了/願以此勝業生々世々修〈白光神〉慈心三昧/証 法性普遍大慈氏身云爾/高山寺沙門慧友謹記// ( 29) 【訓読】 歳次丙午、弘化三年三月二日、能登守、宮道朝臣親常君の為に一校し了ぬ。願くは此の勝業を以て、生々世々に 〈白光神の〉慈心三昧を修し、法性普遍の大慈氏の身を証せんと爾か云ふ。高山寺沙門慧友謹みて記す。 このように慧友は、親常のために聖教の校合を行い、それを勝業としてその功徳を廻向することを目的としているこ とがわかる。このように聖教奥書等の記述から、勧進活動の一環として在家のために祈願や廻向を行う活動がみられる ようになる。
五
済仁法親王との邂逅
慧友は、最晩年の七十代にさしかかり、高山寺僧として円熟期を迎えていた。ここに新たな人的交流を見出すことが できる。慧友僧護の事績について(小宮) 【原文】 石山印信三包〈初二三〉/弘化二年〈乙巳〉八月十八日於十無尽/院道場奉伝受了/大阿闍梨一品親王済仁〈御 年五十歳〉/受者方便智院慧友護〈七十一歳〉/予年来懇願之処関東/御発輿以前為御法談忝/来臨御印信等御自 筆/賜之畢生々世々法契/不過之未曾有勝事也// ( 30) 【訓読】 『 石 山 印 信 三 包 〈 初 二 三 〉』 、 弘 化 二 年 〈 乙 巳 〉 八 月 十 八 日 、 十 無 尽 院 道 場 に 於 て 伝 受 し 奉 り 了 ぬ 。 大 阿 闍 梨 、 一 品 親 王 済 仁 〈 御 年 五 十 歳 な り 〉。 受 者 、 方 便 智 院 慧 友 護 〈 七 十 一 歳 な り 〉。 予 、 年 来 懇 願 の 処 、 関 東 へ 御 発 輿 以 前 に 御 法 談 の 為 に 忝 く も 来 臨 し 、 御 印 信 等 の 御 自 筆 之 を 賜 ひ 畢 ぬ 。 生 々 世 々 の 法 契 は 之 に 過 ぎ ず 。 未 曾 有 の 勝 事 な り 。 このように、 『済仁授与石流印信〈受者慧友〉 』六通の記述によると弘化二年(一八四五)慧友七十一歳の時、当時の 第二十九世仁和寺御室済仁法親王(一七九七~一八四七) (以下、済仁)より『石山印信三包〈初二三〉 』六通を受法し ている。済仁の年齢は自身より十六歳年少に当たる。済仁が関東へ下向する直前の受法であった。しかし、その二年後 の弘化四年(一八四七)十二月二十四日、済仁は五十一歳という若さで示寂する。慧友は、済仁との関係を深めていく なかで同時に公家方との交流もみられるようになる。 【原文】 弘 化 三 年〈丙 午 〉 四 月 廿 七 日 以 入 阿 上 人 之 本 一 校 了 件 本(中 略 ) 此 経 本 校 合 之 砌 自 / 一 品 太 王 奉 書 頃 日 / 女 院 〈御 年 六 十 八 歳 〉 貴 体 不 穏 累 日 不 予〈云 々〉 奉 為 / 御 悩 平 癒 宝 寿 長 久 抽 丹 誠 可 奉 護 念 之 / 旨 也 仍 於 石 水 院 殿 自 今 夕 起首一七ケ/日之間奉修随求大護加持/阿闍梨慧友護〈年七十二〉/女院御名/欣子〈御年六十八歳〉/後桃園帝
智山学報第六十七輯 皇女御母盛花門院〈准三后内前公御女〉// ( 31) 【訓読】 弘 化 三 年〈丙 午 〉 四 月 廿 七 日、 入 阿 上 人 の 本 を 以 て 一 校 し 了 ぬ。 件 の 本、 (中 略 ) 此 の 経 本 の 校 合 の 砌、 一 品 太 王 自 り 書 し 奉 る。 頃 日、 女 院〈御 年 六 十 八 歳 〉 の 貴 体、 不 穏 に し て 累 日 不 予 な り〈 と 云 々〉 。 御 悩 平 癒、 宝 寿 長 久 の奉為に丹誠を抽きて之を護念し奉る可き旨なり。仍て石水院殿に於て、今夕自り起首すること一七ケ日の間、随 求 大 護 加 持 を 修 し 奉 る。 阿 闍 梨 慧 友 護〈年 七 十 二 な り 〉。 女 院 の 御 名 は 欣 子〈御 年 六 十 八 歳 〉 な り。 後 桃 園 帝 の 皇 女にして御母は盛花門院〈准三后、内前公の御女なり〉 。 こ れ は、 『守 護 国 界 主 陀 羅 尼 経 』 巻 第 五 の 写 本 の 識 語 で あ る が、 後 桃 園 天 皇(一 七 五 八 ~ 一 七 七 九 ) の 皇 女 で あ る 欣 子内親王(一七七九~一八四六)が体調を崩していたことから、当病平癒のために大随求法の修法もしくは大随求陀羅 尼の読誦と思われる随求大護加持なる加持祈祷を一週間修行した旨が記されている。このように公家方への祈願といっ た活動も行っていたことがわかる。 そして、慧友は済仁示寂に接し、以下のような記事を残している。 【原文】 〈天 保 癸 卯 春 正 月 〉 尼 連 禅 河 院 御 室〈済 仁 〉 御 書 / 弘 化 四 年 丁 未 十 二 月 廿 蒙 (ママ) (薨 カ ) 御 年 五 十 又 一 歳 / 奉 為 増 進 仏果毎月可奉読誦〈云々〉/戌申正月廿五日謹校了/沙門慧友護〈七十又四〉// ( 32) 【訓読】 〈天保癸卯春正月〉尼連禅河院御室〈済仁〉の御書なり。弘化四年丁未十二月廿(薨す) 。御年五十又一歳なり。 増進仏果の奉為に毎月読誦し奉る可し〈と云々〉 。戌申正月廿五日、謹みて校了す。沙門慧友護〈七十又四なり〉 。
慧友僧護の事績について(小宮) 弘 化 二 年 に『石 山 印 信 三 包〈初 二 三 〉』 六 通 を 授 か っ た そ の 二 年 後、 示 寂 し た 済 仁 に 対 し て 仏 果 増 進 を 願 い、 毎 月 『十重華厳唯識義』一巻の読誦を発願している。そして、済仁に対する追善供養は以下のように続けられる。 【原文】 弘 化 五 年 戌 申 二 月 十 九 日 奉 迎 于 / 尼 連 禅 河 院 御 室 四 十 九 之 遠 忌 景 / 奉 為 資 上 生 都 卒 成 等 正 覚 奉 修 補 / 此 三 本 矣 高山寺方便智院沙門慧友護/〈七十又四歳〉// ( 33) 【訓読】 弘化五年戌申二月十九日、尼連禅河院御室の四十九の遠忌の景を迎え奉りて、都卒へ上生し、等正覚を成ずるに 資せんが奉為に此の三本を修補し奉る。 高山寺方便智院沙門慧友護〈七十又四歳〉 。 こ の よ う に 七 七 日 忌 日 に 際 し、 同 じ く 仏 果 増 進 の た め に 済 仁 の 兜 率 天 往 生 を 願 い 成 仏 の 資 と す る た め に、 『弥 勒 講 式』一巻を修補している。その後、慧友は尼連禅河院すなわち済仁への追善供養を自身の示寂直前まで継続していたこ とがわかる。 【原文】 (前 略 ) 去 弘 化 三 年〈丙 午 〉 四 月 廿 三 日 奉 于 / 尼 連 禅 河 院 御 室〈御 名 済 仁 〉 之 命 校 之 自 第 一 巻 至 第 五 巻 花 開 葉 / 落経六ケ年嘉永四年〈辛亥〉六月二日起首至同月十三日全部十巻/校合之畢荏苒之至可恥〈云々〉/慧友金剛沙門 僧 護〈七 十 七 歳 〉 同 葉 対 校 者 密 護〈四 十 二 才 〉(中 略 ) 尼 連 禅 河 院 御 室 沙 門 済 仁 弘 化 四 年〈丁 未 〉 十 二 月 二 十 日 薨/御年五十一歳鳴呼可悲可恐(中略) (以下補紙ニ記ス) (又別筆) (朱) 「\」亡夫理山道趣〈井上栄久〉亡子(朱) 「/」 〈兄〉寛峯道智/亡子(朱)
智山学報第六十七輯 「/」 〈弟〉得岩宗智 亡女(朱) 「/」紅顔妙葉 亡孫/(朱) 「/」玉雲智性童/現存施主 若山氏女古廼〈井上 栄久之妻也〉 (以上傍点朱書、朱引記省略) (朱 書 ) 法 名 了 法 如 幻 五 十 七 歳(以 上、 「若 山 氏 女 古 廼・・・」 ノ 右 傍 ニ 記 セ リ、 ) / 古 廼 女 嘉 永 四 年〈辛 亥 〉 三 月二十日〈申時上分〉得度授戒/于高山寺尼連禅河院御室// ( 34) 【訓読】 (前 略 ) 去 る 弘 化 三 年〈丙 午 〉 四 月 廿 三 日、 尼 連 禅 河 院 御 室〈御 名 済 仁 〉 の 命 を 奉 り て 之 を 校 す。 第 一 巻 自 り 第 五 巻 に 至 り て 花 開 き 葉 は 落 つ こ と 六 ケ 年 を 経 る。 嘉 永 四 年〈辛 亥 〉 六 月 二 日 に 起 首 し、 同 月 十 三 日 に 至 り て 全 部 十 巻 之 れ を 校 合 し 畢 ぬ。 荏 苒 の 至 り 恥 ず 可 し〈 と 云 々〉 。 慧 友 金 剛 沙 門 僧 護〈七 十 七 歳 〉。 同 葉 の 対 校 者、 密 護 〈四十二才〉なり。 (中略)尼連禅河院御室沙門済仁、弘化四年〈丁未〉十二月二十日に薨す。御年五十一歳なり。 鳴呼悲しむ可し、恐る可し。 (中略) 亡 夫、 理 山 道 趣〈井 上 栄 久 〉。 亡 子、 〈兄 〉 寛 峯 道 智。 亡 子、 〈弟 〉 得 岩 宗 智。 亡 女、 紅 顔 妙 葉。 亡 孫、 玉 雲 智 性 童。現存施主、若山氏の女、古廼〈井上栄久の妻なり。 〉 法名、了法如幻、五十七歳。古廼女。嘉永四年〈辛亥〉三月二十日〈申時の上分〉高山寺尼連禅河院御室に得度 授戒す。 このように、済仁の在世中に命じられ開始した『守護国界主陀羅尼経』の校合作業を都合六年かけ、済仁の没後三年 に当たる嘉永四年(一九五一)慧友七十七歳の時、第十巻まで終了したことがわかる。ここには、五十一歳という若さ で早逝した済仁の死を悼み悲嘆にくれる感情が吐露されている。 ま た 、 補 紙 の 情 報 か ら 井 上 栄 久 の 妻 と さ れ る 若 山 氏 の 女 が 井 上 家 の 亡 き 夫 や 子 供 、 孫 た ち の 追 善 供 養 の た め に 『 守 護 国 界 主 陀 羅 尼 経 』 修 補 の 施 主 と な っ て い た こ と が わ か る 。 そ し て 、 こ の 古 廼 の 女 は 、 了 法 如 幻 と い う 法 名 で 高 山 寺 に お い て
慧友僧護の事績について(小宮) 済 仁 を 師 と し て 授 戒 し 、 得 度 し た 者 で あ る こ と が わ か る 。
六
洛東智積院への法流の再興
慧 友 と 智 積 院 僧 と の 関 わ り に つ い て は、 小 宮 俊 海[二 〇 一 四 ] を 参 照 さ れ た い。 な か で も、 嘉 永 元 年(一 八 四 八 ) 慧 友 七 十 四 歳 の 時 の 活 動 で 特 筆 す る も の と し て、 智 積 院 第 三 十 九 世 隆 栄 能 化(一 八 〇 九 ~ 一 八 六 七、 在 仁 一 八 六 二 ~ 一 八 六 七 )(以 下、 隆 栄 ) に 請 わ れ て 多 く の 謙 順 相 伝 の 聖 教 を 書 写 さ せ、 特 に 大 伝 法 院 流 の 一 流 伝 授 を 行 っ た こ と を 挙 げることができる。 【原文】 従栂尾山大阿闍梨僧護/大和尚受法伝法院一流砌/以大阿御自筆之本写/畢/于時嘉永元年〈戌申〉/三月十四 日 隆栄/以上伝法院流正伝之/具書也/外広沢通用之分不記之/嘉永元年〈歳次戌申〉三月/伝流伝授之砌記之 了/沙門慧 多 (ママ) 護〈七十又四〉// ( 35) 【訓読】 栂 尾 山 の 大 阿 闍 梨 僧 護 大 和 尚 従 り、 伝 法 院 一 流 を 受 法 す る 砌、 大 阿 御 自 筆 の 本 を 以 て 写 し 畢 ぬ。 時 に 嘉 永 元 年 〈戌 申 〉 三 月 十 四 日、 隆 栄。 以 上、 伝 法 院 流 正 伝 の 具 書 な り。 外 に 広 沢 通 用 の 分 は 之 を 記 さ ず。 嘉 永 元 年〈歳 次 戌 申〉三月、伝流伝授の砌、之を記し了ぬ。沙門慧(友)護〈七十又四〉 。 こ れ は、 『(伝 法 院 流 伝 授 目 録 )』 一 冊 に み ら れ る 記 述 で あ る が、 こ の よ う に 隆 栄 は 慧 友 よ り、 大 伝 法 院 流 一 流 の 聖 教 書写ならびに伝授を相伝受法することにより、ここに謙順以来の大伝法院流一流の相伝を智積院に再興することが可能 となったものと考えられる。智山学報第六十七輯
七
幕末の栂尾高山寺
近世江戸の最末期という時代を生きた慧友について考える時、洛中は幕末の動乱を迎えていた。そんな中、高山寺内 においてもその人的移動に着目することができる。 【原文】 弘 化 三 年〈丙 午 〉 二 月 廿 七 日 校 了 / 春 雨 頻 降 草 木 催 萌 / 今 日 証 成 空 眼 行 向 于 大 内 / 皆 明 寺 室 為 習 梵 歌 / 詠 也 〈云々〉 慧友 記之/広 西 高山寺 /地蔵 院/弘 安七年〈甲申〉 五月八 日書写 了/校了 /弁喜/ 宝別秘 /今日 目 (ママ) 岸 時正結記之// ( 36) 【訓読】 弘化三年〈丙午〉二月廿七日、校了す。春雨、頻る降りて草木萌ゆを催す。今日、証成・空眼、大内に行向す。 皆 明 寺 の 室 に 梵 の 歌 詠 を 習 ふ 為 な り〈 と 云 々〉 。 慧 友 之 を 記 す。 広 西 の 高 山 寺 地 蔵 院。 弘 安 七 年〈甲 申 〉 の 五 月 八 日書写し了ぬ。校了す。弁喜『 宝別秘』今日、目(彼 カ )岸の時、正しく結して之を記す。 『 宝 別 秘 』 一 帖 と い う 資 料 に は、 弘 化 三 年(一 八 四 六 ) 慧 友 七 十 二 歳 の 記 事 が 残 さ れ て い る。 こ こ に あ る 証 成 は 後 の 錦 小 路 証 成(一 八 一 一 ~ 一 八 九 〇 存 )(以 下、 証 成 ) と 考 え ら れ る。 周 知 の ご と く 近 代 明 治 期 に 入 り、 政 府 の 宗 教 政 策により当時の仏教界は大きな変革を余儀なくされた。高山寺においては、華厳宗本山として位置付けられ、華族であ る「錦 小 路 証 成 」 が 住 職 を 勤 め る こ と と な る。 ( 37) こ の 証 成 が 既 に 弘 化 三 年 の 時 点 で、 高 山 寺 僧 と し て 所 属 し て い た も のと考えられる。また、以下の記述からもその関係を窺い知ることができる。慧友僧護の事績について(小宮) 【原文】 高山寺法鼓台箱中真第二箱現/存未当有珍書也於丹波家尤可/貴重尊敬也/沙門慧友金剛〈七十又五〉嘉永二年 〈己酉〉七月四日□入了// ( 38) 【訓読】 高山寺、法鼓台の箱の中に真の第二箱現存す。未だ当に珍書有る可からざるなり。丹波家に於て尤も貴重にして 尊敬す可きなり。沙門慧友金剛〈七十又五なり〉 。嘉永二年〈己酉〉の七月四日□入し了ぬ。 嘉永二年(一八四九)慧友七十五歳の時の記事として、ここに挙げられる『 (大集虚空蔵菩薩所問経奥書抜書) 』二通 にある丹波家とは、錦小路家を指していると考えられ、既に錦小路家と高山寺の関係を窺い知ることができる。慧友の 生きた幕末の寺内の状況を垣間見ることができる資料といえよう。
八
おわりに
慧 友 の 記 録 は、 最 晩 年 で あ る 嘉 永 五 年(一 八 五 二 ) 七 十 八 歳 の 時、 『(無 題 )』 一 括 ( 39) を 書 写 し た の が 管 見 で は、 『高 山寺目録』からは最後である。 示寂の直前である嘉永五年(一八五二)七月八日に弟子たちに対して『菩提心論』一巻を講説したとされ、その二日 後にあたる七月十日、七十八歳で示寂した。 ( 40) ここで最後に、本小稿の目的である①慧友の事績の確認、および高山寺における慧友の位置付け、②慧友の活動の目 的、③近世高山寺僧の活動実態の一端について整理したい。 ① 慧友の七十九年という長い生涯をみると、洛東智積院で謙順のもと出家し、阿弥陀寺において慈雲のもと正法律を 授戒し、後に慈雲一門のもとを離れ、二十八歳で高山寺へ隠遁以来、生涯にわたり一貫して聖教の書写、校合、修智山学報第六十七輯 補といった経蔵の修繕、整備、維持管理に貫徹した学僧であったことがわかる。 ② 慧 友 は 享 和 二 年(一 八 〇 二 )、 二 十 八 歳 の 時 に 高 山 寺 へ 隠 遁 し て か ら、 天 保 三 年(一 八 三 二 ) の 明 恵 上 人 六 百 年 御 遠忌にかけての活動の中心は、明恵の法脈を継承し、高山寺を興隆させるという意図があったと考えられる。 その最中、文政十三年(一八三〇)五十六歳の時に文政京都地震に遭遇し、高山寺一山も甚大な被害に見舞われ るという惨事が襲う。しかし、そこから公家方や役人方といった当時の有力な在家者との交流を深めていくことに より、高山寺の復興に大きく尽力したものといえよう。これらは、聖教の書写のみならず校合、修補といった活動 こそが祖師先徳たちに対する報恩謝徳であり、出家、在家に関わらず現世においては勝業・善業として、没後にお いては追善供養となると確信し、明確な意図を持ち継続的に行ってきたものと考えられる。 晩年は、高山寺内において密護を中心とした弟子たちに明恵以来の高山寺の華厳学関係資料の相伝ならびに真言 密教の伝授といったかたちで聖教を伝え、高山寺以外では師僧である謙順から受けた法脈を再び隆栄に伝えること により、大伝法院流一流の再興を中心として智積院の興隆の一翼を担ったと考えることができる。 ③ 慧友は、近世江戸最末期という時代を生きた高山寺僧として、聖教の修繕というあまり表立って宣揚されることの 少ない活動を地道に蓄積してきた。しかしその後、近現代という大きな時代の波が押し寄せた現在、往時の伝統や 教学の実態を解明するために大変有益かつ貴重な宝庫として高山寺経蔵が継承されていることを鑑みればその功績 の偉大さは計り知ることはできない。 【主要参考文献・参照論文】 ・ 石 塚 晴 通・ 池 田 証 寿・ 徳 永 良 次[二 〇 一 二 ]「明 治 十 八 年 高 山 寺『宝 物 寄 附 物 古 文 書 什 物 取 調 牒 』(影 印・ 翻 刻 )」 平 成 二 十 一 年度『高山寺典籍文書綜合調査団研究報告論集』 。 ・大邑潤三[二〇一四] 「文政京都地震( 1830 )による被害と起震断層の再検討」 『歴史地震』第二十九号。
慧友僧護の事績について(小宮) ・九州国立博物館編[二〇一六] 『京都高山寺と明恵上人―特別公開鳥獣戯画―』展示図録。 ・ 高 山 寺 典 籍 文 書 綜 合 調 査 団 編[一 九 七 三 ~ 二 〇 〇 七 ]『高 山 寺 経 蔵 典 籍 文 書 目 録 』( 『高 山 寺 目 録 』) 第 一 ~ 四・ 完 結 編、 東 京 大 学出版会・汲古書院。 ・高山寺典籍文書綜合調査団編[一九九一] 『高山寺いしぶみ』高山寺。 ・ 小 宮 俊 海[二 〇 一 四 ]「智 積 院 聖 教 と 栂 尾 高 山 寺 の 関 係 に つ い て 附 新 文 庫 蔵 の 明 恵 関 連 資 料 」『根 来 寺 聖 教 の 基 礎 的 研 究 ― 智 積院聖教を中心として―』平成二十三年~二十五年科学研究費補助金基盤研究(B)研究成果報告書。 ・小宮俊海[二〇一六] 「慧友僧護について―高山寺所蔵典籍文書に基づく年譜資料―」 『現代密教』第二十七号、智山伝法院。 ・坂井誠一[一九六三] 『遍歴の武家―蜷川氏の歴史的研究』吉川弘文館。 ・築島裕[一九八七] 「明恵上人と慧友上人」 『明恵讃仰』第十八号、明恵讃仰会。 ・長谷宝秀編 [一九二六] (初出) 『正法律中四衆伝』 巻上・下 (『慈雲尊者全集』 (以下、 『慈雲全』 ) 首巻、 高貴寺 [一九七七] (再版) ) ・長谷宝秀[一九二六] (初出) 『慈雲尊者伝私見』 (『慈雲全』首巻) 。 ・密教大辞典編纂会編[一九二六] (初出) 『密教大辞典』縮刷版、法蔵館、 [二〇〇九] (第九刷) 、一三八〇頁上段。 ・宮澤俊雅[一九九二] 「高山寺僧名一覧」平成三年度『高山寺典籍文書綜合調査団研究報告論集』 。 注 (1) 「 30本願方 [ ] 一包四通 (中略) [謙順授与許可印信 〈受者僧護〉 ] 一通」 (四部一一〇函三〇号二) 『高山寺目録』 第三、 七四六頁下段。 (2) 長谷宝秀編[一九二六]巻上( 『慈雲全』首巻、三七二頁) 。 (3) 『左 右 記 』(四 部 四 八 函 二 〇 号 ) に つ い て 確 認 す る と「 20左 右 記[ ] 一 册 / ○ 江 戸 末 期、 慧 友 筆、 袋 綴 装 」( 『高 山 寺 目 録』第二、 三一三頁上段)と記述されるのみで奥書を確認することはできない。 (4) 築島裕[一九八七]五~六頁。
智山学報第六十七輯 (5) 「若 復 苾 芻 者。 謂 此 法 中 人。 余 義 如 上。 未 満 二 十 者。 謂 減 年 人 不 堪 進 具( 「若 し 復 た 苾 芻 」 と は、 謂 く 此 法 の 中 の 人 な り。 余 の 義 は 上 の 如 し。 「未 だ 二 十 に 満 た ず 」 と は、 謂 く、 減 年 の 人 に し て 進 具 に 堪 へ ざ る な り )」 『根 本 説 一 切 有 部 毘 奈 耶 』 巻 第 四 十 一「与 減 年 者 受 近 円 学 処 」 第 七 十 二( 『大 正 蔵 』 二 三 巻、 八 五 三 頁 上 段 ) と 具 足 戒 を 進 ん で 受 け る こ と を「進 具 」 と 称 している。 (6) 密 教 大 辞 典 編 纂 会 編[一 九 二 六 ] 一 三 八 〇 頁 上 段 に も 同 様 の 記 述 が あ る。 お そ ら く と も に 長 谷 宝 秀 の 記 述 に よ る も の と 考 え られる。また、 『進具衆名録』一巻に「 〈捨戒〉恵猷僧護律師」 (『慈雲全』首巻、一四八頁)とある。 (7) 長谷宝秀[一九二六] 『慈雲尊者伝私見』 「二五阿弥陀寺の事〈附地福寺円満寺の事〉 」( 『慈雲全』首巻、 二八四~二八五頁) (8) 「京 都 清 水 西 光 寺 土 川 善 澄 師 尊 者 御 直 筆 の 普 賢 行 願 賛 梵 本 一 帖 を 蔵 す。 享 和 二 年 尊 者 八 十 五 歳 の 時 慧 友 師 に 賜 ふ 所 な り。 其 の 表 紙 裏 の 記 に 云 く。 享 和 二 年 壬 戌 三 月 二 十 一 日 慈 雲
娃
干
渡
賜 之 予。 生 々 世 々 憶 持 護 持 云 爾。 慧 友 僧 護 謹 記 」 と 」 長 谷 宝 秀編[一九二六]巻上( 『慈雲全』首巻、三七三頁) 。 (9) 長谷宝秀編[一九二六]巻下( 『慈雲全』首巻、五五八頁) 。 ( 10) 『伝法許可灌頂印信』一通(四部一一〇函一五五号[四―三] )『高山寺目録』第三、 七七七頁上~下段。 ( 11) 『高山寺修正初夜導師次第』一帖(四部一九七函三号) 『高山寺目録』第三、 一二四頁下段。 ( 12) 『謙順授与生身地蔵印信〈受者慧友〉 』一通(四部一一〇函一五六号[二] )『高山寺目録』第三、 七八〇頁上段。 ( 13) 『唯心観行式』一帖(四部一一三函六七号) 『高山寺目録』第三、 八七九頁下段。 ( 14) 『文殊師利菩薩念誦次第』一帖(四部七六函八五号) 『高山寺目録』第三、 一二四頁下段。 ( 15) 『明恵上人関係書蹟類』 「包紙」 (四部一三七函一三号[四] )『高山寺目録』第四、 二一〇頁下段。 ( 16) 『随意別願文』一巻(四部一七〇函二三号) 『高山寺目録』第四、 五九七頁上~下段。 ( 17) 『第一九八函、函裏墨書』 (四部一九八函) 『高山寺目録』第四、 九〇九頁上段。 ( 18) 大 邑潤三[二〇一四]五一頁。 ( 19) 『胎蔵界伝法灌頂作法〈初夜 草案未再治〉 』一巻(四部六六函一五号) 『高山寺目録』第二、 五四四頁下段。慧友僧護の事績について(小宮) ( 20) 高山寺に関連する僧侶の生没年は、宮澤俊雅[一九九二]による。 ( 21) 小宮俊海[二〇一六] (一二四)頁~(一二五)頁。 ( 22) 『十無尽院之記』一冊(四部一五五函三七号) 『高山寺目録』第四、 四三七頁上~下段。 ( 23) 高山寺典籍文書綜合調査団編[一九九一]三九~四二頁。 ( 24) 【図1】二〇一七年三月二十日(月)現地調査時、筆者撮影。 ( 25) 【図2】九州国立博物館編[二〇一六]一六四頁より転載。 ( 26) 『毘沙門講式』一巻(四部一一三函一七号) 『高山寺目録』第三、 八六七頁上段。 ( 27) 『金剛界抄(外題) 』一巻(二部八七号) 『高山寺目録』第一、 二一五頁下段。 ( 28) 【図3】京都府南丹市より、ご提供。 ( 29) 『一切智光明慈心因縁不食肉経』一冊(四部三四函五五号) 『高山寺目録』第二、 二〇三頁下段。 ( 30) 『済仁授与石流印信 〈受者慧友〉 』 六通 (四部一一〇函一九一号 [一] 、[二] ―三、 [四] ―二、 [四] ―三) 『高山寺目録』 第三、 八〇二頁下段。 ( 31) 『守護国界主陀羅尼経』巻第五(四部三六函二号[五] )『高山寺目録』第二、 二一〇頁下段。 ( 32) 『華厳十重唯識義』一巻(四部一一三函一八号[一] 、[二] )『高山寺目録』第三、 八六八頁下段。 ( 33) 『弥勒講式』一巻(一部二〇四号) 『高山寺目録』第一、 一一二頁下段。 ( 34) 『守護国界主陀羅尼経』巻第十(四部三六函二号[一〇] )『高山寺目録』第二、 二一一頁、下段~二一二頁上段。 ( 35) 『(伝法院流伝授目録) 』一冊(四部九一函一七号[三] )『高山寺目録』第三、 四六七頁上~下段。 ( 36) 『 宝別秘』一帖(四部九〇函五〇号[一] )『高山寺目録』第三、 四四六頁上段。 ( 37) 石塚晴通・池田証寿・徳永良次[二〇一二]影印六二頁右。 ( 38) 『(大集虚空蔵菩薩所問経奥書抜書) 』二通(四部一六七函八号[一] )『高山寺目録』第四、 五七二頁下段。 ( 39) 『(無題) 』一括(四部一三三函四四号) 『高山寺目録』第四、 一八一頁上段。 ( 40) 長谷宝秀編[一九二六]巻上( 『慈雲全』首巻、三七八頁) 。
智山学報第六十七輯 【附 記】 こ の 度、 画 像 掲 載 使 用 の ご 許 可 を 頂 き ま し た 高 山 寺 ご 当 局 様、 九 州 国 立 博 物 館 ご 当 局 様、 京 都 府 南 丹 市 ご 当 局 様 に 衷 心 よ り 深 謝申し上げます。 〈キーワード〉高山寺・智積院・慧友・僧護・明恵・慈雲・済仁法親王・錦小路証成・蜷川親常・経蔵・聖教。